Key words:文学と植物のかかわり,源氏物語,実体的意識性,気配,三木成夫,予知
前稿では,『銀河鉄道の夜』第二次稿から登場してくる「苹果(りんご)」や「野茨」の「匂い」を,嗅覚過敏や幻嗅で説明しようとしたが十分説明しきれなかった。今回,『銀河鉄道の夜』第三次稿(あるいは第四次稿)の加筆箇所を第二次稿と比較検討することにより,解明の糸口をつかんだので報告する。第三次稿(あるいは第四次稿)の「苹果」,「野茨」及び「ばら」の「匂い」が記載されている箇所は以下の通りである。
「何だか苹果(りんご)の匂(におひ)がする。僕はいま苹果のことを考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨(のいばら)の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈(はず)はないとジョバンニは思ひました。
そしたら俄(には)かにそこに,つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずにひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるへてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で,男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。
「あら,こゝどこでせう。まあ,きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套(ぐわいたう)を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
(中略)
「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないゝところを旅して,ぢきに神さまのところへ行きます。そこならもうほんたうに明るくて匂い(におひ)がよくて立派な人たちでいっぱいです。」
(中略)
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光(りんくわう)の川の岸を進みました。向ふの方の窓をみると,野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標,その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え,野原のはてはそれらがいちめん,たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう,そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙(のろし)のやうなものが,かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった綺麗な風は,ばらの匂い(にほひ)でいっぱいでした。
「いかゞですか。かういう苹果(りんご)はおはじめてでせう。」向ふの席の燈台看守がいつか黄金(きん)と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝(ひざ)の上のかゝへてゐました。「おや,どっから来たのですか。立派ですね。こゝらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんたうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかゝへられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめてゐました。
(『銀河鉄道の夜』第三次稿 宮沢,1986) 下線は引用者
1.匂いと気配
『銀河鉄道の夜』第三次稿の「存在しない苹果や野茨の匂いがしてくる場面」に,賢治は匂いと関連させてもう1つの巧妙な仕掛けを組み込んだ。これは,「匂い」がしたあとに乗車してくるキリスト教徒たちを強調するためと思われる。この仕掛けを読み解くことによって,これら「匂い」が嗅覚過敏によるものではなく「幻の匂い」=「幻嗅」によるものであることが明らかになると思われる。この匂いが登場する場面は,八章の「鳥をとる人」の話から話題を新たに乗車してくる氷山と衝突して遭難したキリスト教徒の人たちへと移すところである。水死して銀河鉄道の列車に乗車してくるのは,少年の「タダシ」,少女の「かほる」および彼らの家庭教師である青年である。
