宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-聖なる植物(1)-

Key Words: 文学と植物のかかわり,段階性,くるみ,もみ,死後の世界,唐檜,楊

 

『銀河鉄道の夜』の天上(幻想四次空間)を走る列車には死者が乗車してくるので,この物語は,死の向こう側の世界(死後の世界)を扱った作品といってもよい。賢治が描く死後の世界には死者だけでなく,植物が天上を走る銀河鉄道の沿線に沿ってたくさん登場する。これらを銀河ステーションから登場してくる順番で記載すると,「すすき」,「りんだう」,「芝草」,「銀杏」,「かはらははこ」,「米」,「苹果の林」,「たうもろこし」,「河原なでしこ」,「楊(やなぎ)」,「唐檜」,「もみ」そして「くるみ」になる(第1図)。

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第1図.銀河鉄道の停車駅,乗客そして沿線の植物.

私は,これまで「苹果」,「唐檜」,「もみ」,「くるみ」を除くこれら植物を一つずつ解説しながら紹介してきたが,その過程でこれら植物の登場してくる順序に何か意味があるのではないかと考え始めるようになった。それは,天上に登場する植物が地上の銀河ステーションから離れる距離に応じて「俗なる植物」から「聖なる植物」に変っているように思えたからである。ここでいう「聖」とは日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっているという意味である。

 

例えば,「すすき」,「りんだう」,「芝草」,「銀杏」,「かはらははこ」はごくありふれた野性(自生)植物であるが,「米」,「苹果(オリーブ)」,「たうもろこし」は自らの体の一部を食料として人間に供給している有益な植物であり,「楊」にいたってはマッチの軸木製作のために次々に伐採され,そして自らの命を燃やして人間に役立っている尊い植物であるように思えた(石井,2011)。本稿では天上に登場する植物が「俗」から「聖」へ順序だって並んでいるという私の考えの根拠と,この考えに基づいてまだ取り上げていなかった「唐檜」,「もみ」,「くるみ」について,なぜこれら植物が物語の最後に「聖」なる植物として登場するかを解説してみる。

 

1.死後の世界には段階性がある

天上に登場する植物が「俗」から「聖」へと順序だって並んでいると私が考えたのは,思想家であるとともに賢治研究家でもある吉本隆明(2012)が著書の中で賢治がその存在を確信した死後の世界には「ある段階性がある」と言及したことによる。賢治は,『銀河鉄道の夜』以外にも「死の世界」を扱った作品をたくさん書いている。賢治の詩集『春と修羅』の中の「青森挽歌」もその一つで,死んだ妹の「魂」の行方を探求したものであるが,吉本(2012)はこの詩と比較して『銀河鉄道の夜』という童話の「死後の世界」の異質性について述べている。

  ところで,「青森挽歌」の中には描かれていないけれども,『銀河鉄道の夜』の中にはかんがえられているところがあるとすれば,死後の世界にも,ある段階性があるんだというふうな考え方だとおもいます。この考え方はまったく法華経的といったらいいのか,日蓮宗的といったらいいのですが,そういう考え方だとおもいます。それで,それはなぜ死後の世界に段階があるのかといいますと,それは生の世界,生きている世界の中で、つまりより下らなく生きた奴と,それから中くらいに,それよりましに生きた奴と,それからまったく己を殺して人々助けるというような,そういう生き方をしたかというのは,その報いとして死後の世界にある段階性をつくるという考え方です。『銀河鉄道の夜』の世界の思想内容が,「青森挽歌」に描かれている世界像と少しだけちがっているとすれば,そういうところだとおもいます。  

(『宮沢賢治の世界』吉本,2012)

 

白鳥の停車場で乗り込んだと思われる鳥捕りは,天上の天の川の河原で鳥を捕まえて売る商売をしている。他人の幸いには無頓着で殺生を繰り返す者として見なされ,それらの行為によってわずか一駅先の鷲の停車場で下車するという設定になっている。

 

