宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-光り輝くススキと絵画的風景(1)-

Key words: 文学と植物のかかわり,逆光,ホイッスラー,ススキ,ターナー

 

『銀河鉄道の夜』では,夢の中でジョバンニとカムパネルラが黒い丘から銀河鉄道の列車に乗り込んで天上世界に旅立つ。最初に到着する天の野原には,紫色の細かな波をたてたり虹のようにきらっと光ったりする青白く光る銀河が流れ,月長石ででも刻まれたような紫の「リンドウ」と緑の「芝草」が銀河に沿って生え,そして「ススキ原」の中にはたくさんの青や橙色の光輝く「三角標」が三角や四角などの星座の形になって立っている(第六章「銀河ステーション」)。

 

天の野原にはススキが光り輝くとは記載されていないが,「銀河だから光るんだ」というように,銀河の青白い光を浴びて「ススキ」が銀色に光輝く様子が間接的に描かれている。この天の野原は,天上世界の中では最も美しい場所と言える。『銀河鉄道の夜』のプラネタリウム版アニメ(KAGAYA studio,2006)でも天空いっぱいに光り輝く「ススキ」,「リンドウ」そして「三角標」のある野原が映し出されていた。本稿では,この絵画的とも言える風景が何をヒントにして考案されたのかを考察してみる。また,この物語の舞台が南欧ということもあり,天上にあまりにも日本的な「ススキ原」の風景を採用した理由についても考察したい。

 ジョバンニは,白鳥と書いてある停車場のしるしの,すぐ北を指しました。

 「さうだ。おや,あの河原は月夜だらうか。」

 そっちを見ますと,青白く光る銀河の岸に,銀いろの空のすゝきが,もうまるでいちめん,風にさらさらさらさら,ゆられてうごいて,波を立ててゐるのでした。

 「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云ひながら,まるではね上がりたいくらゐ愉快になって,足をこつこつ鳴らし,窓から顔を出して,高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって,その天の川の水を,見きはめようとしましたが,はじめはどうしてもそれが,はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると,そのきれいな水は,ガラスよりも水素よりもすきとほって,ときどき眼の加減か,ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり,虹のやうにぎらっと光ったりしながら,声もなくどんどん流れて行き,野原にはあっちにもこっちにも,燐光の三角標が,うつくしく立ってゐたのです。遠いものは橙や黄いろではっきりし,近いものは青白く少しかすんで,或いは三角形,或いは四角形,あるいは電(いなづま)や鎖の形,さまざまにならんで,野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは,まるでどきどきして,頭をやけに振りました。するとほんたうに,そのきれいな野原中の青や橙や,いろいろかゞやく三角標も,てんでに息をつくやうに,ちらちらゆれたり顫(ふる)へたりしました。

 「ぼくはもう,すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云ひました。

 「それにこの汽車石炭をたいてゐないね。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

 「アルコールか電気だらう。」カムパネルラが云ひました。

ごとごとごとごと,その小さなきれいな汽車は,そらのすゝきの風にひるがえる中を,天の川の水や,三角点の青白い微光の中を,どこまでもどこまでも,走って行くのでした。

 「あゝ,りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だね。」カムパネルラが,窓の外をさして云ひました。

 線路のへりになったみじかい芝草の中に,月長石ででも刻まれたやうな,すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。           

(六,「銀河ステーション」)宮沢,1986 下線は引用者                             

 

1.光る銀河とススキ

カメラを手にすると,一度は秋の夕暮れの逆光に光り輝く「ススキ(イネ科;Miscanthus sinensis Andersson)」を撮ってみたくなるものである(第1図)。Web上でも「にわかカメラマン」が投稿した光輝く「ススキ」の穂の写真をたくさん見ることができる。特に,「ススキ」の穂が銀白色に輝くのは,果実が熟して小穂基部の束になった白い基毛が開くときだ。なぜ,夕暮れ時に逆光で「ススキ」の穂は光輝くのであろうか。これは,背景が暗いところに逆光で「ススキ」を見ると,小穂基部の白い基毛が黒い背景の中に光って浮かび上がるからだと考えられている。写真用語では,輪郭線にハイライトが生じることをラインライト効果という。

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第1図.逆光で光り輝くススキ(神奈川県大磯町).

