宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』―植物や動物と「こころ」が通う-

植物や動物に「心」があるのかと問う前に,「心」とは何かについて考えてみる。

「心」とは何かという問いに答えるのは難しいが,解剖学者で発生学者の三木成夫(1995)によれば,「心」とは物事に感じて起こる情であり,感応とか共鳴といった心情の世界を形成するものだという。そして,「心」のある場所は,頭(脳)というよりは,心臓,胃,子宮などの内臓器官であるといっている。「血がのぼる」,「胸がおどる」,「心がときめく」などは,人間の心情を心臓の興奮で表現したものであり,また,お腹が空いたり,子宮が28日毎に精子を待ち続け,そして「待ちぼうけ」を食らったりしたときの「いらいら」感も同様に「胃」とか「子宮」の切迫した状況での内臓表現であると言っている。無論,考えたり,知覚したりする高度な感覚は,精神の座である頭(脳)がつかさどっている事は言うまでもないが。

 

また,三木成夫(1995)は,内臓器官の動きには一定のリズムがあり,そのリズムは大自然のリズムあるいは宇宙リズムに照応していて,心の働きに密接に影響すると言っている。例えば,心臓の拍動と呼吸の周期は密接な関係があるが(心臓が四つ打つ間に一つ呼吸),呼吸のリズムは大海原の波打ちのリズムと関係があるという。

 

さらに,人間を含めて動物には獲物を求めて活動する「食」の相と,異性を求めてさ迷う「性」の相があるという。人間でははっきり区別できないが,例えば渡り鳥の行動をみればそれを納得できるはずである。一定の季節に孵化を終えた鳥たちは,生まれ故郷を離れ餌場に向かいそこで「食」の相を過ごす。そして,また時期がくれば「性」の相にもどり,飲まず食わずで,生まれ故郷の繁殖場へ大移動する。これを毎年繰り返すことになる。すなわち,動物の「食」と「性」の相のリズムは太陽系の周期(宇宙のリズム)に歩調を合わせている。そして,このような内臓器官のリズムが自然のリズムや宇宙リズムとうまく調和しなくなると,「心」の動揺や「心」の動転となって病理学的な異常を訴えることになるという。

 

このように,三木成夫は「心」と内臓の関係を宇宙リズムと関係づけて言及したが,さらに,人間だけでなく動物にも「心」はあると考えた。しかし,動物は人間のように「心」を意識することはない。人間の「胸がおどる」といった春情に匹敵する動物の「心」とは,「宇宙リズム」に乗って,自らの体を「食」の相から「性」の相へ,駆り立てていくものであり,それは動物体内に内蔵された宇宙リズムそのものである。

 

三木成夫の「心」への関心は植物にも及ぶ。彼は,動物の体内にある心臓は,植物にとっては光合成のもとである「太陽」であるといっている。植物は,豊かな大地に根をおろし,天空に向かって茎や葉という触手をのばし,太陽を中心とした循環回路のなかで光合成すなわち生の営みを行う。さらに,植物体は天地を結ぶ巨大な循環路の動物の器官でいえば毛細血管のようなものであるともいう。無論,動物と同様に,「食」の相である茎・葉の生い茂る季節と,「性」の相である花が咲き実のなる季節があり,種によって時期は異なるものの太陽系の周期と歩調を合わせる。例えば,太陽の高さと歩調をあわせながら,昼が短くなるとアサガオ,キク,コスモスなどが花を開き,昼が長くなるとドクダミなどが花を開く。このように,植物にも動物の内臓器官に相当するものがある。すなわち,植物にも人間や動物の内臓感覚に相当する「心」はあると言っている。

 

では,三木成夫にとって植物の「心」とは実際にどのようなものか。

 生まれつき一切の通信網を持たない,この生物が,では,いかにして四季の推移に順応することが出来るのか? それは地球の営む周行のリズムが,すでに体内に宿されていたから,と答えるよりなかろう。それ自身が,太陽を廻りながら,食と性を交代させる一個の惑星,いわば地球の“生きた衛星”となるのだ。植物達は,こうして“宇宙交響”の宴に加わりながら,そこに生の彩(いろど)りを添える。これが「植物の心」というものだ。

