宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-農業(1)-

Key words:文学と植物のかかわり,イタリア,農業,たうもろこしの木

 

賢治は,大正7年(1918)に盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業して研究生となる。2年後に指導教官(関豊太郎教授)から助教授に推薦されるが辞退する。翌年の11月に稗貫(ひえぬき)農学校 ( 現在の岩手県立花巻農業高等学校 )の教諭になる。しかし,4年後の1926年3月には退職し,私塾である羅須地人協会を設立して,以降農業指導に奔走するようになる(原,1999)。退職の主な理由は,よく分かっていないが,生徒に対しては「農民になれ」と言っておきながら,自分は楽しい授業をして相当額の俸給を貰っていたことも一因と考えられている。

 

賢治は,教鞭をとりながら文学作品も書き続けた。『銀河鉄道の夜』(第一次稿)は,退職の1年3カ月前の1924年12月に友人に披露しているので,『銀河鉄道の夜』の作品中には農業への強い思いが語られていると思う。

 

『銀河鉄道の夜』は,イタリア人のデ・アミーチス作『クオーレ』(初版1886年)の影響を受けて創作されたと言われている(原,1999)。『銀河鉄道の夜』の舞台は,ジョバンニというイタリア人の名前の主人公が登場することからも南欧のイタリアとされている。本稿では,『クオーレ』の書かれた時代のイタリアの農業と『銀河鉄道の夜』が書かれた時代の日本(特に岩手県)の農業を比較しながら,賢治の農業に対する考え方を考察してみたい。キーワードは,『銀河鉄道の夜』の最終章に登場する「たうもろこしの木」である。

 

1.『銀河鉄道の夜』の主人公の家族と生活状況

主人公のジョバンニは,朝は新聞配達,放課後は午後6時頃まで活版所でアルバイトをして家の生計を助けている。ジョバンニが活版所で1日働いて得る収入は小さな銀貨1枚である。当時イタリアでは,1リラ銀貨(1867年,径23mm,銀5g)が発行されていたので,小さな銀貨とはこの1リラ銀貨のことかもしれない。ジョバンニは,この銀貨で,パンの塊を1つと角砂糖を1袋買って家に帰る(第1表)。ジョバンニの家族は,不在の父親(漁師で今は収監されている)を除けば姉と病気の母の3人家族である。姉が働いているという記載はないが,たとえ働いていたとしても2人の収入の合計はたかが知れている。19世紀末のイタリアの労働者階級の生活の様子を第2表に示すが,これを参考にしても,ジョバンニの家族はかなり貧しい生活を余儀なくされていたと思われる。ジョバンニの夕食は,「銀河の祭り」の日だというのにパンとトマト料理だけである。 

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2.19世紀末から20世紀初頭にかけてのイタリアと日本の農業事情と生活状況

『クオーレ』の主な舞台は,北イタリアのトリノである。トリノは1861年に王国として統一されたときの最初の首都である。イタリアは,当時,就業者人口の61%が農業従事者という純然たる農業国(農産物輸出国)であり,特に北部のポー川流域の平野部では,多くの雇用労働者の使用に依拠した大規模農場経営が形成されていた。トリノのあるピエモンテ州(稲作大経営)は,ポー川流域の平野部の西に位置し,米,牧草,小麦を,そして東に位置するロンバルディーア(酪農大経営)では牧草,小麦,「トウモロコシ」が栽培されていた。

 

しかし,イタリア農業は特に南部において際立つが極めて後進的な性格をもっていた。すなわち,生産性の低さ,零細な農業経営の支配性,農業技術の後進性などの特徴がそれである(堺,1998)。そして,イタリアは統一後20年の1881年に大凶作に見舞われ,また自由貿易政策のもと競争力の弱さが露呈し,同時に穀物(小麦,米)価格も下落するという二重の農業不況に見舞われることになる(堺,1998)。この不況は,構造的なものであるため1900年ごろまで続く。まさに『クオーレ』が書かれた時代は,この農業不況の真っただ中であった。北部のロンバルディーアの農業は,大規模農場経営であるがゆえになんとか持ちこたえるのだが,不況の犠牲となったのは,特に南部の農村の貧しい層であった。彼らは大量の移民となってアメリカやヨーロッ諸国へと渡った。

 

『クオーレ』に記載されている「母をたずねて三千里」(原題は「アペニン山脈からアンデス山脈へ」)の主人公は,トリノの南にあるジェノバに住んでいて,そこから出稼ぎに行った母を訪ねて北大西洋を渡って南米のアルゼンチン(南十字星が見える)まで旅をする(アミーチス,1992)。

 

