宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

『歯車』の主人公が受けた罰は神によるものか (5)

本稿では,前稿3)の課題,つまり『歯車』の主人公が受けた「罰」が「神罰」であったのかどうか検討してみたい。ここで問題にする「罰」とは身体的,精神的,社会的,経済的な「罰」ではなく,神,仏,天など目に見えない超自然の力による「罰」のことである。我々が信じるか信じないかではなく,『歯車』の主人公,つまり芥川自身がキリスト教の〈神〉による「罰」を信じたかどうかを問題にする。

 

『歯車』5章(赤光)で主人公の〈僕〉は聖書会社の屋根裏に居る老人を訪ねている。このキリスト教徒らしい老人とは,以前「なぜ母は発狂したのか」,「なぜ僕の父の事業は失敗したのか」,「なぜまた僕は罰せられるのか」について壁にかけてある十字架のもとで話し合ったこともある。

 

「如何(いかが)ですか,この頃は?」

「不相変(あひかはらず)神経ばかり苛々(いらいら)してね。」

「それは薬では駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」

「若(もし)僕でもなれるものなら……」

「何もむづかしいことはないのです。唯神を信じ,神の子の基督(キリスト)を信じ,基督の行つた奇蹟を信じさへすれば……」

「悪魔を信じることは出来ますがね。……」

「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば,光も信じずにはゐられないでせう?」

「しかし光のない暗(やみ)もあるでせう。」

「光のない暗とは?」

 僕は黙るより外はなかつた。彼も亦僕のやうに暗の中を歩いてゐた。が,暗のある以上は光もあると信じてゐた。僕等の論理の異るのは唯かう云ふ一点だけだつた。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違ひなかつた。……

「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云ふものは今でも度たび起つてゐるのですよ。」

「それは悪魔の行ふ奇蹟は。……」

「どうして又悪魔などと云ふのです?」

                       (芥川,2004)

 

 

主人公の〈僕〉は老人から〈神〉を信じ,神の子のキリストを信じ,キリストの行った奇蹟を信じるように言われるが,それはできないと答えている。なぜなら,信仰に対する考え方の違いがあるからである。しかし,考え方の違いは「暗(やみ)のない光」の存在を信じるか信じないかの違いだけである。主人公は〈悪魔〉の行う奇蹟(光のない暗)を母の発狂,父の事業の失敗,そして自分が今受けている挫折感で何度も経験しているので信じられるが,「キリスト」の奇蹟(暗のない光)は一度たりとも実経験していないのだ。光のない暗の世界が存在することは信じられても暗のない「光の世界」は信じられない。主人公は老人に,なぜあなたは暗のない「光の世界」を信じられるのか尋ねているが,奇蹟という言葉を繰り返すだけで明確な答えがもらえずに黙ってしまう。つまり,理知的な〈僕〉は老人の言うキリスト教の〈神〉を信じられない。むしろ,老人には〈僕〉の質問に答えられないのだと確信しているようでもある。

 

ただ,〈僕〉も痴呆になれば〈神〉の存在が信じられると思っているふしがある。6章(飛行機)で主人公が早発性痴呆のHと言う人の馬頭観世音へのお辞儀を気味悪がっていた。芥川も自分が「人工の翼」(=知識)を付けなければ「光の世界」が見えると信じたのかも知れない。

 

芥川はキリスト教の信者ではないが,たくさんの切支丹物(15篇)や関連する評論を書いている。『一 ある鞭(むち)』という作品に,「僕は年少の時,硝子画の窓や振り香炉やコンタスのために基督(キリスト)教を愛した。その後僕の心を捉えたものは聖人や福者の伝記だった。僕は彼らの捨命の事蹟に心理的或いは戯曲的興味を感じ,その為に又基督教を愛した。即ち僕は基督教を愛しながら,基督教的信仰には徹頭徹尾冷淡だった。いつも基督教の芸術的荘厳を道具にしていた即ち僕は基督教を軽んずる為に返って基督教を愛したのだった」(芥川,1978)(下線は引用者)とある。

 

つまり,芥川はキリスト教を愛することはあっても,それは聖人・福者の自己犠牲の事蹟に興味があるだけで,むしろ「軽んじている」のだという話をしている。芥川の「慢心の罪」とは「理性」で得られた沢山の「知識」に「慢心」が生じキリスト教を軽んじてしまったという「罪」のことである。

 

『西方の人』(1この人を見よ)で,芥川は「わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳(いかめ)しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。」と断りを入れた後,クリスト,マリア,ヨセフ,羊飼いたち,博士たちなどの聖書の登場人物たちを羅列し,芥川流の評価を下している。クリストは「聖霊」の子でありジャーナリストでありボヘミアンであると説明する。ただし,芥川にとって「聖霊」は「永遠に超えんとするもの」であり〈神〉ではない。つまり,「クリスト」は神の子ではない。「聖霊」が「知識」を意味することは前述した。さらに「クリスト」が十字架に架かったとき最後の言葉として「エリ,エリ,ラマサバクタニ」(わが神,わが神,どうしてわたしをお捨てなさる?)と叫んだが,芥川はこれに対して「十字架の上のクリストは畢(つひ)に「人の子」に外ならなかつた。勿論英雄崇拝者たちは彼の言葉を冷笑するであらう。況(いはん)や聖霊の子供たちでないものは唯彼の言葉の中に「自業自得」を見出すだけである。「エリ,エリ,ラマサバクタニ」は事実上クリストの悲鳴に過ぎない。」(32ゴルゴダ)と説明している。また,芥川の切支丹物の1つである短編『おしの』(1923)では,クリストのこの最後の言葉に対して主人公の女は「臆病者」と言っている。また,クリストの父,大工のヨセフは「どう贔屓目(ひいきめ)に見ても,畢竟(ひっきょう)余計ものの第一人だった」(4ヨセフ)である。

 

芥川は「厳しい日本のクリスト教徒も売文の徒(芥川)の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう」(括弧内は引用者)とは言っていたが,本当に大目に見てくれるのであろうか。

 

ヤフー知恵袋で「芥川龍之介はキリスト教を尊敬していたのか,それともバカにしていたのか,どちらでしょうか。また,好いていたのか,嫌っていたのかどちらでしょうか。教えて下さい。」という芥川の読者と思われる人からの質問を見つけた。こういう疑問は至極当然と思われる。答えは「愛していた。が,軽んじていた」である。しかし,ヤフー知恵袋の回答の中に『一 ある鞭』を引用してそのように答えたものはいなかった。『一 ある鞭』は未発表作品であるからと思われる。

 

芥川のキリスト教に対する姿勢を批判する研究者は少なくない。佐々木啓一(1958)は,芥川の受けた「罰」に対して,「神を信ぜず人間の現実を超越しようとする意志に憑かれた人間の宿命の到達点であった」,また,鈴木秀子(1967)は,「歯車」の主人公と老人の会話に対して,「芥川が断絶していると考える暗(やみ)の世界と光の世界を結ぶものこそキリストなのである。暗の世界を他の世界から照らし,根源から変えるのがキリストである。しかし,芥川はこの二つの世界をつなぐものを確信できなかった」と言って批判した。しかし,2人の言っていることは,「光の世界」を信じられる『歯車』の老人が言っていることと同じであるように思える。もし,芥川がこれら評論を読んだら「なぜ,あなた方には「光の世界」が信じられるのか」と逆に疑問を投げかけられるであろう。さらに,佐々木(1959)は,芥川の『おしの』という作品を取り上げ,芥川が「エリ,エリ,ラマサバクタニ」と言ったクリストを「おしの」という女性に「臆病者」呼ばわりさせたことに対して,「一切の人類の罪を背負った人間の苦しみの中の最後の言葉であり,この真意すら理解できていない」と批判する。しかし,芥川は〈神〉の存在と同じく「一切の人類(80億人)の個々の罪を背負った人間」の存在というのも信じていないと思われるので,この批判自体が意味をなさないように思われる。 

 

