宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(3)

 

前稿で,登場する植物を解読することによって,童話『烏の北斗七星』が「東北」の「先住民」と朝廷軍の三十八年戦争がイメージされていることを明らかにした。本稿から,三十八年戦争を念頭に置いて,烏の戦士達の戦いにおける北斗七星への「祈り」と「涙(泪)」について考察する。

 

3.人を殺める心理

烏の駆逐艦隊の部下達が敵艦を撃沈した後に流す「泪」にはどんな意味があるのだろうか。19隻の烏の駆逐艦隊は,北へ逃げる1隻の敵艦を取り囲んで「があがあがあがあ」と「耳もつんぼになりそう」に激しく砲撃する。そして,艦隊長と兵曹長の2艦の砲弾が命中して敵艦は撃沈する。本来は「拿捕(だほ)」(あるいは捕虜に)すべき相手ではなかったのか。「拿捕」あるいは勝って当たり前の戦闘に,なぜ撃沈(殺戮)し,その後喜び「泪」を流すのであろうか。

「突貫。」烏の大尉は先登になつてまつしぐらに北へ進みました。

 もう東の空はあたらしく研いだ鋼のやうな白光です。

 山烏はあわてて枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁(に)げ出さうとしましたが,もうそのときは駆逐艦たちはまはりをすつかり囲んでゐました。

「があ,があ,があ,があ,があ」大砲の音は耳もつんぼになりさうです。山烏は   仕方なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛びあがりました。大尉はたちまちそれに 追ひ付いて,そのまつくろな頭に鋭く一突き食らはせました。山烏はよろよろつと なつて地面に落ちかゝりました。そこを兵曹長(へいさうちやう)が横からもう一突きやりました。山烏は灰いろのまぶたをとぢ,あけ方の峠の雪の上につめたく横(よこた)はりました。

「があ,兵曹長。その死骸(しがい)を営舎までもつて帰るやうに。があ。引き揚げつ。」

「かしこまりました。」強い兵曹長はその死骸を提(さ)げ,烏の大尉はじぶんの    杜(もり)の方に飛びはじめ十八隻はしたがひました。

 杜に帰つて烏の駆逐艦は,みなほうほう白い息をはきました。

「けがは無いか。誰(たれ)かけがしたものは無いか。」烏の大尉はみんなをいた  はつてあるきました。

 夜がすつかり明けました。

 桃の果汁(しる)のやうな陽(ひ)の光は,まづ山の雪にいつぱいに注ぎ,それからだんだん下に流れて,つひにはそこらいちめん,雪のなかに白百合(しろゆり)の花を咲かせました。

   (中略)

 みんなすつかり雪のたんぼにならびました。

 烏の大尉は列からはなれて,ぴかぴかする雪の上を,足をすくすく延ばしてまつすぐに走つて大監督の前に行きました。

「報告,けふあけがた,セピラの峠の上に敵艦の碇泊(ていはく)を認めましたので,本艦隊は直ちに出動,撃沈いたしました。わが軍死者なし。報告終りつ。」

駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて,熱い涙をぼろぼろ雪の上にこぼしました

烏の大監督も,灰いろの眼から泪なみだをながして云ひました。 

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

賢治が何でも見通せる菩薩の超能力(神通力)を持っていたと仮定して,駆逐艦隊の部下達の戦闘における心理を分析してみたい。筆者は戦争体験がないので,第一次・第二次世界大戦における,主に米軍の戦闘時の兵士の心理を分析したグロスマン(2004)の『戦場における「人殺し」の心理学』(米国ウエスト・ポイント陸軍および空軍士官学校の教科書)を参考にする。

 

最初に,「敵艦を撃沈する」を「兵士が敵兵を殺める」に置き換えて,その心理について検討してみる。グロスマンは,この著書で戦場の兵士は,自分が殺される恐怖感よりも自分が人を殺すことの抵抗感(恐怖感)の方が強いということを繰り返し強調している。戦闘後に何千何万の兵士に対する聞き取り調査をしたデータによれば,第二次世界大戦中の米軍の80から85%は,敵との遭遇戦に際して弾を撃っていないと言う。

 

発砲しようとしない兵士は,逃げも隠れもせずに,戦友を救出したり,弾薬を運んだりなどの危険の大きい仕事を進んで行っている。ただ,敵に発砲しないだけなのだという。空軍でも撃墜された敵機の30から40%は,全戦闘機の1%未満が撃墜したものだということも分かっている。ほとんどの戦闘機のパイロットは一機も落としていないばかりか,そもそも撃とうとさえしなかった。これは米軍に限ることではなく,日本軍やドイツ軍でも同じだという。この「発砲しない兵士」は第一次世界大戦にも多数いたという。

 

賢治が信奉した田中智学(本名は巴之助)も『日本国体の研究』の中で「戦争はなぜ怖いのであろう。いふまでもなく人を殺すからである。なるほど殺すのは怖い。たれしも死ぬのをいやがる以上,殺すのは怖いに相違ない」(227頁)と記している(田中,1922)。すなわち,童話『烏の北斗七星』で駆逐艦隊が逃げる敵艦(山烏)を撃沈(殺戮)するには,「撃沈(殺戮)することの恐怖」を払拭する何かが必要であった。

 

グロスマンによれば,1つは,殺すことに躊躇しない艦隊(兵士)が存在することであると述べている。上官の命令を忠実に実行する兵士は,数として全兵士の2%程度はいるらしい。この兵士だけは攻撃性精神病質者の素因を持っていて銃口を人に当てて撃つという。彼らには「後悔」も「自責」(罪悪感)も起きないのだという。2%という数字は,50人の兵士がいるとすれば,この攻撃性精神病質者の素因を持っている兵士が1人はいるという計算になる。しかし,烏の駆逐艦隊は19艦なので,この中には攻撃性精神病質者の素因を持っていている艦(兵士)が存在する可能性はとても低い。致命傷を負わせた艦隊長と兵曹長の2隻を含む駆逐艦隊については別な要因を考えなければならない。

 

もう1つは義勇艦隊に敵に対する「憎悪」を強く持っている艦(烏の兵士)を所属させることである。グロスマンは,著書の中で,人を殺人鬼にさせるには「今後出会うことになる潜在的な敵に対して,劣った生命形態であると思い込ませることである」と述べている。また民族的差異により「自分と外見がはっきり違う人間は,非常に殺しやすくなる。組織的なプロパガンダによって,敵が本当は人間ではなく「劣った生命形態」であると兵士に信じ込ませることができれば,同種殺しへの本能的な抵抗感は消えるだろう」と述べている。

 

