宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(4)

 

前報では,〈大三〉が手に入れようとした「透き通ったばらの実」の正体が,「自分」を「さいはひ」にさせる手段としての「科学の力」であることを明らかにした。本編では,「葦」などの植物が物語に登場する意味を解明することによって,この童話に教師時代の賢治の恋物語が挿入されていることを明らかにする。

 

4.物語に挿入された教師時代の賢治の恋

1)授業や実習の様子

童話『よく利く薬とえらい薬』では,肥満の〈大三〉は鳥達から「人だらうか象だらうか」,「ふいごだらうか」,「大きな皮の袋だらうか」,「びくっくり,くりくり,」,挙げ句の果てには「何しに来た」とまで言われている。なぜ鳥達は〈大三〉を「ふいご」と呼ぶのであろうか。〈大三〉を農学校時代の賢治,鳥達を教え子の生徒とすると理解できるかもしれない。

 

賢治は1921年12月に稗貫農学校の教師となる。しかし,就職してしばらくの間は仕事に不安を持っていたようである。農学校時代の同僚は,「宮沢さんは,実地に百姓をやった経験はないし,生徒たちは純農家の出身が多かったものですから,実習には,はじめ気骨の折れたことだろうと思います。・・・なれないうちはみていると,気の毒なかせぎかたでした。」と述懐している(森,1990)。友人である保阪嘉内への手紙(1921年12月)にも「けむたがられています。笑はれて居りまする。授業がまづいので生徒にいやがられて居りまする。」と書いている。

 

「ふいご(鞴,吹子)」は中国や朝鮮半島から伝わったとされている。中国(漢時代)では「吹子」で「鉄」を得て農具を作ったとされる。我が国では『日本書紀』に「天羽鞴(あまのはぶき)」の名で最初に登場する(和鋼博物館,2015)。「鹿皮」で作られたものだという。賢治の農学校時代の写真の中に,坊主頭(くりくり坊主)で皮の上着を着て座っている写真(1924年)がある。この上着は,鹿皮の陣羽織を仕立て直したもので,授業以外で愛用していたという。着任時の賢治の体格は,身長が五尺四寸(約164㎝),胸囲三尺(約91cm),体重十六貫(約60㎏)で,当時としては大柄のほうで,ふっくらしていたという(堀尾,1991)。

 

また,目は象の目のごとく細く(堀尾,1991),前歯が出ていて考え込むと舌をその前歯に乗せる癖があり,アルパカとあだ名が付けられていたともいう(筒井,2018)。賢治は,純農家出身の生徒から同じ東北人(先住民)とは認識されていなかったようである。大柄で顔が平坦で目が細く上顎の切歯が前方に少し傾いている容貌は,どちらかと言えば「稲作」と「鉄器」を持ってきた渡来系弥生人(移住者)の特徴でもある(馬場,2017)。

 

多分,「鳥」(生徒)達は,「大三」(賢治)を「森」(東北)へ「侵入」(移住)してきた「侵入者」(大和民族側の人間)と見なしている。だから,鳥達に〈大三〉を「アルパカ」ではなく大陸から「稲作」と一緒に伝来され肥満もイメージできる「ふいご」と呼ばせたのであろう。

 

逆に,賢治は東北の農民の容貌をどう捉えていたのか。『春と修羅詩稿補遺』の「会見」に,教え子の父親と思われる農民が登場する。この父親を「この逞(たく)ましい頬骨は/やっぱり昔の野武士の子孫/大きな自作の百姓だ」(下線は引用者)と表現している。頬骨が横に張り出しているのは縄文人(先住民)の特徴の1つである。「野武士」とは「蝦夷(エミシ)」のことと思われる。賢治は教え子達を「東北」の「先住民」と考えている。

 

2)賢治の恋愛

また賢治は,前述したように農学校の生徒相手に悪戦苦闘していた頃に恋もしていた。かなり熱烈な恋であったという(佐藤,1984)。すなわち,〈清夫〉と〈大三〉にはそれぞれ宗教者として,あるいは「沢山の知識」(肥満?)で「慢心」となった科学者としての賢治が投影されている。また,「つぐみ」,「ふくろう」,「かけす」には「先住民」と思われる教え子の生徒達が,「よしきり」には主として恋人が投影されていると思われる。

 

この物語に登場する「よしきり」はヨシキリ科の「オオヨシキリ」(Acrocephalus orientalis (Temminck & Schlegel, 1847))とされている(赤田ら,1986)。葦原などに生息して,「ヨシ」などの茎や枯れ葉などを組み合わせたお椀状の巣を作る。この物語を丁寧に読んでいくと,賢治が「みんなのさいはひ」を重視したことによる恋の破局を描こうとしていたことが明らかになってくる。〈清夫〉と「よしきり」,と〈大三〉と「よしきり」の会話を物語から抜き出して羅列してみる。

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「よしきり」が〈清夫〉に「清夫さん清夫さん,ばらの実ばらの実,ばらの実はまだありますかい?」と挨拶をしているが,これは「聞きなし」のことである。「聞きなし」とは主に鳥の鳴き声を人間の言葉に当てはめて聞くことである。「オオヨシキリ」は赤い口の中を見せて「ギョギョシ,ギョギョシ,ケケシ,ケケシ,トカチカ」と大声でさえずる。これを〈清夫〉は「よしきり」が「清夫さん清夫さん,ばらの実ばらの実,ばらの実はまだありますかい?」と自分に話しかけていると感じている。「ばらの実」を「法華経」とすれば,恋人が投影されている「よしきり」は,賢治が投影されている〈清夫〉に「法華経,法華経,法華経,今日も読経ですか」と話しかけている。

 

「よしきり」が「水溜の葦の中」から林の向ふの「沼」に行かうとして,あるいは「沼」の方に「逃げ」ながら,「まだですか。まだですか。まだまだまだまだまぁだ。」と二人に話しかけているが,「沼」とは何を意味しているのか。多分,この「沼」は花巻に点在する「アイヌ塚」がイメージされていると思われる。「アイヌ」は,大自然や動物,植物を「神(カムイ)」と見なして生きてきた民俗である。

 

『春と修羅 第二集』の〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕(1924.5.18)という詩に「(おまへはなぜ立ってゐるか/立ってゐてはいけない/沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)/一本の緑天蚕絨の杉の古木が/南の風にこごった枝をゆすぶれば/ほのかに白い昼の蛾は/そのたよリない気岸の線を/さびしくぐらぐら漂流する/(中略)/アイヌはいつか向ふへうつり/蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる」(下線部分は引用者)という詩句が記載されている。この作品の元原稿には「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鏃も石斧もとれる」と記入跡もみられる。

 

この「沼」は,賢治研究家によれば花巻の西の豊沢川沿いの才ノ神・熊堂付近にある「アイヌ塚」(あるいは蝦夷塚)と呼ばれていたところとされる。詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕には,「わたしは花巻1方里のあひだにその七箇所を数え得る」(1方里は1里四方の意味)の記載もある。賢治が生きた時代には,豊沢川沿いには「アイヌ塚」と一緒に沢山の「沼」があったという(浜垣,2009)。すなわち,「沼」とは日本列島に先住していた人達の生活の場という意味が込められている。

 

「沼」が「先住民」の生活空間だとする筆者の説は,「水溜の蘆(あし)の中に居たよしきり」という表現からも裏付けられる。「葦(あし)」はイネ科ヨシ属の多年草で「ヨシ」(Phragmites australis (Cav.) Trin.ex Steud.)のことである。賢治作品には,同じ植物を「ヨシ」と表現する場合もある。しかし,賢治はこの童話では「ヨシキリ」が登場するのにわざわざ「葦」に「あし」とルビを振っている。

 

「葦(あし)」という呼び名は,古くは『古事記』や『日本書紀』などの記紀の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」という言葉の中で使われていた。これは日本という国の古い呼称である。多分,童話の「葦」は記紀に登場する「葦」がイメージされている。朝廷によって作られた歴史書によれば,日本列島は天皇(あるいは大陸から「稲作」と「鉄器」の文化を持ってきたと渡来系弥生人)によって統治される前は「葦」の茂る未開な国であったということである。そして,日本列島の「沼」と「葦」が茂る土地にはすでに「先住民」が暮らしていた。縄文人の末裔とされるアイヌ民俗の住居(チセ)は,屋根も壁も「葦」や「茅」などの身近な「葦原」や「茅原」の植物が用いられていた。 

 

 「沼」に関して,もう1つ「アイヌ塚」と関係すると思われる詩がある。恋人が破局後渡米して1年後に書かれた詩集『春と修羅 第二集』の詩〔はつれて軋る手袋と〕(1925.4.2)には「何か玻璃器を軋(きし)らすやうに/鳥がたくさん啼いてゐる/・・・眼に象(かたど)って/泪(なみだ)をたゝえた眼に象って・・・/丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる/ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて/笹がすこうしさやぐきり/たとへばねむたい空気の沼だ/かういふひそかな空気の沼を/板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて/ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする/どうしてさういふやさしいことを/卑しむこともなかったのだ/・・・眼に象って/かなしいあの眼に象って・・・/あらゆる好意や戒(いまし)めを/それが安易であるばかりに/ことさら嘲(あざ)けり払ったあと/ここには乱れる憤(いきどお)りと/病ひに移化する困憊(こんぱい)ばかり」(宮沢,1985;下線は引用者)とある。この詩は岩根橋発電所詩群の1つである。岩根橋は猿ヵ石川沿いにあることは前述したが,「猿ヵ石」はアイヌ語で「sar・葦原,ka・上の,ushi・所」に分解でき「葦原の上の所」という意味であるという(金田一,2004)。

 

 詩〔はつれて軋る手袋と〕の「沼」も童話『よく利く薬とえらい薬』に登場する「沼」と同様に「先住民」が生活を営む空間がイメージされているように思える。

 

賢治がこれら作品の中で使う「沼」は,近代化という「風」が「ごうごう」と吹いて急速に発展していく猿ヵ石川沿いの工場群や街のある「丘」と違って,緩やかに時間が流れる空間である。恋人はここに「よしきり」が「葦」で巣を作るように所帯を構えて,賢治と「ふたりだまって座ったり」,「うすい緑茶をのんだり」する慎ましい生活を夢見ていたと思われる。そして,「ふいごさん,ふいごさん」と賢治に所帯を構えるのは「まだですか。まだですか。まだまだまだまだまぁだ。」と訴えていた。しかし,賢治は,近代化が進まない「先住民」の住む後進地域や恋人が望む生活を「卑しみ」,ことさら「嘲けって」しまったと思われる。そして恋人は賢治から「逃げる」ように離れていった。

 

昭和6(1931)年頃と思われる「雨ニモマケズ手帳」に記載された文語詩〔きみにならびて野に立てば〕の下書稿には,「きみにならびて野にたてば/風きらゝかに吹ききたり/柏ばやしをとゞろかし/枯葉を雪にまろばしぬ(中略)「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」ときみは云ふ」」(宮沢,1985;下線は引用者)という語句が並ぶ。下線の部分は恋人の言葉であろう。この「風」は「近代化」という意味もあるが「近親者達が結婚に反対している様」も意味している。「山のみ見る」の「山」とは「みんなのさいはひ」のことを言っているのであろう。

 

すなわち,童話『よく利く薬とえらい薬』は「みんなのさいはひ」に導く「宗教と科学」がメインテーマとなっているが,「二人のさいはひ」よりも「みんなのさいはひ」(あるいはそれに導く宗教と科学)を重視したことが原因の1つとなって賢治の恋が破局したことも併せて描写されている。

 

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まとめ

(1)童話『よく利く薬とえらい薬』は,〈清夫〉と〈大三〉の二人が「森」の中で不思議な「透き通ったばらの実」を探す物語であるが,読み手にそれが何を意味しているのか読み解かせる物語でもある。主人公の〈清夫〉が「森」の中で見つけた「透き通ったばらの実」の正体は,「みんなのさいはひ」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことである。一方,〈大三〉が手に入れたかった「透き通ったばらの実」は「自分をさいはひ」にさせる手段としての「科学」のことである。この童話は,比喩の文学であり,「宗教」と「科学」に対する賢治の考え方が語られている。

 

(2)物語には植物として「ばらの実」以外に「葦」,「かやの木」,「唐檜」,「青いどんぐり」,「栗の木の皮」が登場するが,これら植物の登場する意味を解析することによって「透き通ったばらの実」の正体が明らかになる(第1表,第2表)。

 

(3)カケスが〈清夫〉の足下に落とす「青いどんぐり」は信号機の青と同じで「進め」の意味である。この先に「緑(青)の草原」が待っている。

 

(4)〈清夫〉が「明地」で母のために採取していた「ばらの実」は「キイチゴの実」である。しかし,一生懸命に採取していると疲れてしまい幻影の中で「透き通るばらの実」に変貌する。この「透き通ったばらの実」が見つかる場所は「森」すなわち「まっ黒なかやの木や唐檜」に囲まれた「小さな円い緑の草原の縁」である。「まっ黒なかやの木」や「唐檜」は,神聖な樹木であり,解剖学的に言えば「睫毛」がイメージされている。これら神聖な「森(睫毛)」に囲まれた「小さな円い緑の草原の縁」は眼球の「茶色の虹彩」のことである。

 

(5)〈清夫〉が幻影の中で見た「透き通ったばらの実」は,賢治が中学時代に読んだエマソンの『自然(Nature)』という著書の中の「透明な眼球(transparent eye-ball)=神」をヒントにしている。すなわち,〈清夫〉が見た「茶色いキイチゴの実」は「茶色の虹彩を持つ眼球」→エマソンの「透明な眼球」→「神」→「如来」→「法華経」とイメージされていく。

 

(6)〈大三〉は100人で「透き通ったばらの実」を探すが,信仰心を失った者達には見つからない。

 

(7)カケスが〈大三〉の足下に落とす「栗の木の皮」は「クリの実」にある赤い「鬼皮」である。信号機の「赤」と同じで,この先に進むと危険ということを示している。

 

(8)〈大三〉は錬金術(化学)の知識を用い,「空地」で採取した「ノイバラの実」にガラスと水銀と塩酸を加えて透明にしようとする。しかし,加熱した「るつぼ」の中で「ノイバラの実」は消失し,添加物がお互いに反応して「酸化水銀(赤)」を経たのち「透明な昇汞(有毒)」を作ってしまう。「透明な昇汞」は「有害でもある科学」がイメージされている。

 

(9)物語を手短に要約すれば,「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い」ということである。また,「よく利く薬とえらい薬」という題名は,「みんなをさいはひ」を希求する「宗教」と慢心になり利用を間違えると危険なものになる「科学」という意味を含んでいる(「よく利く薬」は「宗教」で「えらい薬」は「科学」)。

 

(10)物語に登場する「葦」は『古事記』などの記紀にある「葦原中国」の「葦」がイメージされている。「よしきり」が行き来する「葦」の生えている「水溜まり」や「沼」は「先住民」の生活の場を現している。

 

(11)この物語には賢治の破局した恋愛体験が挿入されている。「透き通ったばらの実」は「先住民」と思われる恋人の茶色い「涙に濡れた眼球」(tearful eye)でもある。賢治は,「恋人のさいはひ」よりも「みんなのさいはひ」を重視しために大切な恋人を失った。

 

引用文献

 

赤田秀子・杉浦嘉雄・中谷俊雄.1998.賢治鳥類学.新曜社.