ここで,注目したいのは,ロンバルディーアの「トウモロコシ」である。「トウモロコシ」(玉蜀黍 学名Zea mays)は,大航海時代にイタリア人のクリストファー・コロンブスが,アメリカ大陸を発見したときに原住民のインディアンから栽培法を学び欧州へ持ち込んだものである(戸澤,2005;第1図)。なぜ市場性の高い生産を指向するはずのロンバルディーア大規模農場経営にあって,多くの手耕労働を必要とし,そのわりには当時商品価値が決して高いとはいえない「トウモロコシ」が重要視されたのだろうか。それは,「トウモロコシ」が雇農層の「主食」としての地位を占めていたこと(堺,1998),ほかの穀物に比べ「高い生産性」,「広い栽培適応性」,「高い貯蔵性」および「高いエネルギー価」(戸澤,2005)を有していたことによると思われる。これらの理由によって,農業不況下でもロンバルディーアの雇農層の食料問題は解決されたのである。

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第1図.トウモロコシ.

「トウモロコシ」を使った料理で有名なのは「ポレンタ」である。今でも,北イタリアで食べられている家庭料理である。作り方は,いたって簡単で,「トウモロコシ」の粉に塩,オリーブオイル,水などを加えて練ってから煮込んだものが一般的である。『銀河鉄道の夜』では,姉がトマト料理を作るが,ポレンタにトマトソースをかけた簡単なイタリア料理もあるので,このことを言っているのかもしれない。

 

一方,賢治の生きた時代の東北の農業も悲惨であった。日本の主食は,米であるが,イネ(稲 学名 Oryza sativa )は熱帯地域に起源を置くがゆえに,東北での栽培の歴史は,まさに冷害との戦いであった。夏,オホーツク海高気圧が勢力を伸ばすとヤマセ(低温の偏西風)が吹いて,濃霧や雨,雹(ひょう)を降らせ冷夏となり水害(=凶作)をもたらす(原,1999)。賢治存命の間だけでも水害は12回を数えるという(西山,2001)。

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第2図.イネ. 

米の収穫は,1887年ごろまで1反歩(10アール)1石(半収1石と呼ぶ)にも及ばず全国最下位に岩手県の稲作があった(西山,2001)。ちなみに1石(150kg)とは大人1人が1年間に消費する量である。しかし,賢治の時代には,第3表に示すように稗貫郡においても反収2石前後の収穫が見込めたようだ。農家1戸当たりの耕作面積は,稗貫郡では平均1.4町歩(140アール)であるので,1戸当たりの米の収穫は豊作時には24石になる。小作農家であるなら,小作料として半分取られるので残りは14石となる。一家を養う食料と現金化して生活に必要な最低限の品物を手に入れるのがやっとのギリギリの状態であったと思われる。

 

当時の食生活は,市部では米,麦を常食とするも,粟や稗を混入する時もあり,村落部では,米,麦,粟,稗を常食とし,大根カテを四季用いる地方と特に冬季に麦の代用に用いる所があったという(第3表)。また,北上山地では,通称「バッタリ」と呼ばれる稗つき器でついた「ひえメシ」が主で,稗と麦,稗と粟などの混食,米,稗と三部七部に入れたり,五分五分にしたり,稗三分米七分というのがとおり相場であったという(西山,2001)。このように,イタリアでは,雇農層が「トウモロコシ」を主な主食としたように,東北の農家の生活は自給生が高く手間のかからない稗と粟に支えられてきた。他県が急速に換金性の高い野菜などの栽培に移行したのに,岩手県は逆に全国の50%弱の稗の生産を続けていた(全国トップ)。

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しかし,ひとたび凶作に見舞われればどん底の生活を余儀なくされた。冷害に対して対策がなかったわけではない。賢治が『銀河鉄道の夜』を書き始めたころには,冷害に強い品種も出てきている。『春と修羅 第三集』の「あすこの田はね」に出てくる「陸羽一三二号」は冷害に強い品種として有名である。しかし,凶作は終わらなかった。賢治が亡くなった翌年(昭和9年)は,昭和の歴史に残る凶作であった。特に東北の長期冷害は深刻で,稲作に関して秋田は平年作に比べて2割,岩手では5割の減収であり,また陸稲,麦,稗,粟なども多大な減収となり,秋から冬にかけて農家では借金累積,娘の身売り,欠食児童,生き倒れなどの悲惨を極めた(田中館,1934;  朝日新聞,1935)。

 

