宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(2)

-物語は「東北」の「先住民」と朝廷の三十八年戦争が題材になっている-

 

目次

はじめに

1.物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争 

1)戦場は日本列島

2)物語に登場する栗や杉は戦争が先住民(狩猟採集民)と渡来人(農耕民)の子孫達の争いであることを示唆している

(1)栗の登場が意味するもの

(2)杉の登場が意味するもの

3)他の賢治作品との関係

2.物語は「東北」の「先住民」と朝廷の三十八年戦争が題材になっている

1)延暦十三年の戦いにおける朝廷軍の編制

2)胡麻馬鈴薯が示唆する烏の義勇艦隊の特徴

3)烏の義勇艦隊と延暦十三年の征夷軍の類似点

4)義勇艦隊が意味するもの

3.人を殺める心理

4.烏の大尉の戦いにおける祈りと泪(涙)の意味

1)烏の駆逐艦隊の泪の意味

2)戦い前夜における大尉の祈りの意味

3)戦いが終わった後に流す大尉の泪の意味

4)義勇艦隊の戦闘行為に正当性はあるか

5)戦いが終わった後の大尉の祈りの意味

6)烏の大尉が祈るマヂエル様とは何か

5.恋物語

1)恋物語が挿入されているのはなぜか 

2)戦いが終わった後の桃の果汁のような陽の光と白百合の花は何を意味しているのか

3)大尉の許嫁の泪の意味

4)大尉の許嫁の「マヂエル様」という叫び

6.「サイカチ」には鬼神が宿る

まとめ

 

2.物語は「東北」の「先住民」と朝廷の三十八年戦争が題材になっている

童話『烏の北斗七星』は,「三十八年戦争」の中でも延暦13年(794)に朝廷側が行った蝦夷征討が主にイメージされているように思える。冬の田圃に横列で「仮泊」する「里烏」と思われる烏の義勇艦隊に朝廷軍が,また「山烏」の艦隊に「蝦夷」の戦士が投影されていると思われる。

次に「延暦十三年の戦い」における朝廷側の軍隊と烏の義勇艦隊を比較してみる。

 

1)延暦十三年の戦いにおける朝廷軍の編制

延暦(えんりゃく)十三年の戦い」とは,古代において朝廷に従わない「蝦夷」に朝廷が行った征討である(高橋,2012;及川,2013;鈴木,2016)。大和民族あるいは朝廷にとって「東北」は言葉が通じない異民族のいる土地(異国)と見なされていた(アイヌ語あるいはそれに近い言語が使われていた)。延暦13年は,「三十八年戦争」の第二次征討にあたる年で,〈桓武天皇〉から征夷大将軍として節刀を受けた〈大伴弟麻呂〉が,10万の大軍(国軍)を引き連れて〈阿弖流為アテルイ)〉の居る「蝦夷」の本拠地・胆沢の地(古代においては現在の水沢区前沢区胆沢区衣川区・江刺区)に侵攻した。この胆沢攻略は蝦夷征討の歴史の中でも最も大規模なものであった。胆沢扇状地は,「水陸万頃」と言われ水と土地(陸)が豊かな所である。

 

延暦十三年の戦い」のときの副将軍は4名で,それ以外の下僚として軍監16人,軍曹58人がいた。副将軍の1人が34歳で征討副使になった近衛少将の〈坂上田村麻呂〉(位は従五位上)であった。この戦いの様子は正史『日本後記』の散佚・欠落で詳しくは知られていないが,〈大伴弟麻呂〉は高齢であり後方で統括する形をとり,現場での実質の指導者は天皇の信任が特に厚かった〈坂上田村麻呂〉であった。この戦いで,朝廷側は勝利し,〈坂上田村麻呂〉は従四位下に昇進している。歴史書では逃亡者があったものの朝廷側の被害は報告されていない。

 

一方,「蝦夷」側は457人が殺害され,150人が捕虜になり,馬85疋が奪われている。そして点在する村の多く(75村)が焼かれた。また,指導者の〈アテルイ〉は逃れたと思われるが,第一次征討後から,強化されてきた朝廷側の蝦夷に対する調略が功を奏し北方の志波村(現在の盛岡)の「蝦夷」ら部族長2人が朝廷側に寝返ったことも記録されている。 アテルイはこの戦いの7年後に〈坂上田村麻呂〉に降伏することになる。 