これは,社会(共産)主義者とユダヤ人に対して激しい憎悪を持っていたドイツ義勇軍を例にあげれば納得できるものであろう。ドイツのアドルフ・ヒトラーは,これをうまく利用した人物として知られている。彼は優秀人種たるアーリア人(ゲルマン民族など)は,劣等人種を世界から一掃するのが義務であると民衆に訴えたのである。ナチ党の党員や指導者達の多くはドイツ義勇軍の出身者だった。その中にはアウシュヴィッツ強制収容所の所長であったルドルフ・フェルディナンデス・ヘスもいる。

 

我が国でも,古代の朝廷は「東北」の「先住民」を「劣った生命形態」であると兵士に信じ込ませていたと思われる。真言宗の開祖である空海(774~835)でさえ,著書(『性霊集』)の中で,「東北」の「先住民」を「毛人」,「羽人」などと呼び,「年老いた烏のような目をしていて,猪や鹿の皮の服を着て,毒を塗った骨の矢を持ち,常に刀と矛を持っている。稲も作らず,絹も織らず,鹿を逐っている。昼の夜も山の中におり,悪鬼のようで人間とは思われない。ときどき村里に来ては,多くの人や牛を殺していく」(訳は福崎(1999):傍線は引用者)と述べているのである。誇張もあるとは思われるが,この空海の蝦夷観が当時の都人の共通した蝦夷観と思われる。ここで空海は,「先住民」を「稲も作らず」「悪鬼のようで人間とは思われない」としている。すなわち「鬼」である。稲作文化を持ってきた者達には,稲作をしない狩猟民は「人間とは思われない」のである。

 

しかし,実際の胆沢の地あるいはその近傍では,弥生・古墳遺跡より水田跡や県下で初めて石包丁が出土するなど,当時胆沢扇状地において稲作が行われていたことが確実視されている(岡村,1991;工藤,1994;西野,2016)。また古墳・奈良・平安時代の遺跡からは畠跡(陸稲)も発見されている(及川,2013)。研究者によっては,当時の「東北」は,貴族文化がないだけで,一般庶民の文化は他の律令地方の文化とそれほど違うものではなく,蝦夷征討も「東北」の穀物生産力が高まった時期と一致すると指摘するものもいる(星野,1958)。すなわち,「東北」の「蝦夷」は,狩猟採取,粟・稗などの雑穀栽培以外に稲作もしていたのであり,胆沢の「先住民」と朝廷軍の戦いは,北上川を挟む水沢と江刺の肥沃な穀倉地帯をめぐる戦いでもあったのである。これを裏付ける資料として,『続日本記』に延暦8年の胆沢の地へ侵攻した第一次征討の征夷大将軍であった〈古佐美〉は,「蝦夷」に破れたが撤退のときに朝廷へ「蝦夷は水田・陸田を耕作できなくなったので放置しても滅びるであろうから軍を解散する」と報告しているのである(鈴木,2016)。朝廷は金や鉄を産出する豊かな穀倉地帯を手に入れるため,朝廷に従わない「東北」の「先住民」を「劣った生命形態」(例えば鬼)として民衆あるいは兵士にプロパガンダしていたと思われる。

 

また,グロスマンは「憎悪」を生み出す要因として,米軍では「同胞のために」というのも加えている。戦闘で敬愛すべき友人・上官を失ったばかりのときには戦場で攻撃性を発揮しやすいのだという。これは,日本では自らが負傷したとか,戦友あるいは親兄弟が殺された場合に当てはまるかもしれない。(続く)

 

引用文献

グロスマン,D.(安原和実訳).2004.戦争における「人殺し」の心理学.筑摩書房.

星野輝男.1958.東北地方の地位的生活:いわゆる後進性について.人文研究 9(3):47-63.

福崎孝雄.1999.「エミシ」とは何か.現代密教 11/12:120-132.

工藤雅樹.1994.考古学から見た古代蝦夷.日本考古学 1(1):139 -154.

西野 修.2016.平安初期の城柵再編と地域社会.pp.91-127.鈴木拓也(編著).三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

岡村光展.1991.胆沢扇状地における近世の散居集落.人文地理 43(4)1-23.

鈴木拓也.2016.光仁・桓武朝の征夷.鈴木拓也(編著).pp.1-91.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

田中巴之助.1922.日本国体の研究.天業民報社.

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(2)

 

2.物語は「東北」の「先住民」と朝廷の三十八年戦争が題材になっている

童話『烏の北斗七星』は,「三十八年戦争」の中でも延暦13年(794)に朝廷側が行った蝦夷征討が主にイメージされているように思える。冬の田圃に横列で「仮泊」する「里烏」と思われる烏の義勇艦隊に朝廷軍が,また「山烏」の艦隊に「蝦夷」の戦士が投影されていると思われる。

次に「延暦十三年の戦い」における朝廷側の軍隊と烏の義勇艦隊を比較してみる。

 

1)延暦十三年の戦いにおける朝廷軍の編制

「延暦(えんりゃく)十三年の戦い」とは,古代において朝廷に従わない「蝦夷」に朝廷が行った征討である(高橋,2012;及川,2013;鈴木,2016)。大和民族あるいは朝廷にとって「東北」は言葉が通じない異民族のいる土地(異国)と見なされていた(アイヌ語あるいはそれに近い言語が使われていた)。延暦13年は,「三十八年戦争」の第二次征討にあたる年で,〈桓武天皇〉から征夷大将軍として節刀を受けた〈大伴弟麻呂〉が,10万の大軍(国軍)を引き連れて〈阿弖流為(アテルイ)〉の居る「蝦夷」の本拠地・胆沢の地(古代においては現在の水沢区・前沢区・胆沢区・衣川区・江刺区)に侵攻した。この胆沢攻略は蝦夷征討の歴史の中でも最も大規模なものであった。胆沢扇状地は,「水陸万頃」と言われ水と土地(陸)が豊かな所である。

 

「延暦十三年の戦い」のときの副将軍は4名で,それ以外の下僚として軍監16人,軍曹58人がいた。副将軍の1人が34歳で征討副使になった近衛少将の〈坂上田村麻呂〉(位は従五位上)であった。この戦いの様子は正史『日本後記』の散佚・欠落で詳しくは知られていないが,〈大伴弟麻呂〉は高齢であり後方で統括する形をとり,現場での実質の指導者は天皇の信任が特に厚かった〈坂上田村麻呂〉であった。この戦いで,朝廷側は勝利し,〈坂上田村麻呂〉は従四位下に昇進している。歴史書では逃亡者があったものの朝廷側の被害は報告されていない。

 

