宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

シグナルとシグナレスの反対された結婚 (2) -実在した人物に対応させることができるか-

キーワード: 移住者,先住民,出自

 

前稿で〈本線シグナル附き電信柱〉が激怒して2人の結婚に反対した理由について,特に反対のきっかけになったことを中心に話した。本稿では,賢治が生きた時代に〈シグナル〉と〈シグナレス〉のキャラクターに当てはまる実在の人物がいたのかどうか検討する。ただし,「シグナルと「シグナレス」,および2つのキャラクターの結婚をサポートしたものなどに限る。また,〈シグナレス〉に対応すると思われる人物の名は示さない。

 

賢治は大正13(1924)年に9つの童話を集めた童話集『注文の多い料理店』を出版しているが,その広告文に「これらは決して偽でも仮(ママ)空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分折(ママ;「析」の誤植)とはあっても,たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。どんなに馬鹿げてゐても,難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯(ひきょう)な成人たちに畢竟(ひっきょう)不可解な丈(だけ)である」(下線は引用者,以下同じ)と記載している。また,詩集『春と修羅』では詩のタイトル下に「mental sketch modified」と記載し,心象スケッチを修正したものもあるとしている。『シグナルとシグナレス』は賢治の心象をそのままスケッチしたかもしれないが,悲恋物語ということもあり,かなりの修正が加えられた可能性が高い。だから,100年前の出来事とはいえ実在する人物との対応は慎重でありたい。

 

「mental sketch modified」として知られている詩に「原体剣舞連」がある。昔,平泉の達谷窟という洞窟に住んでいたと伝えられる採取・狩猟文化を有する先住民族「蝦夷(えみし)」のリーダー悪路王の伝説にもとづくものである。やがて,侵略してきた大和朝廷によって,はげしい激戦の末滅ぼされてしまった。賢治研究家の力丸光雄は,この詩の「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる顥気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という詩句には,「一万数千年のあいだ,サケ・マスとともにナラ林ないしブナ林に支えられてきた縄文の文化が,弥生の勢力に押され,いつしか山林の奥に消え去った先住の人たちの怨念が籠められていて,その怨念や地霊を鎮める祈りが,大地を踏みしめて踊る剣舞に表現されている」と述べている(力丸,2001)。

 

しかし,実際に見た剣舞からは詩に書かれてあるようなことは全く感じられない。少なくとも私には。第1図は,原体剣舞の様子を撮ったものである。踊っているのは大人ではなく小学生高学年くらいの子供たちである。また,詩にあるように踊り手が「菩提樹皮と縄とをまとふ」ということもない。きらびやかな衣裳をまとっている。観光化してしまったことによると思われるが,詩に書かれてあるような勇壮なイメージはない。修正された「mental sketch」というよりは別物に見えてしまう。賢治の心象スケッチは場合によっては,かなり修正されるとみたほうがよい。

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第1図.原体剣舞(宮沢賢治生誕120年記念行事にて)

 

これまで,『シグナルとシグナレス』に登場するキャラクターと実在する人物を対応させたものとして,2つの仮説が提出されている。一つはエッセイストの澤口たまみ(2010)によるもので,この物語は大正11年に賢治自身が実際に体験した悲恋に基づいているとしている。具体的には,賢治が東北本線側・シグナル側で,恋人が岩手軽便鉄道側・シグナレス側に属していると考えている。私も澤口の説を支持する。もう一つは,賢治研究家の米地文夫(2016)によるもので,小説家である有島武郎と恋人(新渡戸稲造の姉の娘)との悲恋がモデルであるとした。

 

この作品は事実がかなり修正されて作られていると思うが,それでも主要登場キャラクターにはかなり事実が重ねられていると思っている。本稿では,私が澤口の説を支持する理由を2つのキャラクターが所属する「本線」と「軽便鉄道」のモデルとなった鉄道の歴史的背景や賢治と恋人の出自から明らかにしていく。

 

1.物語の舞台

物語の舞台は,国営の東北本線と私鉄の岩手軽便鉄道が合流する花巻駅周辺がモデルになっている。両鉄道の創設目的など物語の理解に役立つので最初に簡単に紹介しておく。

 