 

後の研究者達によって「延暦十三年の戦い」で消失した家屋数の記録や発掘された竪穴式住居数等から胆沢地方の人口が推測されている。それによれば,焦土と化した胆沢の地には,7000~8000人の「蝦夷」が住んでいたという。戦士を戦える全ての男子(1500~2000人)とすれば,「蝦夷」側はその戦士の1/3を失ったことになる。

 

戦士1500~2000人という数字は歴史書『続日本記』に記載されている延暦8年(789)の巣伏村の戦いでの胆沢の地の「蝦夷」の戦士の累計数(1500人+α)と同じである。この戦いでは蝦夷側は89人の戦死者をだしているが,板東諸国から集められた5万人以上の大軍(混成軍)を投入した朝廷軍は逆に1000人以上の死者をだしている。

 

すなわち,国家を作らず軍隊を持たない「蝦夷(エミシ)」の2000人弱程度の武装勢力とその家族に対して朝廷すなわち「国」は5万人あるいは10万人の正規軍を送ったということになる。天下分け目の関ヶ原の戦いでも敗れた西軍の戦士は8万人で東軍は7~10万人と言われている。征討軍10万人という数字は食料・武器などの軍事物質を輸送する兵士は含まれていないとされているので,実際の兵力はこれをさらに上回るものと思われる。

 

この空前絶後の大軍を送った理由として,1つには,『日本書紀』の神武天皇紀に「愛瀰詩烏 毘ダ利 毛々那比苔」(エミシは1人で百人くらいに匹敵する強い兵)という歌が紹介されているように,「蝦夷」は強いと思われていたからである。また,現に「巣伏の戦い」でも明らかなように強かったからである。「蝦夷」は,良馬と「騎馬戦」に有利な刃や柄に反りがある「蕨手刀(わらびてとう)」を持っていた(朝廷軍は直刀)。

 

また,農耕に加え狩猟採取の生活をしていて日々の戦闘能力が磨かれていたからだとも言われている。2つには,桓武天皇にとってこの戦いは勝たなければならなかったからである。794年は都が京都の長岡京から平安京に移された年である。天皇が遷都と同時に戦勝報告がなされるという奇跡を自ら起こし遷都を劇的に演出したのだという。  

 

 岩手県出身の歴史家・及川洵は,「副将軍4人,軍監16人,軍曹58人で,胆沢という小地域-推定人口7300人(延暦8年の戦死者を除く)-を攻撃するのに人道的配慮を全く無視し,ただ征服のみを意図した前代未聞の征討軍の編制に対し,どう表現したらよいか,憤りさえ感じる」と述べている(岡本,2011)。 

 

2)胡麻馬鈴薯が示唆する烏の義勇艦隊の特徴

『烏の北斗七星』における義勇艦隊軍の編制は,雪の田圃での演習場面で詳しく説明されている。

 

   雪のうへに,仮泊といふことをやつてゐる烏の艦隊は,石ころのやうです。胡麻

  (ごま)つぶのやうです。また望遠鏡でよくみると,大きなのや小さなのがあつて馬 

  鈴薯(ばれいしよ)のやうです

   しかしだんだん夕方になりました。

   雲がやつと少し上の方にのぼりましたので,とにかく烏の飛ぶくらゐのすき間が 

  できました。

   そこで大監督が息を切らして号令を掛けます。

  「演習はめいおいつ,出発」

  艦隊長烏の大尉が,まっさきにはつと雪を叩きつけて飛びあがりました。烏の大尉 

  の部下が十八隻,順々に飛びあがつて大尉に続いてきちんと間隔をとつて進みまし

  た。

   それから戦闘艦隊が三十二隻,次々に出発し,その次に大監督の大艦長が厳か  

  に舞ひあがりました。

   そのときはもうまつ先の烏の大尉は,四へんほど空で螺旋(うづ)を巻いてしまつ

  て雲の鼻つ端まで行つて,そこからこんどはまつ直すぐに向ふの杜(もり)に進むと

  ころでした。

   二十九隻の巡洋艦,二十五隻の砲艦が,だんだんだんだん飛びあがりました。お

  しまひの二隻は,いつしよに出発しました。こゝらがどうも烏の軍隊の不規律な  

  ところです。

   烏の大尉は,杜のすぐ近くまで行つて,左に曲がりました。

   そのとき烏の大監督が,「大砲撃てつ。」と号令しました。

   艦隊は一斉に,があがあがあがあ,大砲をうちました。

   大砲をうつとき,片脚をぷんとうしろへ挙げる艦(ふね)は,この前のニダナトラ

  の戦役での負傷兵で,音がまだ脚の神経にひびくのです

                        (宮沢,1985)下線は引用者

 

