宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅲ)-天気輪の柱と三角標-

Keywords: 赤い点々を打った測量旗,アスパラガス,文学と植物のかかわり,五輪塔,河原なでしこ,かはらははこぐさ,絹で包んだ苹果,にはとこのやぶ,鳥の押し葉,鳥を捕る人,瓜に飛びつく人達,

 

童話『銀河鉄道の夜』は,「ほんたうのさいはひ」が何かを探す物語である。総集編Ⅰ(石井,2020)で賢治が「ほんたうのさいはひ」は「ほんたうの考え」と「うその考え」を見分けて宗教と科学を同じにさせることで見つかるということを信じていたということを報告した。これがこの物語の主旨でもあるが,この考え方は,物語に登場する「三角標」などの難解な用語を植物によって読み解くことによって明らかにされた。

本稿では,植物によって解き明かされた難解な用語(天気輪の柱,三角標など)について総説する。

 

 1.ジョバンニの家の庭に植えられてあるアスパラガスとケール

(天気輪の柱は五輪塔をイメージできる積乱雲)

第四次稿に登場する「黒い丘」の頂の「天気輪の柱」が何を意味しているかは,ジョバンニの家の前の空き箱に植えられてある「アスパラガス」(ユリ科クサスギカズラ属のオランダキジカクシ;Asparagus officinalis L.)と「ケール」(アブラナ科;Brassica oleracea  L. var. acephala DC)がなぜ植えられているかを解明することにより明らかになる(石井,2013e,2015d,2016a)。第1図は空き箱に植えられてある「アスパラガス」と「ケール」。

f:id:Shimafukurou:20210606102422p:plain

第1図.庭に植えられてあるアスパラガスとケール

 

空き箱の「アスパラガス」と「ケール(カンランとも呼ぶ)」あるいはジョバンニが牛乳屋へ行く途中で見ることになる時計屋の「青いアスパラガスの葉で飾ってある円くて黒い星座早見」(第2図)は,各仏教宗派共通の仏塔である「五輪塔」(第3図)の暗喩である(石井,2013e)。

f:id:Shimafukurou:20210606102458p:plain

第2図.アスパラガス(A)と青いアスパラガスの葉で飾られた黒くて丸い星座早見(B).Bの青(緑)い三角形のアスパラガスの葉と黒くて丸と四角から成る星座早見は五輪塔をイメージできる.

f:id:Shimafukurou:20210606102535p:plain

第3図.五輪塔(地輪=四角・黄,水輪=丸・白,火輪=三角・赤,風輪=半月・黒,空輪=宝珠・青).

 

「五輪塔」は,下から「地輪」(四角・黄),「水輪」(丸・白),「火輪」(三角・赤),「風輪」(半月・黒),「空輪」(宝珠・青)によって構成される。例えば,「青いアスパラガスの葉で飾ってある円くて黒い星座早見」は,外形が四角(地輪)で色が黒(風輪)く,丸(水輪)い円板から成り,青(空輪)い三角形(火輪)をしたアスパラガスの葉が飾ってあるので不完全ながらも「五輪塔」をイメージしたものと言える。

 

仏塔としての「五輪塔」には,真言密教では「大日如来」の真言(仏の言葉)である「ア・バ・ラ・カ・キャ」の梵字が刻まれる。浄土教の「阿弥陀如来」の真言は「オン・ア・ミリ・タ・ティ・セイ・カ・ラ・ウン」(下線は著者)である。それぞれの「真言」の読みが「アスパラガス」や「カンラン(ケール)」という植物名と重なる。

 

本来,人が死ぬと浄土教では「阿弥陀如来」の在処である極楽浄土へ、また真言密教では「大日如来」の在処である密厳浄土へ導かれると信じられていた。しかし,真言宗の僧である覚鑁(かくばん;1095~1143)は十方浄土を包摂する曼荼羅思想から「大日如来」の住処である密厳浄土と「阿弥陀如来」の住処である極楽浄土は同一であるとした。すなわち,どんな宗派の仏教を信じている人でも死ねば皆同じ所(浄土)へ導かれると見なされて,「五輪塔」は宗派を超えて成仏できる仏塔(供養塔)となったと言われている。

 

「浄土」とは,あの世(来世)という意味だけでなく大乗仏教における宗教的な「理想郷」を指す言葉でもある。しかし,賢治は日蓮宗(国柱会)の信徒でもあるので浄土教のように来世で救われるのではなく,現世で救われなければならないと考えた。賢治にとって「浄土」とは,現世における「みんなのほんたうのさいはひ」が得られる所である。賢治は,この考えをキリスト教やイスラム教の天国あるいは「理想郷」にまで拡大している。実際に,童話ではキリスト教徒あるいはアラビア風と思われる人々が登場する。すなわち,賢治は,既存の宗教を超越した普遍宗教を確立することを願っている(石井,2016a)。

 

「天気輪の柱」も,「五輪塔」のことで,物語では「地」が地上,「水・火・風」が水と空気(風)の散乱系である「積乱雲」で,「空」が真空の空(そら)のことを示している。すなわち,「天気輪の柱」とは,地上と空の間に位置する「積乱雲」のことである。この「積乱雲」の「雷雲(「火」)」が稲光(「光」)をだして「三角標」に変貌する(第4図)。これは,アインシュタイン(A. Einstein;1879~1955)の特殊相対理論の中の「エネルギー(E)=質量(m)x 光速度(c)2乗」の式(エネルギーと物質の質量は等価)の影響を受けている。現実空間では,粒子と波動の二面性を持つ「光」が「物質」に変化することはないが,賢治が描いた幻想第四次空間(夢の中)では,「エネルギー」でもある「光」は「物質」に変化する。

f:id:Shimafukurou:20210606102633p:plain

第4図.黒い丘に立つ天気輪の柱(A)と三角標(B).

