宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『ガドルフの百合』考(第5稿)-朝廷と東北先住民の歴史的対立

「白百合」は雷雨で折られ,そしてガドルフは,夢の中で二人男の争いが原因で倒されてしまう。この争いは,ガドルフと「白百合(恋人)」の恋の顛末とどのように関係してくるのであろうか。ガドルフを賢治に,「白百合」を賢治の恋人として以下に考察してみたい。

 

賢治の詩集『春と修羅(大正十一,十二)』の序(1924.1.20)には,「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙とインクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時にかんじるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケッチです」と記載されている。「二十二箇月の過去」とは,『春と修羅』の序が書かれる前の22カ月のことを言っているので,賢治の相思相愛の恋と破局が経験された時期のことである。また,生前に刊行された唯一の童話集『注文の多い料理店』(大正十三年刊)の広告文には,「これらは決して偽りで仮空(ママ)でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても,たしかにこの通りその時心象の中に現れたものである」と記載されている。この時期に書かれたはずの書簡は,ほとんど残されていない。それゆえ,朝廷側と「先住民」の歴史的対立と賢治の相思相愛の恋の顛末の関係をたどるには,「そのとほりの心象スケッチ」であると主張する賢治の作品を丹念に読み説くしかない。

 

ただ注意しなければならないのは,この「心象スケッチ」の内容が必ずしも「客観的事実」に符合するものではないということである。賢治研究家の鈴木(1994)によれば,「心象スケッチ」とは,「無意識部」より生じる「直感」を〈心象〉として〈スケッチ〉したものと定義できるとしている。また,「心象スケッチ」はあくまでも賢治の「直感」であり,「不確実性」を「心象スケッチ」の宿命としているという。賢治は事実であるという確証のない「直感」を重視したが,後述する「迷い」の原因にもなった。

 

『春と修羅』と同時期の恋物語『シグナルとシグナレス』(1923)が「心象スケッチ」を基にして書かれたものとすれば,賢治は相思相愛の恋人との結婚が,事実がどうなのかは分からないが,両家の近親者達から猛烈な反対を受けていたと感じていたと思われる。この物語には,本線の金(かね)と電灯でできた新式のシグナル(賢治)と軽便鉄道の木とランプでできたシグナレス(恋人)の結婚に対して,とくにシグナル側の近親者から組織だって反対する様子が詳細に描かれている。近親者の一人は,シグナルに向かって「シグナレス風情と,一体何をにやけていらっしゃるんです」と言ったりもする。シグナレスも叔母達の視線をいつも気にしている。シグナレス側に関しては,これを裏付ける遺族の証言もある。叔母ではないが,仙台藩の客分であった高級武家の出だという恋人の母親が,特に強く反対していたのだという(澤口,2018)。両家が反対する理由に関しては,妹トシの死や賢治が肺病を煩っていたことなど様々な憶測がなされてきた。しかし,筆者は,結婚への反対が一方の家からではなく両家からされていること思われることから,賢治あるいは恋人のそれぞれの出自(格式ではない)に破局の一因があると考えるようになった。

 

童話『双子の星』に登場するチュンセ童子とポウセ童子も,「空のくぢら」と呼ばれる「空の彗星(帚星)」(ザウエルは尾が箒のような犬)によって銀河の「落ち口」から海に落とされる。二人は,「落ちながらしっかりお互の肱をつかみどこ迄でも一緒に落ちよう」とした。このチュンセ童子には賢治が,そしてポウセ童子には恋人が,そして「空のくぢら」には「先住民」(あるいは「先住民」が持つ「移住者」に対抗する共同体意識)がそれぞれ投影されている可能性のあることはすでに報告した(石井,2019)。

 

恋人の実家は慶長2年(1597)創業の蕎麦屋と伝えられていている(Archive today,2020),これが事実なら,恋人の祖先は少なくとも宮沢家の祖先が花巻に移住してくる前に先住していた。あるいは,これが事実でなくても,多分,賢治は恋人が生粋の東北人(「先住民」)の血を引く女性であると思っている。

 

賢治は1931年頃に文語詩を作るにあたって,自身の年譜を本編(1〜42頁)とダイジェスト版(43〜50頁)があるノート(「文語詩篇ノート」)に作成している。年譜の内容は,「1909年盛岡中学二入ル」に始まって,1915〜1917年の盛岡高等農林時代とその後の研究生時代を経て1921年の出京,国柱会,花巻農学校に就職と続くが,1921年11月の妹の死と1921〜1924年までの恋人との恋が記されるはずのページがダイジェスト版では空白になっていた(1922〜1924年の間の書簡類もほとんど残されていないことは前述した)。さらにその次の頁では,同じような文字が繰り返し書きなぐられ一面まっ黒になるほど字で埋め尽くされていた。

 

繰り返されている言葉は,第1に「人にしられずに来る」,第2に「岩のべに小猿米焚く米だにもたげてとふらせ」,第3に「これやこの行くもかへるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」の3つである。澤口(2010)は,この3つの言葉は,賢治が恋人との恋が完全に破局してから8年(破局した年を入れて)が過ぎているにも関わらず,まだ恋人の思い出と冷静に向き合えずにいたことの証拠の1つであろうと推測している。

 

第1の言葉に関して澤口は,1927年5月7日の日付のある詩〔古びた水いろの薄明窮のなかに〕の「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたずねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです」(1922年冬〜1923年春頃の出来事とされる)に対応していると思われるので賢治の恋人のことであろうと推測した。この日付の約1か月前に恋人は亡くなっている。しかし,これ以外の言葉に関しては不問にしている。第2の言葉は,『日本書紀』に記載されている童謡(わざうた)である「岩の上に小猿米焼く米だにも食げて通らせ山羊の老翁」のことで,歴史上(乙巳の変)の人物である蘇我入鹿が聖徳太子の一族(上宮王家)を滅ぼそうとしていることの風刺である。この童謡の「岩の上に」が上宮で,「子猿」が入鹿である。入鹿は,蝦夷の子である。蘇我蝦夷の「蝦夷」は東北の「蝦夷(エミシ)」とは直接関係ないとされている。歴史上の敗者に対する侮蔑用語だとも言われている。賢治は.直感によるものかもしれないが恋人が東北の「先住民」の末裔であると思っている。  

 

一方,賢治は,前述したように宮沢家の家系図によれば父方も母方も京都の公家侍にルーツを持ついわば「移住者」の末裔である。当時このような家系図があったかどうか分からないが,賢治も自分の出自が京都であると思っている。上記第3の言葉は,百人一首に記載されている蝉丸の和歌である。「逢坂の関」は都(京都)と東国や北国を結ぶ北陸道,東海道などが交わる交通の要所であり,京都防衛のための関所である。すなわち,自ら書いた年譜のダイジェスト版のまっ黒に塗りつぶされた頁には,賢治と恋人のそれぞれの「出自」(ルーツ)が記載されている。また,年譜の本編の破局した頃の頁には「石投ゲラレシ家ノ息子」の記載もある。多分,この二人の「出自」の違いが長い間賢治を悩ませたものであり,また破局の要因の1つになったものと思われる。 

 

賢治は,恋人と付き合う直前(1920年)に日蓮宗の在家団体で田中智学が率いる「国柱会」に入会していることも強調されなければならない(生涯会員を維持)。「国柱会」は日蓮主義を主張しているが,天皇崇拝,国体護持の思想が色濃いとされている(原,1999)。国柱会は日刊誌『天業民報』を刊行しているが,賢治は実に熱心な読者であったという。入会当時の『天業民報』には智学の国体論の集大成となる「日本国体の研究」の連載が始まっていた。賢治はこの日刊誌を一人でも多くの人に読んでもらおうと「掲示板」を作り家の道路に面した所につるしておいたという。また,賢治は,1921年1月に花巻を出奔して国柱会へ向かうが,2日目には仕事も宿泊所も探さずに〈明治天皇〉が祀られている明治神宮に参拝している。これは智学が『天業民報』の中で明治神宮への参拝を大々的に訴え続けていたからと言われている(岩見,1989)。賢治が天皇制にどのような評価を与えていたかは作品からは容易にうかがうことはできないが,少なくとも天皇制を否定はしていない。さらに近隣の人達の中には,「掲示板」を見るなりして賢治が天皇を崇拝する国柱会の会員であるという認識を持つものもいたと思われる。

 

天皇を中心とした中央政権と東北の「先住民」との対立は,朝廷側からすれば蝦夷征討とも呼ばれ,京都に都を置いた平安時代まで続く。さらに,その対立の影響は鎌倉,江戸時代の武家中心の時代および明治維新後の賢治の生きた時代にまで及んだ(梅原,2011;高橋,2012;高橋,2017)。例えば,奈良時代の桓武天皇の頃に始まった三十八年戦争(774~811),前述した平安時代初期の朝廷軍を率いる征夷大将軍の〈坂上田村麻呂〉と蝦夷の武将〈アテルイ,モレ〉の戦い,朝廷の命を受けた源頼義・義家と阿部一族の戦い(前九年の役;1051~1062),さらに権力が朝廷から武家へ移行する時期の1189年の源頼朝による奥州藤原氏征討,そして明治新政府との戊辰戦争(1868~1869)などがあげられる。戊辰戦争は,大政奉還後の〈明治天皇〉による王政復古の大号令に反発して勃発するが,東北の仙台藩は,新政府に対抗するために成立した奥羽越列藩同盟の盟主になる。しかし,戦いに敗れ,仙台藩はその責任を取らされ表高62万石(実高は100万石)から28万石に大幅に減封され,多くの家臣が苦境に陥った。

 

最近では1988年,首都機能移転の議論の中で大阪商工会議所会頭であった佐治啓二が起こした東北熊襲発言(「東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」)に見られる舌禍事件があげられる。「熊襲」は,古代の日本において九州南部にいた反朝廷勢力を指す言葉である。

 

宮沢家側と恋人側の近親者達は,天皇を中心とした中央政権と東北の「先住民」の歴史的対立を,日常生活では意識していなくても,両家の婚姻となれば,いやがおうなく意識せざるを得なかったと思われる。単なる憶測にすぎないのかもしれないが,両家の祖先達の歴史的対立が二人の結婚問題に深い陰を落としていたと思われる。(続く)

 

参考文献                 

Archive today.2012(更新年).わんこそば百科.2020.5.7(調べた日付).http://archive.is/ika4 

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2019.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-イチョウと二人の男の子-.人植関係学誌.18(2):47-52.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

岩見照代.1989.ジョバンニの父-宮沢賢治と天皇制-.日本文学 38(2):54-63.

澤口たまみ.2010. 宮澤賢治 愛のうた.盛岡出版コミュニティー.盛岡.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.茨城.

鈴木健司 1994.宮沢賢治 幻想空間の構造.蒼丘書林.

高橋克彦.2017.東北・蝦夷の魂.現代書館.東京.

高橋 崇.2012.蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史.中央公論新社。東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

梅原 猛.2011.日本の深層-縄文・蝦夷文化を探る.集英社.東京.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』146号16-30頁2022年(3月31日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(下)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(下)をさらに第4稿と第5稿と第6稿の3つに分けているので変更した。また,ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。

 

補足:賢治の作品には三十八年戦争(774~811)を題材にしたと思われる童話『烏の北斗七星』がある。当ブログでは「植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(1)~(6)」で解説した。https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/03/151203

童話『ガドルフの百合』考(第4稿)-夢の中で争う二人の男は誰か

背の高い「白百合」が嵐で折れたことを恋の破局と解釈すれば,この破局の理由は何であろうか。ヒントは,「白百合」が折れた直後に「クジラの頭」をイメージしている「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」の中で見た夢の中の二人の男の争いに隠されている。なぜなら,遠い昔(何世紀も前)を思い出しながら見た夢の中にガドルフ自身も登場し,「坂の上」で争っている二人の男に倒されてしまうからである。本稿では,夢の中で争う二人の男が誰なのか明らかにする。

 

溺死や自動車事故などの死の危機に瀕するとき,これまでの人生を一瞬で追加体験する「走馬灯」がよぎることがあるということが知られているが(ドラーイスマ,2009),疲労困憊しているガドルフも同じようにこの「走馬灯」を経験しながら眠り込む。

 

 それから遠い幾山河の人たちを,燈籠のやうに思ひ浮かべたり,又雷の声をいつかそのなつかしい人たちの語(ことば)を聞いたり,又昼の楊がだんだん延びて白い空までとゞいたり,いろいろなことをしてゐるうちに,いつかとろとろ睡らうとしました。そして又睡ってゐたのでせう。

 ガドルフは,俄かにどんどんどんという音をききました。ばたんばたんといふ足踏みの音,怒号や潮罵(ちょうば)が烈(はげ)しく起りました。

 そんな語はとても判りもしませんでした。ただその音は,たちまち格闘らしくなり,やがてずんずんガドルフの頭の上にやって来て,二人の大きな男が,組み合ったりほぐれたり,けり合ったり撲(なぐ)り合ったり,烈しく烈しく叫んで現はれました。

