「りんご」は水に浮くが,「和なし」は水に沈むということはよく知られている。童話『やまなし』で,谷川に「ドブン」と落ちた「やまなし」の果実は「ずうつとしずん」で行くが,「又上へのぼって」行く。すなわち,水に浮くのである。そのあと,この果実は「流れて」,そして「横になって木の枝にひっかかって」とまるが,「二日ばかり」過ぎると「下へ沈んでくる」とあり,さらに「ひとりでにおいしいお酒ができる」とある。谷川に落下した「やまなし」の実が,「りんご」のようなものであるなら,「沈む」→「浮上する」→「流れる」→「横になって木の枝にひっかかる」という現象は,自然界でも起こり得ると思うが,そのあと,父親の〈蟹〉の言葉として「二日ばかり」で再び沈んだり,「ひとりでに酒」ができたりするとあるが,これらが自然界で実際に起こり得ることなのかは疑問である。父親の虚言のような気もする。
童話『やまなし』に登場する「やまなし」はバラ科ナシ属の「イワテヤマナシ」やバラ科リンゴ属の「オオウラジロノキ」が有力候補になっている(石井,2022)。しかし,これらの果実を入手するのは困難である。そこで,本稿ではバラ科リンゴ属の「りんご」を水に浮かべたあと,この「りんご」が2日後に沈むかどうか実際に試してみることにした。「りんご」は東北(山形産だが品種は不明)のものを使った。対照として「和なし(新興)」も使った。
購入した「りんご」の重さは262gで「和なし」の重さは599gであった。「りんご」を鼻先まで近づけると「りんご」の匂いがかすかにした。「和なし」は同様の方法でやってもほとんど匂わなかった。ポリプロピレン6L容器(23.5φ x 240mm)に2/3まで水(神奈川県の水道水)を入れて,水面から10cmの高さから「和なし」を落とした。「和なし」は容器の底まで沈み,それから浮き上がった。また沈み,浮き上がる。これを2~3回繰り返して2~3秒くらいで底に沈んだ。「りんご」も沈んだが容器の底には届かず,浮き上がった。そのあとは果柄の付いている部分を上にして浮いたままであった。ただし,浮いているとは言え,果実の3/4程は水面下に没している(第1図)。
第1図.水に浮かんだ「りんご」.
「りんご」を昼は室外(13~21℃),夜は室内(18~21℃)で浮かせた状態で6日間放置した。ただ,腐敗を防ぐため水は毎日新鮮なものと取り替えた。前日の水を捨てるとき「りんご」の匂いがした。水の中に「りんご」の匂い分子が溶け込んだのであろう。少なくとも,朝と晩には観察した。
「りんご」は6日間,沈むことはなかった。また,浮いている状態,すなわち水面上に顔をだしている部分の容積もほとんど変わっていないと思われた。すなわち,沈む気配さえ感じられなかった。6日後の「りんご」の重量も262gもままであった。
「やまなし」は「ひとりでにおいしいお酒」になるのであろうか。私はアルコール(エタノール)を検出する装置を持っていないので,今回は書物などを基にして推測だけを試みる。ただ,6日間水に浮かべた「りんご」を食してはみた。アルコールの匂いを感じなかったし,酔うこともなかった。
ちなみに,我が国では,「酒」はアルコール分1度以上の飲料を指す(「1度」=「1%」)。米国では,1919年に,「酔いをもたらす飲料として0.5%以上のアルコールを含有しているもの」と定義されているようだ。
ちまたに,果実酒(度数は20%くらい)というのが知られている。ネットからの情報だと,「オオウラジノキ」の果実酒は絶品だという。しかし,この果実酒は蒸留酒などの酒の中に果実と砂糖を入れて作るリキュール酒のことである。「イワテヤマナシ」や「オオウラジロノキ」の果実は砂糖も加えずに自然発酵して「酒」と呼ばれるほどの度数をもつアルコールができるのであろうか。ちなみに,アルコール発酵とはブドウ糖や果糖のような糖が酵母によって分解されエタノールを生成するプロセスのことである。この反応に酸素はいらない。
C6H12O6 → 2CH3CH2OH + 2CO2
糖 エタノール
ネットのQ&AサイトであるOKWAVE(2015)で「自然発酵の果実,木の実」についての質問があり,「天然には野生酵母があり,糖度の高い果実に付着したりすると,それが自然発酵することは理論的にはあり得ることです。そういう意味では,ブドウの果実は最適な条件を備えています。糖度が低かったり,果皮が固かったりすると,自然発酵は難しいでしょう。特に木の実などは。あくまで偶然が重なった結果として,酒のようなものが出来てしまうと思います。」という回答があった。ちなみに「ぶどう」の果実の糖質(文献値)は100g中に17gである。「ぶどう酒」の度数は8~15度である。ただ,注意しなければならないことがある。成熟した果実は,自然には「酒」になりにくいが,「酒」にならない程度のアルコールなら作れるらしい。