ただ,芥川はキリスト教の〈神〉を信じてはいないが〈神〉から「罰」を受けたことは信じている。前述した『一 ある鞭』の引用文には続きがある。それは,「僕は千九百二十二年来,基督教的信仰或は基督教徒を嘲る爲に屢短篇やアフォリズムを艸した。しかもそれ等の短篇はやはりいつも基督教の藝術的莊嚴を道具にしてゐた。即ち僕は基督教を軽んずる為に反って基督教を愛したのだった。僕の罰を受けたのは必ずしもその為ばかりではあるまい。けれどもその為にも罰を受けたことを信じている。」(下線は引用者 以下同じ))である。ここで,芥川はキリスト教を嘲るようになったのは1922年以降であると言っている。芥川は前述した『おしの』の前年に『おぎん』(1922)と『神々の微笑』(1922)と言う作品を出している。前者は隠れキリシタンの〈お銀〉がキリスト教を棄てる話であり,後者(1922)は布教にやってきた神父が日本の土着の神々に恐れおののくという話である。ちなみに,1922年は日本の共産主義政党が非合法に結成された年でもある。その前年に芥川は中国に取材旅行をしている。

 

引用文の下線部分に注目してみる。わかりづらいが,芥川は「神罰」を受けいれたのはキリスト教を軽んじる意外にも「罪」を犯しているからだと言っているように思える。この「罪」は『歯車』に繰り返し出てくる〈神〉という名のつく「復讐の神」と関係があるのかもしれない。「復讐の神」つまり「狂人の娘」(ある女性)である。この「復讐の神」は『歯車』では「僕の背中に絶えず僕を付け狙っている」存在として描かれている。『歯車』3章(夜)では夢の中にまで現れ,目を覚ますと「翼」の音が聞えてくる。この女性は秀しげ子と言われている。また,芥川の遺書に,この女性と29歳のとき「罪」を犯したということも記載されている(森本,1969)。しかし,この「罪」は芥川が犯した「罪」の一部分にしかすぎないように思われる。大きな「罪」は「神」を軽んじたことと考えられている。

 

『一 ある鞭』は『芥川龍之介全集12巻 雑纂』(1978)に〔断片〕として掲載されているものである。出所なども一切不明で,頁末に(大正十五年?)の編者記載があるのみである。執筆時期は大正15年(1926)?とあるが,1926年から1月から自死の直前迄で,『侏儒の言葉』(1923~1927)の続篇の断片草稿であると推測している研究者もいる(藪野,2016)。この〔断片〕には『二 唾』という作品が同じ頁に載せられている。ここには「天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ」という意味深な文が記載されている。

 

 僕は嘗(かつて)かう書いた。―「全智全能の神の悲劇は神自身には自殺の出來ないことである。」恰も自殺の出來ることは僕等の幸福であるかのやうに! 僕はこの苦しい三箇月の間に屢自殺に想到した。その度に又僕の言葉の冷かに僕を嘲るのを感じた。天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ。僕はこの一章を艸する時も,一心に神に念じてゐる。―「神の求め給ふ供物は碎けたる靈魂なり。神よ。汝は碎けたる悔いし心を輕しめ給はざるべし。」    (芥川,1978)

 

『二 唾』もキリスト教に関することである。「天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ」は,「神を軽んじたものは必ず神罰を受ける」という意味であろう。

 

さらに,重要な文言が文末の下線を引いた部分にある。これは『旧約聖書』詩篇第51章第17節にある詩句の一つである。『旧約聖書』新改訳(いのちのことば社)では「神へのいけにえは,砕かれた霊。/砕かれた,悔いた心。/神よ。あなたは,それをさげすまれません。」である。芥川は晩年キリスト教を軽んじたことを悔いていたのだと思う。また,この砕かれて悔いた心を軽くするように祈ってもいる。

 

同様な祈りは『歯車』2章(復讐)でも出てくる。主人公がコック部屋に入ったときコック等の冷ややかな視線を感じ「神よ,我を罰し給え。怒り給うこと勿れ。恐らくは我滅びん」と祈祷する場面である。神の怒りが激しく耐えがたい苦痛の中での祈りだと思われる。ただ,『歯車』の主人公は「神」を信じていなかったのでないのかと,疑問ではあるが。

 

すなわち,芥川の分身と思われる『歯車』の主人公〈僕〉は,〈神〉を信じていないが「慢心」でキリスト教を軽んじる「罪」を犯し,あるいは女性との「罪」をも含めて,「神罰」を受けたということを信じている。芥川が自死したとき枕元には聖書が置かれてあったという。

 

芥川の『歯車』(1927)と賢治の詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)に認められる「罰」は両者とも「慢心」により〈神〉を軽んじたことによる「神罰」と思われる。芥川は「神罰」を信じている。(続く)

 

参考・引用文献

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

芥川龍之介.1978.芥川龍之介全集12巻.岩波書店.

佐々木啓一.1958.芥川龍之介のキリスト教観(一) : 切支丹物について.論究日本文学 9 :30-38.

佐々木啓一.1959.芥川龍之介のキリスト教観(二) : 続切支丹物について.論究日本文学 10 :9-25.

森本 修.1969.芥川龍之介をめぐる女性. 論究日本文学 10 :26-39.

鈴木秀子.1967.芥川龍之介とキリスト教-「西方の人」を中心として-.聖心女子大学論叢 30 199-230.

藪野直史.2016.芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) (「侏儒の言葉」続篇 草稿 「一 ある鞭」及び「二 唾」).https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2016/06/post-ee87.html

『歯車』の主人公は慢心を罪として自覚したか (4)

芥川の切支丹物である『るしへる』(1918)に「七つの恐しき罪に人間を誘さそう力あり,一に驕慢(きょうまん),二に憤怒(ふんぬ),三に嫉妬(しっと),四に貪望(とんもう),五に色欲,六に餮饕(てっとう),七に懈怠(けたい),一つとして堕獄の悪趣たらざるものなし。」(青空文庫)とある。人間を誘う罪を7つあげ,その1番に「驕慢」を挙げている。これは,戦国武将の多胡辰敬が書き残した家訓(『辰敬家訓』)の1つである「身持ちが身の程を超えれば天罰を蒙る」と同じであろう。「身持ち」とは日常の身の処し方のことである。この教訓を和辻哲郎(2024)は「埋もれた日本」というエッセイで「これはギリシャ人などが極力驕慢(きょうまん)を警戒したのと同じ考えで,ギリシャにおいても神々の罰が覿面(てきめん)に下ったのである。」と説明している。「驕慢」は「慢心」と同じ意味である。ちなみに,「色欲」は5番目である。 

 

『歯車』の2章(復讐)にもう一つのギリシャ神話に纏(まつ)わる話がでてくる。〈僕〉が往来でタクシーをつかまえようとするがつかまらずイライラしている。このとき,〈僕〉は「イライラする,―tantalizing―Tantalus―Inferno……」と呟く。Tantalizingは「イライラする」の英訳で,Tantalusがギリシャ神話に出てくる王・タンタルスのこと,つまり「イライラ」の語源になったもので,Infernoは地獄あるいは奈落という意味である。ちなみに,Tantalizingは本来「望ましいものを示しながら与えないことで焦らすまたは苦しめる」という意味で,1650年代に現れた,tantalizeから派生した現在分詞形の形容詞」(ネットから)である。

 

タンタルスはゼウスの子で強大な富をもち,神々に愛されたが,「驕り」が生じ,神々を試すべく,わが子を殺して料理し,これを神々に供したため,あるいは神々の食卓に招かれたあと,その秘密を人間に漏らしたため,「罰」として地獄タルタロスへ落とされた。彼は池中に首までつかり,水を飲もうとすれば水がなくなり,頭上の果実の実った枝を手でとろうとすれば枝が遠ざかり,永遠の飢えと渇きに苦しんだ。と言う。

 

『歯車』の〈僕〉はイライラすると「―tantalizing―Tantalus―Inferno」という言葉が連想され,「驕り」の「罪」で地獄に落とされるという恐怖を感じ不安になっている。

 

つまり,芥川も「慢心」という「罪」を犯している。ギリシャ神話には,理由は定かではないが「神」が人間の「慢心」を「罪」とする話が多い。

 

『歯車』の3章(夜)に「驕慢」という言葉がでてくる。〈僕〉が丸善の2階の書棚で1冊の本の頁を捲っていたとき,目次の第何章かに「恐しい四つの敵,――疑惑,恐怖,驕慢,官能的欲望」という言葉が並んでいるのを見つける。そのとき,〈僕〉はすぐさま「一層反抗的精神の起るのを感じ」,敵と呼ばれるものは少なくとも「感受性や理智の異名」に外ならないと感じてしまう。理智とは理性と知恵である。

