宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』になぜ蟹が登場するのか明らかにする(第1稿)-芥川龍之介の『猿蟹合戦』との関連から-

童話『やまなし』のもともとの題名は『蟹』であったとされる。童話『ひのきとひなげし』(初期形)表紙余白に「童話的構図 ①蟹,②ひのきとひなげし,③いてふの実,④ダアリアとまなづる・・・・・」と,また童話『青木大学士の野宿』第七葉裏に「ポランの広場,銀河鉄道,風野又三郎・・・・・蟹」と記載されていた。「蟹」が賢治作品にメインキャラクターとして登場するのは大正12年(1923)4月8日に新聞発表されている童話『やまなし』などの作品からだと思われる。創作月の前後関係は分からないが同じ年の童話『サガレンと八月』では母の言いつけを守らなかったことで犬神に「蟹にされてしまうタネリ」として,また童話『ガドルフの百合』では「蟹のかたちになっている背嚢」という形で出てくる。童話『やまなし』は蟹が登場することに何か重要な意味が込められていると思われる。本稿は,なぜ童話『やまなし』に蟹が登場してくるのか考察してみる。なお童話『やまなし』に登場する擬人化されたキャラクターには〈 〉を付けた。

 

大正12年の4月直前あるいはその前年に賢治作品以外に「蟹」を扱った文学作品が発表されていないかどうか調べて見た。大正12年2月に,芥川龍之介が掌編小説『猿蟹合戦』を「婦人公論」に発表していた。童話『やまなし』の2ヶ月前のことである。どうも,この小説になぜ童話『やまなし』に〈蟹〉が登場するのかという疑問に答えるヒントがあるような気がする。この小説は日本の民話(あるいはお伽噺)の1つである『さるかに合戦』をパロディ化したものである。

 

民話の『さるかに合戦』の概略はこうである。猿が「母蟹」の持っていた握り飯を柿の種と交換することで奪い取り,そのあと青柿を投げつけて殺してしまう。「子蟹」は母が殺されたことに怒り,臼,蜂,卵の協力を得て母の仇(かたき)を討つというものである。「子蟹」やその協力者がそのあと安泰な生活を送っていることもほのめかされている。すなわち,母親を殺された「子蟹」の猿に対する「仇討ち」は美談として語られている。

 

しかし,小説『猿蟹合戦』はこの美談とされている民話を法治国家の論理に照らし合わせて「偽」(うそ)であると断定し,「事実」(ほんとう)としての後日談を語ることになる。彼等は仇を取ったあと,警官に捕縛され監獄に投じられたというのだ。裁判が重ねられ,主犯の「蟹」は死刑,共犯者の臼,蜂,卵は無期徒刑の宣告を受けることになった。「蟹」は裁判中に反論していた。猿は熟柿を与えずに青柿ばかり与えたのみか,「蟹」に傷害を加えるように,その柿を投げつけた。と。しかし,「蟹」と猿の間には1通の証文を取り交わしていない。また,交換するのに熟柿と断ってもいない。最後に,青柿を投げつけたというが,猿に悪意があったかどうかの証拠も不十分である。と論駁されてしまう。

 

世論も「蟹」に同情を寄せるものはほとんどない。「蟹」が猿を殺したのは「私憤の結果にほかならない。」,「己の無知から猿に利益を占められたのを忌々しがっただけだ」とも。識者の間でも好評を博さなかった。「蟹」の行為は「復讐の意志に出でたもの」であり,「復讐は善と称し難い」と言った。宗教家は「蟹」が「仏の慈悲を知らなかったから」だ。「仏の慈悲を知っていれば,「蟹」は猿の所業を憎む代わりにそれを憐れんだであろう」と。さらに宗教家は「ああ,思えば一度でも好いから,わたしの説教を聴かせたかった」とも言った。唯一,「蟹」に味方するものもいた。酒豪兼詩人の代議士は「蟹」の「仇討ち」を「武士道の精神と一致す」と言った。しかし,語り手はこの代議士の論説に反論する。こんな「時代遅れの議論は誰の耳にも止とまるはずはない」と。実際に,この代議士は数年前,動物園を見学中,猿に尿をかけられたことに「遺恨」にもっていたことも明かされる。「遺恨」とは「恨み(うらみ)」である。