埼玉県衛生研究所の高橋邦彦ら(1992)は,平成4年に果実中のエタノール含量の実態調査を行っている。調査対象になった果物は,スーパーなどから購入した「みかん」,「はっさく」,「夏みかん」,「いよかん」,「いちご」,「りんご」,「オレンジ」,「レモン」,「グレープフルーツ」,「バナナ」,「キウイフルーツ」の11種である。ガスクロマトグラフィーでエタノール濃度を測定したところ,「いちご」,と「りんご」は検出されなかったが,ほかの9種からエタノールを検出した。しかし,エタノール濃度は0.15%以下であったという。
発酵醸造学が専門の吉田元(2015)は,『酒』という著書で,「野生酵母は花などに広く棲息しているので条件さえうまく合えば比較的簡単につくることができる。原料としての有力な候補は果実中に糖度の高いブドウ,野生のミツバチが集めた蜂蜜などがあげられる。それ以外ではリンゴ,ナシなどもブドウほど糖度は高くないものの原料になる」と記している。吉田は,酒の原料として「りんご」や「和なし」を候補にあげているが,これは果実を潰してジュースにするなど発酵しやすいように人が手を加えた場合である。
YAHOO知恵袋に「リンゴジュースを大量に買い半分残して室温で1週間放置したら,炭酸っぽくなりました。何が起きたのでしょうか?」とい質問があった。ベストアンサーは「空気中の酵母菌が糖分を餌に発酵。ビールの炭酸と同じ原理。リンゴだとシードルというリンゴの炭酸酒状態に。」というものであった。シードルとは「りんご」を発酵(アルコール発酵)させて造られるアルコール飲料のこと。
童話の蟹の父親が「ひとりでに」と言うように,果実そのものが自然に酒になる例がある。オックスフォード・ブルックス大学のホッキンズら(2015)がオンライン科学誌「ロイヤルソサエティー・オープンサイエンス(Royal Society Open Science)」で「発酵したリンゴを食べて酔うヘラジカ」がいるということを報告していた。「ヘラジカ」が酔っ払うほどの「りんご」のアルコール濃度は0.5%以上であったのかもしれない。生「りんご」(セイヨウリンゴ)そのものの自然発酵の1例であろう。論文にするくらいだから非常に稀な現象だと思われる。スーパーで売っている日本の「りんご」はエタノールが検出限界以下であったことは前述した。
また,前述した高橋らが調査した理由でもあるが,1991年6月,埼玉県の保健所に,「オレンジ」(果実)の果汁を乳児に飲ませたところ,顔や首筋が赤くなったとの苦情が寄せられた。苦情オレンジから約0.5%のエタノールを検出したという。乳児の皮膚が赤くなったのは,エタノールの皮膚血管拡張作用によるものと思われる。これも,稀にしか起きない現象と思われる。
繰り返すが,酔いをもたらすアルコール濃度の「りんご酒」や「なし酒」」は,OKWAVEの回答のように,「あくまで偶然が重なった結果として」生じたものと思われる。我が国の固有種であるリンゴ属の「オオウラジロノキ」や在来種の「イワテヤマナシ」の果実でも,この酔いをもたらすほどの自然発酵が起こる可能性は理論的にはあり得るが,実際に起こる可能性は限りなく少ないように思える。ちなみに,「りんご」の糖質(文献値)は13.1gで「和なし」は10.4gであるという。「オオウラジロノキ」や「イワテヤマナシ」については調べたが分からなかった。
市販の「りんご」は水に浮くが,そのまま6日間放置しても沈むことはなかった。6日後に「りんご」を食したがアルコールの匂いも感じられなかった。童話『やまなし』で,枝にひっかかり水面に浮かぶ「やまなし」の実が2日後に川底に沈んだり,そのあとひとりでに「酒」になったりするのは自然界では起こりにくい現象であると思われる。ただ,水に浮かんだ果実が2日後に沈むかどうかについてはさらなる検討が必要である。
参考・引用文献
Hockings K.2015.「ヤシ酒飲むチンパンジー,進化理論解明の手がかりに 研究」 https://www.afpbb.com/articles/-/3051309
石井竹夫.2022.童話『やまなし』の「やまなし」が「オオウラジロノキ」である可能性について.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/12/091043
OKWAVE.2015.自然発酵の果実,木の実.https://okwave.jp/qa/q9081620.html
高橋邦彦ら.1992.果実中のエタノール含有量の実態調査.食衛誌.33(6):619-622.
吉田 元.2015.ものと人間の文化史 酒.法政大学出版局.