 

2.三角標は信仰の対象となる三角測量に使う三角点になる建造物

賢治がイメージした物語の中の「三角標」は三角測量に使う「三角点」になる建造物である。しかし,「三角点」の標石の上に建てる測標(覘標)という木の櫓ではない。天井世界での測量は物語の主要テーマではない。この物語は総集編1で説明したように宗教と科学の一致が主要テーマである。だから,繰り返し登場してくる「三角標」は宗教と科学を象徴するものと思われる。

 

天上世界で最初の「三角標」が現れる北十字のある白鳥区(「白鳥の停車場」がある所)では,宗教が生活の中心であった中世のキリスト教寺院のゴシック様式の教会堂の「鐘楼(尖塔)」あるいはイスラム教寺院の「ミレット」がイメージできる(石井,2014b;第5図)。

f:id:Shimafukurou:20210606102714p:plain

第5図.天の野原に立つたくさんの教会堂の尖塔をイメージできる三角標.

 

f:id:Shimafukurou:20210606102754p:plain

第6図.林の中の高層ビルをイメージできる高い高い三角標とまっ赤に光る円い実.

 

教会堂の「尖塔」は三角測量の「三角点」になる。賢治は仏教思想を隠しているので景観の中に仏教寺院は登場しない。白鳥区を過ぎると「三角標」は,灯台あるいはネオゴシック様式の「尖塔」を持つ商業用の「高層ビル」に変わり(第6図)(2014c),最後の「蝎の火」の逸話が語られる場面では「物質的な豊かさ」をもたらす近代科学の象徴である水力発電所から電気エネルギーを送電するための「鉄塔」や工場の「煙突」に変貌する(石井,2015a,2015d,2017c;第7図)。「蝎の火」は,烏瓜のあかりのように「楊の木」に透かしだされている(第7図)。教会の「尖塔」や「鉄塔」,工場の煙突などが「三角点」になることは文末の補足でも説明する。 

f:id:Shimafukurou:20210606102828p:plain

第7図.烏瓜のあかりのように楊の木に透かしだされた蝎の火(三角標は鉄塔や工場の煙突).

 

「三角標」は,また現世における「みんなのほんたうのさいはひ」を探し求めるための「道標」になるものであるが,「ほんたう」と「うそ」を見分けられない求道者には,「尖塔」に見えたり「鉄塔」に見えたりする。仏教の経典に記載されている用語で説明すれば,「三角標」は『法華経(妙法蓮華経)』の「化城喩品第七」に記載されている「幻の城」(幻の塔)である(化城宝処)(石井,2019d)。「化城喩(けじょうゆ)」とは旅人(求道者)が最終の目的地があまりにも遠いので途中で旅を放棄しないように,中間に神通力で城(塔)を造り,そこでいったん休んでまた旅を続けさせるという話である(法華七喩の一つ)。

 

「ほんたう」と「うそ」が見分けられるようになれば,「みんなのほんたうのさいはひ」を導く「ほんたうの三角標」が姿を現すはずだが,「近代科学」を象徴する「送電鉄塔」や工場の「煙突」の次にどのような姿をした「三角標」が現れるかは,多分賢治も含めて誰も分からないと思われる。

 

3.ジョバンニを天上に導く「十」という形象

「みんなのほんたうのさいはひ」を導くのは天上の「三角標」だけではない。「十」という形象がジョバンニを地上から天上へ誘導している。

 

童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)には,キリスト教を象徴する「十字架」をイメージできる「十」という文字がたくさんでてくる。例えば,「十字路」,「鷺のからだが十ばかり」,「天の川の水あかりに十日もつるして置く」,「米も殻もないし十倍も大きい」,ジョバンニが持っている切符に対しては「おかしな十ばかりの字を印刷したもの」等とでてくる。また,銀河の中の「白鳥の停車場」(北十字)とサウザンクロス(南十字)の停車場には十字架が立っていて,「サウザンクロスの停車場」近くには「手をのばし」て「十」の形になっているキリストと思われる「神々しい白いきものの人」もいる。 

 

天上に上る場所でもある「黒い丘」は,ジョバンニが入眠するときに銀河ステーションに変貌するが,はたして「黒い丘」の頂のどこから上るのだろうか。そのヒントが第三次稿のタイタニック号と思われる船の沈没事件の際に歌われる賛美歌に隠されている。

 