            (『海・呼吸・古代形象』 三木,1992)下線は引用者

 

このように三木成夫は,植物にも動物の宇宙と交響する内臓感覚と同じものがあると言っている。植物は,動物を特徴づける「感覚・運動」の神経組織も筋肉組織もないので,「食」と「性」の相を行き来することはできない。それゆえ,植物は「自身が,太陽を廻りながら,食と性を交代させる一個の惑星,いわば地球の“生きた衛星”」となり,「宇宙リズム」との「ハーモニー(調和)」に,まさに全身全霊を捧げつくすのである。そして,この「ハーモニー」こそ植物の純粋な「心」なのであると。

 

  では,次に人間,動物,植物の間で「心」が通うとはどのようなことなのか考えてみたい。動物の「心」と人間の「心」が通うということはよく知られている。しかし,植物の「心」が,動物や人間の「心」と通うということはありえるだろうか。仮想の話かもしれないが,宮沢賢治の『鹿踊(ししをど)りのはじまり』という童話作品を取り上げて考えてみよう。

 

この物語は,「ざあざあ吹いてゐた風が,だんだん人のことばにきこえ,やがてそれは,いま北上の山の方や,野原に行はれてゐた鹿踊りの,ほんたうの精神を語りました。」という出だしで始まる。膝を悪くした主人公の〈嘉十(かじゅう)が湯治場へ行く途中,野原で休憩することになるが,お腹がいっぱいになったのか栃と栗でできた団子を残してしまい,それを「ウメバチソウ」の近くに「こいづは鹿さ呉(け)でやべか。それ,鹿,来て喰(け)」と言って置いていく。このとき,〈嘉十〉はうっかり,「ウメバチソウ」と団子の近くに白い手拭(てぬぐい)を置き忘れてしまう。その後,手拭のないのに気がついて取りに戻るが,その手拭の廻りに6頭の「鹿(多分雄)」が大きな環になって集まり,そしてぐるぐる廻りながら,おそるおそる手拭の正体を暴こうとしている現場に出くわしてしまう。「鹿」にとって初めて見る手拭は何か得体の知れない恐ろしいものに見えたのかもしれない。

 

〈嘉十〉は,ススキの隙間からこの光景を覗いているが,いつしか「鹿」の言葉が聞き取れるようになる。「鹿」は,手拭が危険なものではないと分かると,関心が次第に手拭から,団子,そして「ウメバチソウ」へと移っていく。〈嘉十〉は,「鹿」が団子を分け合って食べた後に,一列に並び太陽を拝み,そして歌いだすという神秘的な現場に出会うことになる。

 太陽はこのとき,ちやうどはんのきの梢の中ほどにかかって,少し黄いろにかゞやいて居(を)りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって,たがひにせわしくうなづき合ひ,やがて一列に太陽に向いて,それを拝むやうにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんたうに夢のやうにそれを見とれてゐたのです。

 一ばん右はじにたった鹿が細い声でうたひました。

 「はんの木(ぎ)の

  みどりみぢんの葉の向(むご)さ

  ぢやらんぢやららんの

  お日さん懸がる。」

 その水晶の笛のやうな声に,嘉十は目をつぶってふるへあがりました。右から二ばん目の鹿が,俄(には)かにとびあがって,それからからだを波のやうにうねらせながら,みんなの間を縫ってはせまはり,たびたび太陽の方にあたまをさげました。それからじぶんのところに戻るやぴたりととまつてうたひました。

 「お日さんを

  せながさしよへば,はんの木(ぎ)も

  くだげで光る

  鉄のかんがみ。」

   (中略)

