宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『若い木霊』(2) -鴾の火と法華経・方便品の関係について-

Keywords:春の光,蟇,譬喩品第三,方便品第二,三車火宅,鴾の火

 

本稿では,最初に「法華経」の「四要品」の一つである「方便品(ほうべんぼん)第二」の教えが以下の最初の丘を下った窪地にいる〈蟇〉の独り言の中に隠されているかどうか検討する。下記引用文の下線部分が推定された仏の教えの部分である。

  一疋(ぴき)の蟇(ひきがえる)がそこをのそのそ這はって居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。

それは早くもその蟇の語(ことば)を聞いたからです。

鴾(とき)の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧(あお)くはないんだ。

 桃色のペラペラの寒天でできてゐるんだ。いい天気だ。

 ぽかぽかするなあ。

 若い木霊の胸はどきどきして息はその底で火でも燃えてゐるやうに熱くはあはあするのでした。

                    (宮沢,1986)下線は引用者

 

2.方便品第二の教えと〈蟇〉の独り言,および鴾の火との関係

〈蟇〉の独り言は「方便品第二」と関係すると思われる。「方便品第二」は,如来登場の目的が語られている。「方便品第二」の冒頭で,釈迦(仏)が弟子の舎利弗(しゃりほつ)に次のように語る。

           

「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。・・・吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。」(坂本・岩本,1994;著(じゃく)は「あれやこれやに心を奪われている…束縛」と訳されている;下線は引用者)

 

現代語訳すれば,「仏の智慧(ちえ)は深遠で見極めがたく理解しにくい。・・・吾は,仏になって以来,様々な実例や色々な譬え話を引き合いにして,広く教えを説いてきた。巧みな手立てを数えきれないくらい使って,衆生(万人)を仏の道に導き入れ,もろもろの煩悩(ぼんのう)の執着から離れさせてきた。なぜなら,仏は,色々な手立てを使って悟りに導き,智慧を授けて悟りに至らしめる道を,既に悉(ことごと)く備えているからである。」となる。すなわち,「方便品第二」では「如来がこの世に登場したのは煩悩に縛られている衆生を救うためである」と説かれている。

 

どのように救うかは「方便品第二」の次の章である「譬喩品(ひゆほん)第三」の「三車火宅」という譬え話で具体的に説明されている。ある時,長者の邸宅が火事になった。中にいた子供達は遊びに夢中になっていて火事に気付かず,長者が説得しても外に出ようとしなかった。そこで長者は子供達が日頃からほしがっていた「羊車(ようしゃ)」,「鹿車(ろくしゃ)」,「牛車(ごしゃ)」という「三車」(子供達のときめくもの)を示して外に誘い出し,出て来た時には全員に同じ「大白牛車(だいびゃくごしゃ)」という車を与えた。「家宅」は苦しみ多い三界(欲界・色界・無色界),「子供達」は三界にいる様々な段階にいる衆生,そして「長者」は仏である。 

 

衆生は十界(地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上,声聞(しょうもん),縁覚(えんがく),菩薩,仏)に生きる者達を言うが,この譬喩では特に「悟り」の求道者である「声聞」,「縁覚」,「菩薩」を指す。「羊車」と「鹿車」は自分だけが悟りの境地に達することができる「声聞」と「縁覚」のための車で,「牛車」は自分だけでなく仏を除く衆生を「悟り」の境地に導くことができる菩薩のために用意された車である。そして「大白牛車」は「三車」を統一したもので一切衆生を「悟り」の境地(本当の悟り)に導く車である。すなわち,修行中の者達でも種々の境遇・段階があるので,「悟り」に導くときでは一気にではなく1段ずつステップを踏んで確実に上がれるようにしている。「三車」は「法華経」以前に説かれた教えで「大白牛車」は「法華経」のことであると言われている。

 

「悟り」を賢治がよく使う「ほんたうのさいはひ」という言葉に置き換えれば,「方便品第二」は,1人を「さいはひ」にすれば良いというものではなく,衆生(万人)すべてを「ほんたうのさいはひ」にすることが必要であると説かれている。また,「譬喩品第三」では,どんな境遇の人でも,どんな段階(レベル)にある人でも,その場所から衆生(万人)を「ほんたうのさいはひ」にする如来の境地に到達する道筋がついていないといけないということを主張しているように思える。

 

童話では,種々の境遇あるいは段階にいる衆生を擬人化された植物や動物あるいは主人公の〈若い木霊〉に置き換えている。賢治は植物も衆生の中に入れている。衆生に相当する〈蟇〉と〈かたくり〉と〈桜草〉は,この童話では「自分のさいはひ」だけを求める「声聞」や「縁覚」あるいは地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上に住む者達であり,〈若い木霊〉は「自分のさいはひ」だけでなく「みんなのさいはひ」を求める「菩薩」に設定されているように思われる。また,〈若い木霊〉には「菩薩」になりたかった賢治自身が投影されているように思われる。物語では「ほんたうのさいはひ(悟り)」に導くものは,「大白牛車」ではなく「鴾の火」である。

 

最初の丘を下ったところの窪地にいる〈蟇〉にとって「大白牛車」に相当する「鴾の火」は,温度を上昇させ冬眠からの目覚めを促す春の光と「桃色のペラペラの寒天」であろう。変温動物である〈蟇〉は,春の光を土の温度上昇で感じ取り「ほかぽか」になって土の中から外へ這い出してくる。現代科学では,土の温度が6℃以上になることが必要だという。もしも春の光で十分に大地が暖かくならなければ,〈蟇〉は地上に出られない。まさに温度を上昇させる春の光は〈蟇〉にとっては生死を分かつ重要なものと思われる。「土の中」は苦しみ多い三界,〈蟇〉は三界にいる様々な段階にいる衆生,そして「春の光」を如来とすれば,〈蟇〉の独り言である「鴾の火だ。鴾の火だ。・・・桃色のペラペラの寒天でできてゐるんだ。・・・ぽかぽかするなあ。」には「如来がこの世に登場したのは苦悩の中にいる衆生を救うためである」という「方便品第二」の教えが込められているように思える。

 

〈蟇〉にとって「桃色のペラペラの寒天」とは何であろうか。多分,〈蟇〉が感じる「鴾の火」とは春の光と思われるが,この〈蟇〉が雄なら冬眠から目覚めたばかりの痩せ細った繁殖期の雌の〈蟇〉も同時にイメージされているように思える。すなわち,〈蟇〉にとって「鴾の火」は春の光であり,また「官能の象徴」でもあるようだ。 

 

一方,仏教徒として修行中の〈若い木霊〉は,〈蟇〉から「鴾の火」についての独り言を聞いて,「胸はどきどきして息はその底で火でも燃えてゐるやうに熱くはあはあ」する。〈若い木霊〉の胸をときめかし,息を「熱くはあはあ」させる「鴾の火」とは何であろうか。〈若い木霊〉にとっては,〈若い木霊〉が男性であるなら〈蟇〉と同じように〈若い女性の木霊〉が候補に挙がるが,修行中ということを考慮すれば「みんなをさいはひ」に導く「法華経」のことであると思われる。

 

また,後述するが〈かたくり〉にとって「鴾の火」は,太陽が高くなり照射面積が増す春の光,すなわち「ももいろの炎」であり,〈桜草〉にとっては,「沈んではのぼるお日さん」の春の日射しであろう。すなわち,「方便品」や「譬喩品」に書かれてあるように,物語では「ほんたうのさいはひ」に導く手段が衆生の境遇・段階に併せて異なって見えているようになっている。 

 

日蓮が文永12(1275)年3月に曾谷入道に宛てた手紙(「曾谷入道殿御返事」)に「方便品第二」に関係して,次の「如来寿量品第十六」にある「自我偈(じがげ)」(5文字で1句となる詩の形で書かれた経)を読むように勧めている。賢治も読んだと思われる。

 

方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし,此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり,例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり,此の経の文字は盲眼の者は之を見ず,肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり」 

(日明,1904)

 

この経(自我偈)の文字は,1字1字が「仏」の言葉であるが,「悟り」とは無縁の我等凡夫の肉眼にはただの文字にしか見えない。例えば餓鬼は恒河(ガンジス川)を火と見,人間は水と見,天人は甘露と見る。水は同じでも見る者の果報(前世の報い)よって別々である。それと同じように,この経の文字は盲目の者はこれを見ることができず,肉眼の者は文字と見,自分だけでも「悟り」を得ようとする二乗(声聞と縁覚)は虚空(何も妨げるものがなく全ての物が存在する空間)と見え,自分と自分以外の衆生を「悟り」に導こうとする菩薩は「無量の法門」(仏の教え)と見え,仏は1つ1つの文字を金色の釈尊と見るのである。仏教ではこの教えを「一水四見(いっすいしけん)」と呼ぶ。「自我偈」だけでなく「法華経」に書かれてある全ての言葉が「仏」の言葉であろう。

 

