宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(3)

 

前稿で,登場する植物を解読することによって,童話『烏の北斗七星』が「東北」の「先住民」と朝廷軍の三十八年戦争がイメージされていることを明らかにした。本稿から,三十八年戦争を念頭に置いて,烏の戦士達の戦いにおける北斗七星への「祈り」と「涙(泪)」について考察する。

 

3.人を殺める心理

烏の駆逐艦隊の部下達が敵艦を撃沈した後に流す「泪」にはどんな意味があるのだろうか。19隻の烏の駆逐艦隊は,北へ逃げる1隻の敵艦を取り囲んで「があがあがあがあ」と「耳もつんぼになりそう」に激しく砲撃する。そして,艦隊長と兵曹長の2艦の砲弾が命中して敵艦は撃沈する。本来は「拿捕(だほ)」(あるいは捕虜に)すべき相手ではなかったのか。「拿捕」あるいは勝って当たり前の戦闘に,なぜ撃沈(殺戮)し,その後喜び「泪」を流すのであろうか。

「突貫。」烏の大尉は先登になつてまつしぐらに北へ進みました。

 もう東の空はあたらしく研いだ鋼のやうな白光です。

 山烏はあわてて枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁(に)げ出さうとしましたが,もうそのときは駆逐艦たちはまはりをすつかり囲んでゐました。

「があ,があ,があ,があ,があ」大砲の音は耳もつんぼになりさうです。山烏は   仕方なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛びあがりました。大尉はたちまちそれに 追ひ付いて,そのまつくろな頭に鋭く一突き食らはせました。山烏はよろよろつと なつて地面に落ちかゝりました。そこを兵曹長(へいさうちやう)が横からもう一突きやりました。山烏は灰いろのまぶたをとぢ,あけ方の峠の雪の上につめたく横(よこた)はりました。

「があ,兵曹長。その死骸(しがい)を営舎までもつて帰るやうに。があ。引き揚げつ。」

「かしこまりました。」強い兵曹長はその死骸を提(さ)げ,烏の大尉はじぶんの    杜(もり)の方に飛びはじめ十八隻はしたがひました。

 杜に帰つて烏の駆逐艦は,みなほうほう白い息をはきました。

「けがは無いか。誰(たれ)かけがしたものは無いか。」烏の大尉はみんなをいた  はつてあるきました。

 夜がすつかり明けました。

 桃の果汁(しる)のやうな陽(ひ)の光は,まづ山の雪にいつぱいに注ぎ,それからだんだん下に流れて,つひにはそこらいちめん,雪のなかに白百合(しろゆり)の花を咲かせました。

   (中略)

 みんなすつかり雪のたんぼにならびました。

 烏の大尉は列からはなれて,ぴかぴかする雪の上を,足をすくすく延ばしてまつすぐに走つて大監督の前に行きました。

「報告,けふあけがた,セピラの峠の上に敵艦の碇泊(ていはく)を認めましたので,本艦隊は直ちに出動,撃沈いたしました。わが軍死者なし。報告終りつ。」

駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて,熱い涙をぼろぼろ雪の上にこぼしました

烏の大監督も,灰いろの眼から泪なみだをながして云ひました。 

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

賢治が何でも見通せる菩薩の超能力(神通力)を持っていたと仮定して,駆逐艦隊の部下達の戦闘における心理を分析してみたい。筆者は戦争体験がないので,第一次・第二次世界大戦における,主に米軍の戦闘時の兵士の心理を分析したグロスマン(2004)の『戦場における「人殺し」の心理学』(米国ウエスト・ポイント陸軍および空軍士官学校の教科書)を参考にする。

 

最初に,「敵艦を撃沈する」を「兵士が敵兵を殺める」に置き換えて,その心理について検討してみる。グロスマンは,この著書で戦場の兵士は,自分が殺される恐怖感よりも自分が人を殺すことの抵抗感(恐怖感)の方が強いということを繰り返し強調している。戦闘後に何千何万の兵士に対する聞き取り調査をしたデータによれば,第二次世界大戦中の米軍の80から85%は,敵との遭遇戦に際して弾を撃っていないと言う。

 

発砲しようとしない兵士は,逃げも隠れもせずに,戦友を救出したり,弾薬を運んだりなどの危険の大きい仕事を進んで行っている。ただ,敵に発砲しないだけなのだという。空軍でも撃墜された敵機の30から40%は,全戦闘機の1%未満が撃墜したものだということも分かっている。ほとんどの戦闘機のパイロットは一機も落としていないばかりか,そもそも撃とうとさえしなかった。これは米軍に限ることではなく,日本軍やドイツ軍でも同じだという。この「発砲しない兵士」は第一次世界大戦にも多数いたという。

 

賢治が信奉した田中智学(本名は巴之助)も『日本国体の研究』の中で「戦争はなぜ怖いのであろう。いふまでもなく人を殺すからである。なるほど殺すのは怖い。たれしも死ぬのをいやがる以上,殺すのは怖いに相違ない」(227頁)と記している(田中,1922)。すなわち,童話『烏の北斗七星』で駆逐艦隊が逃げる敵艦(山烏)を撃沈(殺戮)するには,「撃沈(殺戮)することの恐怖」を払拭する何かが必要であった。

 