 

〈僕〉にとって「理性」は「驕慢」(慢心)という「罪」と同義なのである。つまり,「理性」によって与えられる「知識」を身につけて飛び立とうとすることは「慢心」であり,「罪」なのである。芥川は作品の中で「驕慢」(慢心)=­「罪」であるということを繰り返し記載している。芥川には「慢心」の罪を犯したという自覚があるように思える。

 

芥川は「知識」という「富」によって中流下層階級の世界から脱出を試みた。イカロスが「慢心」によって太陽神から「神罰」を受けたように,芥川も同様の「慢心の罰」を受けて落下することになった。

 

彼は「理性」によって集められた膨大な「知識」を再構築することによって作品を作っているが,多大な努力を強いるだけでなく,資質に合わないものができることにもなり挫折感という報いを味わうことになってしまった。

 

思想家で詩人の吉本隆明(1963)は「芥川竜之介の死」という題の評論で「汝と住むべくは下町の」という詩を引用して芥川の生涯について次のように述べている。

 

芥川の生涯は,「「汝と住むべくは下町の」という下層階級的平安を,潜在的に念じながら,「知識という巨大な富」をバネにしてこの平安な境涯から脱出しようとして形式的構成を特徴とする作品形成におもむき,ついに,その努力にたえかねたとき,もとの平安にかえりえないで死を択んだ生涯であった。」(下線は引用者 以下同じ)としている。

 

ちなみに,「汝と住むべくは下町の」は佐藤春夫がまとめた遺稿『澄江堂遺珠』にある詩「汝と住むべくは下町の/水どろは青き溝づたい/汝が銭湯の行き来には/昼もなきつる蚊を聞かん」である。下町に住んだものなら「青き溝づたい」でどんな匂いがしてくるのか容易に想像できるであろう。フォークグループの「南こうすけとかぐや姫」が歌った「神田川」(1973)の世界である。「・・・2人で行った横町の風呂や 一緒に出ようねって言ったのに・・・洗い髪が芯まで冷えて・・・小さな石鹸カタカタなった・・・」である。 懐かしい。私は東京下町(深川)に20年以上住んだことがあるが,材木の浮かぶ堀とその周辺に木材問屋,製材業の町工場が立ち並ぶようなところであった。材木や木くずとドブの入り交じった独特の匂いのするところであった。この匂いは嫌いではなかった。

 

私は,吉本の「その努力にたえかねたとき,もとの平安にかえりえないで死を択んだ」には共感する。なぜなら,自死する直前に書かれた『西方の人』(1927)の31(クリストの一生)に出てくる有名な一文を思い出させるからである。その一文とは「クリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩たたきつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……」である。この引用文の「登る」は「降りる」の誤記ではないかと指摘する研究者がいる。しかし私は訂正する必要はないと思っている。

 

『西方の人』には「聖霊」,「クリスト」,「マリア」とい3つの重要な言葉が繰り返しでてくる。『西方に人』では,「聖霊」は「永遠に超えんとするもの」,「クリスト」は「聖霊の子」,「マリア」は「永遠に守らんとするもの」と説明されている。3つの言葉が意味しているのは何かということでたくさんの研究者がそれぞれの解釈を提出している。私が目を引いたのは梶木剛の「聖霊」=「知識」,「クリスト」=「知識にひかれた人間を象徴」,「マリア」=「自然」である(小澤,2007)。つまり,梶木の説に従うと「クリスト」は「知識」にひかれた芥川自身のことをも指している。芥川は「知識」でクリストと同様に天上の高みに登ったが,「知識」が「罪」だと解ったとき,「天上」だと思っていたのが「地上」であり,「地上」と思っていたのが「天上」に逆転した。だから,芥川は「梯子」で「地上」に降りるのではなく,汝と住むべくは下町の「地上」に登ろうとしたのだ。しかし,無残にもその「梯子」は折れていた。十字架にかかった「クリスト」のように撃墜死するしかなかった。これが芥川にとっての「罰」でもあった。

 

『或阿呆の一生』の1(時代)に出てくる20歳の彼は書棚にかけた西洋風の「梯子」に登り,みすぼらしい店員や客を見下ろしていた。『歯車』6章(飛行機)でも「銀色の翼」が2階にいた主人公に見えたとき,妻が「梯子段を慌しく昇って来たかと思ふと,すぐに又ばたばた駈け下りて」行った。妻は『西方の人』の「マリア」である。「永遠に守らんとするもの」は間違って天上に行っても「階段」で降りることができるが,「永遠に超えんとするもの」は降りられないのだ。同6(飛行機)には「永遠に超えんとするもの」を象徴するパイロットが操縦する飛行機が登場する。主人公が松の梢に触れないばかりに舞い上がった黄色の翼の珍しい飛行機を発見する。主人公が「落ちはしないか」と心配すると,妹は「ああいう飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだから,だんだんこの地面の上の空気に耐えられないようになってしまう」という飛行機病の話をする。妹には,この飛行機は燃料がなくなっても降りられないから墜落するしかないと見做されている。ちなみに,「黄色」は不吉な色として使われている。

 

つまり,『歯車』の主人公〈僕〉は賢治と同じように「慢心」の「罪」を犯し「罰」を受けた。多分,そのことによって主人公の瞼の裏に「銀色の翼」が幻影となって現れたのであろう。この「銀色の翼」は「知識」を意味している。(続く)

 

参考・引用文献

芥川竜之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

小澤保博.2007.芥川龍之介「西方の人」「続西方の人」論.琉球大学教育学部紀要.37:57-84.

吉本隆明.1963.芸術的抵抗と挫折.未来社.

和辻哲郎.2024(調べた年).埋もれた日本-キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況-.https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49881_46723.html 

『歯車』の主人公はイカロスのように慢心の罪を犯し飛翔しようとしたのか,人工の翼とは知識のことか-(3)

前稿で『歯車』の主人公〈僕〉が見た「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」(銀色の翼)とは,「慢心」により神の「罰」を受けて海中に落下してしまったイカロスが付けていた「人工の翼」のようなものであると述べた。本稿では『歯車』の主人公が幻視した「銀色の翼」が賢治の幻視した「業の花びら」と同種のものかどうか,以下3つの比較項目を挙げて検討したい。

 

比較すべき3つの項目は,1)賢治が「業の花びら」を幻視したとき,賢治は恐怖ではげしく寒く震えていた。歯車の〈僕〉も「銀色の翼」を幻視したとき同様に恐怖を感じていたか。2)賢治は土着の神々を台本に録し,劇『種山ヶ原の夜』で生徒らに神々の役を演じさせたり,会合で農業講話をしたとき神の座す山地の石灰岩末を祭祀せずに採掘する話をしたりした。そのとき,賢治は聴衆から批判され,自分の犯したものが「慢心」の「罪」であったことを認識し,またそのことで「罰」を受けたことを自覚していた。『歯車』の主人公も同様の「慢心」の「罪」を犯し「罰」を受けていたことを自覚していたのか。3)賢治は自分が受けた「罰」は「神」によるものと認識しているが,『歯車』の〈僕〉もそうであるのか。である,

 

1)に関しては確かに類似しているように思える。『歯車』の〈僕〉は,この「人工の翼」の幻影を自宅の2階で見たあと,不穏な雰囲気を察して駆けつけてきた妻に「何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから」と言われ,また「一生の中でも最も恐しい経験だった。」と語っている。多分,〈僕〉は「翼」を失い海に落下したイカロスの最後に自分を重ねている。つまり,〈僕〉は「イカロスの翼」のようなものを幻視したとき自分も「人工の翼」に相当するものを失い撃墜してしまったと思っている。

 

2)に関して簡単に答えは出そうにない。ただ,そのヒントが「銀色の翼」を幻視した章の前章(5章(赤光))にある。『歯車』の〈僕〉がドストエフスキーの『罪と罰』に触れている。

 

〈僕〉は精神病院に入る恐怖を紛らわすために『罪と罰』を読み始めている。しかし,偶然開いた頁が『カラマゾフの兄弟』の一節であった。主人公は本を間違えたかと思い,本の製表紙を見たが『罪と罰』であり,本に間違いはなかった。〈僕〉は本屋の綴じ違いやと綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いていることを感じ,やむを得ずそこを読んで行った。という関係妄想のようなものが書かれてある。

