宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第2稿)-土神の棲む祠の近くにある植物との関係-

賢治作品で難解な用語あるいは正体が不明なものが在る場合,近くに配置されている植物がなぜ登場してくるのか調べることによって明らかになる場合が少なくない(石井,2020)。〈土神〉の棲む「祠」近くには沢山の植物がある。苔,からくさ,短い蘆,あざみ,背の低いねぢれた楊である。本稿はこれら植物から〈土神〉がどんな神であるのかを探る。〈土神〉の棲む「祠」は以下のような場所にある。

 

土神の棲(す)んでゐる所は小さな競馬場ぐらゐある,冷たい湿地で苔(こけ)やからくさやみじかい蘆(あし)などが生えてゐましたが又所々にはあざみやせいの低いひどくねぢれた楊(やなぎ)などもありました

 水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧(わ)きあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした。

 そのまん中の小さな島のやうになった所に丸太で拵(こしら)へた高さ一間ばかりの土神の祠(ほこら)があったのです。

                   (宮沢,1986)下線は引用者 以下同じ

 

1)苔

「苔」は植物学的に蘚苔類と地衣類の総称である。スギゴケやゼニゴケなどがある。賢治は寓話『土神ときつね』を執筆していた頃,この「苔」をどのようにイメージしていたのであろうか。詩「一本木野」と同じ日付の詩「鎔岩流」(1923.10.28)に,それをイメージしたと思えものがある。この詩には「喪神のしろいかがみが/薬師火口のいただきにかかり・・・けれどもここは空気も深い淵になつてゐて/ごく強力な鬼神たちの棲みかだ/一ぴきの鳥さへも見えない・・・どれくらゐの風化(ふうくわ)が行はれ/どんな植物が生えたかを/見やうとして私(わたし)の来たのに対し/それは恐ろしい二種の苔で答へた/その白つぽい厚いすぎごけの/表面がかさかさに乾いてゐるので/わたくしはまた麺麭(めんぽう)ともかんがへ/ちやうどひるの食事をもたないとこから/ひじやうな饗応(きやうおう)ともかんずるのだが・・・とにかくわたくしは荷物をおろし/灰いろの苔に靴やからだを埋め/ 一つの赤い苹果(りんご)をたべる」(宮沢,1986)とある。この詩は岩手山の最高峰の山(薬師外輪山)の溶岩流を題材にしている。賢治は,岩手山火口は鬼神たちの棲みかであり,「苔」は麺麭すなわちパンなどの食べものや靴で「踏まれる」ものというイメージで書いていると思われる。

 

岩手山には坂上田村麻呂に討伐された「蝦夷(エミシ)」の大武丸(大猛丸)に関する伝説が残されている。大武丸は「姥屋敷南方の「長者館」を根拠として,紫波・稗貫・下閉伊地方に十一人の親分を配置し,その親分にそれぞれ子分を付属させ,付近の良民から略奪をこととしていた。身長は大きく,顔は醜く,機敏で七,八人力を持ち,山木(削らぬ木)の強い弓を引き,戦術頗る巧みで,大酒を好み,常に婦女子を側に侍らせていた」と『滝沢村誌』の「第二編・第二章 滝沢村と田村麻呂」(福田,2011)に記載されている。詩「鎔岩流」の「鬼神たち」とは坂上田村麻呂に討伐された「蝦夷」のことを指しているのであろう。「蝦夷」の族長である大武丸の容貌と性格は〈土神〉に似ているところがある。

 

寓話『土神ときつね』でも〈土神〉が,素足だと思うが「踏む」という表現が何カ所かで出てくる。例えば,〈土神〉が「草をどしどし踏み」とか,「いきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました」とかである。特に,後者では「狐の赤革の靴のキラッと草に光る」のも見たあとに〈狐〉を殺めて踏みつけている。〈土神〉は「靴(あるいは沓)」で踏むかと踏まれるとかということに拘りを持っているように思える。行間からしか読み取れないが〈土神〉には過去に「一本木の野原」(イーハトヴ)の台地を「沓」(革製)を履いた土足で踏まれた苦い経験があったのかもしれない。例えば,岩手県南部の胆沢地区の田畑が三十八年戦争(774年~811年)で律令国家の「沓」を履いた軍隊に侵略され踏みつけられている。延暦8年(789)に朝廷軍は巣伏村の戦いで蝦夷の武装勢力に大敗するが,征討将軍紀古佐美は軍を引き上げるにあたって「蝦夷は水田・陸田を耕作できなかったので,放置しても滅びるであろうことから軍を解散する」という申し出を天皇に送っている(鈴木,2016)。これは,農地が戦場になったことを意味する。賢治の三十八年戦争を題材にした童話『烏の北斗七星』でも朝廷軍を譬喩した烏の義勇艦隊は田圃に陣を置いている(石井,2021)。

