宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-クルミの実の化石(2)-

Key words 文学と植物のかかわり,ほんとうのこと,かはらははこぐさ,押し葉,プレシオスの鎖,曼荼羅

 

前報では,ジョバンニたちが化石発掘現場で拾った「くるみの実」の化石がオオバタグルミであった可能性について言及した。本稿では,なぜ化石の発掘現場をジョバンニの夢に中(あるいは「死後の世界」)に登場させてきたのか,またなぜジョバンニたちが,学者らしい人(学士)に「標本にするんですか」というごくありふれた質問をしたのに対して,学者らしい人が「証明するに要るんだ」という謎めいた答え方をしたのかを考察してみる。後者は,この物語の中では最も難解なところであり,第三次稿の最期に登場するブルカニロ博士の言葉を借りれば「プレシオスの鎖」(解き難い謎の意味)である。

 

 1.なぜ物語に「くるみの実」の化石発掘の話を入れたか

一つは,花巻の北上川流域の第三紀鮮新世泥岩層から採取できるクルミの実の化石とほぼ同じものが,ヨーロッパの特にイタリア(『銀河鉄道の夜』の物語の出発点)でも採取できるということを早坂から教えてもらったことによると考えられる。

 

賢治は,第三紀(Tertiary)という言葉が好きで作品に多用する。第三紀の「鮮新世」は,草本植物のうち特にイネ科の植物が拡大し,それを餌としたウシなどの偶蹄類(ぐうているい)が発展進化した時期である。現代の動物相に繋がるものがほぼ出現した時期でもあり,また生存競争が激しかった時期でもあることも推測される。例えば,この生存競争の厳しさを表現したものとして歌曲「イギリス海岸の歌」がある。この歌の詩には,「Tertiary the younger Tertiary the younger/ Tertiary the younger Mud-stone/なみはあをざめ 支流はそそぎ/たしかにここは 修羅のなぎさ」とある。

 

「Tertiary the younger Mud-stone」は「第三紀上部層の泥岩」のことと思われる。北上川流域の第三紀「鮮新世」の泥岩層からは,植物化石と同時にたくさんの動物化石あるいは足跡化石(偶蹄類の足跡標本)が見つかる。また,第三紀という名称は,18世紀中頃にイタリアの地質学者ジョヴァンニ・アルドウイン(Giovanni Arduino)が北イタリアの地層を,古い方から初源層,第二層,第三層と区分したもののなごりである(イタリアでは地質学の父と呼ばれている)。早坂(1926)の論文では,イタリアの第三紀のクルミは北部のロンバルディア州から採取されるとある。

 

童話『イギリス海岸』(宮沢,1986)では,西暦79年のイタリアのヴェスヴイオ火山の火砕流で地中に埋まった南部の古代都市ポンペイが出てくる。ポンペイは,ティレニア海沿岸のカンパニア州(Campania)にある。賢治が異常感覚の持ち主であることは前報でも論議した(石井,2013a)。この童話には,日に照らされて眼が眩んだのか,「南のイギリス海岸のまん中で,みんなの一生けん命掘り取ってゐるのをみますと,こんどは英国でなく,イタリアのポンペイの火山灰の中のやうに思はれるのでした。殊に四五人の女たちが,けばけばしい色の着物を着て,向ふを歩いてゐました」と幻覚(幻視)を見たかのような表現もある。賢治は,粘土と火山灰から出来た泥岩層に埋まっている化石を見ているだけで,火山灰で埋もれた古代都市ポンペイが現れその幻夢の中にさ迷いこんでしまう。

 

古代都市ポンペイが発掘されたとき,壁画や美術品がほとんど当時の色彩を失っていなかったことに人々は驚嘆した。その美しさの秘密は,わずか1日余りで埋め尽くした火砕流堆積物にあったとされる(エティエンス,1991;浅香,2009)。火山灰を主体とする火砕流堆積物には,多孔質の乾燥材の役割を果たす成分が含まれていて湿気を吸収したようだ。火山灰が町全体を埋め尽くしたことが壁画や美術品の劣化を防いだ。これは,花巻のイギリス海岸やイタリアのロンバルディア州の第三紀鮮新世の地層に埋もれたクルミの実にも言えると思われる。イギリス海岸のクルミも火山灰や火砕流で埋まったからこそ,120万年の時を越えて賢治に拾われることになったと思う。しかし,火山灰土壌は,酸性土壌でもあるために東北農民を苦しめ続けたことは皮肉なことである。

 