その歌は諸説があるが,その1つとして『主よみもとの歌』があげられていて,「主よみもとにちかづかん/のぼるみちは十字架に/ありとなどかなしむべき/主よみもとにちかづかん」(下線部は著者(石井)による)と歌われる。すなわち,十字架が地上から天上に上る足場あるいは停車場になるというのである。これは『旧約聖書』(創世記28章第11〜18節)に書かれてある「ヤコブが夢の中で見た天から地に向けられた梯子」を連想させる。

 

では「黒い丘」に「十」に関係するものはあるのだろうか。「黒い丘」の頂には「天気輪の柱」が立っているが十字形をしているとは記載されていない。しかし,その傍に「つりがねさうか野ぎくかの花が,そこらいちめんに,夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き」とある。多分,十字架に関係する植物は「ツリガネニンジン」(Adenophora triphylla (Thunb.) A.DC. var.japonica (Regel) H.Hara)であろう(石井,2011)。

f:id:Shimafukurou:20210606102907p:plain

第8図.ツリガネニンジンの花柄(A)と葉(B)は十字架(4輪生)を暗示.

 

「つりがねさう」は釣鐘状の花をつけた植物の総称であるが,「十」の形となると花柄や葉が十字形に輪生する「ツリガネニンジン」(第8図)がこの物語の「黒い丘」の頂に咲く植物としてはもっとも相応しいように思える。「ツリガネニンジン」はキキョウ科であるので,この科の特徴として枝を折ると白い乳液もでる。白い乳液は銀河(Milky Way;牛乳の道)を連想させる。

 

また,『銀河鉄道の夜』には花弁が「十」になる植物も登場する。ジョバンニが住む家の入口の空箱に植えられている「ケール」は,南欧原産のアブラナ科の植物でキャベツやブロッコリーの原種とされる。アブラナ科の植物は花弁が四個で十字形につくので「十字花」と呼ばれ,昔はジュウジバナ科と呼んだこともある。すなわち,ジョバンニは,「ケール」が植えてある自宅から「十字になった町のかど」を通って,「黒い丘」の頂の「ツリガネニンジン」が生えている所へ行き,そこから銀河鉄道の列車に乗って天上である北十字あるいは南十字へ向かうことになる。これは,ジョバンニあるいは女の子の信仰する宗教と関係があるのかもしれない。

 

4.天上に登場する植物の序列は俗から聖へ

物語(第四次稿)の天上世界(臨死状態あるいは死後の世界)では,列車の車窓から「すすき」,「りんだう」,「芝草」,「銀杏」,「かはらははこぐさ」,「米」,「苹果」,「たうもろこし」,「河原なでしこ」,「楊」,「唐檜」,「もみ」,そして「くるみ林」と13種程の植物が見えてくるが,登場する植物の順序は「俗」なる植物から「聖」なる植物になるように段階的に配置されている(石井,2011,2014a)。

 

「聖」とは日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっているという意味である。例えば,「すすき」,「りんだう」,「芝草」,「銀杏」,「かはらははこぐさ」はごくありふれた野生の植物(厄介者と呼ばれるものも含む)であるが,「米」,「苹果」,「たうもろこし」は自らの体の一部を食料として人間に供給している有益な植物であり,「楊」にいたってはマッチの軸木製作のために次々に伐採され,そして自らの命を燃やして人間に役立っている「聖」なる植物である。これは「俗」なる人物である「鳥捕り」が北十字辺りから乗って1駅先の「鷲の停車場」で降りるが,友達を助けて水死した「聖」なる人物であるカムパネルラは遥かに遠距離の南十字まで旅するのに対応している。

 

より遠くまで乗車した人,あるいは自分を犠牲にした人が「偉い(上の位にある)」というのではない。北十字は銀河の「上流」で,高原を下ったところにある南十字は「下流」にある。すなわち,自分を犠牲にしたカムパネルラやマッチの軸木になる焼身自己犠牲を象徴する「楊」(アメリカヤマナラシ;(Populus tremuloides Michx.)や「くるみ」(ペルシアグルミ;Juglans regia L.)など「聖」なる者や植物が「上流」ではなく「下流」にあるということが重要なのである。

 

賢治は,信仰のある者は信仰のない者よりも「上位」ではなく「下位」にあるということが言いたいのだと思う。別の言葉で言い換えれば,「物質的な豊かさ」をもたらす科学を信じる者はそれを信じない者よりも「下位」にあるということでもある。これら人と植物の並べ方は,賢治独自の思想に基づいている。賢治は,「みんなのほんたうのさいはひ」に導く「こうありたい未来」の宗教としての普遍宗教を模索していて,この序列と配置は賢治の考える普遍宗教(あるいは思想)の核心部分と思われる(吉本,1997;石井,2015b,2016c)。どんな宗教の指導者も思想家も自分の宗教の神や思想が唯一で正しいと思っている。「法華経」ですら,第一章で「経典の中で最も優れたものである」と主張している。

 

賢治にとって,「上位」であるとか「下位」であるとかという価値観は,否定される対象でもある。それは『銀河鉄道の夜』と同時期に創作された童話『どんぐりと山猫』(1921)でも明確に表現されている(石井,2017d)。