国営の東北本線(上野~青森間)の前身は明治14年(1881)に開設された日本鉄道株式会社(私鉄)である。この会社は旧大名(士族)・公卿(華族)の財産(金禄公債など)を鉄道に投資することにより,彼らの物質的地位を安定させること,ならびに沿線の産業開発や開拓を急いでいる北海道への人材や物資の輸送を目的にし,京都生まれで父が公卿であった岩倉具視らが中心となって設立された(中村,2011)。当初の資本金は2000万円で,小説家の有島武郎の父であり,薩摩藩の郷士の出である有島 武やNHK 大河ドラマ「青天を衝け」でもお馴染みの渋沢栄一が取締役として名を連ねている。この頃は,華族・富豪・高級官僚などが土地の開拓・農牧場の経営を盛んにしていた時期であった。明治17(1884)年の上野~高崎間の開業式典には,それが一民間企業のものにも係わらず皇族・大臣・参議・各国公使などに伴われて明治天皇が出席している。明治23年(1890)に東北本線が盛岡駅まで延伸開業した翌年には,盛岡に副社長の小野義眞,大株主で三菱財閥の岩崎彌之助,鉄道庁長官の井上勝の三名で共同創始者となった「小岩井」農場が開設された。

 

資本金2000万円の現在的価値はどのくらいだろうか。ネットでの企業物価指数(戦前基準指数)を用いた計算によると大正10年の1円は平成29年(2017年)では530.7円になるそうだ。ようするに,旧大名や公卿たちが東北本線に投資した額は当初約100億円であった。

 

一方,岩手軽便鉄道(花巻~仙人峠)は,資本金100万円(今では約5億円)で本社は花巻町に置かれ,筆頭株主は釜石製鉄所長で宮沢賢治の母方の祖父・宮沢善治も株主として出資していた。しかし,株主の大半は沿線住民であったという。多くの沿線住民が株に投資したのは,東北本線での士族・華族の投資目的と違って,「全県血行不良」と報じられるほどに県内,ことに内陸部と海岸部の連絡がむずかしかった現状をなんとかしたいという願いがあったからと言われている(信時,2007)。すなわち,県民の足としてなくてはならないものであった。

 

2.異説への反論

話しを元に戻す。米地文夫は澤口の説に対して以下の4つの根拠を基に反論している。

 

(1)岩手軽便鉄道や花巻電鉄,花巻電気などの諸会社は相互に密接に結びついていており,賢治の母方の宮沢家も父方の宮沢家も,ともにこれらの事業に深く関わっていた。したがって,賢治は岩手軽便鉄道側・シグナレス側の人間であり,東京と結びついた東北本線側・シグナル側には属していない。

 

(2)恋する二人を応援する立場をとる「倉庫の屋根」は賢治の父・政次郎を思わせる,と澤口はいう。しかし,その「倉庫の屋根」は二人の恋に口出しすることを「何を縁故で」口出しするのかと咎(とが)められた時に「おれは縁故と云へば,大縁故さ,縁故でないと云へば,一向縁故でも何でもないぜ」と答えている。実の親子でありながら,こんなことを言うはずはない。したがって,「倉庫の屋根」のモデルは父・政次郎ではない。

 

(3)澤口は二人の結婚に反対する「鉄道庁」が誰を指すか確定できず,ただ「近親者」とのみ書いており,説得力に欠けている。

 

(4)また,賢治は花巻の裕福な家の出身とはいっても,商家の子息を「若さま」などと呼ぶことはないし,まして賢治自身が自分を「若さま」と呼ばれる存在として登場させることはありえないであろう。

 

私は澤口の説を支持しているので,ここで米地の主張(1)~(4)に対して反論(counterargument)してみる。(1-C)は(1)に対する反論を意味する。

 

(1-C)確かに,賢治の叔父にあたる宮沢善治は直接経営に携わっていないものの岩手軽便鉄道の株を持っていた。しかし,株も所有していない父・政次郎や賢治が岩手軽便鉄道側かどうかは疑問である。むしろ,東北本線側のようにも思える。賢治の父方の祖父・喜助は質・古着商で財を成したが,それは利益の少ない貧しい農民相手ではあったが,勤勉に働いたことと,明治24(2891)年に全線開通した東北本線の土木工事によって流入してきた労働者がお客になってくれたことによる。沿線の町々は好景気に沸き,祖父・喜助もその恩恵を受けた。家業を引き継いだ父・政次郎も,貧しい農民相手の商売ではあったが,さらに東北本線を利用して関西・四国まで足を伸ばして古着(流行遅れの新品など)を買い占め,日詰などの近郷の古着屋に卸売りをしたりして財を増やした。また,第一次大戦の景気上昇期には株式投資にも才を発揮した。後年,父・政次郎は「自分は仏教を知らなかったなら三井,三菱くらいの財産を作れただろう」と述懐したという(宮沢,2001)。