馬場悠男.2017.縄文人に学ぶ~顎の退縮による障害を防ぐには.日健医誌.26(2):55-58.

浜垣誠司.2009(更新年).宮沢賢治の詩の世界 花巻第五日.2021.1.15.(調べた日付).https://ihatov.cc/blog/archives/2009/09/post_654.htm

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

金田一京助.2004.古代蝦夷(えみし)とアイヌ.平凡社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1990.野の教師 宮沢賢治.日本図書センター.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

筒井久美子.2018.宮沢賢治・しくじりの軌跡と構造-同行する媒介者をめぐる社会学的探求-.立教大学大学院博士論文.

和鋼博物館.2015(更新年).鞴(ふいご・吹子)2021.2.2.(調べた日付).http://www.wakou-museum.gr.jp/spot5/

 

植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(3)

 

3.宗教と科学に対する賢治の思い

童話『よく利く薬とえらい薬』は「宗教と科学」について,賢治がどのように考えているのかが記載されているように思える。この物語を手短に要約すれば,『農民芸術概論綱要』(1926年頃)にある「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い・・・そして明日に関して何等の希望を与へぬ いま宗教は気休めと宣伝 地獄・・・いまやわれらは新に正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ」ということである。

 

この文章の「宗教は疲れて」とは当時の退廃堕落した宗教界のことを述べている。例えば,賢治は1920年に日蓮主義を唱える田中智学の「国柱会」に入会しているが,物語を執筆している頃にはこの組織とは一定の距離を置くようになる。また賢治は当時,浄土真宗本願寺派の宗主の大谷光瑞を痛烈に批判している。大谷光瑞は1902~1914年に大谷探検隊を組織して中央アジアで仏典原典(梵語)の収集などを試みたりしていたが,1908年に六甲山麓に贅を極めた二楽荘を建設したり,本願寺に関する疑獄事件(1914年)を突発させたりもした。『農民芸術の興隆』には「よくその人の声を聞け 偽の語をかぎつけよ 大谷光瑞云ふ 自ら称して思想家なりといふ 人たれか思想を有せざるものあらんや」とある。賢治は〈大三〉に田中智学や大谷光瑞を重ねていたのかもしれない。〈大三〉は100人で探しても「透き通ったばらの実」を見つけることはできなかった。〈大三〉に自分自身をも重ねていることについては後述する。

 

「明日に何等の希望を与へぬ」とは,物語の中の言葉で言えば「ばらの実」を「一生けん命にあつめましたが・・・いつまで経っても籠の底がかくれません」で表現されていると思われる。

 

また,高瀬露宛てに出した書簡[252c](1929)下書には,別の角度から本童話の内容に添う「信仰」と「科学」についての考え方が述べられている。

 

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「宇宙意志」とは,超越主義者エマソンの「大霊(Over-sole)」に似た概念で,既存宗教の「神」とか「仏」とかではなく,それらを超越した「ほんたうの神」あるいは「絶対的真理」のことを言っていると思われる。賢治には,この宇宙を統一している「宇宙意志」によってあらゆる生物は段階的にではあるが究極の幸福へ向かうと信じられている。しかし,人々は賢治の思いを嘲るように「宗教」から離れ「科学」を信仰するようになった。科学技術の恩恵を受けて人類は物質的な豊かさを獲得したが,この豊かさは「偶然」と「盲目(衝動)」によって築き上げられたもので,いずれ破綻するかもしれないという危険性を伴うものであった。

 

手紙の中で賢治は,「みんなをさいはひ」にするには「宗教」と「科学」の両方が必要だと考えているが,どちらを選ぶかと問われれば,「科学」に偶然盲目的なところがあることから「宗教」を選ぶと述べている。しかし,賢治は「科学」を軽視してはいない。農学校を退職した頃には科学の危険性を回避する方法も模索し始めていた。「生徒諸君に寄せる」(1927)という詩で「衝動のやうにさへ行はれる/すべての農業労働を冷く透明な解析によって/その藍いろの影といっしょに/舞踏の範囲にまで高めよ」,また「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴らしく美しい構成に変へよ」(下線は引用者)と述べている。さらに,1924年から書き始めて未完に終わった童話『銀河鉄道の夜』では「宗教と科学の一致」を主要なテーマにしていた(石井,2020)。

 

「宗教と科学の一致」は賢治思想の到達点であり,本作品はそこに繋げていく重要な作品である。次編では,「葦」が物語に登場する意味を解明することによって,この童話に教師時代の賢治の恋物語が挿入されていることを明らかにする。

(続く)

 

引用文献

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.人植関係学誌.19(2):19-28.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

 

植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(2)

 

前報では,〈清夫〉が幻影の中で見た「透き通ったばらの実」の正体が,「みんなのさいはひ」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことであることを明らかにした。本編では,童話『よく利く薬とえらい薬』や同時期の他の作品に登場する植物を読み解くことによって,〈大三〉が作ろうとした「透き通ったばらの実」の正体を明らかにする。

 

2.大三が手に入れようとした「透き通ったばらの実」の正体 

〈大三〉は仏教で言うところの三毒(「貪(とん)」・「瞋(じん)」・「癡(ち)」)に侵されている。彼は,肥満で倦怠感や息切れの症状があり苦しんでいた。医者は,彼の症状が食べ過ぎによる肥満(貪に相当)によって生じていると判断して,彼に食事の量を減らすように忠告する。しかし,〈大三〉はその忠告を聞き入れない(瞋に相当)。逆に「むかしは脚気などでも米の中に毒があるためだから米さへ食はなけぁなほるって云ったもんだが今はどうだ,それはビタミンといふものがたべものの中に足りない為だとかう云ふんだらう,お前たちは医者ならそんなこと位知ってさうなもんだ」と言って医者を「いじめ」てしまう(癡に相当)。

〈大三〉は倦怠感や息切れを治して「もっと物を沢山おいしくたべれる」ような「薬」を探していた。そんなときに〈清夫〉の「透き通ったばらの実」の話を聞いて,それを森の中で探そうとする。 

 

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しかし,〈大三〉は100人で探しても「透き通ったばらの実」を見つけることができない。多分,信仰心のないものには「透き通ったばらの実」は見つけられないということだと思う。そんなとき,カケスが〈大三〉の足下に「栗の木の皮」を一切れ落とす。

 

1)カケスが落とした栗の木の皮とは何を意味しているのか

カケスの〈清夫〉と〈大三〉に対してとった行動にはどんな意味が込められているのだろうか。カケス(カラス属)はハト程度の大きさの鳥で,主に昆虫などを捕まえて食べるが「クリ」などの果実も食べる。〈大三〉に落とした「栗の木の皮」とは樹皮ではなく「クリの実」にある「赤茶色」の「鬼皮」のことだと思われる。通常,「クリ」は秋(9 - 10月頃)に実が赤茶色に成熟すると,いがのある殻斗が4分割に裂開して,中から堅い実が現れる。カケスはこの実を取って中の種の部分だけを食べて残りの赤茶色の「鬼皮」(果実に相当)を〈大三〉に落としたと思われる。

 

カケスが「クリの実の鬼皮」と「ドングリ」を落とした理由にはそれぞれの果実の色が関係していると思われる。賢治が原稿に手を加えていたと思われる大正11年(1921)と12年には青(緑)と赤の二つの板に「進メ」と「止レ」を記載した「信号標板」や「交通整理器」(現在の信号機の原型)が考案され,東京の主要交差点で使用されるようになっていた(KAWASAKI,2017)。賢治は,1921年に半年ほど上京しているのでこれら信号機を見ているはずである。多分,これをヒントにしたと思われる。カケスが〈清夫〉には「進メ」すなわち一生懸命に探せと合図している。そして,青い草原の縁で「透き通ったばらの実」を見つけることになる。また〈大三〉には「止レ」すなわちこれ以上探すのは危険だから止めろと合図している。あたかもカケスは,〈大三〉の行く先には危険があるのを予期しているかのようである。

 

2)大三が集めたばらの実はノイバラの実のことか

カケスが落とした「栗の木の皮」の色から,〈大三〉が「透き通ったばらの実」を探していた時期は秋頃と思われる。「モミジイチゴ」,「クマイチゴ」,「ナワシロイチゴ」などの「キイチゴ」が熟成するのは主に初夏だから,〈大三〉は「キイチゴ」の熟成した果実は見つけられなかったと思われる。多分,〈大三〉が集めた「ばらの実」は秋に赤く熟す「ノイバラの実」と思われる。

 

「ノイバラ」(野茨;Rosa multiflora Thunb.)は,日本の山地に自生するバラ科バラ属の落葉性低木である。日本の代表的な野バラである。赤い果実あるいは偽果(生薬名は営実;エイジツ)は,主に瀉下薬として便秘に使われる。煎液が人に瀉下効果を示すことは科学的に証明されている。利尿効果もある。我が国では日本薬局方に収載されている「医薬品」である(厚生労働省,2011)。医者が「営実」を処方することはないが,薬局で販売する家庭用便秘薬の中に配合されている。瀉下作用を示す成分はフラボン配糖体のmultiflorin Aである。

 

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中国では,『神農本草経』に「営実。・・・味酸温。生川谷。治瘍疽悪瘡。結肉跌筋。敗瘍熱気。陰蝕不疹。利関節。」(瘍疽は腫れ物のこと)とあるように,古くから主として皮膚病の治療薬や利水薬として用いられてきた。日本と中国で「営実」の効能が異なるのは「ノイバラ」の基源種が異なるからとも言われている。

〈大三〉は東洋医学的には実証タイプの肥満と思われる。肥満に便秘が関係しているかどうかは定かではないが,〈大三〉が便秘で苦しんでいるなら瀉下薬の「営実」は有用な薬物になるかもしれない。

 

しかし,〈大三〉は不透明な「ノイバラの実」では自分の「倦怠感」や「息切れ」は治らないと思ったようである。〈清夫〉は「キイチゴの実」を「宗教(信仰心)」の力で「透明」にしたが,〈大三〉は「化学(科学)」の力で「ノイバラの実」を「透明」にしようとする。

 

3)透き通るとは何か   

一般に,対象とするものが可視光で透き通っているためには,その対象物内に(1)光を吸収する物質がないこと,(2)光の散乱を誘発する屈折率の異なる物質や局所的な密度(分子の分布)の偏りがないこと,(3)対象物の表面が平滑で光が乱反射しないことなどが必要である。この3つの条件の1つが欠けても透明性は著しく低下する(宮田,1979)。

 

植物の花,茎,葉,果実,根のほとんどは不透明である。花や果実には色もある。可視光線が当たって果実が赤く見えるのは,赤以外の光を果皮の色素が吸収するからである。植物は沢山の細胞から構成されている。また,細胞は細胞膜や細胞壁などの屈折率の異なる種々の構造物からできている。細胞質の屈折率は約1.35で,細胞壁は1.42,細胞膜は1.46~1.60である。細胞内の異なる屈折率を持つ構造物に光が通過すると,その境界面で光は屈折あるいは反射する。だから照射した光は植物を構成する細胞を通過するごとに屈折・反射してしまい,植物の体を真っ直ぐに通過することができない。

透明にするには,植物に含まれる色素やタンパク質を取り除き,屈折率の高い溶媒(1.43の抱水クロラールなど)を細胞質と入れ替えて植物体内の種々の構造物の屈折率を均一化する必要がある。

 

生体を丸ごと透明にする技術は,賢治の生きた時代にすでに知られていた。ドイツの解剖学者シュパルテホルツ(Spalteholz,W.;1861~1940)が1914年にベンジルアルコール(屈折率1.53)と組織透過促進剤サリチル酸メチルを使って動物組織を透明化する方法を開発している(久野ら,2015)。以後,世界中で様々な透明化試薬を使った技術が開発されている。最近では「丸ごとの植物」の観察したい構造にのみ目印をつけ,それ以外を透明化する技術も開発されている(栗原,2016)。 

 

4)大三が造ろうとしたもの

〈大三〉が「ばらの実(エイジツ)」を透き通らせるために使ったものは,液体の透明化試薬ではなく固体のガラスと触媒としての水銀と塩酸である。賢治は当時の液体の透明化試薬を知っていたかどうか定かではないが,〈大三〉を近代以前の化学である「錬金術」の知識を有する者として登場させている。

 

「錬金術」とは,鉛などの卑金属から人工的に貴金属の金を作りだそうとする試みである。「錬金術」の起源は古くは古代のエジプトやギリシャの時代まで遡る。エジプトでは紀元前に,金,銀,銅,錫,鉄,鉛,水銀の7種の金属が知られていた。また,ギリシャではこれら金属が4つの元素(土,空気,火,水)の混合物であり,ある金属は他の金属へと変換可能であると考えられていた。

 

錬金術師達は,卑金属を金に変える際の触媒になる物質,すなわち「賢者の石(philosophers’ stone)」があると考え,その発見を目指していた。そして,その有力候補に挙がったのが「水銀」である。「賢者の石」は西洋では「赤い石」であることが多い。「水銀」を含有する「硫黄」(辰砂;HgS)は赤色だが,空気中で加熱(約600℃)すると銀色の水銀単体になる。水銀は空気中で加熱(約350℃)すると辰砂に戻ったかのように再び赤色に戻る(実際は酸化水銀ができている)。酸化水銀はさらに温度を上げて加熱(約450℃)すると水銀に戻る。すなわち,古代人は「水銀」を使えば,ある物質の性質を別の性質のものに変えることが可能と考えたようである(嶋澤,2005)。また,錬金術師達の中には,金属の変換可能性を自然界の全ての物質に当てはめて,不透明なものを水のような透明な物質にすることを考えていた者もいたかもしれない。 

 

〈大三〉は「ノイバラの実」を透き通らせば「もっと物を沢山おいしくたべれる」ような「薬」になると信じたと思われる。〈大三〉は「透き通ったばらの実」の話を「偶然」に知り,そして「衝動的」に古の錬金術師の技術を使って「透き通ったばらの実」を人工的に作ろうとした。〈大三〉は,「賢者の石」としての「水銀」を使って「ノイバラの実」の細胞内液を透明で屈折率の高い「ガラス」に置換しようとしたのだと思われる。しかし,結果的には毒物である昇汞(塩化第二水銀)を作ってしまう。塩化第二水銀は水溶性の無色あるいは白色の針状結晶である。〈大三〉はこれを「透き通ったばらの実」と思い込んだようである。水に溶かして飲んで死んでしまう。

 