教え子の伊東清一が賢治の講演(大正15年2月27日)を記録した講演筆記帳には,「同じ水を/人は水と見る/餓鬼(がき)は火と見る/天は瑠璃(るり)と見る」という記載がある(宮沢,1977)。

 

すなわち,「法華経」の「方便品(あるいはその次の章である比喩品)」に記載されている万人を「さいはひ」にするのは,「車」の最高位にある「大白牛車」(「法華経」のこと)であるが,最初は「三車(羊車,鹿車,牛車)」のように種々の境遇・段階にある者達には,それぞれ異なったものが与えられる。最高位の「車」に相当する「鴾の火」も,異なった境遇・段階にある〈蟇〉,〈かたくり〉,〈桜草〉,〈若い木霊〉には,あたかも別々に用意されているものに見えている。例えば,冬眠から出てきたばかりの雄の〈蟇〉にとっては「官能の象徴」である「痩せ細った繁殖期の雌の蟇」に見え,〈かたくり〉や〈桜草〉にとっては光周期を起す「太陽」に見え,賢治が投影されている〈若い木霊〉なら,「無量の法門(仏の教え)」に聞こえるのである。

 

〈若い木霊〉は最初の丘のかげに立っている「柏の木」に「おゝい。まだねてるのかい。もう春だぞ,出て来いよ。おい。ねぼうだなあ,おゝい。」と叫ぶが「柏の木」はしんとして静まりかえっている。その後に,〈若い木霊〉は〈蟇〉の独り言を聞いてギクッとして立ち止まる。なぜギクッとしたのであろうか。多分,活動を停止している「柏の木」を目覚めさすために使った「春だぞ,出て来いよ」という脅迫的な手段が間違っていたことに気づいたのだと思う。同じように,冬眠している〈蟇〉に「春だぞ,出て来いよ」と言っても出て来ないだろう。

 

「柏の木」や〈蟇〉を目覚めさせるのは「春だぞ,出て来いよ」という言葉ではなく,「柏の木」や〈蟇〉にとっての「鴾の火」すなわち「春の十分な陽光」を与えることだったと思われる。実際に,〈若い木霊〉は4つの丘巡りを終え自分の木に帰る途中で,「しいん」と静まり返っている「栗の木」を見つけるが,〈若い木霊〉は「春だぞ,出て来いよ」とは言わず,「ふん,まだ,少し早いんだ。やっぱり草が青くならないとな。」と呟く。「譬喩品第三」の「三車火宅の譬喩」のことを言っているのだと思う。〈若い木霊〉は,〈蟇〉の独り言を聞いて「方便品第二」や「譬喩品第三」の教えを理解したのだと思われる。

 

以上のように,〈若い木霊〉は,〈蟇〉の独り言を聞いて「胸はどきどきして息はその底で火でも燃えてゐるやうに熱くはあはあする」が,これは「方便品第二」の教えを理解できた喜びを表現したものと思われる。(続く)

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1977.校本宮沢賢治全集14巻.筑摩書房.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

日明(編)・小川孝栄(訂).1904.日蓮上人御遺文.祖書普及期成会. 

坂本幸男・岩本 裕(訳注).1994.法華経(上)(中)(下).岩波書店.東京.

 

本稿は未発表レポートです。2021.9.14(投稿日)

宮沢賢治の『若い木霊』(1) -「四」という数字が意味するもの-

Keywords: 文学と植物のかかわり,法華経,一水四見,柏,四要品

           

賢治の童話に『若い木霊』というのがある。制作年度は確定されていないが,大正11年(1922)11月の妹トシの死以前に書き始められたとされている(中地,1991a)。

 

木の精霊である主人公の〈若い木霊〉が,自分の木から抜け出して早春の丘の木々や黄金の〈やどり木〉に呼びかけながら野原や窪地をさまよっている。4つの丘とその間にある窪地や「黒い森」が物語の舞台となる。

 

〈若い木霊〉は,そこで〈蟇(ひきがえる)〉と〈桜草〉の独り言や〈かたくり〉の葉に現れる文字のような斑紋から「桃色」の「鴾の火」に関する情報を入手して胸が高まり呼吸が荒くなったりする。しかし,〈若い木霊〉には自分をときめかす「鴾の火」の正体が分からない。〈若い木霊〉は4つ目の丘で羽の裏が「桃色」にひらめく〈鴾〉を見つける。〈若い木霊〉は,〈鴾〉が「鴾の火」を持っているというので,〈鴾〉が案内する場所について行く。〈鴾〉が案内したところは〈桜草〉から「桃色」の「かげらふのやうな火」が燃えていて,〈若い木霊〉はその中に飛び込むが「鴾の火」は見つからない。「桃色」の火の中から見ると向こう側には「暗い木立(黒い森)」があり,そこから赤い瑪瑙のような眼をした〈大きな木霊〉が出てくるが,〈若い木霊〉はそれを見て逃げ帰ってしまう。というのが童話の粗筋である。

 

この童話は,制作年度が定まらないだけでなく,出だしの文書が欠如していたり,「鴾の火」や〈大きな木霊〉や「暗い木立(黒い森)」の正体について明かされていなかったりしているので全体の意味が取りにくく謎の多い作品の1つとしても知られている。

 

これまで,多くの賢治研究家がこれら難解な用語を解読し,物語の底にある本意を明らかにしようとした(伊東,1977;中地,1991a;青木,1992;鈴木,1994)。この童話には,舞台が早春の「丘の窪(くぼ)みや皺(しわ)」であったり,繁殖期の〈蟇〉が「桃色のペラペラな寒天」と独り言を言ったり,〈若い木霊〉の息が「熱くはあはあ」したりするなど,性的な欲望の対象物やエロスを喚起するような表現が多く出てくる。そこで,多くの賢治研究家は,この物語が「性の目覚め」を題材にしたものと解釈している。

 

例えば,伊東(1977)は「鴾の火」を「若い主人公の中に目覚めた官能の象徴」とし,「黒い森」を「思春期の官能に目覚めたばかりの若い木霊の前途に広がる,未知の世界,つまり大人の世界,の象徴」とし,〈大きな木霊〉を「成熟した大人」と解釈した。そして,「黒い森」から逃げたのは「早すぎた目覚め」と「鴾の火(性)に対する無知」によるものとした。

 

中地(1991a,b)は,「鴾の火」は伊東と同じで「性の目覚めの象徴」としたが,「黒い森」は性の目覚めが引き起こした「修羅の世界」であるとした。そして,〈若い木霊〉が「黒い森」から逃げ帰ったのは「性の目覚めを体験し,それに執着したために不気味な幻想世界(修羅の世界)を呼び起こして驚いたから」とした。

 

鈴木(1994)は,「鴾の火」には「性のシンボル」以外に「性のシンボル」としての意味を超えた「至高善」としての意義を有した何かも考えるべきだと主張している。鈴木は,童話『若い木霊』を法華文学の1つとして捉えていて,「至高善」としての「仏」の教えが説かれているとしている。また,「黒い森」に関しては「人間界より下方世界,つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅,を象徴した世界」のことで詩「小岩井農場」における「爬虫がけはしく歯を鳴らして飛ぶ」,「侏羅や白亜のまっくらな森林」と同質なものとしている。この世界は,鈴木によれば仏教における第六天の魔王波旬によって支配されていると見なされている。そして,〈若い木霊〉が「黒い森」から逃げ帰った理由として,魔王波旬の眷属(けんぞく)になってしまうことへの恐怖を挙げている。ただ,鈴木は「至高善」としての「仏」の教えがどのようなものかについては語っていない。

 

筆者は,「鴾の火」という言葉で興奮するのは〈若い木霊〉だけではなく,擬人化された〈蟇〉や〈かたくり〉や〈桜草〉も「鴾の火」で興奮したり,あるいは生き生きと活動できたりすると思っている。他の研究者達は,この擬人化された〈蟇〉や〈かたくり〉や〈桜草〉について何も言及していない。「鴾の火」は「ときめくもの」あるいは「さいはひ」に導くものであり,それは1つではなく,〈若い木霊〉,〈蟇〉,〈かたくり〉,〈桜草〉にとってそれぞれ異なるものであると思っている。

 

筆者は,多くの研究者に難解と評価されている童話『銀河鉄道の夜』を自分なりに解釈するに当たって,そこに登場する植物から沢山のヒントもらった(石井,2020)。賢治作品に登場する植物は,単に風景描写として配置されているのではない。意味が取りにくい文章に遭遇したとき,その近くに配置されている植物を調べることによって解決したこともある。作品中の植物には,登場する意味が付与されている。

 