 

この物語は以下のような内容である。主人公の一朗という少年が,山猫から面倒な「裁判」があるから来てほしいという手紙をもらい,「カヤ」(Torreya nucifera (L.) Siebold et Zucc.)の森へ行く。そこでは、沢山の<どんぐり>が「一番えらい」(上位)のは先が尖っているのだとか,丸いのだとか,背が高いのだとか言って三日も争っている。各々の<どんぐり>が「だめです。私が一番えらいのです」と言って頑として譲らない。山猫に解決を迫られた一朗は,笑って「このなかで,いちばんえらくなくて,ばかで,めちゃくちゃで,てんでなってゐなくて,あたまのつぶれたやうなやつが,いちばんえらいのだ」と山猫に言わせて<どんぐり>達を瞬時に黙らせてしまう。

 

5.にはとこのやぶをまはる

「ニワトコ」(スイカズラ科:Sambucus racemosa L. subsp. sieboldiana (Miq.) H.Hara.)は,山野に生える落葉低木である。葉は奇数羽状複葉で対生する。ニワトコは日本に現存する最古の和歌集『万葉集』や歴史書『古事記』では「山たづ」という名で出てくる。「山たづ」は『万葉集』では二首掲載されていて,いずれも「迎える」の枕詞である。「ニワトコ」の葉は対生して,鳥の羽根のように向かい合っているように見えるので(第9図),両腕を広げて人を「迎える」姿に似ている(石井,2013c)。

f:id:Shimafukurou:20210606102951p:plain

第9図.両手を差し出しているように見えるニワトコ

 

「ニワトコ」は,第四次稿「ジョバンニの切符」の章で,氷山に船が衝突して死んだ家庭教師の青年と姉弟が銀河鉄道の列車に乗ってくる場面で登場してくる。現世の家へ帰りたいと駄々をこねる男の子に対して,青年が「おっかさんがあなたがにはとこのやぶをまはってあそんでゐるだらうかと考えたりして心配している」と言ってなだめている。青年は,駄々をこねる男の子に対して「あなたは死んでしまったのだから現世には戻れない。駄々をこねるのは止めなさい」と直接的には言わないで,「あなたのことを大事(心から愛している)に思っているおっかさんのところへ行こう」と男の子に寄り添うような形で間接的に言う。いつも母の傍から離れない男の子は母を失って寂しい思いをしてきたわけだから,無意識の中では母への思いが強いはずである。

 

この男の子には幼少期の賢治が投影されている(石井,2016b,2018c)。もしも,母の男の子に対する強烈に逢いたいという気持ちがメタファーとしての葉の姿が両腕を広げて待っているように見える「ニワトコ」と一緒に男の子に伝われば,男の子は駄々をこねるのを止め,誰から指図されることなく「ひとりでに」母の元へ向かうと思われる。

 

この場面は法華七喩の一つである「三車家宅」(『法華経』第三章「譬喩品」)に対応している。ある時,長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中になっていて火事に気付かず,長者が説得しても外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが常日ごろから欲しがっていた玩具の「羊車,鹿車,牛車の三車が外にあるよ」といって子供たちを外へ導き出したというものである。「ほんたうの教え」とは,どんな思想や宗教の持ち主でも理解できるものであり,またどんな人にでも「ひとりでに」救いの道が付けられているようでなければならないという教えである。

 

6.鳥の押し葉

(ほんたうとうそを区別する)

「鳥の押し葉」は,第四次稿の八章「鳥を捕る人」で登場する。<鳥捕り>は, 物語では銀河の河原で「鷺(さぎ)」,「雁(がん)」,「 鶴(つる)」などの鳥を捕まえて「押し葉」にして食用として売る商売をしている。「鳥の押し葉」の作り方は, <鳥捕り>の言葉を借りれば, 「天の川の水あかりに, 十日もつるして置くかね, さうでなけぁ, 砂に三四日うづめなけぁいけないんだ。さうすると, 水銀がみんな蒸発して, 喰べられるやうになる」である。賢治が「鳥の押し葉」を物語に出してきたのは「ほんたう」と「うそ」をどうすれば分けられるかという問題を提起したかったからと思われる。

 

これは「アイヌ」の歌人である違星北斗の『コタン』創刊号(1927.8.10)の論説「アイヌの姿」にでてくる「贋(がん)シャモ」(贋は「にせもの」の意味)の話を基にしている(石井,2019c)。「贋シャモ」は,明治政府の「同化政策」に対して,うまく順応することができず,アイヌ語や自然信仰を捨てるだけでなく「和人」を模倣したり,自ら「アイヌ」であることを隠したりして「和人」の社会の中に溶け込もうとした者のことを指す。

 

<鳥捕り>は,ジョバンニに「鷺」や「雁」の「押し葉」を見せて食用だと話すが,ジョバンニは信用しない。この場面にドライフラワー(押し花にもなる)で有名な白い花をつける植物「カワラハハコ」(キク科;Anaphalis yedoensis (Franch. et Sav.) Maxim.)が登場する。「カワラハハコ」は英名で “Japanese pearly everlasting”という。 “everlasting” は「永遠の」あるいは「永久に続く」の意味である。