一方,「蝦夷」側は457人が殺害され,150人が捕虜になり,馬85疋が奪われている。そして点在する村の多く(75村)が焼かれた。また,指導者の〈アテルイ〉は逃れたと思われるが,第一次征討後から,強化されてきた朝廷側の蝦夷に対する調略が功を奏し北方の志波村(現在の盛岡)の「蝦夷」ら部族長2人が朝廷側に寝返ったことも記録されている。 アテルイはこの戦いの7年後に〈坂上田村麻呂〉に降伏することになる。 

 

後の研究者達によって「延暦十三年の戦い」で消失した家屋数の記録や発掘された竪穴式住居数等から胆沢地方の人口が推測されている。それによれば,焦土と化した胆沢の地には,7000~8000人の「蝦夷」が住んでいたという。戦士を戦える全ての男子(1500~2000人)とすれば,「蝦夷」側はその戦士の1/3を失ったことになる。

 

戦士1500~2000人という数字は歴史書『続日本記』に記載されている延暦8年(789)の巣伏村の戦いでの胆沢の地の「蝦夷」の戦士の累計数(1500人+α)と同じである。この戦いでは蝦夷側は89人の戦死者をだしているが,板東諸国から集められた5万人以上の大軍(混成軍)を投入した朝廷軍は逆に1000人以上の死者をだしている。

 

すなわち,国家を作らず軍隊を持たない「蝦夷(エミシ)」の2000人弱程度の武装勢力とその家族に対して朝廷すなわち「国」は5万人あるいは10万人の正規軍を送ったということになる。天下分け目の関ヶ原の戦いでも敗れた西軍の戦士は8万人で東軍は7~10万人と言われている。征討軍10万人という数字は食料・武器などの軍事物質を輸送する兵士は含まれていないとされているので,実際の兵力はこれをさらに上回るものと思われる。

 

この空前絶後の大軍を送った理由として,1つには,『日本書紀』の神武天皇紀に「愛瀰詩烏 毘ダ利 毛々那比苔」(エミシは1人で百人くらいに匹敵する強い兵)という歌が紹介されているように,「蝦夷」は強いと思われていたからである。また,現に「巣伏の戦い」でも明らかなように強かったからである。「蝦夷」は,良馬と「騎馬戦」に有利な刃や柄に反りがある「蕨手刀(わらびてとう)」を持っていた(朝廷軍は直刀)。

 

また,農耕に加え狩猟採取の生活をしていて日々の戦闘能力が磨かれていたからだとも言われている。2つには,桓武天皇にとってこの戦いは勝たなければならなかったからである。794年は都が京都の長岡京から平安京に移された年である。天皇が遷都と同時に戦勝報告がなされるという奇跡を自ら起こし遷都を劇的に演出したのだという。  

 

 岩手県出身の歴史家・及川洵は,「副将軍4人,軍監16人,軍曹58人で,胆沢という小地域-推定人口7300人(延暦8年の戦死者を除く)-を攻撃するのに人道的配慮を全く無視し,ただ征服のみを意図した前代未聞の征討軍の編制に対し,どう表現したらよいか,憤りさえ感じる」と述べている(岡本,2011)。 

 

2)胡麻や馬鈴薯が示唆する烏の義勇艦隊の特徴

『烏の北斗七星』における義勇艦隊軍の編制は,雪の田圃での演習場面で詳しく説明されている。

 雪のうへに,仮泊といふことをやつてゐる烏の艦隊は,石ころのやうです。胡麻(ごま)つぶのやうです。また望遠鏡でよくみると,大きなのや小さなのがあつて馬鈴薯(ばれいしよ)のやうです

 しかしだんだん夕方になりました。

 雲がやつと少し上の方にのぼりましたので,とにかく烏の飛ぶくらゐのすき間ができました。

 そこで大監督が息を切らして号令を掛けます。

「演習はめいおいつ,出発」

 艦隊長烏の大尉が,まっさきにはつと雪を叩きつけて飛びあがりました。烏の大尉 の部下が十八隻,順々に飛びあがつて大尉に続いてきちんと間隔をとつて進みました。

 それから戦闘艦隊が三十二隻,次々に出発し,その次に大監督の大艦長が厳かに舞ひあがりました。

 そのときはもうまつ先の烏の大尉は,四へんほど空で螺旋(うづ)を巻いてしまつて雲の鼻つ端まで行つて,そこからこんどはまつ直すぐに向ふの杜(もり)に進むところでした。

 二十九隻の巡洋艦,二十五隻の砲艦が,だんだんだんだん飛びあがりました。おしまひの二隻は,いつしよに出発しました。こゝらがどうも烏の軍隊の不規律なところです。

 烏の大尉は,杜のすぐ近くまで行つて,左に曲がりました。

 そのとき烏の大監督が,「大砲撃てつ。」と号令しました。

 艦隊は一斉に,があがあがあがあ,大砲をうちました。

 大砲をうつとき,片脚をぷんとうしろへ挙げる艦(ふね)は,この前のニダナトラの戦役での負傷兵で,音がまだ脚の神経にひびくのです

                       (宮沢,1985)下線は引用者

 

烏の義勇艦隊が雪の田圃に一時的に停泊している様子を,「石ころのやうです。胡麻つぶのやうです。また望遠鏡でよくみると,大きなのや小さなのがあって馬鈴薯のやうです」と記している。石にも黒いのが有り,また大きさも色々あるから「石ころのやうです」だけでも意味が通じると思われる。なぜ,「胡麻」や「馬鈴薯」を追加する必要があるのだろうか。また,追加するにしても在来種で縄文遺跡からも出土する「大豆」,「小豆」あるいは「緑豆」ではだめだったのか。

 

「ゴマ(胡麻)」(Sesamum indicum L.)はゴマ科の一年草で,種子を食用にする。「胡麻」という漢字は,古代中国の西域の「胡」から伝わった麻の実に似た種子であることからと付けられたと言われている。

 

「馬鈴薯」はナス科の「ジャガイモ」(Solanum tuberosum  L.)のことであろう。「ジャガイモ」の原産地は南米アンデス山脈で,我が国へは16世紀に伝わったという。「ジャガイモ」を「馬鈴薯」という漢字で表記したのは,江戸時代の本草学者・小野蘭山である。中国の『松渓県志』(1700)という書物に,「馬鈴薯 菜依樹生掘取之形有大小略如鈴子色黒而円味苦甘(馬鈴薯は,葉は樹によって生ず,これを掘りとれば,形に大小ありてほぼ鈴の如し,色は黒くてまるく,味は苦甘し)」という記述があり,小野蘭山がこれを見て文化5年(1800)に『耋莚小犢(てつえんしょうとく)』という書物の中で「ジャガタライモ」として紹介したのが始まりとされている。1800年頃,中国では「ジャガイモ」を「馬鈴薯」と呼んでいたらしい(浅間,2020)。共通するのはいずれも中国大陸が関係する外来種であるということである。

