宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (2)-法華経との出会いと感動した理由-

寂しかった賢治は,幼い頃に聞いた「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という母の言葉,すなわち母が望む「人の役に立つことをする」にはどうすればよいのかということを長い間模索していたと思われる。そして,賢治は仏教を勉強していく過程で,法華経に出会い,それを読んで身体が震えるほどに感動し,やがて法華経の世界にのめり込んでいくようになる。本稿は,なぜ賢治が法華経を読んで感動したのかを母の言葉をヒントにして明らかにしていきたい。

 

法華教は自分が救われるというよりは,悩み多い衆生を救うために修行を重ねている者たち,すなわち菩薩のための経典とされる。自分よりも人の幸せを願う,あるいは別の言葉で言えば菩薩になりたかった賢治にとっては運命的出会いと言える。賢治の弟の清六は,賢治が盛岡高等農林学校へ進学するための受験勉強をしていた頃(大正3(1914)年秋,賢治18歳)の兄について,「賢治は,赤い経巻である島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』に出会い,その中の特に「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえて止まらず,この感激を後年ノートに「太陽昇る」と記していた。そして,以後賢治はこの経典を常に座右に置いて大切にし,生涯この経典から離れることはなかった」と回想している(宮沢,1991)。

 

法華経は28品(ほん)あるが,これら教えの中でも「方便品(ほうべんぼん)第二」と「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六」の2品は特に重要なものであると言われている。賢治もこの2品の重要性を理解している。大正7年6月27日の母を失った親友・保阪嘉内あての手紙(封書)では,冒頭に「この手紙はおっかさんに別れたあなたを慰めようとして書くのではありません・・・」と断りを入れ,最後に「保阪さん。諸共に深心に至心に立ち上り,敬心を以て歓喜を以てかの赤い経巻を手にとり静かに方便品,寿量品を読み奉らうではありませんか 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」(宮沢,1985)(下線は引用者,以下同じ)と書き留めている。賢治は,この手紙から「如来寿量品第十六」だけでなく「方便品第二」にも感動していたことが伺われる。

 

感動とは,「深く物に感じて心を動かすこと」である。また,感情心理学を専門にしている戸梶亜紀彦は感動するのに必要な条件として,①「感情移入・共感できること」,②「期待・希望が実現すること」,③「興味・関心のあること」,④「人情に関すること」,⑤「努力・苦労の成就」などを挙げている(戸梶,2001)。賢治は「法華経」にある2品の何に感じて心を動かされたのだろうか。

 

「方便品第二」には「如来がこの世に登場したのは苦悩の多い衆生を救うためである」とか「法華経は如来を目指す菩薩などの修行者だけを教化する経典である」ということが説かれている。賢治が「方便品第二」を読んで心を動かされた要因は,仏教に素人な私でもなんとなくだが理解できる。「方便品第二」の教えが,賢治の母の言葉「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」に重なるからである。すなわち,賢治は「方便品第二」の教えを「如来がこの世に生まれたのはひとのために何かしてあげるため」と読み取ったからと思える。感動させる要因を分類した戸梶に従えば,賢治は②「期待・希望が実現すること」すなわち「母の期待に応えられる」と感じたからであろう。

 

一方,震えるほど感動したとされる「如来寿量品第十六」はどうであろうか。岩波文庫の『法華経』によれば,この十六章にある有名な「自我偈」(じがげ;寿量品にある5文字で1句となる詩の形で書かれた部分)の冒頭には,「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫(我仏を得てよりこのかた 経たる所の諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ)」(坂本・岩本,1994)と記載されている。手短に言えば,「如来の寿命は永遠」ということである。しかし,これだけでは賢治の身体が震えてしまうという感動を理解することはできない。 

 

「自我偈」の中頃に,「我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅」(われは時に衆生に語る 常にここにありて滅せざるも 方便力をもっての故に 滅・不滅ありと現すなり)(坂本・岩本,1994)という語句がある。どうも,この語句の中に賢治を感動させたものがあるように思える。 

 

岩波文庫の漢訳では分かりにくいので,私なりにこの引用箇所を解釈してみる。「常在此不滅」の「常在此」(常にここにありて)は,「如来の寿命が永遠」だから「常にここにありて滅せざる」なのだと思われるが,この「常在此」を「いつでもあなたの近くにいて」と解釈してみる。すると,この引用文は「あなた(衆生)には如来が見えたり見えなかったりしているが,それは方便であり,本当のことを言うと如来はいつでもあなたの近くで見守っていた」となる。このように解釈すれば賢治の感動もある程度理解できそうな気がする。