賢治は,逆光に光り輝く「ススキ原」を童話『鹿踊りのはじまり』に文章として登場させている。この童話は,『銀河鉄道の夜』の第一次稿(1924年)を執筆し始めた頃に出版された最初の童話集『注文の多い料理店』に収録されている。『鹿踊りのはじまり』は,北上川の東側から移住して畑を開いて暮していた主人公(嘉十)が,湯治のために西の山にある温泉に出かけていく途中で6頭の鹿に出くわすことで物語が始まる。鹿たちは,太陽に向かって一列に並び右から1頭ずつ順番に歌い出す。嘉十はこれを「ススキ」の影に隠れて見ている。

  太陽はこのとき,ちやうどはんのきの梢の中ほどにかかって,すこし黄いろにかゞやいて居りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになつて,たがひにせはしくうなづき合ひ,やがて一列に太陽に向いて,それを拝むやうにしてまつすぐに立つたのでした。嘉十(かじふ)はもうほんたうに夢のやうにそれを見とれてゐたのです。

 一ばん右はじにたつた鹿が細い声でうたひました。

 「はんの木(ぎ)の

  みどりみぢんの葉の向(もご)さ

  ぢやらんぢやらんの

  お日さん懸がる。」

 その水晶の笛のやうな声に,嘉十は目をつぶつてふるへあがりました。右から二ばん目の鹿が,俄かにとびあがつて,それからからだを波のやうにうねらせながら,みんなの間を縫つてはせまはり,たびたび太陽の方にあたまをさげました。それからじぶんのところに戻るやぴたりととまつてうたひました。

 「お日さんを

  せながんさしよへば,はんの木(ぎ)も

  くだげで光る

  鉄のかんがみ。」

 はあと嘉十もこつちでその立派な太陽とはんのきを拝みました。右から三ばん目の鹿は首をせはしくあげたり下げたりしてうたひました。

 「お日さんは

  はんの木(ぎ)の向(もご)さ,降りでても

  すすぎ,ぎんがぎが

  まぶしまんぶし。

 ほんたうにすすきはみんな,まつ白な火のやうに燃えたのです。

(『鹿踊りのはじまり』宮沢,1986)下線は引用者 

 

この引用文で注目したいのは,太陽に向かって三番目の鹿が歌う「お日さんは/はんの木の向さ,降りでても/すすぎ,ぎんがぎが/まぶしまんぶし。」という歌である。「ぎんがぎが」は「ぎんがぎんが」や「ぎがぎが」と同様に東北の方言で「光り輝く」様をいう。三番目の鹿の歌を標準語に翻訳すれば,「太陽はハンノキの向こうに沈んでいくが「ススキ」の穂はギラギラと輝いて眼も眩むようだ」である。また,「ぎんがぎが」の「ぎんが」は『銀河鉄道の夜』の自ら青白く光る「銀河」を連想させる。なぜ「銀河」が光るかは,『銀河鉄道の夜』の第一章「午後の授業」で,ジョバンニの先生が理科の授業で「天の川」の中の「このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じやうにじぶんで光ってゐる星(恒星)」だからと教えてくれる。

 

2.光る光源を画面の中心に配置した画家たち

『銀河鉄道の夜』の天上には,我々が日常よく目にする森や野原や川などの風景が広がるが,そこに存在する多くのものは白や青や黄色の光や燐光で満ち溢れている。では,この光り輝く天上の風景描写は何をヒントにしたのだろうか。多分,賢治が観賞したであろう絵画によると思われる。賢治は,稗貫郡立稗貫農学校(現在の県立花巻農業高等学校)に勤務していた頃,学校の階段にセザンヌやゴッホなどの複製画を飾り,時おり説明を加えて生徒たちに鑑賞させたという(板谷,1992)。

 

しかし,賢治に影響を与えたのは印象派の画家たちだけでなく,その先駆者というべきイギリス人のターナー(Joseph Mallord William Turner;1775-1851)(藤田,2001)やドイツ人のフリードリッヒ(Caspar David Friedrich;1774-1840)といったロマン派の画家たちもいる。また,ロマン派と印象派の懸け橋を担ったアメリカ人の画家であるホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler;1834-1903)も加えられるべきである。

 

