宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-楊と炎の風景(1)-

Key words:アスペン,文学と植物のかかわり,パルプ工場,三角標,蝎,楊

 

『銀河鉄道の夜』の中で「蝎(さそり)」の「まっ赤な火」(「蝎」の逸話 )と「楊(やなぎ)の木」が一緒に登場する場面は,物語の最大の山場であり核心部分である。「楊の木」は,マッチの軸木に使われるヤマナラシなどの植物で,その使われ方が『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」の焼身供養の教義(自己犠牲)に沿うものとして賢治が重視したことはすでに報告した(石井,2011,2014)。本稿では,「楊の木」が登場する場所が何処かということと,「まっ赤な火」が何を燃やすとできるのかを考察したい。

 

1.「まっ赤な火」と「楊の木」のある場所

前稿で,「三角標」は,銀河鉄道の列車が欧州の風景の中を通過しているときはロマネスク様式やゴシック様式の「教会堂」の「鐘楼(しょうろう)」あるいは「尖塔(せんとう)」をイメージできて,それが北米東部の風景の中を通過するときはネオゴシック様式の教会堂に似せた商業用の超高層ビル群や工場群の煙突をイメージできるようになると報告した(石井,2014)。では,「楊の木」と一緒に登場してくる「三角標」はどんなイメージでもって登場してくるのだろうか。「蝎」の逸話は,第九章「ジョバンニの切符」の最後に登場してくる。

   川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原にまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。

 「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう。」ジョバンニが云ひました。

 「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。 

 「あら,蝎の火のことならあたし知ってるわ。」

 「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。

 「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」

 「蝎って,虫だらう」

 「えゝ,蝎は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」

 「蝎いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ったよ。」

 「そうよ。だけどいゝ虫だわ,お父さん斯う云ったのよ。むかしバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ,そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ,もうどうしてもあがれられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの,

 あゝ,わたしはいままでいくつものの命をとったかわからない,そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときあんなに一生けん命にげた。それでもたうとうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。わたしの心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ってたわ。ほんたうにあの火それだわ。」

 「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちゃうどさそりの形にならんでゐるよ。」

 ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。そしてほんたうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。 (九,ジョバンニの切符)宮沢,1986 下線は引用者

 

引用文の「楊の木」がまっ黒にすかし出され「まっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした」とある場所は,ジョバンニに「こゝはコロラド高原ぢゃなかったらうか。」と言わせているので,その周辺の「楊の木」(ヤマナラシ)がたくさんある所であろう。

 

北米の地図で調べると,コロラド州西部のロッキー山中に「アスペン」(Aspen)という都市がある。「アスペン」という地名の由来は,1880年に,この周辺に深い「ヤマナラシ」の森があったことによって付けられた。英語で「アメリカヤマナラシ」(落葉広葉樹;Populus tremuloides Michx.)を「アスペン」と呼ぶ。また,コロラド州の西に位置するユタ州のフィッシュレイク国立公園内には「Pando(パンド)」あるいは “The trembling giant(震える巨人)”と呼ばれる根が広大なネットワークで繋がった「アメリカヤマナラシ」のクローン群生地(47,000本の幹を持つ)がある。

 

「パンド」は,ラテン語で広がるという意味である。この「アメリカヤマナラシ」の「パンド」は,地球上で最も寿命の長い生物の一つで,少なくとも8万年以上前(100万年前という説もある)に誕生したとされる。ちなみに,現代人であるホモ・サピエンスは約10万年前に出現したとされる。また,重量も6615トンで,地球上で最も重い生物でもある(National Park Service, 2014)。賢治は,「パンド」という生物の存在や,この生物が老化しないということを知らなかったと思われる。しかし,この「パンド」は『法華経』の第十六章「如来寿量品」に書かれている「仏の寿命は永遠」を彷彿させて興味深いものでもある。

 

