宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』考-幕末・明治・大正期の岩谷堂と人首はどんな処だったのか(第1稿)-

童話『やまなし』第二章「十二月」に,兄弟の〈蟹〉が吐く泡の大きさを争っていると父親が「もうねろねろ。遅いぞ,あしたイサドへ連れて行かんぞ。」と注意する場面がある。「イサド」とはどのようなところなのだろう。文献等で調べたら「イサド」は岩手県旧江刺郡の中心である「岩谷堂(いわやどう)」を念頭においたものとある(恩田,1971;原,1991;石井,2022)。

 

賢治は大正6年(1917)に江刺郡の土性調査でこの「岩谷堂」を訪れている。「岩谷堂」を拠点として黒石村,羽田村,田茂山,原体村,伊手,米里村・人首(ひとかべ),物見山,種山ヶ原,五輪峠などを調査したという(8月28日~9月8日;若尾,2023)。「人首」には大正13(1924)年3月24~25日にも訪れている。「水沢」に立ち寄って「晴天恣意」(水沢緯度観測所にて)や「人首町」などの詩を創作している。

 

なぜ,賢治は童話『やまなし』に江刺郡の「岩谷堂」を登場させようとしたのか。また,2度も訪れた「岩谷堂」近くの「人首」という土地も気になる。

 

「イサド」は子供が行きたがる場所と思われる。常識的に考えれば蟹の兄弟の母がいるところ,あるいは母が生まれ育ったところであろうか。すなわち,兄弟の〈蟹〉や〈クラムボン〉の母の故郷なのかもしれない。童話『やまなし』は賢治が投影されている〈魚〉と恋人が投影されている〈クラムボン〉の悲恋物語であるということを述べてきた(石井,2021)。恋人の母は仙台藩の客分であったある高級武士の娘であったという(佐藤,1984)。本稿では賢治や恋人の母および祖母が生きた時代,すなわち幕末・明治・大正期の「岩谷堂」および「人首」がどのような処であったのかについて調べてみる。

 

1.どこにあるのか 

「岩谷堂」は岩手県江刺郡岩谷堂町(現在の奥州市江刺)のことである。賢治が生きた時代の江刺郡(1889~)は1町12村(岩谷堂町,愛宕村,羽田村,黒石村,田原村,藤里村,伊手村,米里村(人首),玉里村,簗川村,福岡村,広瀬村,稲瀬村)からなっていた。米里村は明治8年以前には人首村であった。すなわち,「岩谷堂」は当時江刺郡にある唯一の町であった。「岩谷堂」は歴史的には奥州藤原氏と関係深い土地である。かつて奥州藤原氏による平泉の栄華を築いた藤原清衡は,岩谷堂餅田(もちた)の豊田館(とよたのたち)で生まれ,平泉に移るまで青年期を過ごしたという(国土交通省 東北地方整備局,2022)。また,「岩谷堂」は古くから北上川と人首川(ひとかべがわ)による舟運や,三陸沿岸部と内陸部を結ぶ交通の要所として賑わった町でもあった。これら河川が交通路として発達したのは,近世,仙台藩の「買米の制」以後で,流域農民の余剰米を藩が買い上げ,その米を江戸,その他に回送する輸送路として重要な機能を果たしていたからである。仙台藩北境の重要な河湾は下河原河湾である(第1図)。下河原河湾は「岩谷堂」に近い北上川の中流,水沢,江刺の穀倉地帯の中間に位置している。江戸時代には,江刺41ヵ村の米がこの下河原に集められたという(池田,1980)。

第1図.岩谷堂周辺.

巣伏古戦場跡南には蝦夷(エミシ)のリーダー阿弖流為の住居があったという.

 

「人首」は江刺郡米里あたりにあり「人首城」があった。中心部を東西に走る盛(さかり)街道があり,古くから内陸と三陸を結ぶ重要な交通路として発達してきた。賢治の詩「人首(ひとかべ)町」(1924.3.25)に「雪や雑木にあさひがふり/丘のはざまのいっぽん町は/あさましいまで光ってゐる/そのうしろにはのっそり白い五輪峠/五輪峠のいたゞきで/の雲が湧きまた翔け/南につゞく種山ヶ原のなだらは/渦巻くひかりの霧でいっぱい」とある。この詩に登場する「丘のはざまのいっぽん町は」の「いっぽん」は盛街道と思われる。

 

「人首」は仙台藩と南部藩の藩境として要所に位置し旅人の往来も多く宿場町としても栄えた(賢治街道を歩く会,2023)。「人首」の名は平安時代の801年に坂上田村麻呂が蝦夷討伐に来た際に,阿弖流為(アテルイ)の弟・大武丸(悪路王の弟とも?)の子である人首丸が,この地にて籠城したのに由来するとされる。

 

