宮沢賢治と橄欖の森

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自分よりも他者を優先する煉獄杏寿郎-性格形成に影響を与えた母の言葉- 

2020年に吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)の漫画『鬼滅の刃』を原作としてufotableが制作した長編アニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。220日間の我が国での観客動員数は2896万人である。2021年にはテレビ(7回シリーズ)でも放映された。この長編アニメ映画は無限列車の乗客を鬼の攻撃から守る鬼殺隊の物語である。この物語には鬼殺隊員で主人公の竈門炭治朗(かまどたんじろう),炭治朗の妹・禰豆子(ねずこ),その妹に思いを寄せる我妻善逸(あがつま ぜんいつ)などのユニークな名前や性格の人物たちが登場する。その中でとても興味深い性格を有するのが鬼殺隊の1人である20歳の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)である。

 

鬼殺隊の竈門炭治朗や胡蝶三姉妹(カナエ,しのぶ,カナヲ)は家族が殺されたことによる怨(うら)みあるいは憎しみで鬼と戦う。炭治朗には鬼にされた妹を人間に戻すためというのもある。しかし,煉獄は,他の多くの鬼殺隊員にある鬼に対する怨みや憎しみを決して見せない。煉獄の鬼と戦う理由は,「世のため人のため」であり,「弱き人を助けるため」である。しかも,自分を犠牲にしてまでも「弱き人たち」を守ろうとする。煉獄の行動はとても崇高であるが理解しがたいものもある。

 

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は多くの日本人に感動を与えた名作であるが,感動を与えた理由の1つとして煉獄杏寿郎の「弱き人を助ける」という性格があると思われる。本ブログでは煉獄杏寿郎の「弱き人たち」を守った具体的な事例を紹介し,なぜ煉獄が自分よりも他者(弱き人たち)を優先してしまうのかについて考えてみたい。

 

1.『鬼滅の刃』において煉獄が他者を優先する具体的な事例

『鬼滅の刃』の舞台は大正時代である。煉獄は,40人以上の行方不明者を出している「無限列車」に鬼の討伐を目的として送り込まれる。列車には200人ほどの乗客がいる。物語の後半で,煉獄は鬼である猗窩座(あかざ)と1対1で戦うことになる。猗窩座は鬼の精鋭集団・十二鬼月(じゅうにきづき)内ではトップ3の実力者である。煉獄と猗窩座は最初互角の戦いを繰り広げる。しかし,猗窩座は日輪刀で首を落とされない限り,また太陽の光を浴びない限り致命的な傷を受けることはない。猗窩座は煉獄の日輪刀による攻撃を受け腕あるいは体部に深傷(ふかで)を負ってもすぐに回復してしまう。それゆえ,煉獄は技術的には五角でも生身の人間であるので持続する戦いのなかで確実に傷つき,そして体力も消耗していってしまう。強い者に共感する猗窩座は,「鬼になれ」「お前は選ばれし強き者なのだ」と煉獄を鬼に誘う。しかし,煉獄はこれを拒否して,「俺は俺の責務を全うする ここにいる者は誰も死なせない」(下線は引用者,以下同じ)と答え戦いを続ける。

 

最後の戦いで猗窩座の右手が煉獄の急所を貫通する。煉獄は致命傷を負い不利な形勢になったが「弱き人を助ける」と約束した母・瑠火(るか)の言葉を思い出し,傷ついた体を奮い立たせ,また最後の力を振り絞って猗窩座の首を切り落としにかかる。再度五角の戦いになるが,猗窩座は,夜明け近くになり太陽の光を避けるため卑怯にも戦いを止めて逃げてしまう。煉獄は,戦いが終わったあと,猗窩座から致命的な傷を受けたために死んでしまう。

 

煉獄は,自分を犠牲にして鬼の攻撃から無限列車の乗客の全てを守り切った。これは,他者を優先するという行為のなかでも畏怖の念を起こさせるほどの崇高なものと思われる。

 

2.なぜ煉獄は自分よりも他者(弱き人たち)を優先してしまうのか

煉獄の自分よりも他者を優先する行動に対して感動をする人も少なくないと思われる。だが,ただ1つ気になることがある。母の「弱き人を助けなさい」という教えがあったにせよ,怨みや憎しみを感じない鬼から,自分の命を捨ててまで列車の乗客(弱き人たち)を守る必要は,はたして本当にあったのだろうかということである。乗客に犠牲がでる可能性はあるが,猗窩座のように戦いの途中で退くという選択肢もあったはずである。

