宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-楊と炎の風景(2)-

Key words文学と植物のかかわり,父と子の対立,農民芸術,三角標,蝎

 

『銀河鉄道の夜』にはたくさんの「三角標」が登場してくるが,それぞれの「三角標」に対するイメージは,物語の場面で異なる(石井,2014)。地上にある時計屋の星座早見を飾っていた三角形の「アスパラガスの葉」が天上で「三角標」に変るのだが,その「三角標」も,銀河鉄道の列車が欧州の風景の中を通過しているときはロマネスク様式やゴシック様式の「教会堂」の「鐘楼」や「尖塔」を,そして北米東部の風景の中を通過するときはネオゴシック様式の「教会堂」に似せた商業用の超高層ビル群や工場群の「煙突」を,そして「蝎の火」と「楊の木」が登場する最終場面では冷たい鉄でできた巨大な「送電鉄塔」をイメージできるよう徐々に変化していく。

 

これらの変貌する「三角標」のイメージは,賢治が意図的に隠していたふしもあるので,読み手には非常にわかりにくい。しかし,『銀河鉄道の夜』の第三次稿の生原稿には「要挿画」の書き込みがあるので,賢治は,最終的には「挿絵」で「三角標」が何であるかを説明しようとしたのかもしれない。

 

本稿では,「三角標」がなぜ変貌するのかについて考察する。そして,物語に登場する「蝎」の「まっ赤な火」が近代工業の「炎」を象徴するだけでなく,この物語の核心部分でもある賢治と父・政次郎の対立の「炎」を表していることにも触れる。 

 

1.「まっ赤な火」と農業の近代化,農民の救済

変貌する「三角標」の謎を解くヒントは,『銀河鉄道の夜』とほぼ同時期に書かれた『農民芸術概論』(宮沢,1986)の中にあると思われる。この『農民芸術概論』は,賢治が,花巻農学校を退職し,1926年8月に羅須地人協会という私塾(~1927.3)を開設したとき,農民たちに科学,芸術,農業技術などを教える際の講義用資料として作成したものである。この中の「農民芸術概論綱要」と「農民芸術の興隆」には以下の記載がある。

  ……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

 曾ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた 

 そこには芸術も宗教もあった

 いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである

 宗教は疲れて科学によって置換され然も科学は冷たく暗い

 芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した

 いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである

 (「農民芸術概論綱要」宮沢,1986)下線は引用者

 

 宗教は疲れて科学によって置換され 然も科学は冷たく暗い

 宗教中の天地創造論 須弥山 ○道は拝天の余俗である歴史的誤謬

 見えざる影に嚇された宗教家 真宗

 科学は如何 短かき過去の記録によって悠久の未来を外部から照明し得ぬ

 科学の証拠もわれらがただ而く感ずるばかりである

 そして明日に関して何等の希望を与えぬ いま宗教は気休めと宣伝 地獄

 (「農民芸術の興隆」宮沢,1986)下線は引用者

 

「農民芸術概論綱要」と「農民芸術の興隆」には,「宗教は疲れて科学によって置換され 然も科学は冷たく暗い」という記載がある。賢治は,人々が貧困や不安の中で宗教をではなく科学を求めるようになってきたことに憂慮している。さらに,既成宗教(浄土真宗,国柱会)への失望も加わり,科学への憂いを伴った期待を,変化していく「三角標」で表現しようとしたと思われる。「祈り」の場を象徴する「教会堂」をイメージできる「三角標」が宗教的な意味合いを失い,徐々に近代科学を象徴する工場の「煙突」や「送電鉄塔」をイメージできる「三角標」に変貌する。しかし,その期待できると考えられていた科学も賢治にとっては冷たく暗い。なぜ科学は,冷たく暗いのであろうか。 

 

「農民芸術の興隆」には,ルートヴィッヒ・ビュヒナーやダニエル・デフォーなどたくさんの思想家が登場してくる。しかし,なかでも賢治はイギリスの詩人でマルクス主義者であるウイリアム・モリス(W. Moris;1843-1896)の影響を強く受けたとされている(原,1999)。19世紀後半の欧米は,産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれていた。我が国の農業も,科学の恩恵を受け急激な技術の進歩があった。特に,北海道では大型農具と化学肥料(主に過燐酸石灰)を用いた米国型の農業経営が導入され始めた(北海道総合政策部知事室広報広聴課,2014;さっぽろ自由学校「遊」,2014)。

