宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』考-蟹の母が子の行動に対して禁止したもの(試論 第1稿)-

童話『やまなし』(1923.4.8)に登場する〈蟹〉は父親と兄弟の子供しか登場しない。1971年に宮沢賢治研究会の例会で,なぜ母親が出てこないのかについて健在説,一時的不在説,入院説,死亡説という4つの見解が出され議論されていた(福島,1971)。私は,母が舞台となった谷川の近くに居ると思っている。ちょっと外出しているのだと思う。どこに居るかのヒントも物語にある。だから,4つの見解の中では一時的不在説を支持する。賢治の母・イチも賢治が幼かった頃,料理の仕方を学ぶためしばしば実家に行っていたこと,およびこの頃の賢治の世話は伯母のヤギも手伝っていたことが伝記に書かれてある(新校本宮澤賢治十六巻下補遺・伝記・資料,2001)。すなわち,幼い頃の賢治にとって母が外出するのは珍しくはなかった。だから,あえて物語に登場させなくても母は近くに居る。また,兄弟蟹の母とクラムボンの母は同一とも思っている。

 

賢治童話で母と子が実際に登場するものとして①『貝の火』(清書;1922.11),②童話『サガレンと八月』(1923?),③『タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった』(1924),④『銀河鉄道の夜』(第四次稿;1931)がある。これら童話を読むと登場する母にある共通点があることに気づく。それは,子が外に出かけるとき必ず禁止事項を言うことである。①では,母が貝の火という宝珠を貰って慢心になっていくホモイに「笑はれないやうにするんですよ」とか「あんまりゐばるんぢゃありませんよ」と言う。②では,母が浜へ出かけるタネリに「くらげ」を拾って「それで物をすかして見てはいけないよ」と言う。 ③では,母が白樺の皮を剥ぎに出かけるホロタイタネリに「森へは,はひって行くんでないぞ」と言う。④では,母が銀河の祭に出かけるジョバンニに「あゝ行っておいで,川へははひらないでね。」と言う。

 

それぞれ何気ない言葉にも聞こえるが,物語を読み込むと,これら母の忠告はとても重要な意味を持っているように思えてくる。なぜなら,母の忠告を守った③のタネリと④のジョバンニは無事に家に帰ってこられたが,母の忠告を守らなかった①のホモイは失明し,②のホロタイタネリはギリヤークの犬神に海の底の穴に閉じ込められチョウザメの下男にされてしまうからである。すなわち,これら童話に登場する母たちは子の運命(あるいは人生)を左右する重要な言葉を語っていたのである。多分,母たちは子が幼いころからこれらの言葉を言い続けていたと思える。

 

本稿では母が何処に居るかではなく,母が近くに居るという仮定のもとに,兄弟の子蟹あるいはクラムボンがその母からどのような禁止の言葉を聞かされていたかについて考察する。考察するに当たっては童話『やまなし』と同じ年に制作されたとされている童話『サガレンと八月』に登場する母の言葉を手がかりにする。物語に登場もしてこない母の言ったかどうかもわからないことについて語るので,これから先の考察は私の妄想と見做してくれてかまわない。タイトルにも試論と付けておく。

 

童話『サガレンと八月』は,大正12年(1923)7月から8月にかけて靑森,北海道,樺太へ旅行した体験が関係しているとされている(浜垣,2017)。この物語は2部構成で,風や波との対話(作品前半)と母の禁止事項を守らなかったことで蟹になってしまったホロタイタネリの話(作品後半)が描かれている。本稿では後半部を読み込むことで,この母の子の行動に対する禁止事項がなんであるのかを明らかにしたい。

 

浜へ遊びに行くホロタイタネリ(以下タネリ)に母は以下の言葉を言う。

 

「ひとりで浜へ行ってもいゝけれど,あすこにはくらげがたくさん落ちてゐる。寒天みたいなすきとほしてそらも見えるやうなものがたくさん落ちてゐるからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまえの眼は悪いものを見ないやうにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまえの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」と。

                  (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

ここで,母の禁止した理由が語られている。その理由は「悪いものを見ないやうに」するためとある。では「悪いもの」とは何であろうか。

 