 

『歯車』の〈僕〉にはドストエフスキーの『罪と罰』を連想させるようなことをしてきた過去があったのだと思われる。しかし,それがどのような「罪」であり「罰」であったのかは物語では語られていない。

 

それらを知るには,主人公の〈僕〉を芥川自身として,芥川の「罪」と「罰」について考えてみたい。多分,芥川はギリシャ神話のイカロスのような「慢心」の「罪」とそれによる「罰」を受けているような気がする。

 

芥川は明治25年(1892)に牛乳製造販売業を営む新原家の長男として生まれる。生後7ヶ月頃に母は精神の異常をきたした。芥川は東京下町の本所(現在の墨田区両国)にある母の実家(芥川家)に預けられ伯母に養育される。12歳のときに母の兄の養子になり,その後芥川の姓を名乗るようになる。

 

幼少期の様子は半自伝的小説と言われている『大導寺信輔の半生』(1925)に描かれているように思える。この小説には「生まれた本所は穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋ばかり汚く悪臭を放つ町で,信輔はごみごみした往来に駄菓子を食って育った少年だった。」とあり,また「信輔はまた全然母の乳を吸ったことのない少年だった。元来体の弱かった母は一粒種の彼を産んだ後さえ,一滴の乳も与えなかった。信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥じた。これは彼の秘密だった。信輔の家庭は貧しかった。彼等の貧困は下流階級の貧困ではなかった。が,体裁を繕う為により苦痛を受けなければならぬ中流下層階級の貧困だった。信輔は貧困を憎んだが,貧困に発した偽りを強く憎んだ。養母は「風月」の菓子折につめたカステラを親戚に進物にした。が,その中味は「風月」所か,近所の菓子屋のカステラだった。信輔自身もまた「嘘に嘘を重ねることは父母に劣らなかった。それは一月五十銭の小遣いを一銭でも余計に貰った上,何よりも彼の餓ていた本や雑誌を買う為だった。彼はつり銭を落したことにしたり,ノオト・ブックを買うことにしたり,学友会の会費を出すことにしたりした。信輔は下層階級の貧困よりもより虚偽に甘んじなければならぬ中流下層階級の貧困の生んだ人間だった。しかし,信輔はもの心を覚えてから,絶えず本所の町々を愛した。」(青空文庫)というようなことが記載されている。

 

芥川にとって幼少期に育った本所は愛するべき町ではあったが,母の乳を知らぬは恥であり,中流下層階級の貧困は「憎悪」の対象であった。芥川はこの虚偽に充ちた出身階級に自己嫌悪し,そこから抜けだしたかった。芥川が脱出するために選んだ手段は「知識」である。そして,読書を怠らなかった。

 

芥川は多読,速読の作家として知られている。例えば,真意のほどは解らないが「人と喋りながら膝の上でぱらぱらとめくるだけで本を読むことができた。洋書であっても1日に1200から1300

ページは読めた。菊池寛と一緒に関西に出かけた際には,車内で読むために分厚い洋書を5,6冊持ち込んだが一晩で読み切ってしまい,滞在先では谷崎潤一郎から本を借りてまで読んだ。また,いつでも本を手放さず,旅先や移動中はもちろんのこと,食事中もずっと読書をしていた(その多くは洋書だった)」という逸話が残されている(佐藤,2021)。

 

20歳のとき,外国の書物で「知識」を得て「慢心」になった芥川の姿が『或阿呆の一生』の(1時代)に描かれている。

 

それは或本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り,新らしい本を探してゐた。モオパスサン,ボオドレエル,ストリントベリイ,イブセン,シヨウ,トルストイ・・・彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま,本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかった。のみならず如何にも見すぼらしかった。

「人生は一行のボオドレエルにも若しかない。」

彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。

                (芥川,2004)下線は引用者 以下同じ

 

 

多分,ここに記載されている作家たちの書物で得た「知識」が「人工の翼」と関係してくるのだと思う。

 

芥川は『或阿呆の一生』の19 (人工の翼)で29歳になったときフランスの哲学者・文学者・歴史家であるヴォルテエル(1694~1778)から「人工の翼」を供与されたと言っている。

 

人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が,ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ,易(やす)やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行った。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら,遮(さへぎ)るもののない空中をまっ直(すぐ)に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘(ギリシャ)人も忘れたやうに。

                       (芥川,2004)

 

 

この引用文で後半の「人工の翼」を付けたギリシャ人の話は,『歯車』5章(赤光)に書かれていたのと同じである。

 

私は,理知的な作品を書く芥川がヴォルテエルから貰った「人工の翼」は,イカロスが父から貰ったような蠟で固めた「翼」ではなく,「理性」によって与えられた「知識」のことだと思っている。確実な知識は理性によってのみ与えられると言った哲学者もいた。主知的で知られる芥川は書物から「知識」を吸収する能力はすさまじいものがあった。多分,芥川はこの能力を使って「人工の翼」(=知識)を身につけて,あるいはそれをバネにすることで,見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら,また「人生は一行のボオドレエルにも若しかない」と呟きながら,遮るもののない空中をやすやすとまつ直に太陽へ向かって登っていったのである。芥川にとって「太陽」とは「火花」のことでもある。

 

芥川は生まれ,育ち,結婚し,老いて死んでいくだけにしか見えない地上にいる生活人の人生よりも,空中でボードレールの詩のような創作物を作る人生に憧れる作家であった。『ある或阿呆の一生』の8(火花)に「目の前の架空線が一本,紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。(中略)彼は人生を見渡しても,何も特に欲しいものはなかつた。が,この紫色の火花だけは,――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」と記載している。芥川にとっての「火花」とはたくさんの知識を吸収し誰も到達したことのないような高みにまで上り詰めて作った作品のことであろう。芥川は知識を吸収する能力には長けていたので自信もあった。しかし,それは彼の「驕り」つまり「慢心」でもあった。ギリシャ神話のイカロスが父の忠告を聞き入れずに驕り高ぶって太陽に近づこうとしたのと同じように,芥川もより高く飛翔しようとした。つまり,これが芥川の犯した「慢心」という「罪」であると思われる。(続く)  

 

参考・引用文献

芥川竜之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

佐藤太郎.2021.芥川龍之介と伊藤和夫の英語速読,あるいは外国語学習における多読と精読について.https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1238.html

『歯車』の主人公が幻視した「銀色の翼」はイカロスの翼か (2)

「銀色の翼」を幻視したのは〈僕〉が以前に乗ったことのある自動車に付いていた「ラジエーター・キャップの翼」と関係があるように思える。『歯車』には,〈僕〉が「銀色の翼」を幻視し後に「僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐた」ことを思い出している。

 

この「ラジエーター・キャップの翼」とは,高級自動車であるロールスロイスのラジエーター上部に付いているスピリット・オブ・エクスタシー(通称;フライングレディ)のことと思われる。ルーブル博物館にあるニーケー像(女神)のように背中に翼を持つ女性の姿をしている。ニーケー像はパリオリンピックの勝者に与えられるメダルのレリーフにも採用された。

 

「翼」は6章構成になっている『歯車』の他の章でも登場している。1章(レエン・コート)では主人公〈僕〉はホテルの戸の外から「翼」の音を聞いている。どこかに鳥でも飼っているのかも知れないと思っている。3章(夜)で〈僕〉は丸善2階の展覧室で聖ジョオジらしい騎士が「翼」のある竜を刺し殺しているポスターを眺めている。また,「復讐の神」が出てくる悪夢を見た後に「翼」の音を聞いている。5章(赤光)で〈僕〉は看板に描かれてある自動車のタイヤに「翼」のある商標を見て不安に襲われている。このとき,〈僕〉はこの商標に「人工の翼」を付け「空中に舞ひ上つた揚句,太陽の光に翼を焼かれ,とうとう海中に溺死してゐた」古代のギリシャ人を思い出している。章が進むにつれ「翼」の姿が明瞭になっていくとともに〈僕〉を不安にさせている。

 