 それは丁度奇麗に光る青い坂の上のように見えました。一人は闇の中に,ありありうかぶ豹(へう)の毛皮のだぶだぶの着物をつけ,一人は烏(からす)の王のやうに,まっ黒くなめらかによそほってゐました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に,小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです。

 見る間に黒い方は咽喉(のど)をしめつけられて倒されました。けれどもすぐに跳ね返して立ちあがり,今度はしたたかに豹の男のあごをけあげました。   

 はも一度組みついて,やがてぐるぐる廻(まわ》って上になったり下になったり,どっちがどっちかわからず暴れてわめいて戦ふうちに,たうとうすてきに大きな音を立てて,引っ組んだまま坂をころげて落ちて来ました。

 ガドルフは急いでとび退(の)きました。それでもひどくつきあたられて倒れました

 そしてガドルフは眼を開いたのです。がたがた寒さにふるへながら立ちあがりました。               (宮沢,1986)下線は引用者;以下同じ

 

ガドルフは眠り込んだ後に夢を見る。足踏みする音や激しく怒鳴り合う声を聞き,そして「光る青い坂の上」に「豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけた男」と「まっ黒くなめらかによそほってゐる烏(からす)の王」が争うのを見る。この「光る青い坂の上」には,二つの意味が込められていると思う。一つは,文字通りの「地形」が斜面になっている「坂」の上のことであり,もう一つは歴史上の人物と関係がある。

 

この語句の「坂の上」を「地形」を示す北上山地と解釈すれば,「文語詩稿五十篇」の未定稿詩〔うからもて台地の雪に〕の情景にイメージが重なる。

       

うからもて台地の雪に,部落(シュク)なせるその杜黝(あおぐろ)し。

曙人(とほつおや),馮(の)りくる児らを,穹窿ぞ光りて覆ふ。

                         (宮沢,1986)

 

「うから」は部族で,「曙人」はルビにあるように「先祖」で,穹窿は天空のことである。賢治の文語詩を研究している信時(2007)によれば,この詩の意味は「雪の積もった台地に一族が集まり,その集落の森が青黒く見える。先祖の血をひき,魂までも乗り移った子供らを,天空から降り注ぐ光が覆っているように見える」としている。また,「先祖」とは「アイヌ」のことを指すのだという。著者は,賢治が「アイヌ」と「蝦夷(エミシ)」を区別していないので,この詩に登場する「台地」は準平原の北上山系であり,「曙人」はその台地にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」と考えている。賢治は,大正・昭和の時代に至っても古代蝦夷(エミシ)の魂が東北の「先住民」に乗り移つることがあると感じている。古代蝦夷(エミシ)の魂には,後述するが侵略者である大和朝廷から続く歴代の中央政権(あるいはそれに従う「移住者」)に対する「疑い」と「反感」が含まれる。

 

1.豹の毛皮を着た男

夢の中に登場する二人の男のうち「豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけた男」は,語呂合わせのようだが「坂の上」にいることから歴史上の人物である〈坂上田村麻呂〉(出身は渡来系氏族)がイメージされていると思われる。〈田村麻呂〉は,797年に蝦夷征討のために桓武天皇(母方の出身は百済系渡来人)により征夷大将軍に任ぜられた平安時代の公卿(武官)である(官位は大納言正三位)。〈田村麻呂〉は,802年に造陸奥国胆沢城使として現在の水沢市に胆沢城を造営するため陸奥国(東北地方)に派遣されている。〈田村麻呂〉が豹の毛皮を着ていたかどうかは定かでないが,豹の毛皮を馬具(鞍の下に当てる敷物)や武具(太刀を被う毛皮の袋)に使用した可能性はある。平安時代に編纂された儀式『西宮記』(公務あるいは宮中行事の際の礼儀作法を規定した編纂物)によれば,公卿で身分が三位の者は豹の毛皮を馬具や武具に使用できるとある(関口,2013)。ちなみに四位と五位は虎の皮の皮,六位は海豹(ラッコ)の皮を使うことができる。このように,賢治が「豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけた男」と記した人物は,武官である〈坂上田村麻呂〉がモデルであろう。

 

賢治は言葉遊びが好きなようで,題名の「ガドルフの百合」も稜(ガド)が五角の屋根(roof;ルーフ)の家の庭に咲く百合のことかと思ってしまう。 

 

2.烏(からす)の王

「烏の王」は,朝廷軍と戦った胆沢の地に拠点を持つ「蝦夷(エミシ)」の族長である〈阿弖流為(アテルイ)〉あるいは〈母禮(モレ)〉がモデルであろう。〈アテルイ〉と〈モレ〉が率いる蝦夷武装勢力は,朝廷軍の集団戦闘を基本とした戦いとは異なり地の利を活かしたゲリラ的邀撃(ようげき)作戦あるいはゲリラ的騎馬個人戦術が得意であったという。下向井(2000)によれば,蝦夷武装勢力の戦術は,「蜂や蟻のように集まってきては挑発し,攻めたら山林に逃げ込み,放置すればまた集まって朝廷側の城塞を侵掠する」方法だったという。

 

「蝦夷(エミシ)」を敵視する朝廷あるいは京都の民衆が,当時彼らをどのよう思っていたのか。それを知る手がりとして,真言宗の開祖である空海(774~835)の書(『性霊集』)がある。空海は,彼らを「毛人」,「羽人」などと呼び,「年老いた烏のような目をしていて,猪や鹿の皮の服を着て,毒を塗った骨の矢を持ち,常に刀と矛を持っている。稲も作らず,絹も織らず,鹿を逐っている。昼の夜も山の中におり,悪鬼のようで人間とは思われない。ときどき村里に来ては,多くの人や牛を殺していく」〈訳は福崎(1999)〉と述べている。誇張もあるとは思われるが,この空海の蝦夷観が当時の都人の共通した蝦夷観と思われる。ここで空海は,「先住民」を「人間とは思われない」,あるいは彼らの目つきを「カラス」の目のようだとしている。その真意は分からないが,「カラス」もまた,黒いことから不吉なものとして嫌われている鳥である。賢治が〈アテルイ〉あるいは〈モレ〉を『ガドルフの百合』で「烏の王」としたのもうなずける。

 

賢治は,朝廷側の〈坂上田村麻呂〉や蝦夷側の武将である〈アテルイ〉あるいは〈モレ〉の名前を作品に直接登場させたことはない。しかし,これらの武将達の名前を知っていたと思える。浜垣(2006)もすでに指摘しているように,後者の二人と思われる人物が「文語詩稿五十篇」の未定稿詩〔水と濃きなだれの風や〕の後半4行(下線部)に記載されているからである。この詩は,1924年の早池峰山登山の時に取材を基にした口語詩「375 山の晨明関する童話風の構想」の改稿形「〔水よりも濃いなだれの風や〕」を文語形に改めたものである。

 

水と濃きなだれの風や,    むら鳥のあやなすすだき,

アスティルベきらめく露と,  ひるがへる温石(おんじゃく)の門。

海浸す日より棲みゐて,    たゝかひにやぶれし神の

二かしら猛きすがたを,    青々と行衛しられず

                        (宮沢,1986)

 

「温石の門」は,蛇紋岩のこと。「海浸す日」は,下書き稿に「洪積」と地質時代の洪新世(170万年前から1万年前)の別称を記載していることから,現在の東北を南北に流れる北上川がまだ海の底であった頃という意味であろう。少なくとも1万年前に東北に住んでいたのは「縄文人」と呼ばれていた人達である。それゆえ「海浸す日より棲みゐて」とは,「1万年以上前から蛇紋岩台地の北上山地に棲んでいた」という意味であろう。アイヌ民族は,およそ17世紀から19世紀にかけて東北地方北部から北海道,樺太,千島列島に先住していた人達である。「アイヌ」は,縄文人の末裔とされている。一方,「蝦夷」表記の初出は,日本書紀(720年)である。「蝦夷(エミシ)」と「アイヌ」が同一な頃があったとしたら,「蝦夷(エミシ)」もまた,縄文人の末裔である。

 

「たゝかひにやぶれし神」の「たゝかひ」とは,古代史に記録に残されている朝廷と「蝦夷(エミシ)」の戦いであろう。「神」を「蝦夷(エミシ)」の指導者とすれば,「二かしら猛きすがたを」の「二かしら」は「クジラの頭」を象徴する〈アテルイ〉と〈モレ〉の首であろう。この両武将の率いる蝦夷武装勢力は朝廷軍に果敢に戦いを挑んだが,戦況が不利になり胆沢城造営中の〈坂上田村麻呂〉の軍隊に降伏した。両武将とも首をはねられていて,その遺体がどこに埋葬されたのか分かっていない。

 

すなわち,「クジラの頭」をイメージしている「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」の中で見た夢で争う二人の男は,東北に侵攻してきた朝廷側の男と朝廷に「まつろわぬ民」として最後まで抵抗していた先住民側の男であろう。次稿では,なぜこの二人が登場してくるのかについて検討していく。

 

参考文献                 

ドラーイスマ,D.(鈴木 晶訳).2009.なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学.講談社.

福崎孝雄.1999.「エミシ」とは何か.現代密教 11/12:120-132.

浜垣誠司.2006(更新年).宮沢賢治の詩の世界.たゝかひにやぶれし神(1).2020.5.4(調べた日付).http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/01/1_22.htm

関口 明.2013.中世日本の北方社会とラッコ皮交易-アイヌ民族との関わりで-.北海道大学総合博物館研究報告 6:46-57.

下向井龍彦.2000.武士形成における俘囚の役割-蕨手刀から日本刀への発達/国家と軍制の転換に関連させて-.史学研究 228:1-25.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』146号16-30頁2022年(3月31日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(下)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(下)をさらに第4稿と第5稿と第6稿の3つに分けているので変更した。また,ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。

童話『ガドルフの百合』考(第3稿)-「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」とは何か

本稿では,「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」が何を意味しているのについて検討する。

 

この「百合」は,恋人をイメージできる庭に咲く折れた1本の「丈の高い百合」でも,折れずに「勝ち誇ったかのように」残った10本ほどの「百合」のことでもない。この百合は,ガドルフが熱って痛む頭の奥に浮かぶもう一群れの「貝細工の百合」である。この「貝細工の百合」が何を意味するのかは,物語に登場する「街路樹としての楊(やなぎ)」とガドルフの脳裏に浮かぶ「白い貝殻の楊」という2つの「楊」を詳細に比較検討することによって明らかになる。

 

1.街路樹としての楊

「街路樹としての楊」は物語の冒頭で,ガドルフが歩く道の並木として登場してくる。

        

 ハックニー馬のやうな,巫山戯(ふざけ)た楊(やなぎ)の並木と陶製の白い空との下を,みじめな旅のガドルフは,力いっぱい,朝からつゞけて歩いて居りました。

 それにただ十六哩(マイル)だといふ次の町が,まだ一向見えても来なければ,けはいもしませんでした。

楊がまっ青に光ったり,ブリキの葉に変ったり,どこまで人をばかにするのだ。殊にその青いときは,まるで砒素をつかった下等の顔料のおもちゃじゃないか。)

 ガドルフはこんなことを考えながら,ぶりぶり憤って歩きました。

                   (宮沢,1986)下線は引用者;以下同じ

 

この「街路樹としての楊」とはどんな樹木なのだろうか。

「楊(ヨウとも読む」は,一般には「柳(リュウ)」(主にシダレヤナギ)に対して枝を上方に伸ばし剪定によっては樹形が縦長の箒型(あるいは狭円柱樹形)になるヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の木本の「ヤナギ」をいう。国内ではドロノキ(Populus maximowiczii A.Henry),ヤマナラシ(ハコヤナギ;Populus tremula Lvar.sieboldii)があり,国外ではセイヨウハコヤナギ(別名はポプラあるいはイタリアヤマナラシ;Populus nigra var.italica),ヨーロッパヤマナラシ(Populus tremula L.var.tremula),アメリカヤマナラシ(Populus tremuloides Michx.),「ウラジロハコヤナギ」(別名はギンドロあるいは銀白楊;Populus alba L.)などがある。このうち,セイヨウハコヤナギは国内にも植栽されていて北大のポプラ並木は有名である。賢治の愛した「楊」は,「ウラジロハコヤナギ」(ギンドロ;Populus alba L)である。

第1図.ウラジロハコヤナギ(ギンドロ)

 

葉の裏面が白くなるのは,ドロノキ,ヤマナラシ,ウラジロハコヤナギがあるが特に「ウラジロハコヤナギ」の葉の裏面には毛が密生し,銀白色に見える。「ウラジロハコヤナギ」は,雌雄異株で,雄株の枝はセイヨウハコヤナギと同じで上方へ伸びる傾向があるが,雌株の枝は横へ広がるという(村松.2020)。ヨーロッパ中南部,西アジア原産の落葉高木である。街路樹や公園樹として用いられる。