グロスマンによれば,1つは,殺すことに躊躇しない艦隊(兵士)が存在することであると述べている。上官の命令を忠実に実行する兵士は,数として全兵士の2%程度はいるらしい。この兵士だけは攻撃性精神病質者の素因を持っていて銃口を人に当てて撃つという。彼らには「後悔」も「自責」(罪悪感)も起きないのだという。2%という数字は,50人の兵士がいるとすれば,この攻撃性精神病質者の素因を持っている兵士が1人はいるという計算になる。しかし,烏の駆逐艦隊は19艦なので,この中には攻撃性精神病質者の素因を持っていている艦(兵士)が存在する可能性はとても低い。致命傷を負わせた艦隊長と兵曹長の2隻を含む駆逐艦隊については別な要因を考えなければならない。

 

もう1つは義勇艦隊に敵に対する「憎悪」を強く持っている艦(烏の兵士)を所属させることである。グロスマンは,著書の中で,人を殺人鬼にさせるには「今後出会うことになる潜在的な敵に対して,劣った生命形態であると思い込ませることである」と述べている。また民族的差異により「自分と外見がはっきり違う人間は,非常に殺しやすくなる。組織的なプロパガンダによって,敵が本当は人間ではなく「劣った生命形態」であると兵士に信じ込ませることができれば,同種殺しへの本能的な抵抗感は消えるだろう」と述べている。

 

これは,社会(共産)主義者とユダヤ人に対して激しい憎悪を持っていたドイツ義勇軍を例にあげれば納得できるものであろう。ドイツのアドルフ・ヒトラーは,これをうまく利用した人物として知られている。彼は優秀人種たるアーリア人(ゲルマン民族など)は,劣等人種を世界から一掃するのが義務であると民衆に訴えたのである。ナチ党の党員や指導者達の多くはドイツ義勇軍の出身者だった。その中にはアウシュヴィッツ強制収容所の所長であったルドルフ・フェルディナンデス・ヘスもいる。

 

我が国でも,古代の朝廷は「東北」の「先住民」を「劣った生命形態」であると兵士に信じ込ませていたと思われる。真言宗の開祖である空海(774~835)でさえ,著書(『性霊集』)の中で,「東北」の「先住民」を「毛人」,「羽人」などと呼び,「年老いた烏のような目をしていて,猪や鹿の皮の服を着て,毒を塗った骨の矢を持ち,常に刀と矛を持っている。稲も作らず,絹も織らず,鹿を逐っている。昼の夜も山の中におり,悪鬼のようで人間とは思われない。ときどき村里に来ては,多くの人や牛を殺していく」(訳は福崎(1999):傍線は引用者)と述べているのである。誇張もあるとは思われるが,この空海の蝦夷観が当時の都人の共通した蝦夷観と思われる。ここで空海は,「先住民」を「稲も作らず」「悪鬼のようで人間とは思われない」としている。すなわち「鬼」である。稲作文化を持ってきた者達には,稲作をしない狩猟民は「人間とは思われない」のである。

 

しかし,実際の胆沢の地あるいはその近傍では,弥生・古墳遺跡より水田跡や県下で初めて石包丁が出土するなど,当時胆沢扇状地において稲作が行われていたことが確実視されている(岡村,1991;工藤,1994;西野,2016)。また古墳・奈良・平安時代の遺跡からは畠跡(陸稲)も発見されている(及川,2013)。研究者によっては,当時の「東北」は,貴族文化がないだけで,一般庶民の文化は他の律令地方の文化とそれほど違うものではなく,蝦夷征討も「東北」の穀物生産力が高まった時期と一致すると指摘するものもいる(星野,1958)。すなわち,「東北」の「蝦夷」は,狩猟採取,粟・稗などの雑穀栽培以外に稲作もしていたのであり,胆沢の「先住民」と朝廷軍の戦いは,北上川を挟む水沢と江刺の肥沃な穀倉地帯をめぐる戦いでもあったのである。これを裏付ける資料として,『続日本記』に延暦8年の胆沢の地へ侵攻した第一次征討の征夷大将軍であった〈古佐美〉は,「蝦夷」に破れたが撤退のときに朝廷へ「蝦夷は水田・陸田を耕作できなくなったので放置しても滅びるであろうから軍を解散する」と報告しているのである(鈴木,2016)。朝廷は金や鉄を産出する豊かな穀倉地帯を手に入れるため,朝廷に従わない「東北」の「先住民」を「劣った生命形態」(例えば鬼)として民衆あるいは兵士にプロパガンダしていたと思われる。

 

また,グロスマンは「憎悪」を生み出す要因として,米軍では「同胞のために」というのも加えている。戦闘で敬愛すべき友人・上官を失ったばかりのときには戦場で攻撃性を発揮しやすいのだという。これは,日本では自らが負傷したとか,戦友あるいは親兄弟が殺された場合に当てはまるかもしれない。(続く)

 

引用文献

グロスマン,D.(安原和実訳).2004.戦争における「人殺し」の心理学.筑摩書房.

星野輝男.1958.東北地方の地位的生活:いわゆる後進性について.人文研究 9(3):47-63.

福崎孝雄.1999.「エミシ」とは何か.現代密教 11/12:120-132.

工藤雅樹.1994.考古学から見た古代蝦夷.日本考古学 1(1):139 -154.

西野 修.2016.平安初期の城柵再編と地域社会.pp.91-127.鈴木拓也(編著).三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

岡村光展.1991.胆沢扇状地における近世の散居集落.人文地理 43(4)1-23.

鈴木拓也.2016.光仁・桓武朝の征夷.鈴木拓也(編著).pp.1-91.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

田中巴之助.1922.日本国体の研究.天業民報社.