次に,鷲の停車場で乗り込んだと思われるキリスト教徒の姉弟と青年は,難破船の乗客であり,救命ボートに乗る順番を後回して水死した者たちである。受け身的ではあるが自分たちの命を犠牲にして他の乗客の命を救っているという点で,鳥捕りが下車した駅よりも二駅先のサウザンクロスの停車場で下車することになる。

 

そして,始発駅の銀河ステーションで乗り込んだジョバンニの親友であるカムパネルラは,級友のザネリが溺れかかるのを助けることで自ら水死してしまう。いわば自らの命に代えて積極的に人命救助をしたということでサウザンクロスの停車場よりもさらに先の石炭袋辺りで下車する。

 

このように,現世での行いによって,死後の世界を順序だてている。サウザンクロスや石炭袋で下車した者たちは尊い行いをしたということで「聖」なる者たちである。すなわち,天上の銀河鉄道の沿線に生える植物たちも銀河鉄道の列車の乗客たちと同様に,「俗」なる植物から「聖」なる植物へと順序だって生えていると考えてもよいのではないか。

 

2.「楊」,「唐檜」,「もみ」,「くるみ」は聖樹

賢治は,「唐檜」,「もみ」そして「くるみ」も「聖樹」として見なしている。「聖樹」である理由の第一は,これら全ての樹木が「楊」と同様にマッチの軸木の用材として使用されたことである。マッチの軸木になる条件として,白く適当に長く燃え,また小さく細く切断するために材は柔らかく強靭なものでなくてはならない。

 

賢治がこの物語を執筆していたころ我が国では,この条件に合う軸木の用材としてドロノキ(白楊;Populus maximowiczii A.Henry),ヤマナラシ(ハコヤナギ;Populus tremula L. var.sieboldii),シナノキ(Tilia japonica Simonk),ノグルミ(Platycarya strobilacea Sieb.et.Zucc.),サワグルミ(Pterocarya rhoifolia Sieb.et.Zucc.),モミなど15種が使われていた(打田,1904;鈴木ら,1994a,1994b,1995)。国外ではヨーロッパヤマナラシ(Populus tremula L.var.tremula),アメリカヤマナラシ(Populus tremuloides Michx.),ウラジロハコヤナギ(第2図,ギンドロ;Populus alba L.),ドイツトウヒ(Picea abies Karst)などがある(浅井,2006)。

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第2図.ウラジロハコヤナギ(ギンドロ)

しかし,良質なのはドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」で,当時マッチ産業が好調であったこともあり,次々と伐採されていった。特にドロノキ(白楊)は,3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという(打田,1904)。すなわち,「楊」,「唐檜」,「もみ」そして「くるみ」は,自ら(あるいは種として)の命を絶ちその体をマッチの軸木に変え「炎」となって人々の生活向上に貢献している。

 

一方,『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」には,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,そのお礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やし仏を供養したという逸話が説かれている(坂本・岩本 1976)。 賢治にとって,「楊」,「唐檜」,「もみ」そして「くるみ」は,まさに『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身に見えたのではないだろうか。しかし,賢治はこれら植物を薬王菩薩との類似点だけで「聖樹」と見なしているのではない。「楊」の後に登場する「唐檜」,「もみ」,「くるみ」が「楊」以上に「聖」なる要素を持っていることを明らかにしたい。

 

3.「唐檜」と「もみ」は祭に使う聖樹

「唐檜」と「もみ」は,天上を走る銀河鉄道の列車は最終章の最大の山場である法華経の焼身自己犠牲を象徴する「楊」とそれに対応する「蠍の火」の逸話のすぐ後のケンタウル村を通過していくときに登場する。 

 その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂(にほひ)のやうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。

 「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡(ねむ)ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向ふの窓を見ながら叫んでゐました。

 あゝ,そこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜(たうひ)かもみの木がたってその中にはたくさんの豆電球がまるで千の螢(ほたる)でも集ったやうについてゐました。

 「あゝ,さうだ,今夜ケンタウル祭だねえ。」

 「あゝ,こゝはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云ひました。

 〔以下原稿一枚?なし〕

 「ボール投げなら僕決してはづさない。」

  男の子が大威張りで云ひました。

(『銀河鉄道の夜』九章ジョバンニの切符,宮沢,1986) 下線は引用者 

 