 

賢治も,北海道旅行で,石灰岩末(炭酸石灰)が販売されていることを知って,東北の酸性土壌を改良して豊かな牧草地や耕地にするという夢を見たりもした。帰校後に書いた「修学旅行復命書」には,「これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用ふる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん。」と記している。

 

しかし,解放されたかに見えた労働者や農民たちは,逆に労働の喜びを失うことになった。賢治の言葉を借りれば,かつては,「われらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きて」いて,そこには芸術も宗教(田植唄,舞踊,祭)もあった。しかし今(大正時代)は,「われらにはただ労働が 生存があるばかり」となってしまった。さらに,東北の農業に対しても,賢治に「若し生徒等この旅を終へて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨まんか孰れかかの懐かしき広重北斎古版画の一片に非らんや。じつに修練斯の如くならざるよりは田園の風と光とはその余りに鈍重なる労働の辛苦によりて影を失ひ,農業は傍観して神聖に自ら行ひて苦痛なる一のskimmed milkたるに過ぎず」(「修学旅行復命書」)と言わせしめるまでになった。

 

これを私流に解釈すれば,近代国家の欧米人が江戸時代の広重や北斎の浮世絵に美を見出すのと同じように,近代化された農民自身もまた労働の場である田園風景に美を感じるようにならなければ,農業はただ先祖代々から引き継いだ宿命としての辛い脱脂粉乳のような味気ない労働になってしまう。である。

   

では,農民は,どうすれば郷土の風景の中に美を見いだし,労働に喜びを感じられるようになれるのか。また,そのヒントは物語に示されているのであろうか。科学の進歩が労働者や農民から労働の喜びを奪ったことに対して,モリスは,芸術で労働の喜びを回復しようとした。賢治の『農民芸術概論綱要』の中の別項にはモリスの “ Art is man’s expression of his joy in labour .” (芸術は人間の労働の喜びの表現である)の引用句が記載されている。

 

賢治もまた,モリスのように芸術を取り入れた農業(労働)を実践しようとしたと思われる。例えば,「修学旅行復命書」の中に「郷土古き陸奥の景象の如何に複雑に理解に難きや,暗くして深き赤松の並木と林,樹神を祀れる多くの古杉,楊柳と赤楊との群落,大なる藁屋根檜の垣根,その配合余りに暗くして錯綜せり。而して之を救ふもの僅 に各戸白樺の数幹,正形の独乙唐檜,閃めくやまならし 赤き鬼芥子の一群等にて足れり。」とある。賢治は,農業の実践の場でもある郷土の風景を西洋風の北海道的風景に変えようとしている。

 

すなわち,農村の暗く複雑に錯綜している風景と労働の苦痛を救うために,風景の中にオニゲシなどの花卉や明るい樹肌と幹が直立するシラカバ,ヤマナラシ,およびシンプルな円錐形の樹形をもつドイツトウヒなどの樹木を取り入れることを主張している。

 

実際に,賢治は羅須地人協会という私塾で,農民からの肥料相談や農民を集めてのコンサート活動以外に,これらの植物を用いた花壇設計や植栽を行っている(宮城・高村,1980;伊藤,2001)。例えば,賢治は,花巻温泉遊園地南斜花壇の設計を依頼されたときには,石灰岩末で土地改良を指示し,我が国に自生する樹木に混ぜて,ドイツトウヒ,ギンドロ,アメリカヤマナラシといった西洋の樹木の植栽やアルメリア(和名はハマカンザシ),アンテリナム(キンギョソウ),ペチュニア等の西洋の花卉の植栽を提案している(1927年4月9日冨手一あて封書;宮沢,1986)。

 

また,花巻共立病院の庭の花壇設計を依頼されたときは,花壇の中に音楽を聞いた時のイメージを取り入れようともした。この時の様子が童話『花壇工作』(1927)に記載されている。賢治(=富沢先生)は,ここで「音楽を図形に直すことは自由であるし,おれはそこへ花で Beethoven の Fantasy を描くこともできる」と主張している。

 それにこゝには観る人がゐた。北の二階建の方では見知りの町の人たちや富沢先生だ富沢先生だとか云って囁き合ってゐる村の人たち,南の診察室や手術室のある棟には十三才の聖女テレジアといった風の見習ひの看護婦たちが行ったり来たりしてゐたし,それにおれはおれの創造力に充分な自信があった。けだし音楽を図形に直すことは自由であるし,おれはそこへ花で Beethoven Fantasy を描くこともできる。さう考へた。

