宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-

Keywords:文学と植物のかかわり,ニワトコ,乳幼児期,リンドウ,リンゴ,精神分析学,夢判断

 

『農民芸術概論綱要』の中に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名な語句が記載されている。賢治の作品には「自分の幸せ」よりも「他者(みんな)の救済」を優先するという心情(利他心)あるいは理念が貫かれていて,これは,賢治自身の性格の中核をなすものであるとともに行動の規範ともなっているように思われる。なぜ,賢治は自分よりも「他者を優先」するのであろうか。性格(character)という言葉は,ギリシャ語に由来し,「刻印」または「刻み込まれたもの」という意味をもっている。

 

性格形成において一番重要なのは産みの親である母(あるいは母の代理)との関係であり,大部分は「乳幼児期」(6歳までの期間)に形成されるということが知られている(繁多,1989;吉本・田原,1993;吉本,2006)。「乳幼児期」の「母」との関係のあり方がその後の性格形成と密接に関係していると強調したのは,フロイトが創始した精神分析学である。フロイト(S.Freud:1856~1939)は,オーストリアの精神医学者で成人の神経症などの分析から,「乳幼児期」の経験の重要性を認識し,この時期に性格の基礎が築かれると考えた。この「乳幼児期」に形成された性格の変更は,努めて人為的に直そうとしない限り,まずはできないことも知られている(吉本,2006)。

 

では,賢治の自分よりも「他者を優先」するという生涯変わることのなかった,あるいは変えることの難しい性格上の特性は,「乳幼児期」に母親から何を刻み込まれて(あるいは刷り込められて)でき上がったのであろうか。

 

賢治は,自分と相思相愛の恋人との関係を寓話『シグナルとシグナレス』の中の信号機である「シグナル」と「シグナレス」に,また寓話『土神ときつね』では「きつね」と「樺の木」に,あるいは童話『銀河鉄道の夜』では「カムパネルラ」や「青年」と「女の子(かほる)」といった登場人物たちに自分たちを重ねて物語の中で事の顛末を語ろうとしたとされる(澤口,2018;石井,2018)。さらに,賢治は精神分析学に基づいて恋の破局に導いた一因としての「他者を優先」させようとする自分の性格を母親との関係から解析し,この性格に導いた仮想の母親像を作品の中で登場させているように思える。

 

すなわち,童話『銀河鉄道の夜』で賢治が自分自身を投影させているのは,仮想の母親と一緒に登場する「カムパネルラ」や「青年」だけではない。「青年」と一緒に登場する6歳くらいの「男の子(タダシ)」も「幼児期」の賢治自身であろう。本稿では,童話『銀河鉄道の夜』の中の「カムパネルラ」や「男の子」と彼らの母親との関係を解析することから賢治の深層意識にある母親像について,そして賢治の「他者優先」の性格がどのようにしてでき上がったかについて考察してみたい。

 

1.童話『銀河鉄道の夜』には賢治の内面が表現されている

賢治は,大正14(1925)年にはフロイトの精神分析学に関する基本的な知識はすでに持っていたと言われていて,文学上の友人でもある森荘己池の創作した詩をフロイトの理論で解析したこともあった(森,1979;大塚,1993)。大正14年5月に森(1979)が賢治と一緒に岩手山麓夜行徒歩旅行をしたときに以下の会話があったという。

春になって,蛙は冬眠から覚め,蛙のいる穴へ,ステッキをつきさせば,穴から冷たい空気が出る。ほの暖かい桃いろの春の空気に・・・・ 

私が,そのような詩を,その春に作ったことを宮沢さんに話した。すると,宮沢さんは,にわかに活発な口調になって,《あ,それはいい,よい詩です・・・・》

と,言った。ほめられたのだなと喜ぶと,つづけて言った。《実にいい。それは性欲ですよ。はっきり表れた性欲ですナ》

私は,詩をほめられたのではなかった。《フロイド学派の精神分析の,好材料になるような詩です・・・・》

その話をくわしくしてくれた。突き出たものは男性で,へこんだものは女性,などということを,こまやかに話した。フロイドの翻訳の本が出たか出ないかのころであった。英語も独逸語も読めるのだから,原書で読んだのだったろう。(引用文では「フロイト」は「フロイド」と英語風表記されている)