「唐檜」や「もみ」が世界中でクリスマス(降誕祭)の「クリスマスツリー」に使われることはよく知られている。賢治は,13歳(1909年)で県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学し寄宿舎生活を始めたとき,仏教と同時にキリスト教にも関心を持つようになり盛岡のキリスト教会に通い始めている。また,日本のキリスト教思想家に内村鑑三がいるが,その門下である花巻在住の斎藤宗次郎とも大正十年(1921年)から交流を深めている(山折,2005)。

 

賢治がこの物語を執筆(1924年)する前にすでにキリスト教の思想や「クリスマスツリー」についてはよく知っていたはずだ。キリスト教に関しては妹のトシからも影響を受けている。トシは大正十五年(1915年)に目白の日本女子大学校家政学部予科に入学し寮生活を始めていて,キリスト教の牧師である校長の成瀬仁蔵の思想を賢治に紹介している(斎藤,2013)。賢治とほぼ同世代の作家である瀧本(1916)は,トシと同じ女子大学校の寮生活で,「何れの寮舎でも必ず飾る」ことや,「クリスマスツリー」として「唐檜」や「もみ」ではないが「葉の小さい松を買ってきて綿で雪を降らせ,それから色々な飾りをつけた」ことを著書の中で記述している。

 

しかし,賢治は『銀河鉄道の夜』のこの場面(「銀河の祭り」=「秋の祭り」)で「唐檜」や「もみ」を「クリスマスツリーのよう」だといい,冬の「クリスマス」ではなく夏や秋の「ケンタウル祭」に使う植物として使っている。「ケンタウル祭」という言葉は天上だけでなく地上でも「銀河の祭」としても出てくる。「唐檜」や「もみ」が「楊」の次により「聖」なるものとして登場する理由を明らかにするためには,キリスト教の思想や「クリスマスツリー」の存在だけでなく「クリスマスツリー」の歴史と背景や「ケンタウル祭」が何を意味しているのか明らかにしなければならない。

 

4.「クリスマスツリー」の歴史と背景

「唐檜」や「もみ」が神聖なキリスト教の「祭り」に使う「クリスマスツリー」として最初に現れたのは中世のヨーロッパである。17世紀頃のドイツで部屋に「唐檜」や「もみ」の木を立て,林檎を吊るしたり蝋燭を立てたりしたのが始まりとされる(植田,1999;浜本・柏木,2003)。ドイツの森で見られる「唐檜」は,ドイツトウヒである(浅井,2006)。ヨーロッパの宗教民俗学を研究している植田(1994,1999)は,クリスマス(降誕節)に「クリスマスツリー」を飾る習慣はゲルマン人のキリスト教化と関係しているという。教化される前のゲルマン人はそれぞれの「聖樹」(菩提樹,樅,とねりこ,樫,栗,ぶななど巨樹)と崇める樹木のもとに集まって神々に祈ったり踊ったりした。樹は神々の降臨の目印であり,神の声を聞くところでもあった。

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第3図.ドイツトウヒ(岩手大学構内;旧盛岡高等農林学校) 

しかし,カトリックでは樹木を祀り,ものを吊るすのは原始ゲルマンの古い呪術であり異教的習俗として禁止していたので,キリスト教がゲルマンに入ってゆくとき頑強な抵抗に会った。そこでカトリックはこのままでは布教を続けるのは難しいと考え,異教的なゲルマンの「祭り」や習俗を取り入れながら漸次キリスト教的に変容するように命じた。そして,ゲルマンの冬の祭・燻(いぶ)し夜(十二夜)などの潔めは,クリスマスの潔めの祭りとなり,香料,薬草を燻し,蝋燭の光で部屋を明るくし,針葉樹の「もみ」や「唐檜」の青々とした枝を飾るようになった。

 