 

「仇討ち」をテーマにした民話の『さるかに合戦』や芥川の『猿蟹合戦』は童話『やまなし』の内容と類似しているように思える。特に『やまなし』の第一章「五月」は読みようによっては「仇討ち」の話に読める。谷川の川底で〈子蟹〉の兄弟が〈クラムボン〉は「死んだよ」,「殺されたよ」と話している。そのあと鉄色の〈魚〉が〈クラムボン〉に近づいていったとき,突然〈かわせみ〉が飛び込んできて〈魚〉を連れ去る。多分,殺されたのであろう。〈魚〉は鉄色と銀色の少なくとも2匹いる。〈クラムボン〉を〈蟹〉の仲間あるいは家族・近親者とし,〈かわせみ〉を〈蟹〉の協力者とすれば,童話『やまなし』の第一章「五月」は民話の『さるかに合戦』と同じである。すなわち,銀色か鉄色のどちらかの〈魚〉が〈クラムボン〉を殺したので,〈蟹〉がその罪を〈かわせみ〉の協力を得て〈魚〉に死をもって償わせたのである。仇討ちである。

 

さらに,童話『やまなし』では〈魚〉が〈クラムボン〉を殺したという証拠が存在しないことも明らかにされる。芥川の小説『猿蟹合戦』の裁判でも猿が悪意(殺意)を持って蟹を殺したという証拠は見いだせないとしている。弟の〈蟹〉が〈クラムボン〉は死んだとか殺されたと言ったのは「うそ」だった可能性があるからだ。なぜなら,〈蟹〉の兄が「その右側の四本の脚の中の2本を,弟の平べったい頭にのせながら」,「それならなぜ殺された」と尋ねたとき,弟は「わからない」としか答えられなかったからである。フロイトの精神分析法の中に「前額法(ぜんがくほう)」というのがある。例えば,ヒステリーの症状のある患者に,「いつからこの症状が現れましたか」,「原因は何ですか」と質問して,「私にはわかりません」と答える患者がいた場合,片手を患者の額に置き,「こうして私が手で押さえていると,今に思い浮かびますよ。私が押さえるのを止めた瞬間にあなたには何かが見えるでしょう。さもなければ何かが思い浮かぶでしょうから,それを教えてください」と言う。この方法でフロイトは患者のヒステリーの原因を突き止めた(石井,2021a)。しかし,弟はこの方法でも答えられなかった。すなわち,弟の〈蟹〉には深層意識にも〈クラムボン〉が殺されたことに対する根拠のようなものがなかったのである。

 

すなわち,〈クラムボン〉が殺されたのは「うそ」であったのだ。〈クラムボン〉は殺されていないのに,〈蟹〉は殺されたと勘違いして,〈かわせみ〉と協力して〈魚〉を殺してしまったことになる。童話『やまなし』の〈蟹〉は裁判にかけられたら芥川の『猿蟹合戦』のように極刑にされてしまったかもしれない。法治国家では,たとえ〈クラムボン〉が殺されたのが事実でも「仇討ち」そのものが違法行為である。「仇討ち」は明治6年(1873)に明治政府が「復讐禁止令」(仇討ち禁止令)を布告したことにより禁止された。それ以前の江戸時代では,武士階級に限られたものだったとはいえ,「仇討ち」は「公認」の風習であった。主君や肉親などを殺された者が「仇討ち」として番所に届け出て認められれば,殺人をしても罪は問われなかった。

 

童話『やまなし』は賢治が投影されている鉄色の〈魚〉と恋人が投影されている水の底に居る〈クラムボン〉の悲恋物語である(石井,2021b)。結婚が反対されたきっかけは童話『やまなし』や寓話『シグナルとシグナレス』では恋人が投影されている〈クラムボン〉や〈シグナレス〉が笑ったことによる(石井,1922a,b)。現実でもそれに類したささいなことであったのかもしれない。しかし,結婚が反対された「ほんとう」の理由はこの「仇討ち」と関係するものであったような気がする。

 