「ノイバラの実」が「るつぼ」の中でどうなったかは記載がないので分からない。「ノイバラの実」は,昇汞(塩化第二水銀)ができる加熱温度から推定すれば,「ノイバラの実」の固形成分(ほとんどが炭水化物)は炭化して灰になり,大部分の水分は蒸発したものと思われる。〈大三〉が合成してしまった塩化第二水銀(HgCl2)は,赤色の酸化水銀HgOと塩酸が反応してできたものと思われる。また,酸化水銀は前述したように空気中で水銀を加熱すればできる。反応式は,2Hg+O2→2HgO,HgO+2HCl→HgCl2である。

 

5)予知された危険

〈大三〉が造ろうとした物を,単なる絵空事や妄想として片付けることはできない。同様なことが現実社会で起きてしまったからである。賢治が童話『よく利く薬とえらい薬』を執筆していた時は,電気が全国的に普及していた頃で,余剰電力処理のために電気化学工業(カーバイド工業など)が起こっていた。「東北」は水源に恵まれ豊富な電力と北上山地の石灰岩(生石灰の原料)および安い労働力が確保できるなどのカーバイド工場に適した立地条件を備えていた。花巻周辺でも岩手軽便鉄道(後のJR東日本釜石線)の岩根橋駅付近でカーバイド工場,合金精錬所,製鉄所などが立ち並び,急速に工業化が進んでいた。この工場群に供給している電力は猿ヶ石川に設けられた岩根橋発電所(1918年操業開始)や黄金山発電所(1920年創業開始)によるものである(渡辺,1973;なんでもインファ,2020)。賢治もこの工場群に足を運び岩根橋発電所詩群とも言われている沢山の詩を残している。

 

カーバイド(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)は,生石灰(酸化カルシウム;CaO)とコークス(C)の混合物を電気炉で加熱することによって作られる。カーバイドは1862年にドイツの化学者ヴェーラー( Wöhler,F.;1800 ~1882)によって初めて合成され,1892年にカナダ人の化学者ウイルソン(Willson,T.;1860 ~1915) によって工業化がなされた。カーバイドは,普通の燃料の燃焼では容易に合成することはできない。反応を容易にするためには,グラファイト電極を備えた電気炉で約2000℃に加熱することが必要である。

 

カーバイドは窒素と反応させると肥料や農薬としてのカルシウムシアナミド(石灰窒素)になる。またカーバイドは水と反応するとアセチレン(C2H2)になる。アセチレンからはアセトアルデヒド・酢酸・塩化ビニル(重合体はポリ塩化ビニル)などができる。ポリ塩化ビニルとは「合成樹脂(プラスチック)」の1つであり,アセトアルデヒドは「プラスチック」の可塑剤の原料として使われる。

 

「プラスチック」は1930年代から工業化が進み,20世紀後半には生活になくてはならない存在にまでなった。プラスチック製品の中には〈大三〉が手に入れたいものが沢山あるはずである。しかし,20世紀後半に有毒物質・メチル水銀((CH32Hg,CH3HgX;X=Cl,OHなど)を原因とする大公害事件が起きる。

 

メチル水銀は,アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み「賢者の石」ともいえる水銀触媒下に水と反応させてアセトアルデヒドを合成する過程で出来てしまった。メチル水銀は当時回収されることなく工場廃液として海に捨てられた。流出したメチル水銀は魚介類に取り込まれて濃縮され,それを食べた人間あるいは動物が水俣病を発症した。水俣病資料館(2021)の資料によれば,2020年4月30日現在,認定患者数は2283名(そのうちの死者1961名)である。

 

人間は「偶然」に発見・発明したカーバイド合成法や工業化技術を用いて,また10年先,100年先に生じる事態を予見せず(衝動的)に「透き通ったばらの実」とも言えるカーバイドを大量生産した。そして,カーバイドから農薬や農業用肥料を生産し,さらには現在の「プラスチック文明」の礎を築いていった。しかし,同時に水俣病という悲惨な公害や多量のプラスチックゴミを発生させることにもなった。もしも,ヴェーラーらの化学者の発見・発明がなかったなら,今日の「プラスチック文明」は起こらずに別の文明となっていたかもしれない。これは,電気化学工業に限ったことではない。交通事故との闘いでもあった自動車工業や原発事故を引き起こした原子力工業においても同様である。

 

すなわち,〈大三〉が手に入れたかった「透き通ったばらの実」の「正体」は,「自分」を「さいはひ」にさせる手段としての「科学の力」である。(続く)

 

引用文献

久野 朗広・洲崎 悦生・田井中 一貴・上田 泰己.2015.マウス全脳・全身を透明化 し1細胞解像度で観察する新技術を開発―アミノアルコールを含む化合物カクテルと高速イメージング・画像解析を組み合わせた「CUBIC」技術を実現.生物と化学 53(11):737-740.

KAWASAKI.2017(更新年).信号小話5 そもそも信号機の定義とは?.2021.1.27.(調べた日付).http://roadkawasaki.blog36.fc2.com/blog-entry-338.html

厚生労働省.2011.第16改正日本薬局方解説書.廣川書店.東京.

栗原大輔.2016.植物を丸ごと透明化し,中まで蛍光観察する新技術を開発 細胞レベルでの固体全体の観察を目指して.化学と生物 54(11):794-796.

水俣病資料館.2020(更新年).水俣病認定申請処理状況.2021.1.29.(調べた日付).https://minamata195651.jp/list.html#3

宮田清藏.1979.透き通る.高分子 28(4):252-253.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

なんでもインフォ.2020(更新年).黄金山発電所~田瀬湖に眠る近代遺産~.2021.1.29.(調べた日付).

https://showacd.co.jp/wp-content/uploads/2020/08/info_2008.pdf

嶋澤るみ子.2005.人類は水銀をどのように利用してきたのか-科学史における水銀の役割-.化学と教育 53(3):148-150.

渡辺四郎.1973.東北地方における電気事業の展開と工業の発達-1950年以前の場合を主として-. 福島大学教育学部論集 25:17-31.

植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(1)

 

はじめに 

『よく利く薬とえらい薬』は大正10年(1921)から11年(1922)頃に書かれたとされる短編童話である。この物語は主人公である親孝行の〈清夫〉と偽金使いの〈大三〉が「透き通ったばらの実」を探す物語である。〈清夫〉は森の中で「透き通ったばらの実」を発見し,それを口にすることで視力や聴力が著しく良くなるという体験をする。さらにそれを母親に飲ませると床に伏していた母親の病気までもが治ってしまった。一方,〈大三〉は食事量を減らせという医者の忠告を聞かずに食べ続けて「だるさ」を感じていた。そこで「だるさ」を無くしてさらに旨い物をたらふく食べたいと思っていた。〈清夫〉の話を聞いた〈大三〉は「だるさ」を「透き通ったばらの実」で治そうと考え,ばらの実を森に探しに行くが見つからない。そこで〈大三〉は森で見つけた「不透明なばらの実」にガラスと水銀と塩酸を混ぜて「透明なバラの実」を作ろうとするが,意に反して有毒な昇汞を作って命を落としてしまう。

 

賢治研究家の天沢退二郎は,『宮沢賢治全集5』の解説で,この童話を「賢治童話の中ではやや軽い作品である」と紹介している(宮沢,1985)。そのせいかどうかはわからないが,この童話を真正面から取り上げる賢治研究家もほとんどいない。

 

筆者は,薬学部出身なので,「薬」を扱ったこの童話には非常に興味をもった。しかし,難解な用語がないにもかかわらず,筆者にはこの童話の真意が理解できなかった。だから逆に軽い作品とも思えなかった。例えば,薬用になる植物の果実で「透き通ったもの」を見たこともないし,バラ科の植物の果実を1つ服用しただけで視力や聴力が著しく向上したり,床に臥せっていた病人が直ぐに回復したりという事例も知らないからである。だから,賢治が「ばらの実」の効力に対して医薬品まがいの誇大表示をするとは信じられなかった。筆者の直観であるが,この「透き通ったバラの実」は治療薬の「薬(medicine)」として登場しているのではないと思われた。「透き通ったばらの実」には何か他の深い意味が隠されているように感じた。すなわち,筆者にはこの物語も難解な童話の1つであった。

 

筆者は,多くの研究者に難解と評価されている童話『銀河鉄道の夜』を自分なりに解釈するに当たって,そこに登場する植物から沢山のヒントもらった(石井,2020)。賢治作品に登場する植物は,単に風景描写として配置されているのではない。意味が取りにくい文章に遭遇したとき,その近くに配置されている植物を調べることによって解決したこともある。作品中の植物には,登場する意味が付与されている。この物語には,植物として「ばらの実」以外に「葦」,「かやの木」,「唐檜」,「青いどんぐり」,「栗の木の皮」が登場する。

 

本稿の(1)と(2)では,童話『よく利く薬とえらい薬』や同時期の他の作品に登場する植物を念入りに調べることによって,〈清夫〉が見つけた「透き通ったばらの実」と〈大三〉が作ろうとした「透き通ったばらの実」の正体を明らかにし,(3)では宗教と科学に対する賢治の思想について考察し,(4)ではこの童話に教師時代の賢治の恋物語が〈清夫〉と〈よしきり〉の会話の中に挿入されていることを明らかにする。

 

1. 清夫が見つけた「透き通ったばらの実」の正体

1)ばらの実が「キイチゴ」である可能性について

主人公の清夫は,病気の母に「ばらの実」を食べさせたくて毎日のように森に行っていたので,「ばらの実」がなかなか見つからない。森のツグミ,フクロウ,カケス,ヨシキリから繰り返し「ばらの実まだありますか」という挨拶を受ける。そして,森の中のまっ黒なかやの木や唐檜に囲まれた「明地」(小さな円い緑の草原)の「縁」で不思議な「ばらの実」を見つける。 

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 〈清夫〉が森で見つけた「バラ」とはどんな植物であろうか。物語では見つかった場所がまっ黒なかやの木や唐檜で囲まれた小さな円い緑の草原の縁にあることと,その実が日の光で紫色に焦げるとしか記載されていない。野生の「バラ」は,我が国では「ノイバラ」( バラ科バラ属;Rosa multiflora Thunb. )が一般的であるが,賢治が「野ばら」と表現すると「ノイバラ」だけでなくバラ科のキイチゴ属の「キイチゴ(木苺)」を示すことがある。

 

例えば,賢治の『春と修羅』の中の詩「習作」には,「野ばらが咲いてゐる 白い花/秋には熟したいちごにもなり/硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ」(1922.5.14)とある。この「キイチゴ」は,我が国でごく普通に見られる「モミジイチゴ」(Rubus palmatus Thunb.var. coptophyllus ( A.Gray) Kuntze ex Koidz.))のようなものである。「モミジイチゴ」の果実は透き通ってはいないが球形で「ガラス」のように透明感のある茶色あるいはオレンジ色をしている。また,「キイチゴ」は日当たりの良い場所を好む。多分,〈清夫〉が「明地」で最初に見つけた「ばらの実」は「モミジイチゴ」あるいはその類縁種のような透明感のある「キイチゴ」と思われる。

 

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 では,〈清夫〉が「すっかりつかれてしまって,ぼんやり」した中で見た「透き通ったばらの実」とは何であろうか。透明感のある「キイチゴ」の中でも飛び抜けて透明度の高いものなのであろうか。〈清夫〉はこの「透き通ったばらの実」を口にすると体がブルブルッと震えてすがすがしい気分になる。また病気の母も回復してしまう。「透き通ったばらの実」の正体は,題名に「よく利く薬」とあるように「薬」と関係があるかもしれない。そこで,「キイチゴ」にどんな薬効が期待できるのか調べてみる。

 

2)「キイチゴ」や「透き通ったばらの実」は「よく利く薬」になるのか

「キイチゴ」の実は糖分(ブドウ糖と果糖)を多く含み甘く食用になるが,「薬」としても利用されている。古くは中国の『名医別録』に「覆盆子(ふくぼんし)」として登場する。『名医別録』は,漢方医学の最重要古典の一つ『神農本草経』とほぼ同時代(1〜3世紀頃)に中国で作られた,『神農本草経』と並び称される薬物書である。

 

「覆盆子」はこの薬物書の上品に「味甘平無毒主気軽身令髪不白五月採」(味甘平,無毒。気を益し,身を軽くし,髪を白くしない。五月に採集する)と記載されていて,主として老人性疾患に補薬として用 いられてきた。例えば,強壮,強精薬として,遺精(無意識の状態での射精),遺尿(尿失禁),陽痿(勃起機能障害),昏花(目のかすみ)などに使われたという(難波ら,1986;民俗薬物データベース,2020)。「覆盆子」の基源は中国では主としてバラ科のゴショイチゴ(Rubus chingii HU)の未成熟果実であるとされているが,中国では,本種 以外にモミジイチゴ,トックリイチゴ(coreanus Miq.),朝鮮半島ではクマイチゴ(R crataegifolius Bunge)やナワシロイチゴ(Rparvifolius L.)などの果実も使用するとされている(難波ら,1986)。我が国では,モミジイチゴ(別名キイチゴ),クマイチゴ,ナワシロイチゴは自生しているので,これら「キイチゴ」を食用以外に民間的に強壮薬として利用してきた(難波・御影,1982)。

 

東洋医学(中国医学や漢方療法)では,病気は人体が本来持っていなければならないものが不足したときと,人体に本来あってはならないものが有余したときに発症するとされている。前者は虚証で後者は実証である。虚証に対しては不足したものを補う補法が,実証に対しては余分なものを取り除く瀉法が行われる(會川・岡部,1997)。

 

確かに,長らく床に臥せって虚弱体質(虚証)になっている者にブドウ糖や果糖などの糖類を豊富に含む果実は栄養補給になり体力を回復させる手助けになることは確かである。しかし,治療においては補助的なものである。民間薬でしかない「キイチゴ」に短時間で病気を治してしまう力はない。また,「キイチゴ」の透明度で薬効が異なるというエビデンスも報告されていない。だから,〈清夫〉が食生活に透明度の高い「キイチゴ」を加えただけで母の病気が治り「すっかりたっしゃになる」ということは考えにくい。

 

3)「効く」と「利く」の違い

 物語の題名は「よく利く薬とえらい薬」である。〈清夫〉の見つけた「透き通ったばらの実」は「よく利く薬」で,自分は「えらい」と思っている〈大三〉が作ろうとした「ばらの実」は「えらい薬」と思われる。

 

では,この「よく利く薬」の「利く」とはどういう意味であろうか。国語事典では,「利く」とは「能力を十分に発揮できる」,「機能が働く」あるいは「できる」という意味である。

 

一方,「効く」とは「効果が現れる」である。「透き通ったばらの実」が母親の病気を治すぐらいに優れた薬効を持っているなら「よく利く薬」ではなく「よく効く薬」とする必要がある。すなわち,「透き通ったばらの実」が「よく利く薬」であるなら,「透き通ったばらの実」は医薬品としての「薬(medicine)」ではない。では「透き通ったばらの実」とは何であるのか。

 

ヒントが物語の語り手の言葉の中に隠されている。語り手は,「ばらの実」について「その話はだんだんひろまりました。あっちでもこっちでも、その不思議なばらの実について評判してゐました。大かたそれは神様が清夫にお授けになったもんだらうといふのでした。」(下線は引用者)と語っている。すなわち,母の病気が治ったのは人間を「超越」した存在の仕業によるものかもしれないと記している。しかし,この物語には「神」のような存在についての直接的な手がかりはない。そこで,「キイチゴも実」が物語に登場する意味を解明することで,語り手の真意を検証してみたい。  