 

ガドルフが見た童話の中の「楊の並木」は多分,「ウラジロハコヤナギ」の雌株のある並木であろう。「ハックニー馬のしっぽ」は,「ハックニー」というウマの「尻尾」のことである。「ハックニー」は,イギリス原産の輓馬として使う品種で,岩手には1877年に導入されている。賢治の詩集『春と修羅』の詩「小岩井農場」や「北上山地の春」などに登場してくる。ウマの「尻尾」は,尻にある仙椎の骨の末端にある尾の軸となる尾椎(15から21個の小さな尾骨)とそれらの周囲の筋肉と皮膚などから構成され,長い毛で覆われている。「ハックニー」の「尻尾」は,尻の高い位置に付いているのが特徴なので,仙椎の末端にある尾椎を軸とする「尻尾」は,「尻尾」の途中まで地表に対して並行あるいは斜め下方向に伸びてから緩やかな曲線を描いて「シダレヤナギ」(枝垂れ柳)のように毛と一緒に地表に向かって垂れ下がる。「春と修羅」第三集の1089 番〔二時がこんなに暗いのは〕(1927.8.20)という詩の最後の5行にも,「雷がまだ鳴り出さないに,/あっちもこっちも,/気狂ひみたいにごろごろまはるから水車/ハックニー馬の尻ぽのやうに/青い柳が一本立つ」とある。

 

賢治は,多くのヤナギ科ハコヤナギ属の「楊」の枝が「セイヨウハコヤナギ」のように地表に近い部分も含め上方に伸びると学んだと思われるが,実際の雌株の「ウラジロハコヤナギ」の特に地表に近い枝が水平あるいは下方に出しているのを見ていて,童話の中でガドルフに「ハックニー馬のやうな,巫山戯た楊」と言わせたと思われる。

 

2.白い貝殻の楊

「楊」は,街路樹としての「楊」以外に,ガドルフの脳裏に「白い貝殻でこしらへあげた,昼の楊の木」としても登場してくる。この場面は,ガドルフが館に入り庭に「白百合」を発見する前である。

 

 長靴を抱くやうにして急いで脱(と)って,少しびっこを引きながら,そのまっ暗なちらばった家にはね上って行きました。すぐ突きあたりの大きな室は,たしか階段室らしく,射し込む稲光りが見せたのでした。

 その室の闇の中で,ガドルフは眼をつぶりながら,まず重い外套を脱ぎました。そのぬれた外套の袖を引っぱるとき,ガドルフは白い貝殻でこしらへあげた,昼の楊の木をありありと見ました。ガドルフは眼をあきました。

(うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔梗いろの背景に,楊の舎利(しゃり)がりんと立つのは悪くない。)

 それは眼をあいてもしばらく消えてしまひませんでした。

                           (宮沢,1986)

 

ここで重要なのは,ガドルフが昼間見た街路樹としての「楊」と脳裏に浮かぶ「白い貝殻」に見える「楊」に対して異なったか感情を持っているということである。昼間みた「楊」は,本来枝を上方に伸ばすはずなのに「ハックニー馬のしっぽのやう」に枝を下方に伸ばしているし,「楊がまっ青に光ったり,ブリキの葉に変わったり」と記載されているように葉も表と裏で色が違うので,ガドルフにとっては自分を「ばかにするようなもの」と感じている。一方,眼を閉じたときに脳裏に浮かぶ「楊」は「ブリキ」ではなくて「白い貝殻」に感じてしまう。ガドルフにとって脳裏に浮かぶ「楊」は,すでに「俗」なる街路樹としての「楊」ではなくなっていて,「舎利」と等価の「白い貝殻」に変貌している。「舎利」は,釈迦牟尼の遺骨のことなので,ガドルフあるいは賢治にとって「楊」は「聖」なる植物でもある。

 

なぜ,「ウラジロハコヤナギ」などのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」が「聖」なる植物なのか。それは,この植物がマッチの軸木に使われてきたからである。賢治は,この「楊」の利用法が『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」の焼身供養の教義(自己犠牲)に沿うものとして重視した(石井,2011,2014)。

 

マッチの軸木になる条件として,白く適当に長く燃え,また小さく細く切断するために材は柔らかく強靭なものでなくてはならない。賢治がこの物語を執筆していたころ我が国では,この条件に合う軸木の用材として上記のドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」とシナノキ(Tilia japonica Simonk),ノグルミ(Platycarya strobilacea Sieb.et.Zucc.),サワグルミ(Pterocarya rhoifolia Sieb.Et.Zucc.),ドイツトウヒ(Picea abies Karst)などが使われた。しかし,良質なのはドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」で,当時マッチ産業が好調であったこともあり,次々と伐採されていった。特にドロノキ(白楊)は3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという。すなわち,「楊」は,自ら(あるいは種として)の命を絶ちその体をマッチの軸木に変え「炎」となって我々人間の生活向上に貢献してきた。

 

一方,『法華経』の「薬王菩薩本事品」には,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,その返礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やして仏を供養したという逸話が説かれている(その身は1200年燃えたという)。 賢治にとって,「楊」は,まさに『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身であったと思われる。ガドルフあるいは賢治が「楊」を「聖」なるものと感じたとき,「楊」は脳裏に浮かぶ幻覚としての「白い貝殻の楊」に変貌する。

 

3.貝細工の百合

ここで,再び「白百合」に話を戻して,ガドルフの脳裏に浮かぶ心象世界の「もう一群れの貝細工の百合」について考察してみたい。この「貝細工の百合」は,庭に咲いていた具体的な「白百合」というよりは「白い貝殻の楊」と同じで「法華経」と関係する「聖」なるものであろう。必ずしも現実の植物や女性を意味していない。むしろ「法華経」への強い信仰心であるといってもよい。

 

大塚(1999)は,賢治作品に登場するマグノリア,シロツメクサ(クローバー),ゲンノショウコ,百合の花などの「白い花」が「聖なる花として描かれている」と指摘している。『法華経』は『妙法蓮華経』の略式の言い方で,原語(ナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラ)を直訳すると,「白い蓮華のような正しい知恵を記した経」となる。

 

すなわち,「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」は,ガドルフの脳裏に浮かんだ「聖なるもの」をイメージできる「貝細工の百合」である。ガドルフは,〈恋〉よりも「法華経」への〈信仰心〉あるいは「みんなの幸せ」を重視して生きようと決心したのだと思われる。

 

4.「1本の木」に宿る雫に映る「蝎の赤い光」

なぜそれが言えるのかの答えは,最後の結末部にある1本の木に宿る雫に映る「蝎の赤い光」の中にヒントが隠されている。

 

 ガドルフは手を強く延ばしたり,又ちゞめたりしながら,いそがしく足ぶみをしました。

 窓の外の一本の木から,一つの雫が見えてゐました。それは不思議にかすかな薔薇いろをうつしてゐたのです。

(これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。南の蝎の赤い光がうつったのだ。その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行かう。街道の星あかりの中だ。次の町だってぢきだらう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずゐぶんゐやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ。

 ガドルフはしばらくの間,しんとして斯う考へました。

                              (宮沢,1986)

 

ガドルフは,雨が止んだあと「窓の外の一本の木」から,1個の雫を見るが,その雫に「南の蝎の赤い光」が映っているのを見ることになる。まだ夜が明けていないので,「明け方の薔薇いろ」が映るはずはない。この科学的に説明つかない「南の空の蝎の赤い光」が雫に映っていると認識したとき,ガドルフは〈恋〉を諦め,〈みんなの幸せ〉を探す旅に出かけようとしたのである。この場合の「一本の木」とは,前述したように京都に都を置いた朝廷を象徴する「ケヤキ」であり,「南の蝎の赤い光」は「さそり座」で最も明るい恒星である「アンタレス」のことであろう。

 

賢治は,「アンタレス」の「赤い光」に「楊」に対するのと同様に『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」に登場する焼身自己犠牲を自分に強いた薬王菩薩を重ねている。賢治は,童話『ガドルフの百合』の執筆から1年後に『銀河鉄道の夜』を書き始めるが,この童話にも「蝎の火」が登場する。この「蝎の火」は,カーバイド工場で「カーバイド」(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)を作るときにでる工場からの「炎」がイメージされている(石井,2015)。「カーバイド」は,「ウミサソリ」を含む「石灰岩」を焼いて作った「石灰」(酸化カルシウム;CaO)と炭素(C)の混合物を電気炉で加熱(約2000℃)することによって作られる化合物である。

 

『銀河鉄道の夜』で「蝎の火」に対して「女の子」が「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」と言わせている。「カーバイド」は,水と反応するとアセチレンを生成するので,当時は集魚灯などの照明用のアセチレンランプに使用された。また,窒素と反応するとカルシウムシアミド(calcium cyanamide)が得られるが,これは「石灰窒素」の成分であり化学肥料として使われる。このように,「カーバイド」は,近代漁業や近代農業に多大な恩恵をもたらした。すなわち,『ガドルフの百合』の「蝎の赤い光」を『銀河鉄道の夜』の「蝎の火」と同じとみなせば,前者の「赤い光」もまた「薬王菩薩」をイメージできる「聖」なるものと言える。

 

賢治の家は,宮沢家の家系図によれば父方および母方ともに京都の藤井将監という人が始祖だとされる。この藤井将監は,十七世紀後半(江戸中期の天和・元禄年間)に花巻にやって来た公家侍と言われている。この子孫が花巻付近で商工の業を営んで宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった(堀尾,1991;畑山・石,1996)。すなわち,賢治は,生まれは東北(花巻)だが生粋の東北人(先住民)ではない。むしろ「先住民」に対して対立する側(朝廷側)の眷属すなわち「移住者」の末裔である。

 

ガドルフ(あるいは賢治)が自分の出自を示す朝廷を象徴する「ケヤキ」の雫に,自然現象では考えられない「聖」なる「南の蝎の光」が映るのを見たとき(あるいは感じたとき),自分に薬王菩薩が乗り移ったと考え,〈恋〉を諦め,大乗仏教の理念でもある〈みんなの幸せ〉を求める旅に出ようとしたと思われる。これが,「俺の百合は勝ったのだ」とガドルフが心の中でつぶやいた理由である。しかし,「法華経」に帰依する「信仰心」でイーハトーブを救うという「慢心」の気持ちも見え隠れする。(続く)

 

参考文献                 

畑山 博・石 寒太.1996. 宮沢賢治幻想紀行.求竜堂. 

堀尾青史.1991. 年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.東京

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌.11(1):21-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/05/082232

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(前編・中編・後編).人植関係学誌.13(2):27-37. https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/22/081209

石井竹夫.2015.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する楊と炎の風景(前編・後編).人植関係学誌.14(2):17-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/29/185712

石井竹夫.2018.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年(前編・後編)-.人植関係学誌.18(1):15-23.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

大塚常樹.1999.宮沢賢治 心象の記号論.朝文社.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

村松 忍.更新年不明.庭木図鑑 植木ペディア.2020.3.2(調べた日付).https://www.uekipedia.jp/

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』145号10-24頁2021年(12月3日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(上)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(上)をさらに第1稿と第2稿と第3稿の3つに分けているので変更した。写真(第1図)はブログ掲載の際に添付した。ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。

童話『ガドルフの百合』考(第2稿)-百合の花に喩えた女性とは誰か

本稿では,「巨きなまっ黒な家」の庭に咲く丈の高い「百合」と,「しのぶぐさ」の上に横たわる「百合」が何を意味しているのについて検討する。

 

1.賢治の恋人との関係

 ガドルフは,「巨きなまっ黒な家」に避難したのちに,庭に雷光で映し出される「しろいもの」を見ることになる。ガドルフはこの「しろいもの」がすぐに白い「百合の花」であることに気づくが,「おれの恋は,いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。」とつぶやく。

 

 向ふのぼんやり白いものは,かすかにうごいて返事もしませんでした。却(かへ)って注文通りの電光が,そこら一面ひる間のやうにして呉れたのです。

「ははは,百合の花だ。なるほど。ご返事のないのも尤(もっと)もだ。」

 ガドルフの笑ひ声は,風といっしょに陰気に階段をころげて昇って行きました。

 けれども窓の外では,いっぱいに咲いた白百合が,十本ばかり息もつけない嵐の中に,その稲妻の八分一秒を,まるでかゞやいてじっと立ってゐたのです。

 それからたちまち闇が戻されて眩しい花の姿は消えましたので,ガドルフはせっかく一枚ぬれずに残ったフランのシャツも,つめたい雨にあらはせながら,窓からそとにからだを出して,ほのかに揺らぐ花の影を,じっとみつめて次の電光を待っていました。