3.たうもろこしの木

『クオーレ』の時代に起きたイタリアの農業不況に対して,北イタリアの大規模農場経営を営むロンバルディーアでは「トウモロコシ」が大いに貢献した。賢治は,『クオーレ』を読んだと思われるので,イタリアの農業にも関心があったと思われる。賢治存命のころ,岩手県で「トウモロコシ」はトマトと同様に珍しいものであった。しかし,賢治は「トウモロコシ」を作品中に多用する。『銀河鉄道の夜』では「たうもろこしの木」として登場する。氷山にぶつかって沈没した大型船の乗客が乗り込んできた後,銀河鉄道の列車は川から離れた高い崖の上を走るようになるが,このころから「たうもろこしの木」が見え始めてくる。そして,第二時に小さな停車場につくころには,「たうもろこしの木」の林は高原の野原に地平線のはてまで続くくらいに見える。

 そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るやうになりました。向ふ岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のやうな実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増して来てもういまは列のやうに崖と線路との間にならび思わすジョバニが窓から顔を引っ込めて向こう側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植ゑられてさやさや風にゆらぎその立派なちゞれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のやうに露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光ってゐるのでした。     (宮沢,1986)下線は引用者

 

農作物が地平線のはてまで続く風景は,ちょうど1970年に公開されたイタリアのヴィットリオ・デ・シーカ監督作品『ひまわり(I Girasoli )』を思いだせる。劇中に何度か登場する地平線のはてまで続くひまわり畑の美しさは圧巻であった。主人公はソフィア・ローレンが演じるジョバンナである。ジョバンナはジョバンニに女性名である。

 

さて,ここで本文に記載されている「たうもろこしの木」の「木」と,「たうもろこしの木」に「金剛石のやうな露がいっぱいに」につくという2点について考察してみる。「トウモロコシ」は,イネ科の1年生植物(草本)であるので,本来「たうもろこしの木」なるものは,現実空間(三次空間)には存在しないはずである。しかし,草本植物を木本植物に変える試みが,1985年のつくば科学博で無限成長性の優れたトマトの品種を使って実施され,1株から1万個以上のトマトが収穫できる「トマトの木」が展示されていた。条件させ揃えば,あるいは遺伝子組み換え操作などを使えば「トウモロコシ」も木になるのだろうか。

 

賢治が「たうもろこしの木」と記載したのは,科学技術の進歩によって草を木に変えられると考えてのことかもしれないが,この物語では特に「トウモロコシ」を強調し,そして称賛したかったからだと考えて論を進める。それは,「たうもろこしの木」に「金剛石(ダイヤモンド)のやうな露がいっぱいについて」いたからである。賢治の童話『十力の金剛石』では,「十力の金剛石こそは露で」あり,「あの十力の尊い舎利でした」とある。「舎利」は,お釈迦様の遺骨のことである。賢治研究科の天沢退二郎は,童話『十力の金剛石』の解説文の中で,「人生においてそれをこそ求めるべきであるところのものの象徴としての《十力の金剛石》,すなわち露であると同時に森羅万象をきらめかせる原理そのものであった」と述べている(宮沢賢治,1986)。

 

私なりに解釈すれば,さらに「命を与える源」といってもよいのではないか。『銀河鉄道の夜』では,銀河の祭りに子供たちが「ケンタウルス,露をふらせ。」と叫んで走り回る場面が出てくる。ケンタウルスは,ギリシャ神話に出てくる上半身人間の馬の形をした怪物である。この「ケンタウルス,露をふらせ。」を見事に映像化して見せてくれたのが宮沢賢治から多くの影響を受けたとされる宮崎駿(アニメーション作家)である。1997年に公開された長編アニメ『もののけ姫』に登場する「シシ神」がケンタウルスに類似している。

 

シシ神の顔は,人間のようであるが角を持ち,体はカモシカのような姿をしている。シシ神の森に棲み,命の授与と奪取を行う神として扱われている。シシ神が歩くところは常に植物の花が咲き乱れる。主人公のアシタカが瀕死の重傷を負ったとき,シシ神が助けるのだが,このときシシ神の周辺の草木は全てたくさんの露で覆われる。

 

それでは,なぜ賢治は「トウモロコシ」を強調し,さらには最大限の称賛を贈っているのだろうか。天上の農業で,栽培される「イネ」と「トウモロコシ」を比較してみる。「イネ」は,この辺なら「種さへ播けばひとりでにどんどんできる」ことになっている。もしかしたら,場所が代われば育たないのかもしれない。一方,「トウモロコシ」はひどい高原でも「棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播けば」育つと言っている。一尺は33.3cmなのでかなり深い穴を掘ることになる。「たうもろこしの木」だとその位の穴が必要なのだろう。賢治の詩「三原 第二部」には,アメリカインデアンの「トウモロコシ」の栽培方法が記載されている。

