宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-列車の中のリンゴと乳幼児期の記憶-

Keywords : 文学と植物のかかわり,嬰児籠(えじこ),異界,竈(かまど),原風景

 

『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の中で,「リンゴ」という表現は18回登場する。内訳をいうと,「苹果」という漢字表記で15回,「りんご」という平仮名表記で3回使われている。また,登場する「リンゴ」のほとんどはジョバンニの夢の中である天上(死後の世界)である。この物語には30種程の植物が登場するが(石井,2011),「リンゴ」の18回,「ススキ」と「クルミ」と「カラスウリ」の7回,「トウモロコシ」の6回,「リンドウ」の5回を除けばほとんどは1〜2回ぐらいしか登場してこない。「リンゴ」はこの物語に限らず,「食べ物」として他の賢治作品にも最も多く登場する(平ら,2011)。それゆえ,20回近く繰り返し登場する「リンゴ」は,この物語にとっても,また賢治自身にも重要なものであると考える。

 

文芸評論家で化学技術者の奥野健男(1972)は,文芸作家達の作品の底を流れる幼い頃に「自己形成とからみあい血肉化した,深層意識ともいうべき風景」を,別の言葉で言えば,「その作家の魂に焼き付いて永遠に離れなくなった,記憶のひとこま」を「原風景」と呼んだ。例えば,「太宰治の場合は津軽平野一帯を,室生犀星の場合は,遠きにありて想い,そして悲しく歌う愛憎の故郷金沢を,宮沢賢治の場合は『銀河鉄道の夜』と表現し,またイーハトーヴと名付けた北上山系一帯」を「原風景」と考えた。

 

また,吉本隆明(1996)は,さらに賢治の深層意識に踏む込み,『銀河鉄道の夜』,『光と後光」(習作)』,詩集『春と修羅』の「青森挽歌」に共通する「夜の闇を走る列車のそこだけが明かりがともり,暖かい,宙に浮いたような箱という賢治の生涯をいつも流れる原型的なイメージ」を「原風景」と考えた。

 

「原風景」の中には当然植物も含まれると思われるが,私は,『銀河鉄道の夜』に登場する植物を読み解いていく過程で,「リンゴ」が賢治の「原風景」に重要な位置を占めていると考えるようになった。なぜなら,「リンゴ」は多くの賢治作品に頻繁に登場してくるし,吉本が例にあげた作品の列車内にもいつも「リンゴ」あるいはその「匂い=(気配)」が存在するからである。

 

『銀河鉄道の夜』と『氷と後光(習作)』では,「こどもの頬は苹果のやうにかゞやき,苹果のにほひは室(へや)いっぱい」に充満しているし,「青森挽歌」では「こんなやみよののはらのなかをゆくとき」は,「きしゃは銀河系の玲瓏レンズ」になり,「巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる」とあるからだ。そこで,私は,吉本が示した賢治の「原風景」の「宙に浮いたような箱」を「宙に浮いたようなリンゴの匂いのする箱」と言い直して,本稿では,賢治のこの「魂に焼け付いて永遠に離れない原風景」の中に,なぜ「リンゴ」が繰り返し登場してくるのかを考察してみたい。また,「リンゴ」が「悲しさ」や「寂しさ」を呼び起こすことについても触れる。

 

1.『銀河鉄道の夜』の中の「原風景」として登場する「リンゴ」

「原風景」と関係する「リンゴ」が物語に最初に登場するのは,五章の「天気輪の柱」である。ジョバンニは,母に届いていない牛乳を牧場にとりに行くが,その途中に同級の子供らにからかわれて「天気輪の柱」のある「黒い丘」に逃げるように向かう。ジョバンニは孤立感の中で「寂しさ」に堪えながら「黒い丘」から町を見渡す。

   町の灯は、暗(やみ)の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり,子供らの歌う声や口笛,きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り,丘の草もしずかにそよぎ,ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。

 そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え,その中にはたくさんの旅人が,苹果を剥いたり,わらったり,いろいろな風にしてゐると考へますと,ジョバンニは,もう何とも云へずかなしくなって,また眼をそらに挙げました。

 あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。

 ところがいくら見てゐても,そのそらはひる先生の云ったやうな,がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく,見れば見るほど,そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。            (五,「天気輪の柱」)宮沢,1986 下線は引用者

 