 

神が靴で踏まれるというのは考えにくいことかもしれないが,東北の北上山地西縁の毘沙門堂に安置されている昆沙門天像にも当てはめられる。この昆沙門天像は坂上田室麻呂の化身である「毘沙門天」が「蝦夷」の鬼神である「天邪鬼」を踏みつけている。軍神でもある毘沙門天像は鎧と兜に「沓」を履いている。〈土神〉と「毘沙門天」に踏まれる「天邪鬼」との関係に関しては第5稿の「東北の祭りとの関係」で詳細に述べる。

 

2)からくさ

「からくさ」は『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「ウマゴヤシ(馬肥)」あるいは「シロツメクサ(白詰草)」のことだという。「シロツメクサ」(Trifolium repens L.)はマメ科の越年草で,茎は地をはい,30cmくらいの高さまでなる。牧草や肥料にする。ただ,湿地ではあまり見かけない。「からくさ」は,この物語以外では歌稿「四四」に「靴にふまれひらたくなりしからくさの/茎のしろきに 落つる夕(せき)陽」として登場する。この歌稿は物語にある「狐の赤革の靴のキラッと草に光る」という文言に似ている。この「からくさ」も賢治にとっては靴に踏まれるイメージである。湿地に生えるか生えないかは考慮していない。

 

3)みじかい蘆

「蘆」はイネ科ヨシ属の多年草の「アシ」(Phragmites australis (Cav.) Trin. ex Steud.)である。河川及び湖沼の水際に背が1.5~3mくらいの高い群落を形成する。「アシ」は「悪し」に通じるので「ヨシ」と呼ぶこともあるが,『古事記』では葦原中国(あしはらのなかつくに)というように,もともとは「アシ」と呼ばれていた。また,「葦原」は我が国の古称でもある。〈土神〉は,律令国家の皇族や有力な氏族が信仰していた天津神(あまつかみ)ではなく,先住民が信仰していた国津神(くにつかみ)すなわち土着の神であることを示唆している。また,〈土神〉は土着の神であっても,「悪しき神」なのかもしれない。

 

しかし,「蘆」になぜ「みじかい」と形容したのだろうか。茎の高さが低いなら「背が低い」と記載するはずである。「みじかい」としたには何か理由がある。百人一首の19番に「みじかい蘆」で出てくる。平安時代の女流歌人である伊勢の歌である

 

難波潟 短き蘆の ふしの間も 

逢はでこの世を過ぐしてよとや

 

現代語に訳せば,ほんの短い時間さえも,逢ってくれないあなた。このまま逢えずに過ごせと言うのでしょうか。という意味だと思われる。逢いに来てくれず結ばれない男への思慕を,「蘆」の茎の節と節の間の短さに譬えたものと思われる。この歌と〈土神〉は関係があるのだろうか。男と女の違いはあるが,物語では男である〈土神〉は神であるにも関わらず「一本木の野原」にある女の〈樺の木〉に思いを寄せているように描かれている。 

 

土神はたまらなさうに両手で髪を掻(かき)むしりながらひとりで考へました。おれのこんなに面白くないといふのは第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さへどうでもよければ狐などはなほさらどうでもいゝのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないといふのは情ない。それでも気にかゝるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまへ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫(ふる)へたぞ。あの立派だったこと,どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあはれな人間などをいぢめたのだ。けれども仕方ない。誰(たれ)だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。

                            (宮沢,1986)

 

しかし,〈土神〉が〈樺の木〉に思いを寄せているように見えるのは「第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。」とあるように〈狐〉の存在があるからである。〈土神〉は〈狐〉と〈樺の木〉の関係が気になって仕方がないのである。だから〈樺の木〉に逢いにも出かけるのだ。それから,もう1つ〈土神〉が〈樺の木〉に逢いに行く理由がある。〈土神〉は人間から祭られなくなってきたが,〈樺の木〉にはまだ崇敬されていると思っている。だから,それを確認するために逢いに行くのである。

 