 

鶴(つる= true;ほんたう)」に対して「鷺(さぎ=詐欺)」は「うそ」であり,鳥捕りは「鷺」や「雁」の「押し葉」と言って植物の「カワラハハコ」で作った押し葉(第10図)を見せ,そして「落雁」,「初雁」,「雁月」などと命名されている和菓子をジョバンニ達に食べさせたのであろう(石井,2012a)。「雁(がん)」(贋と発音が同じ)の「押し葉」(実際はお菓子)は平べったく「鳥の形」をしているが「永遠の」真実に見せかけた「なりすまし」の「偽物の鳥」(贋シャモ)である。ジョバンニたちはそれを見抜いているようにも思える(石井,2012a)。

f:id:Shimafukurou:20210606103041p:plain

第10図.カワラハハコで作成した鳥の押し葉.Aは押し葉の植物標本,Bは鳥の形に似せたもの.

 

7.「すゝき」と<鳥を捕る人>の類似点

<鳥捕り>は,がさつで,単純で,人が好いのに,少しずるそうなところがある人物として描かれている。ジョバンニは,車内で初めて会った<鳥捕り>と鳥の捕まえ方や商売の方法について会話するが,しばらくすると一緒にいるのが面倒な気持ちになって,<鳥捕り>を「邪魔(=厄介)」な存在と感じてしまう。

 

このとき,ジョバンニは,<鳥捕り>に対して特異な「こころ」の反応を見せる。例えば「この鳥捕りのために自分のもっている物を全てあげてしまいたい」とか,「この人のほんたうのさいはひになるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいい」という気持ちが湧いてくる。この「鳥捕り」に対して自己犠牲的な「償い」に繋がる気持ち(ジョバンニの言葉を借りれば「変てこな気持ち」)が生じた時,<鳥捕り>が物語から退場し,その代わりに「すゝき(ススキ)」(Miscanthus sinensis Andersson)が登場してくる。

 

「ススキ」も,いくら四季の移ろい(風情)を感じさせようと,耕耘前に畑に侵入してくれば排除すべき対象となる。「ススキ野」を開墾した経験もある賢治は,「ススキ」に「邪魔者」とか「厄介者」という感情を強く持ったと思われる。しかし,それらは同時に賢治にとって恥ずべき「いちばんあってはならない感受性」でもあったと思われる。賢治は「ススキ」に「あってはならない感受性」を強く感じてしまったことを「罪」と感じ,『銀河鉄道の夜』という創作物のなかでこの<鳥捕り>に対して「罪」を償おうとしたように思える。

 

では,このジョバンニ(あるいは賢治)の「こころ」の中の特異な反応(「変てこな気持ち」)はどこからくるのだろうか。この特異な反応は,賢治自身の資質によるかもしれないが,賢治が信じた『法華経』の「常不軽菩薩品第二十」の教えによるところも大きいと思われる。『法華経』に登場する常不軽菩薩(「常に軽蔑された男」の意味)は,菩薩自身が迫害され,誹謗中傷されても相手に同じことをし返すことはしなかった。それどころか,相手がどんな人物であれ,人を見ては「わたしは,あなたがたを深く尊敬します。けっして軽んじたり,あなどったりすることはありません。」と声をかけて法華経の教えを説いたという(石井,2015b)。

 

8.絹で包んだ苹果のような女の子の顔色

列車がコロラド高原を通過しているとき「インディアン」が現れ,郷愁の「思い」に駆られて女の子の顔色が「絹で包んだ苹果」のようになる。この場合の顔色は艶のある黄色である。これは,中国最古の医学書の『黄帝内経素問』(前漢時代に編集)に記載されている「シナカラスウリ」(ウリ科;Trichosanthes kirilowiii Maxim.var. kirilowii )の熟した実を絹で包むと「五志」(怒・喜・思・憂・恐)の「思い」に相当する艶のある黄色になることをヒントにしている(石井,2016d)。

 

キリスト教徒の女の子は,賢治の恋人が投影されていて,米国に渡った後に列車の進行方向である日本を郷愁の「思い」で見つめている。「シナカラスウリ」ではなく「苹果」を選んだ理由は「リンゴ」がキリスト教徒にとって「原罪」を意味するからである。

 

ここでは北米大陸に移住してきた「移住者」が「先住民」である「インディアン」の土地を搾取し彼らを「保留地」へ追いやったという「原罪」である。これは,大和民族とアイヌ民族(あるいはエミシ)の間にも言えることである。「絹」は果物の成熟と関連するエチレンを吸着して鮮度を保つ働きがある。よって,「苹果」を「絹」で包むということは,「移住者」の「原罪」を風化させないという意味が込められている。

 

