宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(4)

 

4.戦いにおける祈りと泪(涙)の意味

1)烏の駆逐艦隊の泪の意味

童話『烏の北斗七星』では逃げる山烏を多数艦で囲み撃沈(殺戮)するシーンが描かれていた。〈烏の大尉〉は敵の山烏の頭に鋭く一突き食らわせ,その後に横から兵曹長が一突きして敵の山烏の艦を撃沈する。

 

人間は憎ければ敵に遭遇したとき相手を殺してしまうこともあり得る存在である。童話『烏の北斗七星』の擬人化された烏の義勇艦隊と山烏の戦いにもこれが当てはまるとすれば,〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊は敵に対して「憎悪」をもっていて,敵を倒せと命令されれば忠実にそれを実行する兵士の多いことが推測される。多分,賢治は〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊を過去の実戦で負傷するなりして敵に「憎悪」を膨らませている兵士や,敵が「劣った生命形態」であるというプロパガンダを信じた兵士の多い艦隊と見なしている。

 

この物語は「憎悪」が重要なキーワードになっている。すなわち,観兵式で駆逐艦隊の流す「泪」は,たとえ19対1の数の上では優位な戦いでも,強くて憎い敵を倒すことができたことの喜びの「泪」である。しかし,また,1つ疑問が生じる。なぜ艦隊長が最初に一撃を加えなければならなかったのか。部下に命令するだけで良かったのではないか。グロスマンは,著書の中で,これと類似した行為に対して以下のように説明する。現場の指揮官が,敵に発砲せよと口だけで命令しても部下は発砲しないのだという。現場の指揮官が先頭に立って最初に自ら発砲してはじめて部下も発砲できるのだという。だから現場の指揮官は,常に危険に直面していて戦場における死亡率も部下よりも高い。艦隊長である烏の大尉が最初の一撃を自ら行ったのも同じ理由かもしれない。賢治はまるで血なまぐさい戦争を経験したかのように作品を書いている。

 

童話『烏の北斗七星』で語り手が「大砲をうつとき,片脚をぷんとうしろへ挙げる艦(ふね)は,この前のニダナトラの戦役での負傷兵で,音がまだ脚の神経にひびくのです。」と説明している。これは,今回の戦い以前にも激しい戦いがあってその時に負傷した兵士が参戦していることを示唆している。

 

前述したように,延暦8年(789)の「巣伏の戦い」で5万強の朝廷軍は〈アテルイ〉の蝦夷武装勢力に大敗して,25名の戦死者,245名の負傷者,1036名の溺死者を出すことになった。実際の「延暦十三年の戦い」で5年前の「巣伏の戦い」の負傷兵が参戦しているかどうかは分からないが,賢治は「巣伏の戦い」での負傷兵を物語では「ニダナトラの戦役での負傷兵」として登場させているように思える。さらに負傷兵だけでなく殺された戦友や溺死者の家族も参戦していると想定していたのかもしれない。これら負傷者,殺された戦友あるいは溺死者の家族から構成される軍隊は,「蝦夷」に対する「憎悪」が参戦の動機でもあるから戦闘意欲も高かったに違いない。烏の義勇艦隊でも,特に〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊は演習でも真っ先に出撃するくらいに士気が高く「ニダナトラ戦役」に参戦した者たちなどで構成されている可能性は高い。

 

「巣伏」は,現在の江刺の北上川東岸にあったとされる地名(村)で,アイヌ語で「sup・スプ(芦)」と「ush・ウシ(沢山生えている)」に分解できるので「sup-ushi・スプウシ」すなわち「芦」の沢山生えた所の意味である。「芦」は川沿いの湿地に多い。金田一(2004)によれば,湿地あるいは谷地はアイヌ語で「ニタッ・nitat」で,それに関係名詞の「or・オル(オロ)」が添って「nitat or・ニタトル」となるが,さらに「ニタトリ・ニタトル・ニタトロ」等に転訛する。いずれも「湿地のある所」の意味である。現に,陸奥二戸郡に似鳥(にたとり)という地名がある。「ニダナトラの戦役」の「ニダナトラ」はこの「ニタトロ」と発音が類似している。多分,「ニダナトラの戦役」とは「巣伏の戦い」がイメージされている。

