宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-クルミの実の化石(1)-

Key words::文学と植物のかかわり,バタグルミ,第三紀鮮新世泥岩層,プリオシン海岸

 

『銀河鉄道の夜』の第三次稿(1925年秋以降~1926年頃)と第四次稿(1931~1932年頃;最終稿)の七章「北十字とプリオシン海岸」で,天上を旅するジョバンニとカムパネルラは最初の「白鳥の停車場」で途中下車し,停車場近くの「プリオシン海岸」で学者らしい人たちが「くるみの実」の植物化石や牛の祖先(ボス)の動物化石を掘り出している発掘現場に出くわす。この物語の天上の世界は,ジョバンニの夢の中の世界ではあるが死者たちを運ぶ列車が走る「死後の世界」でもあるので,「死後の世界」で化石を発掘しているというのは奇妙である。

 「おや,変なものがあるよ。」カムパネルラが,不思議さうに立ちどまって,岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のやうなものをひろひました。

 「くるみの実だよ。そら,沢山ある。流れて来たんじゃない。岩の中に入っているんだ。」

 「大きいね,このくるみ,倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」

 「早くあすこんへ行って見よう。きっと何か掘ってるから。」

二人は,ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら,またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には,波がやさしい稲妻のやうに燃えて寄せ,右手の崖には,いちめん銀や貝殻でこさへたやうなすすきの穂がゆれたのです。

(中略)

 「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が,眼鏡をきらっとさせて,こっちを見て話しかけました。

 「くるみが沢山あったらう。それはまあ,ざっと百二十万年ぐらゐ前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万年前,第三紀のあとのころは海岸でね,この下からは貝がらも出る。いま川の流れてゐるとこに,そっくり塩水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。このけものかね,これはボスといってね,おいおい,そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿(のみ)でやってくれたまへ。ボスといってね,いまの牛の先祖で,昔はたくさん居たさ。」

 「標本にするんですか。」

 「いや,証明するに要るんだ。ぼくらからみると,ここは厚い立派な地層で,百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども,ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか,あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなんだ。わかったかい。けれども,おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈ぢゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。                  

七.「北十字とプリオシン海岸」宮沢,1986下線は引用者

 

さらに,奇妙なのはこの発掘現場でジョバンニたちが,学者らしい人(学士)に「標本にするんですか」というごくありふれた質問をするのに対して,学者らしい人が「証明するに要るんだ」という謎めいた答え方をすることである。この「くるみの実」の化石が登場する場面は,『銀河鉄道の夜』という物語の中で最も難解な箇所であるが,奇妙な導入の仕方をしているがゆえに,賢治が何か重要なメッセージを読者に伝えようとしているとも考えられる。本稿では,「くるみの実」の化石がどういうものであるのか,またなぜ化石の発掘現場をジョバンニの夢に中(あるいは「死後の世界」)に登場させてきたのかを考察してみたい。

 

1.「くるみの実」の化石とはどういうものか

第七章に登場するクルミは,黒くて先の尖った大きなクルミの実ということなので,過去に絶滅し化石となったクルミの実(正確には核果で化石になるのは表面にシワのある堅い核の部分)であろう。このクルミの話は,賢治がイギリスのテームズ川の上流あるいは白亜の海岸と重ね合わせてイギリス海岸と命名したとされる花巻市の郊外,猿ヶ石川が北上川にそそぐ合流地点近くの西岸の泥岩層の中から見つけたという実体験を基にしている(宮沢,1991)。この体験談は,1923年8月9日の日付のある童話『イギリス海岸』(宮沢,1987)に詳細に記載されている(1922年創作という意見もある)。

 

童話では,イギリス海岸で半分石炭に変った根株の周辺から半分炭化した「くるみの実」を採取したとある。この童話によれば,イギリス海岸には第三紀の「鮮新世(plicene;プリオシン)」の凝灰岩性の泥岩層が露出していているということになっているので,賢治の発見した「黒いくるみ」は当時の地質年代表では第三紀のものになる(北川,1927;加藤,2006)。

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第1図.イギリス海岸

また,賢治は泥岩層の出来方や化石の出来方についても言及している。北上川流域は,一度大きなたまり水になり,その静かな水の中で粘土や火山灰が沈んでいった。堆積物は,縞状の泥岩層になり,その中にクルミの実の核などの腐敗しにくい部分が本のページや新聞紙で「押し葉」にされたように封じ込まれていった。「くるみの実」が黒くなる理由としては,化石が含まれる凝灰岩性の泥岩層が粘土と火山灰によってできたものであることから,「鮮新世」の頃のクルミなどの林が火山噴火などで燃えて炭化したものが埋められたからとしている。