 

東北本線の鉄道建設工事は南から北へ北上する形で進められ,宮城県,岩手県を北上するときは北上川に沿って進められた。これは,古代の聖武,桓武朝時代に「蝦夷征討(えみしせいとう)」と称して東北の北上川に沿って造営された城柵,多賀(たが)城→胆沢(いさわ)城→志波(しわ)城の北上と類似している。まさに,東北本線は近代の「蝦夷征討」のようなものにも思える。宮沢一族は後でものべるが京都の公家侍・藤井将監を始祖としている。

 

賢治もまた,東京の図書館や本屋あるいは水沢緯度観測所などに行くために繰り返し東北本線を利用している。また,賢治は大正9年(1920)に「天皇制国家主義」(あるいは超国家主義)の思想を組み込んだ日蓮主義を主張する田中智学の「国柱会」に入会している。さらに,1921年1月に家出して国柱会へ行くが,2日目に明治天皇を祭神とする明治神宮を参拝している。賢治は数ある法華経教団から「国柱」会を選んでいるわけであるから,当然,入会時には田中智学の「天皇制国家主義」にも賛同しているはずである。すなわち,入会時に賢治は,天皇家に対する国民の服従こそ最高の道徳であり,世界中が天皇家を中心にまとまれば,「みんなのほんたうのさいはひ」が実現できると信じたと思われる(石井,2021)。前述したように,東北本線は,京都出身で華族の岩倉具視が鉄道創設に係わっている。すなわち,賢治と父・政次郎を東北本線側といっても良いように思える。

 

一方,賢治の恋人は,生粋の東北人と思われる。花巻の賢治研究家である佐藤(1984)によれば,この女性(恋人)は,賢治と同じ花巻(賢治の家の近く)の家業が蕎麦屋である娘で,花城小学校で代用教員をしていた。この蕎麦屋は宮沢一族が花巻に移住してくる以前に創業していたとされている。すなわち,花巻では宮沢一族よりも先住と思われる。恋人は賢治より4歳年下の背が高く頬が薄赤い色白の美人であったという。出会いは大正10(1921)年12月に賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭(後の花巻農学校)になり,その頃から隣の女学校教師・藤原嘉藤治と一緒に始めたレコード鑑賞会であった。かなり熱烈な恋愛であったらしい。その後,宮沢家から相手側に結婚の打診がなされ,近親者の中には,二人の結婚を予想しているものも多かったという。しかし,両家の近親者たちの反対があったようで1年足らずで破局した。恋人は破局後に渡米(1924.6)し,3年後に異国の地で亡くなっている。

 

また,岩手軽便鉄道は花巻から仙人峠を繋ぐ岩手軽便鉄道は東北人の祖先でもある古代蝦夷が住んでいた北上山地を横断する。

 

すなわち,京都からの移住者の末裔である賢治や父・政次郎は東北本線側・シグナル側であり,先住の女性である恋人は岩手軽便鉄道側・シグナレス側である。

 

前稿で推測した〈シグナル〉と〈シグナレス〉の両家の間にあるのっぴきならない事情とは,「朝廷」とまつらわぬ民としての「東北人」の歴史的対立のことである。これは,賢治が生きていた時代にも影響を及ぼしていると思われる。例えば,明治元(1868)年~明治2年の間,「王政復古」を経て樹立された新政府軍と,旧幕府軍・奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が戦った日本最大の内戦があった。「王政復古」では岩倉具視ら倒幕派公卿が参加し明治天皇より勅令「王政復古の大号令」が発せられた。東北を戦場にした戦いでは仙台藩が奥羽越列藩同盟の盟主として戦ったが敗れた。仙台藩は戦後処理で領地の2/3を失い多くの藩士が路頭に迷った。中には開拓民として咸臨丸で北海道へ渡ることを余儀なくされたものもいる。ちなみに,恋人の母親は仙台藩の客分であった高級武士の娘であったという(佐藤,1984)。客分とあるので,恋人の母方の家は伊達家と主従関係のない同格の家柄ということになる。童話で〈シグナレス〉が〈シグナル〉に話しかけるとき叔母さんたちの目をしきりに気にしていたことと関係があるのかもしれない。 