賢治が童話『やまなし』を発表したころ,賢治と恋人の恋は破局に向かっていた。二人の結婚に強く反対したのは恋人の母だったという(澤口,1918)。恋人の母は仙台藩の客分であったある高級武士の娘である。宮沢家と恋人の実家がどのような関係であったかは定かではない。恋人の実家は蕎麦屋で慶長2年(1597)創業といわれている。一方,宮沢家は家系図によれば父方および母方ともに京都の藤井将監という人が始祖だとされる。この藤井将監は,十七世紀後半(江戸中期の天和・元禄年間)に花巻にやって来た公家侍と言われている。この子孫が花巻付近で商工の業を営んで宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった(堀尾,1991;畑山・石,1996)。

 

すなわち,賢治は,生まれは東北(花巻)だが生粋の東北人(先住民)ではない。むしろ「先住民」に対して対立する側(朝廷側)の眷属すなわち「移住者」の末裔である。一方,恋人の実家はいつからかは分からないが,宮沢家の祖先が東北にくる前にすでに先住していた。京都からの「移住者」と東北の「先住民」の間には,京都に都を置いた大和朝廷やそれに続く中央政権と東北の「先住民」の間で行われた歴史的対立(蝦夷征討,前九年の役,戊辰戦争)が深い影を落としているように思える(石井,2022)。蝦夷征討とは,朝廷軍が東北を侵略したことを指す。多くの東北の先住民たちが朝廷軍によって殺された。前九年の役とは朝廷の命を受けた源頼義・義家と阿部一族の戦いである。また,戊辰戦争は,大政奉還後の明治天皇による王政復古の大号令に反発して勃発するが,東北の仙台藩は新政府に対抗するために成立した奥羽越列藩同盟の盟主になる。すなわち,仙台藩は朝敵となった。しかし,戦いに敗れ,仙台藩はその責任を取らされ表高62万石(実高は100万石)から28万石に大幅に減封され,多くの家臣が苦境に陥った。東北の「先住民」の中には京都に都を置いた大和朝廷やそれに続く中央政権側の人たちに「遺恨」を抱くものもいたように思われる。

 

賢治自身も,恋人と付き合う直前(1920年)に日蓮宗の在家団体で田中智学が率いる「国柱会」に入会している。「国柱会」は日蓮主義を主張しているが,天皇崇拝,国体護持の思想が色濃いとされている(原,1999)。国柱会は日刊誌『天業民報』を刊行しているが,賢治は実に熱心な読者であったという。入会当時の『天業民報』には智学の国体論の集大成となる「日本国体の研究」の連載が始まっていた。賢治はこの日刊誌を一人でも多くの人に読んでもらおうと「掲示板」を作り家の道路に面した所につるしておいたという。また,賢治は,1921年1月に花巻を出奔して国柱会へ向かうが,2日目には仕事も宿泊所も探さずに明治天皇が祀られている明治神宮に参拝している。賢治が天皇制にどのような評価を与えていたかは作品からは容易にうかがうことはできないが,少なくとも天皇制を否定はしていない。さらに近隣の人達の中には,「掲示板」を見るなりして賢治が天皇を崇拝する国柱会の会員であるという認識を持つものもいたと思われる。

 

賢治は恋の破局が遠い過去から続いてきた朝廷や中央政権と東北人の歴史的対立と関係していると考えたのかもしれない。すなわち,賢治は東北の先住民たちから「仇討ち」されたと思った。だから,賢治は「仇討ち」をテーマにした民話の『さるかに合戦』と芥川の書いた後日談の『猿蟹合戦』に興味をもったと思われる。(続く)

 

参考・引用文献

芥川龍之介.1923.猿蟹合戦.青空文庫.

畑山 博・石 寒太.1996.宮沢賢治幻想紀行.求龍堂.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021b.童話『やまなし』は魚とクラムボンの悲恋物語である.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/20/090540

石井竹夫.2022a.童話『やまなし』考 -クラムボンは笑った,そして恋は終わった-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/01/101846

石井竹夫.2022b.シグナルとシグナレスの反対された結婚 (1) -そのきっかけはシグナレスが笑ったか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/16/145446

石井竹夫.2022c.童話『ガドルフの百合』考(第5稿)-朝廷と東北先住民の歴史的対立.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/07/075640