 間もなく次の電光は,明るくサッサッと閃めいて,庭は幻燈のやうに青く浮び,雨の粒は美しい楕円形の粒になって宙に停まり,そしてガドルフのいとしい花は,まっ白にかっと瞋って立ちました。

おれの恋は,いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ。

 それもほんの一瞬のこと,すぐに闇は青びかりを押し戻し,花の像はぼんやりと白く大きくなり,みだれてゆらいで,時々は地面までも屈んでゐました。

 そしてガドルフは自分の熱って痛む頭の奥の,青黝(あおぐろい)い斜面の上に,すこしも動かずかゞやいて立つ,もう一むれの貝細工の百合を,もっとはっきり見て居りました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を,一緒に息をこらして見つめて居ました。

       (中略)

 その次の電光は,実に微かにあるかないかに閃めきました。けれどもガドルフは,その風の微光の中で,一本の百合が,多分たうとう華奢(きゃしゃ)なその幹を折られて,花が鋭く地面に曲ってとゞいてしまったことを察しました。

 そして全くその通り稲光りがまた新らしく落ちて来たときその気の毒ないちばん丈の高い花が,あまりの白い興奮に,たうとう自分を傷つけて,きらきら顫(ふる)うしのぶぐさの上に,だまって横はるのを見たのです

 ガドルフはまなこを庭から室の闇にそむけ,丁寧にがたがたの窓をしめ て,背嚢のところに戻って来ました。

       (中略)

(おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ。)ガドルフは思ひました。

                     (宮沢,1986)下線は引用者 

 

ガドルフは,館の庭で見た白い「百合の花」に恋人の面影を重ねている。「立てば芍薬,座れば牡丹,歩く姿は百合の花」と美しい女性を「百合の花」に喩えることはよくあることである。ガドルフに賢治が投影されているとすれば,この女性は誰であろうか。多田(1980)は,白い「百合の花」に賢治の初恋の女性が投影されているとした。この女性は,賢治(18歳)が1914年4月に肥厚性鼻炎の手術のために入院した盛岡市内にある岩手病院の看護婦であったと言われている。また,この恋は賢治の片思いであったようでもある。多田が白い「百合の花」をこの看護婦とした根拠の一つは,賢治が入院中に詠んだとされる短歌の中に「雷光」や「白百合」が繰り返し登場してくることによる。

 

「百合(ユリ)」は,ユリ目ユリ科のうち主としてユリ属(学名:Lilium)の多年草の総称である。物語の「ユリ」は「白百合」とあるので,具体的に種を特定しようとすれば,ヨーロッパを舞台と考えれば「マドンナリリー」(Lilium candidum L,)が,我が国の東北とすれば「ヤマユリ」(Lilium auratum Lindl.)が候補にあがる(第1図)。

第1図.ヤマユリ

 

多田(1980,1997)は「白百合」に喩えた看護婦を特定しようとした。有力候補の名前と写真も公表されている。しかし,「白百合」は,本当にこの看護婦のことを指しているのであろうか。恋の対象である「白百合」は,引用文にもあるように10本ほどある「百合」の中でも「いちばん丈の高い花」とある。公表されている写真の女性の背は高くはない。さらに童話では恋の破局で傷ついたのはガドルフだけでなく,相手の女性も強く傷ついたと思わせる語句もでてくる。ガドルフは,「白百合」が嵐で「たうとう自分を傷つけて」しまうのを見ることになるからである。しかし,賢治の初恋は片思いであったとされているので,相手がそれによって強く傷つくということは考えにくい。むしろ,童話『ガドルフの百合』の隠された恋は,相思相愛の恋の相手がモデルになったものと考えた方がよいように思える。

 

賢治は,『ガドルフの百合』を書いたとされる年の直前(賢治は農学校の教員で26歳ごろ)に短期間(1年間ほど)だが相思相愛の恋をしていたとされている(佐藤,1984;堀尾,1984;澤口,2010,2018)。破局後に相手の女性は,渡米(シカゴ)していて3年後に異国の地で亡くなっている。花巻の賢治研究家である佐藤(1984)によれば,この女性は,賢治と同じ花巻出身(賢治の家の近く)で,小学校の代用教員をしていていた。賢治より4歳年下の背が高く色白の美人であったという。二人の出会いの場所は,賢治と友人の藤原嘉藤治が開催したレコード鑑賞会で,恋人はこの鑑賞会に7~8人の同僚と一緒に参加していたという。かなり熱烈な恋愛であったらしい。その後,宮沢家から相手側に結婚の打診がなされ,宮沢家側の近親者の中には,二人の結婚を予想しているものも多かったという。この候補に上がった女性の写真と名前も公表されている。また,渡米した後の恋人のシカゴでの生活についての情報も得られている(布臺,2019)。

 

この恋人は,名前を伏せて詩集『春と修羅』(1922)に登場する女性(佐藤,1984),あるいは童話『シグナルとシグナレス』(1923年5月11日~23日の岩手毎日新聞に掲載)に擬人化された信号機シグナレスとして登場してくる女性と推測されている(澤口,2010,2018)。著者も童話『双子の星』に登場するポウセ童子に,また童話『銀河鉄道の夜』(第一次~第四次稿)に登場するジョバンニやその母,および難破船の「女の子」に,この恋人が色濃く投影されている可能性のあることを報告した(石井,2018,2019)。賢治の恋愛時期および相手の女性の容姿から,佐藤らが賢治の相思相愛の恋人と推定している女性が,童話『ガドルフの百合』の「いちばん丈の高い花」と形容された「白百合」のモデルと思われる。

               

2.「しのぶぐさ」の上に横たわる「百合」

物語では,「気の毒ないちばん丈の高い花が,あまりの白い興奮に,たうとう自分を傷つけて,きらきら顫(ふる)うしのぶぐさの上に,だまって横はる」とあるが,この「しのぶぐさ」とはどんな植物なのか。多分,この「しのぶくさ」は「ノキシノブ」のことを言っていると思われる。「ノキシノブ」(軒忍;Lepisorus thunbergianus (Kaulf.)Ching;第2図)はウラボシ科ノキシノブ属に属するシダの一種である。「きらきら顫ふ」という形容が付くのは,この植物が「ウラボシ科」とあるように葉の裏側に一列に並ぶ星のようにも見える円形の胞子嚢を持つことによるのかもしれない。古今和歌集に「君しのぶ草にやつるるふるさとは松虫の音ぞ悲しかりける」(よみ人しらず)という歌があるが,この「しのぶ草」は「ノキシノブ」のことで「君しのぶ」の掛詞になっている。

第2図.ノキシノブ

 

「ノキシノブ」は,土に直接根を降ろさないで岩や「ケヤキ」や「ブナ」などの古木の幹あるいは神社の檜皮葺(ひわだしゅう)の屋根に着床して葉を伸ばし増えていく(着床植物)。物語で着床される側の樹木としては,大木になる「ケヤキ」(欅,Zelkova serrata (Thunb.) Makino )が推定される。この根拠は,ガドルフが嵐から避難した「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」のある場所が,平安時代に「蝦夷(エミシ)」に対して征討の拠点とした朝廷側の城柵があった跡をイメージしているからである。「ケヤキ」が,朝廷を象徴する樹木であることはすでに報告している(石井,2018b)。我が国最古の歴史書である『古事記』に記載されている。

 

ガドルフは,繰り返し襲ってくる雷光で背の高い「白百合」が「華奢(きゃしゃ)なその幹を折られて,花が鋭く地面に曲ってとゞいてしまった」と察するが,実際は「うとう自分を傷つけて,きらきら顫(ふる)うしのぶぐさの上に,だまって横はる」のを見ることになる。すなわち,背の高い「白百合」は,嵐で折れてもその頭である花が180度曲がって地表に倒れたのではなく,「ケヤキ」の樹幹に付く「ノキシノブ」の葉の上に寄り添う(君しのぶ)ようにして横たわったと思われる。

 

相思相愛の恋人をイメージできるものが「ケヤキ」に寄り添う姿は,童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)でも見ることができる。この童話では,氷山に衝突して沈没した難破船の乗客と思われる「女の子」と「青年」が銀河鉄道の列車に乗ってくるが,『ガドルフの百合』の「白百合」と同じ恋人がイメージされている「女の子」は,「けやきのやうな姿勢」の「青年の腕にすがって」登場してくる。この場合,青年には賢治が投影されている(石井,2018b)。

 

ガドルフは,この嵐の中で「ケヤキ」に寄り添う「白百合」を直視できないでいる。ガドルフは,「まなこを庭から室の闇にそむけ,丁寧にがたがたの窓をしめて,背嚢のところに戻って」いくことになる。

 

賢治は,「しのぶぐさ」が着床する木の名前を隠したと思われるが,「薔薇いろをうつす雫をつける1本の木」として最後の結末部に再度登場させることになる。(続く)

 

参考文献                 

堀尾青史.1984.解説.pp81-pp95.宮沢賢治.愛の童話集.童心社.

布臺一郎.2019.ある花巻出身者たちの渡米記録について.花巻市博物館研究紀要14:27-33.

石井竹夫.2018a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋(前編・中編・後編)-.人植関係学誌.17(2):15-32.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/162705

石井竹夫.2018b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年(前編・後編)-.人植関係学誌.18(1):15-23.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

石井竹夫.2019a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-イチョウと二人の男の子-.人植関係学誌.18(2):47-52.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

石井竹夫.2019b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-アワとジョバンニの故郷(前編・後編)-.人植関係学誌.18(2):53-69.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/14/150002

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

澤口たまみ.2010. 宮澤賢治 愛のうた.盛岡出版コミュニティー.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.

多田幸正.1980.賢治の初恋と「まことの恋」-『ガドルフの百合』を中心に-.日本文学 29(11):53-661.

多田幸正.1997.「ガドルフの百合」論-宮沢賢治の《内なる旅》-.児童文学研究 30:1-13.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』145号10-24頁2021年(12月3日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(上)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(上)をさらに第1稿と第2稿と第3稿の3つに分けているので変更した。写真(第1図と第2図)はブログ掲載の際に添付した。ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。

童話『ガドルフの百合』考(第1稿)-「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」とは何か

童話『ガドルフの百合』考 目次

第1稿-「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」とは何か

はじめに

 1.「曖昧な犬」は先住民の比喩

 2.「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」は「クジラの頭」

第2稿-百合の花に喩えた女性とは誰か

 1.賢治の恋人との関係

 2.「しのぶぐさ」の上に横たわる「百合」

第3稿-「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」とは何か

 1.街路樹としての楊

 2.白い貝殻の楊

 3.貝細工の百合

 4.「1本の木」に宿る雫に映る「蝎の赤い光」

第4稿-夢の中で争う二人の男は誰か

 1.豹の毛皮を着た男

 2.烏の王

第5稿-朝廷と東北の先住民の歴史的対立

第6稿-賢治は本当に〈恋〉よりも〈宗教〉の方を重要と考えたのか

 まとめ

 

はじめに

童話『ガドルフの百合』(1923年頃)は,400字詰の原稿用紙13枚に書き留められた宮澤賢治の短編作品である。

 

ドイツ人を匂わせる名のガドルフという主人公が「曖昧な犬」の居るところをたよりに「楊(やなぎ)」の並木のある土地を旅している。ガドルフは,旅の途中で嵐に遭遇し,1軒の廃墟と思われる「屋根の稜が五角」の「巨きなまっ黒な家」に避難する。その庭には雷雨に打たれる10本ばかりの白い「百合の花」が群れて咲いている。ガドルフは,この一群れの「百合」と熱って痛む頭の奥に浮かぶもう一群れの「貝細工の百合」の両方を見つめながら,庭に咲く「百合の花」のうちの一番背の高い1本に恋人の面影を重ねて,雷雨に打ち負けないように願う。しかし,雷光と雨は激しさを増し,背の高い「百合の花」は折れてしまう。ガドルフは,「俺の恋は砕けたのだ」とつぶやき「巨きなまっ黒な家」の中で眠り込んでしまうが,夢の中で2人の男が坂の上で激しく争うのを見ることになる。夢の中には自分自身も登場していて,争う2人に弾き飛ばされてしまう自分を見る。ガドルフは目を覚ましたとき,雨は止んでいたが雷光は嵐に「勝ち誇った」9本ほどの「百合の群れ」を照らしている。そのとき,ガドルフは窓の外の「1本の木」に付いている「雫(しずく)」に南の空の「蝎(さそり)の赤い光」が映っているのを見て,「俺の百合は勝ったのだ」とつぶやき,この物語は終わる。 

 

この作品は,短編ではあるが,旅人が偶然見た「百合の花」が恋人になったり,「曖昧な犬」,「屋根の稜が五角」の「巨きなまっ黒な家」,「貝細工の百合」などの難解な言葉が次々に登場してきたりして話の主旨が捉えにくいものになっている。これまで多くの賢治研究家達が,この謎の多い作品にチャレンジし,様々な解釈を生みだしてきた(多田,1980,1997;大室,1985;畑山,1996;小埜,1999)。

