宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『ビヂテリアン大祭』-植物を食べることの意味-

多くの菜食主義者(ベジタリアン)たちは,植物は食べるが動物は食べない。動物を食べない理由には2つあり,それぞれ2つのタイプのベジタリアンンが存在する。1つは動物に対して同情するから食べないというもので(同情派)で,もう1つは体に良くないから食べないというもの(予防派)である。一般的に同情派に属する人たちは仏教を信じる者が少なくなく,仏教の教えにある輪廻転生説の影響を強く受けている。すなわち,来世は豚や牛になるかもしれないということは計りがたいことだとすると,たとえ自ら殺した豚や牛でなくても食べることができないというものである。しかし,生命に対する「憐れみ」とか「平等感」ということを根底に置くなら,それは矛盾であり,動物も植物も同じであると思われる。なぜ,植物は食べてよくて動物はいけないのか。

 

菜食主義者でもある宮沢賢治に『ビヂテリアン大祭』という作品がある。賢治が亡くなった翌年(1933年)に発表された童話である。この童話の中でビヂテリアン派と反ビヂテリアン派が植物を食べることの是非について論争している。反ビヂテリアン派の1人が生物分類学的見地から次のように主張する。

ビヂテリアンたちは,動物は可哀さうだといふ,一体どこ迄(まで)が動物でどこからが植物であるか,牛やアミーバーは動物だからかあいさう,バクテリヤは植物だから大丈夫といふのであるか。バクテリヤを植物だ,アミーバーを動物だとするのは,だゞ研究の便宜上,勝手に名をつけたものである。動物には意識があって食ふのは気の毒だが,植物にはないから差し支(つか)へないといふのか。なるほど植物には意識がないやうにも見える。けれどもないかどうかわからない,あるやうだと思って見ると又また実にあるやうである。元来生物界は,一つの連続である,動物に考があれば,植物にもきっとそれがある。ビヂテリアン諸君,植物をたべることもやめ給(たま)え。

             (『ビヂテリアン大祭』 宮沢,1986)下線は筆者

 

これに対してビヂテリアン派も反論する。

いくら連続していてもその両端(りょうたん)では大分ちがってゐます。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは両端に赤と菫(すみれ)とがありまん中に黄があります。ちがってゐますからどうも仕方ないのです。植物に対してだってそれをあわれみいたましく思ふことは勿論(もちろん)です。印度(インド)の聖者たちは実際故なく草を伐(き)り花をふむことも戒(いまし)めました。然(しか)しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶(はんもん)しません。そこはそれ相応にうまくできてゐるのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺すといふやうなことは馬を殺すといふやうなのと非常なちがひです。バクテリヤは次から次と分裂し死滅しまるで速かに速かに変化してるのです。それを殺すと云った処で馬を殺すといふやうのとは大分ちがひます。またバクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく私共が生まれつきバクテリヤについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。また仕方ないのです。

             (『ビヂテリアン大祭』 宮沢,1986)下線は筆者

 

『ビジテリアン大祭』の中では,植物性と動物性食品の栄養価や味覚の比較から始まって食料の経済学的見地,生物分類学的見地,解剖学的見地,宗教学的見地など様々な切り口から論争が展開されているが,この生物分類学的見地からの論争ではビジテリアン派の反論は的を射てないと思われる。ビジテリアン派の言い分では,俗に言う「意識」(あるいは精神)のある高等生物を殺すのは可哀そうだが,「意識」のない下等生物は殺して食べても仕方がないのだといっているだけで,動物と植物の違いからは答えてはいない。

 

私は,植物に「意識」や「心(こころ)」があるのかどうか検討したことがある(石井,2021)。植物には,脳や感覚神経などの組織がないので人間の「意識」(あるいは精神)に相当するものはないと言い切れるかも知れないが,人間の心情でもある「心」がないとは言い切れないところがある。

 

解剖学者で発生学者の三木成夫(1995)によれば,「心」とは物事に感じて起こる情であり,感応とか共鳴といった心情の世界を形成するものだという。そして,「心」のある場所は,頭(脳)というよりは,心臓,胃,子宮などの「内臓器官」であると言っている。「血がのぼる」,「胸がおどる」,「心がときめく」などは,人間の心情を心臓の興奮で表現したものであるといっている。また,お腹が空いたり,子宮が28日毎に精子を待ち続け,そして「待ちぼうけ」を食らったりしたときの「いらいら」感も同様に「胃」とか「子宮」の切迫した状況での内臓表現であると言っている。無論,考えたり,知覚したりする高度な感覚は,精神あるいは意識の座である頭(脳)が司っている事は言うまでもない。