北緯45度に位置するクルミ化石発掘現場のロンバルディア州(主要都市ミラノの緯度は45度27分)は,イギリス海岸のある花巻の緯度(北緯39度23分)に近接していて,6月24日のイタリアの聖ヨハネの日(聖ジョバンニ祭)の夜には天頂近くに白鳥座(北十字)を見ることができる。賢治が考える天上は,童話『おきなぐさ』にあるように地上から見て真上である。また,『銀河鉄道に夜』に登場する「くるみの実」の発掘現場は,白鳥の停車場の近くである。すなわち,賢治は花巻産のクルミの化石と早坂から教えてもらったイタリア産のクルミの化石の発掘現場が地球上の位置(緯度)関係と年代でほぼ重ねることができるということで,イタリアを舞台とした物語の天上にも白鳥座の近くで「くるみの実」の化石が発掘できるという設定にしたと思われる。

 

二つ目の理由としては,クルミの実の成り方によると思われる。白鳥の停車場近くには景観植物としてイチョウの木があった。イチョウは雌雄異株で雌株の木の短枝の先に出る長い花柄(かへい)に普通2個の実をつける。この2個の実がジョバンニとカムパネルラの「双子性(あるいは兄弟)」を暗示させることを前報で報告した(石井,2013b)。化石発掘現場が出てくる第七章は,「二」あるいは「二人」という文字が繰り返し出てきて,読者にジョバンニとカムパネルラの関係の秘密を解き明かさせようとしている。そしてそれが第七章のテーマの一つになっている。

 

イチョウと同じように,クルミの実およびその成り方もその秘密を解き明かすカギの一つとも思われる。クルミの実は,オニグルミのような小粒のものはブドウのように房状の実をつけるが,オニグルミよりも大粒の実が成るテウチグルミ(西域から伝来された)は1~5個の少数の実を付ける。小平市の東京都薬用植物園のテウチグルミは,イチョウと同じように花柄の先端に2個の実(乳房のよう)を付けることが多い(石井,2014;第1図)。多分,幻夢の中に入り込みやすい性格をもつ賢治は,イギリス海岸で120万年前に自生していた大型の実を付けるオオバタグルミが,イチョウの実と同じように2個寄り添って実を付けているのをイメージしていたのかもしれない(現存するバタグルミは普通2~3個)。

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第1図.テウチグルミ(東京都薬用植物園にて)

賢治がクルミを法華経の比喩として使っていることは前報で述べた(石井,2014)。法華経の中の登場人物を借りて説明すればこうなる。ジョバンニとカムパネルラは,『法華経』の第二十七章「妙荘厳王本事品」に出てくる二人の王子・浄蔵(兄)と浄眼(弟)に対応する(吉本,2012;石井,2013b)。浄蔵,浄眼の二人は,後の薬王菩薩と薬上菩薩である。『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」には,薬王菩薩が前世において,みずから妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やし仏を供養した一切衆生憙見菩薩であったとも説かれている(坂本・岩本 1976)。すなわち,ジョバンニとカムパネルラは,それぞれ薬王菩薩と薬上菩薩の化身と思われるが,人類が誕生していない120万年前の前世では火山灰や火砕流で焼けてしまったオオバタグルミであったとも言える。

 

三つ目の理由としては,バタグルミの食用部(種子)がバターの味(buttery flavor) がすることによる。『銀河鉄道の夜』は,母親に届いていない牛乳を牧場の牛乳屋へ取りに行く途中で夢の中(死後の世界)で銀河(Milky way;乳の道)を旅する物語である。物語自体が乳(Milk)臭いので,バター味のするバタグルミの実が銀河の地層に埋まっていてもおかしくない。なぜ,乳臭いかというとこの物語が曼荼羅(mandala)そのものであるからである。「manda」は,牛乳から作られる最高の飲み物である「醍醐(だいご)」(現在では醍醐味という)のことで,「本質(ほんとうのこと)」という意味を持っている。

 

仏教では,乳を精製する過程の五段階を「五味」と言い,「乳(にゅう)」「酪(らく)」「生酥(しょうそ)」「熟酥(じゅくそ)」の順に上質な美味なものとなり,最期の最も精製された「醍醐」で最上の味を持つ乳製品が得られるとされる。「la」は「有る・得る」という所有を意味する接頭語である。「manndala」を直訳すれば,乳から得られる「ほんとうのことを得る」である。根源的なことを言えば,「母」という漢字は,「女」に点二つをうったもので,この二つの点はまさしく乳房の象徴である。「mama(ママ)」は,直接「mamma(乳房)」の発音に由来したもので,このma音は唇による哺乳の象徴音であり,第三紀に栄えた偶蹄類の特徴をなすものでもある。また,mater(母)がmere(海:ともにラテン名)に通じていることも見逃してはならない(三木,1992)。ただし,絶滅してしまったオオバタグルミの種子の部分がどのような味がするかは誰も経験していない。