土神は何とも云へずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠(ほこら)を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向ってゐたのです。本当に土神は樺の木のことを考へるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなってゐたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考へたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもへて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神ぢゃないか,一本の樺の木がおれに何のあたひがあると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教へました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思ひ出したらまるでからだが灼やけるくらゐ辛つらかったのです。

 土神はいろいろ深く考へ込みながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちたうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行かうとしてゐるのだといふことに気が付きました。すると俄かに心持がをどるやうになりました。ずゐぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない,どうもさうらしい,さうだとすれば大へんに気の毒だといふやうな考が強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。

                             (宮沢,1986)

 

この〈土神〉の〈樺の木〉を思う気持ちや逢いたいという気持ちは,百人一首の19番・伊勢の歌に通じるものがある。しかし,〈土神〉の愛情は伊勢の歌のように1人だけに注がれているというものではない。特定の1人に対してであるなら,暫く逢わない恋人に対して「大へんに気の毒だ」などとは言わない。また,〈樺の木〉を訪れるのは〈狐〉や〈土神〉以外に〈若い鷹〉もいる。〈土神〉は〈狐〉に敵意を持ち排除しようとするが〈若い鷹〉には全く興味を示さない。さらに,土の中のミミズにも愛情をそそぐ。

 

「わしはな,今日は大へんに気ぶんがいゝんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにはかに心持ちが軽くなった。」

 樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのやうに思はれて返事しかねました。

「わしはいまなら誰(たれ)のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかはってやっていゝのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云ひました。その眼も黒く立派でした。

 樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息をつくばかりでした。

                           (宮沢,1986)

 

〈土神〉が「一本木の野原」の〈樺の木〉や「ミミズ」に愛情を注ぐのはその土地の守護神であり,その土地に生まれたもの全てを守る神だからである。〈狐〉が南から〈樺の木〉の所に来なければ,「一本木の野原」に生まれた誰に対しても等しく愛情を注ぐと思われる。〈土神〉は,「誰のためにでも命をやる」神であるが,「一本木の野原」の多くの生き物たちから崇敬されているということに関しては自信が持てなくなった神でもある。だから,話を聞いてくれる〈樺の木〉に毎日のように逢いに行くのである。〈土神〉は崇敬されなければ神である資格はないと思っている。また,〈土神〉は「一本木の野原」に生まれたものを「大切」にし,別の言葉で言い換えればその土地に「拘束」し,よそ者を排除する振る舞いが,〈樺の木〉から「大へん重苦しく」も感じられていることに気づいていない神でもある。

 

〈土神〉は太陽が昇ると「一本木の野原」の〈樺の木〉に逢いに行くが,〈土神〉と太陽との関係は第5稿で述べる。

 

4)「あざみ」と「かもがや」

「あざみ」はキク科の「アザミ(薊)」のことで「東北」では「ナンブアザミ」(Cirsium tonense Nakai var. tonense)が一般的である。「ナンブアザミ」は茎の高さが1~2mにもなる。劇「種山ヶ原の夜」では「種山ヶ原 せ髙の芒あざみ」や童話『風の又三郎』では「すてきに背の高い薊の中で,二つにも三つにも分かれてしまって」とある。ただ,「ナンブアザミ」は山地の林縁や草原に分布するので湿地では見られないと思われるし,背が高いので他の背の低い「苔」,「蘆」,「楊」,「からくさ」と釣り合わない。賢治は「アザミ」を単に景観として登場させてはいない。だから,「アザミ」の種を特定する必要はないのかもしれない。「アザミ」の名前は,古語の「あざむ」に由来するとされている。すなわち,「アザミ」は「欺(あざむ)く」や「興醒めする」などの意味がある言葉で,美しい花だと思って手を出したら棘に刺され,「欺かれた」のが語源だという。多分,「欺く」や「欺かれる」の関係は〈狐〉と〈土神〉あるいは〈樺の木〉の間にあると思われる。

 

〈土神〉と〈樺の木〉は,〈狐〉から家(巣穴)に顕微鏡やロンドンタイムスや大理石のシイザアが転がっていて,日本語,英語,独乙語の美学の本が沢山あるという話を聞いている。そして,西洋文化に憧れている〈樺の木〉は〈狐〉に心酔してしまう。〈狐〉の話は〈樺の木〉に好かれようとして吐いた嘘なのだが,結果的には〈狐〉が〈土神〉と〈樺の木〉を欺いたことになる。そして,〈土神〉は〈狐〉が西洋を取り入れた文化的生活をしていて,その文化を携えて〈樺の木〉のいる「一本木の野原」に移り住んでくるのではないかと考えるようになったようである。これが,〈土神〉の勘違いであったということは後に明らかにされる。〈土神〉は〈狐〉を殺めたのち〈狐〉の巣穴に入ってみると,「中はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められて」いただけで,〈狐〉が文化的生活を送っていたことが嘘だったことと,〈狐〉の家(巣)が移住する前の仮の宿ではなく定住用のしっかりとした家であったことに気づく。