 

2)戦い前夜における大尉の祈りの意味

〈烏の大尉〉には天の「北斗七星(マヂエル様)」に対する信仰がある。部下に信仰心があったかどうかは分からないが,〈烏の大尉〉はこの「北斗七星」を仰ぎながら山烏との戦いの前に「あなたのお考えのとほり」に「わたくしのきまったやう」に「力いっぱいたゝかひます」と祈っている。

 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマヂエルの星を仰ぎなが ,あゝ,あしたの戦(たたかひ)でわたくしが勝つことがいゝのか,山烏がかつ ことがいゝのかそれはわたくしにはわかりません,たゞあなたのお考のとほりです,わたくしはわたしにきまったやうに力いっぱいたゝかひます,みんなみんなあなたのお考へのとほりですとしづかに祈って居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧(わ)いたのです。    

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

この祈りは何を意味しているのだろうか。多分,この祈りは「恐怖」と関係している。人間は「怖い」と感じたときに祈ることがある。ではなぜ,〈烏の大尉〉は,明日の山烏との戦いに「恐怖」を感じたのであろう。多分,敵を殺すことになるかもしれないと感じているからである。戦場の兵士は,自分が殺される恐怖感よりも自分が人を殺すことの抵抗感(恐怖)の方が強いと言われている。

 

この祈りで特に注目すべきは「あなたのお考のとほり」を2回繰り返していることである。物語の〈烏の大尉〉が蝦夷征討の〈坂上田村麻呂〉をイメージして創作されているとすれば,〈烏の大尉〉の言う「あなたのお考のとほり」の「あなた」は誰であろうか。「北斗七星」を神格した「妙見菩薩」ではない。菩薩に祈るとき「あなた」とは呼ばない。〈烏の大尉〉(あるいは坂上田村麻呂)が「あなた」と呼べるのは上官あるいは天皇である。天皇と「北斗七星」との関係は後述する。〈烏の大尉〉(あるいは坂上田村麻呂)は,戦いの前に怖くなって節刀を受けている上官(大伴弟麻呂)あるいは天皇に対して「あなたのお考のとほり」に「力いっぱいたゝかひます」と祈っているのである。 

 

青木(2011)によれば,日中戦争で兵士が交戦前に「不安」や「恐怖」を抱いたとき,兵士は自らの軍が「皇軍」だということで戦争を正当化しようとしたという。戦争が「聖戦」だという大義を得たとき,交戦する(刃向かう)敵は憎しみの対象になる。すなわち,兵士の「不安」や「恐怖」は「憎悪」に転化する。すなわち,〈烏の大尉〉(あるいは坂上田村麻呂)は戦う前日に「不安」や「恐怖」を感じていたが,明日の戦いが「聖戦」であると自分に言い聞かせるために天皇(あるいはその代理)に祈ったのであろう。 

 

これは賢治にも言える。賢治は大正9年(1920)に「天皇制国家主義」(あるいは超国家主義)の思想を組み込んだ日蓮主義を主張する田中智学の「国柱会」に入会している。「天皇制国家主義」とは,菊池(1997a)によれば,「天皇が君主として国家統治や倫理の中心となる政治・社会体制に最高の価値を見いだし,その権威と意思をなによりも優先しようとする立場であり,全てが天皇・国家のための奉仕,動員されるという仕組みをもつもの」と考えている。

 