「アメリカヤマナラシ」は,幹がシラカバ(白樺)のようにまっ白で美しく,秋には黄葉する。また他の「ヤマナラシ(山鳴らし)」と同様に,葉が扁平した長い葉柄をもつので少しの風でも震えて音を出す。賢治は,物語で,これに「まっ赤な火」を組み合わせて,「烏瓜の灯り」(烏瓜の縦縞模様をヤマナラシの幹に見立てて;第1図)のように「まっ黒にすかしだされた」美しい幻想的な風景に仕上げた。北米では「アメリカヤマナラシ」をマッチの軸木や紙(パルプ)の原料にする。

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第1図.烏瓜の灯り.縦縞模様が黒く透かしだされている.

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第2図.蝎の火.楊の木が烏瓜の灯りのようにまっ黒に透かしだされている.

2.「まっ赤な火」は何を燃やせばできるのか

ジョバンニは,車窓から巨大な「まっ赤な火」を見る。この「まっ赤な火」に対して,ジョバンニは,「あんな赤く光る火を僕いままで見たことない」(第一次稿)とか,「あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう」(第二~四次稿)と言っているので,初めての体験である。また,物語の語り手も過去に見た金属リチウムの赤い炎色反応と比較して「リチウムよりもうつくしく」と表現しているので,賢治にとっても初めて見る「炎」と思われる。賢治は,この初体験の「炎」をどこで見たのであろうか。

 

賢治は,サハリンを除いて海外には出かけていない。賢治がみた巨大で「まっ赤な火」が出現する場所は国内である。賢治は,花巻農学校で教諭をしていたとき,ちょうど『銀河鉄道の夜』の第一次稿を書き始めるときと重なるが,生徒を引率して北海道修学旅行(1924.5.18〜23)をしている。そのとき,苫小牧(とまこまい)の王子製紙工場も見学コースに入っていて,そこで夜空を焦(こ)がす「まっ赤な火」を見ている。

 

帰校後に書かれた「修学旅行復命書」(宮沢,1986)には,「八時苫小牧に着,駅前富士館に投ず。パルプ工場の煙赤く空を焦がし,遠く濤声(とうせい)あり。」とあり,また『春と修羅 第二集』の中の詩「牛」(1924.5.22)には,「一ぴきのエーシャ牛が/草と地靄(じもや)に角をこすってあそんでゐる/うしろではパルプ工場の火照りが/夜中の雲を焦がしてゐるし」とある。多分,賢治は,苫小牧で強く印象に残ったパルプ工場の「リチウムよりもうつくしく」燃える「まっ赤な火」を,物語では北米西部の「アスペンの森」をイメージできる「楊の木」の後ろに配置したのかもしれない。

 

物語の「まっ赤な火」がパルプ工場の煙突から出る「炎」をイメージしているとすれば,この「赤い炎」は何を燃やせばできるのだろうか。賢治が見学した王子製紙苫小牧工場では,亜硫酸パルプ(SP)とグランドパルプ(GP)を生産していた。苫小牧工場のパルプは,主に新聞紙用であり,二つのパルプ(SPとGP)を混ぜて使う。亜硫酸パルプは,主としてトドマツ,エゾマツなどの針葉樹の木片を蒸解釜(じょうかいがま)の中で重亜硫酸石灰液とともに摂氏150度前後で加圧煮沸し,リグニンなどの不純物を溶かし去って作る。ただし,賢治が訪問したころから,資源不足を補うため針葉樹に代わってシラカバ,シナノキ,ドロヤナギなどの広葉樹の使用量が増えてきている。重亜硫酸石灰液は,まず硫化鉄鉱を高温で燃焼させて亜硫酸ガスを作り,それを石灰岩と反応させて作る。

 