 このとき鹿はみな首を垂れてゐましたが,六番目がにはかに首をりんとあげてうたひました。

 「ぎんがぎがの

  すすぎの底(そご)でそつこりと

  咲ぐうめばぢの

  愛(え)どしおえどし。」

 鹿はそれからみんな,みじかく笛のやうに鳴いてはねあがり,はげしくはげしくまはりました。

 北から冷たい風が来て,ひゆうと鳴り,はんの木はほんたうに砕けた鉄の鏡のやうにかゞやき,かちんかちんと葉と葉がすれあって音をたてたやうにおもはれ,すすきの穂までが鹿にまじつて一しよにぐるぐるめぐつてゐるやうに見えました。

 嘉十はもうまつたくじぶんと鹿とのちがひを忘れて,

「ホウ,やれ,やれい。」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。

    (「鹿踊りのはじまり」 宮沢,1986)

 

この作品には重要な植物として,ニシキギ科の「ウメバチソウ」(Parnassia palustris L. var. palustris;第1図)が登場する。「ウメバチソウ」には,まるい白い花弁が5枚あり,それを天満宮の梅鉢紋にたとえて名前がつけられた。茎につく葉は,ハート形または円形をしており茎を抱くような形になっている。花期は,8~10月で,日当たりのよい湿った草地に生える多年草である。作品からすれば,太陽が西へ移動するとき,太陽の高さがちょうどハンノキの頂から梢の中ほどにある頃にススキ(第2図)の下で「ウメバチソウ」が咲くということになる。すなわち,「ウメバチソウ」は太陽系の周期に歩調を合わせ,言葉を代えれば昼の長さが短くなり,夜の長さが長くなるころに「食」の相から「性」の相へ変わり花を咲かせ実をつける。

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第1図.ウメバチソウ(箱根湿生花園で撮影)

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第2図.ススキ

 いっぽう,「鹿達(多分雄)」も10~11月の「性」の相すなわち繁殖期が近づいていることを彼らの宇宙リズムと共感する内臓器官で察知することになる。「雄鹿」は,繁殖期が近づくと「雌鹿」を求めて笛のような泣き声を発することが知られている。

 

作品では,六番目の「鹿」が,「ぎんがぎ」という太陽の光でまぶしく輝いているススキの下で「そつこり」と咲く「ウメバチソウ」を見て,「愛どしおえどし(いとし,おいとしいの意)」と恋心を歌う。このとき,「鹿達」の心臓の拍動は速くなり,その拍動に合わせて環のめぐりのスピードも速くなった。すなわち,「鹿はそれからみんな,みじかく笛のやうに鳴いてはねあがり,はげしくはげしく」廻ることになる。そこに,さらに主人公の〈嘉十〉までもが心がときめいたのか,または胸がおどったのか「じぶんと鹿とのちがひを忘れて」,「ホウ,やれ,やれい」と相槌まで打ってしまう。この「ホウ,やれ,やれい」という掛け声は,〈嘉十〉にとっては頭(脳)で考えたのではなく,心臓あるいは内臓の奥底から発した心情的な「こころ」の叫びであったに違いない。〈嘉十〉もまた,「ウメバチソウ」と「鹿」の踊りを見て恋心に似た感情が芽生えたのだ。

 

「鹿」,「ウメバチソウ」,〈嘉十〉の「心」が通じ合い,太陽系あるいは宇宙と一体化し交響した瞬間であろう。この場面では,人間も自然の一部だということだ。

  

 植物でも動物でも「心」をこめて育てればりっぱに成長してくれるという。人間の「心」と動植物の「心」が通じ合うのは,あながち賢治の童話の中だけということでもなさそうだ。

 

参考・引用文献

三木成夫.1992.海・呼吸・古代形象 生命記憶の回想.うぶすな書院.東京.

三木成夫.1995.内蔵のはたらきと子どものこころ.築地書館.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「植物や動物と「こころ」が通う(試論)」を加筆・修正にしたものです。

 

ススキを扱ったものとして以下の記事がある。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-光り輝くススキと絵画的風景(1)https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/27/121321

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-光り輝くススキと絵画的風景(2)https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/27/123334

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ススキと鳥を捕る人の類似点-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/23/141519