本ブログ記事は,7つの「稿」に分け,それぞれの「稿」で,登場する植物を入念に調べ童話『若い木霊』の謎を読み解いていく。筆者は,この童話が「性の目覚め」を扱った文学ではなく,法華文学の1つであるという鈴木の解釈を支持するものである。本稿では,童話の謎を解くキーワードである「四」という数字ついて解説する。2稿~5稿では,本稿のキーワードによって,この物語には「法華経」の教えが書かれたあること,並びに「鴾の火」が〈若い木霊〉だけでなく物語に登場する〈桜草〉や〈蟇〉や〈かたくり〉や〈鴾〉にとって何を意味しているのかについて明らかにする。6稿では,「黒い森」の正体について,および〈若い木霊〉が「黒い森」から出てくる〈大きな木霊〉を見て逃げ出してしまう理由について新しい解釈を提示する。7稿では,なぜ物語にヤドリギと栗の木が登場するのかについて考察する。

 

1.物語は「四」という数字がキーワードになっている。

賢治は,1920年に田中智学によって創設され,日蓮主義を奉じる国柱会に入会している(賢治24歳)。多分,賢治は『若い木霊』を執筆していた頃も熱心な法華経教徒であったと思われる。多分,主人公の〈若い木霊〉には修行中の菩薩(あるいは賢治)がイメージされていると思われる。

 

〈若い木霊〉は,最初の「丘」にやってきたとき,「ふん,日の光がぷるぷるやってやがる.いや,日の光だけでもないぞ。風だ。いや,風だけでもないな。何かかう小さなすきとほる蜂(すがる)のやうなやつかな。ひばりの声のやうなもんかな。いや,さうでもないぞ。をかしいな。おれの胸までどきどき云ひやがる。ふん。」と呟く。この呟きには,〈若い木霊〉にとって4つの「丘」や「窪地」に,仏教を修行中の主人公の胸をドキドキさせるものが隠されていることが暗示されている。

 

〈若い木霊〉は,その後,ずんずん草をわたって行き,〈柏〉の木が立っているところに来る。そして,訪れたという証として〈柏〉の木の下にある枯れた草を4つだけ結ぶ。

 丘のかげに六本の柏(かしわ)の木が立ってゐました。風が来ましたのでその去年の枯れ葉はザラザラ鳴りました

 若い木霊(こだま)はそっちへ行って高く叫びました。

「おゝい。まだねてるのかい。もう春だぞ,出て来いよ。おい。ねぼうだなあ,おゝい。」

 風がやみましたので柏の木はすっかり静まってカサッとも云ひませんでした。若い木霊はその幹に一本づつすきとほる大きな耳をつけて木の中の音を聞きましたがどの樹(き)もしんとして居りました。そこで

「えいねぼう。おれが来たしるしだけつけて置かう。」と云ひながら柏の木の下の枯れた草穂(くさぼ)をつかんで四つだけ結び合ひました

 そして又またふらふらと歩き出しました。丘はだんだん下って行って小さな窪地になりました。そこはまっ黒な土があたゝかにしめり湯気はふくふく春のよろこびを吐はいてゐました。

                    (宮沢,1986)下線は引用者

 

〈柏〉はブナ科の「カシワ(Quercus dentata Thunb.)のことであろう。「カシワ」の葉は,童話で「去年の枯れ葉はザラザラ鳴りました」とあるように,新芽が出るまで古い葉が落ちないという特徴がある。また,古来より「カシワ」には樹木の「葉を守る神」あるいは樹木を守護する神が宿るといわれる。神聖な樹木である。すなわち,木の精霊である〈若い木霊〉は,樹木を守護する神の下で草を4本結ぶことになる。〈若い木霊〉の前途に宗教的な出会いが予見されている。この「四つだけ結ぶ」とは何を意味しているのだろか。ほとんどの研究者は,この「四つだけ結ぶ」という言葉に言及していない。筆者は,この「四つだけ結ぶ」の「四」という数字は,物語が「法華経(妙法蓮華経)」と関係しているということを示していると思っている。

 

賢治が大切に所持していた赤い経巻である島地大等の『漢和対照 妙法蓮華経』には大等の丁寧な解説が付いていた。解説の中の「法華大意」には,「所謂方便品は法華迹門(しゃくもん)の眼目なり,寿量品は法華本門の精要なり。安楽品は法華修行の行要を説き,普門品は化他無窮の應用を示す。此経の極要四品に在りて盡(つ)きざるなし」と「法華経の四要品」についての記載がある。すなわち,「法華経」は28品(ほん)あるが,特に方便品(ほうべんぼん)第二,如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六,安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四,観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五の4品が重要なものであると言っている。

 

賢治もこの4品が重要なものと思っている。賢治は大正7年(1918)3月13日に盛岡高等農林学校の親友・保阪嘉内が学籍除名処分されたとき,嘉内あて書簡(3月20日前後)に「妙法蓮華経 方便品第二,妙法蓮華経 如来寿量品第十六,妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十四」と安楽行品を除く3品を書き送って慰めている(観世音菩薩普門品は赤い経巻では第二十五となっている)。賢治が書簡で安楽行品を除いたのは,除名処分を受けた嘉内にはふさわしくないと考えられたためと言われている(田村,2005)。

 

物語には「4つの丘」が登場し,最初の丘で「草穂を四つだけ結ぶ」というように「四」という数字が意味ありげに登場してくる。多分,童話『若い木霊』には「法華経」でもっとも重要なものとされる「四要品」の教えが書かれているように思われる。

 

次稿(2~5稿)では,物語に登場する植物や動物の独り言などを入念に調べることによって,本稿で示した推測が正しいかどうか検証してみる。(続く)

 

参考・引用文献

青木美保.1992.宮沢賢治「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」論.比治山女子短期大学紀要 26:7-16.

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.人植関係学誌.19(2):19-28.(ブログ; https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306 )

伊東眞一朗.1977.「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」論.国文学攷 74:12-24.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

中地 文.1991a.「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の成立考(上).日本文学 75:16-33.

中地 文.1991b.「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の成立考(中).日本文学 76:50-63.

鈴木健司.1994.宮沢賢治 幻想空間の構造.蒼丘書林.東京.

田村公子.2005.島地大等が宮沢賢治に与えた影響.琉球大学留学生センター紀要2:23-39.

 

本稿は未発表レポートです。2021.9.13(投稿日)

春の妖精たち

「春の妖精」とは,雪解けとともに春一番で地上に姿を現し,初夏の樹上の若葉が出揃う前に姿を消してしまうはかなくも愛らしい植物たちのことをいう。「スプリング・エフェメラル(春の短い命)」とも呼ぶこともある。カタクリ,サクラソウ,フクジュソウ,ニリンソウ,ヒトリシズカ,ミヤマネコノメソウなどがある。

 

多くは多年草で,姿を消すといっても地上部の花と葉の部分だけで,地下の部分は地下茎などの形で翌春まで休眠する(カタクリは種子で増える)。

 

「春の妖精」が見られる地域は,主として真冬に葉を落とす落葉樹の林あるいは森林地帯である。時期は地域にもよるが2月下旬から4月中旬の落葉樹に葉がない林の中が明るい40日~70日の短い期間だけである。

 

この春一番で咲く花を,詩的な言葉で表現した童話を紹介する。宮沢賢治の『若い木霊』(1922年以前の作と言われている)という作品である。木霊と書いて「こだま」と読む。森の霊みたいなものだろうか。ここで登場する「妖精」はカタクリとサクラソウである。「こだまが落葉樹の柏や栗の木の幹にすきとおる大きな耳を当て,水を吸い上げている音を聞こうとするが聞こえない。まるで眠っているようだ。しかし,地表ではカタクリやサクラソウの花がもうすでに咲いている」という内容である。

 それから若い木霊(こだま)は,明るい枯草の丘の間を歩いて行きました。

丘の窪(くぼ)みや皺(しわ)に,一きれ二きれの消え残りの雪が,まっしろにかゞやいて居(お)ります。

      (中略)

「おいおい,栗の木,まだ眠(ね)ってるのか。もう春だぞ。おい,起きないか。」

 栗の木は黙ってつめたく立ってゐました。若い木霊はその幹にすきとほる大きな耳をあててみましたが中はしんと何の音も聞こえませんでした。

 若い木霊はそこで一寸(ちょつと)意地悪く笑って青空の下の栗の木の梢(こずえ)を仰いで黄金(きん)色のやどり木に云ひました。

「おい。この栗の木は貴様らのおかげでもう死んでしまったやうだよ。」

 やどり木はきれいにかゞやいて笑って云ひました。

「そんなこと云っておどさうたって駄目(だめ)ですよ。眠ってるんですよ。僕下りて行ってあなたと一緒に歩きませうか。」

       (中略)

 そしてふらふら次の窪地(くぼち)にやって参りました。

 その窪地はふくふくした苔(こけ)に覆はれ,所々やさしいかたくりの花が咲いてゐました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却(かへ)ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せはしくあらはれては又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。

「はるだ,はるだ,はるの日がきた,」字は一つずつ生きて息をついて,消えてはあらはれ,あらはれては又消えました。

               (『若い木霊』 宮沢,1986)

 

落葉樹がまだ活動を始めていない,早春の明るい林のなかでカタクリの可憐な花が咲いている情景が見事に描き出されている。カタクリの葉の表面にある紫色の模様が「はるだ,はるだ」と春を告げる文字に見えてくるというのも賢治らしい表現だ。「ポラーノの広場」でも白ツメクサの花に算用数字が書かれてあった。

 

自生のカタクリは,残念ながら大磯では見ることはできない。大磯で見られる「春の妖精」は高麗山のニリンソウ(第1図),ヒトリシズカ(第2図),ミヤマネコノメソウなどである。県立大磯城山公園でも植栽だが栗の木の下でフクジュソウ(第3図)を見ることができる。2月中旬ごろにまず花が咲き始め,花が終わりかけたころに葉が繁りはじめる。葉を含め地上部が姿を消すのは4月~5月にかけてであろうか。

f:id:Shimafukurou:20210905094525j:plain

第1図.ニリンソウ.

f:id:Shimafukurou:20210905094652j:plain

第2図.ヒトリシズカ.

f:id:Shimafukurou:20210905094726p:plain

第3図.フクジュソウ.