      (中略)

 院長は白いきれを杭の外へまはした。

あゝだめだ正方形のなかの退屈な円かとおれは思った。

(向ふの建物から丁度三間距離を置いて正方形をつりたまへ。)

 だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに練瓦をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに練瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ。   (『花壇工作』宮沢,1986)下線は引用者

 

「Beethoven の Fantasy」とは,賢治に多大な影響を与えたドイツの作曲家ベートーヴェン(L. von Beethoven;1770-1827)の「幻想曲風ソナタ」という題名が付いているピアノ・ソナタ第13番(1801)と14番(月光,1801)を指していると言われている(原,1999)。賢治は,農学校でレコード鑑賞をしばしば行っているが,そのときにベートーヴェンの「月光」の曲をかけながら,生徒に「円や直線や山形などの様々な図形が見える」と説明したという(聴覚と視覚が連動する共感覚と幻想感覚;板谷,1992)。

 

また,賢治は生徒に観賞に際しての心構えとして,「音楽は耳で聞くより心で聞くものだ。それが頭の中に図形の現れが生ずるから,それによって連想で感性(物事を深く感じ取る働き)が生まれる。図形というのは視覚だが,その視覚の単純,複雑,交錯,種々の現象から諸々感情の湧いてくることは,我々は風景を見,事物の現象を見て哀感をそそがれることと同じ」と話したという(板谷,2000)。音楽とは,音のもつ様々な性質を利用して感情や思想を表現したものである。我々は,賢治のように音楽から図形を想像したり,その図形から喜怒哀楽を感じたりすることはできない。しかし,賢治の音楽の背景にある思想については,賢治の書いたものを通してある程度理解できるように思える。

 

賢治が花巻共立病院の花壇に組み込もうとした思想としての音楽は,『花壇工作』に記載してあるように,規則性を持ちながら(「対称はとりながら」),同時に変化と流動性を内包し(「不規則なモザイクにして」),さらにその変化は時間的な秩序にのっとって生起する(「日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る」)という世界の動的な構造の表現であった(西崎,2003)。賢治が設計する花壇には,配置の非均質的性,日内周期や年周期と交響する音楽的なリズム,そしてファンタスチックなドラマがあるとされている。

 

『銀河鉄道の夜』では,西洋的な教会堂(=「三角標」)をイメージできる風景の中に日本的な「ススキ」や「リンドウ」を配置したり,超高層ビル(=高い「三角標」)群をイメージできる風景や近代的なカーバイド工場(=「蝎の火」)をイメージできる風景の中に「リンゴ畑」や白樺のように幹の美しい牧歌的な「楊=アメリカヤマナラシ」を配置したりしている。

 

風景の中に,西洋と東洋,暗と明,複雑とシンプル,定型と非定型,人工と自然というように相反するものが一緒に混在している。風景を非均質的な空間にアレンジしたり,花壇に時間的変化や音楽的要素をも組み込んだりすることは,賢治にとって,労働者や農民に労働の喜びを回復させる一つの技術(芸術)であったと思われる。また,賢治は,音楽を文学で表現しようともした。『銀河鉄道の夜(第三次稿)』の生原稿の冒頭には「ベートーフェンの幻想を」という書き込みがある。多分,賢治は非均質的空間の美学と時間と共にリズミカルに変化していく音楽的ドラマを郷土の風景や花壇の中に,そして詩や童話の中に組み込んだと思われる。

 

賢治が農民を救済する手段として考えたのは,農村風景を変えるだけではない。賢治は,地球環境そのものを変えようとしている。石炭を電気炉(高温下)で燃焼させ新しい人工化合物(カーバイド,化学肥料)を生み出す「まっ赤な火」の技術は,童話『グスコーブドリの伝記』(1931)では冷害に苦しむ農民を救済するための手段に応用されている。すなわち,黒ダイヤ(carbonado;炭素)を連想させるカルボナード火山を人工的に「まっ赤」に爆発させて,炭酸ガスを噴かせ地球の温暖化を計るというものだ(C+O2→CO2)。この物語はカルボナードを燃焼させて冷害から農民を救うという架空の話だが,主人公(ブドリ)は最終工程の仕事をするため自発的に火山島に残り,爆発する火山島と運命を共にする。

