宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『若い木霊』(2) -鴾の火と法華経・方便品の関係について-

Keywords:春の光,蟇,譬喩品第三,方便品第二,三車火宅,鴾の火

 

本稿では,最初に「法華経」の「四要品」の一つである「方便品(ほうべんぼん)第二」の教えが以下の最初の丘を下った窪地にいる〈蟇〉の独り言の中に隠されているかどうか検討する。下記引用文の下線部分が推定された仏の教えの部分である。

  一疋(ぴき)の蟇(ひきがえる)がそこをのそのそ這はって居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。

それは早くもその蟇の語(ことば)を聞いたからです。

鴾(とき)の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧(あお)くはないんだ。

 桃色のペラペラの寒天でできてゐるんだ。いい天気だ。

 ぽかぽかするなあ。

 若い木霊の胸はどきどきして息はその底で火でも燃えてゐるやうに熱くはあはあするのでした。

                    (宮沢,1986)下線は引用者

 

2.方便品第二の教えと〈蟇〉の独り言,および鴾の火との関係

〈蟇〉の独り言は「方便品第二」と関係すると思われる。「方便品第二」は,如来登場の目的が語られている。「方便品第二」の冒頭で,釈迦(仏)が弟子の舎利弗(しゃりほつ)に次のように語る。

           

「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。・・・吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。」(坂本・岩本,1994;著(じゃく)は「あれやこれやに心を奪われている…束縛」と訳されている;下線は引用者)

 

現代語訳すれば,「仏の智慧(ちえ)は深遠で見極めがたく理解しにくい。・・・吾は,仏になって以来,様々な実例や色々な譬え話を引き合いにして,広く教えを説いてきた。巧みな手立てを数えきれないくらい使って,衆生(万人)を仏の道に導き入れ,もろもろの煩悩(ぼんのう)の執着から離れさせてきた。なぜなら,仏は,色々な手立てを使って悟りに導き,智慧を授けて悟りに至らしめる道を,既に悉(ことごと)く備えているからである。」となる。すなわち,「方便品第二」では「如来がこの世に登場したのは煩悩に縛られている衆生を救うためである」と説かれている。

 

どのように救うかは「方便品第二」の次の章である「譬喩品(ひゆほん)第三」の「三車火宅」という譬え話で具体的に説明されている。ある時,長者の邸宅が火事になった。中にいた子供達は遊びに夢中になっていて火事に気付かず,長者が説得しても外に出ようとしなかった。そこで長者は子供達が日頃からほしがっていた「羊車(ようしゃ)」,「鹿車(ろくしゃ)」,「牛車(ごしゃ)」という「三車」(子供達のときめくもの)を示して外に誘い出し,出て来た時には全員に同じ「大白牛車(だいびゃくごしゃ)」という車を与えた。「家宅」は苦しみ多い三界(欲界・色界・無色界),「子供達」は三界にいる様々な段階にいる衆生,そして「長者」は仏である。 

 

衆生は十界(地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上,声聞(しょうもん),縁覚(えんがく),菩薩,仏)に生きる者達を言うが,この譬喩では特に「悟り」の求道者である「声聞」,「縁覚」,「菩薩」を指す。「羊車」と「鹿車」は自分だけが悟りの境地に達することができる「声聞」と「縁覚」のための車で,「牛車」は自分だけでなく仏を除く衆生を「悟り」の境地に導くことができる菩薩のために用意された車である。そして「大白牛車」は「三車」を統一したもので一切衆生を「悟り」の境地(本当の悟り)に導く車である。すなわち,修行中の者達でも種々の境遇・段階があるので,「悟り」に導くときでは一気にではなく1段ずつステップを踏んで確実に上がれるようにしている。「三車」は「法華経」以前に説かれた教えで「大白牛車」は「法華経」のことであると言われている。

 

「悟り」を賢治がよく使う「ほんたうのさいはひ」という言葉に置き換えれば,「方便品第二」は,1人を「さいはひ」にすれば良いというものではなく,衆生(万人)すべてを「ほんたうのさいはひ」にすることが必要であると説かれている。また,「譬喩品第三」では,どんな境遇の人でも,どんな段階(レベル)にある人でも,その場所から衆生(万人)を「ほんたうのさいはひ」にする如来の境地に到達する道筋がついていないといけないということを主張しているように思える。