9.野ばらの実は測量旗に赤い点々を打って危険を知らせている

第四次稿の白鳥区を過ぎた所で「三角標」(灯台らしいもの)の上にはためく「赤い点々を打った測量旗」が登場する。これは,2つの丸い「野ばら」(「アメリカンラズベリー」;Rubus strigosus Michx.)の実が,「三角標」の上にある「旗」に「三角測量」に使う回照器(現在ではレーザー発振器)のようなもので銀河の光を反射させて「赤い点々」の模様を作ったものと思われる(第11図)。

f:id:Shimafukurou:20210606103127p:plain

第11図.赤い点々を打った測量旗

 

この「赤い点々」の模様は「丸」と「四角」の違いはあるが「国際信号旗」のU旗(第11図)と同じ意味になり,この先に危険が待ち受けていることを銀河鉄道の列車に乗り込んだ「ほんたうのさいはひ」を求めている乗客(求道者)に光通信で知らせている(石井2013a,2017b)。人々が物質的な「豊かさ」を求めて信仰の対象を宗教から近代科学へ移行させたことに対する警告である。

f:id:Shimafukurou:20210606103159p:plain

第12図.国際信号旗のU旗.

 

これと同様の意味で使っている賢治の作品として童話『十力の金剛石』がある(石井,2017e)。ここでは,「野ばら」(「ノイバラ」;Rosa  multiflora Thunb.)が宝石に目のくらんだ王子の顔に「赤い光の点々」を反射させて王子の前途を心配している。

 

10.楊に透かしだされた蝎の火

1)バルドラの野原の一匹の蝎

童話『銀河鉄道の夜』(第一次~第四次稿)の最終章に出てくるバルドラの野原で「イタチ」に追われて井戸の中に落ちてしまう「蝎(サソリ)」の逸話は, 知里幸恵訳の『アイヌ神謡集』の神謡「梟の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」をヒントにしたもので,生命10億年の生存競争の歴史が語られている。

 

この童話に登場する「蝎」は,地質時代「シルル紀」の浅海の底で暮らしていた「ウミサソリ」のことである。太古の海では「ウミサソリ」は体長が2mを超えるものもあり食物連鎖の頂点にいて我が物顔で闊歩しながら小さな虫や小魚を食べていた。しかし,陸に上陸した「ウミサソリ」の仲間は小型化して陸の「サソリ」(視力が弱くて夜行性)に進化するが,今度は立場が逆転して小さな魚から進化した「イタチ」などの哺乳類に捕食されるようになる。

 

賢治は,『アイヌ神謡集』に登場する「昔のお金持ちが今の貧乏人」と「昔の貧乏人が今お金持ち」を「蝎(=ウミサソリ)」と「イタチ」に,そして『銀河鉄道の夜』に登場する「狩猟民(アイヌ)」と「町の人々」あるいは賢治の生きた時代の岩手県(イーハトーブ)に住んでいた「先住民(蝦夷)」と「移住者」に置き換えた。

 

「神謡」では,「昔のお金持ちが今の貧乏人」が神である「梟(シマフクロウ)」に対して祈りを捧げると,「昔のお金持ちが今の貧乏人」が「昔の貧乏人が今お金持ち」と共に争うことなく暮らせる社会が訪れる。『銀河鉄道の夜』では「蝎」が神に対して祈ると「まっ赤」な「蝎の火」となり夜空を明るく照らすようになる。賢治は,「サソリ」が祈る対象としての神を「アイヌ」の神(梟)ではなく,近代科学に置き換えたようである(石井,2018a)。

 

物語の天上世界には近代科学を象徴するようなものは,白鳥区が終わる頃に車窓から見えるアルビレオ観測所の「水の速さを測る器械」以外には登場していないように見える。ジョバンニが「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう」と言っているが,この「何を燃やせばできるんだらう」の問に答えることで近代科学(特に化学)を象徴するものが見えてくる。多分,物語の「蝎の火」は,カーバイド工場で「カーバイド」(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)を作るときにでる「まっ赤な炎」であろう(石井,2015a)。

 

「カーバイド」は「ウミサソリ」など動物化石を含む石灰岩を焼いた石灰と植物化石である石炭(炭素)を混ぜて電気炉で2000℃以上に燃焼させることにより合成される。「カーバイド」は天然には存在しない。賢治が童話『銀河鉄道の夜』(第一次稿は1924年の冬頃)を執筆していた時は,「電気」が都会(南)から地方(北)に普及していた頃にあたる。すなわち,「蝎の火」は,人間が「電気」を使って発明した近代科学の炎である。カーバイドは水と反応するとアセチレンを生成するので,アセチレンランプや農業の近代化を象徴する化学肥料の原料とした。

 

これらは,詩集『春と修羅』の「薤露青」の後半部分にある詩句「南からまた電光がひらめけば/さかなはアセチレンの匂をはく」を思い起こさせる。カーバイド工場への「電気」は「水力発電所」から「送電鉄塔」を介して送られてくる。それゆえ天上世界の「蝎の火」の逸話が語られる場面で登場する「三角標」は近代科学を象徴する工場の「煙突」や「送電鉄塔」がイメージされている(石井,2015a,2017c)。

 