第二次稿では無名の三姉妹を入れて5人だったのが,第三次稿(と第四次稿)で三姉妹を1人の「かほる」という名の女の子にして3人にしてある。この3人と「苹果」や「野茨」との関係は,童話を一読しただけでは理解できない。しかし,3人が乗車してきたときの様子を注意深く観察してみると,「苹果」や「野茨」を連想させるものを見つけることができる。男の子は,「つやつやした黒い髪の赤いジャケツを着」ていて,女の子の「眼が茶いろ」(第二次稿では眼は黒いろ)で名前が「かほる」ということに気がつく。
「かほる」という名前は,前作で考察したように紫式部の『源氏物語』の後半に登場してくる「薫」に由来すると思われる(石井,2011)。「薫(薫中将)」は,「光源氏」の子(実は不義の子)で,源氏の没後の後継者を巡って「匂宮(匂兵部卿)」と争う。また,「浮船」という女性を巡って「匂宮」と恋の鞘当てを演じたりもする。「薫」は,生まれつき体から芳香を放つ特異体質の持ち主であり,その発する芳香は常識を超えていて,ちょっと動作するとその周囲はもちろん,遠く離れた場所まで漂う。
すなわち,『源氏物語』では,「薫」がちょっとお忍びで立ち寄る所でも,「薫」とわかる「匂い」がして隠れようがないといように設定されている。すなわち,「薫」の姿形が見えなくても,「薫」が近づいてくればその「匂い」で「薫」だと気づかれてしまう。賢治はこの『源氏物語』の「薫」の「匂い」の話を『銀河鉄道の夜』に気配を伴った幻嗅という形で取り入れたのだろう。
「苹果や野茨の匂いがしてくる」のは,第二次稿,第三次稿及び第四次稿に記載されているが,「赤いジャケツ」,「眼が茶いろ」,および女の子の名「かほる」は第三次稿と第四次稿で登場する。賢治が意図的に匂いと結び付けて入れたとしか考えられない。「つやつや」した「赤い」ものが近づいてくるという気配から「苹果の匂い」を,また,小さな「茶色」なものが近づいてくるという気配から「野ばらの匂い=木苺の実の匂い」をイメージさせ幻嗅として表出した。
賢治は,「野ばら」と表現する場合,前稿で記載したようにバラ科バラ属の「ノイバラ」(Rosa mutiflora)だけでなくバラ科のキイチゴ属を使うことが多い。例えば,茶色がかったオレンジ色の実をつける「モミジイチゴ」(Pubus palmatus var. coptophyllus:花期は3~5月 )や「ミヤマモミジイチゴ」( Rubus pseudoacer Makino:花期は7~8月 )などである。多分,『銀河鉄道の夜』に登場する「野茨」は,「野ばら=木苺」のことであろう。
すなわち,賢治は嗅覚過敏ということではなく,『銀河鉄道の夜』の主人公たちが,「つやつやした黒い髪の赤いジャケツを着た」男の子と「眼が茶いろ」の女の子が近づいていることを気配として感じ,「苹果」や「野茨(実際は木苺)」の「匂い」を感じたという設定にしたと思われる。
我々は,「匂う」という場合,「何かの気配を感じる」という意味で使うことがある。しかし,「匂う」という言葉を出して,そのあと,その匂いのイメージに一致した人物を入れることに何かメリットがあるのだろうか。文学のことはよく分からないが,多分読者は,それを意識するにせよ,意識しないにせよ,文章の流れがよくなったと感じたのではないかと思われる。突然,文章の内容が変わると読みづらいものだ。
また,難破船で他人を押しのけてまでして助かろうとしなかったキリスト教徒の青年および姉弟(自己犠牲を進んで実施した人たち)は,物語では「明るくて匂いがよいところ(神さまのいるところ)」へ行くことになっている。すなわち,「苹果」や「野茨」の「匂い」は宗教的に立派な人たちが登場してくること予兆させたのかもしれない。
一方,仏教でも「匂い」の重要性が説かれている。賢治が帰依した法華経の薬王菩薩本事品第二十三には,この説法を聞いて随喜し賞賛する者がいれば,その者の口から青蓮華(しゅうれんげ)の香りが漂い,身体の毛孔から栴檀(せんだん)の香りがするであろうと記載されている。法華経には,修練によって五感の冴え方についての記載もある。「宗教」と「匂い」は密接に関係しているように思える。この五感を鋭敏にするという考えは,『源氏物語』に登場する貴人たちの世界にひとつの風俗を生んだ。長い髪を洗う習慣のなかった登場人物たちは,香をたきこめて,その「匂い」を衣装に移してから着用するという習慣になった(吉本,1999)。「匂い」を扱った文学として最高峰に位置する『源氏物語』は,法華経の影響を強く受けているとする研究者もいる。
2.気配の具体例
次に,気配から「匂い」を感じとるということが,現実世界で起こり得るであろうか。また,賢治にそういった体験は存在したのだろうか。この答えになるかもしれない記述が芥川龍之介の遺稿である『歯車』の中にある。多分,芥川の実体験と思われる。
が,暫く歩いてゐるうちに痔の痛みを感じだした。それは僕には座浴より外に癒すことの出来ない痛みだった。座浴-ベエトオヴェンもやはり座浴をしていた。座浴に使う硫黄の匂いは忽ち僕の鼻を襲い出した。しかし,勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかった。(『歯車』芥川,1957)