 

物語の景観植物として登場する「杉」や「栗」は前述したように在来種である。また,我が国には主にハシボソガラス(Corvus corone)とハシブトガラス(Corvus macrorhynchos)の2種の「烏」が留鳥として生息しているが,アジア大陸にも生息している。多分,義勇艦隊を形容するのに石だけでなく「胡麻」や「馬鈴薯」としたのは,義勇艦隊の中に日本列島以外の所,恐らくは中国大陸や朝鮮半島からの「渡りの烏」(あるいはその子孫)が含まれていることを強調しようとしたからだと思える。

 

『烏の北斗七星』が蝦夷征討(三十八年戦争)を題材にしていると考えると理解しやすい。「三十八年戦争」を命じたのは桓武天皇であるが,桓武天皇の生母は百済系渡来氏族出身(武寧王の子孫)である(鈴木,2016;崔,2017)。また,第二次征討の副将軍である〈坂上田村麻呂〉と〈百済王俊哲(くだらのこにしきしゅんてつ)〉の二人も渡来系氏族出身と言われている。〈坂上田村麻呂〉は後漢霊帝の曽孫阿知主(あちのおみ)の末裔氏族(東漢氏)出身である。また,〈百済王俊哲〉は7世紀に亡命した百済の王直系の子孫である。百済は朝鮮半島にあった国家で660年に滅亡し,飛鳥時代には百済の亡命貴族が多数我が国に渡来したという。

 

百済王氏(くだらのこにしきうじ)などの苗字名を持つ渡来人は,日本在来氏族よりも軍事的能力や城郭を築城する能力に長けていたとされ,蝦夷対策に「東北」に補任された者が多かったとされる。彼等は強力な私兵を擁していたことも知られている(崔,2017)。その1人である〈百済王敬福〉は749年に陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡)で産出した黄金900両を東大寺建立のために献上したことでも知られている。桓武天皇も百済系渡来氏族の血を引くので,渡来人を優遇したとされる。賢治の情報源が何かは定かでないが,桓武朝時代の蝦夷征討軍の中枢に中国大陸や朝鮮半島由来の渡来人が数多くいたと推測したのかもしれない。 

 

3)烏の義勇艦隊と延暦十三年の征夷軍の類似点

童話『烏の北斗七星』における烏の義勇艦隊と蝦夷征討軍は,(1)軍隊の編制,(2)指揮官の年齢,(3)敵の拠点,(4)出撃方法と戦い方,(5)副指揮官の昇進の有無において極めて類似している(表1)。

 

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(1)烏の義勇艦隊は,大監督(大艦長)と戦闘艦隊長率いる戦闘艦32隻,駆逐艦隊長の〈烏の大尉〉が率いる艦隊19隻,砲艦長率いる砲艦25隻,巡洋艦29隻,正体不明の艦2隻の合計108隻から編制されている。この義勇艦隊は戦闘艦隊,駆逐艦隊,巡洋艦隊,砲艦隊の4部隊で,巡洋艦隊を除けばそれぞれ艦隊長が登場してくる。一方,山烏である敵艦は1隻である。巡洋艦にも艦隊長がいると仮定すれば,烏の義勇艦隊は大艦長以下に艦隊長4名が率いる108隻から編制されていることになる。108隻という数字は明治38年の日本海海戦でバルティック艦隊と戦った日本の連合艦隊の艦数と同じであり,大艦隊である。とても義勇軍とは思えない艦隊の編制である。延暦13年の征夷大将軍・大伴弟麻呂の征討軍も4名の副将軍と蝦夷武装勢力の50倍以上の兵士から編制されている。さらに,烏の義勇艦隊には大陸から渡来してきたと思われる烏がいるが,蝦夷征討軍にも渡来人が多くいる。

 

(2)烏の義勇艦隊の大艦長は「年寄り」であり,実質の指揮官は駆逐艦隊の艦隊長である〈烏の大尉〉である。駆逐艦は「小型」の艦で近代戦では主力艦である大型の戦艦や中型の巡洋艦に近づく敵艦を駆逐する役目をもっているものであるが,この戦いでは先陣を切って出撃している。「延暦十三年の戦い」での征夷大将軍の〈大伴弟麻呂〉もこのとき60代半ばであり,実質の指揮官は副将軍の若い〈坂上田村麻呂〉である。

 

(3)烏の義勇艦隊は「北」へ侵攻して田圃や杜に軍営を設けて敵艦と戦うが,蝦夷征討軍も都から「北」へ進軍して胆沢の平野部(農耕地帯)に陣を張ったとされている。また山烏は縄文時代から栽培されている「栗の木」に「碇泊」するが,「蝦夷」は狩猟採集民の子孫とされている。

 

(4)烏の義勇隊の出撃訓練では,最初に〈烏の大尉〉が率いる駆逐艦隊が飛び上がり,その後戦闘艦隊,大艦長,さらに巡洋艦,砲艦,2隻の艦がそれに続く。「バラバラ」で統率がとれていないのが烏の義勇艦隊の特徴であった。征討軍も「延暦十三年の戦い」の前哨戦となる延暦8年(789)の「巣伏村の戦い」で統率のない戦いが行われていた。「蝦夷」が北上川東岸に集結しているという情報を基に征東副使と鎮守副将軍2人の3人の指揮官が急遽3つに分かれて進軍する策をたてて行動に移すが,3軍の連携がうまくいかず大敗北を喫してしまう。敗北の理由の1つとして策を立てた指揮官が誰一人陣頭指揮を執らなかったことがあげられている。また烏の義勇艦隊では最後に正体不明の2隻が出撃するが,これは,この年に朝廷側に寝返った北方蝦夷の2人の部族長をイメージしたものであろう。実戦で,烏の大尉が率いる駆逐艦隊は,山烏が逃げられないように19隻で四方を包囲してから撃退している。「延暦十三年の戦い」では,朝廷側あるいは〈坂上田村麻呂〉が「蝦夷」に対しては懐柔策をとっていて胆沢の周囲の部族長を寝返りさせている。〈坂上田村麻呂〉は胆沢を孤立させることによって戦いを有利に運んだと言われている。

 

