「イワテヤマナシ」(Pyrus ussuriensis Maxim.var.aromatica (Nakai et Kikuchi))Rehd.)は,最初に推定した人が誰だかは分からないが,童話『やまなし』に登場する「やまなし」の最も有力な候補としてあげられている(伊藤,2007;片山,2019)。しかし,前稿で「イワテヤマナシ」の落果した果実は童話にあるように水に浮かばない可能性があること,および「赤い実」が知られていないなど物語の内容と一致しない可能性のあることも明らかになってきた(石井,2022)。童話の「やまなし」に関しては他にもいくつかの候補があげられている。本稿では,その1つとして「オオウラジロノキ」について検討する。
童話『やまなし』の「やまなし」=「オオウラジノキ」という説は,賢治研究家の原子朗(1999)や日置俊次(2015)によって唱えられていた。「オオウラジロノキ」Malus tschonoskii (Maxim.) C.K.Schneid.)は,バラ科リンゴ属の落葉高木で「オオズミ」などの別名を持ち,日本固有種でもある。「ウラジロ」は葉の裏に白い毛が密生していて,白く見えるため名付けられた。
日置(2015)は,論文の中で「イワテヤマナシの木ということでもかまわないが,イワテヤマナシには亜種が多くてイメージが一つ定まらない。ここは,実が小さく梨にそっくりなので一般にヤマナシと呼ばれることもある大裏白の木(オオウラジロノキ)と考えるとすっきりするであろう。オオウラジロノキには,直径三センチほどの梨状果が十月ごろから熟れて,初期形で示される十一月,そして初出形で示される十二月にも実が落ちる。実には梨のように金のぶちが生じることがある。」と記載している(下線は引用者,以下同じ)。論文に亜種とあるが「変種」のことだろうか。また,出典の記載がない。
「オオウラジロノキ」が「やまなし」と呼ばれることがあるのかどうかについて調べて見た。「オオウラジロノキ」の別名として,大井次三郎(1965)の『改訂新版 日本植物誌』には「ズミノキ」と,また北村四朗・村田源(1971)の『原色日本植物図鑑』には「オオズミ,ヤマリンゴ,ズミノキ」と記載されているが「やまなし(あるいはヤマナシ,山梨)」の名はない。しかし,『植物別名事典』に,「オオウラジロノキの別名としてオオズミ(大酢実)ズミノキ ヤマリンゴ」とあり,『図説草本辞苑』には「おほずみ(大酢実・大桷)オオズミの別名を山梨」,「やまなし(山梨)ヤマナシの別名をやまりんご(山林檎)」と記載されていた。また,『日本植物方言集成』には「オオウラジロノキは岩手,宮城,茨城,栃木などでやまなし」と呼ばれたとある。
レファレンス協同データベースに岐阜図書館が集めた興味深い記事が載っていた。中日新聞2006年6月10日朝刊に「ナシじゃなくてリンゴです 県天然記念物の名称変更 可児の巨木『オオウラジロノキ』に」というタイトルの記事である。岐阜県可児市に所在する県指定天然記念物の「ヤマナシ」が「オオウラジロノキ」に名称変更されたことを報じる内容である。県教育委員会のコメントとして,指定当時(1968年)は「ヤマナシ」と「オオウラジロノキ」の分類がはっきりしていなかったが,その後分類法が変わって両者を区別するようになったのだという(レファレンス協同データベース,2021)。多分,賢治が生きた時代にも岩手県では,「オオウラジロノキ」を「やまなし」と呼んでいた可能性がある。
12月に「オオウラジロノキ」の果実は落果するのであろうか。ネットで検索していたら, 12月上旬でも樹上に残っている「オオウラジノキ」の果実の写真があった(大阪自然,2010)。日置の言うように「オオウラジロノキ」の果実は12月でも落果すると思われる。
日置は論文に記載していなかったが果実の色はどうであろうか。「オオウラジロノキ」の熟した実の色は,黄緑色~紅色である。すなわち,賢治童話に登場する「やまなし」の果実の色と似ている。童話『山男と四月』(1922.4.7)には「お日さまは赤と黄金でぶちぶちのやまなしのやう」,また童話『タネリはたしかにいちにち噛んでゐたようだった』(1924年春頃)には「山梨のやうな赤い眼」と記載されている(下線は引用者)。童話『やまなし』では「黄金(きん)のぶち」と記載されているが,この果実も「赤色」が入っている可能性があることは前報で報告した(石井,2022)。すなわち,「オオウラジロノキ」の果実は賢治童話の「やまなし」と同じで熟すと頂部が「りんご」のような赤くなる(第1図)。
第1図.オオウラジロノキの果実(ネットの写真を基にしてのメージ図).