ここでは,歩きながら痔の痛みを和らげる座浴を思い浮かべただけで,座浴に入れる硫黄の「匂い」が幻嗅となって主人公に襲ってくる。簡略して幻嗅までの流れを記載すれば,「痔の痛みの感覚」→「治療法の1つとしての座浴」→「座浴に使う硫黄(薬)のイメージ」→「硫黄の匂い(幻嗅)」となる。一方,『銀河鉄道の夜』に登場する幻嗅は,「赤いジャケツを着た男の子と眼が茶いろの女の子の気配」→「赤い苹果(バラ科リンゴ属)と茶いろの木苺(バラ科キイチゴ属)の実のイメージ」→「苹果と野茨(バラ科バラ属)の花の匂い(幻嗅)」である。
さらに,『銀河鉄道の夜』では,進行方向先で本物の「苹果」と「バラ科キイチゴ属のばらの匂い」に遭遇する(予知)。両者は幻嗅ということでは一致するが,幻嗅を引き起こす原因が異なる。『歯車』では実際の痔の痛みの感覚が幻嗅を引き起こしているが,『銀河鉄道の夜』では気配のようなものが幻嗅を引き起こしている。
3.気配と実体的意識性
気配とは辞書には,「はっきりとは見えないが周囲の様子から何となく漠然と感じられる様子」とある。また,精神医学的には,気配と類似した概念として「実体的意識性」(ドイツの精神科医・哲学者カール・ヤスパースの言葉)という言葉がある。「実体的意識性」とは,人や物の実体的な存在を感覚器官と無関係に,「直感的」に認識することである。直接に何も知覚していないので幻覚ではなく,また直接に体験しているので妄想や錯覚とも異なる(宮本,1997, 仙波,2009 )。
例えば,統合失調症患者が,「自分の後ろなどに,ありありと,ある存在を,実感として感じる」や「学生時代の同級生が屋根裏部屋に住んでいて話しかけてくる」などがその例である。それは,「知覚」以前の「直感」的なもので,その者にとっては,まさに「実体」そのものとして,そこに「ある」ものと「意識」されている。ヤスパースのいう「実体的意識性」は,我々が考えている漠然の意味が込められている「気配」よりももっと確信に近いものと思われる。
それゆえ,統合失調症患者は,差し迫った「恐れ」を抱き,圧倒され,自己が崩壊する瀬戸際まで追い込まれるのであろう。幻覚や妄想もこの「実体的意識性」を基礎にして展開されたものである。「屋根裏部屋の住人(もう一人の自分)が話しかけてくる」などは,「実体的意識性」が「幻覚(幻聴)」を呼び起こしている例でもある。
賢治もしばしば気配を感じる人であったという(板谷, 2000)。花巻市葛丸ダム湖畔に石碑があり,そこに「ほしぞらは/しづにめぐるを/わがこゝろ/あやしきものにかこまれて立つ」という1918年作の詩が刻まれている。賢治が盛岡高校農林学校本科を卒業して,ひきつづき研究生として稗貫郡の土性調査のため各地を歩き回っていた頃の作である。この年の4月に友人にあてた手紙では,調査の様子について,「寒サウナ話ヲスルナラバ私ハ毎日摂氏〇度ノ渓水ニ腰迄浸ッテヰルノデス。猿ノ足痕ヤ熊ノ足痕ニモ度々御目ニカカリマス。実ハ私モピストルガホシイトモ思ヒマシタ。」と記載している。
賢治の短歌「北上川第三夜」(1919年)には,「ものみなはよるの微光と水うたひ/あやしきものをわれ感じ立つ」というのもある。これは賢治が四晩連続して北上川の朝日橋に心象スケッチに行ったときのものである。賢治がこれら「あやしきもの」の気配を恐怖として感じているのは,「あやしきもの」を実体として,そこに「ある」ものとして「意識」しているからである。また,中学校時代には「うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり」というヤスパースの「実体的意識性」を彷彿とさせるような短歌も残している。
もしも,賢治が気配から「幻覚(幻臭)」に近いものを体験していたとすれば,賢治の感じる気配は,恐怖を引き起こす「実体的意識性」や痔の痛みの感覚に匹敵するぐらい強い「実体」的な「意識」だと思われる。
4.気配の本質的意味
神秘主義的な理解をとらずに,気配と「匂い」の関係を科学的に説明することは可能なのだろうか。最初に,「匂い」を感じるとはどういうことか考えてみる。空気中をただよう匂い分子は,人を含む哺乳類では鼻から吸い込まれるが,まず鼻腔天上の嗅上皮を覆う嗅粘液に溶け込み,いわば1つの味として嗅細胞の嗅覚受容体部位で受け止められ,そこで感知された情報が電気信号に変換されて脳へ伝わる(三木,1997)。
リンゴでは匂い分子は,エチルアセテートなどのエステルである。解剖学者の三木(1997)は,嗅覚器を高級な味覚器と考えた。これは,一般的な教科書には記載されていない面白い発想である。嗅覚器は,「魚類」では一対の穴として顔面に現れてくるのだが,そのおのおのの底に敷き詰められた嗅細胞で,流れてくる水の「匂い」,すなわち味を受け止めている。そして,その味の「方向」と「距離」が識別される。陸上に上がった哺乳動物の嗅覚器が水(嗅粘液)で覆われているというのも,もしかしたら哺乳動物の祖先が魚だったころの名残かもしれない。