 

三木は,さらに植物にも人間や動物の内臓感覚に相当する「心」はあると信じている。例えば,動物の体内にある心臓は,植物にとっては光合成のもとである「太陽」であると言っている。植物は,豊かな大地に根をおろし,天空に向かって茎や葉という触手をのばし,太陽を中心とした循環回路のなかで光合成すなわち生の営みを行う。また,動物と同様に,「食」の相である茎・葉の生い茂る季節と,「性」の相である花が咲き実のなる季節があり,種によって時期は異なるものの「太陽系の周期」と歩調を合わせている。

 

植物は,動物を特徴づける「感覚・運動」の神経組織も筋肉組織もないので,「食」と「性」の相を行き来することはできない。それゆえ,植物は,動物のように動けなくても自分自身が,太陽を廻りながら,「食」と「性」を交代させる一個の惑星,いわば地球の「生きた衛星」となり,「太陽系の周期」との調和に,まさに全身全霊を捧げつくすのである。そして,三木はこの「太陽系の周期(宇宙リズム)」との調和が植物の純粋な「心」であると言っている。

 

上記引用文(下線部分)で反ビヂテリアン派は「元来生物界は,一つの連続である,動物に考があれば,植物にもきっとそれがある」と言っていた。この「考」は「意識」あるいは「精神」のことを指していると思われるが,ここでは「考」を「心」と置き換えてみたい。すると,植物にも動物の「心」と類似したものがあるとするなら,その「心」を持つ植物を食べても良いのだろうかという疑問が生じてくる。

 

菜食文化研究家の鶴田 静が著書の中でビヂテリアン派を擁護しているので,彼の言説をもとに「心」を有する植物を食べることの意味について検討していきたい。

動物を食べるのが罪悪なら,植物を食べるのも罪悪であるのは道理だろう。だが,その存在の意味が違うのではないだろうか。動物は,食べられるために存在しているのではない。だがある種の植物は,食べられるために存在する。ことに果樹は,人間に食べられることによって,種の存続のためにその種子を広い範囲にまくことができる。だから,「食べられる」ことは必要なのだ。

                 (『ベジタリアン宮沢賢治』 鶴田,1999)

 

果樹になる果物を考えれば,確かに「植物は食べられるために存在する」というのは説得力があるが,果樹本体および果物をつけない一般的な植物にも普遍化できるだろうか。

 

近年,植物学は著しい進歩をとげ,植物の生き残るための巧みな戦略を次々と明らかにしてきた。すなわち,植物は,動物に食べられることを前提として,いかに上手に生き残れるかを模索していったように思われる。無論,体の全部根こそぎ食べさせても良いという植物はいない。

 

菜食主義者に同情派と予防派の2つのタイプがあるように,食べられる側の植物にもいくつかのタイプが知られるようになった。1つは,体の一部を積極的に動物(人間を含む)に食べてもらうタイプ(共存派),2つ目は,体の一部を食べられても直ぐに再生できるタイプ(再生派),3つ目に,体の一部でも絶対に食べさせないタイプ(敵対派)である。これらタイプは,はっきりと区別できるものではなく重複もする。

 

県立大磯城山公園で共存派は,カキ,ザクロ,ウメモドキ,クロガネモチ,スダジイ,ツブラシイなどのように木の実あるいは果実をつけるものである。鳥と共存を選んだものは,鳥に上手く見つけてもらうために実の色を赤くしたものが多い(赤は葉の緑とのコントラストが強烈で鳥にも目立つ)。種子は赤い実の中にあり,消化されずに糞として排泄され,遠隔地に別の新しい命を誕生させる。スダジイ,ツブラシイなどのドングリはたぶんネズミが運ぶが,ネズミは冬に備えて地面に埋める習性がある。再び掘り出されて食べることなく忘れ去られたドングリは親木から離れた場所で新しい命を誕生させることになる。

 

再生派は木の実をつける木本から草本にいたるまでほとんど全ての植物を代表としている。背丈がある程度あり,発芽して成長を続ける植物の茎の先端には頂芽(ちょうが)と呼ばれる芽がついていて,次々と葉を出してくる。仮に茎の先端が葉と一緒に食べられ,この頂芽がなくなっても,残った葉の付け根にある芽(側芽)が伸び成長を続ける。また,オオバコやタンポポのように背丈が低い植物では,葉を作り出す芽は地表面すれすれのところにある。動物などにごそっと葉を食べられても,芽は食べさせないので再び葉を出すことができる。