 

4)「透き通ったばらの実」は眼球のメタファー

茶色の「透き通ったバラの実」は,「まっ黒なかやの木や唐檜に囲まれ」た「小さな円い緑の草原の縁」で見つかる。「かやの木」は童話『どんぐりと山猫』にも登場する。この童話では「まっ黒な榧の木の森」で囲まれた金色の草地という不思議な空間で「どんぐり」の中で誰が一番「えらい」のかを決める裁判が行われる。「かやの木」はイチイ科の常緑針葉樹「カヤ(榧)」(Torreya nucifera (L.) Siebold et Zucc.)のことであろう。『新宮澤賢治語彙辞典』には,暗い「榧」の茂みは「神秘的で異界のシンボルのようである」と記載されている(原,1999)。

 

多分,暗い「唐檜」の茂みにも同じようなイメージがあると思われる。「唐檜」はマツ科の常緑針葉樹「ドイツトウヒ」(Picea abies (L.) Karst.)と思われる。ドイツの「黒い森」(シュヴァルツヴァルト)の主要樹種の1つである。賢治が大正6年(1917年)に作った歌稿には「わがうるはしき/ドイツとうひは/とり行きて/ケンタウル祭の聖木とせん」とある。賢治は「ドイツトウヒ」を神聖な樹木と見なしている。「かやの木」も「唐檜」も異界のシンボルとなる聖樹である。

すなわち,「まっ黒なかやの木や唐檜」に囲まれた場所は「異界」であるとともに「神聖」な場所として設定されているように思える。

 

また,茶色の「透き通ったばらの実」が「円い緑の草原の縁」にあることから,賢治がこの「ばらの実」を人体の「目」と関連付させていることも読み取れる(第1図)。針葉樹の「まっ黒なかやの木や唐檜」は「睫毛(まつげ)」に,「かやの木や唐檜」の脚もとにある茶色の実が成る「野ばらの茂み」は,「円い草原」の縁を形成しているので茶色い「虹彩」に対応している。森の中の「葦(あし)」が生えている小さな水溜まりにいる「よしきり」という鳥は,「さっきから一生けん命歌ってゐる」とあるように「泣いて」いる。この小さな水溜まりは瞼の鼻側の目頭のところにある涙点(涙の排出口)に繋がる「涙嚢」に対応する。また,「よしきり」はしきりに「林」の向こうの「沼」へ行こうとしているが,「林」を「睫毛」の比喩とすれば,その向こうの「沼」は上眼瞼の外側部(目尻)にある「涙腺」がイメージされている(第1図)。

 

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賢治にとって茶色で透明感のある「キイチゴの実」は,茶色な虹彩を持つ円い「聖」なる「眼(眼球)」がイメージされているように思える。

 

5)「透き通ったばらの実」はある女性の眼も連想させる

なぜ賢治は「キイチゴの実」や「透き通ったばらの実」を「眼」と関係付けさせたのか。それは,茶色な「キイチゴの実」が賢治に女性の「眼」を連想させるからである。賢治は,童話『よく利く薬とえらい薬』(1921~1922)を執筆していた頃に地元の女性と相思相愛の恋をしている(佐藤,1984;澤口,2018)。詩集『春と修羅』の「春光呪詛」はその恋人を詠ったものとされていて,その中に「いつたいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかつてゐるか/髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ・・・/頬がうすあかく瞳の茶いろ/ただそれつきりのことだ」(下線は引用者)と,恋人の「瞳(虹彩)」の色が「茶色」だとする記載がある。「虹彩」の色を識別するには肌が触れ合うくらいに接近する必要がある。親密さが伺われる。日本人の「虹彩」の色は「焦げ茶色(濃い茶色)」,いわゆる「黒目」が多く,賢治にとって「茶色」は珍しかったのかもしれない。

 

賢治の羅須地人協会時代(1926年8月に設立)に使用した「MEMO FLORA」ノート32頁に「Tearful eye」(涙ぐむ目)という目(眼)を象(かたど)った花壇設計のスケッチ図(文字は英語)を残している(第2図;スケッチの模写図)。多分,この「涙ぐむ目」とは後述するが恋人の目がイメージされていると思われる。

 

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物を見るとき光は「虹彩」の内側にある瞳孔から眼球内に入って来る。光は透明な角膜,凸レンズ状の水晶体そして眼球内部の大部分を占める硝子体を通過して網膜の視細胞へ到達する。すなわち,「眼球」のほとんどの部分が無色透明である。賢治は,透明感のある茶色い「キイチゴの実」から頭に強烈に焼き付いている恋人の「眼球」が,またその逆である「眼球」から「キイチゴの実」が容易に連想できるのだと思われる。

 

さらに,幻臭などの幻覚を体験できる特異体質の賢治にとっては,茶色い眼の恋人を「気配」で感じただけでも「野ばら(キイチゴ)」の匂いを感じることができたかもしれない。恋人→茶色い虹彩の眼球→野ばら(キイチゴ)の実というイメージ連鎖は童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の中で表現されている。以下の引用場面は,氷山と衝突して遭難したキリスト教徒の人達(青年,女の子,男の子)が銀河鉄道の列車に乗ってくるところである。〈女の子〉には賢治の恋人が投影されている(石井,2018)。

 

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多分,この『銀河鉄道の夜』に登場する「野茨」も「野ばら(キイチゴ)」のことであろう。すなわち,賢治は『銀河鉄道の夜』の主人公達が,「つやつやした赤いジャケツ」の〈男の子〉と「眼が茶いろ」の〈女の子〉が近づいていることを気配として感じ,赤い「苹果」や茶色い「野茨(実際は木苺)」の匂いを感じたという設定にしたように思える(石井,2013)。賢治が「野ばら」でなく「野茨」としたのは,キリストが処刑されたときの「茨の冠」をイメージしてのことかもしれない。「苹果」はキリスト教の原罪を象徴する。すなわち銀河鉄道の列車に乗ってくる人達はキリスト教徒であることも暗示している。多分,童話『よく利く薬とえらい薬』に登場する「野ばら」も宗教と関係があるのかもしれない。

 

6)エマソンの「透明な眼球」は普遍的な存在としての神である

19世紀米国の超越主義(transcendentalism)の創始者エマソン(Emerson,R.W.;1803~1882)の著書の中に「透明な眼球(transparent eye-ball)」についての記載がある。エマソンは,キリスト教という教派を「超越」して,何か宇宙全体を統括して支配する「神」のごとき存在を信じてそれを追求した思想家である。ヒンズー教や仏教などの東洋思想の影響を受けたとされる。賢治は中学3年(1911)頃からエマソンの哲学書を読んでいて,彼の思想を通して「法華経」,「芸術」,「詩」などの理解を深めたとも言われている(時信,1992;秋田,2005;浜垣,2021)。

 

賢治の『農民芸術概論綱要』(1926年頃)にはエマソンが著書(「芸術論」)の中で述べた言葉がそのまま引用されている。1920年に翻訳されたエマソンの『自然論:附・エマソン詩集』で「透明な眼球」と「神」や「霊」について以下のように語っている。 

 

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筆者なりに要約してみる。人は「森の中」では社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放され,「理性と信仰」に立ち戻ることができる。そして,人は「卑しい自愛心(利己心)は消え失せ」て自分と「自然」の本来の姿を直観し得る「透明な眼球」となり,「普遍的な存在」の働きを自分の中に感じ,「私は神の一部である」と自覚するようになる。

 

 人は「森」を動物的な眼で見れば,そこに存在する者達の個々の「輪郭」や「表面」の属性から木,草,鳥,動物などと認識し新緑や紅葉が美しいと感じたりする。しかし,この「透明な眼球」,別な言葉で言えば「理性の眼」で「自然」を見れば「輪郭」や「表面」は消え失せて「透明」になり,今まで見えていた多種多様な存在の背後にある生成の「原因」(あるいは原理)としての「霊」が見えてくる。賢治の言葉を借りれば「ほんたうのこと」が見えたのであろう。

 

エマソンは人間を「自然」や宇宙を「統一」する巨大な霊である「大霊(Over-soul)」すなわち「普遍的な存在」である「神」とつなぐことができる存在と見なしていた。

 

7)賢治にとって普遍的な存在とはなにか 

エマソンが「透明な眼球」から人間を超越した力を持つ存在を自覚したように,賢治も不思議な宗教体験を持っている。賢治の弟の清六は,賢治が盛岡高等農林学校へ進学するための受験勉強をしていた頃(1914年秋,賢治18歳)の兄について,「賢治は,島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』にある「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえて止まらず,この感激を後年ノートに「太陽昇る」と記していた」(下線は引用者)。と述べている(宮沢,1991)。下線部分は,〈清夫〉が「透き通ったばらの実」を口にしたときと同じである。

 

「如来寿量品」には〈如来〉の寿命の長さは無限ということと,そのことを分かりやすく説明するための「良医治子の誓え」が記載されている。

 

この譬えの中に「良薬(よく効く薬)」(括弧内は坂本・岩本の訳)が登場する。「良医治子の誓え」とは,名医が「巧妙な手段(如来が入滅したという嘘と法華経を良薬と偽った嘘)」を使って毒を飲んで苦しんでいる子供達を「よく効く薬」で助ける話である。「学識があって賢明であり,あらゆる病気の治療に優れた手腕のある医者には,大勢の子供がいた。この名医が外国に行って留守の間に,子供達は毒のために苦しんでいた。そこに父親の医者が帰ってきて,直ちに「良く効く薬」を調合して与えた。子供達のうち,意識の転倒していない者は直ちにその薬を飲んで苦しみから解放されたが,毒が回って意識の転倒している子供は,「良く効く薬」を見ても疑って飲もうとしなかった。そこで名医は巧妙な手段を使って「我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。」(下線は引用者;私は老いて死期が近い。ここに良く効く薬を置いておくから飲みなさい。治らないと疑ってはいけない)と言い残して他国に行き,使者を遣わして「父は死んだ」と伝えさせた。意識の転倒していた子供達は,父の死を聞いて頼る人がいない身の上になったことを嘆き悲しみ,意識を取り戻し,ついに良く効く薬を飲んで苦しみから解放された。そこで良医は子供達が苦しみから解放されたことを知って,自分の姿を現した」(坂本・岩本,1967)という譬(喩)え話である。

 

「喩え」とあるので本意が隠されている。引用箇所の「是好良薬」とは「法華経」のことで「汝可取服」とは「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることと言われている。日蓮宗の宗祖・日蓮の主著『観心本尊抄』には,「是好良薬」とは「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」と記載されている。日蓮は「良薬」とは「南無妙法蓮華経」のことであり,「取服」とは「唱える」ことであると解釈した。

 

日蓮を信奉した賢治も「良薬」を「南無妙法蓮華経」のことだと理解していたと思う。ちなみに,「良医」とは「仏(如来)」で,「毒」で苦しむ子供達とは「衆生」である。また,「毒」とは三毒のことで,仏教において克服すべき最も根本的な三つの煩悩,すなわち「貪(とん)」・「瞋(じん)」・「癡(ち)」を指す。「貪」とは必要以上に求める心で,「瞋」は怒りの心で,「癡」は心理に対する無知の心である。

 

仏教では,これら三毒が人間の諸悪・苦しみの根源とされている。また,「巧妙な手段」とは如来が入滅したという嘘と法華経を良薬と偽った嘘のことである。すなわち,人間は煩悩を捨てきれずに苦しむ存在であり,いつでも如来の力を必要としている。人間が如来の寿命が永遠であると知ってしまうと怠惰になり信仰心が薄れてしまう。また法華経を勧めても,難解で多大な労力を必要とするからといって敬遠されてしまう。だから如来の寿命は永遠であるとしながらも入滅したと言ったり,良薬だからと嘘をついたりしたというのである。苦しい時には誰もがとは言わないが多くの者達は摂取するだけで楽になれる「薬」をほしがるものである。社会問題ともなっている麻薬や覚醒剤の薬物乱用はこれを物語っている。

 

すなわち,「如来寿量品」にある「良薬」は病気治療に使う「医薬品」のことではない。同様に,童話『よく利く薬とえらい薬』に登場する「透き通ったばらの実」も医薬品ではなく「法華経」の暗喩であろう。〈清夫〉は森の中の「明地」で宇宙の根源(あるいは真理)とされる「大日如来」の存在を感じ取ったのであろう。森の中で「大日如来」は信仰心を強く持っている〈清夫〉に「透き通ったばらの実(=法華経)」を見せて,これで母の苦しみを解放するように伝えた。そこで〈清夫〉は家に帰って「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」を読経したのだと思う。

 

「大日如来」は,曼荼羅図として有名な「胎蔵曼荼羅」の中心に配置されている。「大日」は「偉大なる太陽」という意味である。「大日如来」の化身とされるのが青い「不動明王」である。賢治は「あき地」を「明地」と「空地」の漢字を使って使い分けている。「明地」という造語はこの「明王」の「明」をヒントにしたのかもしれない。曼荼羅図で「大日如来」の周りには円を描くように8体の菩薩が配置されているが,その1体である「観世音菩薩」は身体が紫金色であるとされる。まっ黒なかやの木や唐檜に囲まれた「小さな円い緑の草原」の「縁」にある「お日さまで紫色に焦げたばらの実」を「胎蔵曼荼羅」に喩えれば,「明地」の「緑(青)の草原」は「青い明王」である「大日如来」で,「紫色に焦げたばらの実」は一切衆生を救済するとされる「観世音菩薩」である。この物語で〈清夫〉を菩薩になりたかった賢治とすれば,「母」はイーハトーブの農民であろう。

 

以上のように〈清夫〉が幻影の中で見た「透き通ったばらの実」の正体は,童話『よく利く薬とえらい薬』や同時期の他の作品に登場する植物を読み解くことによって,「みんなのさいはひ」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことであることが明らかになった。次編では,〈大三〉が作ろうとした「透き通ったばらの実」の正体を明らかにする。(続く)

 

引用文献

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植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(6)

 

6.「サイカチ」には鬼神が宿る

〈許嫁〉は2回目の夢の中でも「先住民」の「神」に対して祈りを捧げるが,今度は「まっ黒で巨きなもの」が具体的な鼻眼鏡をかけた山烏の姿となって現れる。烏には耳介がないので鼻眼鏡である。眼鏡は,13世紀にイタリアで発明されたと言われているが,そのころは神の意思に背いて視力を回復する「悪魔の道具」と言われていたという。『春と修羅』第二集の「北上川は熒気をながしィ」という詩には「魔法使いの眼鏡」とい詩句も出てくる。烏の大尉は,この眼鏡をかけた山烏に殺されてしまう。この怪しい眼鏡をかけた山烏とは何物か。ヒントは〈許嫁〉が夢を見ている場所にある。〈許嫁〉は「さいかちの木」の梢の中で夢を見ている。