(5)〈烏の大尉〉は勝利に貢献して少佐に昇進するが,〈坂上田村麻呂〉も従四位下に昇進している(3年後には征夷大将軍)。

以上の類似点を踏まえれば,童話『烏の北斗七星』は,延暦13年(794)の〈桓武天皇〉の命を受けた朝廷軍と東北・胆沢の「蝦夷」の武装勢力との歴史的対決を基に創作されていると見なしてもよいと思われる。

 

相違点としては朝廷軍が徴兵による国軍(正規軍)であるのに対して,烏の艦隊が官舎を使っているにもかかわらず義勇艦隊と命名されているということと,烏の艦隊に女性兵士(烏の大尉の許嫁)が存在することである。

 

4)義勇艦隊が意味するもの

最初に,なぜ烏の艦隊は義勇艦隊でなければならなかったのかについて論じる。賢治研究家の大島(2003)によれば,『烏の北斗七星』における義勇艦隊という設定は,「単に「義勇」(正義・勇気に基づく自発的な)+「艦隊」ではない,広くは帝国海軍協会による義勇艦隊設立・募金運動の影響を受けたものであり,具体的には,この運動の中にあった田中智学の「宗説義勇艦隊」の構想から立ち上がったものと考えることができる」としている。

 

著者は,これを支持するがさらに3つの理由を挙げておきたい。1つ目は,大正7年の徴兵検査で「第二乙種」の兵役免除になったことが挙げられる。賢治は,想定されるシベリア出兵に皇軍で参加する意思もあったと思われるから,兵役免除はショックだったと思われる。義勇軍が設置されれば参加したかったのかもしれない。多分,賢治のそういう思いが物語の艦隊を義勇軍にしたのかもしれない。

 

2つ目は,賢治がこの物語を執筆したころ,天皇に対する批判の自由はなかったことが挙げられる。大日本帝国憲法第三条に「天皇の神聖不可欠(天皇の尊厳や名誉を汚してはならない)」が規定されている。これを犯せば不敬罪の対象として罰せられる。賢治の友人である保阪嘉内は「アザリア」という同人誌に天皇制を批判する文章を投稿したことで1918年に退学処分になっている。賢治は,『烏の北斗七星』が「東北」の「先住民」に対する朝廷軍の残虐な侵略戦争を描いたものと知られるのを恐れたものと思われる。それゆえ,兵士を烏としたり軍団を義勇艦隊としたり,あるいは女性兵士を登場させたりしたのだと思われる。

 

3つ目は,当時欧州にドイツ義勇軍の存在が知られていて,賢治はこれに興味を示したからと思われる。第一次大戦末期の1918年には,ロシア革命の影響を受けたドイツ革命に対して,ドイツ社会民主党右派のグスタフ・ノスケ(Gustav Noske:1867~1946)が組織したドイツ義勇軍というのがある。この義勇軍は敗戦後に社会にうまく復帰できない復員兵などにより構成され,社会(共産)主義者とユダヤ人に対して激しい「憎悪」を示し,革命左派に対する暴力組織として活動した。彼らの「憎悪」は,彼らにドイツの敗北が社会主義者やユダヤ人の妨害によるものと認識されていたからとされている。俗に「背後からの一突き」と呼ばれているものである。義勇軍の社会主義者らへの「憎悪」は凄まじく,革命の指導者らを処刑するだけでなく,遺体の確認が困難なほど痛めつけたという。これは,「憎ければ殺すこともあり得る」という人間の本性が冷酷無比に貫かれている。

 

すなわち,賢治が義勇艦隊と命名したのは,義勇軍に対する憧れもあったと思われるが,この艦隊が正規軍(皇軍)であることを隠すためと,山烏に対して凄まじい憎悪も持っているということを強調したかったからと思われる。(続く)

 

引用文献

浅間和夫.1999(更新年).ジャガイモ博物館,アメリカホドイモ・ホドイモ・ガジュ ツ・ガウクルア.2020.12.30(調べた日付).https://potato-museum.jrt.gr.jp/apios.html

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植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(1)

目次

はじめに

1.物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争 

 1)戦場は日本列島

 2)物語に登場する栗や杉は戦争が先住民(狩猟採集民)と渡来人(農耕民)の子孫達の争いであることを示唆している

  (1)栗の登場が意味するもの

  (2)杉の登場が意味するもの

 3)他の賢治作品との関係

2.物語は「東北」の「先住民」と朝廷の三十八年戦争が題材になっている

 1)延暦十三年の戦いにおける朝廷軍の編制

 2)胡麻や馬鈴薯が示唆する烏の義勇艦隊の特徴

 3)烏の義勇艦隊と延暦十三年の征夷軍の類似点

 4)義勇艦隊が意味するもの

3.人を殺める心理

4.烏の大尉の戦いにおける祈りと泪(涙)の意味

 1)烏の駆逐艦隊の泪の意味

 2)戦い前夜における大尉の祈りの意味

 3)戦いが終わった後に流す大尉の泪の意味

 4)義勇艦隊の戦闘行為に正当性はあるか

 5)戦いが終わった後の大尉の祈りの意味

 6)烏の大尉が祈るマヂエル様とは何か

5.恋物語

 1)恋物語が挿入されているのはなぜか 

 2)戦いが終わった後の桃の果汁のような陽の光と白百合の花は何を意味しているのか

 3)大尉の許嫁の泪の意味

 4)大尉の許嫁の「マヂエル様」という叫び

6.「サイカチ」には鬼神が宿る

まとめ

 

はじめに

童話『烏の北斗七星』は,雪の田圃(たんぼ)に横列に仮泊している「里烏」と思われる「カラス」1羽1羽を軍艦(砲艦)あるいは軍人に,また鳴き声を砲撃音に喩えて,これら烏達の仮想の軍隊(義勇艦隊)と田圃に侵入してくる敵艦隊である「山烏」が戦う戦争物語である。烏同士の戦いという形態をとっているが,背後には過去にあった人間同士の具体的な戦争が題材にされていると思われる。

 

この物語は,「里烏」の艦隊の演習あるいは敵艦隊との迫力ある戦闘場面が出てくるが,主人公である義勇艦隊の〈烏の大尉)の戦う前と後での内的な心理描写や戦闘に翻弄される〈烏の大尉〉の〈許嫁〉の姿が詳細に描かれている。例えば,〈烏の大尉〉は戦う前と後に北斗七星に向かって「祈り」を捧げる。また,〈烏の大尉〉とその〈許嫁〉は戦闘に勝利したにも係わらず敵である「山烏」の前で泪を流したりする。

 