菊池は,田中智学の「天皇制国家主義」の思想は彼の著書『日本国体の研究』に集大成されているという。例えば,『日本国体の研究』には「日本国民が日本帝室に対する最大強度の服従は,世のあらゆる理屈や議論に超越して,人間の世に在る思想道徳の最上観念である」(215頁)や「世界中の人がこの帝室を『道』の活現者として帰依するに至って,世界は真の平和が成立するのである」(218頁)と記載されている。『日本国体の研究』は,大正10年(1921)の元旦から国柱会の機関紙「天業民報」に連載されているので賢治も読んだ可能性は高い。賢治は数ある法華経教団から国柱会を選んでいるわけであるから,当然,入会時には田中智学の「天皇制国家主義」にも賛同しているはずである。すなわち,入会時に賢治は,天皇家に対する国民の服従こそ最高の道徳であり,世界中が天皇家を中心にまとまれば,「みんなのほんたうのさいはひ」が実現できると信じたと思われる。

 

 それゆえ,賢治研究者の中には,童話『烏の北斗七星』が戦争を肯定するものと認識しているものも少なくない(小沢,1954)。

 

3)戦いが終わった後に流す大尉の泪の意味

 戦いが終わった後,少佐に昇進した〈烏の元大尉〉は再び「泪」を流して祈る。

 烏の新しい少佐は,お腹が空いて山から出て来て,十九隻に囲まれて殺された,あの山烏を思ひ出して,新しい泪をこぼしました

「ありがとうございます。就いては敵の死骸を葬りたいとおもひますが,お許しくださいませうか。」

「よろしい。厚く葬ってやれ。」

 烏の新しい少佐は礼をして大監督の前をさがり,列に戻って,いまマヂエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(あゝ,マヂエル様,どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに,そのためならば,わたくしのからだなどは,何べん引き裂かれてもかまひません。)マヂエルの星が,ちやうど来てゐるあたりの青ぞらから,青いひかりがうらうらと湧きました。                             

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

 この「泪」は何を意味しているのであろうか。「泪」に「新しい」と形容詞がついているので駆逐艦隊の部下達と同じ「泪」ではない。

大島(2003)は,この「泪」は「大尉が戦争状況の中で個として抑圧され,「絶対的平和」という理想と,戦わざるを得ない悲惨さとを持つ個として山烏に共感した泪である」としている。しかし,この戦闘が近代戦ではなく古代の「蝦夷征討」を題材にしているとすれば,「共感」という表現は当てはまらないように思える。別の解釈を試みてみる。

 

「蝦夷(エミシ)」(山烏)の戦士は,繰り返される朝廷軍(大軍)の侵略で農耕地は荒廃し,家族とともに山へ避難していると思われるので,彼等にはこれ以上の侵略をなんとか阻止しなければ食料も底をつくから「戦わざるを得ない悲惨さ」は存在する。山烏が「お腹が空いて山から出て」くるのも当然の話である。しかし,〈坂上田村麻呂〉(烏の大尉)には「戦わざるを得ない悲惨さ」は存在しない。彼は職業軍人(武官)として天皇の命令に従っただけである。もし彼に悲惨さがあるとすれば「憎め」と教育されてできあがった偽りの「憎しみ」で戦争に参加したことである。しかし,この偽りの「憎しみ」で蝦夷側(山烏側)との共感はあり得ない。烏の新しい少佐の「泪」は,上官(天皇)の命令ではあるが憎んではいけない敵を「殺してしまった」ことの「後悔」と「自責」(罪悪感)の「泪」であろう。だから,「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに」と祈るのである。

 

グロスマンは,戦争で人を殺した後の兵士の心理状態についても記載している。兵士は人を殺した後,強い「高揚感」と烈しい「自責」と「嫌悪」が起こるという。ある兵士の体験談として「・・・私が経験したのは,嫌悪感と不快感であった・・・私は銃を取り落として声をあげて泣いた・・・あたりは血の海だった・・・私は吐いた・・・そして泣いた・・・後悔と恥辱にさいなまれた。いまも思い出す。私はバカみたいに「ごめんな」とつぶやいて,それから反吐をはいた。」と記載している。

賢治も大正7年(1918)の『復活の前』という作品で「人を殺める心理」を次のように書いている。

  