「銀色の翼」は鳥や蝙蝠(こうもり)など実際に空を飛んでいる動物の「翼」ではなく,人が鳥の「翼」の類似物を作り,それを肩や背中に取り付けた,いわば作り物の「翼」である。手や足を失った人が付ける義肢や義足は[人工の手]であり,[人工の足]である。ロールスロイスのラジエーター上部に付いているスピリット・オブ・エクスタシーの「翼」も5章で見た看板のものと同じように「人工の翼」である。つまり,『歯車』の〈僕〉が見た「銀色の翼」は古代ギリシャ人のように人の肩や背中に付ける「人工の翼」のようなものと思われる。

 

古代ギリシャ人が付けたという「人工の翼」は『歯車』の5章以外に.『歯車』と同じ年に執筆した自伝的小説『或阿呆の一生』(1927)の19(人工の翼)に出てくる。

 

多分,このギリシャ人はギリシャ神話に登場するイカロスのことである。

 

イカロスは,工匠ダイダロスの子である。ダイダロスは,ミノス王の怒りを買ってイカロスと共に迷宮(あるいは塔)に閉じ込められる。しかし,ダイダロスは蜜蝋で鳥の羽を固め「翼」を作り息子の肩に固定し,迷宮から脱出させる。父・ダイダロスはイカロスに「蝋が熱で溶けてしまうので太陽に近付いてはいけない」と忠告した。しかし,自由自在に空を飛べるイカロスは自らを過信し,太陽にも到達できるという「慢心」から太陽神へーリオス(アポローン)に向かって飛んでいった。その結果,太陽の熱で蠟を溶かされ海中に溺死した。(小学館 日本大百科全書ニッポニカ,ウィキペヂア)。

 

イカロスの物語は人間の「慢心」(=傲慢あるいは驕慢)を批判する神話として知られている。つまり,『歯車』の主人公〈僕〉が見た「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」とは,「慢心」により神の「罰」を受けて撃墜死したイカロスの付けていた「翼」がイメージされている。(続く)

 

芥川龍之介の『歯車』の主人公が幻視したもの-「歯車」と「銀色の翼」- (1)

宮沢賢治は大正13年(1924)に「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)という短い詩を創作した。夜の湿気と風がさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる(宮沢,1985;下線は引用者)というものである。私は,以前この詩にある「暗い業の花びら」が,「慢心という業の報い(罰)を受け卑小なものになったときに現れる幻の花びら」であることと,およびフランスの詩人であるボードレールの『悪の華』の第一章に記載されている「傲慢の罰」という詩に類似していることを述べたことがある(石井,2024)。

 

実はそのとき,私はボードレールの作品意外に賢治と同世代の作家・芥川龍之介(1897~1927)の作品も思い浮かべていた。芥川が自死する3ヶ月前に書いた『歯車』(遺稿)である。執筆期間は1927年3月23日から4月7日とされている。この小説に登場する主人公〈僕〉(=芥川?)には激しい頭痛がしているとき暗い瞼の裏に「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」を幻視している。私には,この「銀色の翼」が賢治の見た「暗い業の花びら」と似ていると感じていた。しかし,『歯車』は賢治の詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の3年後に書かれていたこともあり,賢治が芥川の『歯車』を読むことは考えられないので前ブログでは取り上げなかった。

 

でも,あまりにも似ていると思えたので,本稿では,『歯車』の主人公が暗い瞼の裏に見た「銀色の翼」が賢治の夜空に見た「暗い業の花びら」と同種のものかどうか確認することにした。また,大正を生きた知識人・芸術家たちの共通の問題(時代病)が浮き彫りになるかもしれないと思ったからである。

 

『歯車』の最終章である6章(飛行機)で「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」つまり「銀色の翼」は以下のように記載されている。

 

何ものかの僕を狙ってゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮(さ)へぎり出した。僕は愈(いよいよ)最後の時の近づいたことを恐れながら,頸すぢをまっ直(すぐ)にして歩いて行った。歯車は数の殖えるのにつれ,だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま,丁度細かい切子(きりこ)硝子を透すかして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ,何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかった。……

 三十分ばかりたつた後,僕は僕の二階に仰向けになり,ぢっと目をつぶったまま,烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の瞼(まぶた)の裏に銀色の羽根を鱗(うろこ)のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはっきりと映ってゐるものだった。僕は目をあいて天井を見上げ,勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上,もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映ってゐた。僕はふとこの間乗った自動車のラディエエタア・キャップにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……

 そこへ誰か梯子段を慌(あわただ)しく昇って来たかと思ふと,すぐに又ばたばた駈け下りて行った。僕はその誰かの妻だったことを知り,驚いて体を起すが早いか,丁度梯子段の前にある,薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突っ伏したまま,息切れをこらへてゐると見え,絶えず肩を震はしてゐた。

「どうした?」

「いえ,どうもしないのです。……」

 妻はやつと顔を擡(もた)げ,無理に微笑して話しつづけた。

「どうもした訣(わけ)ではないのですけれどもね,唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」

 それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。――僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠ってゐるうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

(芥川,2004)下線は引用者 以下同じ

 

 

この引用文で,主人公である〈僕〉は,最後の時の近づいたことを恐れながら,瞼の裏に確かにはっきりと見える「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」を見るのだが,その前に半透明の「歯車」も見ている。

 

この「歯車」は後に見ることになる「銀色の翼」と密接に関係しているかもしれないので,本題に入る前に若干の考察を加えておく。

 

半透明の「歯車」は「何ものかの僕を狙っている」という被害妄想から不安と共に惹起され,〈僕〉の瞼の裏に出現してくる。この「歯車」は次第に数を増やし,廻り始めるが,暫くすると頭痛が生じるようになる。病理学的には閃輝暗点(せんきあんてん)と言われているものである。

 

2010年の104回医師国家試験でも,『歯車』の文章の一部が引用され,この小説に出て来る「歯車」の関与する疾患名が問われた。医師国家試験では,初めての病跡学的要素を含んだ出題だったことで注目された。この問題の答えは偏頭痛である。日本頭痛学会は次のように解説している。この症例は,「国際頭痛分類 第2版(ICHD-Ⅱ)「1.2 前兆のある片頭痛」と考えられます。片頭痛前兆のうち,視覚症状,感覚症状,失語性言語障害の3つを典型的前兆といいますが,本症例の「絶えずまわっている半透明の歯車」は視覚性前兆と考えられます。典型的な視覚性前兆は,同名性,すなわち,視野の左右どちらか一方に出現することが多く,「半ば僕の視野を塞いでしまう」というのも,左右どちら側かは書かれていませんが,恐らく同名性の視覚症状を示していると考えられます。」とある(日本頭痛学会HP)。

 

また,前兆症状は,「キラキラした光,ギザギザの光が視界にあらわれ見えづらくなる(閃輝暗点)といった視覚性の症状が最も多く(90%以上)。通常は,前兆が560分続いた後に頭痛が始まります。」(日本頭痛学会HP)とある。ネットで閃輝暗点を経験した人が自分のものをスケッチ図にして公開している。

 

『歯車』で〈僕〉が幻視した「歯車」は作者である芥川も実際に見ている。芥川は詩人で医師でもある斎藤茂吉に『歯車』執筆中の3月28日に手紙を出している。その中に「この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転する事あり」と記している。

 

では,「歯車」の後に見えたもう1つの「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」の正体について考えてみる。この「銀色の翼」は〈僕〉の暗い瞼の裏にはっきりと見え,また頭痛が生じているときに見え始めるので,偏頭痛の視覚性前兆に分類される閃輝暗点とは異なるものと思われる。多分,頭痛とは直接的には関係していない。つまり,瞼の裏に見える「銀色の翼」を解剖学,生理学,病理学で説明することは難しいように思える。多分,心理学的あるいは創作を含めて文学的なアプローチが必要なのかもしれない。

 

『歯車』の〈僕〉には「銀色の翼」は瞼の裏にはっきりと見えているが,この「銀色の翼」が瞼の裏に実際に存在しているわけではない。目を閉じても見えるので幻覚である。しかし,ここで指摘しておかなければならないことがある。それは作者が「銀色の翼」を「実際網膜の上にはっきりと映ってゐるものだった」と言っていることである。「網膜の上」という表現は適切ではないように思える。網膜に映っているなら瞼の裏や外部に実在する対象物がなければならないからである。当時の眼科学のレベルがどのようなものであったか解らないが,芥川の誤解である。多分,はっきりと実在するように見えたということが言いたかったのだと思われる。ちなみに,瞼の裏に見えるという視覚性前兆の「歯車」(閃輝暗点)も幻覚である。「歯車」も網膜上に映っているのではない。視覚性前兆のある偏頭痛患者では前兆出現時か対側後頭葉皮質の血流が低下することが知られている(頭痛の心療ガイドライン 2021)。「歯車」が見えるという幻覚もこの脳の血流変化と関係しているかもしれない。ただ,「銀色の翼」の発現メカニズムは解らない。(続く)