烏の義勇艦隊が雪の田圃に一時的に停泊している様子を,「石ころのやうです。胡麻つぶのやうです。また望遠鏡でよくみると,大きなのや小さなのがあって馬鈴薯のやうです」と記している。石にも黒いのが有り,また大きさも色々あるから「石ころのやうです」だけでも意味が通じると思われる。なぜ,「胡麻」や「馬鈴薯」を追加する必要があるのだろうか。また,追加するにしても在来種で縄文遺跡からも出土する「大豆」,「小豆」あるいは「緑豆」ではだめだったのか。

 

「ゴマ(胡麻)」(Sesamum indicum L.)はゴマ科の一年草で,種子を食用にする。「胡麻」という漢字は,古代中国の西域の「胡」から伝わった麻の実に似た種子であることからと付けられたと言われている。

 

馬鈴薯」はナス科の「ジャガイモ」(Solanum tuberosum  L.)のことであろう。「ジャガイモ」の原産地は南米アンデス山脈で,我が国へは16世紀に伝わったという。「ジャガイモ」を「馬鈴薯」という漢字で表記したのは,江戸時代の本草学者・小野蘭山である。中国の『松渓県志』(1700)という書物に,「馬鈴薯 菜依樹生掘取之形有大小略如鈴子色黒而円味苦甘(馬鈴薯は,葉は樹によって生ず,これを掘りとれば,形に大小ありてほぼ鈴の如し,色は黒くてまるく,味は苦甘し)」という記述があり,小野蘭山がこれを見て文化5年(1800)に『耋莚小犢(てつえんしょうとく)』という書物の中で「ジャガタライモ」として紹介したのが始まりとされている。1800年頃,中国では「ジャガイモ」を「馬鈴薯」と呼んでいたらしい(浅間,2020)。共通するのはいずれも中国大陸が関係する外来種であるということである。

 

物語の景観植物として登場する「杉」や「栗」は前述したように在来種である。また,我が国には主にハシボソガラスCorvus corone)とハシブトガラスCorvus macrorhynchos)の2種の「烏」が留鳥として生息しているが,アジア大陸にも生息している。多分,義勇艦隊を形容するのに石だけでなく「胡麻」や「馬鈴薯」としたのは,義勇艦隊の中に日本列島以外の所,恐らくは中国大陸や朝鮮半島からの「渡りの烏」(あるいはその子孫)が含まれていることを強調しようとしたからだと思える。

 

『烏の北斗七星』が蝦夷征討(三十八年戦争)を題材にしていると考えると理解しやすい。「三十八年戦争」を命じたのは桓武天皇であるが,桓武天皇の生母は百済系渡来氏族出身(武寧王の子孫)である(鈴木,2016;崔,2017)。また,第二次征討の副将軍である〈坂上田村麻呂〉と〈百済王俊哲(くだらのこにしきしゅんてつ)〉の二人も渡来系氏族出身と言われている。〈坂上田村麻呂〉は後漢霊帝の曽孫阿知主(あちのおみ)の末裔氏族(東漢氏)出身である。また,〈百済王俊哲〉は7世紀に亡命した百済の王直系の子孫である。百済朝鮮半島にあった国家で660年に滅亡し,飛鳥時代には百済の亡命貴族が多数我が国に渡来したという。

 

