宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『四又の百合』に登場するまっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎(2)-その1茎は奇麗な心が形になったものか-

前稿(1)で,「四又」で「まっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎」に相当する百合の花は自然界には存在しないということを報告した。では,〈はだしの子供〉あるいは国王が〈正徧知(しょうへんち)〉に渡そうとした1茎の「四又」で「十の花のついた百合の花」とは何だろうか。最近,賢治研究家である朴(2021)は,この「十の花のついた百合の花」とは,百合が純粋,純白,潔白,真実,誠実を象徴していることかから,「奇麗な心」の象徴であり,この「奇麗な心」を形にしたものだとした。私も朴のこの解釈に賛同する。ただ,朴は「奇麗な心」を形にすると,なぜ「四又」で「十の花」のついた百合の花になるのかについて十分には説明していないように思える。

 

私は,「四又」で「まっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎」とは宗教的(あるいは「聖」)なるものであり,「純粋な人の心」(=奇麗な心)に現れる「強い信仰心」を象徴したものであると思っている。この「強い信仰心」を宗教用語で言い表すと,「神や仏の力を信じ,これに帰依し,もろもろの願をかける心」と言うことになる(世界大百科事典 第2版「信心」の解説)。仏教では「発菩提心(ほつぼだいしん))あるいは「信心」ともいう。「布施」の一種と思われる。本稿(2)ではこの「強い信仰心」が「仏教」あるいは「法華経」に対するものであり,これを形にすると「四又」の百合になるということについて論じる。

 

百合の花は,前述したように,純粋,純白,潔白,真実,誠実あるいは美のシンボルとされ,西洋ではキリスト教の聖母マリアと関係づけられてきた(広島大学高等教育研究開発センター,2022)。「四又」で「まっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎」はキリスト教的には以下の聖書の言葉と関係すると思われる。

 

新約聖書・マタイによる福音書6章28-29節(文語訳)には「なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何(いか)にして育つかを思へ,勞せず,紡(つむ )がざるなり。されど我なんぢらに告(つ)ぐ,榮華を極めたるソロモンだに,その服裝(よそほひ)この花の一つにも及(し)かざりき。」とある(下線は引用者,以下同じ)。

 

賢治は,新訳聖書にでてくる「野の百合の一つ(1茎)」(括弧内は引用者)をキリスト教における「純粋な心を持つ人」の神に対する「強い信仰心」と解釈したように思える。すなわち,1茎の百合(=「純粋な心を持つ人」の神に対する「強い信仰心」は栄華を極めたソロモンに劣るということはない。というように。純粋な心と「強い信仰心」は強い物欲にも打ち勝つことができるということだと思われる。

 

この聖書の言葉を参考にしたと思われるものが童話『めくらぶどうと虹』(1921)に登場してくる。

 

「それはあなたも同じです。すべて私に来て,私をかゞやかすものは,あなたをもきらめかします。私に与へられたすべてのほめことばは,そのままあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳(ひとみ)でものを見る人は,人の王のさかえの極みをも,野の百合(ゆり)の一つにくらべようとはしませんでした。それは,人のさかえをば,人のたくらむやうに,しばらくまことのちから,かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば,人のおごりからあやしい雲と湧(わ)きのぼる,塵(ちり)の中のたゞ一抹(いちまつ)も,神(かみ)の子のほめ給(たも)うた,聖なる百合に劣るものではありません。」

(『めくらぶどうと虹』 宮沢,1985)

 

下線部分の「まことの瞳でものを見る人」は「純粋な心を持つ人」のことである。

 

キリスト教の「野の百合」の「花の一つ」は,仏教的には『阿闍世王(あじゃせおう)受決経』にある「貧者の一灯」(あるいは「長者の万灯よりも貧者の一灯」)という故事に相当すると思われる。

 

『阿闍世王受決経』の〈阿闍世王〉とは釈迦の時代(紀元前5世紀頃)のインドのマガダ国に生まれ,父王を殺して位を奪うなどの暴虐な振る舞いがあったが,釈迦に出会い,仏教に帰依したとされる王のことである。「受決」とは来世において成仏するという予言のことである。『阿闍世王受決経』は3つの部分から構成されている。(1)〈貧しい老女〉が〈釈迦〉から受決を受ける部分,(2)王の庭園を管理する〈庭師〉が受決を受ける部分,(3)王及び王子が受決を受ける部分である。

 

『阿闍世王受決経』の原文と現代語訳はネットに記載されている(Watto,2018a,b)。本稿は,それを要約する。

 