戦が始まる,こゝから三里の間は生物のかげを失くして進めとの命令がでた。私は剣で沼の中や便所にかくれて手を合わせる老人や女をズブリズブリさし殺し高く叫び泣きながらかけ足をする。             (『復活の前』 宮沢,1985)

 

賢治の『復活の前』での「人を殺した後」の「高く叫び泣きながらかけ足をする」という兵士の心理状態の記載は,グロスマンが報告した米国の兵士のものと一致する。

 

賢治が,童話『烏の北斗七星』でこの「祈り」を書いたということは,この時すでに賢治は国柱会の「天皇制国家主義」とは決別していたということを意味している。〈烏の新しい少佐〉の「新しい泪」,すなわち「後悔」と「自責」は,賢治からすれば田中智学の「天皇制国家主義」に賛同したことに対する「反省」と「自己批判」でもある。

 

すなわち,賢治は戦争を肯定していた時期もあったと思われるが,「転向」したのである。菊池(1997a,b)は,賢治の「天皇制国家主義」に決別した理由として,(1)祖師日蓮の思想に学んだこと,(2)万法流転の思想をもっていたこと,(3)万人皆平等の人間観を持っていたこと,(4)大正デモクラシーの影響を強くうけていたこと,(5)一天四海皆帰妙法の理念に立っていたこと,の5つを上げている。著者は特に(3)に注目したい。

 

田中智学(1922)は『日本国体の研究』の中で,日本人民は天孫降臨の時に随行してきた32神を祖先とする大部分の種族と,従来から日本列島に住んでいた土着の種族からなるとしている。彼は土着の種族を2種に分類している。1つは,「素質に向上性のない,理解力を有たない民族は,自然に征服されて,漸次その存在が保てなくなって,終に自然消滅に帰してしまうこと,猶今のアイヌ族の如きもの」で,もう1つは「漸次王化に沾(うるほ)ひ,心身ともに改造されて向上発達し,遂に天孫種族と縁組みしたり,・・・・いつしか天孫民族に同化して,立派に使命を解する純良国民」と考えている。すなわち,田中智学にとって土着の「先住民」は天孫降臨の神を祖先に持つ日本人民に同化されるか,「アイヌ」のごとく征服されて当然の民族なのである。田中智学の提唱する「みんなのさいはひ」に導く「天皇制国家主義」の理念の中には朝廷に従わない民族は含まれてはいない。賢治には,この土着民を人間扱いしない主義主張にはどうしても納得できなかったに違いない。

 

新しい「泪」と少佐への昇進は,賢治の願う「みんなのほんたうのさいはひ」を「天皇制国家主義」以外の手段で実現させようとしていることを意味している。

 

4)義勇艦隊の戦闘行為に正当性はあるか

賢治は犯罪であると感じていたはずである。もしも,蝦夷征討を国際裁判にかけたらどのような結果になるのであろうか。童話『烏の北斗七星』を執筆していた頃,童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』(大正10年あるいは11年)を創作していた。この物語は,こちらの世界(ばけものの国)で世界裁判長になった主人公のネネムが,向こうの世界(人間の世界)に顔を出したばけもの達を裁く物語である。大正10年(1921)は,第一次世界大戦終結後に結成された国際連盟の機関として常設国際司法裁判所(PCIJ)がオランダのハーグに設置された年でもある。

「今晩開廷の運びになっている件が二つございますが,いかがでございましょうお 疲かれでいらっしゃいましょうか。」

「いいや,よろしい。やります。しかし裁判の方針はどうですか。」

「はい。裁判の方針はこちらの世界の人民が向うの世界になるべく顔を出さぬよう に致したいのでございます。

「わかりました。それではすぐやります。」

 ネネムはまっ白なちぢれ毛のかつらを被(かぶ)って黒い長い服を着て裁判室に出て行きました。部下がもう三十人ばかり席についています。

 ネネムは正面の一番高い処に座りました。向うの隅の小さな戸口から,ばけものの番兵に引っぱられて出て来たのはせいの高い眼の鋭い灰色のやつで,片手にほうきを持って居りました。一人の検事が声高く書類を読み上げました。

