宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-農業(2)-

Key words:文学と植物のかかわり,米,理想の農業,植物工場

 

前稿に続き,賢治の農業に対する考えと現代日本の農業と人との関わりについて考察してみたい。本編のキーワードは米(稲作)である。

 

1.幻想第四次元空間での稲作農業

賢治が夢見た理想の農業とはどういうものであったのだろうか。『銀河鉄道の夜』の最終章に,夢の中で燈台看守に農業について語らせている箇所がある。燈台看守は,「金色と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果」を乗客に配りながら次のように話す。

 「この辺ではもちろん農業はいたしますけど大ていひとりでにいゝものができるやうな約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子(たね)さへ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフヰック辺のやうに殻もないし十倍も大きくて匂もいゝのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなからちらけてしまふのです。」 (宮沢,1986) 

 

賢治が存命していた時代の読者には想像もつかない話である。日本の稲作は,まったくのお天気まかせの手間暇のかかるきつい労動を強いるが,天上である幻想第四次元空間での稲作は,「ひとりでにいゝものができるやうな約束になって」いるというのだ。ただ唖然とするだけだろう。また,「けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません」と意味深げな記載も見られる。しかし,賢治は根拠のない話はしないはずだ。何かをヒントにしている。1つ1つ検討してみる。

 

まずは,理想の農業が行われている「この辺」とは何処をイメージして書いたのかを推測してみる。「この辺」とは,稲作と苹果の栽培が行われている所のようだ。幻想第四次元空間の天上においても具体的な地名が出てくるので,それらの地名を手掛かりにしたい。銀河鉄道の列車は,北十字である白鳥座から鷲座,琴座,射手座,蝎座,ケンタウルス座,南十字星(座)そして石炭袋へと夏の夜空を南下する。

 

しかし,車窓からみる風景を並べてみると,「プリオシン海岸(11時に到着して20分滞在)」,「氷山にぶつかって沈没した大型船の遭難現場」,「コンネクテカット州」,「渡り鳥の通り道」,「インディアンのいるコロラドの高原(第二時)」,そして「十字架(南十字)が見える所(第三時)」となる。すなわち,銀河鉄道の列車は,白鳥座が真夜中の天頂に見える花巻と同じ緯度にあるイタリアの港街を出発点として,イギリス,北大西洋,アメリカ合衆国北東部コネチカット州,ロッキー山脈,アリゾナ州と地球を西進しているように思える。南下と西進が同時進行する矛盾は,賢治研究者たちによっても指摘されていたところである(杉浦,1996; 米地,2009)。

 

先の報文では,銀河鉄道の列車は北上川に沿って南下する東北本線をイメージしたものであろうと記載した(石井,2011)。この南下説をとれば,車窓の風景も東北本線沿線の風景となる。例えば,銀河ステーションに変貌する「黒い丘」は東北本線上り始発駅の盛岡に近い「狼森(小岩井農場の北)」であり(第1図),「プリオシン海岸」はくるみの化石や牛の祖先の化石が発掘されるとあるので,同様の化石が発掘された北上川西岸(花巻)で賢治が「イギリス海岸」と命名した所を指すと思われる。コロラド高原は「種山ヶ原」であろう。「種山ヶ原」,前述したように江刺辺りの南北20kmに及ぶ高原である。東北本線を使えば,黒沢尻駅(現在の北上)と金ヶ崎駅の間の小さな駅(六原駅;賢治の時代では三ヶ尻信号場と呼んでいた)が高原への最寄り駅となるであろう。

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第1図.「黒い丘」をイメージできる小岩井農場の北に位置する狼森.