一方,砕木(さいぼく)パルプは,木材を砕木機(回転する円筒形の砥石)にかけ水圧によって材をすり潰して作ったパルプである(谷口ら,1960)。しかし,製紙工場では針葉樹や広葉樹からできたパルプを燃やしてはいない。専門外で確定はできないが,これらのパルプ製造過程で,「赤い炎」が出るとしたら硫化鉄鉱を燃焼させるときかもしれない。

 

「まっ赤な火」に関して,もう一つ可能性がある。それは,カーバイド工場の「炎」である。賢治が王子製紙苫小牧工場を訪れたとき,工場に隣接して北海カーバイド工場(後の電気化学工業株式会社;1912~1924)が王子製紙の余剰電力を使ってカーバイドや窒素肥料の製造を始めていた(三井広報委員会,2014)。賢治は,「まっ赤な火」がパルプ工場から出ていると記載しているが,それに隣接しているカーバイド工場の「まっ赤な火」と見間違えたのかもしれない。

 

修学旅行の1年後に書かれた『春と修羅 第二集』の「発電所」(1925.4.2)には,「鉛直フズリナ配電盤に/交通地図の模型をつくり/大トランスの六つから/三万ボルトのけいれんを/塔の初号に連結すれば/幾列の清冽な電燈は/青じろい風や川をわたり/まっ黒な工場の夜の屋根から/赤い傘,火花の雲を噴きあげる」とある。これは,岩手県遠野市のJR釜石線岩根橋駅の裏手にある水力発電所とそこから電力を供給してもらって操業していたカーバイド工場を歌ったものと言われている。現在は両方とも残っていない。「炎」を噴きあげるカーバイド工場もまた,その製造に多大な電力を必要としていた。夜のカーバイド工場から火花を噴きあげている様子は,場所は異なるが電気化学工業株式会社の電化南社宅HP(2014)から見ることができる。

 

多分,賢治は地元に帰って実際のカーバイド工場の煙と一緒に夜空に噴きあげる「炎」を見た。そして,修学旅行のときに見た「炎」と同じものであることに気付いたのかもしれない。詩「発電所」の中で「幾列の清冽な電燈」と記載されているが,これは,「送電鉄塔」の先端に取り付けられてある航空障害燈(灯)と思われる。航空障害燈は,現在では夜間に飛行する航空機に対して,高層ビル,発電所,煙突,「送電鉄塔」といった構築物の存在を示すために使用されている。

 

もしも,『銀河鉄道の夜』に出てくる「まっ赤な火」がカーバイド工場の「炎」をイメージしたものであるとすれば,何を燃やしているのであろうか。カーバイド(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)は,石灰(酸化カルシウム;CaO)と炭素(C)の混合物を電気炉で加熱(約2000℃)することによって作られる化合物である。人為的な目的を持って作られた人工化合物でもある。カーバイドは,普通の燃料の燃焼では容易に合成することはできない。反応を容易にするためには,電気炉で約2000℃に加熱することが必要なのだ。工業化が成功したのは1892年である。だから,カーバイド合成過程で発生する「炎」は人工的な「近代化学」の「炎」でもある。

 

これは,18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業改革(産業革命)の一つの成果でもある。石灰は,石灰鉱山より産出した石灰岩(主成分は炭酸カルシウム;CaCO3)を焼いて作る。その石灰岩は、主として地質時代に生息していた珊瑚,三葉虫,アンモナイト,ウミユリなどの石灰質の殻をもった海棲(かいせい)生物の遺骸などが堆積して地層化したものである(動物化石)。一方,炭素は、木炭が良いが,コスト面から主に無煙炭(石炭の一種)が使われる。木炭や無煙炭は,硫黄,コールタールなどの成分が少なく炭素の純度が高く高温度の燃焼を可能にしている(景気研究所,1939)。

 