 

参考・引用文献

芥川竜之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

石井竹夫.2024.宮沢賢治の詩に登場する「暗い業の花びら」の意味を明らかにする(3)-ボードレールの「悪の華」との類似点から-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/01/19/095659

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

日本頭痛学会HP.2024(調べた日付).https://www.jhsnet.net/kensyui_quiz_02.html

頭痛の心療ガイドライン.2021.https://www.jhsnet.net/pdf/guideline_2021.pdf

 

 

宮沢賢治の詩に登場する「暗い業の花びら」の意味を明らかにする(4)-教え子である柳原昌悦への手紙から-

前稿で詩「業の花びら」に記載されている「暗い業の花びら」は「慢心という業の報い(罰)を受けたときに現れる幻の花びらのこと」であると推論した。しかし,多くの賢治ファンは,菩薩に成りたかった賢治に「慢心」(傲慢)が生じることを認めたくないであろう。本稿では,賢治に「慢心」があったかどうかについて検討する。

 

賢治が亡くなる3年前と10日前に,花巻農学校時代の教え子で小学校の教諭になっている沢里武治と柳原昌悦に手紙を出している。賢治のこれら2つ手紙に「慢心」について述懐する言葉を残している。

 

沢里への手紙(書簡260;1930)には,「私も農学校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終わりのころわずかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨慢な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです。もう一度新しい進路を開いて幾分でもみなさまのご厚意に酬いたいとばかり考へます。」とある(宮沢,1985;下線は引用者)。沢里は賢治から音楽の才能を認められた生徒であった。賢治の詩集『春と修羅 第二集』の「三八四 告別」(1925.10.25)で「おまえ」と呼びかけられている生徒のモデルとされている人物である。この詩には「・・・すべての才や力や材といふものは/ひとにとゞまるものでない/ひとさへひとにとゞまらぬ/云はなかったが,おれは四月はもう学校に居ないのだ・・・・もしもおまへが/よくきいてくれ/ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき/おまへに無数の影と光の像があらはれる/おまへはそれを音にするのだ・・・もしも楽器がなかったら/いゝかおまへはおれの弟子なのだ/ちからのかぎり/そらいっぱいの/光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ」(宮沢,1985)とある。

 

沢里への手紙には,賢治が稗貫農学校の教諭(1921年12月~1926年3月)であった終わり頃に倨慢(きょまん)な態度になったことが記されていた。倨慢とは「傲慢」のことである。詩「告別」でも沢里を「おまえ」と呼び,「すべての才や力や材といふものは/ひとにとゞまるものでない」や「おれの弟子」などと「慢心」をうかがわせる言葉を並べている。賢治の詩「業の花びら」(1924.10.5)も農学校時代の終わり頃に書かれている。

 

また,賢治が亡くなる10日前の柳原への手紙(書簡488;1933年)には,「私もお蔭で大分癒っては居りますが,どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず,咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり,或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり,仲々もう全い健康は得られさうもありません・・・・私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ,じぶんの仕事を卑しみ,同輩を嘲り,いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ,空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・どうか今の生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに,しっかり落ちついて,一時の感激や興奮を避け,楽しめるものは楽しみ,苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。(宮沢,1985)」とある。この手紙の下線は引用者がつけたもので,慢に付いている「」は賢治がつけたものである。

 

柳原への手紙の下書稿には以下のような記載もある。「・・・・どうかあなたはいまのお仕事を落ち着いて大切にお守りください。その仕事をしてゐる間は誰でもそれがつまらなく低いものに見えて粗末にし過ぎるやうです。私などはそれによって致命的に身を誤った標本でせう。「慢」といふ心病,身に発して只今の生きるに生き悩み死ぬに死にきれないこの病になったのです。」とある。

 

「憂悶(ゆうもん)」とは思い悩み,苦しむことである。賢治の時代に憂悶病という疾患があったかどうかは知らない。

 

「同輩を嘲り」とは農学校時代の同僚で小学校の同級でもあった奥寺五郎(1924年死去)のことを言っているのだと思われる。奥寺は母親と2人暮らしで,学歴の関係で正式の教諭ではなく,給料も後から入ってきた賢治よりも少ない助教諭心得として養蚕と事務を担当していた(50円ほどだったらしい)。奥寺が20代半ばで結核に罹患し,退職後仙台の病院で療養することになったとき,賢治は土曜日から日曜日にかけて行けるときは毎週のように仙台に見舞いに行き,自分の給料から30円を奥寺に送ったという。後になって毎月50円ずつ1年間あげていた。この時賢治の給料は100円だった。初めは奥寺も賢治の真意を疑って憤慨もしていたが,亡くなる頃は感謝していたという(同寮・堀籠文之進の話として;森,1983)。

 

柳原昌悦への手紙には,賢治は「「慢」といふものの一支流に過って身を加へたこと」が原因で,「罰」を受け「憂悶」の病になったということが書かれてあった。わざわざ,慢にカギ括弧の「」をつけて強調している。さらに,慢について,賢治は「僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ,じぶんの仕事を卑しみ,同輩を嘲り,いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ」と具体的な例をいくつかあげて説明している。しかも,沢里への手紙で賢治は「慢心」であった時期が農学校時代の後半頃であったことも告白している。つまり,賢治は詩「業の花びら」を執筆していた頃,確かに「慢心」が生じていたのだ。同僚の奥寺五郎が賢治の施しに憤慨したのも,奥寺が賢治に「慢心」を感じたからと思われる。 

 

柳原への手紙に「今日の時代一般の巨きな病」とあるように「慢」という「業」の病は時代病のようでもある。賢治と同世代の小説家に佐藤春夫(1892~1964)がいる。佐藤春男は「憂悶」の病と似たようなものを1919年に小説『田園の憂鬱』(副題は病める薔薇)で書いている。田園生活の中で,「憂鬱」と「倦怠」に悩まされる姿が描かれている。当時佐藤は神経衰弱を患っており,都会から離れ田舎暮らしを行うことで都会で受けた神経の摩耗を取り戻そうとしていたようだ(Wikipedia)。ボードレールなら佐藤の病を「憂愁」(spleen)の病と呼んだのかもしれない。

 

賢治と同時代の萩原朔太郎(1986~1942)はボードレールの影響を強く受けた詩人であると言われている(佐藤,1994)。橋本征子(1997)もボードレールと萩原朔太郎の「憂愁」について比較し,二人の官能的な感覚,醜悪美の好み,都会や群集への対し方などに深く相通じるものがあると指摘している。その朔太郎が賢治の詩に影響を与えたとされている。朔太郎研究家である長野隆(1993)は朔太郎の詩集『月に吠える』における詩の表現法と賢治の『春と修羅』におけるものを比較し,似て非なる相違点もあるが類似点の多いことを指摘している。実際に,賢治は朔太郎の『月に吠える』を読んでいる。大正8年(1919)ごろに賢治の同郷である阿部孝を東京の下宿先に尋ねたとき,本棚にあった『月に吠える』(1917)を手にして「不思議な詩だな」と言ったという。阿部は賢治にとって文学の話ができる数少ない相手の1人あったようで,帰省中の阿部を訪れては自作の詩を読み聞かせ批評を求めている。真意は定かではないが,阿部が「朔太郎張りだ」と評すると,賢治は「図星をさされた」と悲痛な声をあげたという(原,1999)。

 

「暗い業の花びら」とは「慢心」(業)の「報い」(罰)を受け卑小なものになったときに天井に現れる幻の花びらのことである。感覚過敏な賢治にはこの「花びら」が実際に見えたのであろう。「慢心」という「業」も進歩や物質文明や拝金主義を礼賛するする社会から生み出された「悪」の1つと考えれば,賢治が使う「暗い業の花びら」もボードレールの「悪の華」と同じ意味であると思われる。「悪の華」は「美」を象徴している。賢治も「業の花びら」の「花びら」が美しく見えたはずだ。賢治がボードレールの詩集『悪の華』の「傲慢の罰」を原文(フランス語),和訳,英訳などで読んでいたという証拠はない。多分,賢治の詩がボードレールのものと類似しているのは,ボードレールを受容した同世代の詩人,例えば萩原朔太郎などからの影響によるものなのかもしれない。ただ,賢治の生きた時代がボードレールの物質文明を礼賛する時代でもあったので,詩「業の花びら」と詩集『悪の華』の「傲慢の罰」が似ていても不思議ではない。(了)

 

参考・引用文献

橋本征子.1997.萩原朔太郎の「憂愁」についての試論 : ボードレールの「憂愁」と比較して.國學院短期大学紀要 15 (0); 5-34.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

長野 隆.1993.モナドロジーと身体/脱身体 : 萩原朔太郎と宮沢賢治.早稲田文学 (201) 46-51.

