宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (3)-それによって築いたものは蜃気楼にすぎなかったのか-

本稿は,法華経をもとに創作したたくさんの童話あるいは菩薩行が賢治にとって満足できるものであったのかを問いたい。

 

法華経に陶酔した賢治は,大正9年(1920)に純正日蓮主義を主張する田中智学により創設された「国柱会」の信行部に入会する。その後,賢治は国柱会の奉仕活動に従事しながら,会の高知尾智耀の勧めに応じて法華文学の創作を志すようになる。またこの頃,賢治は浄土真宗を信仰する父と生き方や宗教について激しく対立するようになっていた。妹のシゲは,そのときの様子を「あんまり二人で激しく毎日のように言い合うので,母をはじめみんな命がちぢむ思いでした」と話している(森,1974)。

 

日蓮の教えを日々勉学する日々が続いていたが,大正10年(1921)に賢治が稗貫農学校の教諭となり環境が変わると賢治にも転機が訪れる。賢治が友人の藤原嘉藤治と開催したレコード鑑賞会である女性と出会うことになる。法華経の安楽行品には,菩薩行をする者の心得として「娯楽の場や女性に近づかない」との戒めが書かれてある。賢治は法華経の教えに叛いたことになる。

 

賢治は,大正11年(1922)頃に結婚まで考えた相思相愛の恋をするようになる。詩集『春と修羅』の「春光呪詛」には「いったいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかってゐるのか/髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ/ただそれっきりのことだ・・・・頬がうすあかく瞳が茶いろ/ただそれっきりのことだ」とある。

 

花巻の賢治研究家である佐藤(1984)によれば,この女性(恋人)は,賢治と同じ花巻出身(賢治の家の近く)で,小学校の代用教員をしていた。恋人は賢治より4歳年下の背が高く頬が薄赤い色白の美人であったという。かなり熱烈な恋愛であったらしい。その後,宮沢家から相手側に結婚の打診がなされ,近親者の中には,二人の結婚を予想しているものも多かったという。しかし,両家の近親者たちの反対もあり1年足らずで破局した。恋人は破局後に渡米(1924.6)し,3年後に異国の地で亡くなっている。27歳であった。

 

近親者が反対した理由には,諸説がある。私は,反対するきっかけになったのは些細なことだったと思うが,それを大きくしたのは両者の出自の違いや,それにともなう両家あるいは近親者たちの歴史的対立が背景にあったからと考えている(石井,2021f)。賢治は京都からの移住者の末裔であり,花巻で財をなした家の息子である。一方,恋人は生粋の東北人と思われ,家業は蕎麦屋である。歴史的対立とは京都に都を置いた大和朝廷とまつろわぬ民としての東北人の争いである。しかし,賢治は厳格な父と信じる宗教で激しく対立しても,自分の信念を曲げずに家出するぐらいなので,周囲から反対されたぐらいで相思相愛での結婚を諦めるとはとうてい思えない。実際に,レコード鑑賞会で生まれた別の教員カップルは周囲の反対にもめげず遠く函館へ逃避行している(佐藤,1984)。賢治にも駆け落ちなどの選択肢は残されていた。私は,この破局には法華経の教えに叛いたことによる罪悪感と,自分の幸せよりも他人の幸せを優先するという賢治の性格によるものもあったと思っている。

 

賢治は,恋の顛末を童話として記録に残していたと言われている。例えば,澤口(2018)はこの恋の顛末を『シグナルとシグナレス』(1923)という童話にして新聞で発表したと言っている。金属と電燈が付く新式の信号機・シグナルには賢治が,木とランプのシグナレスには恋人が投影されているという。私は,大正12年(1923)に新聞で発表された童話『やまなし』に登場する移入種と思われる魚と先住の小生物クラムボンに賢治と恋人が,また翌年に第一次稿を書き,死の間際まで推敲を重ねて第四次稿まである童話『銀河鉄道の夜』の主人公たち(裕福な家の子であるカムパネルラと狩猟民の子であるジョバンニ)にも賢治や恋人が色濃く投影されていると考えている(石井,2021e,f)。