 

すなわち,賢治が感動したのは「如来寿量品第十六」の教えにも母・イチの寝かしつけるときに語った子守歌を重ねることができるからである。引用文にある衆生を賢治に,如来を母に置き換えれば,引用文は「あなた(賢治)には母が見えたり見えなかったりしているが,それは方便であり,本当のことを言うと母はいつでもあなたの近くで見守っていた」となる。 

 

さらに「如来寿量品第十六」には衆生に「如来が常に見える」と思わせたらどうなるかについても答えている。「自我偈」の最後は「以常見我故 而生憍恣心 放逸著五欲 堕於悪道中」(常にわれを見るをもっての故に,すなわち奢恣(おごり)の心を生じ,放逸(ほういつ)にしてし五欲に著(なず)み,悪道の中に墜ちなん)(坂本・岩本,2994)となっている。すなわち,如来(母)はいつでも衆生(賢治)の近くで見守っているが,常にいると衆生に思わせてしまうと衆生は目先の欲望にとらわれて悪道に落ちてしまうとなっている。

 

賢治にとって,母は自分を寝かしつけてくれるときは近くにいてくれたが,賢治が母を欲する昼間に,母は近くにいてくれなかった。賢治は,母の寝かしつけるときに自分に見せた愛情が本物であるかどうか疑うこともあったかもしれない。しかし,近くにいるときでもいないときでも,いつも自分のことを気に掛けていたと思わせてしまう「法華経」の言葉は賢治の疑いを払拭するに十分であったのかもしれない。すなわち,戸梶の分類の①「感情移入・共感できること」に相当する。

 

「法華経」の教えが説かれていると思われる童話に『若い木霊』という作品がある。この作品にも如来が「見えたり見えなかったり」することの重要性が擬人化された植物の「さくらそう(桜草)」の独り言として語られている。

 

童話『若い木霊』では,主人公の若い木霊に菩薩に成りたかった賢治が投影されている。若い木霊は,春の丘や谷を散策しているとき,桜草の「お日さんは丘の髪毛(かみけ)の向ふの方へ沈んで行ってまたのぼる。そして沈んでまたのぼる。空はもうすっかり鴾の火になった」という独り言を聞いて「胸がまるで裂けるばかりに高く鳴り出し・・・その息は鍛冶場のふいごのやう,そしてあんまり熱くて吐いても吐いても吐き切れなく」なってしまうほどに感動する。この物語で「鴾の火」とは「法華経」のことであり,桜草の独り言は「如来寿量品第十六」の教えである(石井,2021c)。「お日さん(太陽)」の寿命が永遠かどうかは分からないが,地球上に植物が誕生する以前から輝いていたし,今後も長きにわたって輝き続けるであろう。ちなみに,陸上植物が誕生するのは約4億5000万年前のオルドビス紀である。寿命が永遠といってもいいような太陽ではあるが,地球は自転しているので,動くことができない植物には太陽の寿命は永遠には見えない。地上に芽生えた植物にとって太陽は見えたり見えなかったりする(日内周期)。すなわち桜草の言うように「沈んで行ってまたのぼるの」である。

 

興味あることに,24時間の明暗の周期変動が植物の生育をもっとも促進するとされている。また,植物は24時間連続に光を浴びると成長が抑制されてしまうか,病気にかかってしまうということも科学的な実験でも明らかにされている(大橋,2008;戸井田ら,2003)。すなわち,桜草の独り言にあるように太陽が「沈んで行ってまたのぼる」ということは植物が生長していくことにおいて重要なのである。「若い木霊」が桜草の独り言に感動したのは,その言葉には「ほんとうのことが書かれてある」と信じたからと思われる。賢治は,仏教徒であるとともに科学者でもある。賢治が植物を使って日内周期の実験をしたかどうかは分からない。しかし,賢治も「自我偈」にも「ほんとうのことが書かれている」と感じたのかもしれない。あるいは,それを信じようとしたと思われる。「ほんとうのこと」を知るという事は,賢治にとっての最大の関心事でもあった(戸梶の分類では③「興味・関心のあること」に相当)。 

 

賢治の母は,「法華経」の中の如来のように「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と幼かった賢治を毎晩寝かしつけるときに話しかけていた。賢治は眠りに就くときだけしか母に甘えられなかったが「如来寿量品第十六」を読んで母がいつでも近くにいて見守っていてくれていたのだと感じることができたとき,さらに「如来寿量品第十六」に本当のことが書かれてあると確信したとき,賢治の身体は感動で震えたのだと思われる。そして,法華経に帰依したのだと思われる。