石炭は,古代の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ,そこで長い期間地熱や地圧を受けて変質(石炭化)したものである(石炭紀の植物化石;3億5920万年前~2億9900万年前)。植物を構成するセルロースやリグニンは炭素,酸素,水素から成るが,石炭化が進むに従って酸素や水素が減って炭素濃度が上がってゆき,外観は褐色から黒色に変わり固くなっていく。一般的に,炭素を多く含む物質ほど赤く燃えるので,「まっ赤な火」が夜のカーバイド工場からの「炎」だとすれば,「まっ赤な火」は炭素を多く含む無煙炭(植物化石)が高熱で燃焼したものである。

 

炭素が高温で「赤い炎」を出す現象は,「黒体放射」という化学用語を使って説明される。「黒体」は,あらゆる光の波長を完全に吸収できる物体のことで,現実的には存在しない。完全な「黒体」に近いものが炭素の微粒子あるいはカーボンナノチューブ(炭素を基にした微小繊維)である。「黒体」は温度によって異なった色を放射するが,色温度2000℃では赤である。法華経信徒の賢治の言葉で言いかえれば,この「まっ赤な火」は,無数の植物体の亡骸が長い年月(3億年)をかけ炭化(純粋な炭素)し,人間のために炭素の微粒子(仏教では微塵)となって燃えている「炎」でもある。

 

カーバイドは,水と反応するとアセチレンを生成するので,当時はアセチレンランプに使用された。また,窒素と反応するとカルシウムシアミド(calcium cyanamide)が得られる。これは,石灰窒素の成分であり化学肥料として使われる(渡瀬,1919)。当時,カーバイドの6割が石灰窒素の製造に使われていた。このようにパルプやカーバイド製造は日本の電熱利用の化学工業の起源であり,後者はとくに農業の近代化を象徴するものとして賢治に多大な影響を及ぼしたと思われる(原,1999)。

 

王子製紙苫小牧工場に隣接するカーバイド工場の「赤い炎」が,物語の中の「まっ赤な火=蝎の火(アンタレス;表面温度約3500℃)」とすれば,「蝎座」の星々を形作っている「三角標」は,カーバイド工場とどのように関係するのであろうか。苫小牧工場(あるいは近接のカーバイド工場)に電力を送っている水力発電所は,操業時の1910年から1928年にかけては支笏湖(しこつこ)を水源とした千歳川(ちとせがわ)に4か所,漁川(いざりがわ)に2か所,尻別川(しりべつがわ)に2か所の合計8か所あったようである(谷口ら,1960;Tomakomai Mill, New Oji Paper Co., Ltd,1995)。

 

それぞれの発電所の位置する所を北海道地図に記していくと,発電所が「蝎座」のように並んでいるのに気づく。すなわち,地図に印した発電所を「三角標」とすれば,物語の「ジョバンニはまったくその大きな火(=カーバイド工場)の向ふに三つの三角標(=発電所)がちゃうどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標(=発電所)がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。」というように発電所と「三角標」と星座の「蝎座」を三重に重ねて読むことができる。

 

漁川の恵庭(えにわ)発電所と漁川発電所および千歳川の千歳第4発電所は,「蝎座」の前体(頭部に相当)と蝕肢(腕に相当)の部分であるδ星,β星,π星に,千歳第3,第2,第1発電所は,中体部分(胴体に相当)のσ星やτ星などの星,そして尻別第1,尻別第2発電所は終体の鈎の部分であるλ星やυ星に対応する。それぞれの発電所からの電力は,変電所やたくさんの巨大な「送電鉄塔」を結ぶ送電線を介して苫小牧工場へ運ばれる。「蝎座」の一等星の赤いα星のアンタレスは王子製紙苫小牧工場あるいはそれに隣接するカーバイド工場であるが,「蝎座」を構成する星々(=「三角標」)は,発電所としてもよいが,発電所に近接する三角形の巨大な「送電鉄塔」(第一鉄塔=初号)としたほうがより賢治のイメージしたものに近いかもしれない。

 