 

賢治は,この頃,森宛ての手紙で「前に私の自費で出した『春と修羅』も,亦それからあと只今まで書き付けてあるもの,これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから,何とかして完成したいと思って居ります,或る心理学的な仕事の仕度に,正当な勉強の許されない間,境遇の許す限り,機会のある度毎に,いろいろな条件の下で書き取って置く,ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません」(1925.2.9)と書いている。

 

手紙の中で賢治が言う「或る心理学的な仕事」とはどんな仕事だったのかについては諸説があるが,著者は,賢治が自分よりも「他者を優先」するという自分の性格を精神分析学的手法によって解析することもその仕事の1つと考えていたように思える。フロイトは,「無意識」の世界を発見したことで知られているが,「夢」を人間の「無意識」の世界を知る有効な手段と考えた(『夢判断』;1900年に発表)。

 

2.「りんご」を受け取ってくれない「母」の夢(母の存在の希薄さ)

「乳幼児期」の賢治と「母」の関係を記載している資料はわずかしか残されていない。賢治研究家の堀尾青史の作成した年譜によれば,賢治の「母」イチは「慈母」と伝えられていて,愛憐の情に充ち,自分の子だけでなく人々の幸せを祈り,変わらぬ明るさで人に接したという(堀尾,1991;宮沢,2001)。しかし,病弱でもあり,次々に生まれる妹弟の世話,舅と姑の看病あるいは家業の手伝いに忙殺されていたともある。

 

実際に「乳幼児期」に賢治は,忙しい農家の「乳幼児」のようにオシメの交換が少なくて済む「嬰児籠(えじこ)」の中で育てられている。また,この時期に忙しい母親に代わって子守したのは,事情があってか婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた「父」の姉(ヤギ)であり,賢治をひどく可愛がり賢治が3歳の頃に「正信偈」(親鸞『教行信証文類』末尾の「正信念仏偈」)や「白骨の御文章」(蓮如)を子守唄のように聞かせたという。4歳の賢治は,それらをそらんじ,朝夕の仏前のお勤行(おつとめ)には,父たちと誦経した。

 

6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは「父」や祖母キンの妹ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという。このように,少ない記録ながら,「乳幼児期」の賢治は「慈母」とされる「母」に甘えられなかったようである。

 

賢治自身も,「乳幼児期」の自分と「母」イチとの関係は希薄であったと感じている(石井,2016)。多分,賢治は,自分の見る「夢」を精神分析学の知識を基に解析してそのように感じたように思える。そして,母から十分愛されているという確信が得られなかったという「寂しさ」を童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)に登場するキリスト教徒の姉弟の「男の子」(タダシ6歳)に投影させた。「男の子」がジョバンニの夢の中を走る銀河鉄道の列車の中で「母」の「夢」を見るが,「母」に抱きしめられることなく「リンゴ」の匂いで目が覚める。

  にはかに男の子がぱっちり眼をあいて云ひました。「あゝぼくいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚(とだな)や本のあるとこに居てね,ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝここさっきの汽車のなかだねえ。」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云ひました。

「ありがとうおじさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん,りんごをもらったよ。おきてごらん。」

 姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。 男の子はまるでパイを喰(た)べるやうにもうそれを喰べてゐました               (『銀河鉄道の夜』第四次稿 九,ジョバンニの切符;宮沢,1985)

下線は引用者

 