板谷(1992)によると,賢治は,特に「光と色彩の錬金術師」と呼ばれたターナーが好きだったようで,盛岡高等農林学校時代にしばしば小岩井農場に散策にでかけ,美しい色彩に満ちた幻想的な光景を見たとき,知人に「紫,青,赤,黄などいろいろな色が見えだし,美しい天地だと思えばそう見えたし,テームズ川だと思えばそうも見えた」と話したという。ターナーは,テームズ川に魅せられ生涯にわたって川沿いの地区に暮した。

 

『春と修羅』の中の詩「不貪慾戒(ふとんよくかい)」には,「粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が/タアナアさへもほしがりさうな/上等のさらど色になってゐることは/慈雲尊者(じうんそんじや)にしたがへば/不貪慾戒のすがたです」(1923.8.28)と,画家のターナーとターナーが好んだ黄色(=さらど色?)が登場してくる。「不貪慾戒」は,「貪らない」とか「慾深くならない」の意味であり,慈雲(1718-1805)は江戸時代後期の真言宗の僧侶である。

 

慈雲は,仏教の「十の戒め」を記載した『十善法語』を著していて,その中で「不貪慾戒に住して,色に対すれば,一切の青黄赤白が此眼を養ふに足るじゃ。一切松風水声・絲竹管弦が此耳を喜ばしむるに足るじゃ」と述べている。『新宮澤賢治語彙辞典』の「不貪慾戒」の説明では,「物を前にしてその色彩を楽しんで物欲を起こさない心のあり方を不貪慾戒というのだから,風景画家は,自然の中に色彩を見出す者であるがゆえに,不貪慾戒に住することになる。そして賢治もターナーの心境で黄金色に実った稲の群落に眼を養い,心を遊ばせているのだから,慈雲尊者に従うならば,たしかに不貪慾戒に住するはずである」としている(原,1999)。

 

『新宮澤賢治語彙辞典』の説明に異論はないが,ターナーが黄色を好んだ理由としてもう一つ加えるとすれば,ターナーは「霧の街」と揶揄されるロンドンに永く住んでいたので太陽を象徴する黄色に憧れたからだとも考えられる(太陽の色は日本では一般的に赤)。これは,賢治にも言えるがターナーよりはより悲劇的である。春から秋にかけてオホーツク海気団より吹く冷たい湿った北東の風(「やませ」)が東北地方の太平洋岸へ吹くと,平野部で濃霧が発生し冷夏(冷害)となる。「やませ」が稲の開花時期に吹けば,日照時間減少と気温減少により収穫は減少する(凶作)。賢治は,東北の凶作による飢饉を経験していたと思われるので,賢治も南欧の黄色い太陽や青い空には憧れを抱いたと思う。

 

3.ターナーの画法

ターナーは,初期には写実的な風景画を描いていたが,44歳のときイタリア旅行(1919年以降4回)を経験した後には,イタリアでの強烈な「光」体験から大気と「光」の効果を追求することに主眼を置き始める(関口,1988)。

 

その好例が《レグレス》(第2図,1828~29年,1837年加筆)である。画面には建物や船が描かれているが,「光」が画面のほぼ中央から観賞者に向かって眩いばかりに放射され,それらを形あるものとして浮立たせるというよりは溶解させている(富岡,2003;東京都美術館で開催されたターナー展,2013)。ターナー以前の絵画では,画面の外に光源を置く構図が多かった。《レグレス》の主題は,ポエニ戦争から採られている。伝説によれば古代ローマの将軍レグレスはポエニ戦争で敵国の捕虜となり,暗い地下牢に閉じ込められ瞼を切り取られたのち,牢獄から引きずり出され太陽の光を浴びて失明する。ターナーは,レグレスの「光」の体験を我々観賞者に共有させようとしたとされる。

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第2図.《レグレス》 J.M.W.ターナー . 1828~29年,1837年加筆.