この引用文では,賢治の生涯をいつも流れる「原風景」は,「小さな列車の窓は一列小さく赤く見え,その中にはたくさんの旅人が,苹果を剥いたり,わらったり,いろいろな風にしてゐる」という表現で登場してくる。このとき,ジョバンニは,なぜか悲しく(寂しく)なってしまう。これを簡単に示せば,「列車の赤い窓」→「リンゴ」→「幸せな光景」→「寂しさ」である。感受性の強い賢治にとって,「幸せな光景」とイメージできる「原風景」は,アンデルセン(H.C. Andersen;1805-1875)の少女の死という悲しい結末で終わる童話『マッチ売りの少女』(1848)のマッチの「炎」の中に見える「幸せな光景」(暖かいストーブや「リンゴ」を詰めた七面鳥が登場する)の「幻影」のように「悲しみ」や「寂しさ」に裏打ちされている。

 

2.「列車の赤い窓」からなぜ「リンゴ」が連想されるのか

この答えは,ジョバンニというよりは賢治自身の遠い(乳幼児期)記憶の中にあるように思える。賢治は,銀河鉄道のモデルとなった花巻から北上山地の仙人峠間を走る岩手軽便鉄道(1913-1936)の蒸気機関車が牽引する客車を遠くからあるいは近くから何度も見ていた。そして闇夜の中を走る列車の一列に並んだ「窓の明かり」から様々な想像を掻き立てられたと思う。もしかしたら,その中に賢治の乳幼児期の宮沢家の土間の「竈(かまど)=へっつい」の「明かり」に関する記憶もあったのかもしれない。

 

「竈」は鍋や釜をかけ,下から火をたいて煮炊きする設備である。「竈」の構造は,鍋をかけるところを火口(ほくち)と薪(たきぎ)をくべる「焚口(たきぐち)」から成る。家族や使用人の数に応じて大小の「竈」が発達し,火口が3個ある「三つべっつい」,それ以上の「五つべっつい」,「七つべっつい」などがある(狩野,2004;吉田,2015)。「竈」は,ほとんど日が射さない薄暗い土間にあるので,一列に並んだ四角い「焚口」から漏れる「炎(=焔)」は,図1に示すように,見様によってはあるいは遠くから見れば夜行列車の「窓の明かり」に見えないことはない。

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第1図.焚口が多数ある竈(吉田好宏の文献内にある写真を利用した)

すなわち,賢治は,闇夜を走る軽便鉄道の列車の一列の「窓の明かり」から乳幼児期に見た薄暗い土間に置かれた「竈」の一列の「焚口」の「炎=(明かり)」を想像したのかもしれない。賢治の詩集『春と修羅 詩稿補遺』の中の「心象スケッチ 林中乱思」には,「何とこの焔の美しさ/柏の枝と杉と/まぜて燃すので/こんなに赤のあらゆるphaseを示し/もっともやはらかな曲線を/次々須臾(しゅゆ)に描くのだ/それにうしろのかまどの壁で/煤かなにかが/星よりひかって明滅する」(下線は著者)とある。

 

この詩では,カシワとスギの枝を混ぜて薪にすれば「焚口」から見える「炎」は赤くなること,そして「竈」の火口から空中に飛散した煤が燃えて星のように点滅することが描かれている。まるで星々の中を飛行する宙に浮いた銀河鉄道の列車のようである。

 

「かまど」という表現は,賢治の詩「心象スケッチ 林中乱思」以外では,童話『猫の事務所』と『紫紺染めについて』の中で登場する。しかし,『猫の事務所』では,「心象スケッチ 林中乱思」と同様に土間に置かれている調理設備の「竈」であるが,『紫紺染めについて』に登場するのは「リンゴ」の「芯」のことを言っている。この物語には,「そこでみんなは青いりんごの皮をむきはじめました。山男もむいてたべました。そして実をすっかりたべてからこんどはかまどをぱくりとたべました」とある。このように,賢治は,調理設備の「竈」と「リンゴ」の「芯」という異なった意味のものを同じ「かまど」という言葉で表現している。

 

ちなみに,「リンゴ」の「芯」を「竈」と呼ぶのは,「火」を扱う「竈」が生活(家庭)の第一のよりどころ,生活の「中心」であることから付けられたという(杉山・杉山,2014)。すなわち,賢治にとって,闇夜を走る列車の「窓の明かり」から「竈」の「焚口から漏れる明かり」,そして「リンゴ」を想像することはたやすいことだったはずだ。さらに,賢治は,果物では「リンゴ」と「トマト」と「夏ミカン」が好きだった。特に,「リンゴ」は主に生でかじるのが好きだったようだが,教員時代には冬に「リンゴ」をストーブの上で焼いて食べるのが得意だったという(板谷,1992)。賢治の幼少時代には,母親が賢治たちにこの「焼きリンゴ」を「竈」を使って作っていたのかもしれない。この時は,土間に通じる部屋は「リンゴ」の「匂い」で充満していたと思われる。