佐藤,東洋麿.1994.日本近代叙情詩事情 : ボードレールの匂いヴェルレーヌの影.横浜国立大学留学生センター紀要 1 :101-108.

 

宮沢賢治の詩に登場する「暗い業の花びら」の意味を明らかにする(3)-ボードレールの「悪の華」との類似点から-

本稿(第3稿)は下書稿の「業の花びら」に記載されている「暗い業の花びら」が何を意味しているかを,詩の表題が類似するボードレールの詩集を読み込むことから考察する。

 

フランスの象徴主義の詩人であるボードレール(Charles-Pierre Baudelaire;1821~1867)が書いた詩集に『悪の華』( Les Fleurs du mal;初版1857年)というのがある。この詩集は詩人の誕生から死までの魂の遍歴が厳密な構成により展開されていて,心理的相克の深刻な表現,象徴主義を予告する音楽性,新鮮な官能表現等により近代詩の源泉となり,後世に多大の影響を与えたとされるものである(平凡社百科事典マイペディア)。この詩集は「美」を重要なテーマにしているが,詩集に登場する女性たちはボッティチェッリの絵画に描かれているようなヴィーナスではなく,娼婦や顔に深い皺を刻み込んだ老婆たちである。ボードレールは娼婦や老婆たちに「華」すなわち「美」を見ている。

 

詩集『悪の華』(初版)は「憂愁と理想」,「悪の華(花)」,「反逆」,「葡萄酒」,「死」の5章に,序詩(読者へ)を含めた詩101篇を収録する。第2版は1861年に刊行。「パリ情景」を加えて6章構成となる。現在第2版が定本となっている。

 

この詩集の表題である「悪の華」と「暗い業の花びら」は「悪」と「暗い業」,「華(花)」と「花びら」を対比させれば似ているように思える。

 

ボードレールの研究者である橋本征子(1997,2008)は,「悪の華」の「悪」とは,19世紀末の大都会パリに見られるような人間の精神性の失墜,物質文明への礼賛,拝金主義を指すのであって,また,当時の社会に蔓延していた「進歩」や「有用」=「善」という既成道徳の構図に対するアンチ・テーゼでもあり,「華(花)」とはそのような社会からはみ出してしまった者たち,なす術もなく,巷にさ迷う娼婦たち,老婆たち,物売りたちに宿っている「美」のことである。と言っている。また,「美」に関して,少しも歪んでいないもの は,感銘を与えない。驚かすことは「美」の本質的な部分である。とも言っている。つまり,「華」はその場に実在する花を指すものではなく,「美」を象徴するものとして使っているように思える。賢治のように,実際に花の「花びら」を見ているのではない。

 

多分,ボードレールは,我が国で言うところの「滅びの美」あるいは「散りぎわの美」のようなものを,自らの境遇と重ねて,開花した物質文明社会から落ちこぼれ,あるいは散っていく娼婦たちや「皺」だらけの顔の醜い老婆たちに感じていたのだと思われる。

 

我が国では「花」と言えば「桜」である。「桜」の「美」は散りぎわにあることもよく知られている(天沼,2002)。たとえ,散りぎわの「桜」の「花びら」が色あせて醜くなってでもだ。また,形あるものはやがて「滅びゆく」という自然の摂理に感じられる無常観が「あはれ」という「美」の意識を生んできた。

 

縄文の「美」を再発見したのは10年間フランスで過ごしたこともある芸術家の岡本太郎(1911~1996)である。岡本は東京国立博物館の一室で考古学の遺物として陳列されていた燃え盛る炎や,渦巻く水の流れを表現したような紋様の縄文土器(火焔型土器など)に偶然出くわし,ドキッとして,そして「なんだこれは!」と叫んだそうだ。土器の紋様は老婆の顔の「皺」のようでもある。つい50年前までは日本美術史に縄文は存在しなかったという(石井匠,2024)。ちなみに,火焔型土器は紋様以外では大仰な4つの突起を持つのが特徴である。この突起は煮炊きに使う土器としては邪魔なものである。すなわち,岡本はボードレールと同じように醜く役に立ちそうにもないものに「美」を感じ取っている。

 

「悪の華」で使われる重要なキーワードに「憂愁」(spleen)がある。「憂鬱」と訳されることもある。「憂愁」とは,英語からの外来語で「脾臓」のことである。 そこから胆汁がでてくることから「ふさぎ虫」,つまり人生への疲れや倦怠感を指す(橋本,1997)。

 

詩集『悪の華』には表題だけでなく,賢治の詩「業の花びら」と内容が類似した作品もある。

 

詩集『悪の華』の初版と第2版の第1章「憂愁と理想」の16番目にある「傲慢の罰」という詩である。賢治が生きた時代に馬場睦夫訳の『悪の華』(1919)が出版されている。しかし,全訳にはなっておらず,残念ながら「傲慢の罰」の和訳を見ることはできなかった。

 

フランス文学者である岩切正一郎(2024)が「傲慢の罰」を解りやすく和訳したものを偶然ネットで見つけたので,今回それを採用する。「傲慢」も物質文明を礼賛する社会から生み出されたものであるなら「悪」の1つと思われる。

 

「傲慢の罰」

 

〈神学〉が,空前絶後のエネルギーと樹液にみちあふれ

花咲いていたあのおどろくべき時代,

こんなことがあったという,最も偉大な博士のひとりが,

-信者たちの無関心な心をむりやりこじあけ

黒い深みの底でそれをゆすぶったあと,

天の栄光へむかい

自分でもしらない不思議な道を越えていった,

そんな道は,けがれない〈聖霊〉しか来たことはなかったろう-

高いところに登りすぎパニックになった男のように,

悪魔めいた驕(おごり)りの気持ちに我を忘れ,叫んだそうだ。

イエズスよ,ちっぽけなイエズスよ!おまえをこんなに高めてやった

だがな,その甲冑の破れ目を,このわしが,

一突きしようと気でも起こしていたら,今頃そなたの栄光は恥にひとしく,

そなたはもはや笑いものの胎児でしかなかったはず!」

 

そのとたん,かれの理性は去ってしまった。

太陽のきらめきはヴェールに覆われた。

かれの知性のなかに混沌(カオス)がうねった。

かつては生きた寺院で,秩序と豪奢(ごうしゃ)であふれていたのに,

その天井の下には栄耀(えいよう)が燦然(さんぜん)と輝いていたのに,

沈黙と夜がその中に居座った,

鍵が失われた地下の穴蔵のように。

その時から,かれは路傍の畜生とおなじだった。

なにも目にはいらず,夏と冬との区別もつかず,

野づらを超えてゆくときは,

廃品のようによごれ,役立たずな,醜いかれを,

子どもたちは囃したて,笑いものにしたそうな。

           (下線は引用者)以下同じ

 

 

詩「傲慢の罰」には「偉大な博士」(神学博士)が神に勝ろうとして神の逆鱗に触れ,路傍の畜生並の存在に落ちてしまう姿が描かれている。

 

岩切の翻訳には神学博士に対する以下のような注釈がついている。「傲慢の罰」は,1848年10月15日の『両世界評論』に掲載されたサン=ルネ・タイヤンディエの論文記事に載っている中世の逸話が源泉とされている。十三世紀に,司教座聖堂参事会員シモン・トウルエが,公衆の前で聖三位一体の神秘について解明したあと,あまりにも満足したあげく,心おごって,キリスト教の真理は自分の論考の巧みさに依拠していると口走った。するとふいに,彼は言葉の自由を失い,呆けてしまった。神罰がくだったのだ,という逸話である。