『烏の北斗七星』は,生前に刊行された唯一の童話集『注文の多い料理店』に収載された童話の一つである。この童話集は大正13年(1924)11月10日に印刷され,12月1日に発刊された。初版本の目次には,この童話の初稿と思われる日付として1921年12月21日の数字が記載されている。また目次の「烏の北斗七星」の説明には「戦ふものゝ内的感情です」とある。この童話を世の中に知らしめたのは,昭和20年に特攻隊員として沖縄で戦死した佐々木八郎の手記に『烏の北斗七星』が挙げられていたことによる。

 

賢治作品は難解なものが多いが.この作品も,特に主人公と〈許嫁〉の戦う前後の北斗七星への「祈り」と「泪(涙)」の意味は理解しにくい。理解しにくいのは,烏の義勇艦隊と「山烏」の艦隊の戦闘(戦争)の原因が分かりづらいからと思われる。

 

筆者は,難解な童話『銀河鉄道の夜』を解釈するに当たって,そこに登場する30種ほどの植物から,沢山のヒントもらった(石井,2020)。賢治作品に登場する植物は,単に風景描写として配置されているのではない。意味が取りにくい文章に遭遇したとき,その近くに配置されている植物を調べることによって解決したこともある。作品中の植物には,登場する意味が付与されている。

 

童話『烏の北斗七星』には,栗,杉,桃,苹果(りんご),百合,さいかち,胡麻,馬鈴薯(ばれいしょ)といった沢山の植物が登場してくる。本稿(1)及び続編(2~6)では,これら植物の登場する意味を探ることによって,『烏の北斗七星』の争いの舞台とその原因を明らかにして,主人公達の戦いにおける「祈り」と「泪(涙)」の意味について考察する。

 

1.物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争 

 

1)戦場は日本列島

研究者の多くは,賢治が童話『烏の北斗七星』における烏の義勇艦隊と山烏の戦いに対して第一次世界大戦(1914~1918)やシベリア出兵(1918~1922)など日露戦争後の近代の国家間の「戦争」をイメージして創作していると考えている(大島,2003;張,2016;米地,2018)。

 

これは,この童話が第一次世界大戦(主戦場は欧州)やシベリア出兵の直後に書かれていることと,多数の近代戦を思わせる軍艦が登場してくるからと思われる。しかし,物語の景観の中に登場する「スギ」(Cryptomeria japonica (L.f.) D.Don)は本州から屋久島にかけて分布する我が国の固有種であり(加藤・海老原,2011),「サイカチ」(Gleditsia Japonica Miq.)も本州,四国,九州と一部朝鮮半島,中国に分布する固有種に近い植物である(北村・村田,1982)。

 

「サイカチ」は植物図鑑によっては,学名の種小名が「Japonica;日本の」とあるように分布を本州,四国,九州としか記載していないものもある(矢野・石戸,1983)。すなわち,両方とも欧州やシベリアでは見かけない植物である。戦場もこれら植物分布に基づいて北海道を除く日本列島と考えたほうが良さそうである。

 

 烏の大尉は,確かに烏の義勇艦隊と山烏の戦いを「戦争」と言っている。物語の語り部も「この前のニダナトラの戦役での負傷兵」の話を語っている。「戦役」とは,長期間持続した「戦争」の全体を局面ごとに分割してときの1単位の戦闘である。

 

しかし,「戦争」とは国家間だけでなく交戦集団が武器を使用しての内戦を指すこともある。例えば,戊辰戦争(1868~1869)や西南戦争(1877)がそれに該当する。戊辰戦争は王政復古を経て樹立した明治政府と旧幕府勢力および奥州越列藩同盟が戦った日本の内戦であり,西南戦争は西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。

 

この二つの戦争には朝廷側の軍(官軍)とそれに対抗する軍(賊軍)の戦いという共通点がある。西郷隆盛も朝敵扱いにされている。すなわち日本の歴史では朝廷軍との戦闘は「戦争」となるのである。西軍と東軍が戦った「関ヶ原の戦い」(1600)を「戦争」とは決して言わない。

 

前述したように,この物語には「戦役」という言葉が出てくるが,似た用語に「役」というのがある。「役」は異民族との戦いに使うことがある。例えば国内で言えば,前九年の役(1051~1062)や後三年の役(1083~1087)がある。朝廷の命を受けた河内源氏と「東北」の阿部氏の戦いである。阿部氏は異民族扱いである。多分,烏の義勇艦隊と山烏の戦いは日本列島(北海道を除く)で行われた朝廷が関与した内戦がイメージされている可能性が高い。

 

2)物語に登場する栗や杉は戦争が先住民(狩猟採集民)と渡来人(農耕民)の子孫達の争いであることを示唆している

 賢治は,烏の義勇艦隊と山烏の戦いを描くにあたって,過去のどんな「内戦」をイメージしたのだろうか。この物語で,烏の義勇艦隊は山裾の雪の田圃に「横列」に「仮泊」している。多分,この義勇艦隊は南から侵攻してきた組織行動が取れる軍隊である。

 

陣の近くには「杉の杜(もり)」と西方の「さいかちの杜」がある。烏の義勇艦隊の最高司令官である年寄りの「大監督」は杜にある「杉の木」を官舎に使っていて,〈烏の大尉〉らの部下達も「杉の杜」を営舎にしている。義勇艦隊は名前が示すように自発的に参加した烏(人民)の戦闘部隊のようだが,「大監督」が「官舎」を使っているので徴兵制を採用する国家の軍隊である可能性もある。義勇艦隊の命名に関しては続編(3)で詳細に考察する。

 

戦う場所は北方の国境とも言える「セピラ峠」にある敵の最前線基地である。〈烏の大尉〉は「杉の森」の営舎から峠の「栗の木」に「碇泊」している「山烏」の艦隊を発見する。

  烏(からす)の義勇艦隊は,その雲に圧(お)しつけられて,しかたなくちよつ   との間,亜鉛(とたん)の板をひろげたやうな雪の田圃(たんぼ)のうへに横にな らんで仮泊といふことをやりました。

 どの艦(ふね)もすこしも動きません。

 まつ黒くなめらかな烏の大尉,若い艦隊長もしやんと立つたまゝうごきません。

 からすの大監督はなほさらうごきもゆらぎもいたしません。からすの大監督はもうずゐぶんの年老(としよ)りです。眼が灰いろになつてしまつてゐますし,啼(な)くとまるで悪い人形のやうにギイギイ云(い)ひます。

 (中略;烏の義勇艦隊の実戦演習場面を省略)

 さて,空を大きく四へん廻つたとき,大監督が,

「分れつ,解散」と云ひながら,列をはなれて杉の木の大監督官舎におりました。 みんな列をほごしてじぶんの営舎に帰りました。

 (中略)

