宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の詩「蠕虫舞手」に登場する「8(エイト)γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)」とは何か

詩「蠕虫(アンネリダ)舞手(タンツェーリン)」(1922.5.20)の前半の詩句は以下のようなものである

 

(えゝ 水ゾルですよ

おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)

日は黄金(きん)の薔薇

赤いちいさな蠕虫(ぜんちゆう)が

水とひかりをからだにまとひ

ひとりでをどりをやつてゐる

 (えゝ (エイト)γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字

羽むしの死骸

いちゐのかれ葉

真珠の泡に

ちぎれたこけの花軸など

ナチラナトラのひいさまは

いまみづ底のみかげのうへに

黄いろなかげとおふたりで

せつかくおどつてゐられます

いゝえ,けれども,すぐでせう

まもなく浮いておいででせう)

赤い蠕虫(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は

とがつた二つの耳をもち

燐光珊瑚の環節に

正しく飾る真珠のぼたん

くるりくるりと廻つてゐます

(えゝ 8(エイト)γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)

ことにもアラベスクの飾り文字)

           (宮沢.1985)下線は引用者 以下同じ

 

 

この引用詩句に登場するギリシャ文字や数字などを使った「8γe6α」とは何を意味しているのであろうか。多分,詩中に出てくる「ひとりでやつてゐるおどり」とか「アラベスクの飾り文字」と関係がありそうである。「アラベスク」は,イスラム美術で用いられる,動植物などを唐草模様・幾何学模様に描いた文様である(原,1999)。多くの研究者は「8γe6α」を小さな蠕虫,例えば1匹の「ボウフラ」のアラベスク様に踊り泳ぐ様子が表現されたものと見ている(恩田,1961;原,1999;赤田,2010)。すなわち,1匹の蠕虫が踊る様子がギリシャ文字や数字に見え,それを連続的に繋げるとアラベスクのように見えるというものだ。「飾り文字」とあるのは,文字や数字の形になった蠕虫が「真珠のぼたん」を体にまとっているからであろう。

 

詩に登場する蠕虫とはどんな生物なのであろうか。前述した3人の研究者は蚊の幼虫である「ボウフラ」だという。異説もある。伊藤光弥(2001)は,アンネリダが環形動物門を意味していることから,詩の蠕虫は「イトミミズ」だと推測している。確かに,「ボウフラ」の体はそんなに長くないので数字の「8(エイト)」の形をとることはできそうにない。「イトミミズ」なら「8γe6α」にある字体の全を動きで表現できる。しかし,すべての字を蠕虫の踊っている形で表現する必要もない。例えば,数字の「8(エイト)」は2個の「真珠のぼたん」でも良いし,数字の「6(スイクス)」と英語の「e(イー)」は形が同じでもあるので,「e(イー)」を「真珠のぼたん」あるいは「空気だま」としても良い。

 

1匹の蠕虫が「いまみづ底のみかげのうへに黄いろなかげ」と踊っている。このとき蠕虫は「γ(ガンマア)」と「6(スイクス)」の形をとったとき「飾り」として2個の「真珠のぼたん」を付けている。とする。この蠕虫をストロボで連写してみたときのイメージ図が第1図である。「アラベスクの飾り文字」に見えないこともない。

第1図.アラベスクの飾り文字「8γe6α」

 

しかし,そのように説明されても納得できないところがある。それは,この詩に「8γe6α」が引用詩句の2回以外にさらに4回登場することである。踊っている「ボウフラ」や「イトミミズ」がどんな時間帯でも同じ「アラベスクの飾り文字」を繰り返し描けるとは思えない。多分,「8γe6α」という「アラベスクの飾り文字」には蠕虫の踊り以外の意味が隠されているように思える。

 

これまで「8γe6α」の意味について言及した研究者は私の調べた限りではいない。むしろ,「8γe6α」という文字列には,何の「意味」もなく「内容」もないとする研究者すらいる(浜垣,2021)。

 

しかし,私はこの「8γe6α」という文字列には重要な意味が隠されていると思っている。

 