 

「サイカチ」(皁莢;Gleditsia Japonica Miq.)はマメ科サイカチ属の落葉高木で,川や沢沿いなどの水辺に多い。「サイカチ」の幹や枝には鋭く,長さが15cmにもおよぶ棘がある。我が国では鮮新世と洪積世から莢や葉や刺針枝の遺体が散点的に報告されている(北村・村田,1982)。「木」と「鬼」を結びつけた「槐」という漢字は,植物では「エンジュ」のことを指すが,人名では「さいかち」と読ませる場合がある。これは,「サイカチ」の棘を「鬼」の角に見立てたものと思われる。

 

「サイカチ」は,若木(100年くらい)なら至る所に,老木(300年くらい)であれば幹の上部に10cmくらいの棘がある。ネットで老木は棘がほとんど見つからないと記載しているものもある。老木になると細い枝にはまだ鋭い棘があるが幹からは棘がなくなる(あきた森作り活動サポートセンター,2020)。『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,北上川支流の豊沢川の「さいかち淵」には,樹齢数百年と言われる「サイカチ」の巨樹が数本,北側の崖下に並び立ち,辺りいっぱいに枝を広げていたと言う(原,1999)。ただし,現存していない。

 

賢治の童話に『さいかち淵』(1923年夏清書)という作品がある。後に,童話『風の又三郎』に組み込まれるものである。『さいかち淵』では,村童で少し乱暴なところがある「舜一(あだ名がしゅっこ)」と他の子供らが「さいかち淵」で「鬼っこ遊び」(鬼ごっこのようなもの)をしている。「しゅっこ」が村童の一人に馬鹿にされたのをきっかけに喧嘩になる。黒い雲も垂れ込めてきた。そのとき烈しい雨の中から「雨はざあざあ ざっこざっこ,風はしゅうしゅう しゅっこしゅっこ。」という不思議な声が聞こえてくる。この声で子供らの争いは収まるのであるが誰が叫んだのであろうか。多分,「さいかち淵」の「サイカチ」に棲む土着の神が「サイカチ」の棘(角)を付けて「鬼神」となって叫んだと思われる。童話『風の又三郎』では転校生の高田三郎がこの「しゅっこ」に変わって登場する。

 

すなわち,夢の中に登場する鼻眼鏡をかけた山烏(まっ黒な巨きなもの)は,大尉らによって繰り返される攻撃に怒って「鬼」(悪魔)となったものであろう。

 

烏の大尉に〈坂上田村麻呂〉だけでなく賢治も投影されているとすれば,賢治が「先住民」の神を怒らせるようなことをしたのかどうかも気になるところである。賢治が「先住民」の「神」を冒涜したとして「先住民」から怒りを買ったと思われる事件が詩の中に残されている。

 

賢治は,童話集『注文の多い料理店』が印刷される1か月前の1924年10月5日に地元の会合に招かれて農事講和をしたとされていて,このときの様子を詩集『春と修羅 第二集』の「産業組合青年会」(1933年『北方詩人』に投稿)という詩に記載している。賢治は,この会合で「山地の稜をひととこ砕き」,「石灰岩末の幾千車か」を得て酸性土壌を改良するという話をしたようだが,聴衆の中の老いた権威者(組合のリーダー格)から「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまう。

 

「祀られざるも神には神の身土がある」の意味は,祠で祀られていないなど,祭司されていない山や土や樹木にも,神としての身体と座(いま)す場所があるということであろう。なぜ賢治の講和内容が批判されたかについては伏線があって,賢治研究家の浜垣(2018)によれば,約2か月前に農学校で上演された『種山ヶ原の夜』という劇で,賢治が「楢の樹霊」,「樺の樹霊」,「柏の樹霊」,「雷神」という土着の神々を「滑稽(こっけい)」に,あるいは「笑い」の対象として舞台に移し登場させたことと関係があるという。劇を見たと思われる会合の聴衆(多分「先住民」の末裔)にとって,賢治の農業を発展させるための大規模な自然開発に関する講和は,農民の古くからの慣習を損なうだけでなく「神の領域への侵犯」であり,「先住民」あるいは「先住民」の信仰する土着の神(精霊)を冒涜するものと同じだったのかもしれない。実際に,神の怒りをかったのか,「雷神」を演じた生徒が次の日に災難に見舞われたという。賢治は科学者でありながら,この災難を偶然の出来事とは思っていない。

 

『春と修羅』第二集の「晴天恣意」(水沢臨時緯度観測所にて)という作品の先駆形(1924.3.25)には「古生山地の峯や尾根/盆地やすべての谷々には/おのおのにみな由緒ある樹や石塚があり/めいめいに何か鬼神が棲むと伝へられ/もしもみだりにその樹を伐り/あるひは塚を畑にひらき/乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと/さてもかういふ無風の日中/見掛けはしづかに盛りあげられた/あの玉髄の八雲のなかに/夢幻に人はつれ行かれ/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて/見えない数個の手によって/槍でづぶづぶ刺されたり/おしひしがれたりするのだと/さうあすこでは云ふのです。」(傍線は引用者)とある。

 

賢治は,自信作の学校劇が批判され,また「自然開発」と「自然保護」の間で葛藤していただけに,土着の神を劇に登場させたことに対して烈しく「後悔」することになった。同日に書かれた未定稿詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕では,『種山ヶ原の夜』の学校劇について述懐して,「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とある。すなわち,賢治は「鬼神」の出現を恐れている。

 

賢治は「先住民」の恋人と「恋」をしている時でも,「先住民」の「宗教」あるいは「文化」に敬意を払っていたのであろうか。「石灰岩」の山を切り崩し痩せた酸性土壌の土地を豊かにしようとする行為は,近代科学と合理主義に価値を置く者にとっては当たり前のことであるが,その価値を共有しない「先住民」にとっては神聖な山が切り崩されるのは屈辱と感じることもあると思われる。これは,弥生人や古代の大和朝廷が大陸から持ってきた稲作農耕文化を最高に価値あるものとして,それを狩猟民でもある「東北」や「北海道」の「先住民」に同化政策の一環として押しつけてきたのと同じ行為である。すなわち,賢治も土着の神から罰せられるような行為をしてきたのかもしれない。

 

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まとめ

(1)童話『烏の北斗七星』は反戦童話であり,この物語で扱われている戦争は,京都に都を置く大和朝廷と「東北」の「先住民」が戦った奈良・平安時代の三十八年戦争がイメージされている。これは,この物語に登場する「栗」,「杉」,「胡麻」,「馬鈴薯」がなぜ登場してくるのか読み解くことによって明らかにされた。「栗」は「蝦夷」のような狩猟採集民が利用した木であり,「杉」は弥生人の子孫である農耕民や朝廷軍が利用した木である。また義勇艦隊を形容するのに使われた「胡麻」と「馬鈴薯」は,義勇軍に渡来人がいることを暗示している。童話『烏の北斗七星』に登場する植物と物語の展開との関係は第3表にまとめた。

 

(2)主人公である烏の大尉(後に少佐)には坂上田村麻呂が投影されている。烏の大尉の戦闘前の「マヂエル様」への「祈り」は「あなたのお考のとほり」に「力いっぱいたゝかひます」という誓いの祈りである。この時の「マヂエル様」は天皇である。

 

(3)烏の大尉の戦闘修了後の「泪」は,憎んではいけなかった敵を殺してしまったことの強い「後悔」と烈しい「罪悪感」を伴った「泪」であり,敵を殺してしまった後の「マヂエル様」への「祈り」は「憎しみが生じない世の中」を願う「祈り」である。この時の「マヂエル様」は天皇ではなく「憎悪」の感情を消す能力を有するとされる観世音菩薩(観音様)である。

 

(4)烏の大尉の許嫁は敵側の山烏と同じ種族(先住民)として登場している。許嫁は山烏の文化よりも朝廷側の文化に憧れを持っている。許嫁が義勇艦隊の戦勝報告をする観兵式で流す「涙」は,同族が殺されたことへの「悲しみ」の「涙」である。

 

(5)許嫁は「さいかちの木」の梢で夢をみて「マヂエル様」と2回叫ぶ。最初の叫びは許嫁と大尉が空中から落下しているときで,許嫁が信仰している「神」に二人の幸いを願うものである。この時の「マヂエル様」は,許嫁と山烏(先住民)が信仰している「山の神」としての「熊神」(大熊座;Ursa Major)であろう。二人を落下させたものは,姿を現さないが大尉(あるいは皇軍としての義勇艦隊)に対して「疑い」と「反感」を示す山烏(「先住民」)の共同体意識(共同幻想)である。

 

(6)2回目の叫びは大尉が眼鏡をかけた山烏に夢の中で殺されるときで,このとき大尉(あるいは皇軍としての義勇艦隊)に対する山烏の反感意識は,棘のある「さいかちの木」の中で「鬼神」(魔神)となって姿を現した。

 

(7)烏の大尉に賢治自身も投影されているとすれば,戦闘終了後に流した「泪」は,天皇を中心として世界平和を構築しようとする国柱会の「天皇制国家主義」の思想に対する決別を意味している。この時点で賢治は転向したのである。

 

(8)『烏の北斗七星』に挿入されている恋物語は,「移住者」の末裔としての賢治が執筆・推敲中に実際に体験した「先住民」と思われる女性との「悲恋」を題材にしている。また,登場する「桃」や「白百合の花」は大尉に愛されている若い許嫁の比喩として使われている。烏の大尉と許嫁の恋が周囲から反対されているのは(あるいは賢治の恋の破局には),大和朝廷およびそれに続く歴代の中央政権と「東北」の「先住民(蝦夷)」の長い間の対立が深く関与していると思われる。棘のある「さいかち」は鬼となった「蝦夷」の比喩である。また,この恋は賢治に転向を促した要因の1つと思われる。

 

引用文献

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植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(5)

 

5.恋物語

1)恋物語が挿入されているのはなぜか 

賢治が童話『烏の北斗七星』に恋物語を挿入したのは,賢治自身がこの童話の初稿を書いたとされる日(1921.12.21)からこの童話が掲載されている童話集『注文の多い料理店』の印刷(1924.11.10)までの間に恋と破局を経験していたことと関係があると思われる。

 

花巻の賢治研究家である佐藤(1984)によれば,恋人は,賢治と同じ花巻出身(賢治の家の近く)で,小学校の代用教員をしていていた。二人の出会いは,大正10年(1921)十二月の賢治と友人の藤原嘉藤治が開催したレコード鑑賞会で,恋人はこの鑑賞会に参加していたという。賢治より4歳年下の背が高く色白の美人であったという。かなり熱烈な恋愛であったらしい。

 

その後,宮沢家から相手側に結婚の打診がなされ,近親者の中には,二人の結婚を予想しているものも多かったという。しかし,両家の近親者達の反対もあり1年足らずで破局し,その後相手の女性は渡米(シカゴ)していて3年後に異国の地で亡くなっている。破局の理由はよく分かっていないが,著者は,賢治が「恋」よりも「みんなのさいはひ」を重視していたことと,両者の出自の違いや,それにともなう両家あるいは近親者達の歴史的対立が背景にあったことなどが原因と推測している(石井,2018,2019)。

 

賢治が投影されている〈烏の大尉〉は戦闘の前に,〈許嫁〉に「どんなことがあるかもわからない」から,その時は「おれとの約束はすっかり消えたんだから,外へ嫁ってくれ」と話し,〈許嫁〉を「それではあたし,あんまりひどいわ,かあお,かあお,かあお,かあお」と泣かしてしまう。〈許嫁〉からすれば,「どんなことがあっても必ず帰ってくる」という言葉を期待していたと思われる。大尉にとっては,「二人のさいはひ」よりも「みんなのさいはひ」のために戦場へ行く方が重要なのである。

 

また,賢治の家(あるいは一族)の祖先は公家侍で江戸中期の天和・元禄年間に京都から花巻に下ってきたとされる,いわば「移住者」の末裔である(畑山・石,1996)。〈坂上田村麻呂〉の一族も宮沢家の祖先と類似性が見られ,数朝に渡り宮廷警護に当たっていた者達である。一方,恋人の家(あるいは一族)は少なくとも宮沢一族の祖先が花巻に移住する前から住んでいた「先住民」の末裔と思われる。

 

天皇を中心とした中央政権と東北の「先住民」との対立は,前述したように朝廷側からすれば蝦夷征討とも呼ばれ,京都に都を置いた平安時代まで続く。さらに,その対立の影響は鎌倉,江戸時代の武家中心の時代および明治維新後の賢治の生きた時代にまで及んだ(梅原,2011;高橋,2012)。だから賢治は恋の破局の一因になったと思われる両家の対立と,その対立を引き起こす要因となった賢治の家の一族と「東北」に先住土着した人達(アイヌあるいは蝦夷)の歴史的ルーツに関する違いには並々ならぬ関心を寄せたと思われる。

 

賢治の作品には,童話『ガドルフの百合』や寓話『土神ときつね』のように,この対立をテーマにしているものも少なくない。例えば,後者の『土神ときつね』(1923)は,南から来たハイネの詩を読みライツの望遠鏡を自慢するよそ者の〈きつね〉が北の外れにいる土着の〈樺の木〉に恋をして受け入れられるが,東北方面からやってくる土着の神である〈土神〉がこれに嫉妬して〈きつね〉を殺してしまう物語である。寓話『土神ときつね』の土神(鬼神となった土着の神)を鼻眼鏡の山烏に,〈きつね〉(賢治)を大尉に,樺の木(恋人)を〈烏の大尉〉の〈許嫁〉に置き換えたのが童話『烏の北斗七星』に挿入された恋物語であろう。すなわち,童話『烏の北斗七星』は,延暦13年(794)の「蝦夷征討」と賢治の「恋愛体験」を題材に創作されたものと言える。

 

2)戦いが終わった後の桃の果汁のような陽の光と白百合の花は何を意味しているのか

戦闘後に朝日が山の雪に注がれる。物語では「桃の果汁(しる)のやうな陽の光は,まづ山の雪にいっぱいに注ぎ,それからだんだん下に流れて,つひにはそこらいちめん,雪のなかに白百合の花を咲かせました」と表現している。なぜ戦闘後の陽の光(朝日)を「桃の果汁」と表現するのだろうか。桃の果汁は,ピンク色あるいは薄赤い色をしている。

 

最初に,「桃の果汁のやうな陽の光は,まづ山の雪にいっぱいに注ぎ」という現象を科学的に解説してみる。これは,夜が明けきらない早朝に,山肌が太陽の光を受けてピンク色を帯びた明るい赤色に染まる現象(朝焼け)のことで,登山用語の1つである「モルゲンロート(morugenrot)」のことであろう。太陽が地平線から昇る直後で,山と太陽の間に空気の壁が一番長い状態のときに生じる。このとき波長の短い光は空気中の水蒸気や塵で屈折してしまうが,赤色やオレンジ色などの波長の長い光は屈折せずに山に届く。だから山肌が赤色に染まる。夕焼けも同じ現象だが朝焼けの方が薄くなり,桃の果汁のようなピンク色になることがある。