「男の子」が「夢」の中で見た「母」は,「立派な戸棚や本」のある所にいる。「立派な戸棚や本」が「父」を象徴するなら,「母」はいつも「父」の傍にいることになる。「男の子」の見た「夢」は,「アップルパイ」でも作ってもらいたいのか,庭に落ちている「りんごをひろってきてあげませうか」と言って「母」の関心を引こうとしているものである。しかし,「母」はそれに応えてくれる前に(あるいは応えずに)眼が覚めてしまう。「母」と「子」の関係が希薄ということを象徴する「夢」のようである。多分,賢治は,これと類似した「求めるが応えてくれない」というパターンの「夢」(無意識の中に封じ込めた「乳幼児期」の記憶)を繰り返し見ていたと思える。

 

3.「にはとこのやぶ」をぐるぐる回る「男の子」

同じように賢治が見た夢から創作したと思われる逸話が「ニワトコ」の周りをぐるぐる回るというものである。童話『銀河鉄道の夜』では,死んで天上世界に来た「男の子」が現世に戻りたいと駄々をこねている場面ででてくる。家庭教師の「青年」は,「あなたは死んでしまったのだから現世には戻れない。駄々をこねるのは止めなさい」と直接的に言わないで,「あなたのことを大事に思っているおっかさんのところへ行こう」と寄り添うような形で間接的に言う。「男の子」の「母」は物語の中ではすでに死んでいる。

 「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも,おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでせう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたってゐるだらう,雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにはとこのやぶをまはってあそんでゐるだらうかと考えたりほんたうに待って心配していらっしゃるんですから,早く行っておっかさんにお目にかゝりませうね。」                      (『銀河鉄道の夜』第四次稿 九,ジョバンニの切符;宮沢,1985)

下線は引用者 

 

「にはとこ」は,スイカズラ科の「ニワトコ」(Sambucus sieboldiana (Miq.) Blume ex Graebn)である。山野に生える落葉低木で,よく枝分かれして高さ3~6mになる。葉は奇数羽状複葉で対生する。「ニワトコ」は日本に現存する最古の和歌集『万葉集』や歴史書『古事記』では「山たづ」という名で出てくる。「山たづ」は『万葉集』では2首掲載されていて,いずれも「迎える」の枕詞である。「ニワトコ」の葉は対生して,鳥の羽根のように向かい合っているように見えるので,両腕を広げて人を「迎える」姿に似ている(石井,2013b)。

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第1図.ニワトコ 

童話の中の「男の子」は「母」を失って寂しい思いをしてきたわけだから,無意識の中では「母」への思いが強いはずである。もしも,「母」の「男の子」に対する強烈に逢いたいという気持ちがメタファーとしての「ニワトコ」(葉の姿が両腕を広げて待っているように見える)と一緒に「男の子」に伝われば,「男の子」は駄々をこねるのを止めるのではないか。すなわち,賢治は物語で,「母」の「男の子」に強烈に逢いたがっている気持ちを「ニワトコ」に重ねて表現しようとしている。

 

これは,多分,賢治の実際に見た「夢」を基にしていて,賢治の「母」に対する「思い」も重ねているように思える。前述した「男の子」の見た「夢」にも「母」が「ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ」とある。賢治は,「母」がいつも両腕を広げて自分を待っているものと自分に信じ込ませている。しかし,「母」の両腕の中に抱きしめられることはなく,「男の子」も賢治も「ニワトコ(両腕を広げている母)」の周りをぐるぐる回っているだけである。

 

4.黄色の底を持つ「リンドウ」の花は母への「思い」を現わすメタファー

「乳幼児期」の賢治と「母」イチとの関係の希薄さは,「寂しさ」を喚起し,ますます賢治の「母」への「思い」の感情を強めたように思える。童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の天上世界で「カムパネルラ」が「母」を追憶する場面で「リンドウ」が登場する。列車は「リンドウ」が咲くススキ原とその中に立つ「三角標」の中を走っていく。ここでは,6歳の「男の子」ではなく幼少年期(学童期)の「カムパネルラ」に賢治が投影されている。

  ごとごとごとごと,その小さなきれいな汽車は,そらのすゝきの風にひるがへる中を,天の川の水や,三角標の青白い微光の中を,どこまでもどこまでもと,走って行くのでした。