 

さて,ここで重要なのは,再生できるから植物は食べていいのかという問題である。別の言葉で言うなら,再生派の植物にとって,一時でも,体の一部(果実以外の茎,枝,葉)を動物に食べさせることは利益になるのであろうかということである。答えは否であると思われる。植物は熟した果実以外は動物に食べられることを「良い」とはしていない。例えば,葉が昆虫などに食べられ障害を受けると,食べられている葉からある種の物質(ジャスモン酸など)が作られ,周囲の木や葉に警告を発したり,昆虫の消化酵素を阻害するプロテアーゼインヒビターなどの防御物質の生産を誘導したりすることが明らかになってきた。警告を受けた木や葉は,昆虫が嫌う化学物質の濃度を高くすることも分かってきた(高野,2000;秋田県立大学生物活性物質研究室,2021)。さらに,ヌルデの葉にヌルデノミミフシアブラムシが寄生すると,葉はタンニンという昆虫の大嫌いな化学物質を大量に作って虫こぶの中に封じ込める。また,タラノキの芽を取ると棘が大きく成長してくる。

 

すなわち,適切な言葉が浮かばないが,植物は食べられたくはないのだ。植物は葉が食べられれば「食」の相が障害され,「太陽系の周期」とうまく歩調を合わせることができなくなる。もしも,植物に「心」があるとすれば,食われるということは「太陽系の周期」と歩調を合わせることに失敗するということなので,植物の「心」は変調をきたすことになる。別の言葉で言えば,植物は自分の体を食べられれば不快を感じるのだと思われる。果実にしても,まだ熟していない青い果実は種子が完全には出来上がっていないので,果実の中に青酸などの有害物質を含有させ動物に食べさせない。

 

敵対派の数は少ないが,城山公園にもアセビ,ヒガンバナ,フクジュソウ,ツツジ,シャクナゲなどがある。猛毒のアルカロイドを自ら産生し葉,茎,花に貯蔵している。食べれば命を落とす場合もある。

 

このように,植物は必ずしも「食べられる存在」というものではないと思われる。実際は,植物だって食べられたくはないのだ。食べられて良い存在は植物体の一部である熟した甘い果実(種子を除く)くらいである。「憐れみ」とは相手の気持ちや身の上を察して気の毒に思い,行動に移すことである。植物が食べられることで不快という気持ちになるなら,それを察するということも必要であろう。すなわち,生命に対する「憐れみ」とか「平等感」ということを根底に置くなら植物も動物も同じである。反ビヂテリアン派の「動物が可哀そうだから食べないというなら(動物のように心のある)植物も食べてはいけない」(括弧内は筆者)という主張は正当といわざるを得ない。

 

賢治はベジタリアンを自称していたが,完璧なベジタリアンではない。大乗仏教を志し,「もしたくさんの命の為(ため)に,どうしても一つの命が入用なときは,仕方ないから泣きながらでも食べていゝ,そのかはりもしその一人が自分になった場合でも敢(あへ)て避けない(『ビヂテリアン大祭』宮沢,1986)」という考えを持ちつづけていた。だから,賢治は主に植物を食べたが,ときに動物の肉も食べることがあった。菜食主義者であろうがなかろうが,賢治のように泣きながらでなくても良いが,食事のときぐらい食べられるものたちに感謝の気持ちをもつことは必要かもしれない。

 

食事前の「いただきます」とは,仏教的には「わたしの命のために,あなたの命をいただきます」という意味であることを我々は忘れている。

 

参考・引用文献

秋田県立大学生物活性物質研究室.2021.9.30(調べた日).研究内容.https://www.dbp.akita-pu.ac.jp/~grc/lab_research.html

石井竹夫.2021.宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』―植物や動物と「こころ」が通う-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/01/101145

三木成夫.1992.海・呼吸・古代形象 生命記憶の回想.うぶすな書院.東京.

三木成夫.1995.内蔵のはたらきと子どものこころ.築地書館.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

鶴田 静.1999.ベジタリアン宮沢賢治.晶文社.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「植物を食べることの意味(試論)」を加筆・修正にしたものです。

                           2021.10.2(投稿日)