 

童話では,種々の境遇あるいは段階にいる衆生を擬人化された植物や動物あるいは主人公の〈若い木霊〉に置き換えている。賢治は植物も衆生の中に入れている。衆生に相当する〈蟇〉と〈かたくり〉と〈桜草〉は,この童話では「自分のさいはひ」だけを求める「声聞」や「縁覚」あるいは地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天上に住む者達であり,〈若い木霊〉は「自分のさいはひ」だけでなく「みんなのさいはひ」を求める「菩薩」に設定されているように思われる。また,〈若い木霊〉には「菩薩」になりたかった賢治自身が投影されているように思われる。物語では「ほんたうのさいはひ(悟り)」に導くものは,「大白牛車」ではなく「鴾の火」である。

 

最初の丘を下ったところの窪地にいる〈蟇〉にとって「大白牛車」に相当する「鴾の火」は,温度を上昇させ冬眠からの目覚めを促す春の光と「桃色のペラペラの寒天」であろう。変温動物である〈蟇〉は,春の光を土の温度上昇で感じ取り「ほかぽか」になって土の中から外へ這い出してくる。現代科学では,土の温度が6℃以上になることが必要だという。もしも春の光で十分に大地が暖かくならなければ,〈蟇〉は地上に出られない。まさに温度を上昇させる春の光は〈蟇〉にとっては生死を分かつ重要なものと思われる。「土の中」は苦しみ多い三界,〈蟇〉は三界にいる様々な段階にいる衆生,そして「春の光」を如来とすれば,〈蟇〉の独り言である「鴾の火だ。鴾の火だ。・・・桃色のペラペラの寒天でできてゐるんだ。・・・ぽかぽかするなあ。」には「如来がこの世に登場したのは苦悩の中にいる衆生を救うためである」という「方便品第二」の教えが込められているように思える。

 

〈蟇〉にとって「桃色のペラペラの寒天」とは何であろうか。多分,〈蟇〉が感じる「鴾の火」とは春の光と思われるが,この〈蟇〉が雄なら冬眠から目覚めたばかりの痩せ細った繁殖期の雌の〈蟇〉も同時にイメージされているように思える。すなわち,〈蟇〉にとって「鴾の火」は春の光であり,また「官能の象徴」でもあるようだ。 

 

一方,仏教徒として修行中の〈若い木霊〉は,〈蟇〉から「鴾の火」についての独り言を聞いて,「胸はどきどきして息はその底で火でも燃えてゐるやうに熱くはあはあ」する。〈若い木霊〉の胸をときめかし,息を「熱くはあはあ」させる「鴾の火」とは何であろうか。〈若い木霊〉にとっては,〈若い木霊〉が男性であるなら〈蟇〉と同じように〈若い女性の木霊〉が候補に挙がるが,修行中ということを考慮すれば「みんなをさいはひ」に導く「法華経」のことであると思われる。

 

また,後述するが〈かたくり〉にとって「鴾の火」は,太陽が高くなり照射面積が増す春の光,すなわち「ももいろの炎」であり,〈桜草〉にとっては,「沈んではのぼるお日さん」の春の日射しであろう。すなわち,「方便品」や「譬喩品」に書かれてあるように,物語では「ほんたうのさいはひ」に導く手段が衆生の境遇・段階に併せて異なって見えているようになっている。 

 

日蓮が文永12(1275)年3月に曾谷入道に宛てた手紙(「曾谷入道殿御返事」)に「方便品第二」に関係して,次の「如来寿量品第十六」にある「自我偈(じがげ)」(5文字で1句となる詩の形で書かれた経)を読むように勧めている。賢治も読んだと思われる。

 

方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし,此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり,例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり,此の経の文字は盲眼の者は之を見ず,肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり」 

(日明,1904)

 

