宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

リンドウの花は「サァン,ツァン,サァン,ツァン」と踊りだす

賢治は,作品にたくさんの擬音(オノマトペの一種)を入れることで知られている。童話『十力の金剛石』でも,天然物,動物,植物とさまざまな物に擬音が使われている。普通,物が動くとき音を発する。時計が時を刻むとき,実際そのように聞こえるかどうかは別として,リズムカルな機械音として「チクタクチクタク」とか「カチカチ」といった風に表現する。

 

しかし,賢治が用いる擬音は必ずしも音として聞き取れるものだけではない。例えば霧の降る音というのがある。

 大臣の子もしきりにあたりを見ましたが,霧がそこら一杯に流れ,すぐ眼の前の木だけがぼんやりかすんで見える丈です。二人は困ってしまって腕を組んでたちました。

 すると小さな声で,誰か歌ひ出したものがあります。

 「ポッシャリ,ポッシャリ,ツイツイ,トン。

  はやしのなかにふる霧は,

  蟻(あり)のお手玉,三角帽子の,一寸法師の

               ちひさなけまり。」

 霧がトントンはね踊りました。

 「ポッシャリポッシャリ,ツイツイトン。

  はやしのなかにふる霧は,

  くぬぎのくろい実,柏(かしは)の,かたい実の

               つめたいおちゝ。」

 霧がポシャポシャ降って来ました。そしてしばらくしんとしました。

        (『十力の金剛石』宮沢,1986)

 

「ポッシャリ,ポッシャリ,ツイツイ,トン」とは,霧がふる音を表している。霧の小さな水粒が動く(ふる)とき,本当にそんな音がするのだろうかと考えてしまうが,違和感が生じないから不思議だ。むしろ物のイメージが強調されていて「ぴったりでうまい表現だ」と言いたいくらいだ。ひょっとしたら,超高感度マイクロフォンを用いて聞いたら,本当にそう聞こえるかもしれないという錯覚に陥ってしまうほどである。

 

しかし,これが植物の動きを表した擬音になると,そう簡単には納得できないものがある。同じく『十力の金剛石』の中に,「リンドウ」(第1図)の花が出てくる。作品では「リンドウ」は「りんだう」と表記されている。例えば,「りんだうの花はそれからギギンと鳴って起きあがり」とか,「りんだうの花はツァリンと体を曲げて」とか,「ひかりしづかな天河石(アマゾンストン)のりんだうも,もうとても踊り出さずに居られないといふやうにサァン,ツァン,サァン,ツァン,からだをうごかして調子をとりながら云ひました」とある。また,「ウメバチソウ」(第2図)の震えのさまは「ぷりりぷりり」,起きあがるさまは「ブリリン」である。植物の動く様子が「ギギン」,「ツァリン」,「サァン,ツァン,サァン,ツァン」,「ぷりりぷりり」,「ブリリン」と言われても,霧の擬音と同じように素直に「ぴったりでうまい表現」だとは言えないところがある。

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第1図.リンドウ.

 

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第2図.ウメバチソウ.

 

賢治は,なぜ植物の動きにまで,意味が理解しにくい擬音を使おうとするのだろうか。

特に,花が咲いている植物に顕著であるように思える。評論家で思想家の吉本隆明(1996)は,「擬音の世界は,分節化できて意味になった言葉を,まだ完全にはしゃべれない乳児期の世界になぞらえられる。・・・また幼い子どもの音声でつづられた世界に似ている」と述べている。また,「もしエロスの情感が性ときりはなされて普遍化でき,その普遍化が幼童化を意味するとすれば,まずいちばんに擬音の世界にあらわれるとはいえそうな気がする」とも言っている。さらに,幼い子が,「あわわ」言葉を発するとき,その意味を理解できるのは母と幼子だけであり,「未分節の音声を母とかわす体験をなまなましく記憶している幼童性は,エロスの原型をなしている。宮沢賢治の資質は擬音をつくりだすことで,そこにかぎりなくちかづこうとした」ともいう。

 

賢治は,相思相愛の恋をしたが破局したという苦い経験をもっている。そして,賢治の性の意識(エロスの情感)は法華経への帰依という宗教的な志に昇華していった。破局の原因についてはよく分かっていないが,私は賢治の母への強い執着,別の言葉で言い換えれば母との関係の希薄さが原因の一つと推測している(Shimafukurou,2021a,b)。この母との関係の希薄さは,賢治にとっては寂しさを生んだと思われる。そして,賢治のエロスの情感は幼童化とともに擬音を作り出したと思われる。

 

植物は,太陽の周期と歩調を合わせて「性の相」と「食の相」を「宇宙リズム」で交代させている。花が咲くとき,植物はちょうど「性の相」にあたる。賢治は,植物の花に擬音でもって自らの昇華した性の「こころ」を通わしていたのかもしれない。しかし,その内容は吉本が言うように,賢治と母イチにしかわからないように思える。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

Shimafukurou.2021a.宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』-「リンドウの花」と悲しい思い-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/03/184442

Shimafukurou.2021b.宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/13/085221

吉本隆明.1996.宮沢賢治(第Ⅵ章 擬音論・造語論).筑摩書房.東京.

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「リンドウの花は「サァン,ツァン,サァン,ツァン」と踊りだす」を加筆・修正にしたものです。