童話に登場する「やまなし」は匂う。童話では「お父さんの蟹は,遠めがねのやうな両方の眼をあらん限り延ばして,よくよく見てから云ひました。『さうじやない,あれはやまなしだ,流れて行くぞ,ついて行つて見よう,あゝいゝ匂ひだな』とある。かなり遠くからでも匂うようである。そこで,「オオウラジロノキ」の匂いについて調べたが,匂いについての情報を得ることはあまりできなかった。1つだけ,爪で引っ掻くと「りんご」のような匂いがするというのを見つけた(アウトドア交差点,2010)。僅かには匂いがあるらしい。
ただ,強烈な匂いがしなければならないということもないように思えた。なぜなら,賢治なら我々が普通匂いを感じないような場面でも匂いを感じることができるからである。賢治は特殊な感覚を持っていることが知られている(佐藤,2000;石井,2021)。賢治の親友で医師でもある佐藤隆房(2000)は,著書の中で次のようなエピソードを記載している。
生徒を伴って山に行きます。賢治さんは
「炭を焼いている臭いがする」と言う。しかしなんの香りも生徒には感じられません。
「そうですか」と答えていくうちに山の中の炭焼窯に到達します。
野路を行く。
「杏(あんず)の花の香りがする」と言う。しばらくすると白い杏の花を見る。生徒は宮沢先生の感覚の鋭敏さのなみなみでないのに驚きます。
(佐藤,2000)
すなわち,爪で引っ掻かなければ匂わないような「オオウラジロノキ」の果実でも,賢治なら遠くから匂いを感じることが可能と思われる。ただ,童話の蟹たちは普通の嗅覚の持ち主と思われるので,爪で引っ掻かなくても匂わないといけないのかもしれない。「イワテヤマナシ」は,学名に「aromatica」と付くようにかなり匂うようだ。
最後に,賢治が実際にこの果実を見たのかどうか検討してみる。植物図鑑などでは「オオウラジロノキ」は,本州,四国,九州(九重山)に分布するとある。しかし,北東北地方(靑森,秋田,岩手)には少ないらしい。栽培植物分類学が専門の池谷ら(2006)は,北東北地方にも「オオウラジロノキ」は自生しているが「極めて稀な植物で分布情報も乏しい」としている。秋田県では絶滅危惧種1Aに認定されているし,岩手県では宮古市が北限である。実際に,池谷らはナシ属(イワテヤマナシ)とリンゴ属(エゾノコリンゴ,イヌリンゴ)の調査を2005年に実施したが,前述した理由で「オオウラジロノキ」を調査対象から除外している。
「オオウラジロノキ」は岩手県が北限であり,絶滅危惧種には指定されていないものの少ないことが予想される。賢治の母校でもある岩手大学農学部が雫石町にある岩手大学御明神演習林の主要樹木の調査(1983-1985)をしていた。この調査によれば面積1040haの御明神演習林にヒバ,ブナ,トチノキなど40種ほどの樹木が確認されたが,そのうち「オオウラジロノキ」は2から3本しかなかった。雫石町は北緯39度41分の所に位置している。この緯度は「オオウラジロノキ」の北限である宮古市(北緯39度37分)よりはほんの少し北にある。雫石町の南には隣接する花巻市がある。すなわち,賢治が「オオウラジノキ」を見たかどうかについては不確かである。