 

煉獄は,猗窩座との戦闘で,このままでは負けると気づいたはずだ。技術的な戦闘能力は猗窩座と同等だったが,ダメージを受けてからの身体回復能力ははるかに劣っていた。持久戦になれば勝ち目はない。煉獄は,勝つためには技術的な戦闘能力で猗窩座をはるかに凌駕していなければならなかった。実際に,煉獄の父・槇寿郎(しんじゅろう)は息子の死を聞いたとき「たいした才能も無いのに剣士などなるからだ」「だから死ぬんだ」「くだらない・・・愚かな息子だ 杏寿郎は」と息子を批判した。

 

なぜ,負けるかもしれないという状況の中で,最後まで列車の乗客(弱き人たち)を守ろうとしたのであろうか。多分,煉獄には「弱き人を助ける」という強い意志があったからか,あるいは「弱き人」を見ると無条件(無意識的)に助けてしまうという性格を有しているからだと思われる。それでは,この強い意志あるいは性格はどのように生まれたのであろうか。これは,幼い頃の母との関係が関与している。 

 

母との関係については,映画では回想シーンの中で明らかにされる。杏寿郎がまだ幼い頃,病床にいた母・瑠火に呼ばれる。母は,切れ長の目をしていて凜々しく知的な印象を与える女性である。母のそばには杏寿郎の弟・千寿朗がリラックスした姿勢ですやすやと眠っている。母は,正座している杏寿郎に「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか わかりますか」と問う。幼い杏寿郎は「わかりません」としか答えられなかったが,母は「弱き人を助けるためです 生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は その力を世のため人のために使わねばなりません」「天から賜(たまわ)りし力で人を傷つけること,私腹を肥やすことは許されません」「弱き人を助けることは 強く生まれた者の責務です 責任を持って果たさなければならない使命なのです 決して忘れることなきように」と杏寿郎に諭す。杏寿郎は大きな声ではっきりと「はい」と答える。そして最後に,「母はもう長く生きられません」「強く優しい子の母になれて幸せでした あとは頼みます」と手を広げて杏寿郎を招き寄せる。そして杏寿郎を強く抱きしめながら涙する。これが死期を悟った母の杏寿郎に託された最後の言葉だった。

 

母が幼い杏寿郎に,「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか」について尋ね,それは「弱き人を助けるため」と諭したとき,杏寿郎は「いやです」とは答えなかった。あるいは「いやです」と答えさせなかったのかもしれない。「いやです」と答えたらどうなっていたのだろうか。

 

「いやです」と答えても母/瑠火は杏寿郎を抱きしめたのであろうか。これは重要な問いかけでもある。私は抱きしめたと思いたいが,杏寿郎はそうは思わなかったように思える。なぜなら杏寿郎は,「はい」と答えたあと母に抱きしめられるが怪訝な顔をしていたからである。普通は顔をほころばせて喜ぶであろう。しかし,喜んでいる様子はないのだ。むしろ疑っているように見える。なぜ,「はい」と答えたら抱きしめてくれたのだろうか,「いやです」と答えても抱きしめてくれたのだろうかと。杏寿郎は幼い頃に母に甘えられず,母から抱きしめられたという記憶がなかったように思える。だから,母に抱きしめられたとき,本来はうれしいはずなのに,なぜ抱きしめてくれたのか考えを巡らしたように思える。

 

母は病弱であり,杏寿郎にとって年の離れた弟の千寿朗もいた。また,煉獄家は代々鬼殺隊を輩出している名門であるが,鬼殺隊の一員でもあった父・槇寿朗が,自らの才能の無さを自覚し,剣士として戦う意義を見失っていた頃でもあった。槇寿朗は,瑠火が死んだあとは堕落し,酒に溺れ鬼殺隊も脱退する。病弱の母・瑠火は,夫や弟の世話で精一杯で杏寿郎に係わっている暇などなかったのかもしれない。すなわり,杏寿郎が母を疑うのは,母・瑠火が常日頃から杏寿郎に係わっていないからである。係わったとしても,戦意の消失している夫を見て,家を守るため杏寿郎には厳しく接したと思われる。