 第二に,この泥岩は,粘土と火山灰とまじったもので,しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとえばその岩には沈んでできた縞のあること,木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること,ところどころにいろいろな沼地に生える植物が,もうよほど炭化してはさまってゐること,また山の近くに細かい砂利のあること,殊に北上山地のへりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕らしいものがはさまってゐることなどでした。さうして見ると,いま北上の平原になってゐる所は,一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。

     (中略)

 もちろん誰もそれは見てはゐなかったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり晴れたり,海の一とこがだんだん浅くなってたうたう水の上に顔を出し,そこに草や木が茂り,ことにも胡桃の木が葉をひらひらさせ,ひのきやいちゐがまっ黒にしげり,しげったかと思ふと忽ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き,軽石の火山礫は空もまっくらになるほど降って来て,木は押し潰され,埋められ,まもなく又水が被さって粘土がその上につもり,全くまっくらな処に埋められたでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうとしか思はれません。ところがどうも仕方ないことは,私たちのイギリス海岸では,川の水からよほどはなれた処に,半分石炭に変った大きな根株が,その根を泥岩の中に張り,そのみきと枝を軽石の火山礫層に圧し潰されて,ぞろっとならんでゐました。尤もそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに裂け,度々の出水に次から次と削られては行きましたが,新しいものも又出て来ました。そしてその根株のまはりから,ある時私たちは四十近くの半分炭化したくるみの実を拾ひました。                             (『イギリス海岸』宮沢,1986)

 

イギリス海岸の場所が一時期海であった理由としては,「その頃今の北上の平原にある処は,細長い入海か鹹湖(かんこ)で,その水は割合浅く,何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり,火山灰や粘土が上に積もったり又それが削られたりしてゐたのです」と説明している(現在の地質学で言うところの「滝川-竜の口海進」の一部)。賢治の時代では,第三紀は560万年~100万年前の地質時代の時期(現在の地質時代年表とは異なる)を指していたので,『銀河鉄道の夜』(三次稿と四次稿)でもクルミの化石が発見された場所に対して「ここは百二十万年前,第三紀のあとのころは海岸でね」という表現をしている。

 

2.賢治が発見したクルミの実はオオバタグルミの実

賢治は,北上川流域における高度な地質学の知識を持っている。これは賢治が,盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)時代の恩師である関豊太郎(土壌学の専門家)と一緒に行った岩手県稗貫郡の地質および土性調査(1918年から3ヶ年)によるものである。この調査結果は1922年1月に「岩手県稗貫郡地質及土星性調査報告書」として「岩手県稗貫郡主要部地質及土性略図」付きで発行された(亀井,1996)。

 

賢治は,『イギリス海岸』を創作した頃,泥岩層の地層から発見したクルミの実が120万年前の第三紀「鮮新世」のものだということは知っていたが,クルミの種を同定することはできなかったように思える。クルミの実が日本では絶滅種になっているが北アメリカに今でも広く分布している「バタグルミ」(Juglans cinerea)の実とほぼ同じものであると知るのは,花巻のクルミ化石に興味を示した古生物学者の早坂一郎に会ってからである。バタグルミは英名でButternutという。現存するバタグルミの実は,普通2~3個が房状になり,1個の大きさは長さが3~6cmで幅が2~4cmである(Wikipedia.2013)。1925年夏(あるいは11月)に,当時花巻農学校の教諭であった賢治(29歳)は,早坂(当時東北帝国大学助教授26歳)に自ら作成したと思われるイギリス海岸周辺の地質図や柱状図(地層の積み重なりかたを示した図)を示しながら化石発見場所を案内したという(宮城・高村,1980)。

 

早坂(1926)は,花巻でのクルミ化石の研究成果を賢治と会った翌年に,日本の地球諸科学関連学協会の中で最大規模である日本地質学学会(現在の会員数4500名)の学会誌(地学雑誌)に発表している。「バタグルミ」の化石の発見と報告は,日本では初めてであった。この論文は早坂の単独名になっているが,これは賢治が連名になることを断ったことによる。賢治の名は論文の末尾の謝辞の中にある(論文別刷りは早坂から貰っている)。『銀河鉄道の夜』に登場する学者らしい人(大学士)は,早坂をモデルにしたものとされている。早坂(1926)の論文の一部を紹介する。

 花巻町付近で見られる地層の層序の大体は第二図に示した通りである。

此の地に産する化石胡桃は今日我国に生育してゐる種類の何れとも異り却て古くからヨーロッパの鮮新統上部又はその前後の地層中から知られてゐたJuglans cinerea L.  fossilia Brounに極めて近いもので恐らくは之れと同定されて然るべきものである。      (中略)

 Juglans cinerea  fossilia の地質時代に就いてクリシュトフォヰツチ氏の記してゐるところを見るに,

一.イタリーのロンバルヂア産のものは鮮新世

二.ドイツのフランクフルト・アム・マイン地方(エッテラウ,クレール等)産のものは鮮新世後期(褐炭層の上)

三.オランダのラゲレン産のものは鮮新世後期(?)