 

3.「リンゴ」はなぜ「寂しさ」を呼び起こすのか

これに答えるには,賢治の乳幼児期(6歳までの期間)の「母(イチ)」との関係を紐解かねばならない。しかし,この時期の賢治と「母」の関係を記載している資料はほとんど残されていない。わずかな資料と現存する賢治の「心象スケッチ」を記した作品群や書簡から推測するしかない。そのわずかな資料として,賢治研究家の堀尾青史(1991)の作成した年譜,2001年に発行された新校本宮沢賢治全集十六巻下に記載された年譜および賢治の弟(宮沢清六,1991)の記録などがある。

 

それらによれば,賢治が誕生(1896年8月27日)してから5日後に震源地が県内の真昼岳の大地震が発生するが,このとき「母」は,鍛冶町の実家で「嬰児籠(えじこ)」の中の賢治をかばうために両手で「嬰児籠」をかかえ,乗りかかるように上体を覆って念仏を唱えていたという記載がある。

 

一方,「父」(正次郎)は,質屋と古着商を営む町の名士であり,また熱心な浄土真宗の信者で,朝夕の勤行を怠らず,家庭は宗教的な雰囲気でみなぎっていた。また,仏教の書物を沢山持ち,読書家でも知られていたようだ。事情があって婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた「父」の姉(ヤギ)は,賢治をひどく可愛がり賢治が3歳の頃に「正信偈(しょうしんげ)」(親鸞『教行信証文類』末尾の「正信念仏偈」)や「白骨の御文章」(蓮如)を子守唄のように聞かせたと言われる。6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは「父」や祖母キンの妹ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという。

 

震災時の「母」が「嬰児籠」の中の賢治を守ったというエピソードは美談にも見えるが,賢治の「寂しさ」を裏付けるものでもある。「嬰児籠」は,岩手県などの東北地方で使われる乳幼児を入れておくための揺り籠のような用具であり,藁(わら)製のものが多いが木製や竹製のものがある。「嬰児籠」の底には灰と藁屑が入れられていて,その上に一枚のオシメを敷き,尻を捲って子供を座らせるのだそうだ。こうすることによってオシメの取り換えが1日に3枚で足りた。

 

「嬰児籠」は,主に貧しい農村部で使われていた。当時の東北では育児は労働とはみなされない。母親も重要な働き手であり農作業に専念させるためである。日光の当たらない薄暗い家屋の中に,置き去りにして母親は農作業に出かけることもあったという。使用期間は,普通3歳くらいまであるが,場合によっては学校に入るまでという所もある(吉長,2004)。賢治が生まれたときは母方の実家(商売を営む鍛冶町の宮沢家)で「嬰児籠」の中で育った。多分,商家の娘が同じ商家に嫁いだのだから,賢治は豊沢町の宮沢家でも「嬰児籠」で育てられたと思われる。

 

なぜ,商家の宮沢家で賢治が「嬰児籠」で育てられたのかはわからないが,農家の嫁のように家業の手伝いで忙しかったのかもしれない。堀尾の年譜によれば,「母」イチは料理に煩く注文をつける舅の相手や病弱な姑の介護,娘(賢治の妹)のトシやシゲの世話,あげくは古着を沢山買う上客を座敷にあげて酒肴(しゅこう)をもてなす宮沢家の習わしの中で多忙を極めたという。また,店で売る衣類は町娘の着られる衣類ではなかったので,イチは養蚕に励み,繭を売り,あるいはつむぎ,その金で娘たちの着物をととのえたという。実際に,年譜から見て取れるのは賢治の子守をしているのは叔母たちである。多分,東北の農家の嫁(=母親)のように,あるいはそれ以上に育児に専念することはできなかったのではないか。

 

賢治は,乳幼児期に薄暗い部屋の「嬰児籠」の中から,一日中土間の「竈」で料理を作る「母」の姿を「寂しさ」を堪えて見ていたのかもしれない。「竈」の「火」がついているときは,「リンゴ」の皮を剥いたり,笑ったりする姿を見ながら楽しい時が過ごせるが,「火」が消えれば「母」や叔母たちもいなくなり部屋は昼でも薄暗い。

 

この「寂しさ」を表しているもう一つの「原風景」としての「リンゴ」が九章の「ジョバンニの切符」で登場する。この場面では,賢治は乳幼児期の「母」と「子」の関係をキリスト教徒の姉弟の男の子に投影させているように思える。男の子(ただし)がジョバンニの夢の中を走る銀河鉄道の列車の中で「母」の「夢」を見るが,「母」に抱きしめられることなく「リンゴ」の匂いで目が覚める。