 

また,太陽が昇って時間が経過すれば「モルゲンロート」は終了し,山肌や雪原は「白百合の花」が咲いたように真っ白に輝くようになる。では,なぜこの「モルゲンロートという現象」を「桃の果汁のやうな陽の光」と表現したのであろうか。またなぜ太陽光で輝く山肌の雪や雪原を「白百合の花」と表現したのであろうか。多分,この表現は烏の大尉が戦闘後に許嫁の元に無事帰還してきたことと関係がありそうである。

 

「桃の果汁」は,詩集『春と修羅』の「有明」(1922.4.13)という詩にも「桃の漿」という表現で出てくる。「起伏の雪は/あかるい桃の漿(しる)をそそがれ/青空にとけのこる月は/やさしく天に喉を鳴らし/もいちど散乱のひかりを呑む」とある。上記引用文とこの詩に共通するのは,雪で白くなった山や丘が薄赤く染まっていることである。血色が良く柔らかで豊満な女性の肌がイメージされているように思える。詩「有明」は,詩集『春と修羅』の中の「いったいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかってゐるのか/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ/(中略)/頬がうすあかく瞳の茶いろ/ただそれつきりのことだ」と歌った恋歌「春光呪詛」(1922.4.10)の次の作品として紹介されている。多分,色白だった賢治の恋人と関係があるかもしれない。

 

恋人の瞳を茶色と認識するにはかなり接近しないと分からない。また,「頬がうすあかく」の「うすあかく」は「桃」の果汁の色でもある。新宮澤賢治語彙辞典』でも,「桃の果汁」や「桃の漿」は,色彩的で肉感的な比喩として使われているとある(原,1999)。

 

童話『烏の北斗七星』における戦闘後の「桃の果汁のやうな陽の光は,・・・雪のなかに白百合の花を咲かせました」という「桃の果汁」を使ったエロスの臭いを放つ官能的な文章は,賢治以外の作品の中にも見ることができる。俵万智の第三詩集『チョコレート革命』に「水密桃(すいみつ)の汁すうごとく愛されて 前世の我は女と思う」という短歌がある(俵,1997)。「水密桃」は桃の栽培品種の1つであるが,この言葉に甘い恋愛生活が象徴されている。みずみずしい桃の汁を吸うごとく熱烈に愛されることが女性の幸せであるというのが,俵万智が詠んだ短歌の意味であろう。童話『烏の北斗七星』の上記引用文もほぼ同じ意味と思われる。

 

許嫁は大尉が危険な戦争から無事に自分の所へ戻って来たことから,「愛されていること」を実感し,その夜は悦びの中で情交に及んだのかもしれない。

 

中国では,「桃」は「邪鬼」を払うものとされてきたが,女性の嫁入りの時に歌われる詩の中にも登場してくる。中国最古の詩集『詩経』に収められている詩「桃夭(とうよう)」である。この場合の「桃」は若い花嫁の比喩で,「夭」はみずみずしいという意味。4句ずつ3連からなる詩で,第1連には「桃の夭夭(ようよう)たる/灼灼たる其の華/之の子于(ゆ)き帰(とつ)ぐ/其の室家に宜しからん」(みずみずしい桃よ/花は華やかに/娘は嫁に行く/きっと嫁ぎ先のよい嫁になるだろう)とある。また,中国では「桃」は妊娠初期の「つわり」の苦痛を癒す果物として使われていたらしい(有岡,2012)。

 

「白百合」は,童話『ガドルフの百合』では賢治の恋人の色白だった恋人の比喩として使っている。『烏の北斗七星』に登場する「白百合」も賢治の恋人を投影させた大尉の許嫁のことで,「白百合」の花が咲くとは大尉の許嫁の情交における悦びを表現したものであろう。

 

3)大尉の許嫁の泪の意味

〈烏の新しい少佐〉(元は大尉)が戦勝報告の観兵式で「マヂエル様」に「みんなのほんたうのさいはひ」を祈った後に,少佐の〈許嫁〉は声で泣くのではなく「涙」を流して泣く。

 美しくまっ黒な砲艦の烏は,そのあひだ中,みんなといっし ょに,不動の姿勢を とって列びながら,始終きらきらきらきら涙をこぼしました。砲艦長はそれを見ないふりしてゐました。あしたから,また許嫁といっしょに,演習ができるのです。たびたび嘴を大きくあけて,まっ赤に日光を透かせましたが,それも砲艦長は横をむいて見逃してゐました。        (宮沢,1985)下線は引用者

 

 この「涙」は何を意味しているのか。「なみだ」に使っている漢字が〈烏の新しい少佐〉のは「泪」であるが〈許嫁〉のは「涙」と異なるのもヒントになっているのかもしれない。少佐の「泪」は敵を殺してしまったことの「後悔」と「自責」を意味していたが,〈許嫁〉の「涙」は種を同じにする烏(同じ民族)が殺されたことの「悲しみ」を意味していると思われる。多分,〈許嫁〉の烏は少佐に敵対する「山烏」と同種(あるいは同じ民族)である。

 

童話『烏の北斗七星』に登場する「カラス」は「ハシボソガラス」と「ハシブトガラス」の2種と言われている(国松・藪内,1996;赤田・杉浦・中谷,1998)。烏の義勇艦隊で大砲を装備する大多数の艦は「があがあ」と鳴くので「ハシボソガラス」と思われる。また,「山烏」は「山」に生息していることを示唆する「山」が付いているので,筆者はこの「山烏」は「ハシブトカラス」と思っている。

 

ただ,研究者によっては,「山烏」が「ハシブトガラス」だとする解釈に疑問を呈するものもいる。「山烏」は嘴(くちばし)が太いのが特徴であるが,物語で〈烏の大尉〉が〈許嫁〉に「山烏」は「目玉が出しゃばって,嘴が細くて,ちょっと見掛けは偉そうだよ。」(傍線は引用者)と言っているからである。しかし,これは語り手の説明ではなく,〈烏の大尉〉の言葉である。嘘を言っているのかもしれない。童話『烏の北斗七星』(1921)に登場する烏の艦隊と登場する烏の種および植物の関係は第2表にまとめた。

 

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蝦夷征討軍には,新しく寝返ってきた2人の蝦夷の部族長意外に,過去に寝返った「蝦夷」や積極的に同化しようとした「俘囚(ふしゅう)」の戦士もいると思われる。賢治が物語で山烏側から入隊してきた烏を義勇軍の中に配置していてもおかしくはない。特に砲艦隊の中に入れた可能性がある。砲艦は戦時に敵艦と戦うというよりは平時の河川や沿岸の警備任務に重きを置くもので,土地勘のある山烏を砲艦隊に配属することは理に合っている。そして,その1艦が砲艦隊所属の〈許嫁〉であったのかもしれない。

 

〈許嫁〉は「かおかお」と鳴くので「ハシブトガラス」であろう。すなわち,義勇艦隊は混成部隊である。多分,〈烏の大尉〉は〈許嫁〉が敵である山烏と同じ出身であることを自覚させないように嘘をついたと思われる。だから,〈許嫁〉は観兵式で敵の死骸を見たとき,敵と自分が同じ種(民族)であることを否応なく自覚させられ,同族が殺されたということで涙を流したのである。「涙」に「きらきらきらきら」と形容詞が付くのは〈烏の新しい少佐〉が恋人と同種(民族)の敵を丁重に葬ったからとも思える。また,砲艦長も山烏と同族と思われるから〈烏の新しい少佐〉の〈許嫁〉の「涙」に「見ないふり」をしたのだと思う。

 

また,砲艦長は〈烏の少佐〉の〈許嫁〉がまた一緒に演習できると喜んでいる姿にも「見ないふり」をする。多分,砲艦長あるいは義勇艦隊の多くが二人の関係について快く思っていないからであろう。駆逐艦隊の兵曹長は,戦闘前に〈許嫁〉と一緒に居る〈烏の大尉〉に「首をちょっと横にかしげ」て挨拶をしているが,これは,〈烏の大尉〉が敵側の女性を許嫁にしていることに違和感を持っているからであろう。

 

4)大尉の許嫁の「マヂエル様」という叫び

 〈烏の大尉〉の〈許嫁〉は戦いの前夜に「さいかちの木」の梢の中で次から次といろいろな夢を見るが,その夢の中で「マヂエル様」と2回叫ぶ。この叫びは〈大尉〉には「祈り」と認識されている。

 烏の大尉とたゞ二人,ばたばた羽をならし,たびたび顔を見合せながら,青黒い夜の空を,どこまでもどこまでものぼつて行きました。もうマヂエル様と呼ぶ烏の北斗七星が,大きく近くなつて,その一つの星のなかに生えてゐる青じろい苹果の木さへ,ありありと見えるころ,どうしたわけか二人とも,急にはねが石のやうにこはばつて,まつさかさまに落ちかゝりました。マヂエル様と叫びながら愕いて眼をさましますと,ほんたうにからだが枝から落ちかゝつてゐます。急いではねをひろげ姿勢を直し,大尉の居る方を見ましたが,またいつかうとうとしますと,こんどは山烏が鼻眼鏡などをかけてふたりの前にやつて来て,大尉に握手しようとします。大尉が,いかんいかん,と云つて手をふりますと,山烏はピカピカする拳銃(ピストル)を出していきなりずどんと大尉を射殺し,大尉はなめらかな黒い胸を張つて倒れかゝります。マヂエル様と叫びながらまた愕いて眼をさますといふあんばいでした。

 烏の大尉はこちらで,その姿勢を直すはねの音から,そらのマヂエルを祈る声まですつかり聴いて居りました。                                    

                      (宮沢,1985)下線は引用者

 

〈烏の大尉〉が祈った「マヂエル様」は「上官(天皇)」であり,少佐に昇進した後には「観世音菩薩(観音様)」に変わったが,〈許嫁〉が叫ぶ「マヂエル様」とは何か。〈烏の大尉〉が「マヂエル」と「様」をつけずに呼び捨てにしているので,「上官(天皇)」でも「観音様」でもない。〈烏の大尉〉にとっては〈許嫁〉の叫ぶ「マヂエル様」は忌み嫌うものでもある。

 

夢の中で〈許嫁〉の最初の叫びは,二人が度々見つめ合いながら青黒い夜の空を上っていった後,急に落下し始めるときである。

 

この場面は童話『双子の星』で,仲睦まじく水晶のお宮で暮らす〈チュンセ童子〉と〈ポウセ童子〉が「空の彗星(あだ名は空の鯨」に天の川の「落ち口」に落とされる場面に類似している。『双子の星』では,「二人は落ちながらしっかりお互いの肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一緒に落ちようとしたのです。」とある。「お互いの肱をつかむ」という行為はお互いに抱きあっているようにもとれる。著者は『双子の星』の〈チュンセ童子〉に賢治が〈ポウセ童子〉に賢治の恋人が投影されていると考えている。そして二人を落としたまっ黒で巨きな「空の鯨」は,鯨の形と地形が類似している「北上山系」に住む「蝦夷(エミシ)」の賢治(あるいは宮沢一族)に対して「疑い」と「反感」を示す共同体意識である(石井,2018)。多分,『烏の北斗七星』でも〈烏の大尉〉と許嫁を落下させたのはこの「まっ黒で巨きなもの」であろう。

 

〈烏の大尉〉の〈許嫁〉が見た夢の中で叫ぶ「マヂエル様」はこの「まっ黒で巨きなもの」と関係がある。北上山系に住む「蝦夷」にとって最も尊いもの,すなわち神とは何であろうか。古代蝦夷はアイヌ語(あるいはそれに類した言語)を話すので,アイヌ語で北極星,北斗七星そして「山の神」について調べてみる。 

 

北海道(「蝦夷(エゾ)」)の「アイヌ」は,北極星を「poro nochiu・ポロノチウ」あるいは「poro keta・ポロケタ」と呼んでいたという。いずれも偉大な星という意味である。北斗七星は,「chi nukar kur・チヌカラクル」,「chi nukar kamui・チヌカルカムイ」と呼ばれていた(野尻,1941)。後者は「吾々が・見る・神」という意味である。「kur」も本来は人とか男という意味であるが,「神」という意味に用いることも多いという。例えば「nupuri noshike un kur」は「山の中央の神=熊神」のことで「chi nukar kur」と「chi nukar kamui」は同義であるという。

 

 山の神は,アイヌ語で「kim un kamui・キンムカムイ」(山にいる神の意味)と呼ばれている。熊(ヒグマ:Ursus arctos)のことである。「アイヌ」は動植物などあらゆるものに「神」(カムイ)が宿っていると考えているが,特に熊は最も重要な「神」と考えている。バチラー(1993)によれば,「熊祭(イオマンテ)」では小熊が殺されると,直ちに「chinu kara kamui(チヌ・カラ・カムイ)」と名付けられ,その「魂」は母熊やその祖先が住んでいる北極星(大熊座)へいくと信じられているという。「熊祭」に参加している首長や古老達が,北極星(あるいは大熊座)に向かって矢を放つのは,この小熊の「魂」への別れの挨拶とされている。「東北」の「またぎ」も熊は「山の神」からの授かり物と認識していた。

 

 すなわち,〈烏の大尉〉の〈許嫁〉が夢の中で叫ぶ「マヂエル様」は,北上山系(鯨)で最も重要な神である「山の神」としての「熊神」(大熊座;Ursa Major)のことである。「まっ黒で巨きなもの」は〈許嫁〉が敵側の〈烏の大尉〉に恋をしたことに怒って,〈許嫁〉の夢の中に出て来たのであろう。そして〈許嫁〉は「熊神」の「マヂエル様」に助けを求めたのかもしれない。

 

〈許嫁〉は夢の中で北斗七星が見える北の空に向かって〈烏の大尉〉と一緒に飛び立つ。だから〈許嫁〉は「山の神」がいる「北上山系の山々が,大きく近くなつて,その一つの山(星)のなかに生えてゐる青じろい苹果の木さへ,ありありと見えるころ」へ行けるのである。しかし,二人の関係を妨害する「まっ黒で巨きなもの」が二人を落としてしまう。

 

〈許嫁〉の見た夢は,根拠が弱いかもしれないが,賢治と恋人の「苹果(りんご)」と関係する旅行体験に基づいていると思われる。賢治研究家の米地(2019)は,二人の逢瀬の場所の一つとして「リンゴ」の産地である青森県の陸奥湾に面した浅虫温泉を候補にあげている。この時の様子を詠んだ詩も残されている。詩集『春と修羅 第二集』のアイルランド風というメモ書きのある「島祠」(1924.5.23)には,「鷗の声もなかばは暗む/そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かつてあすこにわたしは居た」とある。「前世」では海の底で「人魚」(妖精;Nymph)の妻と結婚していたかもしれないという切ない恋歌である。

 

今でも,浅虫温泉から見える湯ノ島には弁財天を祀る祠がある。「島祠」を書いた日付は恋人が渡米する3週間前である。恋人を「妖精」の「人魚」に喩えたのは,恋人が蕎麦屋を営む実家の手伝いをしていて手が魚の鱗のように荒れていたからだという。物語に挿入された恋物語は,賢治と「東北」の「先住民」である恋人との「恋」が特に恋人側の近親者達の反対などがあって破局したという賢治の悲恋体験と類似している。(続く)

 

引用文献

赤田秀子・杉浦嘉雄・中谷俊雄.1998.賢治鳥類学.新曜社.