2.幕末期の領主はだれであったか

慶長15年(1610)から明治維新(1968年)まで「岩谷堂」を支配したのは仙台藩一門の岩谷堂伊達家(5千石)でありこの地に居城(要害)があった。この城は岩谷堂市街地北東の丘陵全体を占める巨大な山城で人首川右岸にある。城のある丘陵南面は人工的な急傾斜の断崖で登坂不能の天然の要害となっている。平安時代には藤原経清・清衡の居館があったとも言われている。岩谷堂伊達家とは伊達家と名が付くものの,室町時代初期に岩城(磐城)地方(福島県)を統一した岩城氏の系統である。「氏(うじ)」は「平(たいら)」で,居城は大館城(別名飯野平城)であった。16世紀初頭にこの城付近の地名として「平」が現れてからは平城(たいらじょう)や平大館と呼ばれるようになった。家紋は連子に「月」である(Wikipedia)。仙台藩は,家臣の間に上下の序列を付けるために家格という序列制度があった。岩谷堂伊達家などの一門はこの序列制度の一番上であり,藩主の伊達家にとっては客分あるいは客分扱いであったと思われる。

 

岩谷堂伊達家は岩城氏17代当主・岩城常隆の子である岩城政隆が始祖である。岩城常隆の代に家督相続を巡って岩城氏を追われた政隆が1610年に伊達氏に迎えられ一門に列した。そのあと仙台藩2代藩主伊達忠宗の7男である伊達宗規を婿養子にとり,岩谷堂に岩谷堂伊達家を興すことになる。5千石で入封し以後,明治維新まで9代にわたり城主を歴任する。しかし,明治元年(1868年),岩谷堂伊達家は戊辰戦争(1968~1969年)の際に藩主一門として出陣するも,仙台本藩が敗戦で領地を削減されたことにより,代々領有していた岩谷堂領を新政府に没収され廃城となった。明治9年(1876)には岩手県に編入された。

 

最後の岩谷堂城主は伊達邦規(1833~1876)である。伊達邦規は仙台藩一門の亘理(わたり)伊達家12代当主・伊達宗恒の三男として生まれるが,叔父で岩谷堂伊達家8代城主・伊達義隆の死去により家督を相続し岩谷堂城主となる。城と領地を失った岩谷堂伊達家およびその家臣と家族がその後どうなったかは定かでない。ただ,最後の城主・伊達邦規の実家である亘理伊達家は悲惨な状況に追い込まれた。亘理伊達家第14代当主の伊達邦成は戊辰戦争の敗北にともない所領を2万四千石から五十八石まで削減され南部藩の支配下に入ることになる。邦成は南部藩のもとで帰農することを潔(いさぎよ)しとせず,明治3年(1870)から開拓民になるべく家中および家臣と家族を率いて北海道に移住している。翌年には,亘理伊達家藩主の邦成が義母保子(最後の仙台藩藩主慶邦の妹)と家臣家族788名とともに海を渡った(伊達,2012)。北海道に移住すれば武士の身分と土地所有が約束されていたからである。

 

家族を連れて行くと言うのは,寂しさや辛さから逃げ出そうとするのを防ぐためだったとされる。開拓民の生活は過酷なものであった。最初の頃には食べる物にも困り,アイヌから漁業を教わったりもしたとされている。伊達保子は嫁入り道具を処分させ開拓資金にあて,また開拓小屋と呼ばれた茅葺きの狩屋に起居し,開墾の場に時々行っては家臣らを慰め励ましたとされる(伊達,2012)。

 

「人首城」(要害)は,江刺区米里にある山城である。慶長11年(1606)伊達政宗は,家臣の沼辺重仲(千石)を,宮城県志田郡新沼村からこの地に移封した。それ以来この地が沼辺氏の居城となり,10代武房が城を明け渡し仙台に帰る明治2年まで262年の間統治された所である。(続く)

 

参考・引用文献

伊達宗弘.2012.不毛の大地に挑んだ仙台藩最後のお姫様.新人物往来社編・カメラが撮らえた幕末三00藩藩主とお姫様.新人物往来社.

池田雅美.1980.上川の河道変遷と旧河港について.歴史地理学紀要.22:29-52,

石井竹夫.2021.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2022.童話『やまなし』の舞台となった谷川は実在するのか-イサドとの関係-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/07/02/104817

賢治街道を歩く会.2023(調べた年).宮沢賢治と人首.http://www.kenji-kaido.jp/hitokabe/index.html

国土交通省 東北地方整備局.2022(調べた日付).【特集】近ごろ江刺市岩谷堂周辺がおもしろい!https://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_16/vol16_2a.htm

恩田逸夫.1971.賢治童話の造語例.賢治研究.8:6-7.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

若尾 紀夫.2023(調べた年).同窓生が語る宮澤賢治 盛岡高等農林学校と関豊太郎教授と宮澤賢治(22)江刺郡土性調査と賢治「得業論文」.9-28. https://iwate-u.repo.nii.ac.jp

 

※:客分とは大名とは表面上は対等の立場であり,元々領主など地位や位があったものが下剋上の戦国時代に,戦に敗れたり,家臣に逐われたりして,領地を失い没落したものを指すとされている。