 にはかに男の子がぱっちり眼をあいて云ひました。「あゝぼくいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚(とだな)や本のあるとこに居てね,ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝここさっきの汽車のなかだねえ。」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云ひました。「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん,りんごをもらったよ。おきてごらん。」

 姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰(た)べるやうにもうそれを喰べてゐました               (九,「ジョバンニの切符」)宮沢,1986 下線は引用者

 

男の子が「夢」の中で見た「母」は,「立派な戸棚や本」のある所にいる。「立派な戸棚や本」が「父」を象徴するなら,「母」はいつも「父」の傍にいることになる。男の子の見た「夢」は,「アップルパイ」でも作ってもらいたいのか,庭に落ちている「りんごをひろってきてあげませうか」と言って「母」の関心を引こうとしているものである。しかし,「母」はそれに応えてくれる前に(あるいは応えずに)眼が覚めてしまう。「母」と「子」の関係が希薄ということを象徴する「夢」のようだ。多分,賢治は,これと類似した「求めるが応えてくれない」というパターンの「夢」(無意識の中に封じ込めた乳幼児期の記憶)を繰り返し見ていたと思える。ちなみに,「アップルパイ」は米国を代表するデザート(あるいは家庭料理)で,我が国では味噌汁同様に「おふくろの味」を連想させるものである。

 

吉本(1996)は,『銀河鉄道の夜』の中の夜の暗闇を走る列車の内側だけが明かりがともり,いろいろな旅の人が乗り合わせているという光景は,寂しかった賢治の母胎や乳幼児期の頃のイメージを呼び起こしたと説明している。これを「竈」や「リンゴ」を使って私なりに解釈して表現すれば,闇夜の岩手の平野や山地を走る「列車の赤い窓」→複数の「焚口」を持つ「竈」→「リンゴ」→乳幼児の頃の「母」との希薄な関係→「寂しさ」である。これは,賢治にとっての「父」の像があまりに強大で「母」はその陰にかくれて賢母(あるいは慈母)であるが従順であり,母がその気難しく厳格な「父」を押しのけてまで,あるいは義親の世話や家業の手伝いを拒否してまで自分を愛するような存在とは思えなかった賢治の「こころ」の表現であろう。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯(こ)う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉(のど)いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。(九,「ジョバンニの切符」)

 

「竈」の「火」が消えて誰もいなくなり,そして部屋が暗くなったとき,賢治は「リンゴ」の「匂い」がする宙に浮いたような「嬰児籠」の中で思いっきり泣いたのであろう。しかし,誰も来てくれない。「竈」の正面と天井部の穴は「異界」にいたる入口と信じられていた(狩野,2004)。「竈」の穴をのぞき込むと,中は真っ暗で何も見えない。何も見えないことがかえって賢治の想像力を掻き立てたのだろう。賢治は,「寂しさ」に堪えて,真っ暗な「異界」の入口から夢うつつに銀河鉄道の列車に乗って「幻影」ではない「ほんたうの幸せ」を求める旅に出かけたのだ。

 

引用文献

堀尾青史.1991.年譜宮沢賢治伝.中央公論社.東京.

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌.11(2):21-24.

板谷栄城.1992. 素顔の宮澤賢治.平凡社.東京.

狩野敏次.2004.ものと人間の文化史117・かまど.法政大学出版局.東京.

奥野健男.1972. 文学における原風景-原っぱ・洞窟の幻想.集英社.東京.

杉山 芬・杉山 雍.2014.10.15(調べた日付).青い森の片隅から.http://homepage3.nifty.com/malus~pumila/migi.htm

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

宮沢賢治.2001.新校本宮沢賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料(年譜編).筑摩書房.東京.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.東京.

平 智・北原裕理・原 恵理子・村岡睦美.2011. 宮沢賢治の童話作品に登場する植物について.人植関係学誌.11(2):15-17.

吉長真子.2004.戦後岩手の農村保険運動における乳幼児死亡問題と嬰児籠-『岩手の保健』誌の分析から-東京大学大学院教育学研究科 教育学研究室 研究室紀要 30:17-30.

吉田好宏.2015.1.11(調べた日付).かまどに関する文化的考察.http://www.hibana.co.jp/sinktank/11reading/02kyo-no-shintanbunka/01_kamado-no-bunkashi/kamado-no-bunkashi.pdf

吉本隆明.1996. 宮沢賢治.筑摩書房.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌15巻第2号27~30頁2016年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html