ただし,賢治が『銀河鉄道の夜』(第一次稿,1924年)を執筆していた頃,恵庭発電所(1928年)と尻別第2発電所(1926年)はまだ建設されていないので(8個中2個),発電所(あるいは送電鉄塔)の位置と賢治が物語で記載したさそり座を構成する星の位置をうまく一致させることはできない。

 

「送電鉄塔」も五等三角点(あるいは図根三角点)として三角測量に用いられた(上西,2013;あるいは文末に補足説明あり)。銀河にある「送電鉄塔」の先端に取り付けられた「灯り=航空障害燈」は,死んだ者たちの安住地への「魂」の道標にもなる。

 

王子製紙苫小牧工場へ電力を送っている発電所あるいは「送電鉄塔」が「蝎座」の星のように並んでいる様子は,工場紹介の「水力発電所略図」で見られる(第3図;Tomakomai Mill, New Oji Paper Co. Ltd,1995)。さそり座は第4図に示す。多分,賢治は苫小牧工場見学の際に,工場内でこれに似た図面かジオラマを見たのかもしれない。(続く)

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第3図.苫小牧工場の「水力発電所略図」.

丸印は「さそり座」のように並んでいる発電所群(括弧内は建設年).千歳第1発電所(1910),第2発電所(1916),第3発電所(1918),第4発電所(1920),尻別第1発電所(1921),第2発電所(1926),恵庭発電所(1928),漁川発電所(1922).なお漁川発電所は,現在王子製紙のものだが1922年に当別電気株式会社(後の北海道電力会社)が建設したものである。

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第4図.さそり座.

 

引用文献

電化南社宅HP.2014.2.1(調べた日付).南社宅の写真集.http://minami.himenokuni.com/

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌.11(1):21-24.

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するススキと絵画的風景(後篇).人植関係学誌.14(1):47-50.

景気研究所(編).1939.新興産業の基礎知識.春秋社.東京.

三井広報委員会.2014.2.1(調べた日付).電気化学工業株式会社.http://www.mitsuipr.com/special/kiseki/index04.html

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

National Park Service.2014.2.1(調べた日付).Quaking Aspen. http://www.nps.gov/brca/naturescience/quakingaspen.htm

谷口正元・一羽晶子・前川真知・稲村路夫(編).1960.五十年の歩み1910-1960.王子製紙株式会社苫小牧工場.東京.

Tomakomai Mill, New Oji Paper Co., Ltd.1995.工場紹介(37)新王子製紙㈱苫小牧工場.紙パ技協誌.49(5):51-59.

上西勝也.2013.12.14(調べた日付).史跡と標石で辿る日本の測量史. http://uenishi.on.coocan.jp/

渡瀬次朗(編).1919.稲作ト石灰窒素.電気化学工業.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌14巻第2号17~20頁2015年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

三角点についての補足説明

上西勝也氏のHP『史跡と標石で辿る「日本の測量史」(旧題:三角点の探訪)』(http://uenishi.on.coocan.jp/ )に日本の「三角点」に関して以下の記載がある。

 

「五等三角点という三角点が出現したのは1899年(明治32)です。陸地測量部沿革史の明治32年のところにつぎの記述があります。「海中ノ小岩礁ノ最高頂ヲ觀測シ其ノ概略位置及高程ヲ算定シ之ヲ五等三角點ト稱スルコト尋テ市街地ノ高塔等亦之ニ準スルコトニ定メタリ」・・・・現在、五等三角点の新設はされませんが残存しているものが数ヶ所あります。・・・・福岡県にある同「鉄塔」(福岡県下廣川村)の点の記を見るともともと五等三角点となっていたのを線で消して図根三角点に、また標石はなく「本点は高圧送電鉄塔にて視点は頂上の中央部とす 鉄塔番號-37号」となっていました。そのほか1946年(昭和21)ころ東京で戦災復興測量が行われたときに五等三角点として火の見櫓や風呂屋の煙突までも多数設定されましたが標石はないようです。」(下線は引用者)