宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の詩に登場する「暗い業の花びら」の意味を明らかにする(3)-ボードレールの「悪の華」との類似点から-

本稿(第3稿)は下書稿の「業の花びら」に記載されている「暗い業の花びら」が何を意味しているかを,詩の表題が類似するボードレールの詩集を読み込むことから考察する。

 

フランスの象徴主義の詩人であるボードレール(Charles-Pierre Baudelaire;1821~1867)が書いた詩集に『悪の華』( Les Fleurs du mal;初版1857年)というのがある。この詩集は詩人の誕生から死までの魂の遍歴が厳密な構成により展開されていて,心理的相克の深刻な表現,象徴主義を予告する音楽性,新鮮な官能表現等により近代詩の源泉となり,後世に多大の影響を与えたとされるものである(平凡社百科事典マイペディア)。この詩集は「美」を重要なテーマにしているが,詩集に登場する女性たちはボッティチェッリの絵画に描かれているようなヴィーナスではなく,娼婦や顔に深い皺を刻み込んだ老婆たちである。ボードレールは娼婦や老婆たちに「華」すなわち「美」を見ている。

 

詩集『悪の華』(初版)は「憂愁と理想」,「悪の華(花)」,「反逆」,「葡萄酒」,「死」の5章に,序詩(読者へ)を含めた詩101篇を収録する。第2版は1861年に刊行。「パリ情景」を加えて6章構成となる。現在第2版が定本となっている。

 

この詩集の表題である「悪の華」と「暗い業の花びら」は「悪」と「暗い業」,「華(花)」と「花びら」を対比させれば似ているように思える。

 

ボードレールの研究者である橋本征子(1997,2008)は,「悪の華」の「悪」とは,19世紀末の大都会パリに見られるような人間の精神性の失墜,物質文明への礼賛,拝金主義を指すのであって,また,当時の社会に蔓延していた「進歩」や「有用」=「善」という既成道徳の構図に対するアンチ・テーゼでもあり,「華(花)」とはそのような社会からはみ出してしまった者たち,なす術もなく,巷にさ迷う娼婦たち,老婆たち,物売りたちに宿っている「美」のことである。と言っている。また,「美」に関して,少しも歪んでいないもの は,感銘を与えない。驚かすことは「美」の本質的な部分である。とも言っている。つまり,「華」はその場に実在する花を指すものではなく,「美」を象徴するものとして使っているように思える。賢治のように,実際に花の「花びら」を見ているのではない。

 

多分,ボードレールは,我が国で言うところの「滅びの美」あるいは「散りぎわの美」のようなものを,自らの境遇と重ねて,開花した物質文明社会から落ちこぼれ,あるいは散っていく娼婦たちや「皺」だらけの顔の醜い老婆たちに感じていたのだと思われる。

 

我が国では「花」と言えば「桜」である。「桜」の「美」は散りぎわにあることもよく知られている(天沼,2002)。たとえ,散りぎわの「桜」の「花びら」が色あせて醜くなってでもだ。また,形あるものはやがて「滅びゆく」という自然の摂理に感じられる無常観が「あはれ」という「美」の意識を生んできた。

 

縄文の「美」を再発見したのは10年間フランスで過ごしたこともある芸術家の岡本太郎(1911~1996)である。岡本は東京国立博物館の一室で考古学の遺物として陳列されていた燃え盛る炎や,渦巻く水の流れを表現したような紋様の縄文土器(火焔型土器など)に偶然出くわし,ドキッとして,そして「なんだこれは!」と叫んだそうだ。土器の紋様は老婆の顔の「皺」のようでもある。つい50年前までは日本美術史に縄文は存在しなかったという(石井匠,2024)。ちなみに,火焔型土器は紋様以外では大仰な4つの突起を持つのが特徴である。この突起は煮炊きに使う土器としては邪魔なものである。すなわち,岡本はボードレールと同じように醜く役に立ちそうにもないものに「美」を感じ取っている。

 

