宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンゴと十字架(1)-     

Keywords : 文学と植物のかかわり,かまど,苹果(りんご)のあかし,苹果の肉,成長物語

 

『銀河鉄道の夜』は,主人公のジョバンニとその友人のカムパネルラが夢の中を走る銀河鉄道の列車に乗って白鳥の停車場(北十字)からサウザンクロス(南十字)へ旅する物語である。この物語には,「バイブル」,「カトリック風の尼さん」,「賛美歌」,「クリスマストリイ」などキリスト教的用語,またはそれに基づくと思われる語句が頻繁に登場する。

 

白鳥の停車場とサウザンクロスの停車場の近くには「十字架」も立っていて,そこには「十字架」と共にキリスト教の「原罪」をイメージできる「リンゴ」も登場する。北十字での「リンゴ」は,「十字架」を見つめるカムパネルラの頬の赤い色を表現する比喩として使われ,また南十字では「十字架」の上にある青白い雲を表現する比喩として使われている。しかし,北十字と南十字で登場する「リンゴ」から受け取れるキリスト教的イメージはかなり異なっているように思える。例えば,北十字の「リンゴ」は明るく暖かいイメージで受け取れるが,南十字の「リンゴ」では不気味で冷たいというように。

 

『銀河鉄道の夜』は様々な読み方ができる。その一つは,この物語をジョバンニとカムパネルラの「少年」から「成人」へと成長する物語として読むことである(村瀬,1989;蔡,2008)。ジョバンニは賢治の分身だとする見方もあるので,キリスト教的な「リンゴ」のイメージが物語の進行とともに変化したということは,賢治自身が歳を重ねるにつれてキリスト教的なものに対する考え方が変わっていったことの反映かもしれない。本稿では賢治が初めてキリスト教に接してから『銀河鉄道の夜』(第一次稿~第四次稿;1924~1932)を執筆していくまでの間に,賢治のキリスト教に対する考え方がどのように変わっていったかを北十字と南十字に登場する「リンゴ」のイメージから推測してみたい。

 

論を進めるにあたって,予め断っておきたいことがある。私は,これまでキリスト教とは言わないでキリスト教的とキリスト教の後に「的」という言葉を付けてあいまいに使ってきたが,それは賢治が「カトリックの尼さん」の「カトリック」に「風」を付けて「カトリック風の尼さん」と記載したり,キリスト教の賛美の言葉「ハレルヤ(halleluja)」を「レ」と「ル」を入れ替えて「ハルレヤ」と記載したりして,意図的にキリスト教用語を変容させているからである。

 

すなわち,『銀河鉄道の夜』が単にキリスト教的世界だけを表現しているとは思えない。「十字架」のように宗教的な匂いのするものに対しては,単にキリスト教とするのではなくキリスト教を代表としてあらゆる宗派の仏教をも含む宗教全体を象徴していると考えた方がよいのかもしれない。

 

では本題に戻って,賢治が仏教やキリスト教を学んでいく過程で,賢治の宗教に対する考え方がどのように変わっていったかを北十字と南十字に登場する「リンゴ」のイメージから推測してみる。

 

1.北十字に登場する「苹果のあかし」

賢治は父正次郎と母イチのもとで1896(明治二十九)年に長男として生まれる。父正次郎は,熱心な浄土真宗の信者であり,朝夕の勤行を怠らず,家庭は宗教的な雰囲気でみなぎっていた(上田,1985;原,1999;山根,2003)。正次郎の姉ヤギは,賢治(3歳の頃)に「正信偈」(親鸞『教行信証文類』末尾の「正信念仏偈」)や「白骨の御文章」(蓮如)を子守唄のように聞かせ賢治も暗誦したと言われる(原,1999)。親鸞の『歎異抄』等を読んだりして仏教の思想も学んでいた。賢治が16歳のときには,父の手紙に「小生はすでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書いたりもした。

 