有岡利幸.2012.ものと人間の文化史 157 桃.法政大学出版局.

バチラー,J.(仁多見巌・飯田洋右訳).1993.わが人生の軌跡-ステップス・バイ・ザ・ウエイ.北海道出版企画センター.

原 子郎.1999).新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

畑山 博・石 寒太.1996.宮沢賢治 幻想紀行.求龍堂グラフィックス.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2018.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋(前編・中編・後編)-.人植関係学誌.17(2):15-32.

石井竹夫.2019.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-アワとジョバンニの故郷(前編・後編)-.人植関係学誌.18(2):53-69.

国松俊英・藪内正幸.1996.宮沢賢治 鳥の世界.小学館.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

野尻抱影.1941.アイヌ傳承の星名(上).天界 21(242):253-55.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

高橋 崇.2012.蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史.中央公論新社.

俵 万智.1997.チョコレート革命.河出書房.

梅原 猛.1994.日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る.集英社.

米地文夫.2019.宮沢賢治が描いた架空の島「山稜島」の手書き地形図.総合政策 20:1-11.

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(4)

 

4.戦いにおける祈りと泪(涙)の意味

1)烏の駆逐艦隊の泪の意味

童話『烏の北斗七星』では逃げる山烏を多数艦で囲み撃沈(殺戮)するシーンが描かれていた。〈烏の大尉〉は敵の山烏の頭に鋭く一突き食らわせ,その後に横から兵曹長が一突きして敵の山烏の艦を撃沈する。

 

人間は憎ければ敵に遭遇したとき相手を殺してしまうこともあり得る存在である。童話『烏の北斗七星』の擬人化された烏の義勇艦隊と山烏の戦いにもこれが当てはまるとすれば,〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊は敵に対して「憎悪」をもっていて,敵を倒せと命令されれば忠実にそれを実行する兵士の多いことが推測される。多分,賢治は〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊を過去の実戦で負傷するなりして敵に「憎悪」を膨らませている兵士や,敵が「劣った生命形態」であるというプロパガンダを信じた兵士の多い艦隊と見なしている。

 

この物語は「憎悪」が重要なキーワードになっている。すなわち,観兵式で駆逐艦隊の流す「泪」は,たとえ19対1の数の上では優位な戦いでも,強くて憎い敵を倒すことができたことの喜びの「泪」である。しかし,また,1つ疑問が生じる。なぜ艦隊長が最初に一撃を加えなければならなかったのか。部下に命令するだけで良かったのではないか。グロスマンは,著書の中で,これと類似した行為に対して以下のように説明する。現場の指揮官が,敵に発砲せよと口だけで命令しても部下は発砲しないのだという。現場の指揮官が先頭に立って最初に自ら発砲してはじめて部下も発砲できるのだという。だから現場の指揮官は,常に危険に直面していて戦場における死亡率も部下よりも高い。艦隊長である烏の大尉が最初の一撃を自ら行ったのも同じ理由かもしれない。賢治はまるで血なまぐさい戦争を経験したかのように作品を書いている。

 

童話『烏の北斗七星』で語り手が「大砲をうつとき,片脚をぷんとうしろへ挙げる艦(ふね)は,この前のニダナトラの戦役での負傷兵で,音がまだ脚の神経にひびくのです。」と説明している。これは,今回の戦い以前にも激しい戦いがあってその時に負傷した兵士が参戦していることを示唆している。

 

前述したように,延暦8年(789)の「巣伏の戦い」で5万強の朝廷軍は〈アテルイ〉の蝦夷武装勢力に大敗して,25名の戦死者,245名の負傷者,1036名の溺死者を出すことになった。実際の「延暦十三年の戦い」で5年前の「巣伏の戦い」の負傷兵が参戦しているかどうかは分からないが,賢治は「巣伏の戦い」での負傷兵を物語では「ニダナトラの戦役での負傷兵」として登場させているように思える。さらに負傷兵だけでなく殺された戦友や溺死者の家族も参戦していると想定していたのかもしれない。これら負傷者,殺された戦友あるいは溺死者の家族から構成される軍隊は,「蝦夷」に対する「憎悪」が参戦の動機でもあるから戦闘意欲も高かったに違いない。烏の義勇艦隊でも,特に〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊は演習でも真っ先に出撃するくらいに士気が高く「ニダナトラ戦役」に参戦した者たちなどで構成されている可能性は高い。

 

「巣伏」は,現在の江刺の北上川東岸にあったとされる地名(村)で,アイヌ語で「sup・スプ(芦)」と「ush・ウシ(沢山生えている)」に分解できるので「sup-ushi・スプウシ」すなわち「芦」の沢山生えた所の意味である。「芦」は川沿いの湿地に多い。金田一(2004)によれば,湿地あるいは谷地はアイヌ語で「ニタッ・nitat」で,それに関係名詞の「or・オル(オロ)」が添って「nitat or・ニタトル」となるが,さらに「ニタトリ・ニタトル・ニタトロ」等に転訛する。いずれも「湿地のある所」の意味である。現に,陸奥二戸郡に似鳥(にたとり)という地名がある。「ニダナトラの戦役」の「ニダナトラ」はこの「ニタトロ」と発音が類似している。多分,「ニダナトラの戦役」とは「巣伏の戦い」がイメージされている。

 

2)戦い前夜における大尉の祈りの意味

〈烏の大尉〉には天の「北斗七星(マヂエル様)」に対する信仰がある。部下に信仰心があったかどうかは分からないが,〈烏の大尉〉はこの「北斗七星」を仰ぎながら山烏との戦いの前に「あなたのお考えのとほり」に「わたくしのきまったやう」に「力いっぱいたゝかひます」と祈っている。

 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマヂエルの星を仰ぎなが ,あゝ,あしたの戦(たたかひ)でわたくしが勝つことがいゝのか,山烏がかつ ことがいゝのかそれはわたくしにはわかりません,たゞあなたのお考のとほりです,わたくしはわたしにきまったやうに力いっぱいたゝかひます,みんなみんなあなたのお考へのとほりですとしづかに祈って居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧(わ)いたのです。    

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

この祈りは何を意味しているのだろうか。多分,この祈りは「恐怖」と関係している。人間は「怖い」と感じたときに祈ることがある。ではなぜ,〈烏の大尉〉は,明日の山烏との戦いに「恐怖」を感じたのであろう。多分,敵を殺すことになるかもしれないと感じているからである。戦場の兵士は,自分が殺される恐怖感よりも自分が人を殺すことの抵抗感(恐怖)の方が強いと言われている。

 

この祈りで特に注目すべきは「あなたのお考のとほり」を2回繰り返していることである。物語の〈烏の大尉〉が蝦夷征討の〈坂上田村麻呂〉をイメージして創作されているとすれば,〈烏の大尉〉の言う「あなたのお考のとほり」の「あなた」は誰であろうか。「北斗七星」を神格した「妙見菩薩」ではない。菩薩に祈るとき「あなた」とは呼ばない。〈烏の大尉〉(あるいは坂上田村麻呂)が「あなた」と呼べるのは上官あるいは天皇である。天皇と「北斗七星」との関係は後述する。〈烏の大尉〉(あるいは坂上田村麻呂)は,戦いの前に怖くなって節刀を受けている上官(大伴弟麻呂)あるいは天皇に対して「あなたのお考のとほり」に「力いっぱいたゝかひます」と祈っているのである。 

 

青木(2011)によれば,日中戦争で兵士が交戦前に「不安」や「恐怖」を抱いたとき,兵士は自らの軍が「皇軍」だということで戦争を正当化しようとしたという。戦争が「聖戦」だという大義を得たとき,交戦する(刃向かう)敵は憎しみの対象になる。すなわち,兵士の「不安」や「恐怖」は「憎悪」に転化する。すなわち,〈烏の大尉〉(あるいは坂上田村麻呂)は戦う前日に「不安」や「恐怖」を感じていたが,明日の戦いが「聖戦」であると自分に言い聞かせるために天皇(あるいはその代理)に祈ったのであろう。 

 

これは賢治にも言える。賢治は大正9年(1920)に「天皇制国家主義」(あるいは超国家主義)の思想を組み込んだ日蓮主義を主張する田中智学の「国柱会」に入会している。「天皇制国家主義」とは,菊池(1997a)によれば,「天皇が君主として国家統治や倫理の中心となる政治・社会体制に最高の価値を見いだし,その権威と意思をなによりも優先しようとする立場であり,全てが天皇・国家のための奉仕,動員されるという仕組みをもつもの」と考えている。

 

菊池は,田中智学の「天皇制国家主義」の思想は彼の著書『日本国体の研究』に集大成されているという。例えば,『日本国体の研究』には「日本国民が日本帝室に対する最大強度の服従は,世のあらゆる理屈や議論に超越して,人間の世に在る思想道徳の最上観念である」(215頁)や「世界中の人がこの帝室を『道』の活現者として帰依するに至って,世界は真の平和が成立するのである」(218頁)と記載されている。『日本国体の研究』は,大正10年(1921)の元旦から国柱会の機関紙「天業民報」に連載されているので賢治も読んだ可能性は高い。賢治は数ある法華経教団から国柱会を選んでいるわけであるから,当然,入会時には田中智学の「天皇制国家主義」にも賛同しているはずである。すなわち,入会時に賢治は,天皇家に対する国民の服従こそ最高の道徳であり,世界中が天皇家を中心にまとまれば,「みんなのほんたうのさいはひ」が実現できると信じたと思われる。

 

 それゆえ,賢治研究者の中には,童話『烏の北斗七星』が戦争を肯定するものと認識しているものも少なくない(小沢,1954)。

 

3)戦いが終わった後に流す大尉の泪の意味

 戦いが終わった後,少佐に昇進した〈烏の元大尉〉は再び「泪」を流して祈る。

 烏の新しい少佐は,お腹が空いて山から出て来て,十九隻に囲まれて殺された,あの山烏を思ひ出して,新しい泪をこぼしました

「ありがとうございます。就いては敵の死骸を葬りたいとおもひますが,お許しくださいませうか。」

「よろしい。厚く葬ってやれ。」

 烏の新しい少佐は礼をして大監督の前をさがり,列に戻って,いまマヂエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(あゝ,マヂエル様,どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに,そのためならば,わたくしのからだなどは,何べん引き裂かれてもかまひません。)マヂエルの星が,ちやうど来てゐるあたりの青ぞらから,青いひかりがうらうらと湧きました。                             

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

 この「泪」は何を意味しているのであろうか。「泪」に「新しい」と形容詞がついているので駆逐艦隊の部下達と同じ「泪」ではない。

大島(2003)は,この「泪」は「大尉が戦争状況の中で個として抑圧され,「絶対的平和」という理想と,戦わざるを得ない悲惨さとを持つ個として山烏に共感した泪である」としている。しかし,この戦闘が近代戦ではなく古代の「蝦夷征討」を題材にしているとすれば,「共感」という表現は当てはまらないように思える。別の解釈を試みてみる。

 

「蝦夷(エミシ)」(山烏)の戦士は,繰り返される朝廷軍(大軍)の侵略で農耕地は荒廃し,家族とともに山へ避難していると思われるので,彼等にはこれ以上の侵略をなんとか阻止しなければ食料も底をつくから「戦わざるを得ない悲惨さ」は存在する。山烏が「お腹が空いて山から出て」くるのも当然の話である。しかし,〈坂上田村麻呂〉(烏の大尉)には「戦わざるを得ない悲惨さ」は存在しない。彼は職業軍人(武官)として天皇の命令に従っただけである。もし彼に悲惨さがあるとすれば「憎め」と教育されてできあがった偽りの「憎しみ」で戦争に参加したことである。しかし,この偽りの「憎しみ」で蝦夷側(山烏側)との共感はあり得ない。烏の新しい少佐の「泪」は,上官(天皇)の命令ではあるが憎んではいけない敵を「殺してしまった」ことの「後悔」と「自責」(罪悪感)の「泪」であろう。だから,「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに」と祈るのである。

 

グロスマンは,戦争で人を殺した後の兵士の心理状態についても記載している。兵士は人を殺した後,強い「高揚感」と烈しい「自責」と「嫌悪」が起こるという。ある兵士の体験談として「・・・私が経験したのは,嫌悪感と不快感であった・・・私は銃を取り落として声をあげて泣いた・・・あたりは血の海だった・・・私は吐いた・・・そして泣いた・・・後悔と恥辱にさいなまれた。いまも思い出す。私はバカみたいに「ごめんな」とつぶやいて,それから反吐をはいた。」と記載している。

賢治も大正7年(1918)の『復活の前』という作品で「人を殺める心理」を次のように書いている。

  

戦が始まる,こゝから三里の間は生物のかげを失くして進めとの命令がでた。私は剣で沼の中や便所にかくれて手を合わせる老人や女をズブリズブリさし殺し高く叫び泣きながらかけ足をする。             (『復活の前』 宮沢,1985)

 

賢治の『復活の前』での「人を殺した後」の「高く叫び泣きながらかけ足をする」という兵士の心理状態の記載は,グロスマンが報告した米国の兵士のものと一致する。

 

賢治が,童話『烏の北斗七星』でこの「祈り」を書いたということは,この時すでに賢治は国柱会の「天皇制国家主義」とは決別していたということを意味している。〈烏の新しい少佐〉の「新しい泪」,すなわち「後悔」と「自責」は,賢治からすれば田中智学の「天皇制国家主義」に賛同したことに対する「反省」と「自己批判」でもある。

 

すなわち,賢治は戦争を肯定していた時期もあったと思われるが,「転向」したのである。菊池(1997a,b)は,賢治の「天皇制国家主義」に決別した理由として,(1)祖師日蓮の思想に学んだこと,(2)万法流転の思想をもっていたこと,(3)万人皆平等の人間観を持っていたこと,(4)大正デモクラシーの影響を強くうけていたこと,(5)一天四海皆帰妙法の理念に立っていたこと,の5つを上げている。著者は特に(3)に注目したい。

 

田中智学(1922)は『日本国体の研究』の中で,日本人民は天孫降臨の時に随行してきた32神を祖先とする大部分の種族と,従来から日本列島に住んでいた土着の種族からなるとしている。彼は土着の種族を2種に分類している。1つは,「素質に向上性のない,理解力を有たない民族は,自然に征服されて,漸次その存在が保てなくなって,終に自然消滅に帰してしまうこと,猶今のアイヌ族の如きもの」で,もう1つは「漸次王化に沾(うるほ)ひ,心身ともに改造されて向上発達し,遂に天孫種族と縁組みしたり,・・・・いつしか天孫民族に同化して,立派に使命を解する純良国民」と考えている。すなわち,田中智学にとって土着の「先住民」は天孫降臨の神を祖先に持つ日本人民に同化されるか,「アイヌ」のごとく征服されて当然の民族なのである。田中智学の提唱する「みんなのさいはひ」に導く「天皇制国家主義」の理念の中には朝廷に従わない民族は含まれてはいない。賢治には,この土着民を人間扱いしない主義主張にはどうしても納得できなかったに違いない。

