宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の詩に登場する「暗い業の花びら」の意味を明らかにする(4)-教え子である柳原昌悦への手紙から-

前稿で詩「業の花びら」に記載されている「暗い業の花びら」は「慢心という業の報い(罰)を受けたときに現れる幻の花びらのこと」であると推論した。しかし,多くの賢治ファンは,菩薩に成りたかった賢治に「慢心」(傲慢)が生じることを認めたくないであろう。本稿では,賢治に「慢心」があったかどうかについて検討する。

 

賢治が亡くなる3年前と10日前に,花巻農学校時代の教え子で小学校の教諭になっている沢里武治と柳原昌悦に手紙を出している。賢治のこれら2つ手紙に「慢心」について述懐する言葉を残している。

 

沢里への手紙(書簡260;1930)には,「私も農学校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終わりのころわずかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨慢な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです。もう一度新しい進路を開いて幾分でもみなさまのご厚意に酬いたいとばかり考へます。」とある(宮沢,1985;下線は引用者)。沢里は賢治から音楽の才能を認められた生徒であった。賢治の詩集『春と修羅 第二集』の「三八四 告別」(1925.10.25)で「おまえ」と呼びかけられている生徒のモデルとされている人物である。この詩には「・・・すべての才や力や材といふものは/ひとにとゞまるものでない/ひとさへひとにとゞまらぬ/云はなかったが,おれは四月はもう学校に居ないのだ・・・・もしもおまへが/よくきいてくれ/ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき/おまへに無数の影と光の像があらはれる/おまへはそれを音にするのだ・・・もしも楽器がなかったら/いゝかおまへはおれの弟子なのだ/ちからのかぎり/そらいっぱいの/光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ」(宮沢,1985)とある。

 

沢里への手紙には,賢治が稗貫農学校の教諭(1921年12月~1926年3月)であった終わり頃に倨慢(きょまん)な態度になったことが記されていた。倨慢とは「傲慢」のことである。詩「告別」でも沢里を「おまえ」と呼び,「すべての才や力や材といふものは/ひとにとゞまるものでない」や「おれの弟子」などと「慢心」をうかがわせる言葉を並べている。賢治の詩「業の花びら」(1924.10.5)も農学校時代の終わり頃に書かれている。

 

また,賢治が亡くなる10日前の柳原への手紙(書簡488;1933年)には,「私もお蔭で大分癒っては居りますが,どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず,咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり,或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり,仲々もう全い健康は得られさうもありません・・・・私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ,じぶんの仕事を卑しみ,同輩を嘲り,いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ,空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・どうか今の生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに,しっかり落ちついて,一時の感激や興奮を避け,楽しめるものは楽しみ,苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。(宮沢,1985)」とある。この手紙の下線は引用者がつけたもので,慢に付いている「」は賢治がつけたものである。

 

柳原への手紙の下書稿には以下のような記載もある。「・・・・どうかあなたはいまのお仕事を落ち着いて大切にお守りください。その仕事をしてゐる間は誰でもそれがつまらなく低いものに見えて粗末にし過ぎるやうです。私などはそれによって致命的に身を誤った標本でせう。「慢」といふ心病,身に発して只今の生きるに生き悩み死ぬに死にきれないこの病になったのです。」とある。

 

「憂悶(ゆうもん)」とは思い悩み,苦しむことである。賢治の時代に憂悶病という疾患があったかどうかは知らない。

 

「同輩を嘲り」とは農学校時代の同僚で小学校の同級でもあった奥寺五郎(1924年死去)のことを言っているのだと思われる。奥寺は母親と2人暮らしで,学歴の関係で正式の教諭ではなく,給料も後から入ってきた賢治よりも少ない助教諭心得として養蚕と事務を担当していた(50円ほどだったらしい)。奥寺が20代半ばで結核に罹患し,退職後仙台の病院で療養することになったとき,賢治は土曜日から日曜日にかけて行けるときは毎週のように仙台に見舞いに行き,自分の給料から30円を奥寺に送ったという。後になって毎月50円ずつ1年間あげていた。この時賢治の給料は100円だった。初めは奥寺も賢治の真意を疑って憤慨もしていたが,亡くなる頃は感謝していたという(同寮・堀籠文之進の話として;森,1983)。

 