 いったい種子の発芽には/温熱水湿酸素の三つが要りますが/地表には酸素と熱には多く/深部は湿りが大きいために/土性とそれから気候によってこれら三つの調和の点を求めるのです/非常な旱魃(かんばつ)続きのときに/巨きな粒の種子を撒きつけしますには/アメリカインデアンの式をとります/棒で三寸或は五寸も穴をあけ/中に二つぶぐらゐもまいて/わづかに土を投げて入れます/播く前種子を水に漬けるか漬けないか/それは天気とあとの処理とに従ひませう 

 「三原 第二部」 (宮沢,1986)下線は引用者

 

棒を使った種蒔きは,今でも南米で行われている(戸澤,2005)。前報で述べたように,この物語に登場する人物は,何かしらの自己犠牲を強いられている(石井,2011)。詐欺師のような〈鳥捕り〉は,1駅で下車することになるが,最も強い自己犠牲を強いられたジョバンニは「ほんたうの幸い」を探し求めるための「どこまででも行ける切符」が与えられる。ジョバンニが車掌に見せた切符に対して,横からちらっと見た〈鳥捕り〉はあわてたように言う。

 「おや,こいつは大したもんですぜ。こいつはもう,ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どぢゃない,どこまでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ,なるほど,こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか,どこまででも行ける筈でさあ,あなた方大したもんですね。」(下線は引用者)

 

賢治は,最も強く自己犠牲を強いられたジョバンニに敬意を払ったように,劣悪条件下でも良く育ち自らの体の一部を人間に提供してくれる「トウモロコシ」に対して,動植物にとって最も価値のある「露」を与えた。賢治は,「トウモロコシ」が将来日本あるいは世界の食料危機を救うと考えていたのかもしれない。「トウモロコシ」は,現在世界三大穀物(他には稲,小麦)の1つであり,最も生産量の高い穀物でもある。2009年には世界で8億1700万トンを生産している。我が国の「トウモロコシ」の生産量は,わずかであるが,世界第1位の輸入大国である。輸入された「トウモロコシ」の多くは,家畜の飼料だが,我々は間接的には肉や乳製品として摂取することになる。また,食品としてではなく工業用として生分解性プラスチックやバイオエタノールの生産などにも用途が広がっている(戸澤,2005)。賢治がこの「トウモロコシ」の有用性と現在の穀物市場を90年前に予測していたとすれば驚嘆に値する。

 

最近,東北農業研究センターが,東北地方の高標高地でも家畜用の「トウモロコシ」が生産できることを実証した。東北の北上山系の900mを超す山地(高標高地)は,これまで牧草以外の作物は栽培できないとされていたが,サイレージ(発酵させた家畜用の飼料)用のトウモロコシ生産が可能になった(出口ら,2007)。賢治がよく出かけたという北上高地(南西部の東西11km,南北20km)の種山ヶ原(標高600-870m)に,地平線の彼方まで続くトウモロコシ畑を見ることもそう遠くないことであろう。(次稿に続く)

 

引用文献

朝日新聞社編.1935.昭和9年10月東北凶作義金報告.朝日新聞社.東京

アミーチス. E.(矢崎源九朗訳).1992.クオレ-愛の学校(上,下).偕成社.東京.

出口 新・魚住 順・嶝野英子・河本英憲・島崎由美.2007.北上山系の高標高地でもサイレージ用トウモロコシが生産できる.東北農業研究成果情報 21:205-206.

藤澤房俊.1998. 『クオーレ』の時代.筑摩書房. 東京.

外務省調査部. 1938. 伊太利の経済機構と現勢 前編.146号

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌 11(1):21-24.

岩手県農業科学博物館・企画展.2012.3.8.(調べた日付).第49回「命を救った食物」http://www.pref.iwate.jp/~hp2088/park/kikaku/49th_inochi_tabemono.html

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

日経新聞.2010. 米育てるLED証明,ウシオライティングと昭和電工

西山康夫.2001. 宮沢賢治と村の構造-アルペン農の史的展開.宮沢賢治 16:218-229.

堺 憲一.1988.近代イタリア農業の史的展開.名古屋大学出版会.名古屋市.

高橋嘉太郎.1925.岩手県下之町村.岩手毎日新聞社.東京都.

田中館秀三.1934.東北地方の凶作に就て.東北帝国大学法文学部経済地理学研究室.仙台.

戸澤英男.2005.トウモロコシ-歴史・文化,特性・栽培,加工・利用-.農山漁村文化協会.東京.

 

本稿は,人間・植物関係学会雑誌12巻第1号15-19頁2012年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は,人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html