詩「薤露青」は,上記詩句の後に,「水は銀河の投影のやうに地平線までながれ/灰いろはがねのそらの環」という詩句が続く。この詩句にある「灰いろはがねのそらの環」は,童話『銀河鉄道の夜』では,蠍の逸話の後に出てくる十字架の上に架かる「苹果(りんご)の肉」のような「青じろい雲の環」と関係がある。生活の中心に信仰(宗教)を置いていた時代が去り,人々の信仰が宗教から近代科学に移行したことを示している(石井,2016c)。

 

2)宗教の復活

「蝎(ウミサソリ)」が神に祈ったとき,それを聞き入れたのは「梟」ではなく近代科学の技術を持つ化学者たちであり,彼らが「昔のお金持ちが今の貧乏人」である「ウミサソリ」を物語の「狩猟民」や「東北」の先住民達に「さいはひ」をもたらす聖なる生き物にした。しかし,近代科学は,人々に「物質的な豊かさ」をもたらすが,様々な弊害(人間の自然征服・商品機械化,自由の喪失,苦痛を強いる労働など)ももたらした。そこで,賢治は,宗教を復活させ,科学に宗教を合致させようとした。そして,法華経の「焼身自己犠牲」の暗喩である「楊」を「蝎の火」の近くに置いた。

 

この「楊」は北米を舞台にしているのでヤナギ科ヤマナラシ属の落葉高木である「アメリカヤマナラシ(別名;アスペン)」(ヤナギ科;Populus tremuloides Michx.)であろう。ヤマナラシ属の植物の多くは,賢治が生きていた時代あるいはそれ以前から自ら(あるいは種として)の命を絶ち(伐採され),その体をマッチの軸木に変え「炎」となって人々の生活向上に貢献していた。まさに経典『法華経』に出てくる「焼身供養」の象徴でもある「一切衆生憙見菩薩」の化身である(石井,2014a,2015a)。賢治は「楊」の中でも「ギンドロヤナギ」(Populus alba L.)が特に好きで,羅須地人協会の庭に植えたり,自分の身代わりに苗木を知人の学校に寄贈したりしている。

 

複数の「アメリカヤマナラシ」の木の幹で透かし出された近代科学の「炎」は,「烏瓜の明かり」や後述する「もみや楢で包まれた街燈」のような「縞模様」を形成して美しく燃え上がる。すなわち賢治は,近代科学と宗教を合致させた「キメラ」をギリシャ神話の半身半獣の「ケンタウロス」になぞらえて「アイヌ」の「神(カムイ)」である「梟」と入れ替えたのである。

 

このように,賢治は,「ウミサソリ」を含む石灰岩を基に作られた炭酸石灰や石灰窒素を法華経の精神で使えば「東北」の酸性土壌の大地を農業に適した大地に変えることができ,農業に従事する「先住民たち」の生活を豊かにすることができると信じたように思える(2018a)。それは強いては,「移住者」たちとの共生にも繋がると考えた。

 

11.瓜に飛びつく人達

第一次~第四次稿「サウザンクロス」の停車場近くに立つ「十字架」に対しては「つつましく」以外に「子供が瓜に飛びついたとき」のように歓喜の声をあげている人達が描かれている。この場面は,カーバイド工場の炎(近代科学の炎)をイメージできる「蠍の火」や「蠍の形」に並んだ工場の「煙突」や「送電鉄塔」(三角点)をイメージできる「三角標」を見た後に現れる。この「十字架」は,「北十字」のものと異なり「青や橙やもうあらゆる光でちりばめられ」ている(第13図)。この「あらゆる光」とは,人々が望むもの,物質文明がもたらしたものを手に入れることができる金(貨幣)や宝石の輝きであり,賞賛であろう。

f:id:Shimafukurou:20210606103239p:plain

第13図.サウザンクロスの停車場近くの十字架

 

十字架に対して「子供が瓜に飛びついたとき」のようなという表現に使われた「瓜」とは何であろうか。子供が好きそうな「マクワウリ(甜瓜;melon)」(Cucumis melo L.var.makuwa Makino)あるいは「スイカ(西瓜;watermelon)」(Citrullus lanatus (Thunb.) Matsum. et Nakai)が考えられるが,十字架が近代科学を比喩したものと考えれば多分赤い血をイメージできる「スイカ」であろう。

 

「先住民」である北海道の「アイヌ」(あるいは東北の「エミシ」)は「和人」との婚姻を望むものが少なくなかったという。近代文明に接触した「アイヌ」は近代科学がもたらす「物質的な豊かさ」を得るだけでなく,「生き抜く」ために,また子供が自分よりも「しはわせ」になるようにと,「アイヌ」であることを否定して,そして「血」を薄めるために「シャモ(和人)」との婚姻を望んだという。「和人」の「血」も,被差別を回避するため,あるいは「物質的な豊かさ」をもたらすという意味では「アイヌ」にとって「科学」に匹敵するものであったのかもしれない(石井,2019c)。

 

さらにもう1つ,「瓜」には重要な意味が隠されている。「瓜」は英語で「gourd」(発音記号:gˈʊəd)というが,この語彙の発音と似ているものに「gold(金)」(góʊld )がある。すなわち,「瓜に飛びつく」とは「先住民」にとって「物質的な豊かさ」が手に入る「血」と「金(貨幣)」に飛びつくという意味が含まれている。(続く)