「ザシキワラシ。二十二歳。アツレキ三十一年二月七日,表,日本岩手県上閉伊(かみへい)郡青笹(あおざさ)村字(あざ)瀬戸二十一番戸伊藤万太の宅,八畳座敷中に故なくして擅(ほしいまま)に出現して万太の長男千太,八歳を気絶せしめたる件。」

「よろしい。わかった。」とネネムの裁判長が云いました。

「姓名年齢,その通りに相違ないか。」

「相違ありません。」

「その方はアツレキ三十一年二月七日,伊藤万太方の八畳座敷に故なくして擅に出 現したることは,しかとその通りに相違ないか。」

「全く相違ありません。」

「出現後は何を致した。」

「ザシキをザワッザワッと掃(は)いて居りました。」

「何の為(ため)に掃いたのだ。」

風を入れる為です。

「よろしい。その点は実に公益である。本官に於(おい)て大いに同情を呈する。しかしながらすでに妄(みだ)りに人の居ない座敷の中に出現して,箒(ほうき)の音を発した為に,その音に愕(おど)ろいて一寸(ちょっと)のぞいて見た子供が気絶をしたとなれば,これは明らかな出現罪である。依(よ)って今日より七日間当ムムネ市の街路の掃除を命ずる。今後はばけもの世界長の許可なくして,妄りに向う側に出現することはならん。」

「かしこまりました。ありがとうございます。」

    (『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』 宮沢,1985)下線は引用者

 

青笹村は,1954年(昭和29年)まで岩手県上閉伊郡にあった村で,現在の遠野市青笹町青笹辺りにあたる。ばけものである〈ザシキワラシ〉は,柳田国男の『遠野物語』で有名な岩手県遠野にある人家の座敷に,「故なくして擅(ほしいまま)に出現」し,「風を入れる為」と称して音を立てて掃除をして子供を気絶させた。そして,世界裁判長から「出現罪」という判決を受けている。刑は「七日間のムムネ市の街路の清掃」である。

 

罪を犯した年を「アツレキ三十一年」としているが,これは蝦夷征討の「延暦十三年の戦い」を捩(もじ)ったものであろう。すなわち,〈ザシキワラシ〉の裁判案件は「延暦十三年の戦い」のパロディである。賢治は童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』に登場する〈ザシキワラシ〉の人間世界への出現の様子を延暦13年の蝦夷征討に重ねている。〈坂上田村麻呂〉を〈ザシキワラシ〉に重ねたとすれば,大和国の〈坂上田村麻呂〉は蝦夷国の胆沢(イザワ)の地に「故なくして擅に出現」し,「風を入れる為」と称して箒の代わりに武器を持って蝦夷達を「ザワッザワッ」と「掃討」したことになる。「故なくして擅に」という言葉は,理由なくやりたい放題に振る舞う様を意味しているが,裁判官であった石塚(2009)によれば法律家以外の人が使う言葉ではないという。物語に裁判用語が多く登場するのは,賢治の父である政次郎が生前長く民生委員や調停委員を務めていたことと関係していると思える。

 

「風を入れる為」に「掃討」したということは,〈坂上田村麻呂〉にとって未開地に農耕文化の新しい風を吹き込むつもりだったのかもしれないが,胆沢の地に住む「先住民」にとっては,「侵略」されたのに等しく,「先住民」の多くは命と田畑・住居を失った。刑として七日間の街路の「清掃」だけでは済まないであろう。

 