 

その中で多いのは,ガドルフが女性に喩えた「百合の花」を賢治の実在した恋人として,賢治の恋愛観が表白されたものであるとするものである(多田,1980;大室,1985;畑山,1996)。特に注目されているのは,論文引用数などから多田(1980,1997)の評論と思われる。多田によれば,この作品は,〈宗教〉と〈恋〉の間で揺れ動く賢治自身が投影されたガドルフの深層意識を扱った作品と考えられている。多田は,嵐で折れた背の高い1本の「百合の花」を賢治の初恋の相手として,嵐でも折れずに残った「百合の群れ」に〈ひとり〉への愛から〈みんな〉への愛,別の言葉で言い換えれば宗教的な愛へと昇華されていく姿を見ていた。この解釈の根底にあるのは,文末の「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」が,「勝ち誇った百合の群れ」と見なしてのことである。

 

著者も童話『ガドルフの百合』読後に,多田と同じく,この作品が〈宗教〉か〈恋〉かの選択をモチーフにしているものであると直感した。しかしながら,またいくつかの疑問も生じた。

 

その疑問とは,第1に,これがもっとも大きな謎となっているのだが,物語の冒頭に登場してくる「曖昧な犬」と「屋根の稜が五角」の「巨きなまっ黒な家」がはたして何を意味しているのかということである。この疑問に対して明瞭な答えを出した研究者はいない。第2に,「百合の花」に喩えた恋人が本当に初恋の女性であるのかどうかということである。なぜなら,賢治の初恋の時期は1914年で『ガドルフの百合』の執筆年とされる年よりも9年も前である。第3に,「しのぶぐさ」の上に横たわる「百合」とは何を意味しているのか。第4に,文末の「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」が,「勝ち誇った百合の群れ」であるのかどうかも疑問である。なぜなら,この物語に登場する「百合」は,庭の「勝ち誇った百合の群れ」以外に,折れてしまった背の高い1本の「百合」と,ガドルフの脳裏に浮かぶもう一群れの幻覚とも思える「貝細工の百合」が登場するからである。第5に,なぜ夢の中で争う二人の男が登場してくるのかという謎もある。そして最後に,話の主旨として,賢治は本当に〈恋〉よりも〈宗教〉の方を重要と考えたのかどうかである。

 

著者は,これまで難解とされてきた『銀河鉄道の夜』を,この童話に登場する植物がなぜ登場してくるのか解読することによって読み解いてきた。文章の意味がとりにくいところでも,その近くに配置されている植物を丹念に調べることによって明らかになったことを何度も経験している。童話『ガドルフの百合』には,「百合」と「楊(やなぎ)」が主要な植物として繰り返し登場してくるが,これ以外に「しのぶぐさ」と植物名が明らかでない「一本の木」が登場してくる。

 

本ブログ(第1稿)と次の5編(第2~6稿)では,これら植物がどのような役割をもって物語に登場してくるか明らかにすることによって前述した6つの疑問に対して著者なりの答えをだしてみたい。

 

1.「曖昧な犬」は先住民の比喩

 「曖昧な犬」という表現は,この物語の前半部分にでてくる。

 

 それに俄(には)かに雲が重くなったのです。

(卑しいニッケルの粉だ。淫(みだ)らな光だ。)

 その雲のどこからか,雷の一切れらしいものが,がたっと引きちぎったような音をたてました。

(街道のはずれが変に白くなる。あそこを人がやって来る。いややって来ない。あすこを犬がよこぎった。いやよこぎらない。畜生。)

        (中略)

 ガドルフはあらんかぎりすねを延ばしてあるきながら,並木のずうっと向ふの方のぼんやり白い水明りを見ました。

(あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ。あすこが少ぅしおれのたよりになるだけだ。)

 けれども間もなく全くの夜になりました。空のあっちでもこっちでも,雷が素敵に大きな咆哮(ほうかう)をやり、電光のせはしいことはまるで夜の大空の意識の明滅のやうでした。

 道はまるっきりコンクリート製の小川のやうになってしまって,もう二十分と続けて歩けさうにもありませんでした。

 その稲光りのそらぞらしい明りの中で,ガドルフは巨(おほ)きなまっ黒な家が,道の左側に建ってゐるのを見ました。

(この屋根は稜(かど)が五角で大きな黒電気石の頭のやうだ。その黒いことは寒天だ。その寒天の中へ俺ははひる。)

ガドルフは大股に跳ねて,その玄関にかけ込みました。

             (宮沢,1986)下線は引用者による;以下同じ

 

ガドルフは,「十六哩(マイル)だといふ次の町」を「曖昧な犬」の居たところを頼りに旅をしている。賢治は,距離の単位を「マイル」と表記していること,イギリスの「ハックニー馬」やヨーロッパ中南部,西アジア原産と思われる「楊(やなぎ)」(種の特定は後述する)の並木という日本では通常見られない動植物を物語に登場させているので,物語の舞台をヨーロッパに設定しようとしたのかもしれない。しかし,童話『銀河鉄道の夜』もヨーロッパや米国大陸を舞台にしているがイーハトーブ岩手県の景観が二重に見えてくるので,この物語も単純にヨーロッパが舞台と決めつけることもできない。

 

「曖昧な犬」とは,ヨーロッパ原産で名前がなかなか思い出せない「イヌ」という意味ではない。多分,かつて東北に住んでいた「先住民」の「蝦夷(エミシ)」のことを指していると思われる。

 

2.「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」は「クジラの頭」

賢治の同様の使い方は,別の作品でも見受けられる。童話『銀河鉄道の夜』には「ザウエル」という名の尾が「箒」のような犬が登場する。「ザウエル」は,定冠詞の「the」と「クジラ」の英名(ホエール;Whale)を組み合わせたものであろう(石井,2019)。童話では「ザウエル」は,ジョバンニの行動を監視している役として登場する。賢治は,黒くて大きい「クジラ」を東北の「先住民」に見立てている。賢治が「先住民」を「クジラ」と見なすのは,「蝦夷(エミシ)」が住んでいた土地の地形図(あるいは地質図)や「蝦夷」の漢字の読み方に由来すると思われる(石井,2019)。例えば,東北の東部に位置し,標高1600mを超える早池峰山や薬師岳と1400m以下の「種山ヶ原」を含む準平原の「北上高地」から成る「北上山系」は,この地形を鳥瞰して上空から見れば北端は青森県八戸市付近,南端は宮城県牡鹿半島にいたる「紡錘形」の形(南北240km余,東西の最大幅80km余)をしている。この「紡錘形」の山系は,北端側で大きく膨れているので見ようによっては巨大な魚(クジラ;第1図)のシルエットに見える。

第1図.クジラの形に見える北上山系

 

賢治は,地形を動物に準えることがある。賢治は,童話『サガレンの八月』で「チョウザメ(蝶鮫)」(チョウザメ科の硬骨魚類)を登場させているが,これは賢治研究家の浜垣(2018)によれば,賢治がサハリン(樺太,古くはサガレン)の地形と「チョウザメ」の形が類似していることを認識していたからだという。

 

また,「東北」では「クジラ」を神格化して「恵比寿」の化身として「エビス」と呼んでいたが,この「エビス」という名は大和朝廷側の「蝦夷」に対する呼び名でもあった。大和朝廷側は,「東北」のかつての「先住民」である「蝦夷」の呼称として「エミシ」を主に使ったが(北海道の「先住民」に対しては「蝦夷(エゾ)」),それ以外に「エビス」を使った時期もあった(高橋,2012)。

 

「巨きなまっ黒な家」の正体は形,色,大きさそして柔らかさからして「クジラの頭」をイメージしているように思える。なぜなら,その「屋根は稜(かど)が五角で大きな黒電気石の頭のやうだ。その黒いことは寒天だ」とガドルフに言わせているからである。黒電気石は,アルミニウムや砒素などを含む六方柱状の結晶体で面に電気が走ったような「皺」がある(原,1999)。マッコウクジラは四角い頭が特徴だが皮膚は「皺状」にうねっている。ゼラチンのようなぶよぶよした寒天は「テングサ」などの海産生物から作られる。「稜が五角の屋根」の「五角」が「五角形」なのか「稜」が5つある北海道の「五稜郭」のような星形「五角」なのかは分からないが,ここでは「五角形」として話しを進める。この「五角形」と関係するのは,天体にある「くじら座」である。「くじら座」の頭部にあたるところはα星(Menkar)とγ星を含む五つの星からなり,それぞれの星を結ぶと「五角形」になる。

 

ガドルフが嵐で避難した「クジラの頭」をイメージした「巨きなまっ黒な家」はどこにあるのであろうか。そのヒントは,ガドルフが向かう次の町が「十六哩先」(25.6km)だということと,街道の向こうに「水明かり」が見えたり,街道が大量の雨水で「コンクリート製の小川のやうに」なっていたりすることにある。ガドルフが次の町に旅する中継点を,かつて「蝦夷(エミシ)」が住んでいた東北がイメージされているとすれば,岩手県胆沢郡の水沢あたりが候補にあがる。ガドルフの背負っている背嚢には「小さな機械類」が入っているし,物語の語り手が「雲の濃淡」,「空の地形図」,「星座のめぐり」などの空や天体に関する話を詳細に述べているからである。水沢には,当時天体観測などの科学技術手法を使って正確な緯度を測定する緯度観測所があった。賢治自身も訪れたことがある。

 

旅の中継点である水沢を出発点として次の町を花巻とすると,ガドルフは嵐の日に水沢から花巻までの30kmほどを歩く予定でいたことになる。花巻まで16マイルとすれば,ガドルフが嵐で避難した「巨きなまっ黒な家」は水沢から4~5km北に位置する。歩いている街道が嵐で川のようになっているとあるので,この街道は北上川をイメージすることができる。さらにこの建物は街道の左側(西側)にあるとも記載されている。多分,ガドルフは,水沢から北上川に沿って北に4~5km歩いた左側(西側)の建物に避難したと思われる。この場所には,平安時代に東北の「先住民」である「蝦夷(エミシ)」(=「クジラ」)に対して征討の拠点とした城柵(胆沢城)の跡があった。「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」は,この胆沢城と何らかの関係があると思われる。(続く)

 

参考文献

浜垣誠司.2018.11.23.(調べた日付).宮澤賢治の詩の世界 オホーツク行という実験.http://www.ihatov.cc/blog/archives/2015/04/post_824.htm

畑山 博.1996.『宮沢賢治〈宇宙羊水〉への旅』.日本放送出版協会.東京.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2019.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-アワとジョバンニの故郷(前編・後編)-.人植関係学誌.18(2):53-69.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/14/150002 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/14/152434

大室英爾.1985.宮澤賢治ノート-「ガドルフの百合」について-.駒澤短大国文 15:36-51.

小埜裕二.1999.〈大宇宙の生命世界〉と〈心象世界〉-「ガドルフの百合」論-.上越教育大学研究紀要 19(1):17-27.

多田幸正.1980.賢治の初恋と「まことの恋」-『ガドルフの百合』を中心に-.日本文学 29(11):53-661.

