宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の詩に登場する「暗い業の花びら」の意味を明らかにする(2)-花びらは実際に見えていたのか-

前稿では,定稿「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿で「業の花びら」という表題のついた詩の背後にあるものを解説した。本稿(第2稿)は「暗い業の花びら」という言葉を「暗い」,「業」,「花びら」の3つに分解してそれぞれの意味を考えてみる。

 

「暗い」は,「光が弱い」とか,「光が少なくてよく見えない」という意味の他に,「不幸な感じがする」とか,「人に触れられたくない事情がある」という意味もある。例えば,「暗い過去をもつ」とは「人に触れられたくない過去を持つ」ということである。

 

「業」とは『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「梵語karman(カルマン),karuma(カルマ­=羯磨)の漢訳であり,行為を意味するという。さらに,これらの業が因となり,現世や未来に果(報い)をもたらすもので,「業」は,過去から未来へ存続してはたらく一種の力とみなされている(原,1999)。仏教で「業」には(1)身体的な行為 (身業) ,(2)言葉を発すること (口業),(3)心に思う働き (意業)の3つがあるとされる。童話『二十六夜』にも「業とは梵語でカルマといふて,すべて過去になしたることのまだ報(むくい)となってあらはれぬを業といふ。善業悪業あるぢや」(宮沢,1985)と説明されている。

 

賢治の詩にある「暗い業」とは「報いをもたらすことが予想される行為や働きの中で特に人に触れられたくないもの」と思われる。

 

「花びら」とは植物学的には花弁のことである。花の萼 (がく)の内側にあって萼より大きくて薄く,さまざまな色彩をもつものをいう。花弁の重要な役割は花粉を付けた昆虫などの動物を花の生殖器である雌しべに誘導させることと言われている。さまざまな色をもつ花弁は目立つので目印になるらしい。植物は自家受粉よりも他家受粉のほうが多い。だから,動けない植物は花弁を使い動物に花粉を運んでもらい繁殖する。一般に花の繁殖時期は短く,時間が経つと「花びら」は色あせて地上に散る。

 

詩に登場する「花びら」は夜の空に見えるらしい。それも花吹雪のようにたくさん。多分,頭上にある木に咲く花から散ってくるものか,あるいは散った草の花が風で舞い上がったものであろう。しかし,詩には「松ややなぎの林はくろく」とあるように詩を創作している作者の回りに「花びら」のある木や草は存在していないように思える。つまり,夜の空には星や月は見えても,「花びら」は見えていないと思われる。ただ,夜空の星を花に喩えたという可能性はある。童話『ひのきとひなげし』(最終形1931)に「あめなる花をほしと云ひ/この世の星を花といふ」という「ひのき」が「ひなげし」に話すセリフがあるからである。しかし,「暗い業の星」としたらますます何を言っているのか解らなくなる。

 

賢治が本当に夜の空にたくさんの「花びら」を見たとするなら,それは幻覚(幻視)と思われる。幻覚とは「対象なき知覚」のことである。つまり,幻視なら,対象としての「花びら」は存在しないが,賢治にはそれらがはっきりと見えているということである。賢治は「人に触れられたくない過去の行為」が脳裏に浮かんだとき,その報いを受けるとともに夜空に花吹雪となって散っている「花びら」がはっきりと見えていたということである。

 

賢治作品で「花びら」という言葉が登場するのは童話『やまなし』(1923),童話『チュウリップの幻術』(1923),童話『おきなぐさ』(1923)の3作がある。

 

いずれの作品も詩「業の花びら」の1年前に作られたものである。これら作品のうち上方に「花びら」が見えるのは童話『やまなし』と『おきなぐさ』である。前者では白い樺の「花びら」が水面をすべっていくのが見える。後者では太陽に透かし出されたオキナグサの黒い「花びら」が赤く見えている。ただ,興味あることに樺の「花びら」を見ているのは水底にいる蟹や魚たちであり,オキナグサの「花びら」を見ているのも地を這う小さな蟻たちである。人間ではない。多分,「暗い業の花びら」は人間であるなら堕落して畜生や虫けらのようなものに成り下がったときに見えるものなのかもしれない。

 

賢治は「業の花びら」を創作していた頃,凡人には見えないようなものを繰り返し見ている。

 

賢治は,詩集『春と修羅』刊行の頃(1924年)に,タチの悪い神を幻視している。賢治の親友である森荘已池(1983)の証言によれば,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影(鬼神)を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。

 

また,賢治は,早池峰山の南方にある登山口(河原坊)にある転石の上で眠ってしまったとき,南無阿弥陀仏という念仏を唱える幻聴とともに,若い坊さんの姿をした幻影(鬼神)も見ている(森,1983)。『春と修羅 第二集』の詩「河原坊(山脚の黎明)(1925.8.11」にその時に様子が「・・・あゝ見える/二人のはだしの逞ましい若い坊さんだ/黒の衣の袖を扛(あ)げ/黄金で唐草模様をつけた/神輿(みこし)を一本の棒にぶらさげて/川下の方へかるがるかついで行く/誰かを送った帰りだな・・・曾ってはこゝに棲んでゐた坊さんは/真言か天台かわからない・・・」と記載されている。

 

また,賢治は,農学校でレコード鑑賞をしばしば行っているが,そのときにベートーヴェンの「月光」の曲をかけながら,生徒に「円や直線や山形などの様々な図形が見える」と説明したという(板谷,1992)。

 

森荘已池(1983)によれば,賢治が「鬼神」について話をすることは少なかったという。むしろ避けていたという。賢治が「鬼神」を見た話をするときは,「幻覚」ですねと断りをいれたという。多分,人に触れられたくないものであったのであろう。定稿「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」で表題を「業の花びら」にしなかったのは「業の花びら」の「花びら」が「幻覚」なので,そのことをことさら強調したくなかったのかもしれない。

 

すなわち,「暗い業の花びら」の「花びら」は賢治が見た幻影としての「花びら」だと思われる。どのような形に見えていたのかは知るよしもないが,この幻花は追い詰められた賢治が自分を卑小な人間と思えたときに上方に現れるようだ。

 

では,「人に触れられたくない過去の行為」が賢治の脳裏に浮かんだとき,また自分が卑小な人間であると思えたとき,なぜ賢治に幻影としての「花びら」が見えるのであろうか。多分,第1稿で考察したように「神罰」が深く関係しているように思える。(続く)

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

板谷栄城.1992.素顔の宮澤賢治.平凡社.東京.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.