   

2.「蝎の火」と父と子の対立

『銀河鉄道の夜』の「蝎の火」の逸話は,単に『法華経』の「薬王菩薩本事品」に出てくる「焼身自己犠牲」の話だけを伝えようとしているのではない。ここには,質店を営み浄土真宗を信仰する父と法華経(日蓮宗)を信仰する賢治の家業と宗教の対立(小桜,1996)の炎が隠されているように思える。賢治にとって,浄土真宗を信奉していた父に日蓮宗に改宗してもらうことと,貧しい者たちから質物を取ってお金を貸し付ける質店(融資業)という日蓮の倫理に違反しそうな家業を止めてもらうことは,自らの「命の炎」を燃え尽きさせても達成すべき重要な仕事であった。

 

バルドラの野原で「いくつものの命をとったかわからない」という「さそり」を,質屋を営む父(政次郎)に置き換えれば,「蝎の火」の逸話はそのまま父と子の物語になる。

 

「蝎の火」の逸話は,日蓮宗の経典である『法華経』の「薬王菩薩本事品」における「焼身自己犠牲」の物語に,浄土真宗の教えが書かれている『歎異抄』の「悪人正機」の話を融合させてできているように思える。この逸話で,女の子(かほる)とジョバンニが,「蝎」は「善い虫」か「悪い虫」かについて論争している。『法華経』を重視した日蓮宗の宗祖である日蓮(1222-1282)と浄土真宗の宗祖とされ『法華経』を重視しない親鸞(1173-1262)とでは,「善悪」観がまったく異なるように思える。

 

日蓮にとって,「善」なる行いとは,賢治自身が実践してみせたように自分を捨てて菩薩と化して,利他的に衆上(一般の人々)を救うことであった。一方,親鸞にとっての「善悪」観は,『歎異抄』の中の「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」(悪人正機)のように,逆説的で「善」なる行いは必ずしも「浄土(天国)」と直結しないで,むしろ「浄土」へ行く妨げになるものであった。

 

仏教の研究者によれば,「善」の人は,「救済」を必要としていないし,自分で「善い」ことをしようとか,あるいは「善い」ことしているという考え方がどうしても出てくるから,「救済」を必要としている「悪」の人よりも「浄土」行くのが回り道になるのだという(吉本,1983)。

 

『歎異抄』の「悪人正機」の本意を知らずに,それを自分の都合で解釈すれば,「悪い」ことをした方が浄土に行きやすいことにもなってしまう。賢治が質店を営む父政次郎にそれを感じたかどうかは定かでないが,父の家業と信仰する宗教に嫌悪感をもっていたことは確かである。賢治は,浄土真宗を信仰する質店の父(=悪い虫?の蝎)が,日蓮宗に改宗し,「わたし(=父)のからだ(=財産)をだまっていたち(=貧しい人たち)に呉れてやらなかったらう。そしたらいたち(貧しい人たち)も一日生きのびたらうに」と考えられるようになり,そして人々を照らす「まっ赤なうつくしいさそりの火」になることを願ったのではないだろうか。

 

引用文献

北海道総合政策部知事室広報広聴課.2014.2.11(調べた日付).北海道デジタル図鑑-100の物語[歴史]農業の指導者.http://www1.hokkaido-jin.jp/zukan/story/02/13.html

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するススキと絵画的風景(後篇).人植関係学誌.14(1):47-50.

板谷栄城.1992.素顔の宮澤賢治.平凡社.東京.

板谷栄喜.2000. 宮沢賢治美しい幻想感覚の世界.でくのぼう出版.神奈川.

伊藤光弥.2001.イーハトーヴの植物学.洋々社.東京.

小桜秀謙.1996.宮沢賢治と親鸞.彌生書房.東京.

さっぽろ自由学校「遊」2014.2.11(調べた日付).緑の北海道開拓.http://www.sapporoyu.org/modules/sy_html/index.php?f=chosa-yanagisawa

宮城一男・高村毅一.1980.宮沢賢治と植物の世界.築地書房.東京.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

西崎専一.2008. ジョバンニの耳-宮沢賢治の音楽世界.風媒社.名古屋.

吉本隆明.1983.<信>の構造-吉本隆明・全仏教論集成.春秋社.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌14巻第2号21~24頁2015年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html