 

ちなみに,クラムボンは,アイヌ語で「kut・岩崖, ra・低い所,un・にいる, bon・小さい」(kut ran bon)に分解できる。川底の石の下に生息するカゲロウの幼虫ことであろう(石井,2021e)。カゲロウの幼虫はニンフ(妖精)とも呼ぶ。すなわち,移入種(移住者)の魚(賢治)が先住の妖精であるカゲロウ(恋人)に恋をした。しかし,魚はカワセミによって天空へ連れ去られて恋が終わる。このとき,恋人の化身である樺の花も水面に落下する。

 

破局後,賢治は再び「人のために尽くす」ことを決意する。大正15(1926)年に花巻農学校を依願退職し,昼間は周囲の田畑で農作業を,夜は私塾(羅須地人協会)などで農民に稲作指導をしたり,無料で肥料設計事務所を開設して農民の肥料相談に乗ったりするようになる。また,昭和6(1931)年に東北砕石工場の嘱託技師になり東北の酸性土壌を改良するため炭酸石灰の普及に奔走したりした。しかし,病弱であり,また昭和3(1928)年に両側肺浸潤と診断されたりしたにも係わらず体を酷使し続けた賢治は,昭和8年9月21日急性肺炎を起し吐血し37歳の若さでこの世を去った。

 

賢治は,恋を諦めたことに納得していたのであろうか。賢治が亡くなる10日前に,花巻農学校時代の教え子で小学校の教諭になっている柳原昌悦に手紙を出している。賢治の最後の手紙には以下の言葉が書かれてある。

 

私もお蔭で大分癒っては居りますが,どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず,咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり,或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり,仲々もう全い健康は得られさうもありません・・・・私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ,じぶんの仕事を卑しみ,同輩を嘲り,いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ,空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・どうか今の生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに,しっかり落ちついて,一時の感激や興奮を避け,楽しめるものは楽しみ,苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。(下線は引用者,以下同じ)   

 

手紙の最初の下線部にある「私のかういふ惨めな失敗」とは,「慢心」のため「空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこと」をしなかったので,別の言葉に置き換えれば「現実の生活に身を置くことをせずに理想ばかり追い求めていた」ので「健康」を害してしまったということであろう。さらに,それを「蜃気楼が消えた」と表現した。

 

「空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこと」は,幼い賢治を寝かしつけるときの母の言葉「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」に通じる。また,以下述べる恋人が賢治に話した言葉とも重なる。

 

昭和6(1931)年頃と思われる「雨ニモマケズ手帳」に記載された文語詩〔きみにならびて野に立てば〕の下書稿には,「きみにならびて野にたてば/風きらゝかに吹ききたり/柏ばやしをとゞろかし/枯葉を雪にまろばしぬ(中略)「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」ときみは云ふ/あゝさにあらずかの青く/かゞやきわたす天にして/まこと恋するひとびとの/とはの園をば思へるを」(宮沢,1985)とある。

 

この詩の「きみ」が誰を指しているのかについては諸説がある。私は,この「きみ」は賢治の相思相愛で異国の地で亡くなった恋人であると思っている。そして,この詩の下線部分は恋人が賢治に実際に言った言葉と思われる。この「風のさなか」の「風」は「近親者たちが結婚に反対している様」を示している。「山のみ見る」の「山」とは「自分よりも他の人の幸せを優先」する「空想のみの生活」ことを言っているのであろう。すなわち,恋人は近親者に反対されても自分と結婚して欲しかったが,純粋な心をもつあなたは他人を幸せにすることしか考えていなかったと言っている。

 

すなわち,「私のかういふ惨めな失敗」には病気になってしまったということだけでなく,恋人を失ったことも暗に含んでいるように思える。

 