 

〈土神〉が勘違いしたことは〈狐〉の「かくし」(ポケット)の中にあった「二本のかもがやの穂」から裏付けられる。「かもがや」はイネ科の多年草である「カモガヤ」(Dactylis glomerata L.;第1図)のことである。和名のカモガヤは英名の cock's-foot grass を訳すときに cock(ニワトリ)を duck(カモ)と誤解したと言われている。多分,物語で「ポケット」の中に「かもがやの穂が二本」入っていたということは,「二羽の鳥(ニワトリ)」を「カモ」と勘違いしたということであり,この物語には〈土神〉の2つの勘違いが「かくし」してあるということであろう。

f:id:Shimafukurou:20220417091004j:plain

第1図.カモガヤ

 

〈土神〉の〈狐〉に対する勘違いは〈土神〉の過去の暗い歴史に隠されている。それは物語では明かされていないが,〈土神〉は〈狐〉が革製の「赤靴」を履いているので,〈狐〉に昔「一本木の野原」(イーハトヴ)に稲作文化と鉄文化を携え「沓」を履いて侵略してきた律令国家軍の坂上田村麻呂を重ねたのかもしれない。〈狐〉は稲荷神の眷属でもある。そして,〈狐〉に異文化に心酔してしまう〈樺の木〉が奪われてしまうことを心配して〈狐〉を殺めてしまうのである。

 

5)せいの低いねじれた楊

「楊」はドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の樹木を指している。「ドロノキ(白楊)」(Populus suaveolens Fisch. ex Poit. et A.Vilm.)は,寒冷地の川岸など,日当たりの良いやや湿ったところに生育する。当時マッチ産業が好調であったこともあり,「楊」は次々と伐採されていった。特に「ドロノキ」は,3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという。すなわち,「楊」は,自ら(あるいは種として)の命を絶ちその体をマッチの軸木に変え「炎」となって人々の生活向上に貢献している。特に,賢治は「ウラジロハコヤナギ(ギンドロ)」(Populus alba L.)が好きだった。

 

『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」の,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,そのお礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やし仏を供養したという逸話が説かれている(坂本・岩本 1976)。 賢治は,「楊」を『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身である「聖樹」と見なしている。

 

しかし,「ドロノキ」にとっては,十分育っていない「背の低い」稚木のうちに伐採されてしまうので迷惑な話である。土地の守護神である地主神も怒り心頭であろう。物語でも,〈土神〉は

木樵が「祠」に近づくと,木樵をぐるぐる回して放り投げてしまう。

 

では,ねじれた楊とは何であろうか。多分,祠近くの楊は人間に貢献しているが,成長半ばで伐採されてしまうのでひねくれてしまったのであろう。「ねじれる」には「ひねくれる」とか「あまのじゃく」という意味もある。すなわち,〈土神〉もかなりひねくれている可能性がある。

 

〈土神〉の「祠」近くには苔,からくさ,短い蘆,あざみ,背の低いねぢれた楊がある。これらの植物から〈土神〉を推測すると,〈土神〉は「踏まれる神」,「守護する神」,「欺かれる神」,「ひねくれた神」がイメージされているように思える。特に〈土神〉は「踏まれる」ことに拘りを持っている。次稿では〈土神〉の正体を明らかにするために,賢治が実際に見たという「アイヌ」の「鬼神」について考察してみる。(続く)

 

参考文献

福田武雄編.2011.農民生活変遷中心の滝沢村誌 第二編・第二章 滝沢村と田村麻呂.https://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page02_chapter2.html#a2_2

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-人間植物関係学会誌 19(2):19-28.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

石井竹夫.2021.植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/03/165148

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.

坂本幸男・岩本 裕(翻訳).1976. 文庫版法華経(全3冊).岩波書店. 

鈴木拓也(編).2016.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

 

お礼:10月8日に本ブログ記事にコメントしてくれた方,ありがとうございました。2023.10.8