 

2.プレシオスの鎖

物語で「学者らしい人」は,「くるみの実」や偶蹄類の化石発掘から何を証明しようとしたのであろうか。この問題に答えることは,なぜ物語に「くるみ(実)」の化石の話を入れたかの疑問に答えることにもつながる。多分,この証明はジョバンニ(法華経の中の薬王菩薩の化身)とキリスト教徒の青年や女の子の間で行われた「どちらがほんとうの神さまか」を問う宗教論争に何らかの決着を与えるために必要であったと思われる。

 

天上で法華経思想を比喩している「くるみ」の林は,最終章の「ほんとうの神さま」論争やキリストらしき人の登場した後に登場してくる。賢治からすれば,物語の最期に「くるみ」の林を登場させることで「ほんとうのこと」を言っているのは法華経(だけ)だと言いたいようだ。

 

同様のことは七章の「くるみ(実)」の化石の話でも言える。このオオバタグルミの化石は,120万年経った今日でも当時の面影を残している。賢治は,この永遠に存在し続ける「くるみの実」の化石で象徴される「法華経」が「ほんとうのこと」を言っている,あるいは「醍醐味」が得られる唯一の宗教であると言いたいように思える。これは,如来の寿命の長さが永遠であることと,如来の言葉が「ほんとう」であるということが主張されている『法華経』十六章の「如来寿量品」に相当する(坂本・岩本,1976)。

 

賢治は,「如来寿量品」を最初に読んで身体の震えが止まらなかったという。しかし,科学者でもある賢治は自分が帰依した法華経が「ほんとう」の経典であるという絶対的確信まで到達することはできないでいる。キリスト教徒たちと「ほんとう」の神さまについて論争をしたとき,ジョバンニは,世界中にたくさんの神と言われているものがいる中で「ほんとう」の神は一人だと繰り返しキリスト教徒に言うが,自らの神が「ほんとう」の神と信じているキリスト教徒たちには理解されない。あるいは説得できない。すなわち,「ジョバンニ=賢治」が絶対として信じていたものが相対性の中にさらされてしまう。賢治の心は宗教者と科学者の間で揺れ動いている。そこで,賢治は「ほんとうのこと」を言っていると思われている「科学」も,「宗教」と同じように相対的なものであるということを証明しようとした。

 「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとごらん。」いままでたびたび聞えたあのやさしいセロのやうな声がジョバンニのうしろから聞こえました。

     (中略)

 「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけあいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり,水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学とおなじやうになる。けれども,ね,ちょっとこの本をごらん,いゝかい,これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね,紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ,紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理や歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の歴史の本にあたるんだ。いゝかい,そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん。そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年,だいぶ,地理も歴史も変ってだらう。このときには斯うなんだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのだから,そらごらん,ぼくといっしょにすこしこゝろもちをしづかにしてごらん。いゝか。」

       (中略)

 「さあい々か。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむつかしいことなのだ。けれどももちろんそのときだけでもいゝのだ。あ々ごらん,あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」

 (『銀河鉄道の夜』第三次稿:宮沢,1986)下線は引用者,四次稿ではこの文章は削除される

 

引用文の下線を引いた部分を「くるみの実」の化石で言いかえればこうなる。この早坂(1926)の論文は西暦1926年の花巻のクルミ化石の地理と歴史が書いてある。よくごらん西暦1926年のことではないよ。西暦1926年の頃に地質学会やみんなが考えていた花巻のクルミ化石の地理と歴史というものが書いてある。花巻のクルミ化石は,第三紀「鮮新世」の地層で見つかるとある。そして,この中に書いてあることは1926年の頃はたいていが本当だ。しかし,1995年のこの大石・吉田(1995)の論文をみてごらん。だいぶ花巻の地理と歴史も変っているだろう。花巻のクルミ化石が見つかった地層は,第四紀「更新世」のものかもしれないとある。さらに何百年もしたら,もうすっかり変わってしまい,花巻の地層は「風か水やがらんとした空かに見えやしないか」ということなんだ。変な顔をしてはいけない。僕たちは,天の川だって汽車だって歴史だってその時代でただそう感じているのだから。

 

繰り返すが,賢治は科学も宗教も相対的なものであるということで科学と宗教を一致させようとした。自然科学は,生物学(広義には農学も含む),化学,地学そして物理学のように自然に属するもろもろの対象を取り扱い,その法則性を明らかにする「絶対的真理」を追究する学問である。一方,宗教は人間の力や自然を越えた存在を中心とする観念であり,その観念体系に基づく教義,儀礼,施設,組織などをそなえた社会集団である(賢治は日蓮主義を主張する国柱会の会員)。そこで,本来は誰が追試して同じ結果(すなわち「ほんとう」の結果)が出るだろうと考える科学と,人間が主観でこれが「ほんとう」と考える宗教を一致させることは出来ない。そこで,賢治は,法華経が「ほんとう」の経典であることを示すために,「ほんとう」と「うそ」を見分ける新しい実験方法を創出しようとした。