賢治は仏教だけでなく,他の宗教にも関心を持つようになっていた。賢治が13歳(1909年)で盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学し寄宿舎生活を始めたとき,仏教と同時にキリスト教にも関心を持つようになりカトリックの盛岡天主教会に通い始めている。そこでフランス生まれの司祭プジェー神父(A.Pouget,1869-1943)に出会っている。プジェー神父は芸術家肌で賢治と同じ浮世絵の収集家でもあり,浮世絵が題材の賢治の詩にもたびたび登場する。私的な交流もあったらしく賢治は,神父に浮世絵を贈ったりもしたらしい。また,プロテスタントでは米国生まれのタッピング牧師(H.Tapping,1857-1942)に盛岡中学で英語を教えてもらったり,牧師の開くバイブル講義を聞きに行ったりした。

 

このように,賢治は旧制中学校時代までは,浄土真宗やキリスト教と深く係っていて賢治の日常生活が信仰(宗教活動)を中心に回っていたと思われる。この頃までの宗教に対する思いが白鳥の停車場近くの「十字架」と「苹果」に反映されていると思われる。

 俄(には)かに, 車のなかが,ぱっと白く明るくなりました。見ると,もうじつに,金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな,きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ,その流れのまん中に,ぼうっと青白く後光の射(さ)した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに,立派な眼もさめるやうな,白い十字架がたって,それはもう凍った北極の雲で鋳(い)たといったらいゝか,すきっとした金いろの円光をいただいて,しづかに永久に立ってゐるのでした

 「ハルレヤ,ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかへって見ると,車室の中の旅人たちは,みなまっすぐにきもののひだを垂れ,黒いバイブルを胸にあてたり,水晶の数珠(じゅず)をかけたり,どの人もつつましく指を組み合せて,そっちに祈ってゐるのでした。思はず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬(ほほ)は,まるで熟した苹果のあかしのやうにうつくしくかゞやいて見えました。                                (七,北十字とプリオシン海岸)宮沢,1986 下線は引用者

 

北十字のところで出てくる「熟した苹果のあかし」とは何を指すのだろうか。「熟した苹果」ということで「赤色」を,そしてカムパネルラがすでに死んでいることを匂わせるために使ったとすれば死化粧(エンジェルメイク)としての「頬紅」の「赤色」を連想させる(今泉,2000)。しかし,単なる「頬紅」の「赤」ではない。「赤」だけなら「熟した苹果」だけでよいからだ。「あかし」を付けたのには理由があると思われる。

 

この「あかし」には暖かく明るいイメージがある。「熟した苹果のあかし」の「あかし」とは多分「明かり=(灯)」のことであろう。賢治はよく樹木にぶら下がっている果実を「明かり」に見立てて「ランタン」と表現をする。詩「高架線」(1928.6.10)では,「まさしく風にひるがへる/プラタヌス グリーン ランターン」とあり,『春と修羅』の中の詩「滝沢野」(1922.9.17)では「から松のしんは徒長し/柏の木の烏瓜ランタン」とある。すなわち「熟した苹果のあかし」は「赤い炎のような苹果の形をした明かり」を連想させる「頬紅」を意味しているように思える。しかし,その「炎のような苹果の形をした明かり」にはさらに深い意味が込められている。

 

「リンゴ」の果実は硬くて食べ残す「芯」の部分と食用の「果肉」の部分からなる。「果物(リンゴ)」の「芯」は,東北地方等では「かまど(竈)」(土・石・煉瓦などで作った,煮炊きするための設備)と呼ばれることがある(第1図)。これは,「火」を扱う「かまど」が生活(家庭)の第一のよりどころ,生活の「中心」であることから付けられたという(杉山・杉山,2014)。賢治の時代では,まだ土着信仰が残っていて「かまど」には「火の神」(農作の神や家族の守護神を兼ねる)である「カマド神」がいて,「かまど」自身が信仰の対象にもなっていた。

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第1図.リンゴの縦断面. 