 

農学校時代の同僚・白藤慈秀の話として,「宮澤さんの生涯の仕事は,大きい構想を立ててやられたものです。農村と農民に味方して,あらゆることの,土台になっています。「町の人たちが,農村をバカにしているのは怪(け)しからない」と,言い言いしておりました。糞尿(こえ)をくまないで町の人たちをこまらしてやれといった事も言ったりしておりました。化学肥料を使えば,いっこう町のコエを使わなくてもいいと言うのです。花巻黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これをまた農村に返させるのが自分の仕事だといっていました。」という逸話が残っている(堀尾,1991)。

 

この逸話の「町の人たち」を「東北」に移住してきて財を成した商人や地主,「農民」を没落した先住の商人や小作人とすれば理解しやすいかもしれない。当然,「町の人たち」には宮沢家が含まれる。

 

(2-C)澤口は,「倉庫の屋根」のモデルを父・政次郎とは言っていない。政次郎あるいは政次郎の妹の嫁ぎ先の岩田家など,親戚筋の誰かかもしれないと言っているだけである。私は,父・政次郎ではなく政次郎の妹の嫁ぎ先の親戚筋の誰かだと思っている。物語で「倉庫の屋根」は〈シグナル〉や〈シグナレス〉の近くにいて「親切」で「ずいぶん太っている」というキャラクターに設定されている。賢治の近くに住んでいて親切そうな人物とは誰であろうか。

 

賢治の友人である藤原嘉藤治は「親切」であったが親戚ではないし住まいも盛岡である。賢治がこの物語を書いた前年にあたる大正11年の書簡によれば(大正12年の書簡は1通の年賀状以外まったく残されていない),この頃,賢治は同郷の関徳彌(とくや)(関とあるが本名は岩田)と何度か連絡を取り合っている。関は賢治と同じ花巻生まれで,徳彌の父が賢治の祖父・喜助の妻の異母兄にあたる。賢治より3歳年下である。徳彌は後年岩田家と養子縁組をして岩田姓となっている。徳彌にとって賢治は「縁故と云へば,大縁故さ,縁故でないと云へば,一向縁故でも何でもないぜ」にあたると思われる。徳彌は賢治を兄のように敬慕していて,結婚や信仰など,人生上の重大事を賢治に相談していた。法華経に帰依していて同時期に国柱会に入っている。また,『新宮澤賢治語彙辞典』の写真を見る限り体格も良いように見える(原,1999)。多分,「倉庫の屋根」は,澤口がすでに指摘しているように父・政次郎の妹の嫁ぎ先の人物をモデルにしたのかもしれない。

 

(3-C)澤口は「鉄道庁」が誰だかは明らかにしていないが,私は父・政次郎であると思っている。賢治の結婚に最終的な判断を下せるのは当時絶大な権限を有していたと思われる家長の父であろう。賢治が18歳の頃に岩手病院の看護師に恋をしたが,父親に反対されて断念している。ただ,この恋は片想いであったらしい。

 

(4-C)米地は,「たとえ賢治が花巻の裕福な家の出身とはいえ,商家の子息が「若さま」などと呼ばれることはない」と異議を唱えている。しかし,賢治の出自を考えればそれもあり得る話しである。賢治の母方・父方の先祖は,江戸時代初期に京都から花巻に下った公家侍・藤井将監を始祖としている。この子孫が花巻の地で商工の業を営み「宮沢一族」と呼ばれる地位と富を築いた。中でも母方の祖父・宮沢善治は一代で実業家として,あるいは県内の山林原野を手中に納める大地主として財をなし,県でも有数の多額納税者となった。花巻銀行,花巻温泉,岩手軽便鉄道の設立にも尽力した。ちなみに,大正5年の所得納税額(90万円)は県内で18番目(花巻では4番目),地租納税額(164万円)は9番目(花巻では3番目)である。

 