吉本(1999)は,気配と「匂い」に関して,三木成夫の独創的な発生学の研究成果を基に,興味ある解説を行っている。
上陸まえの胎児とおなじで,魚みたいな水棲の生物では,鼻(腔)の嗅覚機能と呼吸機能とはまだひとつだった。水の流れを感知しながら同時に水に溶けた酸素をとりこむ単一のリズムをもっていた。いってみれば匂い以前の匂いを感じて,水の流れや方向や水の質や水の変化を知り,同時に呼吸以前の呼吸作用で,水に溶けた酸素を吸収していた。
匂いはここまでさかのぼれば感覚の起源としての「触知」それ自体を指している。それが受胎三十六日目にヒトの胎児が上陸することの意味だ。このときから鼻(腔)は嗅覚機能と呼吸機能が分化する兆候を体験した。嗅覚や味覚や聴覚などが分化しはじめるのが受胎後五~六ヶ月目とされているから,嗅覚はそれよりずっと以前で,いわばすべての感覚の全体的な起源にあたる「触知」自体を意味しているとみてよい。
わたしたちは「香を聞く」とか「花の色が匂う」とかいうように「匂う」という概念を嗅覚だけではなく,視覚とか聴覚とか,ばあいによっては「かれには恋人の(いる)匂いがするぞ」「かれの表情には生活の匂いがしない」といった「気配」の意味にまでひろげて使われるのは,とおくヒトが魚だった時期にさかのぼれるからだとも言えよう。(『匂いを讀む』吉本,1999)
上記文章の「上陸」とは,進化の過程で「魚」が陸に上がり水陸両用の両生類を経て爬虫類になったことを指す。この進化の過程は,母親の胎内でも起こる。ドイツの進化論者であるエルンスト・ヘッケルは,「個体発生は系統発生を繰り返す」という仮説を唱えた。
例えば,人間であれば,ある個体の受精卵から胎児,新生児,幼児,成人に至る過程は,人類が進化の過程で歩んできた全ての過程(単細胞動物→多細胞原生動物→下等脊椎動物→魚類→両生類→爬虫類→哺乳類→類人猿→人)を再現するというものだ。女性(母親)の卵子は,受精後に子宮に着床(受胎)し,子宮から栄養を取りながら多細胞原生動物,下等脊椎動物,魚類(受胎32日目)の形状へと変化成長し,やがて受胎三十六日目(爬虫類の形状)に上陸する。
この吉本の上陸劇に関する考えに対して,私流に拡張解釈してみる。我々人間の遠い祖先は,嗅覚,視覚,聴覚が未分化であり,いわば匂い以前の「触知」の感覚を魚の時代に経験しているので,たとえ匂い物質が鼻腔に届いてこなくても,鼻腔内の鼻粘膜に含まれる水の流れ,方向,変化から,強い気配を感じとり,またそれを聴覚,視覚及び嗅覚と結び付けることもできる。すなわち,実際に,「つやつや」や「赤いジャケツ」の気配を感じると,別に視覚的に見えなくても,そのイメージにあった「苹果」の「匂い」がしたり,「茶いろの眼」の気配を感じたりして,そのイメージの「野ばら=木苺」の「匂い」がすることはありえるかもしれない。
しかし,この感覚はある種の精神疾患を有している人たちか, 賢治のように特殊な能力を持った人にしか体験できないということも事実のようである。
このように,賢治は文章間をスムーズにつなげるための技術の1つとして,あるいは宗教的な物語であるという意味も込めて「匂い」を採用したと思われる。この「匂い」にはよく植物の「匂い」を使う。一般人が感じることがない気配を感じたり,気配から「匂い」を実体的に意識したりする能力は,賢治の性格,資質および病理からきているように思われる。そのような能力を持たないものが,難解だと言われている賢治作品を読み解いていくには,植物学以外に心理学,宗教学,精神病理学など様々ジャンルの書物の手助けを借りて地道に読み進めて行くしかないように思える。
引用文献
芥川龍之介.1957. 歯車他二篇.岩波書店.東京.
板谷栄城. 2000. 宮沢賢治 美しい幻想感覚の世界.でくのぼう出版. 神奈川.
三木成夫.1997. ヒトのからだ.うぶすな書院.東京.
宮本忠雄.1977.精神分裂病の世界.紀伊國屋書店.東京.
宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.
仙波純一.2009.知っておきたい症状用語 実体的意識性.精神科治療学 24(8) : 1011-1012.
瀬戸内寂聴.2002.瀬戸内寂聴の源氏物語.講談社.東京都.
澁谷達明・市川真澄 編集.2007. 匂いと香りの科学.朝倉書店.東京.
吉本隆明. 1999. 匂いを讀む. 光芒社. 東京
本稿は,人間・植物関係学会雑誌12巻第2号25~28頁2013年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。