この経(自我偈)の文字は,1字1字が「仏」の言葉であるが,「悟り」とは無縁の我等凡夫の肉眼にはただの文字にしか見えない。例えば餓鬼は恒河(ガンジス川)を火と見,人間は水と見,天人は甘露と見る。水は同じでも見る者の果報(前世の報い)よって別々である。それと同じように,この経の文字は盲目の者はこれを見ることができず,肉眼の者は文字と見,自分だけでも「悟り」を得ようとする二乗(声聞と縁覚)は虚空(何も妨げるものがなく全ての物が存在する空間)と見え,自分と自分以外の衆生を「悟り」に導こうとする菩薩は「無量の法門」(仏の教え)と見え,仏は1つ1つの文字を金色の釈尊と見るのである。仏教ではこの教えを「一水四見(いっすいしけん)」と呼ぶ。「自我偈」だけでなく「法華経」に書かれてある全ての言葉が「仏」の言葉であろう。

 

教え子の伊東清一が賢治の講演(大正15年2月27日)を記録した講演筆記帳には,「同じ水を/人は水と見る/餓鬼(がき)は火と見る/天は瑠璃(るり)と見る」という記載がある(宮沢,1977)。

 

すなわち,「法華経」の「方便品(あるいはその次の章である比喩品)」に記載されている万人を「さいはひ」にするのは,「車」の最高位にある「大白牛車」(「法華経」のこと)であるが,最初は「三車(羊車,鹿車,牛車)」のように種々の境遇・段階にある者達には,それぞれ異なったものが与えられる。最高位の「車」に相当する「鴾の火」も,異なった境遇・段階にある〈蟇〉,〈かたくり〉,〈桜草〉,〈若い木霊〉には,あたかも別々に用意されているものに見えている。例えば,冬眠から出てきたばかりの雄の〈蟇〉にとっては「官能の象徴」である「痩せ細った繁殖期の雌の蟇」に見え,〈かたくり〉や〈桜草〉にとっては光周期を起す「太陽」に見え,賢治が投影されている〈若い木霊〉なら,「無量の法門(仏の教え)」に聞こえるのである。

 

〈若い木霊〉は最初の丘のかげに立っている「柏の木」に「おゝい。まだねてるのかい。もう春だぞ,出て来いよ。おい。ねぼうだなあ,おゝい。」と叫ぶが「柏の木」はしんとして静まりかえっている。その後に,〈若い木霊〉は〈蟇〉の独り言を聞いてギクッとして立ち止まる。なぜギクッとしたのであろうか。多分,活動を停止している「柏の木」を目覚めさすために使った「春だぞ,出て来いよ」という脅迫的な手段が間違っていたことに気づいたのだと思う。同じように,冬眠している〈蟇〉に「春だぞ,出て来いよ」と言っても出て来ないだろう。

 

「柏の木」や〈蟇〉を目覚めさせるのは「春だぞ,出て来いよ」という言葉ではなく,「柏の木」や〈蟇〉にとっての「鴾の火」すなわち「春の十分な陽光」を与えることだったと思われる。実際に,〈若い木霊〉は4つの丘巡りを終え自分の木に帰る途中で,「しいん」と静まり返っている「栗の木」を見つけるが,〈若い木霊〉は「春だぞ,出て来いよ」とは言わず,「ふん,まだ,少し早いんだ。やっぱり草が青くならないとな。」と呟く。「譬喩品第三」の「三車火宅の譬喩」のことを言っているのだと思う。〈若い木霊〉は,〈蟇〉の独り言を聞いて「方便品第二」や「譬喩品第三」の教えを理解したのだと思われる。

 

以上のように,〈若い木霊〉は,〈蟇〉の独り言を聞いて「胸はどきどきして息はその底で火でも燃えてゐるやうに熱くはあはあする」が,これは「方便品第二」の教えを理解できた喜びを表現したものと思われる。(続く)

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1977.校本宮沢賢治全集14巻.筑摩書房.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

日明(編)・小川孝栄(訂).1904.日蓮上人御遺文.祖書普及期成会. 

坂本幸男・岩本 裕(訳注).1994.法華経(上)(中)(下).岩波書店.東京.

 

本稿は未発表レポートです。2021.9.14(投稿日)