 

神学博士を芸術家に置き換えれば,この詩は,芸術家の「慢心」に対する戒めという教訓をもつものでもある。

 

ボードレールの研究家である清水まさ志(2022)は,「芸術家が芸術作品の創造において理想を追求するほど,倦怠と憂鬱に陥る。理性と知性と秩序を象徴する神殿はギリシャ神殿を彷彿とさせ,理性が失われた様子を太陽の昼から沈黙の夜への変化として描く。神殿が地下納骨所へと変化し,しかも地下納骨所を開ける鍵が失われて閉じ込められている姿は,墓である自らの魂に住み着いている「無能な修道僧」と同様である。近代の芸術家は,この神に対する反逆の罪,「高慢の罪」によって,治癒と回復が不可能なほどの倦怠と憂鬱の闇に落とされるという罰を受けている。」と解釈している。清水の言う「倦怠と憂鬱」はボードレールの「憂愁」(spleen)のことを指すものと思われる。

 

すなわち,ボードレールは傲慢の罰を受けて子どもにも笑われる畜生並の存在に落ちぶれてしまった神学博士あるいは芸術家に「憂愁」の「美」を感じている。つまり,神学博士あるいは芸術家に「悪の華」が宿っているのを感じ,「傲慢の罰」という表題で詩を創作し,詩集『悪の華』の第1章「憂愁と理想」に組み込んだのだと思われる。

 

詩「傲慢の罰」の神学博士を菩薩に成りたかった賢治に置き換えるとどうなるか考えてみる。岩切和訳の「傲慢の罰」を基にして賢治の「業の花びら」を修正してみる。

 

「業の花びら」mental sketch modified

 

〈宗教〉が,空前絶後のエネルギーと樹液にみちあふれ

花咲いていたあのおどろくべき時代,

こんなことがあったという,菩薩道を歩む偉大な信徒のひとりが,

-信者たちの無関心な心をむりやりこじあけ

黒い深みの底でそれをゆすぶったあと,

天の栄光へむかい

自分でもしらない不思議な道を越えていった,

そんな道は,けがれない〈菩薩〉しか来たことはなかったろう-

高いところに登りすぎパニックになった男のように,

悪魔めいた驕りの気持ちに我を忘れ,叫んだそうだ。

「楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申!そなたらの名を台本に記録し,そしてたくさんの聴衆のいる高い壇上に登らせてやったぞ!

だがな,おまえらが着る衣服の破れ目を,このわしが,

一突きしようと気でも起こしていたら,今頃そなたの栄光は恥にひとしく,

そなたらはもはや憎まれ役のたちの悪い卑賤の神でしかなかったはず!」

 

そのとたん,かれの理性は去ってしまった。

太陽のきらめきはヴェールに覆われた。

かれの知性のなかに混沌(カオス)がうねった。

かつては生きた寺院で,秩序と豪奢であふれていたのに,

その天井の下には栄耀が燦然と輝いていたのに,

沈黙と夜がその中に居座った,

鍵が失われた地下の穴蔵のように。

その時から,かれは地中に巣を持つ地を這う虫けらとおなじだった。

なにも目にはいらず,夏と冬との区別もつかず,

野づらを超えてゆくときは,

廃品のようによごれ,役立たずな,醜いかれを,

子どもたちは囃したて,笑いものにした。

かれははげしく寒くふるえていた

ただ,空には暗い業の花びらがいっぱい見えていたそうな。

 

 

このようにボードレールの詩集『悪の華』の「傲慢の罰」を読み込むと,この詩が賢治の詩「業の花びら」の内容と類似していることが明らかになる。ボードレールは「驕り」によって路傍の畜生に成り下がってしまった惨めな神学博士(芸術家)に,パリの町をさ迷う老婆に対してと同様に,「悪の華」を見ている。一方,賢治は地を這う虫けらのようになり,はげしく寒くふるえる自分の頭上に「暗い業の花びら」を見ている。

 

しかし,賢治は自分の詩に「驕り」とか「罰」という言葉を使うことはなかった。

 

賢治が隠した「驕り」(慢心あるいは傲慢)こそが,詩「業の花びら」のキーワードになっているのだと思われる。「驕り」は仏教で言うところの「意業」(心に思う働き)に相当する。すなわち,「驕り」は「業」の1つである。

 

すなわち,詩「業の花びら」に記載されている「暗い業の花びら」とは賢治にしか見ることのできない「慢心という業の報い(罰)を受けたときに現れる幻の花びらのこと」と思われる。具体的に言えば,賢治が驕り高ぶって先住民の神々を勝手に舞台にあげてしまったことで神罰を受け「はげしく寒くふるえる」ということになった。このとき天井に幻影としてのたくさんの「花びら」が見えたということである。この「花びら」は「暗い」と形容されているので「人に触れられたくない」ものであったに違いない。なぜ幻影が「花びら」なのかについては,偶然の一致,あるいはボードレールの「悪の華」の影響があったからのどちらかであると言うしかない。

 

また,賢治はボードレールの詩「傲慢の罰」と類似した作品として童話『サガレンと八月』(1923?)を書いている。この童話には樺太のギリヤークの少年が主人公として登場する。母は,少年に浜に落ちている透明な「くらげ」のようなものを拾ってはいけないと常日頃から忠告していた。「くらげ」でものを透かしてみると「悪いもの」が見えてしまうからだ。しかし,少年は標本収集にやってきた内地の農林学校の助手と仲良くなり,しだいに助手が暮らす内地の社会に憧れを持つようになる。すなわち,「驕り」が芽生えてくる。そして高ぶった「驕り」の気持に我を忘れ,母の忠告を無視して「くらげ」の「めがね」で南の方角を見てしまう。すると,いままで明るく見えていた青い空が「がらんとしたまっくらな穴」のようなものに変わってしまった。少年は「先住民」が暮らす美しい風景がみすぼらしいものに感じるようになってしまったのだ。さらに,恐ろしいことにギリヤークの犬神が突然に現れ,少年は蟹の姿に変えられ,海の底の穴の中に閉じ込められ,そして「ちょうざめ」の下男にされてしまう。この物語は,蟹にされた少年が「ぶるぶる」震えながら「こいつらのつらはまるで黒と白の刺だらけだ。こんなやつに使われるなんてほんたうにこはい」と呟くことで終わる。(石井,2023)。

 

私は,少年が樺太から「くらげ」の「めがね」(望遠鏡)で南の方角を覗いて見た「悪いもの」が大都会東京であると推論したことがある(石井,2023)。ボードレールは大都会パリの中で社会から落ちこぼれた人々に「悪の華」を見ていた。

 

ボードレールの研究者・橋本征子の言葉を使い童話『サガレンと八月』を解釈すれば,信仰を中心として精神世界に住んでいた先住民の少年が物質文明や拝金主義を礼賛する社会に憧れたことで先住民の神から罰を受けたということである。賢治は自分の過去にしでかした罪と重ね,罰を受け穴の中で「ぶるぶる」と震える先住民の少年の頭上に「暗い業の花びら」を見たであろうし,ボードレールならこの少年に「憂愁」(spleen)の美を感じ,「悪の華」が宿っているのを見たであろう。

 

賢治の作品に少なからずボードレールの影響が見て取れる。(続く)

 

参考・引用文献

天沼 香.2002.日本精神史としての「死生観」研究序説.東海女子大学紀要 22;1-10.

橋本征子.1997.萩原朔太郎の「憂愁」についての試論 : ボードレールの「憂愁」と比較して.國學院短期大学紀要 15 (0); 5-34.

橋本征子.2008.ボードレールの詩集「悪の華」に於けるジャンヌ・デュバル篇について.國學院短期大学紀要 25 (0); A3-A22.

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考-蟹の母が子の行動に対して禁止したもの(試論 第2稿)-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/03/12/063009

石井 匠.2024(調べた年).岡本太郎と縄文.https://www.kaen-heritage.com/doki/taro/

岩切正一郎.2024(調べた年).ボードレール『悪の華』(1861年版)全篇https://subsites.icu.ac.jp/people/iwakiri/fleurs%20du%20mal.html

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

清水まさ志.2022.ボードレール『悪の華』「芸術」詩群を読む(2)―ロマン主義と「北方」―.筑波大学フランス語・フランス文学論集.37:69-83.