賢治の意識が宗教者としての自分と科学者としての自分に解離するという現象が詩集『春と修羅』の「小岩井農場」(パート九)(1922.5.21)に見受けられる。賢治は小岩井農場を散策しているとき,眼にははっきりと見えないが,「すきとほつてゆれる剽悍な四本のさくら」,「左に伴走するユリア」,「右にいるペムペル」,「巨きなまつ白なすあし」,「瓔珞をつけた子」を幻想していくが,これらの幻想に対して解離した宗教者の自分(A)と科学者の自分(B)がそれぞれ自分らの意見を主張する。以下に示す引用文の《 》内は科学者としての賢治(B)の内語,つまり発語されない独り言である。それ以外は宗教者としての賢治(A)である。
(A1)(すきとほつてゆれてゐるのは/さつきの剽悍(へうかん)な四本のさくら/わたくしはそれを知つてゐるけれども/眼にははつきり見てゐない/たしかにわたくしの感官の外(そと)で/つめたい雨がそそいでゐる・・・ユリアがわたくしの左を行く/大きな紺いろの瞳をりんと張つて/ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる・・・
(B1)《幻想が向ふから迫つてくるときは/もうにんげんの壊れるときだ》
(A2)わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ/ユリア,ペムペル,わたくしの遠いともだちよ/わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た/どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
(B2)《あんまりひどい幻想だ》
(A3)」さうです,農場のこのへんは/まつたく不思議におもはれます/どうしてかわたくしはここらを/der heilige Punktと/呼びたいやうな気がします/この冬だつて耕耘部まで用事で来て/こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで/なにとはなしに聖いこころもちがして/凍えさうになりながらいつまでもいつまでも/いつたり来たりしてゐました/さつきもさうです/どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は/
(B3)《そんなことでだまされてはいけない/ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる/それにだいいちさつきからの考へやうが/まるで銅版のやうなのに気がつかないか》
(A4)雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです/あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう
(宮沢,1985 記号と下線は引用者)
「剽悍な四本のさくら」の「剽悍」は動作がすばやく,性質が荒々しく強いこと。「der heilige Punkt」は神聖な場所の意味。瓔珞(ようらく)は首飾りのことで,菩薩や天人などの像は瓔珞をつけていることが多い(原,1999)。
引用文の最初に宗教者としての賢治(A)が小岩井農場を散策しているときに眼にはっきと見えないのに感じられたもの,つまり「幻想」は「すきとほつてゆれる剽悍な四本のさくら」である。賢治は自分が感じた「幻想」を「感官の外の幻想」と表現している(感官は感覚器官のこと)。感官で見えるはずのないものが感じられていたのだと思われる。精神医学で言うところの「幻視」のようなものだと思われる。
賢治は「サクラ」を「蛙の卵に見えると」といって嫌っている。「サクラ」の花からエロス的なもの,つまり成熟した女性をイメージしてしまうのかもしれない。
「剽悍な四本のさくら」のあとに,Aが感じる「幻想」の中にユリアやペムペルという童子(子供)が登場する。その名の由来は地質時代の侏羅(jurassic)紀やペルム(Permian)紀によるとされる(原,1999)。
賢治は「サクラ」の木のようなエロス的なものを感じると「怒り」が現れる。エロス的なものは賢治のような修行者にとって近づいてはいけないものだからである。
自閉スペクトラム症(ASD)的な資質をもつ賢治は,前ブログ(2025)でも述べたが自分が「怒り」によって「修羅」に落とされたとき,意識が同時に地質時代の世界にタイムスリップしてしまう。
例えば,詩集『春と修羅』の「春と修羅(mental sketch modified)」には以下のような詩句が並ぶ。