さらに《ヴェネチア,税関舎とサン・ジョルジョ・マジョーレ》(1842)では,次第に光と空気の中に溶け込んでゆく水の都ヴェネチアの静かなたたずまいが,僅かな細部描写を残しながら,ほぼ色彩のみで表現されている(関口,1988)。色彩も単純化され,光り輝くヴェネチアの海と街の光景は白,黄色,青の三3色で表現される。最晩年の作品に《湖に沈む夕日》(1940~45年)があるが,これも前2作品と同様に光源を真正面に持ってきているが,建物や人物もなく,強烈な「光」そのものを描いてみせている。

 

多分,『銀河鉄道の夜』の天上の光輝く風景描写の色彩は,ターナーの影響があるものと思われる。本稿の引用文で,「三角標」が「遠いものは橙や黄いろではっきりし,近いものは青白く少しかすんで」とあるのは,賢治が光源である銀河と物語の中の観測者の間にある構造物をターナーの絵画のようにかすんで見えるようにしたか,あるいは青白く輝く「琴座のベガ」を妹と見なし観測者の眼を潤ませたのであろう。

 

4.ホイッスラーの画法

天上の夜の風景描写の「構図」は,賢治の詩「宗谷挽歌」に登場するホイッスラーの影響かもしれない。ホイッスラーは,ターナーを崇拝していて色彩を重視し,色彩と形態の調和に主眼を置き(耽美主義),主にロンドンで活動した。浮世絵をはじめとする日本美術の影響も強く受けていて,ジャポニズムを欧州へ紹介した画家としても知られている。ホイッスラーは,肖像画などの人物画を画く一方で「ノクターン」と呼ばれるテームズ川の夜景を描いた一連の作品を残した。風景画の代表作に《青と銀のノクターン》(第3図,1871~72),《ノクターン:青と銀色-クレモンの灯り》(1872),《青と金のノクターン-オールド・パターシー・ブリッジ》(1872~75),《黒と金色のノクターン-落下する花火》(1875)などがある。

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第3図. 《青と銀のノクターン》 J.A.M.ホイッスラー. 1871~72.

賢治は音楽にも興味があり,レコード収集家としても有名であった(萩谷,2013)。賢治が所持していたレコードのうちフランス人の作曲家ドビッシー(Claude Achille Debussy;1862-1918)の『夜想曲』(nocturnes;1900)は,ホイッスラーの「ノクターン」と題される絵画のシリーズから着想されたと言われている。賢治は,幻想感覚を含む特異な感覚を有するので,ホイッスラーの絵画(多分雑誌などに記載された複製画か写真)をみたとき,同時にドビッシーの『夜想曲』が幻聴となって聞こえたのかもしれない。

 

ホイッスラーの画法は,色彩が単純化され,対象物の輪郭を失い,それらが一体になって作品が形成されるものである(真屋,1999)。《青と銀のノクターン》は,霧に煙るテームズ川と輪郭がぼやけた川岸の向こう側の三角形をした建築物(倉庫,宮殿あるいは教会?)と,川岸のこちら側の東洋風(ササ?)の植物が描かれている。ホイッスラーは,自らの著作『十時の講和』(1885)でテームズ川の夜景について,「夜霧が帳となって川辺を包むと,みすぼらしい建物は闇に姿を紛らわす。天に向かう煙突は鐘楼にかわり,倉庫もまた夜の宮殿へと変貌を遂げる。街のすべてが宙に浮き,眼前に拡がるのは妖精の国である。」と述べている(スポルディング,1997)。ホイッスラーの「ノクターン」は,光り輝くとはいかないが,色彩は青が主体で黄色が灯りとして点在していて,どことなく『銀河鉄道の夜』の天上の「三角標」のある風景を彷彿とさせる。(次稿に続く。)

 

引用文献

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

藤田治彦.2001.ターナー-近代絵画に先駆けたイギリス風景画の巨匠の世界.六耀社.東京.

萩谷由美子.2013. 宮澤賢治の聴いたクラシック.小学館.東京

板谷栄城.1992. 素顔の宮澤賢治.平凡社.東京.

真屋和子.1999.プルーストの眼-ラスキンとホイッスラーの間で-.一橋論叢.122(3):432-450.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

関口葉子.1988. J・M・W・ターナーの研究-イタリア旅行の意味について-.哲学会誌.12:63-77.

スポルディングF.(吉川節子訳).1997.ホイッスラー.西村書店.東京.

富岡進一.2003.J.M.W.ターナーにおける光と色彩.成城美学美術史.9:49-70.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌14巻第1号43~46頁2014年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

なお,原著(45ページ)では「昭和二年(1927年)は未曾有の凶作に見舞われた。」と記載したが,事実に即していないので本稿では削除した。