多田幸正.1997.「ガドルフの百合」論-宮沢賢治の《内なる旅》-.児童文学研究 30:1-13.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』145号10-24頁2021年(12月3日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(上)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(上)をさらに第1稿と第2稿と第3稿の3つに分けているので変更した。また,ブログ掲載にあたり一部内容及び図を改変した。

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第6稿)-祭られなくなったが先住民の心の中には存在し続けている-

〈土神〉は,「人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭りにも供物一つ持って来ん」と嘆いている。なぜ土着の神である〈土神〉が祭られなくなったのだろうか。「祭り」が南部北上山地西縁の東和にある三熊野神社内の成島毘沙門堂(毘沙門天)や不動谷内権現を祀っていた丹内山神社に関するものなら,その理由は両寺院の創建の目的や歴史に隠されている。

 

9.成島毘沙門堂と谷内権現の創建目的と歴史

北上山地に点在する北成島のものを含む毘沙門堂と谷内権現は,歴史的には平安時代に,従来の国家的な仏教とは異なる新しい仏教が志向され,天台宗や真言宗が興り,「密教」が盛んになった頃に創建されたものである(西川,1999)。山林にこもって修行する僧たちによって神仏習合が広範囲に浸透し平安仏教の母体になっていった。特に,天台宗の始祖である最澄は桓武天皇から篤い庇護を受けていた。

 

神仏習合とは,神は仏教を守る護法神であるとする考え,または神は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたとする考え(本地垂迹説 ほんちすいじゃくせつ)を言う。

 

花巻市東和町北成島の三熊野神社には記紀神話の伊弉冉尊と一緒に熊野権現が祀られ,そして同敷地内の毘沙門堂には仏教を守護する兜跋毘沙門天(天台系)が祀られている。また東和町谷内の丹内山神社では土地の開拓の祖神・多邇知比古神(あるいは巨石)を垂迹神として本地仏・不動明王(谷内権現:真言系?)が祀られている。

 

北上地方の毘沙門天像の多くは,この地方一帯に勢力を誇った天台宗極楽寺の活動とされている。808年に北上(旧江刺郡)の国見山頂付近にある極楽寺(廃寺)には,毘沙門堂が田室麻呂によって建立され,百体の毘沙門天像と四天王像,さらには成島のものよりも大きな兜跋昆沙門天像が収められたという(西川,1999)。現在,これら仏像は一体も残されていない。しかし,極楽寺の北谷を守る一施設としての立花毘沙門堂は現在も残されている。

 

天台勢力が東北進出していったのは元慶年間(877~885)で この時期に合わせて昆沙門天像が造られていった。9世紀後半には極楽寺(廃寺)は国家公認の定額寺になり,天台勢力は10世紀前半までには東北の北端にまで及んだとされる(西川,1999;堀,2016)。ちなみに,最北端である一戸の西方寺毘沙門堂も天台系らしい。

 

極楽寺(廃寺)の毘沙門天の像造の目的は三十八年戦争(774年~811年)終末頃ということもあって,蝦夷対策の最前線基地であった胆沢城の北方を守護したり,怨霊を退散させたりという意味が含まれていたのかもしれない。しかし現在残されていて,また賢治の詩にも登場する昆沙門天像の多くは三十八年戦争が終了してから半世紀あるいは1世紀以上経過したのちに像造されたものと考えられるので,単に北方守護や「蝦夷」の怨霊退散のためとは考えにくい。三十八年戦争後,胆沢の北に位置する北上平野の「先住民」が大和朝廷軍と戦ったという痕跡は見当たらない。

 

西川(1999)は,「東北」に現存する昆沙門天像は北方の「蝦夷」対策だけでは説明できず,「極楽寺勢力が10世紀以降の布教活動や地域社会の形成を充実させるために,田室麻呂伝説に仮託した昆沙門天像の像造を選択したと」している。田室麻呂伝説とは,田室麻呂が昆沙門天の生まれ変わりであるとされたり,蝦夷を退散せしめるために昆沙門天が降臨し田室麻呂に力を貸したとされたりしているものである。すなわち,昆沙門天像は律令国家(桓武天皇)による軍事的征服に加えて田室麻呂伝説に基づく宗教的征服の企ての一環で像造されていたと考えている。また,米地ら(2013)は南部北上山地西縁に現存する毘沙門堂列は北方ではなく,東方の北上山地にいる閉伊などの蝦夷圏との結界を意味しているのだという。すなわち,東方に残存するまつろわぬ「蝦夷」に対する守りの意味合いが強いという。いずれにせよ,昆沙門天像の像造の主たる目的は北方あるいは東方の外敵である「蝦夷」からの守りと布教活動と思われる。

 

「蝦夷」に対する脅威がなくなり,天台宗・真言宗の密教仏教が衰退してからも,「東北」には曹洞宗,浄土真宗,日蓮宗などの新しい仏教が入ってきた。江戸時代に京都から移住してきた宮沢一族である賢治の父もまた浄土真宗を信仰している。さらに,明治,大正時代には西洋文化やキリスト教などの異国の宗教も入ってきた。「東北」の先住民たちは,これらの宗教や異文化に触れ,徐々にではあるが自分たちの土着の信仰や文化を忘れていったように思える。

 

10.〈土神〉が祭られなくなった理由

「東北」の蝦夷社会において,「先住民」の信仰(土着の信仰)や文化が南から伝わってきた宗教や文化によって変換されてしまったことを裏付ける証拠は見当たらない。しかし,「蝦夷」と同じ言語を使っているアイヌ民族に関して興味ある調査結果が出ている。昭和5年(1930)年頃の北海道の純粋なアイヌ人の宗教を調べた調査報告書によると,調査した戸数を3,417戸(人口15,266人)として,明治以前では「アイヌ」は殆どが「アイヌ」固有の信仰である自然信仰(調査では自然宗教と記載されている)であったが,明治政府の「同化政策」によって自然信仰の戸数は1,684戸に減り,既成宗教の仏教は1,189戸,神道は355戸そしてキリスト教は189戸になったという(北海道アイヌ協会,1972)。

 

ここで注目すべきことは北海道の「アイヌ」の半数が調査上では自然信仰から離れた生活をしているということである。すなわち,「アイヌ」は明治維新後の「同化政策」あるいは日本や西洋の宗教あるいは文化と接触後に,短期間で自らの信仰を捨ててしまっている。これは,「東北」の「蝦夷」のような「先住民」にも言えるのではないだろうか。アイヌ民族ほど急激ではないが,日本や西洋の宗教あるいは文化と接し,長い時間を掛けて徐々に自らの信仰や文化を捨てていったものと思われる。

 

寓話『土神ときつね』でも「東北」の先住民たちが西洋の文化に憧れている様子が間接的に描かれている。「一本木の野原」にいる「先住民」の女性が投影されていると思われる〈樺の木〉は,ぼろな服を着ている〈土神〉よりも南の方からハイネの詩集を持ち,大正ロマンを感じさせるハイカラな「仕立ておろしの紺の背広を着,赤革の靴」を履いている〈狐〉の方に心が引かれるのである。この場面で〈狐〉が身につけているのは賢治も持っていた。賢治は大正12年(1923)7月31日から8月12日まで樺太旅行をしている。この時のスタイルは,「パナマハットに白の麻の上下の背広,白と黒のチャックのネクタイ,それに赤革の靴に黒革の鞄」(下線は引用者,以下同じ)だったという(板谷,1992)。

 

11.土神は先住民の心の中には存在し続けている

しかし,「東北」の「先住民」の中には,賢治が生きていた頃でも自然信仰を大切に守っている人や無意識の中にこの信仰を残している人たちもいたと思われる。賢治はこの人たちを恐れている。

 

賢治は,花巻農学校で1924年8月10日と11日の2夜にわたり生徒らによる劇『種山ヶ原の夜』を上演,公開している。賢治は集まった聴衆に喜んでもらえることを期待したようだが,上演したことにはげしく後悔することになった。劇上演2か月後の詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕(1924.10.5)には,「夜の湿気と風がさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とある。この詩の「神々の名を録したこと」とは,劇の台本に楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申など沢山の土着の神々を記録したことだが,この詩の下書稿には「山地の〔神〕(?)を舞台の上に/うつしたために」と記載したこともあることから,神々の本来の坐す場所を移動させて農学校の舞台で生徒に演じさせたことも考えられる(浜垣,2006)。

 

賢治がはげしく後悔したのは,神々の名前を録し,場所を移動させたことで神々から怒りを買ったからである(あるいはそのように信じた)。また,土着の神々を滑稽に,あるいは笑いの対象としたことも関係があると思われる。実際に,学校劇で雷神を演じた生徒が翌日に他の生徒のスパイクで負傷したとある。もしかしたら,〈土神〉でもある「権現さん」を笑いものにした楢樹霊や樺樹霊を演じた生徒らも何かしらの災難を被っていたのかもしれない。賢治はこの事故を偶然の出来事とは思っていない。なぜなら,この事故あるいは劇を上演したことの後悔には浜垣(2014)も指摘しているように伏線がある。

 

賢治は詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕を書いたと思われる日に地元の会合に招かれて農事講話をしたとされていて,そのときの様子を詩集『春と修羅 第二集』の「三一三 産業組合青年会」(1924.10.5)という詩に記載している。この詩には「祀られざるも神には神の身土があると/あざけるやうなうつろな声で/さう云ったのはいったい誰だ・・・祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬと/応へたものはいったい何だ・・・山地の肩をひととこ砕いて/石灰岩末の幾千車かを/酸えた野原にそゝいだり/ゴムから靴を鋳たりもしやう……くろく沈んだ並木のはてで/見えるともない遠くの町が/ぼんやり赤い火照りをあげる……しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半/祀られざるも神には神の身土があると/老いて呟くそれは誰だ」とある。

 

賢治は,この会合で「山地の稜をひととこ砕き」,「石灰岩末の幾千車か」を得て酸性土壌を改良するという話をしたようだが,聴衆の中の老いた権威者(組合のリーダー格)から調子に乗るなと言わんばかりに「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまうのである。賢治は,神の中にも「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」神もあると言って反論するが,それ以上の反駁はできなかった。

 

「祀られざるも神には神の身土がある」の意味は,「祠」で祀られていないなど,祭司されていない山や土や樹木にも,神としての身体と坐(いま)す場所があるということであろう。農事講話を聞いていた聴衆には学校劇を見たと思われる者もいたと思われる。賢治の農業を発展させるための大規模な自然開発に関する講和や土地に坐す神々を舞台に移し笑いの対象にすることは,農民の古くからの慣習を損なうだけでなく「神の領域への侵犯」であり,「先住民」あるいは「先住民」の信仰する土着の神を冒涜するものと同じだったのかもしれない。また,その土着の神が卑賤の神であったとしても同じである。アイヌ民族も神が座す場所では,たとえその神が卑賤の神(魔神)であろうと,神の悪口などは言わないし,悪戯などもしないという。また,獲物も必要な数しか取らない。悪口を言ったり,必要な数以上を取ったりしたら神から罰せられると信じているからだという。

 

この老いて呟く者は,この土地のリーダー的な存在と思われるが〈土神〉の化身とも思える。現存草稿には,赤いインクで〈土神〉を「退職教授」,〈きつね〉を「貧なる青年」,〈樺の木〉を「村娘」とする書き込みがある。賢治にとってたちの悪い〈土神〉は人々に祭られなくなった存在に見えたが,賢治が生きた時代にも先住民たちの心の中には存在していた。「貧なる青年」の〈狐〉には賢治が,そして「村娘」の〈樺の木〉には賢治の恋人が投影されている。この寓話は,よそ者で不正直な〈狐〉がその土地の美しい〈樺の木〉に求愛する物語だが,〈樺の木〉を大切に思う〈土神〉によって〈狐〉が手荒い仕打ちを受けるということで終わる。

 

まとめ

1)寓話『土神ときつね』の〈土神〉は,「東北」の「一本木の野原」という土地を守護する神(地主神や産土の神)と思われる。ただ,単なる土地の神ではなく怨霊が取り憑いてタチの悪い神でもある。

2)〈土神〉は人間には見えないが〈狐〉や〈樺の木〉には見えていて,これら生き物と話すこともできる。また,接触もしていないのに人間をぐるぐる廻して飛ばしてしまう超能力も持っている。

3)主要な舞台は岩手山東側にある「一本木野」あたりである。しかし,この神の坐(いま」す「祠」は「一本木野」の南東にある花巻市東和町あたりと思われる。この場所は北上山地と北上平野の境(結界)にあたる。

4)「祠」の近くには「苔」,「からくさ」(シロツメクサ)などの植物が生えている。賢治にとってこれら植物は「靴で踏まれる」というイメージを持っているものである。この物語は「靴で踏まれる」というのが隠された重要なキーワードになっている。

5)〈土神〉のモデルは,北上山地(東和町)の丹内山神社内にある土着民が祀る「谷内権現」と北上平野の土着民(あるいは開拓民)が祀る毘沙門堂列の毘沙門天に沓で踏まれる「天邪鬼」の2つの神を合体したものであろう。「谷内権現」とは,この神社に祀られている土地の守護神・多邇知比古神(神体は巨石)を仮(権)の姿(垂迹神)とした本地仏・不動明王のことである。不動明王は大日如来の化身なので〈土神〉は太陽と関係する。〈土神〉は太陽が昇ると「祠」から出てくる。

6)丹内権現と毘沙門堂列は北上山地西縁で東と西に対峙するように並んでいる。また,インド神話に登場するクベーラ(仏教にとりこまれると毘沙門天)の眷属である「鬼神」である「薬叉」とも関係する。

7)賢治は,実際に〈土神〉と思われる「鬼神」の幻影(幻視,幻聴)を,北上山地では閉伊街道をトラックに乗っていたとき,わいわい言いながらトラックを揺すって谷底に落とそうとする「子鬼」の姿として,また北上平野では豊沢川近くのアイヌ塚で自分を威嚇する声と一緒に沼から覗く「アイヌ」の姿として見ている。また,幻影ではなく北上山地の神楽堂で舞われる権現舞で使われる獅子頭(権現様)の姿として見ている。

8)〈土神〉が住む沼地の「赤い鉄の渋」は沼鉄鉱のことで,土器などを赤く彩色するための顔料として使われたものと思われる。〈土神〉は赤い土器を作る民族の神であることが示唆されている。