 ふと遠い冷たい北の方で,なにか鍵(かぎ)でも触れあつたやうなかすかな声がしました。烏の大尉は夜間双眼鏡(ナイトグラス)を手早く取つて,きつとそつちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠の上に,一本の栗(くり)の木が見えました。その梢(こずゑ)にとまつて空を見あげてゐるものは,たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。

「があ,非常召集,があ,非常召集」

 大尉の部下はたちまち枝をけたてて飛びあがり大尉のまはりをかけめぐります。

「突貫。」烏の大尉は先登になつてまつしぐらに北へ進みました。

                   (宮沢,1985)下線は引用者

 

賢治がイメージした内戦の場所は,物語に「栗」や「杉」が登場してくる意味を探ることによって明らかになる。

 

(1)栗の登場が意味するもの

敵の山烏が「セピラ峠」の最前線基地で碇泊するのに使用している「栗」は,我が国の山野で普通に見られる「クリ」(別名はシバグリ,ヤマグリ;Castanea crenata Siebold et Zucc..)のことであろう。ブナ科クリ属の落葉高木である。『原色日本植物図鑑・木本編』では,幹は直立し,高さは17m,胸高直径80cmに達し,大きなのは1.5mにも及ぶとされている(北村・村田,1982)。果実はクルミ,トチ,各種ドングンリと同様に縄文時代からの狩猟採取民にとって重要な食料源であった。 

 

近年,縄文時代中期頃とされる青森県の三内丸山遺跡で極めて高率に「クリ」の花粉分布域が検出され,当時この周辺には栽培・管理された純林に近い「クリ林」が存在していたことが明らかにされている。さらに,縄文人は果実を食料にするだけでなく木材を住居の柱,杭,丸木舟,櫂(かい)など土木・用具材に利用してきたことも明らかになってきた。木材には防腐効果のあるタンニンが含まれるため保存がきく。

 

三内丸山遺跡では,巨大な集落跡に「クリ材」を使用したと思われる地上の高さ15mと推定される6本柱の巨大な掘立柱建物跡(直径約1m)が出土している(鈴木・能城,1997;今井,2014;中山,2015)。果樹園学専攻の今井(2014)は,三内丸山遺跡の埋没部を含めると15m以上とも推定される掘立柱建造物の柱材を当時の集落の周辺にあった「クリ林」から調達することは容易なことではなかったと想像している。そして,このような特殊な材を得るために,果実を採取するための管理の他に,広葉樹用材林施業で一般的に不可欠とされる枝打ちや間伐などの人為的な管理もなされていたと推測している。

 

さらに,三内丸山遺跡よりも7,000~8,000年ほど遡る縄文草創期の住居跡(静岡県葛原沢Ⅳ遺跡,栃木県野沢遺跡)からも,エゴノキ,タケ類,コナラの仲間とともに「クリ材」の柱が出土している。

 

また,縄文時代の遺跡から水に浮かべて人や物を運ぶ「丸木舟」(1本をくり抜いた舟)も出土している。材料は東日本では「クリ材」が,日本海沿岸では「スギ材」が多用されているという(滋賀県文化財保護協会,2007)。縄文文化の中心が「東北」ということを考えれば,「クリ」は狩猟採集の縄文時代を通じて最もよく使われる木材の1つと考えられている。

 

物語で「栗」はセピラ峠にあるが,このセピラ峠の「セピラ」という名は,アイヌ語の崖(「ピラ・pira」),あるいは懐古的なイメージのある「セピア:sepia」と関係があるのかもしれない。「アイヌ」は北海道や「東北」に住んでいた。また,「アイヌ」は縄文人に近い民族とされている。すなわち,この「戦争」は,遠い昔(セピア色)の東日本(東北)で起こった戦いがイメージされているように思える。

 

(2)杉の登場が意味するもの

一方,年老いた烏の大監督が「官舎」にしている「杉」は,前述したようにヒノキ科の常緑針葉樹の「スギ」(Cryptomeria japonica (L.f.) D.Don)のことで,真っ直ぐに伸びる(直木)という名が由来の在来種である。高さ30~40m,胸高直径2mに及ぶものもある(北村・村田,1982)。「スギ」は比較的水分量の多い土壌を好むので,その生育する場所は沢筋の低湿地や扇状地末端などである。

 

「スギ」は縄文時代以前から我が国に分布していたとされる。何度かの氷期の間に絶滅せずに残った「スギ」は滋賀県の琵琶湖と福井県の若狭湾を挟む山地を中心に生存していたが,縄文時代に地球が温暖となったときに,落葉広葉樹が生育範囲を拡大する前に北へと向かっていった。

 

「東北」における「スギ林」の分布拡大は日本海側と太平洋側では異なることが知られている。秋田県を中心として降水量の多い日本海側地域では,平野部においておよそ4,400年前を契機にスギの分布の拡大が始まる。一方,降水量の少ない太平洋側の北上盆地(胆沢扇状地を含む)では1,400年前から1,000年前を契機に「スギ」の増加傾向が見られるという。前者は「秋田杉」と知られている天然スギであるが,後者は小規模な屋敷林などの植林であるという(安室,2013)。

 

賢治の短編童話『虔十公園林』も「スギ」の植林を題材にしている。多分,場所は北上盆地内であろう。軽度の知的障害がある虔十少年は,周囲の反対にもめげず自発的に自宅の裏手の野原に700本の「スギ」の苗を植林する。土地の者は,野原の下は「硬い粘土」だから「杉など育つものではない」とばかにする。しかし,虔十は間伐などをしながら育て,虔十稿園林と命名されるほどの立派な公園林にする。賢治も北上盆地の「スギ林」の多くが人為的な植林によるものだということを知っていたのかもしれない。 

 

「スギ林」は,縄文時代に「東北」の秋田県や岩手県の北上盆地に分布していたと思われるが,狩猟採取民は「スギ」を利用することはほとんどなかったらしい。「東北」に未だ「スギ」が十分に分布域を拡大していなかったことも考えられるが,この時代の伐採器具である「石斧」は刃先が鋭利ではないため,幹に打ち込んでも「スギ」の柔軟で繊維質豊富な材質によって撥ね返され切断することができなかったからとされている(有岡,2016)。針葉樹材の特徴として仮導管細胞が伸長方向に密な束となり繊維を形成しているからである。「クリ」などの堅い材の場合は,石斧で材を傷つけることができ,時間はかかるが伐採することができた。

 