5)戦いが終わった後の大尉の祈りの意味

大島(2003)は,少佐の「憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに」という祈りには「みんなのさいはひ」という理想と共存して「憎む敵ならば殺してもいい」という論理と,それに至るまで繰り返される「殺人(戦争)」を肯定する思想が含まれていると指摘している。これは田中智学によって書かれた『日蓮聖人の教義』の「第二十二章 本化妙宗ノ世界統一主義」からの影響によるものだという。田中智学はこの章で「世界統一主義」こそが「絶対平和の姿」であることを繰り返し強調していて,「世人は人生の目的を此一点に集中して邁進すべきである」と述べているとしている。大島は,智学のこの主張が,かれの高遠な理想に邁進する過程において,理想に従わないものを排除する思想を内包するものだと考えている。

 

はたしてそうであろうか。本当に,少佐の「憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに」という祈りには,「みんなのさいはひ」のためなら「憎む敵を殺してもいい」という意味が含まれているのだろうか。「憎ければ人を殺すこともあり得る」のは人間の「本性」であり論理とはいえないと思われるが。

 

賢治の作品に感銘し,昭和20年に特攻隊員として沖縄で戦死した〈佐々木八郎〉の手記には「我々がただ,日本人であり,日本人としての主張にのみ徹するならば,我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし,僕の気持ちはもっとヒューマニスチックなもの,宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない,そんな気持ちなのだ。」(日本戦没学生記念会,1982)と記載されている。

彼は軍の指導部(あるいは教育現場の教師)から鬼畜米英として敵を憎めと教えられていたが,国籍が異なるだけで人は憎めないと思っているから,彼らの言う事は単なる民衆扇動のための空念仏としか響かない。それで「憎まないでいいものを憎みたくない」と書いているのである。すなわち,憎む敵を殺すとは言っていない。理由もなく憎みたくないと言っているのである。〈佐々木八郎〉は童話『烏の北斗七星』の〈烏の大尉〉の気持ちが理解できているのだと思う。

 

彼が,もしも1500年タイムスリップして「和人」とし「蝦夷征討」に参加していたなら,多分,彼は「我々がただ,和人であり,和人としての主張のみに徹するなら,我々は蝦夷を憎みつくさねばならないだろう。しかし,憎まないでいいものを憎みたくない」と記載したはずだ。

 

「憎むことのできない敵」とは「憎くない敵」(憎しみを感じない敵)ではなく「憎いが決して憎んではいけない敵」あるいは「憎めと教えられたが憎みたくない敵」と言う意味である。賢治は憎む敵なら殺してもよいという意味を含めてはいない。さらに深読みすれば憎む敵でも殺してはいけないという意味である。憎しみを感じない敵だけでなく憎い敵であっても殺したりしない世の中になりますように祈っているのである。

 

賢治が国柱会に入ったときは,米地(2018)も指摘しているように,田中智学は第一次世界大戦の悲惨な状況を見て軍備撤廃や平和への希求を説いた時期であった。田中智学は,「人を殺す」という行為そのものにも強く反対していて,大正7年(1918)11月1日の『国柱新聞』では,「殺人運動の休止は,人類一般の望む処なり。」と死刑廃止を訴えている。だから,賢治は田中智学から「憎む敵ならば殺してもいい」とは学んでいない。

 

6)烏の大尉が祈るマヂエル様とは何か

〈烏の新しい少佐〉が信仰の対象にした「マヂエル様」は,北斗七星を含む大熊座の学名ウルサマジョル(Ursa Major)の「マジョル」をもじったものとされている(原,1999)。多分,「マヂエル様」は,多くの研究者達が指摘しているように北斗七星を信仰の対象とする「妙見信仰」が関係していると思われる。

 

妙見信仰は,インドに発祥した菩薩信仰が,中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合して,仏教の天部の一つとして日本に伝来したものとされる。仏教の伝来と一緒にもたらされた『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』(漢訳者は不明)には「我北辰菩薩名曰妙見 今欲説神呪擁護諸国土 所作甚奇特故名 日妙見・・・」(我北辰菩薩,名づけて妙見という。今,神呪を説きて諸の国土を護らん。所作甚だ奇特なり,故に名づけて妙見という・・・)とある。この経には国土守護や現世利益の功徳が記載されているため,日蓮宗では法華経と法華経行者の守護神であり,一般庶民には古くから現世利益の功徳のある「妙見様」として親しまれていた。また,天皇家も天の北極星や北斗七星を地上の天皇に重ね権威確立に利用したとされる。桓武天皇代の延暦6年(787)に,天皇自ら北辰祭事を行ったことが『続日本記』に記されている(井原木,2005)。