東北地方では,「かまど」の近くの柱に「火男(ひょっとこ)=かまどの火を吹く男の表情」,「カマジン」などと呼ばれる粘土または木製の醜い面をかけて祀っていた(吉田,2014)。また「かまど」の「火」は夜の「明かり」にも使われたと思う。すなわち,東北(花巻)に生まれ「かまど」の「炎」を見つめ続けてきた賢治は,「十字架」を見つめるカムパネルラの赤い頬に,信仰が生活の中心であった幼少あるいは少年時代(さらには囲炉裏の原型が見出されている縄文時代まで遡って)の「炎」のような思いを重ね,そしてその頬を「熟した苹果のあかし」という言葉で表現したのだと思う。

 

そのときに賢治の脳裏に映った生活に密着した宗教(キリスト教あるいは土着信仰も含む様々な宗派の仏教)は,「立派な眼もさめるやうな,白い十字架」のようであり,それは「もう凍った北極の雲で鋳たといったらいいか,すきっとした金いろの円光をいただいて,しずかに永久」に存在し続けるように思えた。また,カムパネルラをキリスト教を共に熱烈に学んだ妹トシとすれば,「祈り」の場では「思はず二人もまっすぐに立ちあがった」のであろう。

 

2.南十字に登場する「苹果の肉」

南十字のところで出てくる「苹果の肉」は,「十字架」の上にある後光のような「青白い雲」を表現する比喩として使われている。北十字の「十字架」は,実際に金色の「円光」を放っていた。「円光」は仏像や菩薩像の頭頂の後ろから放つ光明のことで「後光」とも呼ぶ。しかし,南十字の「十字架」にはこの「円光(=後光)」はない。南十字にあるのは「苹果の肉」で比喩した後光のような「青白い雲」である。北十字の「苹果のあかし」は,「かまどの火」の「暖かさ」を連想させるが,南十字の「苹果の肉」は不気味で冷たい。「青白い雲」は短い文章の中に2度も繰り返されるのでより一層不気味だ。「十字架」もそれ自身が輝いているのではない。「十字架」は「青や橙(だいだい)やもうあらゆる光」を放つ目を覆うほどのたくさんの装飾品で飾られているだけなのだ。

  「さあもう支度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」あゝそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立ってかゞやきその上には青じろい雲がまるい環(わ)になって後光のやうにかかってゐるのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜(うり)に飛びついたときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞(めぐ)ってゐるのが見えました

 「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほった何とも云えずさはやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうとう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。

 「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向ふの出口の方へ歩き出しました。

 「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。

 「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったやうにぶっきり棒に云ひました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって出て行ってしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。

 そして見てゐるとみんなはつゝましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々(かうがう)しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子(ガラス)の呼子(よびこ)は鳴らされ汽車はうごき出しと思ふうちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。たゞたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金(きん)の円光をもった電気栗鼠(りす)が可愛い顔をその中からちらちらのぞいてゐるだけでした。 (九,ジョバンニの切符)宮沢,1986 下線は引用者 

 

なぜ,北十字の「リンゴ」からは暖かみが感じられるのに,南十字では不気味で冷たいイメージしか伝わってこないのだろうか。賢治の宗教に対するとらえ方が成長とともに変化したのだろう。賢治は,旧制盛岡中学校の高学年(19歳)のときに島地大等の『 漢和對照 妙法蓮華經』に出会い,体中が震えるぐらいの感動を受けて法華経信仰に深入りしていく。賢治にとって法華経信仰はその後生涯に渡って変わることはない。1921年(大正10年)1月には,無断で上京し法華経を最高の教えとする日蓮宗の僧侶である田中智学が創設した宗教団体・国柱会信行部に入会している(賢治25歳)。

 

浄土真宗を信仰する父に日蓮宗への改宗を要請し,父子の間に激烈な論争が起こるのもこの頃である。賢治の浄土真宗に対する怒りは,『農民芸術概論』(1926)では「嘗つてわれわれの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった/いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである/宗教は疲れて科学によって置換され然も科学は冷たく暗い」,また『農民芸術の興隆』(1926)では「見えざる影に嚇(おど)された宗教家 真宗」,「そして明日に関して何等の希望を与えぬ いま宗教は気休めと宣伝 地獄」,さらには「よくその人の声を聞け 偽の語をかぎつけよ 大谷光端云ふ 自ら称して思想家なりといふ 人たれか思想を有せざるものあらんや」と記載されている。

 