「悪の華」で使われる重要なキーワードに「憂愁」(spleen)がある。「憂鬱」と訳されることもある。「憂愁」とは,英語からの外来語で「脾臓」のことである。 そこから胆汁がでてくることから「ふさぎ虫」,つまり人生への疲れや倦怠感を指す(橋本,1997)。

 

詩集『悪の華』には表題だけでなく,賢治の詩「業の花びら」と内容が類似した作品もある。

 

詩集『悪の華』の初版と第2版の第1章「憂愁と理想」の16番目にある「傲慢の罰」という詩である。賢治が生きた時代に馬場睦夫訳の『悪の華』(1919)が出版されている。しかし,全訳にはなっておらず,残念ながら「傲慢の罰」の和訳を見ることはできなかった。

 

フランス文学者である岩切正一郎(2024)が「傲慢の罰」を解りやすく和訳したものを偶然ネットで見つけたので,今回それを採用する。「傲慢」も物質文明を礼賛する社会から生み出されたものであるなら「悪」の1つと思われる。

 

「傲慢の罰」

 

〈神学〉が,空前絶後のエネルギーと樹液にみちあふれ

花咲いていたあのおどろくべき時代,

こんなことがあったという,最も偉大な博士のひとりが,

-信者たちの無関心な心をむりやりこじあけ

黒い深みの底でそれをゆすぶったあと,

天の栄光へむかい

自分でもしらない不思議な道を越えていった,

そんな道は,けがれない〈聖霊〉しか来たことはなかったろう-

高いところに登りすぎパニックになった男のように,

悪魔めいた驕(おごり)りの気持ちに我を忘れ,叫んだそうだ。

イエズスよ,ちっぽけなイエズスよ!おまえをこんなに高めてやった

だがな,その甲冑の破れ目を,このわしが,

一突きしようと気でも起こしていたら,今頃そなたの栄光は恥にひとしく,

そなたはもはや笑いものの胎児でしかなかったはず!」

 

そのとたん,かれの理性は去ってしまった。

太陽のきらめきはヴェールに覆われた。

かれの知性のなかに混沌(カオス)がうねった。

かつては生きた寺院で,秩序と豪奢(ごうしゃ)であふれていたのに,

その天井の下には栄耀(えいよう)が燦然(さんぜん)と輝いていたのに,

沈黙と夜がその中に居座った,

鍵が失われた地下の穴蔵のように。

その時から,かれは路傍の畜生とおなじだった。

なにも目にはいらず,夏と冬との区別もつかず,

野づらを超えてゆくときは,

廃品のようによごれ,役立たずな,醜いかれを,

子どもたちは囃したて,笑いものにしたそうな。

           (下線は引用者)以下同じ

 

 

詩「傲慢の罰」には「偉大な博士」(神学博士)が神に勝ろうとして神の逆鱗に触れ,路傍の畜生並の存在に落ちてしまう姿が描かれている。

 

岩切の翻訳には神学博士に対する以下のような注釈がついている。「傲慢の罰」は,1848年10月15日の『両世界評論』に掲載されたサン=ルネ・タイヤンディエの論文記事に載っている中世の逸話が源泉とされている。十三世紀に,司教座聖堂参事会員シモン・トウルエが,公衆の前で聖三位一体の神秘について解明したあと,あまりにも満足したあげく,心おごって,キリスト教の真理は自分の論考の巧みさに依拠していると口走った。するとふいに,彼は言葉の自由を失い,呆けてしまった。神罰がくだったのだ,という逸話である。

 

神学博士を芸術家に置き換えれば,この詩は,芸術家の「慢心」に対する戒めという教訓をもつものでもある。

 