心象のはひいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり/のばらのやぶや腐食の湿地/いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様/(正午の管楽よりもしげく/琥珀のかけらがそそぐとき)/いかりのにがさまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾(つばき)し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ・・・・日輪青くかげろへば/修羅は樹林に交響し/陥りくらむ天の椀から/黒い木の群落が延び/その枝はかなしくしげり/すべて二重の風景を/喪神の森の梢から/ひらめいてとびたつからす (宮沢,1985)下線は引用者で以下同じ。「黒い木」は詩集発表直前の原稿では「魯木(ロボク)」となっていた。
引用者がつけた下線の「あけびのつるはくもにからまり」は愛欲が恋人に絡まって解けないという意味である。「魯木」は地質時代の古生代石炭紀(3億6700万年前~2億8900万年前)に栄えたカラミテス( calamites)のことである。古代シダの一つでスギナの祖先である。
また,詩「小岩井農場」(パート四)では,
いま見はらかす耕地のはづれ/向ふの青草の高みに四五本乱れて/なんといふ気まぐれなさくらだらう/みんなさくらの幽霊だ(中略)いま日を横ぎる黒雲は/侏羅や白亜のまっくらな森林のなか/爬虫がけはしく歯を鳴らして飛ぶ/その氾濫の水けむりからのぼったのだ/たれもみていないその地質時代の林の底を/水は濁ってどんどんながれた/いまこそおれはさびしくない/たったひとりで生きていく
つまり,ASD的資質をもつ賢治は,「サクラ」を見て愛欲が喚起されると,法華経の教えに背いたということで怒りが生じ修羅と化し,修羅(シュラ)の名が重なるジュラ紀(2億1200万年前~1億4300万年前)や白亜紀(1億4300万年前~6500万年前),ペルム紀(2億8900万年前~2億4700万年前),石炭紀などの地質時代へタイムスリップしてしまう。そして,見えるはずのないもの,つまり「左に伴走するユリア」,「右にいるペムペル」,「きみたちの巨きなまつ白なすあし」,そして「瓔珞をつけた子」がはっきりと見えてくる。
Aにユリアやペムペルと名付ける童子の姿が見えてくるとBは《幻想が向ふから迫つてくるときは/もうにんげんの壊れるときだ》と呟く。
B1の「幻想が向こうから迫ってくる」とは何か。
2つ考えられる。1つはASDの人に見られるタイムスリップ現象との関係である。タイムスリップ現象とは,ASDの人が遠い過去の出来事を突然,まるでつい先ほどのことのように鮮明に再体験することである。また「意識が今ある現実から切り離される感じ」「過去のことも(現在と)並行して進んできている感じ」など、時間感覚の変容を伴うことがあり「解離」に類似することがある(精神科用語シソーラス,2025)。つまり,「幻想」が過去(向こう)からやってくるという意味である。過去は地質時代と後述する〈釈迦〉の修行中であった前世という2通りの意味がある。
2つ目は,統合失調症の人に見られる幻視あるいは幻聴との関係である。統合失調症の人が回復期にあるとき,薬を止めたり新しい世界に入って行こうとしたりすると再発・再燃が起き易いとされている。しかし,薬を飲み,また新しいことをしなくても,突然に幻視・幻聴が現れることがある。その場合,再発・再燃が「向こうから勝手にやってくる」と表現する。病態が慢性化する兆候でもある(八事の森メンタルクリニック,2025)。つまり,「幻想」が突然に,何の前触れもなくやってくるという意味である。
多分,賢治の場合は前者の「解離」に伴うタイムスリップ現象のことを言っているように思える。賢治の「幻想」(あるいは幻視)も「解離」と関係があるのかもしれない。
精神科の芝山雅俊によれば,「解離」の病態で見られる幻視にはしばしば子供が登場するという。また,自分のかたわらに誰かが見えるという幻覚は精神医学では同伴者幻覚と呼ばれるのだという(芝山,2007)
ただ,Bが「もうにんげんの壊れるときだ」,「あんまりひどい幻想だ」あるいは「銅版のやうなのに気がつかないか」と言っているぐらいなので,賢治はこの幻想(幻視)を深刻なものとして捉えている。
Bの《まるで銅版のやうなのに気がつかないか》の銅板とは,
「銅版画のように,きめ細かく,かつ重厚で,一度刻まれたら消えないような,鮮明で確かな実体を持ったものである。」という意味であろう。統合失調症の人が本当は実在しない屋根裏の人を,確かにそこに実在していると認識してしまう「実体的意識性」に近いものになっているようにも思える。つまり,幻想としての童子が統合失調症の人が見る幻視と同様にはっきりと見えているのであろう。
宗教者としてのAは感官の外にはっきりと見える「ユリア,ペムペル」,「巨きなまつ白なすあし」,そして「瓔珞をつけた素足の子」の存在を「ほんとう」だと信じているが,科学者としてのBはその存在を疑っている。つまり,「うそ」だと。さらに,BはAの体験する幻覚が時間とともに明瞭になっていき,疑わざるを得ないものになり,統合失調症の人にもあるように,精神が壊れてしまうことを危惧している。
下書稿でも同じで,Aが「古い壁画に私はあなたに似た人を見ました。」と呟くと,Bが「おいおい。幻想にだまされてはいけない。」と答え,またAが「幻想だと,幻想なら幻想をおれが,感ずるといふことが実在だ。かまうものか。なんといふ立派なすあしです。」というような対話になっている。