 

フクジュソウに限らず「春の妖精」たちは,なぜ初夏までに葉まで枯らす必要があるのであろうか。植物研究家の多田多恵子が面白い説を出している。

 初夏を迎えると,木々は一斉に緑葉を広げ,林は急速に暗く閉ざされる。林床にはわずかな透過光と木漏れ日しか届かなくなり,その状態が秋まで続く。林床の植物はこうなると光を満足に受けられず,葉の光合成量も減ってしまう。もし葉がつくり出すエネルギーよりも,葉が維持費として消費するエネルギーの方が多くなれば,植物は葉を枯らした方が得になるはずだ。

          (『したたかな植物たち』 多田,2019)

 

賢治は,1922年に相思相愛の恋をしたとされる。この恋愛は1年ほどでしか続かず,周囲の反対もあって破局している。恋人は破局後に渡米し,3年後に異国の地で亡くなった。賢治は,この短命だった恋人を「妖精」に喩えることがある。童話『やまなし』(1923.4.8)では,恋人を渓流の石の下にいる「カゲロウ」の幼虫(英語で妖精を意味するnymphy)に喩えた(shimafukurou,2021)。また,恋人が亡くなって1か月後に書かれた詩〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕(1927.5.14)では,「枯れた巨きな一本杉が /もう専門の避雷針とも見られるかたち/・・・けふもまだ熱はさがらず/Nymph,Nymbus,Nymphaea ・・・ 」(宮沢,1986)(NymbusはNimbusの誤記?)とあるように,枯れた巨きな一本杉を亡くなった恋人に喩えて「Nymph,Nymbus, Nymphaea ・・・」と呟く。 

 

「春の妖精」に出会ったら,ただ見惚れているだけでも良いし,賢治のように詩などの創作に興じたり,多田みたいに経済論的に植物を論じたりするのもよいと思う。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

Shimafukurou.2021.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

多田多恵子.2019.したたかな植物たち.筑摩書房.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「春の妖精たち」を加筆・修正にしたものです。

復活と再生のシンボルとしてのヤドリギ

冬に樹木の高い枝を見ていくと,こんもりと小さな枝と葉のかたまりが毬(まり)状になっているのを見ることができる。これがヤドリギ(宿り木;Viscum album L. subsp. coloratum Kom )である(第1図)。冬でなくても注意深く観察すれば見つけることは難しくない。県立大磯城山公園でもごく普通に見られる。名前が示すように寄生植物で,主にケヤキ,エノキ,サクラなどの落葉樹に寄生し,鳥を媒介にして木から木へと移り地面に下りることはない。ただし,葉緑素を持ち光合成もするので半寄生植物である。

f:id:Shimafukurou:20210904102757p:plain

第1図.ヤドリギ

 

ヤドリギは,草にも見えるが,これでもれっきとした木の常緑樹で,2~3月に花が咲き,晩秋に黄色い実が熟す。果実は多量の粘液質を含んでいるので粘りがあり甘いらしい。ヒレンジャクやヒヨドリがこの実を好んで食べる。鳥が食べた後に堅い種子と一緒に消化しきれなかった粘液質を糞として排泄するので,この鳥の糞が金魚の糞のように糸を引いたようになり,糞は種子と一緒に鳥の行く先々で新たな枝にへばりつき,そこに新しい命を誕生させる。

 

欧州ではヤドリギは古くから神聖な植物とされ,ケルト人などが宗教的な行事に使用してきた。ヤドリギを夏至や冬至の夜に黄金の鎌(かま)で切り取り祭壇に供えたという。理由は,前述したように宿り主である落葉樹が葉を落とした後でも,青々とした葉を持ち続けるので,一旦は枯れたように見えた木が,あたかも再生したかのように見えるからである。北欧の神話の中にも登場してくる。オーディン(知恵・詩・戦い・農業の神)の息子バルドルが一旦は悪神ロキによってヤドリギの矢で殺されるが,その後復活する。ちなみに花言葉も「困難に打ち勝つ」とある。我が国でも賢治がこれらのことを知っていたとみえ,『水仙月の四日』(1922.1.19)という童話の中でヤドリギを不死あるいは復活と再生のシンボルとして使っている。

 

童話『水仙月の四日』の内容は,山村で生活している少年がカリメラ(砂糖菓子)を作るために砂糖を買いにいった帰りに猛吹雪に出くわして遭難してしまうというものである。東北地方の猛吹雪は,「八甲田死の彷徨」という新田次郎のドキュメントタッチの小説でも紹介されているように頑強な軍人でも死へ至らしめるほど迫力のあるものだが,本作品はその迫力に加えて全編,美しい詩的な言葉も加えて展開していく。

 

少年は赤い毛布(けっと)に包まっているが,寒さと疲れで猛吹雪の中で倒れてしまう。読者は少年が倒れた段階で死を予感すると思われるが,作者は,吹雪になる前に雪童子(ゆきわらし)という雪の妖精を出現させ従者の雪狼(ゆきおいの)に大きな栗の木から黄金色のヤドリギの毬を取らせ少年に投げつけ,死という結果にはならないことを暗示させる。その後,妖魔である雪婆んご(ゆきばんご)が現れ猛吹雪となる。ヤドリギを少年に拾わせた雪童子は雪婆んごから守るため,必死になって少年に倒れたまま動かないように叫ぶ。

 雪婆んごがやってきました。その裂けたやうに紫な口も尖(とが)った歯もぼんやり見えました。

「おや,をかしな子がゐるね,さうさう,こっちへとっておしまひ。水仙月の四日だもの,一人や二人とったっていゝんだよ。」

「えゝ,さうです。さあ,死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつかりながらまたそっと伝ひました。

「倒れてゐるんだよ。動いちゃいけない。動いちゃいけないつたら。」

 狼(おいの)どもが気ちがひのやうにかけめぐり,黒い足は雪雲の間からちらちらしました。

「さうさう,それでいゝよ。さあ,降らしておくれ。なまけちゃ承知しないよ。ひゅうひゅうひゅう,ひゅひゅう。」雪婆んごは,また向ふへ飛んで行きました。

 子供はまた起きあがらうとしました。雪童子は笑ひながら,もう一度ひどくつきあたりました。もうそのころは,ぼんやり暗くなって,まだ三時にもならないに,日が暮れるやうに思はれたのです。こどもは力もつきて,もう起きあがらうとしませんでした。雪童子は笑ひながら,手をのばして,その赤い毛布(けっと)を上からすっかりかけてやりました。

「そうして睡(ねむ)っておいで。布団をたくさんかけてあげるから。そうすれば凍えないんだよ。あしたの朝までカリメラの夢を見ておいで。」

 雪わらすは同じとこを何べんもかけて,雪をたくさんこどもの上にかぶせました。まもなく赤い毛布も見えなくなり,あたりとの高さも同じになってしまひました。

あのこどもは,ぼくのやったやどりぎをもってゐた。」雪童子はつぶやいて,ちょっと泣くやうにしました。

                                  (『水仙月の四日』 宮沢,1986)下線は引用者

 

あくる朝,吹雪も止み,村の方からお父さんらしき人が駆けつけてくるが,雪童子は少年の上に積もった雪を取り払い,語りに「子どもはちらっとうごいたやうでした」と言わせて物語が終わる。引用文にもあるように,雪童子が「あのこどもは,ぼくのやったやどりぎをもってゐた。」と泣くようしながら呟くのが印象的である。100%生きているという保障はないのだが,子供がヤドリギを持っていたということで,死ななかった,あるいは死んだとしても生き返ったということが読者に伝わるようにしてあると思われる。

 

「水仙月の四日」という日にちに関しては,諸説がある。私は,その中でもキリスト教における「復活祭」の当日のことを指しているという谷川雁の説を支持したい(伊藤,2001)。「復活祭」とは,十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に復活したことを記念する祭である。春分以後の満月直後の日曜日に行われる。童話『水仙月の四日』にも「しずかな奇麗な日曜日を,一そう美しくしたのです」という一文がある。賢治が生きた時代では1920年の復活祭は4月4日(日)であった。2021年も4月4日(日)である。