賢治研究家の秋枝美保(2017)がこの「悪いもの」について言及している。秋枝は賢治がサガレンに行ったのは亡き妹の魂を追うためだとし,「悪いもの」とは「現実の向こう側=亡き妹のいる所=死後の世界」だとした。さらに秋枝は死後の世界を見ることを「物理的な法則に反した願い」であり「ルール違反」だと説明する。残念ながら,私には「死後の世界を見ること」=「ルール違反」=「悪いもの」という秋枝の解釈を理解することができない。『サガレンと八月』に関する論考が他にもいくつかあったが「悪いもの」については触れてなかった(佐藤,1971;鈴木,1994)。別の解釈を試みたい。

 

浜に着いたホロタイタネリは落ちていた「くらげ」を拾って不思議な体験をする。

 

タネリはまたおっかさんのことばを思ひ出してもう棄ててしまおはうとしてあたりを見まはしましたら南の岬はいちめんうすい紫いろのやなぎらんの花でちょっと燃えてゐるやうに見えその向ふにはとゞ松の黒い緑がきれいに綴(つづ)られて何とも云へず立派でした。あんなきれいなとこをこのめがねですかして見たらほんたうにもうどんなに不思議に見えるだらうと思いますとタネリはもう居てもたってもゐられなくなりました。思わずくらげをぷらんと手でぶら下げてそっちをすかして見ましたらさあどうでせう,いままでの明るい青いそらががらんとしたまっくらな穴のやうなものに変かわってしまってその底で黄いろな火がどんどん燃えてゐるやうでした

                              (宮沢,1985)

 

多分,この「悪いもの」とはタネリの住んでいる場所,すなわち空が青く南の岬にはいちめんうすい紫いろのやなぎらんの花が咲き乱れ,その向ふにはとゞ松の黒い緑がきれいに綴られている場所を「まっくらな穴」の底で「黄いろな火」が燃えている場所に変えてしまうものであろう。

 

「黄いろな火」が燃えている場所とは何であろうか。「黄いろ」が登場する詩や童話がいくつかある。詩集『春と修羅』補遺「手稿」(1922.5.12)に「あなたは今どこに居られますか。/早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に/まっすぐに立ってゐられますか。」とあり,童話『ひかりの素足』(1922年前半頃)「三,うすあかりの国」に「そこは黄色にぼやけて夜だか昼だか夕方かもわからずよもぎのやうなものがいっぱいに生えあちこちには黒いやぶらしいものがまるでいきもののやうにいきをしてゐるやうに思はれました。」,「そらが黄いろでぼんやりくらくていまにもそこから長い手が出て来さうでした。」とあり,童話『銀河鉄道の夜』(1931)「六.銀河種テーション」に「次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが,湧くやうに,雨のやうに,眼の前を通り・・・・」とあり,童話『北守将軍と三人兄弟の医者』(1933)に「三十年といふ黄いろなむかし」とある。

 

浜垣誠司(2021)は詩「手稿」や童話『ひかりの素足』を例にして,賢治が用いる「黄ばんだ」や「黄色」という言葉には,「異世界」的な感じが伴っている場合もあるのではないかと言っている。また,童話『北守将軍と三人兄弟の医者』の「黄いろ」からは「セピア色」あるいは「遠い彼方」というイメージを持ったという。「セピア色」というのは理解できる。「黄ばんだ」,「黄色にぼやけて」,「黄いろでぼんやりくらくて」という表現は「セピア色」である。「古めかしい」とか「懐かしい」というイメージがある。また,大地の色であるから「底」というイメージもあるかもしれない。『銀河鉄道の夜』でも,賢治は「黄いろな底」という表現を使っている。ちなみに,青と黄色のウクライナ国旗の「黄色」は青空の下の小麦畑がイメージされているらしい。

 

