宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「青じろき火を点じつつ」とはどういう意味か (第2稿)-

賢治は恋人と一緒かどうかは定かではないがアメリカへ行こうとしていたのは事実である。賢治と同郷の関徳彌(登久也)が,賢治の教え子である長坂俊雄(旧姓は川村)からアメリカ行きの話を聞いている。大正11年(1922)から12年頃に,賢治が「おれはアメリカへ行って百姓をするんだよ」と話したという(関,1995)。賢治は長坂に「アメリカの地図を広げて百姓するにはどこがいいかなど」を説明し,一緒に行かないかと誘ったりもしたという。

 

同じような話は賢治研究家の畑山博も同じく長沢から聞いている。賢治は大正11年から13年頃に長坂に南アメリカ移住計画について話している。この話は複数の教え子も知っていたという。ただ,行き先が南アメリカのどこになるかなどの具体的な話はなかったのだという(畑山・石,1996)。賢治が教え子にアメリカ行きの話をしたのが1回だったのか複数回だったのかは定かでない。南アメリカの話が本当なら畑山が聞いた話は大正13年以降と思われる。大正 13年(1924)7月1日にアメリカのクーリッジ大統領政権の下で,排日移民法が施行された。施行後に北米への移住が困難となり南米に切り替えた可能性があるからである。

 

賢治と長坂のアメリカで百姓をする計画は実現しなかったが,長坂は農学校在籍中(1923年5月)に賢治が指導して上演された劇『植物医師』(初演形)の主役を演じている。この劇は1920年代,アメリカのある小さな町を舞台とした英語劇として発案されたが,生徒の英語力では対応できずに「カムイン」や「ハンド アップ」など一部の英語を残して日本語劇になった経緯がある。日本からアメリカに渡った植物医師が現地の農民が持ち込んでくる植物の病気に対処する物語である。出演者の1人であった松田奎介は回想で,外国人らしい身振りや態度を出演者に指導する時の賢治の様子が「いかにも堂に入っているので感心した」と語っている(土田,2004)。ちなみに,この劇の舞台はロッキー山脈が出てくるので北アメリカ大陸である。

 

賢治は劇『植物医師』(初演形)以外にもアメリカの地名などが出てくる童話や詩をいくつか残している。その1つが童話『ビヂテリアン大祭』(1923)である。舞台はニューファンドランド島で菜食信者(ビヂテリアン)とそれに反対する異教徒(非ビヂテリアン)が「大祭」が行われる会場に集まって動物を食べることの異議について議論するというものである。アメリカの地名は,この会場で菜食信者を排撃するビラを蒔いている人たちが乗ってきた自動車にある。この車に「シカゴ畜産組合」という文字が書かれてある。シカゴは当時アメリカの精肉産業の一大中心地だった(土田,2004)。また,ニューヨークから喜劇役者が余興を演じるために参加している。賢治は大正12年頃に語学のみならずアメリカ人の生活様式,産業,風俗などをかなり熱心に学んでいたと思われる。アメリカに渡る準備ともとれる。

 

童話『虔十公園林』(1923)は軽度の知的障害を持つ虔十が杉の苗を植えて林に育てていく物語である。この物語にアメリカに渡って大学教授になった若い青年が登場する。この人物は,虔十が作った林で遊んだことがあり,15年ぶりに帰国したとき,周辺は様変わりしているのにその林だけが変わらずに残っていたことに感動して「虔十公園林」と彫った青い橄欖岩(かんらんがん)の碑(ひ)を建てる。当時,花巻には公園などなかったと思われる。これも,賢治にとっては希望の「青い火」なのだろう。

 

さらに,賢治はアメリカでの理想的な農業がどういうものなのかを童話『銀河鉄道の夜』の中で語ったりもしている。キリスト教徒と思われる青年が車窓からの風景がアメリカ東部のコンネクチカット州(コネチカット州のこと)を通過したあたりで語る。以下引用文に登場する眼の茶色な〈女の子〉は恋人でこの〈女の子〉と一緒の青年には賢治が投影されている。

 

「あら,こゝどこでせう。まあ,きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套(ぐわいたう)を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。

「ああ,こゝはランカシャイヤだ。いや,コンネクテカット州だ。いや,ああ,ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいことありません。わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」黒服の青年はよろこびにかゞやいてその女の子に云ひました。

    (中略)

「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいゝものができるやうな約束になって居おります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子(たね)さえ播まけばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のやうに殻もないし十倍も大きくて匂もいゝのです。

                  (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

関徳彌や畑山博が賢治の渡米を長坂から聞いた時期は賢治の恋が破局に向かっていた時期と重なる部分がある。また,アメリカに関する童話の創作や演劇の上演は大正12年(1923)に集中している。賢治と恋人がアメリカ行きで話し合った可能性は十分にあると思われる。賢治のアメリカ行きは,移住も含めてかなり本気であったように思える。