ボードレールの研究家である清水まさ志(2022)は,「芸術家が芸術作品の創造において理想を追求するほど,倦怠と憂鬱に陥る。理性と知性と秩序を象徴する神殿はギリシャ神殿を彷彿とさせ,理性が失われた様子を太陽の昼から沈黙の夜への変化として描く。神殿が地下納骨所へと変化し,しかも地下納骨所を開ける鍵が失われて閉じ込められている姿は,墓である自らの魂に住み着いている「無能な修道僧」と同様である。近代の芸術家は,この神に対する反逆の罪,「高慢の罪」によって,治癒と回復が不可能なほどの倦怠と憂鬱の闇に落とされるという罰を受けている。」と解釈している。清水の言う「倦怠と憂鬱」はボードレールの「憂愁」(spleen)のことを指すものと思われる。

 

すなわち,ボードレールは傲慢の罰を受けて子どもにも笑われる畜生並の存在に落ちぶれてしまった神学博士あるいは芸術家に「憂愁」の「美」を感じている。つまり,神学博士あるいは芸術家に「悪の華」が宿っているのを感じ,「傲慢の罰」という表題で詩を創作し,詩集『悪の華』の第1章「憂愁と理想」に組み込んだのだと思われる。

 

詩「傲慢の罰」の神学博士を菩薩に成りたかった賢治に置き換えるとどうなるか考えてみる。岩切和訳の「傲慢の罰」を基にして賢治の「業の花びら」を修正してみる。

 

「業の花びら」mental sketch modified

 

〈宗教〉が,空前絶後のエネルギーと樹液にみちあふれ

花咲いていたあのおどろくべき時代,

こんなことがあったという,菩薩道を歩む偉大な信徒のひとりが,

-信者たちの無関心な心をむりやりこじあけ

黒い深みの底でそれをゆすぶったあと,

天の栄光へむかい

自分でもしらない不思議な道を越えていった,

そんな道は,けがれない〈菩薩〉しか来たことはなかったろう-

高いところに登りすぎパニックになった男のように,

悪魔めいた驕りの気持ちに我を忘れ,叫んだそうだ。

「楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申!そなたらの名を台本に記録し,そしてたくさんの聴衆のいる高い壇上に登らせてやったぞ!

だがな,おまえらが着る衣服の破れ目を,このわしが,

一突きしようと気でも起こしていたら,今頃そなたの栄光は恥にひとしく,

そなたらはもはや憎まれ役のたちの悪い卑賤の神でしかなかったはず!」

 

そのとたん,かれの理性は去ってしまった。

太陽のきらめきはヴェールに覆われた。

かれの知性のなかに混沌(カオス)がうねった。

かつては生きた寺院で,秩序と豪奢であふれていたのに,

その天井の下には栄耀が燦然と輝いていたのに,

沈黙と夜がその中に居座った,

鍵が失われた地下の穴蔵のように。

その時から,かれは地中に巣を持つ地を這う虫けらとおなじだった。

なにも目にはいらず,夏と冬との区別もつかず,

野づらを超えてゆくときは,

廃品のようによごれ,役立たずな,醜いかれを,

子どもたちは囃したて,笑いものにした。

かれははげしく寒くふるえていた

ただ,空には暗い業の花びらがいっぱい見えていたそうな。

 

 

このようにボードレールの詩集『悪の華』の「傲慢の罰」を読み込むと,この詩が賢治の詩「業の花びら」の内容と類似していることが明らかになる。ボードレールは「驕り」によって路傍の畜生に成り下がってしまった惨めな神学博士(芸術家)に,パリの町をさ迷う老婆に対してと同様に,「悪の華」を見ている。一方,賢治は地を這う虫けらのようになり,はげしく寒くふるえる自分の頭上に「暗い業の花びら」を見ている。

 

しかし,賢治は自分の詩に「驕り」とか「罰」という言葉を使うことはなかった。

 

賢治が隠した「驕り」(慢心あるいは傲慢)こそが,詩「業の花びら」のキーワードになっているのだと思われる。「驕り」は仏教で言うところの「意業」(心に思う働き)に相当する。すなわち,「驕り」は「業」の1つである。

 