9)北上山地には「蝦夷」と呼ばれ最後まで大和朝廷とそれに続く中央政権に抵抗し続けた先住民の末裔が多く,また北上平野には朝廷軍と勇猛に戦ったが服属した「蝦夷(俘囚)」や南からの開拓民(移住者)の末裔が多く住んでいたと思われる。北上平野の豊沢川近くのアイヌ塚(8世紀頃の蝦夷の墓のこと)からは赤い土器が多数出土している。

10)〈土神〉の祭は5月9日である。この日付は,賢治の創作で,5月に行われる毘沙門堂の祭りの「5」と9月に行われる丹内権現の祭りの「9」を用いている。

11)〈土神〉は北上山地の祖神を祭る丹内権現と毘沙門天に沓で踏まれる天邪鬼を合体したものなので,その土地で生まれた〈樺の木〉を大切にしたり,ミミズにもしものことがあれば身代わりになろうとしたりする優しい心を示す反面,猜疑心が強くあまのじゃくで南からきた〈狐〉や木樵などのよそ者(開拓民,移住者)には危害を加える凶暴さを併せ持つ。

12)〈土神〉が凶暴さを示すのは,大和朝廷とそれに続く歴代の中央政権との戦い(8世紀後半~9世紀初頭の三十八年戦争,奥州合戦など)に敗れた「東北」の先住民の怨霊が十分に鎮魂されずに放置されたため鬼神になってしまったからである。すなわち,「東北」の大地は大和朝廷とそれに続く歴代の中央政権によって長い間踏みにじられてきたのである。

13)〈土神〉は,賢治が生きていた時代には忘れられ祭られなくなってきたが,東北の「先住民」の深層意識の中で,よそ者に対する疑いと反感という形で存在し続けた。

14)この寓話は,南から来たよそ者で西洋の思考スタイルを自慢する〈狐〉が「一本木の野原」に生まれた美しい〈樺の木〉に求愛する物語であるが,〈樺の木〉を大切に思う〈土神〉が〈狐〉の履いていた赤靴が光ったのをきっかけに過去の踏みにじられた忌々しい記憶がよみがえり〈狐〉を殺してしまうということで終わる。〈狐〉には京都からの移住者の末裔である賢治が,〈樺の木〉には賢治の先住民の末裔である恋人が投影されている。

15)〈土神〉が最後に〈狐〉の「かくし」(ポケット)の中にあった「カモガヤ」を見て涙するのは,〈狐〉の赤靴と過去の忌々しい記憶を結びつけたことが「誤解」によるものであることに気づいたからである。「カモガヤ」の名の由来は英名の cock's-foot grass を訳すときに cock(ニワトリ)を duck(カモ)と「誤解」したからと言われている。賢治はこの物語で恋の破局が「誤解」によるものであることを訴えている。

 

参考文献

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寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第5稿)-東北の祭りとの関係-

本稿では〈土神〉と「東北」の祭りとの関係について述べる。物語で〈土神〉の「祠」がある場所の祭りは,〈土神〉が「今日は五月三日,あと六日だ」と言っているので5月9日である。この物語は岩手山東側の「一本木野」が主な舞台なので,この周辺の神社などで5月9日あたりに祭りをしている場所が候補に挙がる。賢治研究家の高橋(2011)が滝沢村内の20社くらいの神社を調べていた。しかし,この日あるいはその近くで祭りをしている神社は見当たらなかったという。第1稿でも述べたが,この物語の舞台は「一本木野」以外にも複数あって,賢治は複数の場所を混在させている。私は,5月9日の祭りの候補として文語詩未定稿の「祭日〔二〕」に出てくる「毘沙門まつり」と「祭日〔一〕」に出てくる「谷権現まつり」という花巻市東和町で過去に行われた2つの祭りを取り上げて,〈土神〉との関係を調べてみたい。

 

8.〈土神〉は東北・岩手の祭りと関係する

1)昆沙門まつり

「祭日〔二〕」が書かれた正確な日付は分からないが,先行作品の口語詩「一三九 夏」には制作日付と思われる「1924.5.23」という数字が付いている。多分,「祭日〔二〕」はこの日付の頃の心象スケッチをもとに創作されたものと思われる。この日付は,また詩集『春と修羅 第二集』の〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の制作日と思われる日付の5日後にあたる。花巻市東和町北成島の三熊野神社境内にある成島毘沙門堂では現在5月上旬の3日間に「毘沙門まつり」が開催されている。賢治の詩に登場する「昆沙門まつり」が5月のものであるとは言い切れないが,詩に登場する桐の花は東北では5月に咲くし,少なくとも昆沙門まつりと関係する詩は5月の日付で書かれている。ちなみに,令和4年の「昆沙門まつり」は5月3日~5日である。〈土神〉の祭りがこの成島毘沙門堂で5月に行われる「昆沙門まつり」と関係がありそうである。

 

さらに,興味深い事実がある。詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕は〈土神〉が登場する物語と密接に関係しているということはすでに述べたが,この詩の制作日と思われる「1924.5.18」は賢治が北海道へ修学旅行で生徒を引率していった日であり,5日後の「一三九 夏」を創作したと思われる「1924.5.23」は花巻に帰って来た日である。修学旅行で,賢治は「アイヌ」の白老集落や「アイヌ」に関する標本が展示されている博物館を見学している。つまり,詩の日付が正しいとすれば,5月18日に〈土神〉と関係のある花巻のアイヌ(蝦夷)塚を訪れ詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕を創作し,その日に北海道へ旅発ち,そこで「アイヌ」の白老集落を見学し,5月23日に花巻に戻りその日のうちに東和町北成島にある成島毘沙門堂を訪れて詩「一三九 夏」を創作したということになる。かなりのハードスケジュールなので,成島毘沙門堂には行かずに過去の記憶に基づいて創作したとしても,賢治の頭の中では〈土神〉とアイヌ(蝦夷)塚の「鬼神(薬叉)」と「毘沙門堂」は密接に繋がっていると思われる。「一三九 夏」を先行作品とする「祭日〔二〕」の詩は以下の通り。

 

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて

峡に瘧(おこり)のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて

草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり

毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼

四方につゝどり鳴きどよむなり

           (宮沢,1986)

  注:賢治は「幡」を「のぼり」ではなく「はた」とルビをつけている

 

「祭日〔二〕」には「毘沙門像」に踏まれる「天邪鬼」が登場するが,この「昆沙門像」は成島毘沙門堂に祀られている「兜跋(とばつ)毘沙門天」(高さ359cm)と言われていた(原,1999)。像造は10世紀前半ごろまで(西川,1999),あるいは10世紀後半以降(米地ら,2013)とされる。樺材の一本造りである。しかし,成島の「昆沙門天」は「天邪鬼」ではなく「地天女」に逆に両手で支えられているので,「祭日〔二〕」に登場する昆沙門像を成島のものであるとすることはできないようにも思える(第1図A)。確かに,現在はコンクリート造りの収納庫に安置されているが,古い堂に窮屈そうに収められていた当時,この地天女の像はわずかに顔を覗かせるだけでほとんど床板の下に隠れていて全部を伺うことができなかった(永井,1980)。賢治も見間違えた可能性はある。一方,新しい説もある。「祭日〔二〕」にある「昆沙門天」は北上川南部地域に点在する複数の堂宇の昆沙門天像から合成したものではないかとするものである(米地ら,2013)。

 

実際に北上の立花毘沙門堂の昆沙門天像(像高102cm,第1図B)や江刺の岩谷堂近くの小名丸毘沙門堂の毘沙門天は邪鬼を踏んでいる。多分,賢治がイメージしている「毘沙門天」は,米地らが推論するように複数の堂宇の昆沙門天像を合成したもので,立花毘沙門堂のように「天邪鬼」を踏んでいるのである。〈土神〉は高さ1間(182cm)の「祠」の中に祀られているので,その「祠」の中には北上の「天邪鬼」を踏む昆沙門天像も入ることができる。

第1図.Aは成島の兜跋昆沙門天像と地天女像,Bは立花の昆沙門天像と天邪鬼像.

(中尊寺とみちのくの古寺.集英社.1980)

 

「天邪鬼」は,仏教では人間の煩悩を表す象徴として,四天王や執金剛神に踏まれている悪鬼である。高橋(2005)によれば悪鬼・邪鬼を踏む毘沙門天像には,これら悪鬼になぞえられる「外敵」や「病気」を退散せしめる意味がこめられているのだという。

 

高橋の言う「外敵」とは,北上においては律令国家にまつろわぬ「蝦夷」であろう。なぜなら,「天邪鬼」は日本神話に登場する「天探女(あまのさぐめ」をルーツにしているからである。「天探女」は「天」と付くので「天津神」のようだが,「神」とか「命(みこと)」の名も付かず,『日本書紀』には「時に国神有り。天探女と号(なづ)く」とあり「国神」とも記述されている。国神とは「国津神」のことで「蝦夷」や「隼人」といった「先住民」が信仰している神のことである。もしかしたら,〈土神〉は「蝦夷」の「鬼神」であり,「祭日〔二〕」に登場する「天邪鬼」の姿として祀られているのかもしれない。

 

「病気」とは,この詩では冒頭にある「瘧(おこり)」のことである。この病気は間欠的に発熱し,悪寒 (おかん) や震えを発する病で,主にマラリアの一種,三日熱をさしたと言われている。特に幼児が罹りやすく「わらわやみ」とも呼ぶ。

 

口語詩「夏」と同じ番号と日付の「一三九 峡流の夏」(1924.5.23)には「この峡流の母たちは/めいめい赤い幡をたづさへ/きみかげさうの空谷や/だゞれたやうに鳥のなく/いくつものゆるい峠を越え/お堂にやってまゐります/毘沙門像のおすねには/だいじな味噌をなんども塗り/黄金の眼だまをきょとんとして/ふみつけられた天の邪鬼は/頭をいくどか叩きつけて(ここまでで中断)」とある。この詩では,「だゞれたやうに鳥のなく」とあるように子供が皮膚病にでも罹っているのだろう。また,踏みつけられた「天邪鬼」が激しく抵抗している様子も描かれている。詩「祭日〔二〕」で,昆沙門像に味噌たてまつるのは「瘧」という病を退散させるためだが,詩「夏」でも北上山地の先住民と思われる「渓流の母たち」が昆沙門像の脛に味噌を塗って,子供の皮膚病退散を願っているようである。昆沙門天像の脛に味噌を塗る風習は,「毘沙門天」が三十八年戦争で征夷大将軍であった坂上田村麻呂の危機に泥の中から現れて足下の泥土に塗れさせながら窮地を救ったという伝説に基づくとされている(西川,1999)。多分,「渓流の母たち」は朝廷に激しく抵抗した「蝦夷」を鎮めた坂上田村麻呂の絶大な力にあやかったのかもしれない。

 

「天邪鬼」は,仏教や民話での「悪鬼」以外に,わざと人に逆らう言動をする者や,「天探女」のように人の心を「探る」のに長じるひねくれ者のことを言う場合がある。〈土神〉もかなりひねくれている。〈土神〉がひねくれていることは第2稿でも述べた。

 

「わしはね,どうも考へて見るとわからんことが沢山ある,なかなかわからんことが多いもんだね。」

「まあ,どんなことでございますの。」

「たとへばだね,草といふものは黒い土から出るのだがなぜかう青いもんだらう。黄や白の花さへ咲くんだ。どうもわからんねえ。」

「それは草の種子が青や白をもってゐるためではないでございませうか。」

「さうだ。まあさう云へばさうだがそれでもやっぱりわからんな。たとへば秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ,それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある,わからんねえ。」

  (中略)

「ずゐぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない,どうもさうらしい

                            (宮沢賢治,1986)

 

〈土神〉は〈樺の木〉に「草が黒い土から出てくるのに青や黄や白の花が咲くのは理解できない」と尋ねると,〈樺の木〉は「それは種がそのような色を持っているから」と答える。〈樺の木〉の答えは,「種がそのような色になる遺伝子を持っているから」という現代人の多くが答えそうな内容であり,現在でも通用する回答である。しかし,〈土神〉は納得しないで「秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ,それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある,わからんねえ。」と質問してしまう。〈土神〉の2回目の質問は,草の種子をキノコの胞子に変えただけで同じである。すなわち,あまのじゃくであり,ひねくれ者である。

 

このように,〈土神〉は反抗的でひねくれ者である「天邪鬼」の可能性が高い。〈土神〉の「祠」の近くの「楊」も第2稿で述べたようにねじれていた(石井,2022)。そして,北上山地の先住民たちが「昆沙門まつり」の日に,この反抗的でひねくれた「天邪鬼」を踏む昆沙門天像に病気退散を願っていたように思える。しかし,まだすっきりしないところがある。毘沙門堂の昆沙門天像の主役は「昆沙門天」であって「天邪鬼」ではない。また,〈土神〉の祭は5月9日なのに成島の昆沙門まつりは5月上旬で必ずしも9日ではない。そこでもう1つの祭である「谷権現のまつり」について考えたい。