     (童話『狼森と笊森、盗森』に登場する実在する森)

『春と修羅 第二集』の詩「種山ヶ原(下書稿)」には,「じつにわたくしはけさコロラド高原の/白羽を装ふ原始の射手のやうに/検土杖や図版をもって/ひとり朝早く発って来たので」と記載されている。賢治にとって,「種山ヶ原」を歩くとアメリカ合衆国のコロラド高原をイメージできるようだ。『銀河鉄道の夜』では,コロラド高原(第二時)が登場する場面でドヴォルザークの「新世界交響楽」が流れてくるが,賢治は1924年にこの曲の第二楽章の主題に,自分の詩を付けて歌曲「種山ヶ原」を作っている。

 

また,小さな駅(六原)近くには陸軍省の軍馬補充部六原支部があり,飼料用のトウモロコシ畑もあった(賢治の詩「軍馬補充部主事」)。石炭袋は南十字星の近くにある暗黒星雲のことであり,物語では「そらの孔」と表現しているので,平泉にある達谷窟(たっこくのいわや)が相当する場所であろう。しかし,南下説では,「氷山にぶつかって沈没した大型船の遭難現場」,「コンネクテカット州」,「渡り鳥の通り道」などの場所を推定できない。

 

一方,西進説をとれば,南下説では説明できない場所も特定できそうだ。賢治は,花巻を流れる北上川の西岸がイギリスのドーバー海峡に面した白亜紀の海岸に似ていることから「イギリス海岸」と命名しているので,ここでは「プリオシン海岸」をイギリスのドーバー海峡とする。「氷山にぶつかって沈没した大型船の遭難現場」は1912年のタイタニック号の沈没事件を連想させるので北大西洋であろう。「コンネクテカット州」はアメリカ合衆国北東部の大西洋に面した州であり,「渡り鳥の通り道」はアラスカからロッキー山脈沿いを南下して,アメリカ合衆国の西海岸・カリフォルニアまで続く渡り鳥の通り道として有名なパシフィック・フライウエイ(Pacific Flyway)のことであろう。またコロラド高原は,アメリカ合衆国南西部の山間大地(Colorado Plateau)のことをいっていると思われる。

 

すなわち,理想の農業を行っている場所を特定するためには南下説だけでなく西進説も採用した方がよいように思える。以下,「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」は南下しながら日本の風景および地球上の風景を混融しながら西進するということで論を進める。

 

「この辺」が出てくる箇所は,沈没事件に遭遇した青年がここは「コンネクテカット州」だと女の子に話す場面と「渡り鳥の通り道」の話の出てくる場面の中間に位置しているので,車窓の風景が西へ移動していることから推測すると,アメリカ合衆国の「米どころ」として有名なアーカンソー州あるいはその南北に位置するルイジアナ州とミズリー州辺りと思われる。

 

「アーカンソー米」は,日本の米とは違い「長粒米」で,また水田方式ではなく陸稲方式で作られる。アーカンソー州の稲作が「播けばひとりでにどんどんできる」というほど容易いとは思わないが,東北の稲作に比べればはるかに楽であるに違いない。多分,賢治は米作りとしては,アメリカ合衆国の稲作に注目していたのかもしれない。現在,全米第一位の生産高を上げているアーカンソー州の稲作は,広大な農地に大型の機械を導入して行われる大規模農場経営で行われる。また,アーカンソー州の「州の花」は,リンゴの花であり,州の北部に位置するオザーク高原は『大草原の小さな家』の作者ローラ・インガルス・ワイルダー(1867-1957)が最後に住んだ『大きな赤いリンゴの土地』でもある。「パシフヰック辺」の米は,多分カリフォルニア米のことを言っているのだろう。

 

次に,「けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません」の「あなたがたがいらっしゃる方」との何処であろうか。そこは,第二時に到着したコロラド高原のあるアリゾナ州よりも西であると仮定して,2人とも第三時に到着するサウザンクロスの停車場では降りないことを考慮すれば,アメリカ合衆国を横断してさらに太平洋を西進した所となる。場所を特定する前に銀河鉄道の列車の走る速度を計算してみる。プレオシン海岸(イギリスのドーバー海峡:北緯50°46’, 経度0°)を午後11時20分に出発し,コロラド高原(グランドキャニオン:北緯36°06’,西経112°06’)に午前2時に到着したとすれば,銀河鉄道の列車の速度は0.7°/minとなる。

 