「あゝ,りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だね。」カムパネルラが,窓の外を指さして云ひました。

 線路のへりになったみじかい芝草の中に,月長石ででも刻まれたやうな,すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。

「ぼく,飛び下りて,あいつをとって,また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍(をど)らせて云ひました。

「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」

 カムパネルラが,さう云ってしまふかしまはないうち,次のりんだうの花が,いっぱいに光って過ぎて行きました。

 と思ったら,もう次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り,三角標の列は,けむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿 六,銀河ステーション;宮沢1985)

下線は引用者

 

「りんだう」はリンドウ科の「リンドウ(竜胆)」(Gentiana scabra Bunge var. Buergeri (Miq.) Maxim.)である。「リンドウ」が群生することはなくススキ原などに1本ずつ咲く。「寂し」を連想させ,『万葉集』では異説であるが「思ひ草」の名ででてくる。前報で童話『銀河鉄道の夜』に登場する「リンドウ」は,紫式部の『源氏物語』や伊藤佐千夫の『野菊の墓』などの文学作品に登場する「リンドウ」と同じく,「母への思い」のメタファーであるということを報告した(石井,2013a)。「きいろ」の色も中国医学では「思い」に相当する。五行配当モデルの「五色」(青・赤・黄・白・黒)と「五志」(怒・喜・思・優・恐)との関係から「黄」は「思」である。「底」すなわち賢治の「無意識」の中に,「母」への強い「思い」があり,それが童話の中の「男の子」や「カムパネルラ」に投影させている。また「ススキ」は寂しさを象徴する植物である。

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第2図.リンドウ

「次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り三角標の列はけむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです」(下線は著者)という文章は,「カムパネルラ」や賢治にとっては,寂しくなればなるほど母への「思い」が強くなり,また信仰心も強くなるということを表現している。賢治の叔母たちの子守歌としての仏教の経文が頭の中を駆け巡ったかもしれない。物語の中の「三角標」は信仰の対象物である。この場面では天上世界がキリスト教世界なので「三角標」は仏教寺院ではなくゴシック様式の教会堂の「尖塔」(三角点)である。

 

5.「母」のために実行したことは「ひとのために」

「カムパネルラ(=賢治)」は,「寂しさ」から「母」の愛を得ようとして何をしたのであろうか。物語では,「母」が「カムパネルラ(=賢治)」に求めたものを実行しようとした。

 「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

 いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふやうに,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

 ジョバンニは,

(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。「きみのおっかさんは,なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども,誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは,なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿 七,北十字とプリオシン海岸;宮沢,1985)

下線は引用者

 

物語から読み取れる「母」の求めたものは,「母」が「ほんたうに幸(さいはひ)になる」ものであり,それは「ほんたうにいいことを」することである。また,そのためには「どんなことでもする」という強い意志に基づくものである。「カムパネルラ」にとって,そのためなら「どんなことでもする」という最上の「ほんたうにいいこと」とは何であろうか。多分,それは自分を犠牲にしてでも他者を救うということであろう。

 

「カムパネルラ」は,級友のザネリが烏瓜の明かりを川に流そうとして川に落ちた時に,すばやく川に飛び込んで助けた。自分よりも「他者を優先」したことで自らは川の底に沈んだ。「カムパネルラ」のとった自己犠牲の行動は,彼にとって「ほんたうにいいこと」なのだと信じられている。また,「カムパネルラ」は,自分が早く死んでしまって母を悲しませるようなことをしたが,「他者」のためにやった行為ということで「母」から許されると信じた。賢治もまた,「カムパネルラ」が実行した行動を「母」イチが自分に望んでいたものであると信じている。

 

森荘己池(1979)によれば,賢治の「母」イチは,「乳幼児」を寝かしつけながら「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と毎晩のように語り聞かせたという。また,後年イチが,「どうして賢さんは,あんなに,ひとのことばかりして,自分のことはさっぱりしないひとになったベス」と深いなげきをこめて言ったときに,賢治の弟の清六が「なにして,そんなになったって言ったってお母さん,そう言って育てたのを忘れたのスか」と母の言葉に答え,二人で笑ってしまうのであった,というエピソードも残されている。