では,浜垣の「異世界」的な感じが伴っている場合もあるというのはどういうことであろうか。言い回しが複雑で理解しにくい。「手稿」で詩の主人公は実際に「あなた」は見えていないのに「私の右の黄ばんだ陰の空間」にありありと「あなた」を実感している。この詩の主人公の不思議な体験は精神医学的には「解離現象」で説明できるのだという。幻覚のようなものと思われるが,浜垣はこの「黄ばんだ陰の空間」が「異世界」的な空間だと言っているように思える。ただ,私には「陰の空間」が「異世界」であり,「黄ばんだ」は前述したように「古めかしい」とか「底」という意味のように思える。私なりに解釈するなら,「黄ばんだ陰の空間」とは詩の主人公が古めかしい「底」と実感した「異世界」的な空間ということになる。ただ,この空間が具体的にどのようなものかは分からない。主人公が賢治で「あなた」が恋人ならば,「黄ばんだ陰の空間」は賢治の脳裏に浮かんだ恋人が生活している古めかしい家制度と封建制に縛られる空間の幻影であろう。

 

童話『ひかりの素足』も「うすあかりの国」は「異世界」と思われるが,「黄色にぼやけて・・・」や「黄いろでぼんやりくらくて」の「黄色」は「底」というイメージだと思われる。「うすあかりの国」は空間の「底」にある「異世界」(=地獄)と思われるからである。すなわち,賢治が使う「黄色」は全部ではないが「古めかしい」とか「底」というイメージを伴っている。「黄色」自体に「異世界」的な意味はないと思われる。

 

「黄いろの火」が燃えているところは,浜垣の言う「異世界」と同じかどうかは分からないが,空間の「底」の色あせて古めかしい世界と思われる。具体的に言えば,新しい別の世界を知ったことで,これまで代々受け継がれている経験や伝統を守ることが恥であり,自分達は底辺にいると感じてしまった先住民ギリヤークの脳裏に浮かんだ幻影である。

 

すなわち,「悪いもの」とは青い空,美しい花や木々がたくさん見えると感じる世界を古びたものあるいは奈落の「底」に追い込まれたと感じさせてしまうものである。

 

黄色の反対色は色相学では青色(補色)である。賢治も「黄いろの火」の反対を「青いろの火」としている。寓話『シグナルとシグナレス』(1923.5.11~23)で〈シグナル〉と〈シグナレス〉が一緒に座りたいといった「青い火」が燃えている理想の大地は北アメリカである(石井,2023)。1920年代のアメリカは狂騒の20年代あるいは黄金の20年代と言われた。経験や伝統が破壊され,あらゆるものが現代技術を通じて実現可能に思われた時代である。自動車,映画およびラジオのような新技術が,多くの人たちに浸透していったころである。女性への参政権も与えられるようになった。

 

1920年代の日本も西洋文化の影響を色濃く受けている。大正デモクラシーが台頭し一般民衆や女性の地位向上に目が向けられ,また新しい文芸,絵画,音楽,演劇などの芸術が流布し,都市を中心とする輸入物愛好や大正文化が花開いた時期でもあった(Wikipedia)。

 

「悪いもの」が見えてしまう「くらげ」の「めがね」とは望遠鏡のレンズがイメージされている。タネリは「南」の岬の方を眺めていた。タネリが樺太の地から「くらげ」の「めがね」で「南」の方を透かして見たとき何が見えたのであろうか。遠い「南」には内地である北海道があり,その向こう側には花巻の町があり,さらに南には大都会東京がある。タネリが「くらげ」の「めがね」で透かして見たものは大都会東京やアメリカのシカゴ,ニューヨークのような伝統が破壊され自由を謳歌できる世界だったように思える。「悪いもの」とは「南」にある別の世界のことである。(続く)

 

参考・引用文献

秋枝美保.2017.宮沢賢治を読む-童話と詩と書簡とメモと-.朝文社.

浜垣誠司.2017.宮澤賢治の詩の世界 「サガレンと八月」の続き.https://ihatov.cc/blog/archives/2017/06/post_881.htm

浜垣誠司.2021.宮澤賢治の詩の世界.黄いろの異界.https://ihatov.cc/blog/archives/2021/02/post_993.htm

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「青じろき火を点じつつ」とはどういう意味か (第1稿)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/02/12/093308

佐藤栄二.1971.作品研究「サガレンと八月」.賢治研究.8:11-16.

鈴木健司.1994.宮沢賢治 幻想空間の構造.蒼丘書林.

福島 章.1971.質問教室「『やまなし』には何故母親が出てこないのか?」での討論の報告.賢治研究.8:32-34.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.