 

『銀河鉄道の夜』第三次稿では,セロのような声をしたブルカニロ博士がこの実験をしたということになっている(四次稿ではブルカニロ博士も三次稿の引用文も削除される)。新しい実験方法を創出しようとした試みの一つは,三次稿と四次稿の「鳥を捕る人」の章に出てくる。〈鳥捕り〉は,天の川で鳥を捕まえて売る商売をしていて,いつも白い巾で包んだ荷物を二つに分けて持っている。二つに分けた荷物には「鶴(true=ほんとう)」や「鷺(さぎ=うそ)」などが入っている。〈鳥捕り〉は,ジョバンニたちに「鳥の押し葉」にするといって捕まえた「鷺」を白い布から取り出す。すると,ジョバンニたちが,化石発掘現場と同じように,「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」と〈鳥捕り〉に質問する。〈鳥捕り〉は,それに対して「標本ぢゃありません。みんなたべるぢゃありませんか。」と不可思議な答え方をする。

 

ジョバンニたちは,〈鳥捕り〉が出した「鷺」の「押し葉」は実は「お菓子」ではないかと疑う。この場面では,植物として「押し葉」の材料として使われる「かはらははこぐさ」が登場するが,カワラハハコ(キク科;Anaphalis yedoensis)は英名でJapanese pearly everlastingという。「everlasting」は「永遠の」あるいは「永久に続く」の意味である。〈鳥捕り〉は「鳥の押し葉」の作り方として, 「十日もつるして置く」か「砂に三四日うずめておく」と言っている。前者は,明らかにドライフラワーの作り方である。「鳥を捕る人」の章に出てくる「鷺」の「押し葉」は,「永遠の」真実に見せかけた「にせもの=うそ」である。ジョバンニたちはそれを見抜いているようにも思える。これと対になっているのが先にも記した七章に出てくるクルミの化石である。この化石は「鳥の押し葉」に対して縞状の地層という新聞紙で作った「くるみの押し葉」である。賢治は,この「くるみの押し葉」=「法華経」が「永遠の」真実である「ほんもの」であると言いたいようだ。

 

賢治は,ブルカニロ博士を通して,物語で「ほんとう」と「うそ」を区別する実験を試みようとしたが結局は上手くいかなかったように思える。科学の方法論も超える新たな実験方法を創出するためには,だれも解いたことのない「プレシオスの鎖」を解かなければならない。「プレシオスの鎖」は,旧約聖書のヨブ記の「汝プレアデス(昴宿)の鎖索を結び得るや」に由来するもので「解き難い謎」を意味しているという(原,1999)。もしも,この解き難い「プレシオスの鎖」(「ほんとう」と「うそ」が鎖のように絡まっていること)を解く方法を,何かを加えたらさっと分別してしまう「銀樹」の化学実験(石井,2014)のように考え付くことができれば宗教も科学も同じになり「ほんとう」の宗教が何であるかも明らかになるように思える。

 

引用文献

浅香 正.2009.古代イタリア都市ポンペイの発掘・学術調査15年-考古学的資料からみた産業と交易:海のシルクロード-.史学.77(4):359-439.

エティエンス・R/弓削 達(監)/坂田由美子・片岡純子(訳).1991.ポンペイ・奇跡の町-蘇る古代ローマ文明-.創元社.大阪.

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

早坂一郎.1926.岩手県花巻町産化石胡桃に就いて.地学雑誌.38(2):55-65.

石井竹夫.2013a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する幻の匂い(後篇).人植関係学誌.12(2):25-28.

石井竹夫.2013b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するイチョウと二人の男の子.人植関係学誌.12(2):29-32.

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(後篇).人植関係学誌.13

三木成夫.1991.海・呼吸・古代形象.うぶすな書院.東京.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

野口圭也.2013.9.14.(調べた日付).インド密教とマンダラ.http://www.kongohin.or.jp/mandara.html#a.

大石雅之・吉田裕生.1995.北上低地帯,胆沢扇状地付近に分布する中・下部更新統百岡層(新称)のフィッション・トラック年代.地質学雑誌.101(10):825-828.

坂本幸男・岩本 裕(翻訳).1976. 文庫版法華経(全3冊).岩波書店.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌15巻第1号35~38頁2015年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html