 

ヤドリギは宗教的な復活と再生のシンボルとしてだけでなく,実際の生活にも役立っていた。賢治が生活していた東北地方では,冷害などで不作のときヤドリギから餅を作って食べたという記録が残っている。また,薬草としても,利尿,降圧作用を目的とした漢方療法以外に民間療法的に強壮や産後の回復に使われた。多分,果実などには粘液質以外に多量のデンプンが含まれていて栄養価が高いからと思われる。このように,食料や医薬品が不足していたときには,体力や健康を復活させるためにも利用された。

 

参考・引用文献

伊藤光弥.2001.イーハトーヴの植物学 花壇に秘められた宮沢賢治の生涯.洋々社.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「復活と再生のシンボルとしてのヤドリギ」を加筆・修正にしたものです。

 

ドングリ問答-いちばんえらいのは-

ドングリって何ですか

イメージ的には小さくて,丸っこくて,しかも先が尖っていて,堅い殻をもつ木の実です。生物学の本でも諸説があって混乱しています。環境省自然保護局生物多様センターの定義では,ブナ科のコナラ属,シイ属,マテバシイ属の果実を総称してドングリと呼んでいます。

 

ドングリの木というのはあるのですか

柿の木,桃の木はあっても,ドングリの木というものはないと思います。

 

なぜ,ドングリだけが果実と木の呼び名が一致していないのですか

よくわかっていないようです。日本は南北に細長い。そのため,その地方によって生えるブナ科の木も様々です。そのブナ科の実に対する呼び名も様々で,「ドングリ」もその呼び名の一つ(方言)であったのが,次第に共通語になっていったと言われています。

 

具体的にはどんな木の果実がありますか

コナラ属にはコナラ,ミズナラ,クヌギ,アベマキ,カシワ,アラカシ,シラカシ,ウラジロガシ,ウバメガシなどが,シイノキ属にはスダジイ,ツブラシイが,またマテバシイ属にはマテバシイ,シリブカガシなどがあります。このうち,県立大磯城山公園にはコナラ,クヌギ,アラカシ,シラカシ,スダジイ,ツブラシイ,ウバメガシが植栽されています(注:単にシイと呼ぶときはスダジイとツブラシイの両方を指します)。

f:id:Shimafukurou:20210822111615p:plain

第1図.スダジイの実

 

え! 「カシワモチ」のカシワにもドングリの実がつくのですか

カシワは,ブナ科でコナラ属に分類され,クヌギの実と似たドングリをつけます。

 

ドングリを「団栗」と書いたりするのはなぜですか

団という字から連想するのは丸っこい形で,クヌギのドングリに由来するという説と,「どん」という音(おん)は,「だめな」という意味もあることから,渋くてそのままでは食べられないということから付けられたという説があるそうです。諸説があって定かでないようです。

 

ドングリは種子に見えますが,本当に果実なのですか

ドングリは果肉のない果実です。ドングリを割ってみると,一番外側に堅い殻状のものがあり,その下の渋皮があり,そして渋皮の中に水気のある身が入っています。果実部分は,このうち一番外側の堅い殻一枚を言います。すなわち,果肉(果物の食用部分)が発達しませんでした。ちなみに,渋皮と中の身が種子ということになります。果実は植物学上,子房の成長したものとあるので,殻一枚といっても,この殻は子房が変化してできたものなのでれっきとした果実です。乾燥して堅くなった果実を堅果(けんか)と呼びます。種子は堅く,果実は柔らかいとは限りません。

 

ドングリは「はかま」あるいは「帽子」のようなものを付けているがあれは何ですか

くりの「いが」と同じで,専門用語で殻斗(かくと)と呼びます。この殻斗が何なのかはまだよくわかっていないようです。最近の研究では枝が変化したものと言われています。普通,ドングリの仲間は1つの殻斗に1つの果実がつきます。クリは1つの殻斗に3つの果実がつきます。殻斗は徳利(とっくり)のような面白い形をしていますが,沖縄の西表島に自生するオキナワウラジロガシという日本最大のドングリの殻斗は直径2.5センチ,高さ1.3センチもあります。また,殻斗の模様でドングリを分類できます。横縞ならアラカシ,シラカシ(シラカシは横縞にさらに台形や三角の模様がはいる),ウロコ状ならコナラ,細長い鱗片に囲まれるのがクヌギ,すっかり包み込まれ熟すと3片,4片に裂けるのがスダジイとツブラシイ(ツブラシイの方が果実がやや丸い)という具合です。これで大方,城山公園のドングリは分類できます。

 

ドングリをよく観察すると小さな穴があいている。この穴は何ですか

穴をあけた犯人は,コナラシキゾウムシやハイイロチョッキリという虫によるものです。ハイイロチョッキリは体長18mmほどの虫で,口が長く体の3分の2ほどを占めています。ハイイロチョッキリの雌は,このドリルのような長い口を使ってドングリの実に穴をあけて産卵します。産みこまれた卵はやがて孵化し,幼虫がドングリの中身を食べて成長します。なお虫食いのドングリは水にいれると浮くので容易に判別できます。

 

ドングリを食べるものとして虫以外にどんなものがいますか

クマ,イノシシ,ネズミ,リス,カケスなどが食べます。

 

食べられるだけではブナ科の木は子孫を増やせないではないでしょうか

シキゾウムシ,クマ,イノシシは食べるだけですが,ネズミ,リス,カケスは貯食行動を取るため,ドングリを食べはしますがドングリを遠くへ分散させるのに貢献しています。

 

貯食行動とは何ですか

ネズミ,リス,カケスには,すぐに食べないドングリを冬に備えて地面に埋めるという習性があります。掘り出されて食べられなかったドングリは,結局,親木の元を離れて発芽に成功します。このように,動物とうまく共生することでブナの森は繁栄しています。

 

我々でも食べることができるのでしょうか

スダジイやマテバシイは食べられます。スダジイは生でも食べられますが,一般的には炒るかクッキーにして食べます。人間がドングリを食べた歴史は古く,実際,クッキー状の炭化物が縄文時代の遺跡からいくつか見つかっています。例えば,1999年8月10日付けの朝日新聞に,約6000年前と思われる大崎遺跡(長野県)の住居跡から,直径3センチのクッキー状炭化物が見つかっています(日本最古)。

 

実際にどのように調理するのですか

クッキーの作り方はこうです。拾ってきたドングリをまずは茹でます。その後,殻と渋皮を取り除き,すり鉢などで粉にします。粉につなぎとしてマーガリンや卵を混ぜ,砂糖を加えてこねたあと,適当な形に整えオーブントースターで焼きます。縄文風にしたければ,つなぎにヤマイモを,甘味に蜂蜜を加えればよいと思います。

 

どんなドングリでも食べられるのですか

スダジイやマテバシイ以外は渋く(アクが強く)そのままでは食べられません。しかし,コナラなどの渋いドングリでも,飢饉に襲われたときには救荒植物として食べたようです。

 

渋の原因は何ですか

渋はタンニンによります。コナラに4.8%,シラカシに4.5%,アラカシに4.4%,クヌギに1.3%,マテバシイに0.5%,スダジイに0.1%含まれます。すなわち,人間が渋を抜かずに食べられるのは,タンニンの量が1%以下のシイの仲間ぐらいだと思います。

 

なぜ渋いのですか

植物にとっては,子孫を残すためと思われます。すなわち,食べられないようにしています。ネズミは,ほとんど全てのドングリを食べますが,さすがにタンニン含量の多いドングリの捕食は少ないようです。またタンニンが少なくても生き残るドングリはあります。動物は,タンニンの少ないドングリを食べ過ぎると,タンニンのせいで消化不良になり未消化のドングリを糞便として出してしまいます。このドングリの中には発芽できるものもあるからです。

 

渋(アク)はどうすれば抜くことができますか

灰汁と一緒に煮てアクを抜き,砕いてから2~3日水にさらすとよいようです。

 

未熟な青いドングリは食べられますか

普通は熟したドングリを食べると思います。ただ,鳥のカケスは青いドングリも好んで食べるようです。ある研究報告によれば,ルリカケスはスダジイとアラカシの樹上にある緑色果を利用する頻度が高かったそうです。両樹種の緑色果と褐色果の成分分析をしたところ,タンニン量の違いは見られなかったが,緑色果は褐色果に比べて栄養価としては同等,ないし,やや優れているとしていました。童話『よく利く薬とえらい薬』で,森の中のカケスが主人公の清夫に,「弁当おあがりなさい」と言って,青いドングリを一粒落とします。

 

ドングリは薬になりますか

コナラ,カシワなどの樹皮はタンニンを多く含むので収斂薬(下痢止め)や染色用の触媒とします。ドングリそのものが薬用にされたかどうか定かではありませんが,樹皮と同様にタンニンを含むということで民間療法的に下痢止めに使われた可能性はあります。

