宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

『なめとこ山の熊』に登場する薬草

『なめとこ山の熊』という童話は,「またぎ」を職業とし,「なめとこ山」で熊を獲ってはその皮と内臓の胆嚢を売って生計を立てている淵沢小十郎の生き様を描いた物語である。「なめとこ山」とは奇妙な名だが,実在する(岩手県の花巻と雫石の境にある標高860mの峰)。熊(Ursus arctos L.またはその近縁種)の胆嚢を乾燥させたものは「クマノイ」あるいは「熊胆」(局方生薬)ともいい,苦味健胃,利胆,鎮痙剤として使う。この童話には熊と一緒に風景描写として15種程の植物が出てくるが,その多くが薬草である。

 

例えば,小十郎が谷で光る白いものに対して母熊と子熊が会話しているのを聞く場面があるが,ヒキザクラ,キササゲ,クロモジという3種の植物が次々と出てくる。

しばらくたって子熊が云った。

「雪でなけあ霜だねえ。きっとさうだ。」

ほんたうに今夜は霜が降るぞ,お月さまの近くで胃(コキヱ)もあんなに青くふるへてゐるし第一お月さまのいろだってまるで氷のやうだ,小十郎はひとりで思った。「おかあさまはわかったよ,あれねえ,ひきざくらの花。」

「なあんだ,ひきざくらの花だい,僕知ってるよ。」

「いゝえ,お前はまだ見たことがありません。」

「知ってるよ,僕この前とって来たもの。」

「いゝえ,あれひきざくらではありません,お前とって来たのきさゝげの花でせう。」

「さうだらうか。」子熊はとぼけたやうに答へました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向ふの谷の白い雪のやうな花と余念なく月光をあびて立ってゐる母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないやうにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思ひながらそろそろと小十郎は後退りした。くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。

                   『なめとこ山の熊』宮沢賢治 下線は引用者

                                          

ヒキザクラは東北地方で使われる呼び名(方言)でコブシ(Magnolia kobus D.C.;写真A)のことである。あえてヒキザクラにしたのには理由があると思われる。「ヒキ」は「白く輝く」の意味のようである。白く輝く「サクラ」ということでしょうか。「サクラ」の「サ」は田の神,「クラ」は座のことで,「サクラ」は穀霊の依りつく神の座ということである(栗田,2003)。田植えの頃に花が咲くこととも関係している。

 

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また,ヒキザクラはその直前に出てくる「胃(コキヱ)」と対になっている。胃(コキヱ)星はおひつじ座の41番星とその付近の小さな星で,天の五穀を司る星座のことである(中国名で胃宿)。多分,コブシをヒキザクラという方言で記載したのは,穀物(食糧)と関係する神聖な植物ということが言いたかったのかもしれない。東北の農業を救おうとした賢治らしい表現である。

 

コブシは,モクレン科の落葉高木で春にたくさんの白く輝く花を咲かせる。これが熊たちには雪や霜に見えたのであろう。コブシは薬用植物でもある。花蕾は漢方で使う「辛夷」(局方生薬)である。頭痛,鼻づまり,歯痛に用いる。漢方では中国の医書「外科正宗」に収載される辛夷清肺湯に配合されている。慢性副鼻腔炎や慢性鼻炎などの治療に用いる。

 

キササゲ(Catalpa ovata G.D.;写真B)はノウゼンカズラ科の落葉高木で,果実を乾燥したものは,局方生薬になり「梓実(しじつ)」とも呼ばれ利尿薬とする。また,クロモジ(Lindera umbellata T.)はクスノキ科の落葉低木で,枝葉に芳香性のある油(α-phellandrene, terpineol)を多く含む。枝を折ると強い香気を放つ。芳香料,皮膚病に用いる。

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賢治は,「熊の胆」を題材にした『なめとこ山の熊』を創作したとき,植物も薬用になるものにしたかったものと思われる。まさに賢治の描いた「なめとこ山」は文学の中の薬草園である。

 

引用文献

栗田子朗.2003.折節の花.静岡新聞社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集.筑摩書房.

(本稿は,「薬学図書館」(2016年61巻4号)に投稿した原稿の一部を加筆修正したものです)