B2の「あんまりひどい幻想だ」とは何か。
それは2億年前の地質時代に「巨きなまつ白なすあし」をもつ「瓔珞をつけた子」が登場するからである。この「瓔珞をつけた子」とは〈釈迦〉の修行中である前世の姿と思われる。実際に,賢治は2億年前の〈釈迦〉の前世について物語を書いている。童話『四又の百合』(1923)である。登場する百合の花は,2億年前のある国の王がこの国を訪れる〈正徧知(しょうへんち)〉に「布施」として献上するものである(前ブログ,2022)。〈正徧知〉とは仏教の開祖である〈釈迦〉のことで,この童話は古代インドの説話集『ジャータカ』の影響を受けているとされている(原,1999)。『ジャータカ』は,〈釈迦〉がインドに生まれる前に,王,王子,司祭官,大臣,動物,鳥,樹神など様々な姿で道を求めて善行と徳を積んだ菩薩としての前世が語られている(津田,2018)。「輪廻転生(りんねてんしょう)」や「業報(ごうほう)」の思想に基づくものである。科学者としてのBにとって「輪廻転生」や恐竜が跋扈する世界にどんな姿をしていたのかは解らないが〈釈迦〉や〈王〉や〈大臣〉が存在していたなどとても信じがたいものなのである。
つまり,「みんなの幸い」を主張する宗教者としての賢治の分身は賢治に伴歩する「瓔珞をつけた素足の子」の存在を信じているが,科学者としての賢治の分身は「瓔珞をつけた素足の子」を現実には存在しない想像上の生き物だとしている。宗教者としての賢治の分身は「幻想なら幻想をおれが,感ずるといふことが実在だ。かまうものか。」と開き直ってしまうこともある。つまり,宗教者としての賢治の分身は『春と修羅』の「序」にあるように,感ずるものも「現象」なのだから「実在」するのだと主張する。
賢治の意識が宗教者としての自分と科学者としての自分に解離するのは,詩集『春と修羅』の「小岩井農場」(1922.5.21)だけでなく,詩「蠕虫舞手」(1922.5.20)でも認められる。賢治はどちらか一方の主張が強くなることを気にかけている。例えば,宗教者としての自分が強くなれば,科学者としての自分から「人間が壊れるときだ」とまで言われている。賢治には宗教者としての自分と科学者としての自分以外に両者を見まもるもう一人の自分がいるように思える。賢治は,詩集『春と修羅』を出版後,童話『銀河鉄道の夜』を創作していくが,この童話の大きなテーマの一つに宗教と科学の一致がある(前ブログ,2021)。多分,『銀河鉄道の夜』は宗教者でも科学者でもないもう一人の賢治が創作していたのかも知れない。もう一人の賢治は「ほんとう」と「うそ」を見分けられる実験装置を手に入れたがっている。そのような装置ができれば宗教と科学は一致できるからである。
参考・引用文献
原 子朗.1999.新宮澤賢治事典.東京書籍.
宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.
芝山雅俊.2007.解離性障害-「後ろに誰かいる」の精神病理.筑摩書房.
精神科用語シソーラス.2025(調べた年).タイムスリップ現象.https://sites.google.com/psychopathology.jp/thesaurus
津田直子.2018.ジャータカ物語(上)(下)-釈尊の前世物語-.第三文明社
八事の森メンタルクリニック.2019,統合失調症からの回復過程と慢性化.https://yagotonomori.jp/2019/12/11/
前ブログ.2021.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306
前ブログ.2022.童話『四又の百合』に登場するまっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎(1)-それは自然界に存在するのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/10/22/123344
前ブログ.2023.宮沢賢治の詩「蠕虫舞手」に登場する「8(エイト)γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)」とは何か.
https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/04/16/160851
前ブログ,2025.自閉スペクトラム症の特徴の一つとされるタイムスリップ現象,賢治も体験したか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2025/05/02/115359
お礼 ユキノカケラさん いつも本ブログ読んでいただきありがとうございます。2025.10.7.
お礼 konomiwo4649さん 読者になっていただきありがとうございます。今後ともよろしく。2025.10.21.