 

賢治のアメリカ行きは恋人に出会う前にすでに芽生えていた。大正8年(1919)年8月20日頃に保阪嘉内に宛てた書簡に,「私の父はちかごろ毎日申します。「きさまは世間のこの苦しい中で農林の学校を出ながら何のざまだ。何か考へろ。みんなのためになれ。錦絵なんかを折角(せっかく)ひねくりまはすとは不届千万。アメリカへ行かうのと考へるとは不見識の骨頂。」・・・」とある。多分,賢治のアメリカ志向は盛岡高等農林学校時代の「アザリア」の同人の1人である小菅謙吉の影響を受けたものと思われる。小菅は,大正7年(1918)に農業を学ぶために渡米している。彼はアメリカの各地で8年間農業を学んだが,1921年賢治の恋人が行くことになったシカゴも訪れている(Wikipedia)。

 

保阪宛の書簡で注目すべきところは,賢治の父・政次郎が息子のアメリカ行きの話に激怒していることである。恐らく,賢治は単独あるいは恋人とアメリカ行きを決行すれば父・政次郎から勘当されたかもしれない。それをうかがわせるものが「冬のスケッチ」に残されている。「冬のスケッチ」〈七-三〉は何度か推敲されている。最初に紹介したものは手入れ後の最終稿のようなものである。

 

どんなことが手入れ前に書かれていたかというと,例えば2行目の「青じろき火を点じつつ。」は最初「青じろき火を点ずれば」で「句点」もなかった。さらに,次の行に「たちまちわれそをけされつ」と続いていた。この「たちまちわれそをけされつ」は,「たちまちわれそを封じられる。」(下線は引用者)や「泥をいたゞきぬ」に修正されていたりもした。これらは最終的に消されるのだが,消された詩句にある「われそ」とは何であろうか。多分,「われ」は私で「そ」は「祖」と思われる。「祖」は祖先とか血統という意味がある。すなわち,賢治がアメリカ行きを決行すれば親子の縁が「けされる」,「封じられる」,「泥をいただく」ことになったと思われる。

 

賢治が生きた時代には民法で定められた「家制度」(1947年まで存続)というのがあった。「家」を単位として1つの戸籍を作り,戸主(家長)が家族全員を絶対的な権利をもって支配するという仕組みである。結婚や住む場所も家長の同意が必要であった。昭和の後半あるいは平成生まれの人には理解できないと思われる。この「家制度」に対する賢治の思いは,初期短篇『家長制度』に手短にまとめられている。偶然にある「家」で一夜を過ごすことになった旅人らしい人の「わたし」の話として語られる。「家」の主人は金色の銭のような目玉をしていて炉の向こうで座っている。息子たちは主人に黙って服従している。旅人の食事の世話をしていた女が重い陶器の皿を床に落としてしまうと,主人は黙った立ち上がり女を殴ってしまう。ただ,それだけの様子が書かれてあるのだが,旅人には居心地が悪いと感じたのか,最後に「わたしはまったく見も世もなない」と記載して終わる。この旅人らしい「わたし」は賢治のことであろう。

 

賢治は家長である父・政次郎から勘当されるのを恐れたと思う。家督を相続できなくなってしまっては,前稿で述べたように小作人に土地を返す約束も果たせなくなってしまう(石井,2023)。また,アメリカで農業を学んだあとに花巻に帰ることもできない。結局,賢治はアメリカへ行きたかったが,「家制度」で縛られる花巻から離れることができなかったのだと思われる。

 

童話『やまなし』の創作メモ「冬のスケッチ」にある「さかなのねがひはかなし/青じろき火を点じつつ。」は,「さかな(賢治)のクラムボン(恋人)を水底(花巻)から連れだす願いが叶えられなかったことは悲しい/青白き火の点るところ(アメリカ)へいっしょに行きたいという気持ちは強くあったのに」という意味のように思われる。

 

童話『やまなし』では「天井の波はいよいよ青い焔をあげ」の次に「やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり」となっている。「やまなし」を恋人,「木の枝」を賢治とすれば,この情景は恋人が賢治にアメリカへ連れ出してもらおうと必死にしがみついている様子を表現しているのだと思える。

 

参考・引用文献

畑山 博・石 寒太.1996.宮沢賢治幻想紀行.求龍堂.

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「さかなのねがいはかなし」とはどういう意味か(第2稿)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/02/02/115335

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

関登久也.1995.新装版宮沢賢治物語.学習研究社.

土田英子.2004.宮澤賢治とカール・サンドバーグのアメリカ:日米の詩人による移民のイメージ.国際広報メディア研究科・言語文化部研究叢書55「植民・移民・難民のメディア学」(伊藤章・宮下雅年).