 

引用文献

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌.11(1):21-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/05/082232

石井竹夫.2012a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する鳥の押し葉.人植関係学誌.11(2):19-22.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/05/102845

石井竹夫.2013a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する幻の匂い(前編・後編).人植関係学誌.12(2):21-28.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/02/094155 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/02/095050

石井竹夫.2013e.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する星座早見を飾るアスパラガスの葉(前編・後編).人植関係学誌.13(1):27-34.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/24/092839 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/24/094203

石井竹夫.2014a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(前編・中編・後編).人植関係学誌.13(2):27-38.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/22/081209 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/22/082607 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/22/083625

石井竹夫.2014b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する光り輝くススキと絵画的風景(前編・後編).人植関係学誌.14(1):43-50.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/27/121321 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/27/123334

石井竹夫.2014c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い実と悲劇的風景(前編・後編).人植関係学誌.14(1):51-58.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/28/103010 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/28/104635

石井竹夫.2015a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する楊と炎の風景(前編・後編).人植関係学誌.14(2):17-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/29/185712 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/29/190825

石井竹夫.2015b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するススキと鳥を捕る人の類似点.人植関係学誌.14(2):25-28.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/23/141519

石井竹夫.2015d.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する桔梗色の空と三角標.人植関係学誌.15(1):39-42.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/01/093637

石井竹夫.2016a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するアスパラガスとジョバンニの家(前編・後編).人植関係学誌.15(2):19-26.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/01/121730 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/01/123125 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/18/090817

石井竹夫.2016c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するリンゴと十字架(前編・後編).人植関係学誌.16(1):45-51.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/18/093039 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/18/095045

石井竹夫.2016d.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する絹で包んだリンゴ.人植関係学誌.16(1):53-56.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/18/122106

石井竹夫.2017b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する野ばらと赤い点々を打った測量旗.人植関係学誌.17(1):17-22.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/07/160923

石井竹夫.2017c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い腕木の電信柱(前編・後編).人植関係学誌.17(1):23-32.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/09/090146 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/09/091209

石井竹夫.2017d.『どんぐりと山猫』の舞台.薬学図書館 62(1):2-3.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/14/100352

石井竹夫.2017e.『十力の金剛石』に登場する赤い野ばらの実. 薬学図書館 62(3):136-137.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/29/090217

石井竹夫.2018a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋(前編・中編・後編)-.人植関係学誌.17(2):15-32.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/162705 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/173753 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/185556

石井竹夫.2018c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-リンドウの花と母への強い思い-.人植関係学誌.18(1):25-29.

石井竹夫.2019c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ウリに飛びつく人達(前編・後編)-.人植関係学誌.19(1):11-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/081258 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/083120

石井竹夫.2019d.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-異界の入口の植物-.人植関係学誌.19(1):25-31.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/103821

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学を同じにさせる-.人植関係学誌.19(2):19-28.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

吉本隆明.1997.ほんとうの考え・うその考え-賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって.春秋社.東京.

(著者文献の年号に付く記号は総集編Ⅰに準じる)

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌19巻第2号33~40頁2020年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

三角標についての補足説明

上西勝也氏のHP『史跡と標石で辿る「日本の測量史」(旧題:三角点の探訪)』(http://uenishi.on.coocan.jp/ )に「三角点」に関して以下の記載がある。

 

フランスの測量

「測地基準網は三角点8万点から構成されています。点の記(Fiche signaletique)によると一等三角点(Reseau de base)は日本のような四角い標石、平らな標石や八角形の標柱などがあるようです。二等以下の低位三角点(Reseau de detail)は都市や小集落では教会などの建物の尖塔を三角点として利用しています。いずれもGPSによる三次元的な測地網に整備されつつあります。」

 

「南フランスニースの旧市街にある裁判所前広場(Place du Palais de Justice, Nice)にある時計塔が三角点になっています。点の記によれば標識はありませんが時計塔最上の十字架直下にある球が視準点になっています。・・・・市街にはこのように教会などの塔の先端を帝位(二、三等)の三角点にしていることが多いようです。」

 

日本の測量

「五等三角点という三角点が出現したのは1899年(明治32)です。陸地測量部沿革史の明治32年のところにつぎの記述があります。「海中ノ小岩礁ノ最高頂ヲ觀測シ其ノ概略位置及高程ヲ算定シ之ヲ五等三角點ト稱スルコト尋テ市街地ノ高塔等亦之ニ準スルコトニ定メタリ」・・・・現在、五等三角点の新設はされませんが残存しているものが数ヶ所あります。・・・・福岡県にある同「鉄塔」(福岡県下廣川村)の点の記を見るともともと五等三角点となっていたのを線で消して図根三角点に、また標石はなく「本点は高圧送電鉄塔にて視点は頂上の中央部とす 鉄塔番號-37号」となっていました。そのほか1946年(昭和21)ころ東京で戦災復興測量が行われたときに五等三角点として火の見櫓や風呂屋の煙突までも多数設定されましたが標石はないようです。」(下線は引用者)