 

心理カウンセラーの森 恭子(2010)は,このエピソードを踏まえて「母の<人の役に立たなければならない>という教えは,条件つきの愛情の示し方であり,賢治は人のために役に立たなければ,母から愛されずに見捨てられるのではないかという不安を抱いたと考えられる」と述べている。

 

賢治の「寂しさ」は,「乳幼児期」に特に母親から十分な愛情を得られなかったと感じたことからくると思われるが,それがまた,どんな状況下でも自分よりも「他者を優先」するという性格にしたのであろう。この自分よりも「他者を優先」する性格は,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の理念ともつながっている。結婚話が破談しそうになったとき,自分(たち)の幸せを優先できなかった理由の1つでもあると思われる。

 

思想家で賢治研究家の吉本隆明(1924-2012年)は,賢治に相思相愛の恋人が存在していたことは知らなかった。吉本(2010)は,賢治に恋人ができない,あるいは性的な交渉ができない理由として,「女性にとって異性との最初の性行為が,じぶんの存在感をはじめてつかんだ体験として忘れられないように,男性にとって異性とのはじめての性行為は大なり小なり<母>の像の破壊と失墜にあたっている。宮沢賢治はたぶんこの<母>の像の破壊に,不可能なほどのたくさんのエネルギーが必要であった。」と述べている。すなわち,賢治は,「母」の「慈母像」を破壊するのに十分なエネルギーを持っていなかったので恋愛もできなかったと言っている。

 

しかし,実際には賢治には結婚まで誓った相思相愛の恋人がいたようである。そこで,吉本の発言を賢治に恋人がいたということで見直してみる。すると,賢治は恋愛をしたのだから自分よりも「他者を優先」することを望む「母」の「慈母像」も破壊されてよかったはずであるということになる。多分,賢治も,自分を分析し,そのような「性格」に導いた「母」イチの「慈母像」を破壊しようとしたはずである。それができなかったのは,この「慈母像」自身が「擬制」であったからであろうか。

 

賢治の「母」は,「慈母」と言われているが気難しく厳格な「父」政次郎には従順であった。賢治にとって「母」は,その「父」を押しのけてまで,また義親の世話や家業の手伝いを拒否してまで,あるいは条件付きでなく,自分を愛してくれるような存在とは思えなかった。賢治の「母」から十分な愛情を得られなかったという強い自覚は,永続的に「母」を求めることになり,「母」の子守歌である「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という性格の一端をも形成した「他者優先」の呪縛から生涯逃れることを困難にした。

 

引用文献

繁多 進.1989.第Ⅲ章 幼児期・児童期.pp90-105.依田 明(責任編集).性格心理学新講座 第2巻 性格形成.金子書房.東京.

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.東京.

石井竹夫.2013a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する「りんだうの花」と悲しい思い.人植関係学誌.13(1):15-18.

石井竹夫.2013b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する「にはとこのやぶ」と駄々っ子.人植関係学誌.13(1):19-22.

石井竹夫.2016. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する列車の中のリンゴと乳幼児期の記憶.人植関係学誌.16(1):1-58.

石井竹夫.2018.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年 前編-.人植関係学誌.18(1):15-18.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

宮沢賢治.2001.新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料・年譜編.筑摩書房.

森 恭子.2010.青年期心理とアイデンティティの形成過程-宮澤賢治の伝記資料と作品を通して-.瀬木学園紀要 4:14-59

森荘已池.1979.宮沢賢治の肖像.津軽書房.青森.

大塚常樹.1993.宮澤賢治 心象の宇宙論(コスモロジー).朝文社.東京.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.茨木.

吉本隆明・田原克拓.1993.時代の病理.春秋社.東京.

吉本隆明.2006.家族のゆくえ.光文社.東京.

吉本隆明.2010.宮沢賢治.筑摩書房.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第1号25~29頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html