柳原昌悦への手紙には,賢治は「「慢」といふものの一支流に過って身を加へたこと」が原因で,「罰」を受け「憂悶」の病になったということが書かれてあった。わざわざ,慢にカギ括弧の「」をつけて強調している。さらに,慢について,賢治は「僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ,じぶんの仕事を卑しみ,同輩を嘲り,いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ」と具体的な例をいくつかあげて説明している。しかも,沢里への手紙で賢治は「慢心」であった時期が農学校時代の後半頃であったことも告白している。つまり,賢治は詩「業の花びら」を執筆していた頃,確かに「慢心」が生じていたのだ。同僚の奥寺五郎が賢治の施しに憤慨したのも,奥寺が賢治に「慢心」を感じたからと思われる。 

 

柳原への手紙に「今日の時代一般の巨きな病」とあるように「慢」という「業」の病は時代病のようでもある。賢治と同世代の小説家に佐藤春夫(1892~1964)がいる。佐藤春男は「憂悶」の病と似たようなものを1919年に小説『田園の憂鬱』(副題は病める薔薇)で書いている。田園生活の中で,「憂鬱」と「倦怠」に悩まされる姿が描かれている。当時佐藤は神経衰弱を患っており,都会から離れ田舎暮らしを行うことで都会で受けた神経の摩耗を取り戻そうとしていたようだ(Wikipedia)。ボードレールなら佐藤の病を「憂愁」(spleen)の病と呼んだのかもしれない。

 

賢治と同時代の萩原朔太郎(1986~1942)はボードレールの影響を強く受けた詩人であると言われている(佐藤,1994)。橋本征子(1997)もボードレールと萩原朔太郎の「憂愁」について比較し,二人の官能的な感覚,醜悪美の好み,都会や群集への対し方などに深く相通じるものがあると指摘している。その朔太郎が賢治の詩に影響を与えたとされている。朔太郎研究家である長野隆(1993)は朔太郎の詩集『月に吠える』における詩の表現法と賢治の『春と修羅』におけるものを比較し,似て非なる相違点もあるが類似点の多いことを指摘している。実際に,賢治は朔太郎の『月に吠える』を読んでいる。大正8年(1919)ごろに賢治の同郷である阿部孝を東京の下宿先に尋ねたとき,本棚にあった『月に吠える』(1917)を手にして「不思議な詩だな」と言ったという。阿部は賢治にとって文学の話ができる数少ない相手の1人あったようで,帰省中の阿部を訪れては自作の詩を読み聞かせ批評を求めている。真意は定かではないが,阿部が「朔太郎張りだ」と評すると,賢治は「図星をさされた」と悲痛な声をあげたという(原,1999)。

 

「暗い業の花びら」とは「慢心」(業)の「報い」(罰)を受け卑小なものになったときに天井に現れる幻の花びらのことである。感覚過敏な賢治にはこの「花びら」が実際に見えたのであろう。「慢心」という「業」も進歩や物質文明や拝金主義を礼賛するする社会から生み出された「悪」の1つと考えれば,賢治が使う「暗い業の花びら」もボードレールの「悪の華」と同じ意味であると思われる。「悪の華」は「美」を象徴している。賢治も「業の花びら」の「花びら」が美しく見えたはずだ。賢治がボードレールの詩集『悪の華』の「傲慢の罰」を原文(フランス語),和訳,英訳などで読んでいたという証拠はない。多分,賢治の詩がボードレールのものと類似しているのは,ボードレールを受容した同世代の詩人,例えば萩原朔太郎などからの影響によるものなのかもしれない。ただ,賢治の生きた時代がボードレールの物質文明を礼賛する時代でもあったので,詩「業の花びら」と詩集『悪の華』の「傲慢の罰」が似ていても不思議ではない。(了)

 

参考・引用文献

橋本征子.1997.萩原朔太郎の「憂愁」についての試論 : ボードレールの「憂愁」と比較して.國學院短期大学紀要 15 (0); 5-34.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

長野 隆.1993.モナドロジーと身体/脱身体 : 萩原朔太郎と宮沢賢治.早稲田文学 (201) 46-51.

佐藤,東洋麿.1994.日本近代叙情詩事情 : ボードレールの匂いヴェルレーヌの影.横浜国立大学留学生センター紀要 1 :101-108.