この詩には水の中の「赤い小さな生物」を単なる蠕虫として眺めている「私」と「ナチラナトラのひいさま」と尊敬する「私」という2人の「私」がいる。「私」を賢治とすれば,前者は科学者としての賢治であり,後者は宗教者としての賢治である。なぜ後者が宗教者としての賢治かというと,後者の「私」が尊敬する「ナチラナトラのひいさま」の「ナチラナトラ」が「神」を意味している可能性があるからである。西洋の自然哲学は「自然」を神である「能産的自然(natura naturans;ナチュラナトゥランス)と神が作った現象世界「所産的自然(natura naturata)」で解釈しようとする。玉井晶章(2016)は詩「蠕虫(アンネリダ)舞手(タンツェーリン)」に登場する「ナチラナトラのひいさま」の「ナチラナトラ」は「神」を意味する「能産的自然(natura naturans)」のことだという。現在,詩集『春と修羅』の手入れ本が3冊残されている。そのうちの1冊,故藤原嘉藤治旧蔵本には,この詩の13行目「ナチラナトラのひいさまは」を「赤い小さなひいさまは」に修正し,さらにこの行の上方に「創造す自然」とメモ書きのようなものを記している。このメモ書きは玉井の説を裏付けるものであろう。すなわち,「赤い小さな生物」を見つめている宗教者としての「私」はこの生物を「神」の化身と見做しているようである。

 

詩「蠕虫(アンネリダ)舞手(タンツェーリン)」には植物として「いちゐ」と「こけ」が登場する。「いちゐ」はイチイ科で常緑針葉樹の「イチイ」(Taxus cuspidata Siebold et Zucc.)であろう。サカキが存在しない北海道や東北北部では神前の玉串にイチイの枝を使う。ヨーロッパにはセイヨウイチイ(Taxus baccata L.)が自生するが,イギリスの一部地域では本種を神聖な木として保護しており,樹齢数千年に及ぶものがあるという(植木ペディア,2023)。常緑を永遠の命と見做しているように思える。また,「こけ」は「コケ植物」のことであろう。『君が代』に「苔の生(む)すまで」とあるように「苔」には永遠の繁栄がイメージされている。すなわち,詩に登場する「いちゐ」や「こけ」は永遠の命を意味する「神」と関係しているように思える。多分,賢治は神社や寺院にある御影石(花崗岩)でできた手水鉢でも覗いているのであろう。

 

詩は水の中の「赤い小さな生物」を見つめている科学者の「私」と宗教者の「私」が会話する形で進行する。多分,頭の中で会話をしているのであろう。宗教者の「私」が話す言葉は括弧でくくられている。「8γe6α」は括弧内にあるので宗教者の「私」が言っている言葉である。また,前記引用詩句内では科学者としての「私」と宗教者としての「私」は「赤い小さな生物」が「真珠のぼたん」を付けて踊っているということで認識が一致している。

 

しかし,詩の後半部分で両者の認識がずれてくる。

 

脊中きらきら燦(かがや)いて

ちからいつぱいまはりはするが

真珠もじつはまがひもの

ガラスどころか空気だま

(いゝえ,それでも

エイト ガムマア イー スイツクス アルフア

  ことにもアラベスクの飾り文字)

水晶体や鞏膜(きやうまく)の

オペラグラスにのぞかれて

おどつてゐるといはれても

真珠の泡を苦にするのなら

おまへもさつぱりらくぢやない

それに日が雲に入つたし

わたしは石に座つてしびれが切れたし

水底の黒い木片は毛虫か海鼠(なまこ)のやうだしさ

それに第一おまへのかたちは見えないし

ほんとに溶けてしまつたのやら

それともみんなはじめから

おぼろに青い夢だやら

(いゝえ あすこにおいでです おいでです

ひいさま いらつしやいます

8(エイト) γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)

ことにもアラベスクの飾り文字)

         (宮沢,1985)

 

 

 

ここで,科学者としての「私」は「小さな赤い生物」が身につけていた「真珠のぼたん」を否定するようになる。科学者としての「私」はこの「真珠のぼたん」を「脊中きらきら燦(かがや)いて/ちからいつぱいまはりはするが/真珠もじつはまがひものガラスどころか空気だま」と見做してしまう。しかし,宗教者としての「私」は「(いゝえ,それでも/エイト ガムマア イー スイツクス アルフア/ことにもアラベスクの飾り文字)という。

 

さらに,科学者としての「私」,別な言葉に置き換えれば水晶体や強膜がある眼球をもつ「私」には「赤い小さな生物」が空気玉(気泡)を抱えて苦しんで,しまいには消えて無くなってしまったように見えてくる。「赤い小さな生物」が皮膚呼吸する「イトミミズ」なら水温の上昇で溶存酸素が少なくなり酸欠状態になっているのだろう。逆に「赤い小さな生物」に付く気泡は温度上昇で水の中の溶存酸素が気泡化したものである。しかし,宗教者の「私」は「(いゝえ あすこにおいでです おいでです/ひいさま いらつしやいます/8(エイト)γ(ガムマア) e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)/ことにもアラベスクの飾り文字)」という。すなわち,宗教者の「私」には科学者の「私」が消えて無くなった「赤い小さな生物」がまだ見えている。多分,宗教者の「私」に見えているのは「神」のようなものと思われる。