百済王氏(くだらのこにしきうじ)などの苗字名を持つ渡来人は,日本在来氏族よりも軍事的能力や城郭を築城する能力に長けていたとされ,蝦夷対策に「東北」に補任された者が多かったとされる。彼等は強力な私兵を擁していたことも知られている(崔,2017)。その1人である〈百済王敬福〉は749年に陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡)で産出した黄金900両を東大寺建立のために献上したことでも知られている。桓武天皇百済系渡来氏族の血を引くので,渡来人を優遇したとされる。賢治の情報源が何かは定かでないが,桓武朝時代の蝦夷征討軍の中枢に中国大陸や朝鮮半島由来の渡来人が数多くいたと推測したのかもしれない。 

 

3)烏の義勇艦隊と延暦十三年の征夷軍の類似点

童話『烏の北斗七星』における烏の義勇艦隊と蝦夷征討軍は,(1)軍隊の編制,(2)指揮官の年齢,(3)敵の拠点,(4)出撃方法と戦い方,(5)副指揮官の昇進の有無において極めて類似している(表1)。

 

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(1)烏の義勇艦隊は,大監督(大艦長)と戦闘艦隊長率いる戦闘艦32隻,駆逐艦隊長の〈烏の大尉〉が率いる艦隊19隻,砲艦長率いる砲艦25隻,巡洋艦29隻,正体不明の艦2隻の合計108隻から編制されている。この義勇艦隊は戦闘艦隊,駆逐艦隊,巡洋艦隊,砲艦隊の4部隊で,巡洋艦隊を除けばそれぞれ艦隊長が登場してくる。一方,山烏である敵艦は1隻である。巡洋艦にも艦隊長がいると仮定すれば,烏の義勇艦隊は大艦長以下に艦隊長4名が率いる108隻から編制されていることになる。108隻という数字は明治38年日本海海戦でバルティック艦隊と戦った日本の連合艦隊の艦数と同じであり,大艦隊である。とても義勇軍とは思えない艦隊の編制である。延暦13年の征夷大将軍大伴弟麻呂の征討軍も4名の副将軍と蝦夷武装勢力の50倍以上の兵士から編制されている。さらに,烏の義勇艦隊には大陸から渡来してきたと思われる烏がいるが,蝦夷征討軍にも渡来人が多くいる。

 

(2)烏の義勇艦隊の大艦長は「年寄り」であり,実質の指揮官は駆逐艦隊の艦隊長である〈烏の大尉〉である。駆逐艦は「小型」の艦で近代戦では主力艦である大型の戦艦や中型の巡洋艦に近づく敵艦を駆逐する役目をもっているものであるが,この戦いでは先陣を切って出撃している。「延暦十三年の戦い」での征夷大将軍の〈大伴弟麻呂〉もこのとき60代半ばであり,実質の指揮官は副将軍の若い〈坂上田村麻呂〉である。

 

(3)烏の義勇艦隊は「北」へ侵攻して田圃や杜に軍営を設けて敵艦と戦うが,蝦夷征討軍も都から「北」へ進軍して胆沢の平野部(農耕地帯)に陣を張ったとされている。また山烏は縄文時代から栽培されている「栗の木」に「碇泊」するが,「蝦夷」は狩猟採集民の子孫とされている。

 

(4)烏の義勇隊の出撃訓練では,最初に〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊が飛び上がり,その後戦闘艦隊,大艦長,さらに巡洋艦,砲艦,2隻の艦がそれに続く。「バラバラ」で統率がとれていないのが烏の義勇艦隊の特徴であった。征討軍も「延暦十三年の戦い」の前哨戦となる延暦8年(789)の「巣伏村の戦い」で統率のない戦いが行われていた。「蝦夷」が北上川東岸に集結しているという情報を基に征東副使と鎮守副将軍2人の3人の指揮官が急遽3つに分かれて進軍する策をたてて行動に移すが,3軍の連携がうまくいかず大敗北を喫してしまう。敗北の理由の1つとして策を立てた指揮官が誰一人陣頭指揮を執らなかったことがあげられている。また烏の義勇艦隊では最後に正体不明の2隻が出撃するが,これは,この年に朝廷側に寝返った北方蝦夷の2人の部族長をイメージしたものであろう。実戦で,烏の大尉が率いる駆逐艦隊は,山烏が逃げられないように19隻で四方を包囲してから撃退している。「延暦十三年の戦い」では,朝廷側あるいは〈坂上田村麻呂〉が「蝦夷」に対しては懐柔策をとっていて胆沢の周囲の部族長を寝返りさせている。〈坂上田村麻呂〉は胆沢を孤立させることによって戦いを有利に運んだと言われている。