 

ドングリに,1年ものと2年ものがあると聞いていますが

1年ものは,受粉したその年の秋にドングリになるものでコナラやシラカシがあります。また,2年ものとして,受粉してから次の年の秋に成熟してドングリになるクヌギやマテバシイなどがあります。2年かかるドングリは,南方に多い原始的な種類とされています。

 

木の実には「なり年」があると聞きますが

ドングリは毎年たくさん実るわけではありません。年によってはほとんど実らないことがあります、なぜ,「なり年」があるのでしょうか。一つの説として,ドングリを食べる虫や動物への対策として,実る年と実らない年をわざと作っているというのがあります。毎年,同じように実を作ればそれを食べる動物によって食べ尽くされてしまいます。しかし,実がならない年があれば,それを食べる動物は減ってしまい,その後はたくさんの実が食べられることなく芽を出すことができます。

 

ドングリはだいたいが1~2センチくらいの大きさだが,どうしてですか

ドングリを捕食する動物によると考えられています。例えば,アカネズミの巣の近くに,ヒマワリの種,シイの実,クルミの実を置いておくと,アカネズミはヒマワリの種はその場で食べてしまうが,ドングリサイズになると,その場では食べず,巣穴や餌場近くの林床に埋めに行くようです。これは,殻をむく手間もかかり,1つ食べるのに時間がかかるので,安全な場所で食べるほうがよいということと思われます。このように,ネズミに貯食行動を取らせるには,種子の大きさがある程度のサイズ必要だということがわかります。

 

ドングリの果実はなぜ丸くて尖っているのですか

童謡にも歌われているように,丸いとドングリは落ちたときにコロコロと遠くまで転がっていくことができます。遠くに転がったドングリは,そこで芽を出し新しい木として成長します。つまり丸い形は子孫を増やすためと言われています。ドングリは丸いだけでなく,尖っている部分があります。尖っているのは,動物に食べられにくくするためと考えられています。尖っている部分がそれを摂取した動物の消化管を傷つけることがあるからです。この尖っている部分には植物にとって重要な「胚」が存在します。また,タンニンが多いという報告もあるようです。だから,ドングリを食べる動物は丸い部分だけ食べて,この尖った部分を避けるそうです。丸い部分を食べられても,その量にもよるとは思いますが,植物は芽生えできるようです。

 

同種の木から成るドングリでも大きさに違いはあるのですか

34本のコナラのドングリを調査した結果が報告されています。9378個のドングリの重さの平均は2.1gでしたが,最小は0.1gで最大は4.5gだったそうです。コナラ1つとってもドングリの大きさはまちまちです。動物が嫌うタンニンの量は大きいドングリでは少なく,小さいドングリでは多いそうです。野ネズミなどの動物は大きいドングリを選んで食べるようです。

 

ドングリにとって理想の形はあるのですか

前述したように丸いだけではだめです。尖っていることも必要と思われます。大きいドングリはタンニンの量が少ないため野ネズミによって食べられてしまいます。小さいドングリは食べられにくいけれども,芽生えも小さくなり,光を巡る植物同士の競争には不利です。植物にとって,具体的にはコナラにとっては多様なタイプのドングリを実らせた方が得策と言えそうです。

 

童話『どんぐりと山猫』では,榧(かや)の森でどんぐりたちが一番えらいのは誰かということを競っていました。どんぐりたちは,おのおの尖っているのが一番だとか,丸いのが一番だとか,大きいのが一番だとか言っていましたがが,一郎は「このなかでいちばんばかで,めちゃくちゃで,まるでなってゐないやうなのが,いちばんえらい」と言ってどんぐりたちをだまらせてしまいます。

 

童話『どんぐりと山猫』の舞台がどこかについては,本ブログでも考察していますので,そちらをご覧ください。

「『どんぐりと山猫』の舞台は碁盤の上」https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/14/100352

 

最後に,子供たちはなぜドングリを見ると拾おうとするのですか

子供たちは,ドングリなどの木の実を拾ったりする以外に,木登りしたり,虫を捕まえたり,雑草を引っこ抜いたり,パチンコで鳥を打ったり,土をこねくり回したりして遊びます。このような遊びに対して,奥野健男が一つの仮説を立てています。それは,日本人の深層意識の中に,約1万年前からはじまったという縄文文化の影響が現代にいたるまで色濃く残っているからだとしています。すなわち,これらの遊びすべてが採取,狩猟文化時代の真似事だと考えています。詳細は前のブログ記事をご覧ください。

「なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)」https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/20/074742

 

参考文献

中村友洋・江口和洋.2020.堅果成熟過程におけるルリカケスGarrulus Lidthiの堅果利用.日本鳥学会誌 69(2):197-207.

島田卓哉.2015.野ネズミに食べられやすいドングリ,食べられにくいドングリ.Forest Wind もりからのかぜ・東北 No61.

多田多恵子.2017.原寸で楽しむ身近な木の実・タネ図鑑&採集ガイド.実業の日本社.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「ドングリ問答」を加筆・修正にしたものです。

なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)

秋も深まったころ,県立大磯城山公園内の草地を散策していたら,多数の家族連れが2~3本のシラカシの木の下で一生けんめい地面に落ちた「ドングリ」を拾っているのを見かけた。中には,子供たちと一緒に大人も夢中になって拾っていた。城山公園にはコナラ,クヌギ,アラカシ,シラカシ,スダジイ,ツブラシイ,ウバメガシなどの「ドングリ」の成る木が多数植栽されているので,秋にもなると沢山の「ドングリ」が落ちる(第1図)。ちなみに,「ドングリ」はブナ科のコナラ属,シイ属,マテバシイ属の果実の総称である。

f:id:Shimafukurou:20210820074154p:plain

第1図.ドングリ(シラカシ).

 

子供たちは,あっちこっち駆け回りながら1つずつ拾っては大きな袋に入れていた。どうするのだろうと思いながらその場を後にしたが,帰り際に,同じ場所に戻ってみると,家族連れの姿はなく,シラカシの木の下に「ドングリ」の山が築かれていた。あんなに夢中になって集めた「ドングリ」なのに置いていってしまった。確かに,シラカシの「ドングリ」は渋くてそのままでは食べられない。食べようとしたらあく抜きが必要である。しかし,食べもしない「ドングリ」をなぜあんなにも夢中になって拾ったのだろうか。

 

科学者で文芸評論家の奥野健男(1972)は,『文学における原風景』で,子供たちが「原っぱ」で「ドングリ」などの木の実を拾ったり,木登りしたり,虫を捕まえたり,雑草を引っこ抜いたり,パチンコで鳥を打ったり,土をこねくり回したりして遊ぶのは,日本人の深層意識の中に,約1万年前からはじまったという縄文文化の影響が現代にいたるまで色濃く残っているからだと述べていた。また,子供の遊びに農耕,農民を真似たものはなく,遊びすべてが採取,狩猟文化時代の真似事だともいう。ヨーロッパのような石造建築や石畳みの街路の中でも遊びには見られないものである。

 

哲学者の梅原 猛も小説家の中上健次との対談で,奥野と同様に「日本という国は,縄文時代,狩猟採集時代の文化が,弥生時代以降も大変残ったところで,日本人の無意識の深層にも旧石器時代の人たちが共通に持っていたものを記憶として残している」と述べている(梅原・中上,1994)。

 

多分,子供たちが「ドングリ」を拾うのは,遊びの一環であり,奥野が言うように採取,狩猟文化時代の真似事なのかもしれない。

 

しかし不思議に思うのは,子供だけでなく大人も夢中になって拾っていることである。家族連れだからということではないと思う。私も1人で散策しているとき,2~3個くらいなら無意識的に拾ってしまう。理由はよく分からないのだが,とにかく血が騒ぐのだ。さらに,私の場合は,必ず家に持ち帰り机の上や本棚の中に飾っておく。そして,毎日,飽きもせずそれを眺めている。

 

だが最近,誰もが「ドングリ」を見たら拾うというものではないということも知った。知人にそのことを言ったら「ドングリを見ても気にもしない」と一笑されてしまったからである。これは単なる推測だが,縄文の血の濃い人にしか当てはまらないのかもしれない。一部の人かもしれないが,大人がドングリを拾う理由を考えてみたい。

 

そのヒントになるのが,宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「原体剣舞連」(mental sketch modified)にある。この詩の中に「楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ」という意味ありげな詩の一節が出てくる。その言葉が出てくる前後の部分はこうだ。

菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ

気圏の戦士わが朋(とも)たちよ

青らみわたる顥気(かうき)をふかみ

楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ

蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かがり)をかかげ

ひのきの髪をうちゆすり  

まるめろの匂のそらに

あたらしい星雲を燃やせ

           dah-dah-sko-dah-dah

         (中略)

こんや銀河と森とのまつり

准(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)に

さらにも強く鼓を鳴らし

うす月の雲をどよませ

       Ho!  Ho!  Ho!

               むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)

    まつくらくらの二里の洞(ほら)

    わたるは夢と黒夜神(こくやじん)

    首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

    青い仮面(めん)このこけおどし

    太刀を浴びてはいつぷかぷ

    夜風の底の蜘蛛(くも)をどり

    胃袋はいてぎつたぎた

  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

           (「原体剣舞連」宮沢,1986)下線は引用者

 

詩「原体剣舞連」に登場してくる「達谷の悪路王」とは昔,平泉の達谷窟という洞窟に住んでいたと伝えられる採取・狩猟文化を有する先住民族「蝦夷(えみし)」のリーダー悪路王の伝説にもとづくものである。やがて,侵略してきた大和朝廷によって,はげしい激戦の末滅ぼされてしまった。賢治研究家の力丸光雄は,この詩の「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる顥気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という詩句には,「一万数千年のあいだ,サケ・マスとともにナラ林ないしブナ林に支えられてきた縄文の文化が,弥生の勢力に押され,いつしか山林の奥に消え去った先住の人たちの怨念が籠められていて,その怨念や地霊を鎮める祈りが,大地を踏みしめて踊る剣舞に表現されている」と述べている。多分,賢治は,「楢」や「椈」には,大和朝廷によって打ち負かされた縄文の末裔である「蝦夷」の「うれい」や「怨念」の記憶が宿っていて,その「うれい」や「怨念」が「大地を踏みしめて踊る剣舞」によって鎮められるものと考えたのだと思う。

 

第2図は,原体剣舞の様子を撮ったものである。ただ,踊っているのは大人ではなく子供たちである。また,詩にあるように踊り手が「菩提樹皮と縄とをまとふ」ということもない。きらびやかな衣裳をまとっている。観光化してしまったためだろうか。大人が踊るものとして「鬼剣舞(おにけんばい))というのがあるが,これも「蝦夷」への鎮魂の踊りとされる。この剣舞の踊り手は,昔は手に不動の荒縄を意味する縄を三巻巻いていたという。縄文の聖地としても知られる熊野の「お灯祭り」(火祭りの一種)に参加する者たちは,現在でも白装束に「荒縄」を締めている。

 

f:id:Shimafukurou:20210820074258p:plain

第2図.原体剣舞(宮沢賢治生誕120年記念行事にて)

 

東北の平泉には黄金の文化を築いたが,中央政権によって滅ぼされてしまった藤原氏(清衡,基衡,秀衡)の遺体が金色堂に安置されている。藤原氏は,清衡の母が阿部氏の出であるように,「蝦夷」の流れをくむとされていて,その棺の中には狩猟・採集民族の象徴である「ドングリ」やクルミの類がいっぱい入れられていたという(梅原,1994)。

 

都会では,「原体剣舞連」や「鬼剣舞」のような先住の人たちの怨念を鎮める踊りや祭りは行われなくなってきた。我々が,都会の公園などで「ドングリ」を拾うとき,単に縄文時代の採取・狩猟文化の遊びとしての真似事だけでなく,また鎮魂とは言わないまでも,先住の人たちに共感して「うれい」も一緒に集めていたのではないだろうか。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

奥野健男.1972.文学における原風景.集英社.東京.

力丸光雄.2001.《賢治と植物》-心象の博物誌.宮沢賢治16:50-61.

梅原 猛.1994.日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る.集英社。東京.

梅原 猛・中上健次.1994.君は弥生人か縄文人か.集英社.東京,

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)」を加筆・修正にしたものです。

ガラスマントの宅急便-ヤシの謎-(試論)

賢治の童話『風野又三郎』(1924年2月12日以前の作)は,いきなり何の前触れもなく「九月一日 どっどどどどうど どどうど どどう」という風の音の擬音で始まる。この作品に登場する「又三郎」は,「ガラスのマント」と透きとおる「沓(くつ)」を履いて空を駆け巡る風を擬人化した「風の精」である。科学的な根拠に基づいて,風が我々人間や植物にどのような役割を果たしてきたか,あるいは気象現象である大気の「大循環」を使って旅したことついて,「風の精」の言葉を通して村の子どもたちに語る物語である。「大循環」とは,地球上では赤道付近と極地付近の気温差による大気の大循環をさす。植物は,ザクロ,マツ,イネ,ヤナギ,ガガイモ(草綿とも呼ぶ),リンゴ,ナシ,キュウリ,マルメロ,カラスウリ等たくさん登場し,風との関係が丁寧に説明される。

 

例えば,村の子どもの一人が「又三郎」に傘を壊されるなどの悪戯をされたことに腹を立て,「汝(うな)などぁ悪戯(いたづら)ばりさな。傘(かさ)ぶっ壊(か)したり」,「樹(き)折ったり」,「稲も倒さな」といって悪たれをつくと,風の精である「又三郎」は「いゝことはもっと沢山するんだよ」,「僕は松の花でも楊(やなぎ)の花でも草棉の毛でも運んで行くだらう。稲の花粉だってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ」と言って答えたりする。

 

さらに,海岸に吹く風にも言及していて,「海岸ではね,僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ枯れるやつも枯れないやつもあるよ。苹果(りんご)や梨(なし)やまるめろや胡瓜(きうり)はだめだ,すぐ枯れる,稲や薄荷(はくか)やだいこんなどはなかなか強い,牧草なども強いねえ。」と,その博識ぶりを披露する。

 

確かに,多くの植物は海岸が苦手のようだ。真水が得られにくく,潮風や日差しが強いので乾燥しやすいからである。そこで海岸で生息することを選んだ植物は,葉を厚くし,風を避けるため茎を横に這わせるとか,果実や種子などの散布体では果皮や種皮が発達し海水に浮きしかも耐塩性を持たせるようにした。

 

しかし,この作品に登場してくる植物の中で,大気の「大循環」の説明に登場する「ヤシ」(ヤシ目ヤシ科に属する植物の総称)の木が不可解なのだ。これまでの賢治の作品には,マツ,クリ,ヤナギなど我々になじみのある木々が多数登場してくるので,「ヤシ」という見慣れない南国の木が突然出てくると違和感をもってしまう。赤道直下が重要なら「ヤシ」が生えていないところでも良いはずだ。なぜ,「ヤシ」の木を作品に組み込んだのだろうか。賢治のことだから,「ヤシ」が潮風に強いとか,熱帯地方の情景描写に相応しいという理由で取り上げたとは思えない。

 

「ヤシ」といえば,島崎藤村の有名な「椰子の実」という歌を思い出す。遠き島より椰子の実が流れ着いたという内容の歌である。島崎藤村は明治の詩人なので,「椰子の実」の歌は賢治も当然知っていたはずである。しかし,ここでは「ヤシ」の「木」は登場しても「ヤシ」の「実」は出てこない。大気の「大循環」と関係するかどうかは分からないが,黒潮に乗って南の島から「椰子の実」が日本に漂流してくるという話ではないのだ。

 

まず「大循環」の旅を作品にそって説明すると,始まりは赤道直下の中部太平洋に散在する「ギルバート群島」※辺りにあり,そこには「大循環志願出発線」という標識があって,上昇気流に乗って空高く上る。天空に上がった後,北極経路と南極経路の2つのコースに分かれるが,作品では北極経路のみが紹介されている。すなわち,赤道上空から,ハワイ,グリーンランドを通過して北極に至る。帰路は一端下降して海の上を通って,ベーリング海峡,太平洋を渡って北海道へ向かうというものだ。北極から1ヶ月で津軽海峡へ到達できると言っている。

 

「ヤシ」の木が登場する「大循環」の説明では,次のように記載されている。

 赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立ってゐるよ。お前たちが見たんぢゃわかりゃしない。大循環志願者出発線,これより北極に至る八千九百ベヱスター南極に至る八千七百ベヱスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待ってゐたねえ,向ふの島の椰子(やし)の木は黒いくらゐ青く,教会の白壁は眼へしみる位白く光ってゐるだらう。だんだんひるになって暑くなる,海は油のやうにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振ってゐる。

 ひるすぎの二時頃になったらう。島で銅鑼(どら)がだるさうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむってゐるやう,赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢を見てゐるんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでゐるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでゐると思ってゐるんだ。魚といふものは生意気なもんだねえ,ところがほんたうは,その時,空を騰(のぼ)って行くのは僕たちなんだ,魚ぢゃないんだ。もうきっとその辺にさへ居れや,空へ騰って行かなくちゃいけないやうな気がするんだ。けれどものぼって行くたってそれはそれはそおっとのぼって行くんだよ。椰子の樹(き)の葉にもさはらず魚の夢もさまさないやうにまるでまるでそおっとのぼって行くんだ。・・・・僕たちはもう上の方のずうっと冷たい所に居てふうと大きく息をつく,ガラスのマントがぱっと曇ったり又さっと消えたり何べんも何べんもするんだよ。                       

                     (『風野又三郎』宮沢,1986)                 注:ベヱスターとは長さの単位で1.067 km

 