これは,当時の真宗教団幹部の宗教家らしからぬ生活のあり方を知るようになったからとも言われる(上田,1985)。例えば,『農民芸術の興隆』で名指しされた大谷光端(1876-1948;浄土真宗・西本願寺22世法主)は,六甲山の総面積24万坪を数える広大な邸宅(別荘)に,私塾とともにインド近代建築の傑作とされたタージ・マハルを模した壮大かつ華麗な二楽荘と純白の窮屋と称せられる白亜殿を建築し,各施設をつなぐため3本のケーブルカーを設置したという(上田,1985;Wikipedia)。彼は,西本願寺の西域調査を目的とする第一次大谷探検隊(1902-1904)を指揮するなどの旺盛な行動力を持っていたが,二楽荘の建設などへの多額な出費によって教団に財政的危機をもたらせ法主の地位を退かざるを得なくなるような放漫な生活を送っていた。

 

賢治は熱心な日蓮宗の信者になったが,キリスト教にも関心は捨ててはいなかった。「雨ニモマケズ」のモデルとも言われる無教会主義キリスト教徒で花巻在住の斎藤宗二郎とは1921年から彼が東京へ転居(1926年)するまで親しく交流が続いた。しかし,賢治は本稿引用文の不気味な「苹果の肉」のような「青白い雲」が示すようにキリスト教にも批判的になっていた。「蠍の火」の逸話が語られた後でも,賢治はジョバンニを介して女の子に「そんな神さまうその神さまだい。」と言わせている。

 

1949年に盛岡カトリック教会の伝道師になった上田哲(1985)は,賢治のキリスト教批判に対して「この否定は,<活ける神>への信仰を忘れ,明治再宣教当時の情熱を失い体制化しはじめて来た当時の日本キリスト教界の信仰の在り方への批判をこめたもの」と説明している。文学とキリスト教に造詣の深い佐藤泰正(2000)も,賢治が物語で「十字架」や「賛美歌」など,キリスト教のイメージに彩られた天上世界を「高く」「つめたさうな天」と呼び,「蠍の火」がこれを黒々と焦がしつつ燃え続けていると表現したことに関して,これは賢治のキリスト教を含めた既成宗教(あるいは仏教の宗派,キリスト教の教派)への異和あるいは批判の激しい表現であるとした。

 

このように,賢治は『銀河鉄道の夜』を執筆している頃(1924-1932)には浄土真宗やキリスト教に批判的になっていた。本稿引用文の南十字のキリスト教を象徴する「苹果の肉のやうな青じろい環の雲」が不気味で冷たく感じるのはそのためであろう。では日蓮主義の国柱会活動はどうであったのか。賢治は1921年8月には妹トシ喀血の電報を受け帰郷しているので,国柱会での宗教活動は7か月の短い期間であった。国柱会とのその後の関係には不明なところが多いが,『銀河鉄道の夜』を執筆していた頃の賢治は,日蓮宗を含むいかなる宗派教派とも一定の距離を置いていたと思う。すなわち,国柱会や日蓮宗ではなく「法華経」それ自身に帰依した。(続く)

 

引用文献

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

今泉康弘.2000. 苹果(りんご)と夜汽車-葬儀としての「銀河鉄道の夜」.法政大学大学院日本文学科研究誌.29:12-20.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

村瀬 学.1989.『銀河鉄道の夜』とは何か.大和書房.東京.

蔡 暉映.2008.成長物語としての『銀河鉄道の夜』-ジョバンニとカムパネルラ-.比較文学・文化論集.25:22-37.

佐藤泰正.2000.賢治とキリスト教-『銀河鉄道の夜』再読-.国文学解釈と鑑賞.65(2):20-26.

杉山 芬・杉山 雍.2014.10.15(調べた日付).青い森の片隅から.http://homepage3.nifty.com/malus~pumila/migi.htm

上田 哲.1988.宮沢賢治 その理想世界への道程 改訂版.明治書院.東京.

山根知子.2003.宮沢賢治 妹トシの拓いた道-「銀河鉄道の夜」にむかって.朝文社.東京.

吉田好宏.2014.10.26.(調べた日付).かまどに関する文化的考察.http://www.hibana.co.jp/sinktank/11reading/02kyo-no-shintanbunka/01_kamado-no- bunkashi/kamado-no-bunkashi.pdf

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌16巻第1号45~48頁2016年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html