 

新しい「泪」と少佐への昇進は,賢治の願う「みんなのほんたうのさいはひ」を「天皇制国家主義」以外の手段で実現させようとしていることを意味している。

 

4)義勇艦隊の戦闘行為に正当性はあるか

賢治は犯罪であると感じていたはずである。もしも,蝦夷征討を国際裁判にかけたらどのような結果になるのであろうか。童話『烏の北斗七星』を執筆していた頃,童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』(大正10年あるいは11年)を創作していた。この物語は,こちらの世界(ばけものの国)で世界裁判長になった主人公のネネムが,向こうの世界(人間の世界)に顔を出したばけもの達を裁く物語である。大正10年(1921)は,第一次世界大戦終結後に結成された国際連盟の機関として常設国際司法裁判所(PCIJ)がオランダのハーグに設置された年でもある。

「今晩開廷の運びになっている件が二つございますが,いかがでございましょうお 疲かれでいらっしゃいましょうか。」

「いいや,よろしい。やります。しかし裁判の方針はどうですか。」

「はい。裁判の方針はこちらの世界の人民が向うの世界になるべく顔を出さぬよう に致したいのでございます。

「わかりました。それではすぐやります。」

 ネネムはまっ白なちぢれ毛のかつらを被(かぶ)って黒い長い服を着て裁判室に出て行きました。部下がもう三十人ばかり席についています。

 ネネムは正面の一番高い処に座りました。向うの隅の小さな戸口から,ばけものの番兵に引っぱられて出て来たのはせいの高い眼の鋭い灰色のやつで,片手にほうきを持って居りました。一人の検事が声高く書類を読み上げました。

「ザシキワラシ。二十二歳。アツレキ三十一年二月七日,表,日本岩手県上閉伊(かみへい)郡青笹(あおざさ)村字(あざ)瀬戸二十一番戸伊藤万太の宅,八畳座敷中に故なくして擅(ほしいまま)に出現して万太の長男千太,八歳を気絶せしめたる件。」

「よろしい。わかった。」とネネムの裁判長が云いました。

「姓名年齢,その通りに相違ないか。」

「相違ありません。」

「その方はアツレキ三十一年二月七日,伊藤万太方の八畳座敷に故なくして擅に出 現したることは,しかとその通りに相違ないか。」

「全く相違ありません。」

「出現後は何を致した。」

「ザシキをザワッザワッと掃(は)いて居りました。」

「何の為(ため)に掃いたのだ。」

風を入れる為です。

「よろしい。その点は実に公益である。本官に於(おい)て大いに同情を呈する。しかしながらすでに妄(みだ)りに人の居ない座敷の中に出現して,箒(ほうき)の音を発した為に,その音に愕(おど)ろいて一寸(ちょっと)のぞいて見た子供が気絶をしたとなれば,これは明らかな出現罪である。依(よ)って今日より七日間当ムムネ市の街路の掃除を命ずる。今後はばけもの世界長の許可なくして,妄りに向う側に出現することはならん。」

「かしこまりました。ありがとうございます。」

    (『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』 宮沢,1985)下線は引用者

 

青笹村は,1954年(昭和29年)まで岩手県上閉伊郡にあった村で,現在の遠野市青笹町青笹辺りにあたる。ばけものである〈ザシキワラシ〉は,柳田国男の『遠野物語』で有名な岩手県遠野にある人家の座敷に,「故なくして擅(ほしいまま)に出現」し,「風を入れる為」と称して音を立てて掃除をして子供を気絶させた。そして,世界裁判長から「出現罪」という判決を受けている。刑は「七日間のムムネ市の街路の清掃」である。

 

罪を犯した年を「アツレキ三十一年」としているが,これは蝦夷征討の「延暦十三年の戦い」を捩(もじ)ったものであろう。すなわち,〈ザシキワラシ〉の裁判案件は「延暦十三年の戦い」のパロディである。賢治は童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』に登場する〈ザシキワラシ〉の人間世界への出現の様子を延暦13年の蝦夷征討に重ねている。〈坂上田村麻呂〉を〈ザシキワラシ〉に重ねたとすれば,大和国の〈坂上田村麻呂〉は蝦夷国の胆沢(イザワ)の地に「故なくして擅に出現」し,「風を入れる為」と称して箒の代わりに武器を持って蝦夷達を「ザワッザワッ」と「掃討」したことになる。「故なくして擅に」という言葉は,理由なくやりたい放題に振る舞う様を意味しているが,裁判官であった石塚(2009)によれば法律家以外の人が使う言葉ではないという。物語に裁判用語が多く登場するのは,賢治の父である政次郎が生前長く民生委員や調停委員を務めていたことと関係していると思える。

 

「風を入れる為」に「掃討」したということは,〈坂上田村麻呂〉にとって未開地に農耕文化の新しい風を吹き込むつもりだったのかもしれないが,胆沢の地に住む「先住民」にとっては,「侵略」されたのに等しく,「先住民」の多くは命と田畑・住居を失った。刑として七日間の街路の「清掃」だけでは済まないであろう。

 

5)戦いが終わった後の大尉の祈りの意味

大島(2003)は,少佐の「憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに」という祈りには「みんなのさいはひ」という理想と共存して「憎む敵ならば殺してもいい」という論理と,それに至るまで繰り返される「殺人(戦争)」を肯定する思想が含まれていると指摘している。これは田中智学によって書かれた『日蓮聖人の教義』の「第二十二章 本化妙宗ノ世界統一主義」からの影響によるものだという。田中智学はこの章で「世界統一主義」こそが「絶対平和の姿」であることを繰り返し強調していて,「世人は人生の目的を此一点に集中して邁進すべきである」と述べているとしている。大島は,智学のこの主張が,かれの高遠な理想に邁進する過程において,理想に従わないものを排除する思想を内包するものだと考えている。

 

はたしてそうであろうか。本当に,少佐の「憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに」という祈りには,「みんなのさいはひ」のためなら「憎む敵を殺してもいい」という意味が含まれているのだろうか。「憎ければ人を殺すこともあり得る」のは人間の「本性」であり論理とはいえないと思われるが。

 

賢治の作品に感銘し,昭和20年に特攻隊員として沖縄で戦死した〈佐々木八郎〉の手記には「我々がただ,日本人であり,日本人としての主張にのみ徹するならば,我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし,僕の気持ちはもっとヒューマニスチックなもの,宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない,そんな気持ちなのだ。」(日本戦没学生記念会,1982)と記載されている。

彼は軍の指導部(あるいは教育現場の教師)から鬼畜米英として敵を憎めと教えられていたが,国籍が異なるだけで人は憎めないと思っているから,彼らの言う事は単なる民衆扇動のための空念仏としか響かない。それで「憎まないでいいものを憎みたくない」と書いているのである。すなわち,憎む敵を殺すとは言っていない。理由もなく憎みたくないと言っているのである。〈佐々木八郎〉は童話『烏の北斗七星』の〈烏の大尉〉の気持ちが理解できているのだと思う。

 

彼が,もしも1500年タイムスリップして「和人」とし「蝦夷征討」に参加していたなら,多分,彼は「我々がただ,和人であり,和人としての主張のみに徹するなら,我々は蝦夷を憎みつくさねばならないだろう。しかし,憎まないでいいものを憎みたくない」と記載したはずだ。

 

「憎むことのできない敵」とは「憎くない敵」(憎しみを感じない敵)ではなく「憎いが決して憎んではいけない敵」あるいは「憎めと教えられたが憎みたくない敵」と言う意味である。賢治は憎む敵なら殺してもよいという意味を含めてはいない。さらに深読みすれば憎む敵でも殺してはいけないという意味である。憎しみを感じない敵だけでなく憎い敵であっても殺したりしない世の中になりますように祈っているのである。

 

賢治が国柱会に入ったときは,米地(2018)も指摘しているように,田中智学は第一次世界大戦の悲惨な状況を見て軍備撤廃や平和への希求を説いた時期であった。田中智学は,「人を殺す」という行為そのものにも強く反対していて,大正7年(1918)11月1日の『国柱新聞』では,「殺人運動の休止は,人類一般の望む処なり。」と死刑廃止を訴えている。だから,賢治は田中智学から「憎む敵ならば殺してもいい」とは学んでいない。

 

6)烏の大尉が祈るマヂエル様とは何か

〈烏の新しい少佐〉が信仰の対象にした「マヂエル様」は,北斗七星を含む大熊座の学名ウルサマジョル(Ursa Major)の「マジョル」をもじったものとされている(原,1999)。多分,「マヂエル様」は,多くの研究者達が指摘しているように北斗七星を信仰の対象とする「妙見信仰」が関係していると思われる。

 

妙見信仰は,インドに発祥した菩薩信仰が,中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合して,仏教の天部の一つとして日本に伝来したものとされる。仏教の伝来と一緒にもたらされた『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』(漢訳者は不明)には「我北辰菩薩名曰妙見 今欲説神呪擁護諸国土 所作甚奇特故名 日妙見・・・」(我北辰菩薩,名づけて妙見という。今,神呪を説きて諸の国土を護らん。所作甚だ奇特なり,故に名づけて妙見という・・・)とある。この経には国土守護や現世利益の功徳が記載されているため,日蓮宗では法華経と法華経行者の守護神であり,一般庶民には古くから現世利益の功徳のある「妙見様」として親しまれていた。また,天皇家も天の北極星や北斗七星を地上の天皇に重ね権威確立に利用したとされる。桓武天皇代の延暦6年(787)に,天皇自ら北辰祭事を行ったことが『続日本記』に記されている(井原木,2005)。

 

妙見菩薩は北極星や北斗七星を神格化したもので,本地仏は十一面観世音菩薩(真言宗)あるいは薬師如来(天台宗)などとされている。本地垂迹説によれば,神仏習合における神の本地(本当の姿)は仏であるとされているので,神である北斗七星は仏である十一面観音や薬師如来ということになる。

 

〈烏の新しい少佐〉に京都の清水寺を建立した〈坂上田村麻呂〉がイメージされているとすれば,〈烏の新しい少佐〉が祈った対象は「観音様(=マヂエル様)」であろう。清水寺の観音信仰の中心となる本堂中央厨子には本尊である十一面千手観音像が置かれている。

この千手観音には〈坂上田村麻呂〉に纏わるいくつかの伝説が残されている。『群書類従』に納められている大学頭明衡朝臣筆の「清水寺縁記」には,「宝亀10年(779)に〈田村麻呂〉が安産の薬にと鹿を狩った帰りに法相宗の僧侶・延鎮に逢うが,延鎮に殺生をたしなめられ夫人とともに帰依して寺を建て,千手観音菩薩を作った」と記載されている(野崎,2014)。

 

 『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」には「若三千大千国土。満中夜叉羅刹。欲来悩人。聞其称観世音菩薩名者。是諸悪鬼。尚不能以。悪眼視之。況復加害。」(若し三千大千国土に,中に満つる夜叉・羅刹,来りて人を悩まさんと欲するに,その観世音菩薩の名を称うるを聞かば,この諸々の悪鬼は尚,悪眼をもって之を視ることすら能わず,況んや復,害を加えんや。)(訳:坂本・岩本,1994)とある。すなわち,『法華経』には「法華経」を信じ観世音菩薩に祈れば「鬼」の「憎しみ」は消えて害を受けることもなくなると記載されている。

 

〈烏の新しい少佐〉の祈りの中には,自分の心に住み着いた「鬼」を退治してくれるようにという願いもあったと思われる。平成6年に,清水寺南苑に〈坂上田村麻呂〉と戦った〈アテルイ〉と〈モレ〉の「北天の雄阿弖流為母禮之碑」が建てられた。20年後の記念法要で,清水寺の森貫首は記者の「なぜ碑の建立を快諾したのか」の問いに「清水の観音様に,敵も味方もなく霊の供養をしたというのが清水寺の始まりだ。だからこそ,碑を建ててもらうことが大本願の心に添うことだと思った。」と答えている(アテルイを表彰する会,2015)。

 

〈烏の新しい少佐〉にも山烏に対して部下と同じに強い「憎悪」が存在していたと思われる。だから,〈烏の新しい少佐は〉,上官(天皇)の命令であるにせよ,率先して敵と交戦し敵を殺すことができたと思われる。しかし彼には〈坂上田村麻呂〉のように「信仰心」があり,人を殺めることに対する抵抗感も強かったと思われる。殺してしまったことに対して「後悔」し烈しい「罪悪感」に駆られた。だから,敵味方の「憎悪」を消してもらうために観世音菩薩(「観音様」)に祈ったのである。そして敵の死骸を丁重に葬ったのである。

 

また,賢治は「天皇制国家主義」や戦争によらないで「みんなのほんたうのさいはひ」が訪れることを祈ったのである。ではどうすれば「みんなのほんたうのさいはひ」が得られるかは,大正13年(1924)から執筆されている童話『銀河鉄道の夜』で賢治独自の思想として語られることになる(石井,2020)。この童話には天皇も登場しないし戦争も描かれてはいない。(続く)

 

引用文献

青木秀男.2011.戦地に潰えた『東亜協同体』-日本兵の感情構造.『わだつみのこえ』日本戦没学生記念会 135:4-24.

アテルイを表彰する会.2015(更新年).情報279阿弖流為・母禮之碑建立20周年記念法要.2020.12.21(調べた日付)http://aterui8.jp/history/info/aterui_info293.html

原 子郎.1999).新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.人植関係学誌.19(2):19-28.

石塚章夫.2009(更新年).小説で見る裁判・事実・真実(番外).2021.1.3(調べた日付)http://www.j-j-n.com/su_fu/s_syosetsu/syosetsu06_090201.html. 

井原木憲紹.2005.日本における星神信仰の一考察-日蓮聖人御遺文に見える星神・北斗を中心として-.桂林学叢 19:125-139.

菊池忠二.1997a.宮沢賢治と天皇制国家主義について(上).賢治研究 73:28-41.

菊池忠二.1997b.宮沢賢治と天皇制国家主義について(下).賢治研究 74:23-33.

金田一京助.2004.古代蝦夷とアイヌ.平凡社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

野崎 準.2014.「坂上田村麻呂と観音伝説-「みやことみちのくとの落穂」―」『東北文化研究所紀要』46:1-16.

日本戦没学生記念会編.1982.きけ わだつみのこえ.岩波書店.

大島丈志.2003.宮沢賢治「烏の北斗七星」を読み直す-戦いと泪の視点より-.賢治研究 90;1-15.

小沢俊郎.1954.賢治の社会批判(二).四次元 50:14-19.

坂本幸男・岩本 裕訳.1994.法華経下.岩波書店.

田中巴之助.1922.日本国体の研究.天業民報社.

米地文夫.2018.宮沢賢治の反戦童話「烏の北斗七星」.総合政策 19:19-35.