一方,「イワテヤマナシ」は「オオウラジロノキ」よりは見つけやすいように思える。「イワテヤマナシ」の研究家である神戸大学の片山寛則(2019)は,論文で「北東北 3 県(秋田,岩手,靑森)の全市町村を網羅した探索により,これまでに 1500 個体を超えるナシ属植物が発見され,その約 8 割が岩手県を南北に縦断する北上山地に分布していた。・・・ナシ属植物は山間部の牧草地や渓流沿いなどに多く分布していたが,街道沿いや民家の庭さき,田畑の境界,墓や祠の周辺にも多数生育していた。」,また遺伝子解析の結果,「北上山系由来の集団の多くはニホンナシとの雑種を形成していると推定された」と報告している。街道沿いや民家の庭さき,田畑の境界に多いのは,「イワテヤマナシ」が東北人の食料にされた歴史があるからである。果実は生食のみならず保存食として水煮,砂糖煮,塩漬けにされていた。さらに飢饉などの際の救荒作物としても用いられた。ニホンナシ(Pyrus pyrifolia var. culta)などの栽培ナシとの雑種まで考慮すると身近な場所でも見ることができると思える。
以上のように,バラ科リンゴ属の「オオウラジロノキ」の果実は,リンゴ属であるにも関わらず「やまなし」とも呼ばれ,「赤い実」であること,12月でも樹上に残ることから,匂いがあることと水に浮くことが確認されれば童話『やまなし』に登場する「やまなし」の有力な候補になり得る。ただ,オオウラジロノキ説は,東北における個体数が少ないことから,賢治が見たかどうか不確かなところが残る。一方,バラ科ナシ属の「イワテヤマナシ」を支持していくためには,多様性のある「イワテヤマナシ」の果実の中に「赤い実」が存在することと,水に浮かぶものがあることを明らかにする必要があると思われる。ちなみに,「イワテヤマナシ」と同属の「ヤマナシ」の果実は熟しても赤くならないし,水にも浮かばない。
参考・引用文献
アウトドアの交差点.2010.秋の果実も格別の美しさ17 オオウラジロノキ(大裏白ノ木) (2)https://plaza.rakuten.co.jp/calfee/diary/201011170000/
原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.
日置俊次.2015.宮澤賢治が求めた光-法華文学としての「やまなし」-.青山学院大学文学部紀要 57:53-75.
池谷 祐幸・間瀬 誠子・佐藤 義彦.2006.北東北地方におけるナシ属・リンゴ属の探索・収集.植探報.22: 13 -21.
石井竹夫.2021.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-幻の匂い(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/02/094155
石井竹夫.2022.童話『やまなし』に登場する「やまなし」の実は水に浮くが「イワテヤマナシ」も同じように浮くのかhttps://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/08/171645
伊藤光弥.2007.やまなし.in編集 渡部芳紀.宮沢賢治大辞典.勉誠出版.
片山寛則.2019.新規ナシ遺伝資源としてのイワテヤマナシ~保全と利用の両立を目指して~.作物研究.64:1-9.
北村陽一 監修.1988.図説草本辞苑.柏書房.
日外アソシエーツ.2016.植物別名事典.紀伊國屋.
大阪自然.2010.オオウラジロノキの12月でも樹上に残る果実.https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/conservation7area/oourajironoki-sp/oourajironoki-sp.htm(本ブログは2022.12で終了とのこと)
佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.
杉田久志ら.2007.岩手大学御明神演習林における主要樹種の分布図.岩大演報.38:81-104.
八坂書房.2001.日本植物方言集成.八坂書房.