 

物語の前半で,猗窩座よりは格下であるが十二鬼月の一人でもある魘夢(えんむ)が登場する。彼の得意技は対戦相手の望む偽りの「楽しい夢」を見せたあと,悪夢を見せて殺すというもの。魘夢は竈門炭治朗には「母と弟妹が生きているころの楽しい夢」を見せ,善逸には炭治朗の妹・禰豆子とふたりきりで出かける夢を見せた。杏寿郎も彼の技を受けてしまうが他の鬼殺隊員のような「楽しい夢」にはならない。父に罵倒される過去の寂しい現実の世界が展開される夢であった。剣士の家に生まれ厳しく躾けられた杏寿郎には母との楽しい語らいの夢さえ許されていなかった。それゆえ,杏寿郎は母の問いかけに「いやです」と答えていたら,嫌われてしまうか見捨てられてしまうと感じたのかも知れない。

 

杏寿郎の幼少期は寂しかった。杏寿郎は母の愛情を強く求めていたが,母はそれに答えてくれていなかったと思われる。杏寿郎は,母から抱きしめられたとき,父と同じように剣士としての技術を磨き,母の望む「強く優しい子」になり,「弱き人を助ける」ことを実行すれば,また母に褒めてもらえるか,あるいは抱きしめてもらえると思ったのかもしれない。杏寿郎のこの強い「思い」あるいは「決意」は,「他者を優先」するという生涯変わることのない性格に導いたと思われる。だから,煉獄は大人になっても乗客(弱き人たち)を守るためには猗窩座との死闘から逃げることはできなかったのだ。

 

死を悟った瑠火の杏寿郎に最後に見せた抱擁と涙が,無条件の愛だったのか,あるいは自分の最後の希望を受け入れてくれたからという条件付きの愛だったのかは分からない。単なる憶測に過ぎないが,杏寿郎に対する本当の愛情は母よりむしろ父・槇寿郎にあったとも考えられる。杏寿郎は父から罵倒されることもあったが,父の助言を受け入れていれば少なくとも死ぬことはなかった。

 

杏寿郎という名前の中にある「杏(きょう)」は植物ではバラ科の「アンズ」(Prunus armeniaca L.)であろう。「アンズ」の花言葉は「臆病な愛」や「疑い」である。また父・槇寿郎の「槇(しん)」は「きへん」に真実を意味する「真(まこと)」から成る。「まき」とも読む。植物ではマキ科の「イヌマキ」(Podocarpus macrophyllus (Thunb.) Sweet f. angustifolius (Blume) Pilg.)のことと思われる。生垣や防風木として植えられることが多く,家を守るように生長する姿から,「イヌマキ」の花言葉は「慈愛」である。もしかしたら,『鬼滅の刃』の作者がこれらのことを意識して名付けたのかもしれない。

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アンズ

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イヌマキ

 

物語のラスト,煉獄の死が近づいたとき,母が幻覚として現れる。煉獄が,「俺はちゃんとやれただろうか やるべきこと 果たすべきことを全うできましたか」と問いかけると,母は「立派にできましたよ」と答える。このあと,煉獄は微笑むようにして死んでいく。この微笑みは煉獄が「弱き人を助ける」という母との約束を守ったことで母から褒められたからということは容易に想像される。しかし,私は,杏寿郎には「弱き人を助ける」や「強く生まれた者の責務」という母・瑠火の言葉の呪縛から解放されたことによる安堵もあったのだと思っている。

 

まとめ

煉獄が他人の幸せを優先してしまうのは,幼少の頃の母と交わした「弱き人を助ける」という約束によると思われる。性格形成において一番重要なのは産みの親である母(あるいは母の代理)との関係であり,大部分は幼少期に形成されるということが知られている。多分,この幼い頃の約束の言葉は母に愛されたいと願う杏寿郎にとって深層意識に封じ込まれ,彼の生涯変わることのない性格にまで影響を及ぼしたと思われる。この「他者優先」の性格が自分を犠牲にしてまでも乗客を守ろうとした煉獄の行動に導いたと思われる。