 

2)谷権現まつり

文語詩の「祭日〔一〕」は昭和7年(1932)に「女性岩手」という雑誌に掲載されたものである。内容は以下の通り。

 

谷権現の祭りとて,麓に白き幟たち

むらがり続く丘丘に,鼓の音(ね)の数のしどろなる,

頴花(はな)青じろき稲むしろ,水路のへりにたゞずみて,

朝の曇りのこんにやくを,さくさくさくと切りにけり。

                (宮沢賢治,1986)

 

「祭日〔一〕」に登場する谷権現は花巻市東和町谷内の丹内山神社の谷内権現のことで(原,1999),この神社に祀られている多邇知比古神(たにちひこのかみ)を仮(権)の姿(垂迹神)とした本地仏・不動明王のことである。社伝によれば,多邇知比古神は地元住民が祀っていた土着の神で,谷内地方を開拓した祖神である。平安時代に神仏習合思想(本地垂迹説)と共に仏教が入ると土着の神は権現として祀られるようになった。ちなみに,多邇知比古神の「多邇知(たにち)」が「谷地」で「比古神(ひこのかみ)」が「彦神」なら,多邇知比古神という名の神は「谷地(やち)の神」ということになる。また,丹内山神社の現在の例大祭は9月第1土曜日と日曜日である。賢治が詩の中で記した丹内山神社の「権現まつり」が9月に行われていたものかどうかは定かではない。しかし,賢治がメモをした文語詩篇ノートの「1910」の頁に「九月 祭 first em.」と記載されていて,これが1910年に開催された丹内山神社の谷権現の祭りだとする研究者もいる。ちなみに.1910年の谷権現の祭りは9月4日と5日とある(時信,2022)

 

この土着の神でもある権現は,大正13年(1924)の8月に農学校で上演された賢治の劇『種山ヶ原の夜』にも登場する。この劇には,楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申などたくさんの神々が登場してくる。このうちで楢樹霊と樺樹霊が権現(権現さん)について語る場面がある。楢樹霊が「だあれあ,誰(だ)っても折角きてで,勝手次第なごとばかり祈ってぐんだもな。権現さんも踊るどこだないがべじゃ。」と言うと,樺樹霊が「権現さん悦(よろこ)ぶづどほんとに面白いな。口あんぎあんぎど開いて,風だの木っ葉だのぐるぐるど廻してはね歩ぐもな。」と答える。

 

樺樹霊が語る権現が喜んで,風だの木の葉だのをぐるぐる廻す様子は,〈土神〉が喜んで木樵をぐるぐる廻す様子と似ている。寓話『土神ときつね』では「土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱(ほて)らせ・・・木樵は・・・谷地の中に踏み込んで来るやう・・・顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまはしました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまはって歩いてゐましたがいよいよひどく周章(あわ)てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまはり出しました」とある。

 

劇の「権現さん」は丹内山神社などに伝わる神楽(かぐら)の権現舞で使われる獅子頭のことだと思われる。有名な権現舞は早池峰神社のもので,獅子は早池峰神社に祀られている神の化身とされる。早池峰神社の神は,記紀神話には登場しない「瀬織津姫(せおりつひめ)」で〈土神〉と同じ土着の神と思われる。賢治も丹内山神社か早池峰神社などの祭で権現舞を見た可能性はある。すなわち,〈土神〉は丹内山神社の谷権現とも関係がある。

 

また,谷内権現は丹内山神社では不動明王として祀られている。不動明王は大日如来の化身とされるので,〈土神〉は大日如来とも関係する。大日如来は太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏とされる。ちなみに,〈土神〉は「朝日をいっぱいに浴びて」登場し,〈樺の木〉と話をするとき「天道というふものはありがたいもんだ」と太陽を話題にする。

 

このように,〈土神〉は「蝦夷」に関係する昆沙門天像に踏まれる「天邪鬼」と「谷権現」の2つの神を合体させたものと考えられる。

 

これは余談だが,詩「祭日〔二〕」にある詩句「ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて」の「赤き幡」と詩「祭日〔一〕にある詩句「谷権現の祭りとて,麓に白き幟たち」の「白い幡」についても考察してみる。ちなみに,詩句にある「ナビクナビアリナリ」は法華経・陀羅尼品第二十六にある「毘沙門天」の呪文をもじったものである。「赤旗」と「白旗」は,平安時代後期に台頭してきた源氏と平氏という2つの武士集団が戦った源平合戦(治承・寿永の乱)と関係があると思われる。「赤旗」は西を支配する平家の旗印で「白旗」は東を支配する源氏の旗印であった。この戦いで平家は滅びる(1185年)。南部北上山地西縁の「毘沙門像」の多くは,源氏と平氏が戦っていた平安時代後期のものでもある。「東北」では,平氏討伐後に源頼朝は「東北」の奥州藤原氏と戦い,1989年に滅ぼす。1192年に頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられている。

 

多くの毘沙門堂と谷内権現(あるいは丹内神社)は北上山地西縁に東と西に対峙するように並んでいる。北上山地西縁は北上山地と北上平野の境でもある。三十八年戦争が終息したのは弘仁2年(811)であるが,この年陸奥出羽按察使文室綿麻呂らの軍隊が爾薩体(にさつたい)村と閉伊村を討伐している。この討伐の目的は北上平野の安定化のためである(鈴木,2016)。爾薩体村は岩手県北上山地北端の二戸あたりの「蝦夷」の村で,閉伊村は岩手県東部の北上山地から三陸海岸にかけての上閉伊や下閉伊あたりの「蝦夷」の村である。すなわち,この地の蝦夷たちは朝廷に最後まで抵抗した。米地ら(2013)も,花巻,北上,江刺など南部北上山地西縁にある毘沙門堂は北方ではなく東方の閉伊(へい)地方のまだまつろわぬ「蝦夷」に対峙するもので,一種の結界であったと考えられている。延久2年(1070)にも,陸奥守源頼俊が出羽の清原氏(朝廷に服属した蝦夷の長)と共に兵を率い,いまだ朝廷に従わない閉伊七村山徒の「蝦夷」と戦っている(合戦の詳細は不明)。

 

第2図に示すように,北上山地西縁の西側には北から,昆沙門天像を安置するお堂が西方寺毘沙門堂(1),正音寺(3),成島毘沙門堂(4),立花毘沙門堂(5),小名丸毘沙門堂(6),藤里毘沙門堂(7),正法寺(8),最明寺(9)と並んでいる。また,北上山地西縁の東側には丹内を冠する神社として花巻の谷内権現と,そこから東に遠野の丹内神社,釜石の丹内神社とが毘沙門堂列と垂直になるように並んでいる。ただし,遠野と釜石の丹内神社が花巻の丹内山神社のように地祇を祀っていたかどうかは定かではない。

第2図.南部北上山地西縁の毘沙門堂列に対峙する谷内権現

 

北上山地には「蝦夷」と呼ばれ最後まで大和朝廷とそれに続く中央政権に抵抗し続けた先住民の末裔が多く,また北上平野には律令国家と勇猛に戦ったが服属した「蝦夷(俘囚)」や南からの開拓民(移住者)の末裔が多く住んでいたと思われる。そこで,賢治は北上山地西縁の西側に位置する毘沙門堂の祭りに訪れる参拝者には「赤旗」を持たせ,東に位置する谷内権現には「白旗」を立てたと思われる。南部北上山地西縁(結界)の西と東は朝廷側の支配領域と蝦夷側の支配領域を意味していると思われる。谷内権現は「蝦夷」の血をひくとされる奥州藤原氏に篤く庇護されていた。奥州藤原氏の初代当主清衡は平泉に移る前には江刺の「岩谷堂」あたりに拠点を持っていた。多分,谷内権現のある丹内山神社あるいはその東にある丹内神社は早池峰山南の東和,遠野から江刺あたりの住民たちの信仰の対象になっていたのかもしれない(第2図)。岩手県出身の高橋克彦の時代小説『火怨』では阿弖流為と母禮が坂上田村麻呂と戦う前に「巨石」のある谷内権現(丹内山神社)を訪れている。 

 

文語詩の「祭日〔一〕」で「朝の曇りのこんにやくを,さくさくさくと切りにけり」とある。この詩句に出てくる「こんにゃく」は,サトイモ科の多年草植物である「コンニャク」(Amorphophallus konjac K.Koch)の地下茎であるコンニャクイモ(蒟蒻芋)から作られた加工食品のことと思われる。植物の「コンニャク」は,諸説はあるが,我が国に固有のものではなく,例えば飛鳥時代に仏教と共に朝鮮半島を経由して伝来してきたものであるという。元々は薬として伝来され平安時代には貴族などの高級な食べ物とされていたものが,江戸時代に簡便な加工法が確立し,庶民でも食べられるようになったものである(Wikipediaなど)。

 

賢治の文語詩未定稿にも「こんにやくの/す枯れの茎をとらんとて/水こぼこぼと鳴る/ひぐれまぢかの笹はらを/兄弟二人わけ行きにけり」とあるので,当時岩手でも食用として栽培していた可能性がある。ただ,栽培は北上山地側である。コンニャクイモは山地斜面の林内の光環境を好むので山間で栽培されてきた。「コンニャク」の栽培の北限は岩手県下閉伊郡新里村付近(早池峰山東の閉伊街道沿い)と言われている(山崎,2022)。このコンニャク栽培が行われている場所は,賢治が農学校の教師時代に「小鬼」に崖から落とされそうになった場所でもある。 

 

「こんにゃく」(蒟蒻あるいは蒻頭)が我が国の文献に登場するのは10世紀ごろからである。『本草和名』(918年頃成),『和名抄』(922~931年頃成),『医心方』(986年成),『本朝食鑑』(17世紀末刊),『大和本草』(1709年刊)などである(小松,2022)。薬あるいは食品として紹介されている。10世紀は東北に「昆沙門天」が作られていった時代でもある。

 

詩句にある食品としての「こんにやく」は,丹内山神社近隣の農婦が出店で売るために準備しているものとされている(時信,2022)。しかし,9月上旬なのに「頴花青じろき稲むしろ」とか「朝の曇り」とかは不作を予兆しているみたいで不気味である。貧しい農民が祭りとはいえわざわざ買って食べる余裕などあるのだろうか。この詩には何か別の意味が隠されているようにも思える。例えば,「さくさくさくと切りにけり」には征夷大将軍の坂上田村麻呂や源頼朝の軍勢を「東北」の先住民たちが小気味よく「さくさく切り倒す」という意味が含まれているのかもしれない。丹内山神社の谷内権現は元々地元の土地の守護神を祀っていたものである。ちなみに,坂上田村麻呂は「コンニャク」と同様に,大陸から渡来してきたもので,渡来人である阿知使主(あちのおみ)の子孫である。「先住民」が「こんにゃく」に侵略者の田室麻呂を重ねても不思議ではない。東北の「先住民」の中には律令国家との戦いで北上山地の奥へ追いやられた者も少なくないと思われる。

 

また,文語詩「祭日〔一〕」の下書稿(一)の初期形態には「谷権現の祭り日を/そら青々と晴れたれば/煮物をなして販りなんと/青き稲田をせなに負ひ/水路のへりにかゞまりて/ひとひら鈍き灰いろの/こんにやくをさくと切りにけり  モッペをうがち児を負ひて/青きパラソルかざしつゝ/祭りに急ぐ農婦あり/はじめに店をうちのぞき/歪める梨と菓子とを見/次に切らるゝこんにやくを/やゝながしめにうちまもり/その故なにかわからねども/うらむがごときまなこして去る」とある。

 

この詩は,前半が「こんにやく」を売る側で,後半が買う側の内容になっている。買う側は「青きパラソルをかざしつゝ」とあるので北上山地というよりは北上平野側のある程度裕福な農婦と思われる。この農婦は「切らるゝこんにやくを・・・その故なにかわからねども/うらむがごときまなこして去る」とある。売り手側は気持ちよく切っているのに,買い手側は「うらむがごときまなこして」その場を去ってしまう。研究者によっては,「うらむ」を「羨ましい」と解釈しているが,私は「うらむ」は「恨む」と思っている。なぜ「うらむ(恨む)」かの理由は賢治にもわからないとしているが,この農婦は「こんにやく」が切られることで「恨む」までに不快になっている。この場合,買い手が朝廷側に関係する開拓民の末裔で,売り手が朝廷との戦いで敗れ北上山地に追いやられた先住民の末裔とすれば納得できるものがある。後半部分は定稿である「祭日〔一〕」ではカットされている。 

 

〈土神〉は南部北上山地西縁にある祖神を祀る「丹内権現」と毘沙門天に踏まれる「天邪鬼」を合体したものであろう。また,5月9日に行われる〈土神〉の祭は,賢治が5月の「昆沙門まつり」と9月の「谷権現まつり」を合成して創作したものと思われる。

 

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