この速度でサウザンクロスの停車場に午前3時に到着するとすれば,南十字星が見える場所は西に42°移動した西経154°の所である。この経度に相当するのはハワイ諸島(北緯18°55’-29°,西経154°40’-162°)である。緯度が低いので南十字星を見ることができる。すなわち,コロラド高原を通過した銀河鉄道の列車はまずはハワイを通過する。そしてさらに西へ移動するということになる。「あなたがたがいらっしゃる方」とは,ハワイのさらに西方である。西方には日本(あるいは中国大陸)がある(南下説では東京)。

 

すなわち,不完全な幻想第四次元空間を走る銀河鉄道は,銀河(天の川)と岩手県を南下しながら,地球規模ではイタリアを出発点として地球を西周りで回って日本を目指している。コロラド高原=種山ヶ原を交差点とすれば十字ができる(第2図)。理想の農業が行われる「この辺」を地球上の場所に求めれば,少なくともアメリカ合衆国のアーカンソー州辺りが候補に挙がると思われる。米作りをイメージ出来る広い空間を使った大規模農業経営ができる所でもある。賢治は,理想の農業の1つとして高度な科学技術を駆使した大規模農場経営を考えていたようだ。しかし,日本のように広い農地を使った大規模農業経営が出来にくいところでは農業はなくなっていくとも考えている。「農業がなくなる」については次章で詳しく検討する。     

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第2図.銀河鉄道の停車駅と車窓の風景. 

2.日本の農業の現状と未来

「あなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません」の「あなたがたのいらっしゃる方」を日本と仮定して,日本の農業の現状と未来について考えてみたい。現在,日本の農業は,農業技術の著しい進歩にも関わらず,カロリーベースでの食料自給率は1961年に78%であったものが年々順調に減少し続け,2010年には39%まで落ち込んでいる(農林水産省A,C,2012)。穀物自給率に至っては28%(2007年)であり,177国中124番目である(農林水産省A,2012)。農業就業人口も昭和後期までには600万人以上いたものが年々減少し続け2010年には260万人まで減少した(農林水産省B,2012)。平均年齢も66.1歳と高齢化している。まさに,日本の農業は数字上では確実に衰退の一途を辿っている。しかし,賢治が『銀河鉄道の夜』の中で単に日本の農業の衰退を予想しただけとは思えない。

 

農業の基本は,農地での農作物の栽培と牧草地での牧畜である。「日本の農業はもうありません」の「ありません」には2つの意味が込められていると思う。農耕に限定すれば,1つは「農作物の栽培がなくなる」であり,もう1つは,「農地を使った農作物の栽培がなくなる」である。前者は,極論でいえば我が国(=先進諸国)が農作物の生産そのものを中止していくことであり,ほぼ全ての農産物は輸入に依存する。ありえない話ではない。世界が欧州連合(EU)のように国家を開き1つになっていけば,それぞれの地域の特徴が生かされ,農業に特化する国,製造業に特化する国が誕生し相互依存の形で発展していく。賢治が羅須地人協会で講義用に執筆した『農民芸術概論綱要』の序論には以下の記載がある。

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

(宮沢,1986)下線は引用者

 

後者は,農地を使った農作物の生産はなくなっていくが農地を使わずに農作物の栽培は続けていくことを意味する。農業は,伝統的な分類では林業や漁業と同じく第一次産業に分類される。自然を対象とするため,日照,気温そして気象に左右されやすい。賢治が存命中に東北の農民はヤマセの影響を受け冷害(=凶作)に悩まされていた。これは,農地(土地)を耕して農産物を生産する農業の宿命でもある。農地(土地)を使わない農作物の栽培例として「養液栽培」やそれを応用した「植物工場」がある。

 

植物工場とは,内部環境をコントロールした閉鎖型または半閉鎖型な空間で植物を計画的に生産するシステムである。閉鎖型の植物工場では,農産物は自然現象に左右されないので安定して供給できる。植物環境学が専門である古在(2011)が提案した閉鎖型植物生産システムは,人工光源,各種空調設備,養液培養などを使うもので,現在野菜,薬用植物などの栽培に利用されている。これは一次産業である農業を製造工業化したものであるが,単なる二次産業ではなく高度・複合化された高次産業であると思われる。