ここで,「ヤシ」の木を取り巻く環境は,「だんだんひるになって暑くなる,海は油のやうにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振って」とか,「銅鑼(どら)がだるさうにぼんぼんと鳴り」とか,「椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむってゐるやう」とか,「夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでゐるんだ」というように,波の音を聞きながら,いまにも眠ってしまいそうなけだるいものがある。まるで,母親の子宮にある羊水の中でまどろんでいる胎児をイメージさせる。

 

個人的な話だが,動悸と息切れがひどくなり入院したことがある。心室性頻拍と胸水貯留を伴った原因不明の胸膜炎という診断をうけ安静を命じられた。胸に心電図を測定するための電極と看護ステーションのモニターに電波を飛ばす発信装置を持たされ,四六時中監視を受けることになった。普通,心臓は1分間に60~80回くらい拍動し,その拍動毎に心電図上にそれぞれ3つの高さの異なるピークをもつ波形を刻むのだが,心室性頻拍が発生すると通常の2倍以上の拍動となり,心電図上にはこれらピークが失われた異常波が出現する。

 

拍動が早くなれば血液の循環が良くなると思われがちだが,2倍以上にもなると逆に危険なのだ。心臓がただ振るえているだけで血液を送り出さなくなる。意識を失ってしまう。さらに長時間持続すれば命も落としてしまう。だから,この異常波がある一定時間以上持続すると看護ステーションに待機している看護師が様子を伺いに病室に駆けつけてきた。

 

最初は,この異常波が出現しても持続時間が短かったせいかほとんど気がつかなかった。だから,看護師が駆けつけてきても,何の用事できたのか分からないことが多かった。ときたま,頻拍が少しばかり続くと,意識がぼおっとなって初めて頻拍が出ていたのかなという感じであった。しかし,これが繰り返され,さらに持続時間が長くなり始めると不安になった。退院しても,初期段階でこの異常波を自分でキャッチできなければ通勤中,あるいは仕事中突然倒れてしまうかもしれないと思ったからである。そこで,医師にこの心電図上の異常波が発生しているとき,自分の身体ではどのように感じるのか知りたいから心電計を貸してくれるようにお願いした。しかし,この願いは受け入れてもらえなかった。

 

そこで,それから毎日毎日,腕の脈を取ったり,枕に耳をあてたりして心臓から伝わってくる鼓動の響きを聞き入った。1週間くらいして,通常は「どっどっどっどっど」であるが,たまに脈が飛んで「どっどっどっ どど」といった響きを感じるとることが出来るまでになった。しかし,まだ,響きをまったく感じない時間帯の方が多かった。ある晩,病院内が静まり返っているとき,とても小さな響きだったが「どどどどどどどどど」と数えるのが困難なほどの早いテンポの音を聞いた。なにか,地響きが体の中に伝わってくるような感触だった。その後しばらくして,頭が熱っぽくぼおっとなった。これが,心室性頻拍の発生だったことはすぐに理解できた。夜中にも係わらず,看護師が病室に駆けつけてきたからだ。看護ステーションのモニター上に異常波が出現した時間と私が異常感覚を認めた時間が一致した。

 

我々は,これまで心臓の鼓動は「ドキドキ」とか「ドキンドキン」というふうに何気なく学んできたような気がする。しかし,私の場合は,心臓の鼓動を胸腔に貯まった水を介して聞いていたのであろうか「どっどっどっどっ」や「どどどどどどどどど」といった柔らかな響きであった。小さな弱々しい音ではあったが「どどどどどどどどど」という音を聞くと,脳に血液へ行かなくなり命までもが吹っ飛んでしまいそうで恐ろしかった。

 

このとき,この心臓の音あるいは響きが,どこかで聞き覚えのある音であることに気がついた。賢治の童話『風野又三郎』に出てくる風の音である。一郎という少年が夢の中で以下のような風の歌をきく。

九月十日

「ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ,

ああまいざくろも吹きとばせ,

すっぱいざくろもふきとばせ,

ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ

ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ。」

             (『風野又三郎』宮沢,1986)

 

風の音は普通「ひゅうひゅう」と表現する。風の名作『水仙月(すゐせんづき)の四日』でも,賢治は風の音を「ひゆう,ひゆう,ひゆう,ひゆうひゆう」と表現している。なぜ『風野又三郎』では風の音が「ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ」なのだろうか。また,一郎が夢の中で聞いた歌に,なぜ「ザクロ」(Punica granatum L.)が登場するのだろうか。

 

ダイバーたちが海に潜って波の打つ音を聞くと心臓の鼓動のように聞こえるという。解剖学者の三木成夫は,胎児が母親の子宮内で聞く血流音もこの音だと推測している。心臓の拍動と呼吸の周期は密接な関係がある。心臓が鼓動を4つ打つ間に1つ呼吸する。また,呼吸のリズムは大海原の波打ちのリズムすなわち宇宙リズムと関係がある。無論,波は風によって引き起こされる。

 

「ヤシ」の実は見ようによっては心臓の形に似ている。また,果実の大きさは植物の中では最大級のものであり,心臓の形をしている「ヤシ」は「大循環」を回すポンプのシンボルとしてはうってつけの植物であったと思われる。すなわち,賢治は「ヤシ」の実という言葉こそ使っていないが,「ヤシ」を大気いやもっと壮大な宇宙「大循環」の中心すなわち心臓と位置づけたのではないのだろうか。

 

また,「ザクロ」の赤い果実と多数の種子は豊穣(ほうじょう)な子宮を表すとされている。賢治は無意識に風と対峙したとき宇宙羊水に連絡できる子宮に戻りそこから〈母〉の心臓の鼓動を聞きながら宇宙リズムと交感するのだ。

 

賢治の「こころ」は,宇宙羊水から解き放たれ「ガラスのマント」となって「大循環」に乗って宇宙全体へと拡散する。

 

引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

※:ギルバート諸島は,太平洋中西部にあり,赤道をはさんで南北に分布する16の環礁からなる島群である。ココヤシの実から作るコプラの生産地でもある。

 

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「ガラスマントの宅急便-ヤシの謎-(試論)」を加筆・修正にしたものです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

〔談話室〕

-遠い島からやってきたのは椰子の実だけではない

 

植物は遠くまで種子を運ぶ方法をいろいろと考えてきた。その一つに果実を海に落として,遠い地の浜辺まで運んでもらうというものがある。ハマユウ,グンバイヒルガオ,ハマナタマメ,ゴバンノアシが一般的には知られているが,有名なものとしては郷土の詩人である島崎藤村の「椰子の実」に出てくるヤシあるいはその仲間(ココヤシ,ニッパヤシ)である。黒潮が流れ込む相模湾に面した三浦半島にもそのいくつかの種が漂着し,ハマユウ,ハマナタマメなどは実際に定着しているという。大磯の海岸でもハマユウ(ヒガンバナ科;第1図)を見かけるが漂着した種子から生育したものかどうかの確証はない。島崎藤村が晩年に住んだ家の近くにある学校の正門にも何本かのヤシがあるが植栽であろう。

f:id:Shimafukurou:20210816102919p:plain

第1図.ハマユウ.

 

ところで,遠い南の島からやってきたのはヤシなどの植物だけではない。日本人の祖先もまた南の島からやってきた。解剖学者の三木成夫が面白い体験談を残している。

 私は何かに操られるようにその椰子の実を一個買い求めました。

  (中略)

 翌朝,当然のように早く目が覚め,さっそく表面のシュロ状のものをむしり取ろうとしましたが,そう簡単に片づくしろものではない。とうとう鋸を持ち出し,あっちこっちをガリガリ傷つけながら,悪戦苦闘の末,やっとの思いで,中の黒檀のような殻のところにまで到達したのです。横にじっとしゃがみ込んで見ている小さなすがたには,ほとんど構うことなく,おそるおそる錐で二ヶ所を開け,台所へとんでいってストローをとってきて一方の穴に突っ込み,何か夢遊病者のように吸ってみたのです。その瞬間 ―――――これは他人の味ではない,いったいおれの祖先はポリネシアではないか!と。それはほとんど確信に近い生命的な叫びでした。

                 (『海・呼吸・古代形象』 三木,1992)

 

どんな味がしたのだろう。私も一度は味わってみたいものだ。

なぜ,三木は自分の祖先がポリネシアだと推測できたのであろうか。彼の直観かもしれないが,当時,人類学の分野でポリネシア人と日本列島の縄文人との類縁関係を示唆する研究(片山,1996)がなされていたことも影響したのかもしれない。なお,賢治の童話『風野又三郎』に出てくるギルバート群島(諸島)には,現在ミクロネシア系の人々が主に居住しているが,ポリネシア系住民も住んでいるとのことである。

 

参考・引用文献

片山一通.1996.海のモンゴロイドの起原:東シナ海周辺にさぐる.地学雑誌 105(3):384-397.

三木成夫.1992.海・呼吸・古代形象 生命記憶の回想.うぶすな書院.東京.