古代において「スギ」を利用できたのは,鋭利な「鉄器」(鉄斧,刀子,鑿(のみ)など)を持っていた弥生人である。弥生人とは弥生時代に中国大陸や朝鮮半島などから渡来してきた大陸系弥生人と,縄文人がその文化を受け入れて混血した混血系弥生人などである。弥生人は集落の周辺に生育する「スギ」を「鉄器」で伐採し,水田の畦を「スギ」の板(矢板)で造成し,文化圏を作っていった。「スギ材」の用途として矢板以外に皿,鉢,高杯,匙,桶,鍬(くわ),田下駄,田舟,丸木舟などがある。弥生時代の代表的な遺跡として昭和18年から発掘作業が始まった静岡県の登呂遺跡があるが,この遺跡で出土した矢板,建築材料や木器の80%以上は「スギ材」であった(有岡,2010)。

 

弥生時代の遺跡からは「丸木舟」も出土している。多くは「スギ材」が使用されている。出土した「丸木舟」の造られた年代は明確ではないが,昭和63年現在の時点で出土している丸木舟は180艘あり,その樹種は30種のぼる。樹種の中で最も出土数が多いの「スギ材」の48艘であり群を抜いている。2番目の「カヤ(榧)」は32艘で5番目の「クリ」は14艘である。賢治の生きた時代にも「スギ材」の丸木舟の発見例が報告されている。1922年に青森市で長さ7mほどのものが出土している(山内,1950)。

 

時代が奈良・平安時代になると,「スギ材」が多種類の林産資源とともに舟・城柵・竪穴住居・農耕具などの生活分野に利用されるようになってきた。「舟」に関しては「伊豆手舟(丸木舟)」が知られている。和歌集である『万葉集』(759~780年頃)に,「鳥総立て足柄山に船木伐り 樹に伐り行きつあたら船材を」とあり,足柄山周辺が船材の重要な産地であったことが,さらに「吾背子を大和へ遣りて松し立す 足柄山の杉の木の間か」と足柄山に「スギ」の林が多かったことが記されている。また,『万葉集』には「防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船 楫取る間なく恋はしげけむ」とあり,足柄山に続く伊豆の船材を使って造った手船が難波で使用されていたことも記されている(安田,1991)。

 

古い記紀にも記載がある。7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂された『日本書記』の「神代上」には「杉」と「楠(くすのき)」は舟の材料に,「檜(ひのき)」は宮殿建築に適していると記されている。また『古事記』にも「杉」で丸木舟を作ったことが記されているという(有岡,2010)。賢治は,「スギ」の丸木舟をこれら記紀の記述を通して学んでいたかもしれない。

 

古代の「城柵(じょうさく)」にも「スギ材」が使用されている。「城柵」とは後述するが,古代に「東北」の辺境に設けられた「蝦夷(エミシ)」対策の城郭のことである。秋田県横手盆地北部に位置する払田柵跡は,9世紀初頭から10世紀後半まで存続した城柵跡である。発掘調査から,造営に際して大量の「スギ材」が使用されたことが明らかになっている。

 

払田柵の外柵は約4kmもあり,それを長さ4m,太さ約30cm四方の角材で,その距離を隙間なく並べてある。単純計算しても1万本以上の「スギ材」が使用されている(有岡,2010)。払田柵の「スギ」の柵木は,賢治が生きていた昭和5年(1930)に発掘調査したときに出土している。ただこの年は,賢治が物語を創作した6年後なので,賢治は古代の城柵が「スギ材」で作られていることは知らなかったかもしれない。

 

このように,古代の造船や家屋の造築において,縄文人などの狩猟採集民は「クリ材」を,農耕民や朝廷軍は「スギ材」を主に利用していたことが伺われる。ここで,セピラ峠に「碇泊」している「山烏」に「クリ材」を利用する武装した狩猟採集民が,そして雪の田圃に「仮泊」する烏の義勇艦隊に「スギ材」を利用する朝廷軍が投影されているとすれば,山烏と烏の義勇艦隊の戦いは日本列島の特に「東北」に先住していた狩猟採集民と渡来人を中心とした農耕民の子孫達の戦いがイメージされているのかもしれない。

 

3)他の賢治作品との関係

童話『烏の北斗七星』は童話集『注文の多い料理店』に収載された9つの童話の1つである。『烏の北斗七星』(1921.12.10)は,他の童話である『狼森と笊森と盗森』(1921.11)や『注文の多い料理店』(1921.11.10)の約1か月後に創作された。

 

童話集の広告文には,童話『注文の多い料理店』では「二人の青年紳士が猟に出て路に迷ひ注文の多い料理店に入りその途方もない経営者から却って注文されてゐたはなし。糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。」が記載されていた。「放恣(ほうし)」とは勝手気ままで節度がないという意味である。童話『狼森と笊森と盗森』を「東北」の「先住民」と「入植者」(移住者)の衝突を扱った作品とし,童話『注文の多い料理店』が勝手気ままに都会文明を持ってきた「入植者」への反感を扱った作品とすれば,『烏の北斗七星』は「先住民」と「入植者」の戦いとなるのは必然のように思える。

 

「東北」への南からの移民は,「東北」の「先住民」である「蝦夷(エミシ)」対策に作られた「城柵」と深く関わっているとされている(高橋,2012;鐘江,2016)。「城柵」は,7世紀後半以降に「東北」に進出した律令国家の国境における最前線基地であった。「城柵」には,国家側から官人が管理者として送られるが,その「城柵」の経営を維持するために「柵戸」が配される。国家側の民が「城柵」の周辺に集団で移住し,開拓民的存在として周辺の開発と「城柵」での労働などに従事した。

 

霊亀元年(715)に相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国の富民1000戸を「柵戸」として陸奥に配したという記録がある。「城柵」の周りには「移住者」だけでなく近隣から先住民達も集まり両者の交流も盛んになっていったという。すなわち,「城柵」は軍事拠点であるとともに「先住民」との交流の場でもあった。しかし,「移住者」の質が下がるなどして両者の衝突が頻繁に起こるようになり,やがて宮城県北部から岩手県にかけて,「蝦夷」と国家とは泥沼に嵌まったごとくの「三十八年戦争」(774~811)に突入する。

 

延暦21年(803)には,民ではなく駿河・甲斐・相模・武蔵・上総などの諸国から4000人の浪人が陸奥胆沢の「城柵」(胆沢城)の中あるいは周辺地域に集められた。

すなわち,童話『烏の北斗七星』における山烏と烏の義勇軍の戦争は,「東北」の武装した狩猟採集民の子孫である「蝦夷」と武装した農耕民(弥生人)の子孫である入植者あるいは国家の軍隊との戦いが背景にあると考えられる。(続く)

 

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