四.ロシアのカンスタット産のものは第二間氷期

五.シベリアのアルダン地方産のものは恐らくヨーロッパに於ける大氷期の頃と云ふ事になる。

 我が花巻町のものは,既に初めに述べた様に,一見此の地方の地層は最上部第三系である様に思はれる。

(『岩手県花巻町産化石胡桃に就いて』早坂,1926) 

 

早坂が「バタグルミ」の種の同定に用いた資料は,ソ連のレニングラード博物館に保存されている北アメリカの現生種標本とシベリアのアルダン地方産の化石標本(第四紀更新世pleistocene)を比較したソ連のクリシュトフォヴィッチの論文である(早坂,1926)。早坂はそれらの形状(長さ,幅,厚さ)や核の表面の模様などをイギリス海岸で産出されるクルミ化石のものと比較した。早坂は,断定こそしていないが,イギリス海岸産のクルミが北アメリカに今でも自生している「バタグルミ」とほぼ同一の種であるとした。

 

ただし,その後の追試研究により今では賢治の発見したクルミの実は,第三紀漸新世から第四紀「更新世」にかけて存在し,約100万年前を上限として絶滅した「オオバタグルミ」であるということが推測されている(米地ら,1999)。また,そのクルミの実が発見された地層も第四紀「更新世」の可能性が示唆されている。

 

大石・吉田(1996)は,火山灰中の鉱物であるジルコンを用いたフィッション・トラック法(FT法)を使って,これまで新第三系と考えられてきた岩手県北上低地帯の胆沢扇状地の地層(百岡層)を再検討し,胆沢扇状地の延長部とも思われるイギリス海岸の化石出土層も,前期~中期「更新世」のものである可能性があるとした。FT法は,堆積物中のジルコンの結晶に含まれるウラン238が自然核分裂するときに出る放射線の傷跡(フィッション・トラック)で年代を測定するもので(絶対年代の測定が可能),火山灰の年代を測定するには好適であるとされている。FT年代の測定は,㈱京都フィッション・トラックが1983年より業務を請け負っていて,残念ながら賢治の生きた時代にはなかった。

 本質結晶とみなされるグループから得られるFT年代(1.0±0.3Ma, 0.64±0.20Ma)は前期~中期更新世を示す。ともに測定粒氏の自発トラック総数が少なく,誤差が大きい。また,測定試料は,採取層準付近に礫や植物片が含まれることから,二次堆積物の可能性が高い。そのため,百岡層の堆積年代を正確に把握するためにはさらに検討が必要であるが,少なくとも鮮新世である可能性は否定される。(中略)また,長鼻類や偶蹄類の足跡化石の存在が知られている北上市の和賀川河床(木下・都鳥,1993)や花巻市の北上川河床(早坂,1926;斎藤,1928;木下・都鳥,1991)に分布する地層も,岩相上の類似性から本層に対比される可能性がある。(中略)百岡層の年代値は,長鼻類などの大型哺乳類の生層序や分布において新しい知見を与えるばかりでなく,下部更新統あるいは中部更新統におよぶ地層が北上低地帯の段丘構成層の下位に広く分布することを推定させ,鮮新統と考えられてきた周辺の地層についても年代に関する再検討をせまるものである。

(『北上低地帯,胆沢扇状地付近に分布する中・下部更新統百岡層(新称)のフィッション・トラック年代』大石・吉田,   1995)1Maは100万年 下線は引用者 

 

すなわち,賢治が発見したクルミの実の化石は,当時は第三紀「鮮新世」のバタグルミと思われていたが,現在では第四紀の前期~中期「更新世」のオオバタグルミである可能性が高いと考えられている(続く)。

 

引用文献

早坂一郎.1926.岩手県花巻町産化石胡桃に就いて.地学雑誌.38(2):55-65.

亀井 茂.1996.土壌肥料と宮沢賢治2-関豊太郎と宮澤賢治-.日本土壌肥料学雑誌.67(2):213-220.

加藤碵一.2006.宮澤賢治の地的世界.愛智出版.東京.

北川三郎(翻訳).1927.世界文化史学体系.大鐙閣.東京.

原著:H.G.Wells:The outline of history.

宮城一男・高村毅一.1980.宮沢賢治と植物の世界.築地書館.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.東京.

大石雅之・吉田裕生.1995.北上低地帯,胆沢扇状地付近に分布する中・下部更新統百岡層(新称)のフィッション・トラック年代.地質学雑誌.101(10):825-828.

Wikipedia.2013.9.12.(調べた日付).Juglans cinerea. http://en.wikipedia.org/wiki/Juglans_cinerea

米地文夫・平塚 明・由井正敏,幸丸政明・豊島正幸.1999.“賢治たちのイギリス海岸”と野外教室構想-岩手県域の地域環境計画に関する研究(第二報)-.総合政策.1(4):525-540.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌15巻第1号31~34頁2015年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html