 

(5)〈烏の大尉〉は勝利に貢献して少佐に昇進するが,〈坂上田村麻呂〉も従四位下に昇進している(3年後には征夷大将軍)。

以上の類似点を踏まえれば,童話『烏の北斗七星』は,延暦13年(794)の〈桓武天皇〉の命を受けた朝廷軍と東北・胆沢の「蝦夷」の武装勢力との歴史的対決を基に創作されていると見なしてもよいと思われる。

 

相違点としては朝廷軍が徴兵による国軍(正規軍)であるのに対して,烏の艦隊が官舎を使っているにもかかわらず義勇艦隊と命名されているということと,烏の艦隊に女性兵士(烏の大尉の許嫁)が存在することである。

 

4)義勇艦隊が意味するもの

最初に,なぜ烏の艦隊は義勇艦隊でなければならなかったのかについて論じる。賢治研究家の大島(2003)によれば,『烏の北斗七星』における義勇艦隊という設定は,「単に「義勇」(正義・勇気に基づく自発的な)+「艦隊」ではない,広くは帝国海軍協会による義勇艦隊設立・募金運動の影響を受けたものであり,具体的には,この運動の中にあった田中智学の「宗説義勇艦隊」の構想から立ち上がったものと考えることができる」としている。

 

著者は,これを支持するがさらに3つの理由を挙げておきたい。1つ目は,大正7年の徴兵検査で「第二乙種」の兵役免除になったことが挙げられる。賢治は,想定されるシベリア出兵に皇軍で参加する意思もあったと思われるから,兵役免除はショックだったと思われる。義勇軍が設置されれば参加したかったのかもしれない。多分,賢治のそういう思いが物語の艦隊を義勇軍にしたのかもしれない。

 

2つ目は,賢治がこの物語を執筆したころ,天皇に対する批判の自由はなかったことが挙げられる。大日本帝国憲法第三条に「天皇の神聖不可欠(天皇の尊厳や名誉を汚してはならない)」が規定されている。これを犯せば不敬罪の対象として罰せられる。賢治の友人である保阪嘉内は「アザリア」という同人誌に天皇制を批判する文章を投稿したことで1918年に退学処分になっている。賢治は,『烏の北斗七星』が「東北」の「先住民」に対する朝廷軍の残虐な侵略戦争を描いたものと知られるのを恐れたものと思われる。それゆえ,兵士を烏としたり軍団を義勇艦隊としたり,あるいは女性兵士を登場させたりしたのだと思われる。

 

3つ目は,当時欧州にドイツ義勇軍の存在が知られていて,賢治はこれに興味を示したからと思われる。第一次大戦末期の1918年には,ロシア革命の影響を受けたドイツ革命に対して,ドイツ社会民主党右派のグスタフ・ノスケ(Gustav Noske:1867~1946)が組織したドイツ義勇軍というのがある。この義勇軍は敗戦後に社会にうまく復帰できない復員兵などにより構成され,社会(共産)主義者とユダヤ人に対して激しい「憎悪」を示し,革命左派に対する暴力組織として活動した。彼らの「憎悪」は,彼らにドイツの敗北が社会主義者ユダヤ人の妨害によるものと認識されていたからとされている。俗に「背後からの一突き」と呼ばれているものである。義勇軍社会主義者らへの「憎悪」は凄まじく,革命の指導者らを処刑するだけでなく,遺体の確認が困難なほど痛めつけたという。これは,「憎ければ殺すこともあり得る」という人間の本性が冷酷無比に貫かれている。

 

すなわち,賢治が義勇艦隊と命名したのは,義勇軍に対する憧れもあったと思われるが,この艦隊が正規軍(皇軍)であることを隠すためと,山烏に対して凄まじい憎悪も持っているということを強調したかったからと思われる。(続く)

 

引用文献

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 ツ・ガウクルア.2020.12.30(調べた日付).

 https://potato-museum.jrt.gr.jp/apios.html

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房

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岡本雅享.2011.アテルイ復権の奇跡とエミシ意識の覚醒.アジア太平洋レビュー. 

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