この善治の娘・イチが,同族の宮沢政次郎と結婚し賢治が生まれた。それも実家である宮沢善治の家で生まれた。同族同士の結婚は宮沢家では珍しいことではない。賢治の妹のシゲは父・政次郎の妹の子と結婚している。これらは,同族間の強い絆の表れである。「移住者」の一族が移住先で強い絆で結ばれることはよく知られている。また,賢治の父・政次郎も家業の質・古着商を引き継ぎ事業に成功し,総合花巻病院の設立に関与した。政次郎の大正5年の所得納税額(13万円)は花巻で11番目である(畑山・石,1966;堀尾,1991,;深澤,2005)。米地は賢治の家を「たとえ賢治が花巻の裕福な家の出身とはいえ」と言って過小評価しているが,宮沢家は花巻ではけっこう裕福な家である。叔父の善治の家にいたっては岩手県の中でも指折りに数えられる。

 

賢治も自分の祖先が武家であることと,そして「東北」以南から下ってきて花巻の地で財をなした「移住者一族」の末裔であることを自覚していたと思われる。「春と修羅 詩稿補遺」の未定稿詩に「そもそも拙者ほんものの清教徒ならば・・・」で始まる詩や,『春と修羅』の「過去情炎」(1923.10.15)に「わたくしは移住の清教徒(ピユリタン)です/・・・わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに/応揚(おうやう)にわらつてその木のしたへゆくのだけれども/それはひとつの情炎(じやうえん)だ/もう水いろの過去になつてゐる」とあるからである。すなわち,賢治には裕福になった武家出身という自覚があり,さらに自分を清教徒と呼ぶくらいだから,若さまと呼ばれたり,自分を若さまと思ったりすることがあっても不思議ではない。賢治が作品の中で自分を若さまと書くはずはないと考える人もいるかもしれないが,むやみに賢治を聖人扱いにする必要はないと思う。賢治だって,「若さま」あるいは類似した言葉を言われて気持ちよくなったこともあったと思う。晩年,教え子の柳原昌悦に出した書簡(488)では,「私のかういうみじめな失敗は・・・「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」と述懐しているではないか。

 

米地は,澤口の説を否定して代わりに新しい説を出してきた。〈シグナル〉と〈シグナレス〉の恋は小説家である有島武郎と恋人(新渡戸稲造の姉の娘)との悲恋がモデルとなっているというものである。しかし,有島の恋人は花巻ではなく有島が北海道の札幌農学校に編入学し,新渡戸家に寄留していた頃(明治29年)に出会った人である。有島はこの恋人をモデルとして大正11(1922)年に小説『星座』を執筆した。米地は,賢治がこの小説を読んだ可能性が高いとして,有島武郎と恋人をモデルにして『シグナルとシグナレス』を創作したとしている。しかし,賢治がすでに小説化されているものを,参考にするくらいなら分かるが,同じモデルを使い舞台を花巻に変えて創作するとは思えない。童話集『注文の多い料理店』の広告文でも「窃盗はしない」と言っている。また,有島武郎と恋人の結婚に反対したのは父・武であり近親者ではない。

 

以上,米地の主張に対して自分の考えを述べた。私は,〈シグナル〉と〈シグナレス〉の恋は澤口がすでに指摘していたように賢治と恋人との大正11年の恋がモデルになっていたと考える。ただ,賢治と恋人以外の人物に関しては候補を挙げたものの想像の域をでないものと思っている。あるいは特定する必要もないのかもしれない。次稿は澤口が触れずに,また米地が「最も矛盾に満ちた不自然な性格」であり「該当者不明」とした〈本線シグナル附き電信柱〉について考察する。(続く)

 

参考資料と引用文献

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原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021.植物から『烏の北斗七星』の謎を読み解く(4).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/04/085337

畑山 博・石 寒太.1996.宮沢賢治 幻想紀行.求龍堂.

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

中村建治.2011.日本初の私鉄「日本鉄道」の野望 東北線誕生物語.交通新聞社.

信時哲朗.2007.鉄道ファン・宮澤賢治 大正期・岩手県の鉄道開業日と賢治の動向.https://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/tetsudo.html

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢賢治.2001.新校本宮澤賢治全集第十六(下)補遺・資料 年譜篇.筑摩書房.

力丸光雄.2001.《賢治と植物》-心象の博物誌.宮沢賢治16:50-61.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店

澤口たまみ.2010.宮澤賢治 愛のうた.盛岡出版コミュニティー.

米地文夫.2016.宮沢賢治「シグナルとシグナレス」の三重の寓意 ― 岩手軽便鉄道国有化問題と有島武郎の恋と天球の音楽と ―.総合政策 17(2):177-196.