 

「如来寿量品第十六」にある「いつでもあなたの近くで見守っている」と同様の言葉は,浄土真宗の祖である親鸞の話したとされる言葉にもある。親鸞の遺言の書と伝わる『御臨末御書』には「一人居て喜ばは二人と思うべし,二人居て喜ばは三人と思うべし,その一人は親鸞なり。」という言葉がある。また,キリスト教の聖書の中でも見つけることができる。「創世記」28章15節の「ヤコブのはしご」と呼ばれている有名な一節の中にある。迫害されたヤコブ(ユダヤ民族の祖)が夢の中で神から「見よ。わたしはあなたとともにあり,あなたがどこに行っても,あなたを守り,あなたをこの地に連れ戻そう。・・・・決してあなたを捨てない。」という啓示を受ける。また,「マタイによる福音書」18章20節には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには,わたしもその中にいる」とある。

 

「いつでもあなたの近くで見守っている」という言葉は,いかなる教派に係わらず宗教にとって本質的なものなのかもしれない。しかし,だれもが「如来寿量品第十六」を読めば賢治のように感動するのであろうか。そんなことはないように思える。少なくとも私には震えるほどの感動はなかったし,納得あるいは理解もできていそうにない。賢治もそれは承知していた。それが,童話『マリヴロンと少女』に記載されている。

 

『マリヴロンと少女』(大正10年頃?)は,「如来寿量品第十六」を童話化した作品と思われる。歌手であるマリヴロン女史を尊敬し,憧れているギルダという少女がコンサート会場を訪れる。少女はマリヴロン女史に「私の尊敬をお受けください。あすアフリカへいく牧師の娘です」と話すと,マリヴロン女史は「あなたこそ立派なお仕事をあちらにいってなさるのでしょう。わたくしはほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです」と答えて相手にしない。こんな会話が繰り返されたあとに,少女は「ずっとあなたのそばにいたいから,一緒に連れて行ってください」と懇願するが,マリヴロン女史はそれに応じず去っていってしまう。ただ,マリヴロン女史は去り際に「私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。」と答える。このマリヴロン女史の「いつでもあなたが考へるそこに居ります」という言葉が,「自我偈」にある「常在此不滅」に対応していると思われる。しかし,ギルダという少女は,この言葉を聞いたあとでも「連れて行ってください」と懇願する。少女はマリヴロン女史の最後の言葉にも納得しない。すなわち,少女を衆生としマリヴロン女史を如来とすれば,衆生の少女には如来であるマリヴロン女史の言葉が理解できていそうにない。

 

「いつでもあなたの近くで見守っている」という言葉は,宗教において重要な言葉なのかもしれないが,存在と非存在が同じといっているようなものなので,「科学的思考」に慣れてしまった我々(衆生)がその言葉を理解するのは難しいと思われる。また,この言葉を信じることもできそうにない。

 

理解するためにはまず考える必要がある。考える方法として,前述した観察や実験などを重視する「科学的思考」があるが,これ以外に「野生の思考」というのも知られている。「野生の思考(La pensée sauvage)」はフランスの文化人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースが先住民族の部族観察から見出した思考形態である。我々も遠い昔はこの「野生の思考」を用いて生活していたのかもしれない。賢治は『農民芸術概論綱要』の序論で「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれわれの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない ・・・われらは世界のまことの幸福を索(もと)めよう 求道すでに道である」と記載していた。私にはできないが,賢治は「いつでもあなたの近くで見守っている」という言葉を「野生の思考」のような「直観」で理解あるいは納得していたのかもしれない。そして,幼い頃に寝かしつけられるときに聞いた母の「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉を思い出して感動したのであろう。(続く)

 

参考にしたブログと引用文献など

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『若い木霊』(4)-鴾の火と法華経・如来寿量品の関係について-   https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/16/061200

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.

森 荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

大橋(兼子)敬子.2008(更新年).植物の環境調節(日本植物生理学会みんなのひろば).2021.2.24(調べた日付).https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=1845

坂本幸男・岩本 裕(訳注).1994.法華経下.岩波書店.

戸梶亜紀彦.2001.『感動』喚起のメカニズムについて.Cognitive Studies 8(4),360-368.

戸井田宏美・大村好孝・古在豊樹.2003.明暗の非周期変動下におけるトマト実生の生育.生物環境調節 41(2):141-147.