「貧者の一灯」は最初の部分(1)に記載されている。〈阿闍世王〉が〈釈迦〉を国に招待したとき,「布施」として王宮から祇洹精舍へ帰る道に100石(1石は1000合)の灯油を使いたくさんの灯りをともした。それを見た貧しい老女が,自分も灯りをともしたくてなり乞食をして僅かなお金を稼ぎ5合の灯油を手に入れ,やっと一本の灯りをともすことができた。〈阿闍世王〉がともしたたくさんの灯りはその夜の内に消えたが,老女がともした一本の灯りは朝になっても消えることはなかった。〈釈迦〉はこの老女の行いと老女の過去生の善行から,この女性に須弥燈光如来という名の仏になるという予言をした。

 

〈阿闍世王〉は大臣に尋ねた。自分は〈釈迦〉にたくさんの供養をしたにもかかわらず受決を与えられていない。しかし,あの老女は一灯を献じたことにより受決が与えられている。これはどういうことか。すると,大臣は「王の釈迦に対する供養は多いと言っても,あの老女が釈迦に注いだようには一心ではなかった」と答える。

 

この「一心ではなかった」とはどういう意味なのか。『阿闍世王受決経』の3つ目の部分で,大臣は王に再度「王は毎日功徳をなされているが,それは国の財産を使い,民の力を使っての供養である。また,心には高ぶりや恨みがある。だから受決されないのである」と諭す。原文は「祇婆曰。王雖頻日設福。但用國藏之財。使人民之力。心或貢高意或瞋恚。故未得決。」である。私が下線を引いた原文にある「瞋恚(しんい)」とは,仏教で言うところの「十悪」の一つで,自分の心に逆らうものを憎み怒ることである。すなわち,「貧者の一灯」とは「純粋な心」を持つ者の「布施」が「純粋な心」を持たない者の「布施」よりも価値があるということを言っているように思える。

 

賢治は,仏教徒であり「法華経」に帰依した人でもある。賢治は,童話『四又の百合』で,聖書の「1茎の百合」が意味するキリスト教の神に対する「強い信仰心」を,「仏教」あるいは「法華経」の〈釈迦〉に対する「純粋な心」から現れる「強い信仰心」に置き換えたように思える。『四又の百合』では「1茎の百合」は〈はだしの子供〉が持っていた。〈大蔵大臣〉は,国王の命令で百合の花を林で探したが見つけられなかった。しかし,〈大蔵大臣〉は栗の木の下に立つ〈はだしの子供〉が手にした百合の花は見ることができた。多分,〈はだしの子供〉とは「純粋な心(奇麗な心)を持つ人」のことを言っているように思える。「純粋な心」を持っていそうにない〈大蔵大臣〉は,林で「まっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎」を見つけることができなかったが,それを「純粋な心を持つ人」の手の中なら見ることができた。

 

ここで『四又の百合』で「1茎の百合」を形容する「貝細工」という言葉についても触れてみたい。『四又の百合』と同時期に執筆されたとする童話『ガドルフの百合』(1923)にも「貝細工の百合」が登場する。『ガドルフの百合』では,黒い屋敷の庭に咲いていたが雷で折れてしまった1本の「白百合」とガドルフの脳裏に浮かぶ心象世界のもう一むれの「貝細工の百合」が登場する。ちなみに,庭に咲いていた百合は10本だが雷で折れたのはその内の1本である。

 

そしてガドルフは自分の熱(ほて)って痛む頭の奥の,青黝(あおぐろ)い斜面の上に,すこしも動かずかゞやいて立つ,もう一むれの貝細工の百合を,もっとはっきり見て居りました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を,一緒に息をこらして見つめて居ました。           (『ガドルフの百合』 宮沢,1985)

 

『ガドルフの百合』で黒い屋敷の庭に咲く百合は,自然界に実在する「ヤマユリ」のような百合であるが,ガドルフの脳裏に浮かぶ百合は本童話の「四又の百合」と同じく「聖なる百合」と思われる。

 

私は,ガドルフの脳裏に浮かぶ「貝細工の百合」も,「仏教」や「法華経」への「強い信仰心」であると考えている(石井,2022)。ガドルフは,嵐が去ったのち折れた百合をそのままにして黒い館を出ていくが,このとき「おれの百合は勝ったのだ」と呟く。折れた百合には賢治の失恋の相手が投影されている。賢治は童話『ガドルフの百合』や『四又の百合』を執筆していた頃,恋愛をしていた。そして「おれの百合は勝ったのだ」の「百合」には「貝細工の百合」すなわち「法華経」に対する「強い信仰心」が象徴されている(石井,2022)。すなわち,賢治はこの頃に恋に悩んでいたが,恋よりも信仰に生きようと決意していたように思われる。

 