すなわち,「聖」なるクリスマスに「唐檜」や「もみ」の木を飾る習慣は,降誕節に不可欠の存在になっているが,本来はキリスト教とは無縁の異教徒ゲルマンの樹木崇拝を模倣したものだった。ゲルマン民族は,部族の者が死ぬとその遺骸を菩提樹や樫の木の下に埋葬する習慣もあった。巨樹のもとで永遠の眠りにつくことは,彼らにとって最後の願いであった。そして,今やキリスト教徒の人々は,偶像崇拝を認めないにもかかわらず「唐檜」や「もみ」の「クリスマスツリー」にキリストや十字架を感じるようになっている。

 

「クリスマスツリー」に使われる「唐檜=ドイツ唐檜」や「もみ」は,植田(1994,1999)の優れた考察を基にすれば,ドイツ人やイタリア人などヨーロッパ人の祖先にもあたるゲルマン人の「祈り」や「魂」の宿った「神聖」な樹木ということになる。マッチの軸木にも使われ仏教の焼身供養の象徴でもある「唐檜」や「もみ」が,キリスト教の「祭り」でも不可欠の存在になっているということで,賢治は「唐檜」や「もみ」を物語では最終章の「聖」なる植物が登場する場面で「楊」の次に置いたと思われる。

 

5.ケンタウル祭とキメラ

「ケンタウル祭」が何を意味しているかは,「ケンタウル祭」を説明していると思われる箇所(引用文中の「以下原稿一枚?なし」)が欠如していることもあり,正確に把握することは難しい。「ケンタウル祭」という言葉は,『銀河鉄道の夜』だけでなく,別の作品にも出てくる。賢治が大正6年(1917年)に制作した歌稿には「わがうるはしき/ドイツとうひは/とり行きて/ケンタウル祭の聖木とせん」とある。すでに,『銀河鉄道の夜』の初稿執筆の7年前にこの物語の「ケンタウル祭」と「唐檜」を繋ぐイメージは出来ていたと思われる。

 

「ケンタウル祭」は,実在する祭りではなく賢治の造語とされている。そこで,「ケンタウル祭」を「ケンタウル」と「祭」に分解して考察してみる。『新宮沢賢治語彙辞典』(原,1999)によれば,「ケンタウル」は星座の「ケンタウルス座」のドイツ語読み(kentaur)であるとしている。これは,米地とウヴェリヒタ(2009)も支持している。賢治は,この歌稿を読んだ盛岡高等農林学校時代(現岩手大学農学部)には,学風がドイツやアメリカの北方性の農林業教育に範をとっていたこともありドイツ語の学習に熱中していた。

 

次に,「ケンタウルス座」の由来であるが,これはギリシャ神話に基づくとされる。「ケンタウルス」は,ギリシャ神話における上半身が人間で下半身が馬である怪人一族の総称とある。また,「祭」に関しては,舞台が南ヨーロッパということもありイタリアの古い都市国家フィレンツェなど,ヨーロッパに広く行われてきた守護神・聖ヨハネを祀る聖ジャバンニの祭(6月24日)が関係していると思われる(原,1999)。

 

男の子が「ボール投げなら僕決してはづさない。」と言っているのは,この「祭り」で行われる古式サッカー(カルチョ・ストリーコ;ラクビーと格闘技を合わせたもの)のことであろう。では,「ケンタウル」と「祭」が複合した「ケンタウル祭」とはどのような祭りであろうか。多分,「ケンタウル」が人間と馬の複合動物(キメラ)であることから,「ケンタウル祭」は「聖ジョバンニの祭」と日本の祭り,例えば「七夕」(原,1999;家井,2004)や岩手の「ちゃぐちゃぐ馬っこなどの祭礼」(米地・ウヴェ,2009)などを融合させたものと思われる(続く)。

 

引用文献

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家井美千子.2004. 『銀河鉄道の夜』の「ケンタウル祭」.アルテス ロベラレス(岩手大学人文科学部紀要)75:19-35.

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米地文夫・ウヴェリヒタ.2009.宮沢賢治が創った「ケンタウル祭」の由来と意義-短歌や「銀河鉄道の夜」とドイツ語・ドイツ文化との関わりをめぐって-.総合政策 11:13-31.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌13巻第2号27~30頁2014年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html