 

古在(2010)は,日経記者の「植物工場産業は農業か工業か」の質問に対して,「21世紀社会の新しい価値観に対応する新しい概念と方法に基づく産業の創出であり,農業や工業を超えた新しい産業分野である」と答えている。最近,千葉大学ではウシオ電機と共同で,「多光量型LEDユニット」を開発し,人工光による穀物(米)の栽培にも着手した(日経新聞,2010.11.1)。

 

賢治が燈台看守に「あなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません」と言わせたことに対して2つの解釈の仕方を紹介したが,前者は,賢治の宗教者としての思いから出たものであり,後者は科学者としての思いから出たものである。私は,後者を強く支持する。「農作物の栽培がなくなる」ではなく,農地を使わない大規模でハイテクな農作物の生産が「あなたがたのいらっしゃる方なら行われている」と読み変えたい。

 

実際,賢治は「自然は変えられる」と信じていた。賢治の作った童話『グスコーブドリの伝記』の中で,冷害を解決する手段として,石炭からなる火山を人口的に爆発させて,炭酸ガスを地上に排出させ地球の温暖化を計るという大胆な方法を試みている。これは地球全体を植物工場にする試みである。この物語の中には,潮汐発電や飛行船を使った肥料散布などの当時としては高度な科学技術も紹介されている。賢治は,科学者としての知識と天性の直観力を駆使して,地球規模(あるいは宇宙規模)で農業や工業を超越した高度な農産物生産システムを考えていたと思う。賢治の考えているハイテク農業は,現在の企業間あるいは国家間の価格競争を根底にした植物工場産業よりもまだはるか彼方の向こう側にあるように思える。

 

また,『銀河鉄道の夜』には,「苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなからちらけてしまふのです。」と記載されているが,現実の商品にもこれに近いものがある。例えば,日東電工では漢方などに使われるオタネニンジン( Panax ginseng )の有効成分を組織培養で生産することに成功している(新名,2007)。これは「かす」があまり残らない。また,市販されているガムやキャンディの中にはバラの香りが毛穴から発散するものもある。

 

引用文献

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌 11(1):21-24.

古在豊樹.2012.2.17(調べた日付).日経電子版Tech-On! http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20100305/180852/

古在豊樹.2011.世界における植物工場の現状と将来性.農林水産技術ジャーナル 34(2):4-9.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

日経新聞.2010. 米育てるLED証明,ウシオライティングと昭和電工.

西山康夫.2001. 宮沢賢治と村の構造-アルペン農の史的展開.宮沢賢治 16:218-229.

農林水産省A.2012.3.4. (調べた日付).世界の食料自給率. http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/013.html

農林水産省B.2012.3.4. (調べた日付). 農業労働力に関する統計.http://www.maff.go.jp/j/tokei/sihyo/data/08.html

農林水産省C.2012.3.4. (調べた日付).平成22年度食料自給率等について.http://www.maff.go.jp/j/press/kanbo/anpo/110811.html

新名惇彦.2007.植物の生物工学的利用のための基盤技術開発とその応用.生物工学会誌 85(1):2-11.

杉浦嘉雄.1996.「“自然の翻訳書『銀河鉄道の夜』”に隠された自然と心の深層を探る(続編)」.宮沢賢治研究Annual 6:172-194.

米地文夫.2009.「銀河鉄道の夜」六分割論-「楽しき先駆系」と「ありうべかりし第

五次稿」の識別-.宮沢賢治研究Annual 19:157-168.

 

追記:銀河鉄道の西進説は2008年9月30日と10月1日のYAHOO!ブログ「ドラマと宮澤賢治作品」(2008/9/30,10/1)http://blogs.yahoo.co.jp/crayon_shinji/56112222.html(2012年2月16日現在)にも記載されていた。現在はKindle版で読むことができる。

 

本稿は,人間・植物関係学会雑誌12巻第1号21-24頁2012年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は,人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.htm