 

妙見菩薩は北極星や北斗七星を神格化したもので,本地仏は十一面観世音菩薩(真言宗)あるいは薬師如来(天台宗)などとされている。本地垂迹説によれば,神仏習合における神の本地(本当の姿)は仏であるとされているので,神である北斗七星は仏である十一面観音や薬師如来ということになる。

 

〈烏の新しい少佐〉に京都の清水寺を建立した〈坂上田村麻呂〉がイメージされているとすれば,〈烏の新しい少佐〉が祈った対象は「観音様(=マヂエル様)」であろう。清水寺の観音信仰の中心となる本堂中央厨子には本尊である十一面千手観音像が置かれている。

この千手観音には〈坂上田村麻呂〉に纏わるいくつかの伝説が残されている。『群書類従』に納められている大学頭明衡朝臣筆の「清水寺縁記」には,「宝亀10年(779)に〈田村麻呂〉が安産の薬にと鹿を狩った帰りに法相宗の僧侶・延鎮に逢うが,延鎮に殺生をたしなめられ夫人とともに帰依して寺を建て,千手観音菩薩を作った」と記載されている(野崎,2014)。

 

 『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」には「若三千大千国土。満中夜叉羅刹。欲来悩人。聞其称観世音菩薩名者。是諸悪鬼。尚不能以。悪眼視之。況復加害。」(若し三千大千国土に,中に満つる夜叉・羅刹,来りて人を悩まさんと欲するに,その観世音菩薩の名を称うるを聞かば,この諸々の悪鬼は尚,悪眼をもって之を視ることすら能わず,況んや復,害を加えんや。)(訳:坂本・岩本,1994)とある。すなわち,『法華経』には「法華経」を信じ観世音菩薩に祈れば「鬼」の「憎しみ」は消えて害を受けることもなくなると記載されている。

 

〈烏の新しい少佐〉の祈りの中には,自分の心に住み着いた「鬼」を退治してくれるようにという願いもあったと思われる。平成6年に,清水寺南苑に〈坂上田村麻呂〉と戦った〈アテルイ〉と〈モレ〉の「北天の雄阿弖流為母禮之碑」が建てられた。20年後の記念法要で,清水寺の森貫首は記者の「なぜ碑の建立を快諾したのか」の問いに「清水の観音様に,敵も味方もなく霊の供養をしたというのが清水寺の始まりだ。だからこそ,碑を建ててもらうことが大本願の心に添うことだと思った。」と答えている(アテルイを表彰する会,2015)。

 

〈烏の新しい少佐〉にも山烏に対して部下と同じに強い「憎悪」が存在していたと思われる。だから,〈烏の新しい少佐は〉,上官(天皇)の命令であるにせよ,率先して敵と交戦し敵を殺すことができたと思われる。しかし彼には〈坂上田村麻呂〉のように「信仰心」があり,人を殺めることに対する抵抗感も強かったと思われる。殺してしまったことに対して「後悔」し烈しい「罪悪感」に駆られた。だから,敵味方の「憎悪」を消してもらうために観世音菩薩(「観音様」)に祈ったのである。そして敵の死骸を丁重に葬ったのである。

 

また,賢治は「天皇制国家主義」や戦争によらないで「みんなのほんたうのさいはひ」が訪れることを祈ったのである。ではどうすれば「みんなのほんたうのさいはひ」が得られるかは,大正13年(1924)から執筆されている童話『銀河鉄道の夜』で賢治独自の思想として語られることになる(石井,2020)。この童話には天皇も登場しないし戦争も描かれてはいない。(続く)

 

引用文献

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