 

賢治は言葉遊びが好きである。農学校の英語の授業で生徒に辞書を見てもいいからできるだけ長い文字数の単語を見つけるように指示した。生徒がいくつか単語をあげると,賢治はいかにも悪戯っぽい顔で「諸君がまだ見つけられないのが1つあるよ」と言ったそうだ。生徒たちが「何ですか?」と質問すると,賢治は「smiles。微笑だな」,「初めのsと終わりのsの間が1 マイルもあるからだな」と答えたという(畑山,2017)。詩「オホーツク挽歌」(1923.8.4)には「・・・砂に刻まれたその船底の痕と/巨きな横の台木のくぼみ/それはひとつの曲つた十字架だ/幾本かの小さな木片で/HELL と書きそれを LOVE となほし/ひとつの十字架をたてることは/よくたれでもがやる技術なので/・・・」の詩句もある。

 

私も言葉遊びをしてみる。多分,「8γe6α」の「γ6α」(ガンマアスイクスアルフア)は仏教の開祖である釈迦牟尼の名であるガウタマ・シッダールタ(Gautama Siddhārtha)を指していると思われる。「γ6α」(スイクスアルフア)の「ガ マ スイ アル」が「ガウタマ・シッダールタ」の「ガ マ シッ ー(アル)」と重なる。「8」の数字を横にすれば「∞」(無限)になる。無限は「帰依する」という意味の「南無」あるいは「無限の命」を意味しているのかもしれない。『法華経』の如来寿量品十六で釈迦は無限の寿命を具えた永遠不滅の存在と記載されている。「8γ6α」(エイトガンマアスイクスアルフア)は無限の寿命をもつガウタマ・シッダールタあるいは永遠不滅の存在に帰依するという意味を持たせているのかもしれない。

 

また,「8γe6α」は砂漠の中で生まれた1神教である「アブラハムの宗教」に登場する神の名も隠されているような気がする。「アブラハムの宗教」は時系列的にはユダヤ教→キリスト教→イスラム教として生まれてくる。また,ユダヤ教の聖地は「嘆きの壁」で,キリスト教の聖地は「聖墳墓(せいふんぼ)教会」で,イスラム教の聖地は「岩のドーム」であるが,これら3つの宗教の聖地は,城壁に囲まれた0.9平方キロメートルのエルサレム旧市街区の中に共存している。アラベスクも中東と関係深いイスラム美術の1様式である。

 

「8γe6α」の「8γ」はユダヤ教の神である「ヤハウェ(エホヴァ)」,「e6」はキリスト教の神である「イエス・キリスト」,「α」はイスラム教の神である「アッラア」であろう。「e6」は「e six」と書くことができる。「e six」は「es(イエス)」と十字架である「x(クルス)」を含む。賢治は長音符(―)を「ア」と表記することがある。『農民芸術の興隆』でドイツの哲学者オズヴァルト・ショペングラー(Oswald Spengler 1880~1936)を「シペングラア」と記している。また,ドイツの作曲家ワーグナー(R.Wagner 1813~1883)を「ワグナア」と記している。だから,「アッラー」は「アッラア」(アルフア)である。

 

すなわち,「8γe6α」(エイトガムマア イースイツクス アルフア)のアラベスク文字列には「仏」(ガウタマ・シッダールタ)あるいはアブラハムの宗教に登場する「神」(エホヴァ,イエス,アッラア)の名が隠されているように思える。

 

科学者として生きるべきか,宗教者として生きるべきか葛藤している賢治がいる。

 

参考・引用文献

赤田秀子.2010.イーハトーブ・ガーデン-アンネリダタンツエーリン 蠕虫舞手.https://nenemu8921.exblog.jp/15086773/

畑山 博.2017.教師 宮沢賢治のしごと.小学館.

浜垣誠司.2021.宮澤賢治の詩の世界-溢れ出るシニフィアンの頃.https://ihatov.cc/blog/archives/2021/08/post_1006.htm

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

伊藤光弥.2001.イーハトーヴの植物学-花壇に秘められた宮沢賢治の生涯.洋々社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

恩田逸夫.1961.賢治詩評価の態度-『序詩』と『蠕虫舞手』-.四次元.128:1-9.

玉井晶章.2016.宮澤賢治 「蠕虫舞手(アンネリダタンツェーリン)」と<ナチラナトラ>の意味 : 『春と修羅』刊行初期の生前批評に触れつつ.京都語文.23;262-275.

植木ペディア.2023(調べた日付).ヨーロッパイチイ/よーろっぱいちい/欧羅巴一位.https://www.uekipedia.jp/