すなわち,詩「業の花びら」に記載されている「暗い業の花びら」とは賢治にしか見ることのできない「慢心という業の報い(罰)を受けたときに現れる幻の花びらのこと」と思われる。具体的に言えば,賢治が驕り高ぶって先住民の神々を勝手に舞台にあげてしまったことで神罰を受け「はげしく寒くふるえる」ということになった。このとき天井に幻影としてのたくさんの「花びら」が見えたということである。この「花びら」は「暗い」と形容されているので「人に触れられたくない」ものであったに違いない。なぜ幻影が「花びら」なのかについては,偶然の一致,あるいはボードレールの「悪の華」の影響があったからのどちらかであると言うしかない。

 

また,賢治はボードレールの詩「傲慢の罰」と類似した作品として童話『サガレンと八月』(1923?)を書いている。この童話には樺太のギリヤークの少年が主人公として登場する。母は,少年に浜に落ちている透明な「くらげ」のようなものを拾ってはいけないと常日頃から忠告していた。「くらげ」でものを透かしてみると「悪いもの」が見えてしまうからだ。しかし,少年は標本収集にやってきた内地の農林学校の助手と仲良くなり,しだいに助手が暮らす内地の社会に憧れを持つようになる。すなわち,「驕り」が芽生えてくる。そして高ぶった「驕り」の気持に我を忘れ,母の忠告を無視して「くらげ」の「めがね」で南の方角を見てしまう。すると,いままで明るく見えていた青い空が「がらんとしたまっくらな穴」のようなものに変わってしまった。少年は「先住民」が暮らす美しい風景がみすぼらしいものに感じるようになってしまったのだ。さらに,恐ろしいことにギリヤークの犬神が突然に現れ,少年は蟹の姿に変えられ,海の底の穴の中に閉じ込められ,そして「ちょうざめ」の下男にされてしまう。この物語は,蟹にされた少年が「ぶるぶる」震えながら「こいつらのつらはまるで黒と白の刺だらけだ。こんなやつに使われるなんてほんたうにこはい」と呟くことで終わる。(石井,2023)。

 

私は,少年が樺太から「くらげ」の「めがね」(望遠鏡)で南の方角を覗いて見た「悪いもの」が大都会東京であると推論したことがある(石井,2023)。ボードレールは大都会パリの中で社会から落ちこぼれた人々に「悪の華」を見ていた。

 

ボードレールの研究者・橋本征子の言葉を使い童話『サガレンと八月』を解釈すれば,信仰を中心として精神世界に住んでいた先住民の少年が物質文明や拝金主義を礼賛する社会に憧れたことで先住民の神から罰を受けたということである。賢治は自分の過去にしでかした罪と重ね,罰を受け穴の中で「ぶるぶる」と震える先住民の少年の頭上に「暗い業の花びら」を見たであろうし,ボードレールならこの少年に「憂愁」(spleen)の美を感じ,「悪の華」が宿っているのを見たであろう。

 

賢治の作品に少なからずボードレールの影響が見て取れる。(続く)

 

参考・引用文献

天沼 香.2002.日本精神史としての「死生観」研究序説.東海女子大学紀要 22;1-10.

橋本征子.1997.萩原朔太郎の「憂愁」についての試論 : ボードレールの「憂愁」と比較して.國學院短期大学紀要 15 (0); 5-34.

橋本征子.2008.ボードレールの詩集「悪の華」に於けるジャンヌ・デュバル篇について.國學院短期大学紀要 25 (0); A3-A22.

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考-蟹の母が子の行動に対して禁止したもの(試論 第2稿)-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/03/12/063009

石井 匠.2024(調べた年).岡本太郎と縄文.https://www.kaen-heritage.com/doki/taro/

岩切正一郎.2024(調べた年).ボードレール『悪の華』(1861年版)全篇https://subsites.icu.ac.jp/people/iwakiri/fleurs%20du%20mal.html

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

清水まさ志.2022.ボードレール『悪の華』「芸術」詩群を読む(2)―ロマン主義と「北方」―.筑波大学フランス語・フランス文学論集.37:69-83.