宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

詩「蠕虫舞手」考-水ゾルとは何か,そしてなぜ詩の最初にだしたのか-

宮沢賢治の詩「蠕虫舞手」(1922.5.20)は以下の詩句で始まる。

 

(えゝ 水ゾルですよ

おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)

日は黄金(きん)の薔薇

赤いちいさな蠕虫(ぜんちゆう)が

水とひかりをからだにまとひ

ひとりでをどりをやつてゐる

 (えゝ 8(エイト)γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)

  ことにもアラベスクの飾り文字)

(中略)

 (ナチラナトラのひいさまは

いまみづ底のみかげのうへ

黄いろなかげとおふたりで

せつかくおどつてゐられます・・・・

                   (宮沢,1985)下線は引用者

 

 

下線部の「水ゾル」とは何であろうか。そして,なぜこの言葉を詩の最初にもってきたのであろうか。

 

「水ゾル」はコロイド溶液のことである。10-5から10-7cm程度の微粒子が,媒質と呼ばれる気体や液体,固体中に分散している状態,およびその粒子を言う(原,1999)。ちなみに,原子の大きさは約1億分の1センチメートル (10-8cm)である。

 

寒天は,テングサ(天草),オゴノリなどの紅藻類の粘液質を固めたものを凍結・乾燥させたものである。英語では,マレー語からの借用によりagar-agar,または短縮してagarと呼ぶ(Wikipedia)。例えば,寒天1gに水130gを加えて1時間膨潤させる。そのあと水100gになるまで加熱溶解したものが1%寒天ゾル,すなわち媒質が水である「水ゾル」である。流動性がある。賢治は詩「蠕虫舞手」では「おぼろな寒天(アガア)の液ですよ」と記載している。この寒天の「水ゾル」は室温まで温度を下げれば固化(ゲル化)する。

 

寒天はガラクトース(galactose)を基本骨格とする構造をしていて,中性のアガロース(agarose)とイオン性のアガロペクチン(agaropectin)からなっている。アガロースはガラクトース(分子量は180.156 g/mol)とアンヒドロガラクトース(anhydrogalactose)が交互に結合してできる多糖類で寒天中の大部分をしめる。ガラクトースとアガロースの分子構造を第1図に示す。寒天の平均分子量は原料である海藻の種類や抽出条件によって異なるが,一般的に数万~数十万と言われている。寒天の「水ゾル」は媒質である加熱した水にアガロース分子が分散している状態のものをいう。分散しているアガロース分子はコロイド粒子でもある。

 

第1図.ガラクトース(A)とアガロース(B)

 

では,なぜ寒天の「水ゾル」を詩の最初に持ってきたのであろうか。多分,この寒天の「水ゾル」はそのあとにでてくる「赤いちいさな蠕虫」と関係していると思われる。和歌で言えば,寒天の「水ゾル」は「蠕虫」の枕詞的(あるいは序詞的)な働きをしていると思われる。

 

枕詞とは昔の和歌や文に見られる修辞の1つ。ある特定の言葉にかかる修飾的な言葉で,歌の調子をととのえたり,連想の効果によって味わいを深めたりするものである。例えば,『万葉集』巻2-90に「君が行(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを行(ゆ)かむ 待つには待たじ」(下線は引用者)というのがある。現代語訳は「あなたの旅は日が重なった。迎えに行こうかとても待ってはいられない」である。この和歌で「山たづ」が「迎える」の枕詞である。

 

この和歌にでてくる「山たづ」はニワトコ(スイカズラ科ニワトコ属:Sambucus sieboldiana )のことである。山野に生える落葉低木で,よく枝分かれして高さ3~6mになる。葉は奇数羽状複葉で対生する。ニワトコの葉は対生して,鳥の羽根のように向かい合っているように見えるので,両腕を広げて人を「迎える」姿に似ている((第2図,石井,2021)。

 

第2図.ニワトコ.

 

この歌は,「逢いたい」,「逢って思いきり抱きしめたい」という「魂(たましい)」の強烈な叫びを,「ニワトコ」の葉の両腕を広げて「迎える」姿に重ねて表現している。

 

では,寒天の「水ゾル」は「蠕虫」とどのように関係しているのであろうか。寒天の「水ゾル」を構成しているコロイド粒子の本体は主としてアガロース分子である。

 

アガロース分子を構成するガラクトースとアンヒドロガラクトースは共に六員環で,この環構造が鎖状に長くつながっている。この鎖状のアガロース分子が折りたたまれて加熱した水の中に分散している。この寒天の「水ゾル」は加熱した水の中では自由に形を変えることができる。光学顕微鏡ではその鎖状分子の動きを見ることができないが,イメージとしてはこの六員環が鎖のようにつながったアガロース分子をたくさんの「環節」を持つイトミミズのような「蠕虫」になぞらえることもできる(第3図)。

 

第3図.蠕虫のようにも見えるアガロース分子.

    上は加熱した水に分散するアガロース分子(寒天の水ゾル).

    下はイトミミズのような多数の環節を持つ蠕虫のイメージ図.

 

すなわち,寒天の「水ゾル」を枕詞のように最初にだすことによって形が類似している「赤いちいさな蠕虫」の登場をたやすく連想できるようにしている。ただ,ある程度の化学の知識は必要かもしれないが。

 

最後に,「水ゾル」(枕詞)や「アンネリダ」などの言葉を使って詩「蠕虫舞手」の内容を多少字余りになるが現代和歌風にまとめてみたい。 

 

水ゾルの アンネリダ舞う みかげのうえ われ神仏の 名ツイートする 

             (水ゾルは寒天ゾルのこと)

 

この歌はアンネリダを「蠕虫」とした場合と「アメリカ」とした場合でまったく異なったものになる。

 

アンネリダを「蠕虫」としたときの大意は,「水底の御影石の上で蠕虫が踊っている。それを見て私は神仏の名を呟いた。」である。

 

しかし,アンネリダを前稿(石井,2023)で述べたように「アメリカ」あるいは「アメリカに行けると小躍りしている恋人」としたときは,全く異なった歌となる。「みかげ(御影)」も重要な意味を持っている。御影石(花崗岩)は北上山地の地下岩盤を形成している。つまり「底」である。「底」は後進性や封建制を連想させる。詩「蠕虫舞手」でも「ナチラナトラのひいさまは/いまみづ底みかげのうへに/黄いろなかげとおふたりで/せつかくおどつてゐられます」とある。「みず底」や「みかげ」だけでなく「黄いろ」も「底」のイメージである。大意は,「恋人は古い封建制や家制度の残る花巻や北上山地を離れ,私と一緒に新天地アメリカへ行くことを楽しみにしている。しかし,私はそこに住む全ての人たちを幸福にするために残る決心をしなければならない。」である。

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-「にわとこのやぶ」と駄々っ子-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/03/164505

石井竹夫.2023.詩「蠕虫舞手」考-なぜ賢治は蠕虫にアンネリダのルビを振ったのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/05/07/090948

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.