手紙の最後の下線部にある「一時の感激や興奮」は賢治自身の法華経を初めて読んだときの身が震えるほどの感動と関係していると思われる。柳原も賢治の授業や何らかの書物で感動した経験があったのであろう。それ故,賢治が手紙で教え子に,自分の「一時の感激や興奮」に基づく失敗を避けるという意味を込めて,理想だけを考えるのではなく,それが楽しさだけでなく苦痛を伴うことがあったとしても現在の地に着いた生活を護るように諭したのだと思われる

 

余談だが,柳原への手紙で,賢治が理想のみの生活をしていたから病気になったと言っているが,そんなことあるのであろうか。科学者でもある賢治にしては不可解な表現である。賢治が誤解していると思えるが,類似している表現を賢治の父が言っているのを見つけた。

 

医師で賢治の親友でもある佐藤隆房は,自著『宮澤賢治-素顔のわが友-』の中で,羅須地人協会時代(桜の時代)に語ったとされる父・政次郎の言葉を紹介している。

 

父親がある道者に「賢治の病気はどうして出来たのですか」と聞いたところ,「悪用不足に因る」と言われ,「賢治,お前の病気は悪用不足から来ているということだぞ。つまりきれいなことばかりやろうとしたために起こった病気なんだ。勝海舟が言ったことがある。おれは横着なる故に長寿だが,鉄舟は横着が出来なかったから早世した。横着な心が三分無いものは危なくって用をさせることが出来ない,とな,お前もよく考えたらよいだろう」と。後になって父親は・・・「私は二十年来,賢治が宙に浮かぼうとするのを引きとめて,地に足を着けさせようと努力したのですが,それは失敗で笑止の至りです」と人に話しました。(鉄舟とは山岡鉄舟のこと)

 

多分,賢治は父の言葉が記憶に残っていて理想のみの生活をしていたから病気になったと書いたのかも知れない。

 

賢治の臨終にあたって,父は賢治に残されたたくさんの原稿について,どうするのか尋ねている。賢治は,父に「それらは,みんな私の迷いの跡だんすじゃ。どうなったって,かまわないんすじゃ」と話したという。また,父は,「もし賢治が,本にもして出してくれなどと言ったら,最後の一喝をくらわせようと心中きめておりましたじゃ」と賢治の亡くなったあとに話したとも言われている。父は賢治の「私の迷いの跡だんすじゃ」という言葉を聞いて初めて褒めたという。また,いつの話しだかは分からないが,母には「この童話は,ありがたい,ほとけさんの教えを,いっしょうけんめいに書いたものだんすじゃ。だから,いつかは,きっと,みんなで,よろこんで読むようになるんじゃ」と話したという(森,1974)。

 

賢治は,大正10年に国柱会の高知尾智耀に法華文学を書くように勧められてから死ぬまで13年間,たくさんの童話を書いた。また,菩薩行もした。賢治は,確かに母の言葉通りに生きていたが,賢治がそれで満足していたかどうかは疑問である。臨終の際に父に国訳妙法蓮華経一千部をつくって配るように頼んだが,同時に法華経をもとにして書いた童話の原稿は迷いの跡だと述べていた。多分,迷いの跡だと父に言った言葉が賢治の本意であったと思われる。けっして父から褒めてもらいたくて言ったのではない。賢治は菩薩行をしながらも,年齢を重ねるうちに空想ではなく地に着いた現実的な仕事,あるいは駆け落ちしてでも妻を娶るなど自分の幸せにもっと眼を向けておけばよかったと後悔することもあったと思える。

 

参考にしたブログと引用文献など

石井竹夫.2021e.童話『やまなし』は魚とクラムボンの悲恋物語であるhttps://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/20/090540

石井竹夫.2021f.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅳ)-橄欖の森とカムパネルラの恋- https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/07/084943

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.

森 荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治愛のうた.夕書房.