賢治の熱い法華経信仰に関して,弟の清六が興味深い話をしている。賢治が盛岡高等農林学校へ進学するための受験勉強をしていた頃(大正3(1914)年秋)の兄について,「賢治は,赤い経巻である島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』に出会い,その中の特に「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえて止まらず,この感激を後年ノートに「太陽昇る」と記していた。そして,以後賢治はこの経典を常に座右に置いて大切にし,生涯この経典から離れることはなかった」と回想している(宮沢,1991)。翌年(大正4年),賢治は盛岡高等農林学校へ進学し寮生活が始まるが,2年のとき毎朝寮の2階より賢治の法華経読経の声が聞こえたという(原,1999)。そして,大正8(1919)年に日蓮主義を唱える田中智学の講話を聞き共感し,翌年に国柱会に入会している。

 

では,「四又」の「四」とか「十の花」の「十」という数字は「仏教」あるいは「法華経」とどのように関係するのであろうか。

 

「仏教」に対する「純粋な心」での「強い信仰心」は,前述したように大乗仏教的には「菩提心」と呼ばれている。さとり(菩提,bodhi)を求めて世の中の人を救おうとする心のことである。「菩提心」は,賢治のように菩薩になりかかった人においては修行の初めに必ず起こす4つの誓い,すなわち「四弘誓願(しぐせいがん)」にあたる。

 

中国(隋の頃)の天台大師・智顗(ちぎ)が講述した『摩訶止観』によれば,十乗観法の2番目に発真正菩提心として「四弘誓願」が説かれている。

 

「四弘誓願」は(1)衆生無辺誓願度-誓ってすべての人を悟らせようという願い,(2)煩悩無量誓願断-誓ってすべての迷いを断とうという願い(あるいは誓い),(3)法門無尽誓願学(誓願知)-誓って仏の教えをすべて学び知ろうという願い,(4)仏道無上誓願成-誓ってこのうえない悟りにいたろうという願い,である(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)。すなわち,「四弘誓願」の(2)が「純粋な心」になろうとする願いであり,(1),(3),(4)が「強い信仰心」であろう。

 

賢治は,島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』に出会って2年後の大正5年(1916)にこの誓願を立てたと言われている(新井野,1996)。『新校本宮澤賢治全集十六(下)補遺・資料 年譜篇』(2001)に「大正5年7月5日(木)保阪嘉内と岩手山登山 神社参拝 誓願」とある。また,賢治の保阪宛の書簡186(大正10年1月)に「嘗つて盛岡で我々の誓った願/我等と衆生と無上道を成(じょう)ぜん,これをどこ迄も進みませう」,簡196(同年7月)に「私の高い声に覚び出され・・・四つの願を起した事をあなた一人のみ知って居られます」,また書簡484a(昭和8年8月)に「昔の立願を一応段落つけようと・・・」とある。

 

また,法華経的には「四法成就(しほうじょうじゅ)」と関係していると思われる。「法華経」の最終章である普賢菩薩勧発品 ( ふけんぼさつかんぼっほん )第二十八に「四法成就」とは,「一者為諸仏誰念。二者桓諸徳本。三者入正定衆。四者発救一切衆生之心」(一には諸仏に護念せられることを為(う)ると,二には衆(もろもろ)の徳本を植(う)うると,三には正定聚〈必ず仏となることの決まった聖者〉に入ると,四には一切衆生を救う心を発すとなり)とある(坂本・岩本,1994)。正定聚とは必ず仏となることの決まった聖者のことである。この四法を心がけて修行すれば,如来の滅後においてもかならず「法華経」を得ることができると説いてある。「法華経」は特に菩薩のための経であることから,「四者発救一切衆生之心」(一切衆生を救う心を発す)が強調されている。

 

このように,「四又」あるいは「十の花」の「四」と「十」は同じ意味であり,仏教的には「四弘誓願」の「四」であり,法華経的には「四法成就」の「四」であろう。これら「四弘誓願」や「四法成就」には「純粋な心」になる誓いや「強い信仰心」を持つ誓いが込められている。この「純粋な心」と「強い信仰心」が形になったものが「四又の百合」である。この聖なる「四又の百合」を正徧知に差し出すということは,強い意志で「法華経に帰依します」のメッセージと思われる。(続く)

 

参考文献

朴 京娫.2021.宮沢賢治の『四又の百合』の “百合”と“四”の探求.東洋學 第83輯.61-87.

広島大学高等教育研究開発センター.2022(調べた日付).第14話=「強く,優しく。百合の花」=.https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/center-data

石井竹夫.2022.童話『ガドルフの百合』考(第3稿)-「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」とは何か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/05/091434

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.東京.

新井野 洋子.1996.法華経と宮沢賢治.印度学仏教学研究 4(3):278-280.

Watto.2018.「貧者の一灯」の原典『阿闍世王授決経』の現代語訳がネットで見当たらなかったので私訳してみた(その1)(その2)(その3).https://www.watto.nagoya/entry/2018/10/08/180000https://www.watto.nagoya/entry/2018/10/09/000000https://www.watto.nagoya/entry/2018/10/10/150000