宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)

秋も深まったころ,県立大磯城山公園内の草地を散策していたら,多数の家族連れが2~3本のシラカシの木の下で一生けんめい地面に落ちた「ドングリ」を拾っているのを見かけた。中には,子供たちと一緒に大人も夢中になって拾っていた。城山公園にはコナラ,クヌギ,アラカシ,シラカシ,スダジイ,ツブラシイ,ウバメガシなどの「ドングリ」の成る木が多数植栽されているので,秋にもなると沢山の「ドングリ」が落ちる(第1図)。ちなみに,「ドングリ」はブナ科のコナラ属,シイ属,マテバシイ属の果実の総称である。

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第1図.ドングリ(シラカシ).

 

子供たちは,あっちこっち駆け回りながら1つずつ拾っては大きな袋に入れていた。どうするのだろうと思いながらその場を後にしたが,帰り際に,同じ場所に戻ってみると,家族連れの姿はなく,シラカシの木の下に「ドングリ」の山が築かれていた。あんなに夢中になって集めた「ドングリ」なのに置いていってしまった。確かに,シラカシの「ドングリ」は渋くてそのままでは食べられない。食べようとしたらあく抜きが必要である。しかし,食べもしない「ドングリ」をなぜあんなにも夢中になって拾ったのだろうか。

 

科学者で文芸評論家の奥野健男(1972)は,『文学における原風景』で,子供たちが「原っぱ」で「ドングリ」などの木の実を拾ったり,木登りしたり,虫を捕まえたり,雑草を引っこ抜いたり,パチンコで鳥を打ったり,土をこねくり回したりして遊ぶのは,日本人の深層意識の中に,約1万年前からはじまったという縄文文化の影響が現代にいたるまで色濃く残っているからだと述べていた。また,子供の遊びに農耕,農民を真似たものはなく,遊びすべてが採取,狩猟文化時代の真似事だともいう。ヨーロッパのような石造建築や石畳みの街路の中でも遊びには見られないものである。

 

哲学者の梅原 猛も小説家の中上健次との対談で,奥野と同様に「日本という国は,縄文時代,狩猟採集時代の文化が,弥生時代以降も大変残ったところで,日本人の無意識の深層にも旧石器時代の人たちが共通に持っていたものを記憶として残している」と述べている(梅原・中上,1994)。

 

多分,子供たちが「ドングリ」を拾うのは,遊びの一環であり,奥野が言うように採取,狩猟文化時代の真似事なのかもしれない。

 

しかし不思議に思うのは,子供だけでなく大人も夢中になって拾っていることである。家族連れだからということではないと思う。私も1人で散策しているとき,2~3個くらいなら無意識的に拾ってしまう。理由はよく分からないのだが,とにかく血が騒ぐのだ。さらに,私の場合は,必ず家に持ち帰り机の上や本棚の中に飾っておく。そして,毎日,飽きもせずそれを眺めている。

 

だが最近,誰もが「ドングリ」を見たら拾うというものではないということも知った。知人にそのことを言ったら「ドングリを見ても気にもしない」と一笑されてしまったからである。これは単なる推測だが,縄文の血の濃い人にしか当てはまらないのかもしれない。一部の人かもしれないが,大人がドングリを拾う理由を考えてみたい。

 

そのヒントになるのが,宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「原体剣舞連」(mental sketch modified)にある。この詩の中に「楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ」という意味ありげな詩の一節が出てくる。その言葉が出てくる前後の部分はこうだ。

菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ

気圏の戦士わが朋(とも)たちよ

青らみわたる顥気(かうき)をふかみ

楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ

蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かがり)をかかげ

ひのきの髪をうちゆすり  

まるめろの匂のそらに

あたらしい星雲を燃やせ

           dah-dah-sko-dah-dah

         (中略)

こんや銀河と森とのまつり

准(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)に

さらにも強く鼓を鳴らし

うす月の雲をどよませ

       Ho!  Ho!  Ho!

               むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)

    まつくらくらの二里の洞(ほら)

    わたるは夢と黒夜神(こくやじん)

    首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

    青い仮面(めん)このこけおどし

    太刀を浴びてはいつぷかぷ

    夜風の底の蜘蛛(くも)をどり

    胃袋はいてぎつたぎた

  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

           (「原体剣舞連」宮沢,1986)下線は引用者

 

詩「原体剣舞連」に登場してくる「達谷の悪路王」とは昔,平泉の達谷窟という洞窟に住んでいたと伝えられる採取・狩猟文化を有する先住民族「蝦夷(えみし)」のリーダー悪路王の伝説にもとづくものである。やがて,侵略してきた大和朝廷によって,はげしい激戦の末滅ぼされてしまった。賢治研究家の力丸光雄は,この詩の「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる顥気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という詩句には,「一万数千年のあいだ,サケ・マスとともにナラ林ないしブナ林に支えられてきた縄文の文化が,弥生の勢力に押され,いつしか山林の奥に消え去った先住の人たちの怨念が籠められていて,その怨念や地霊を鎮める祈りが,大地を踏みしめて踊る剣舞に表現されている」と述べている。多分,賢治は,「楢」や「椈」には,大和朝廷によって打ち負かされた縄文の末裔である「蝦夷」の「うれい」や「怨念」の記憶が宿っていて,その「うれい」や「怨念」が「大地を踏みしめて踊る剣舞」によって鎮められるものと考えたのだと思う。

 

第2図は,原体剣舞の様子を撮ったものである。ただ,踊っているのは大人ではなく子供たちである。また,詩にあるように踊り手が「菩提樹皮と縄とをまとふ」ということもない。きらびやかな衣裳をまとっている。観光化してしまったためだろうか。大人が踊るものとして「鬼剣舞(おにけんばい))というのがあるが,これも「蝦夷」への鎮魂の踊りとされる。この剣舞の踊り手は,昔は手に不動の荒縄を意味する縄を三巻巻いていたという。縄文の聖地としても知られる熊野の「お灯祭り」(火祭りの一種)に参加する者たちは,現在でも白装束に「荒縄」を締めている。

 

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第2図.原体剣舞(宮沢賢治生誕120年記念行事にて)

 

東北の平泉には黄金の文化を築いたが,中央政権によって滅ぼされてしまった藤原氏(清衡,基衡,秀衡)の遺体が金色堂に安置されている。藤原氏は,清衡の母が阿部氏の出であるように,「蝦夷」の流れをくむとされていて,その棺の中には狩猟・採集民族の象徴である「ドングリ」やクルミの類がいっぱい入れられていたという(梅原,1994)。

 

都会では,「原体剣舞連」や「鬼剣舞」のような先住の人たちの怨念を鎮める踊りや祭りは行われなくなってきた。我々が,都会の公園などで「ドングリ」を拾うとき,単に縄文時代の採取・狩猟文化の遊びとしての真似事だけでなく,また鎮魂とは言わないまでも,先住の人たちに共感して「うれい」も一緒に集めていたのではないだろうか。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

奥野健男.1972.文学における原風景.集英社.東京.

力丸光雄.2001.《賢治と植物》-心象の博物誌.宮沢賢治16:50-61.

梅原 猛.1994.日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る.集英社。東京.

梅原 猛・中上健次.1994.君は弥生人か縄文人か.集英社.東京,

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)」を加筆・修正にしたものです。