宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第5稿)-東北の祭りとの関係-

本稿では〈土神〉と「東北」の祭りとの関係について述べる。物語で〈土神〉の「祠」がある場所の祭りは,〈土神〉が「今日は五月三日,あと六日だ」と言っているので5月9日である。この物語は岩手山東側の「一本木野」が主な舞台なので,この周辺の神社などで5月9日あたりに祭りをしている場所が候補に挙がる。賢治研究家の高橋(2011)が滝沢村内の20社くらいの神社を調べていた。しかし,この日あるいはその近くで祭りをしている神社は見当たらなかったという。第1稿でも述べたが,この物語の舞台は「一本木野」以外にも複数あって,賢治は複数の場所を混在させている。私は,5月9日の祭りの候補として文語詩未定稿の「祭日〔二〕」に出てくる「毘沙門まつり」と「祭日〔一〕」に出てくる「谷権現まつり」という花巻市東和町で過去に行われた2つの祭りを取り上げて,〈土神〉との関係を調べてみたい。

 

8.〈土神〉は東北・岩手の祭りと関係する

1)昆沙門まつり

「祭日〔二〕」が書かれた正確な日付は分からないが,先行作品の口語詩「一三九 夏」には制作日付と思われる「1924.5.23」という数字が付いている。多分,「祭日〔二〕」はこの日付の頃の心象スケッチをもとに創作されたものと思われる。この日付は,また詩集『春と修羅 第二集』の〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の制作日と思われる日付の5日後にあたる。花巻市東和町北成島の三熊野神社境内にある成島毘沙門堂では現在5月上旬の3日間に「毘沙門まつり」が開催されている。賢治の詩に登場する「昆沙門まつり」が5月のものであるとは言い切れないが,詩に登場する桐の花は東北では5月に咲くし,少なくとも昆沙門まつりと関係する詩は5月の日付で書かれている。ちなみに,令和4年の「昆沙門まつり」は5月3日~5日である。〈土神〉の祭りがこの成島毘沙門堂で5月に行われる「昆沙門まつり」と関係がありそうである。

 

さらに,興味深い事実がある。詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕は〈土神〉が登場する物語と密接に関係しているということはすでに述べたが,この詩の制作日と思われる「1924.5.18」は賢治が北海道へ修学旅行で生徒を引率していった日であり,5日後の「一三九 夏」を創作したと思われる「1924.5.23」は花巻に帰って来た日である。修学旅行で,賢治は「アイヌ」の白老集落や「アイヌ」に関する標本が展示されている博物館を見学している。つまり,詩の日付が正しいとすれば,5月18日に〈土神〉と関係のある花巻のアイヌ(蝦夷)塚を訪れ詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕を創作し,その日に北海道へ旅発ち,そこで「アイヌ」の白老集落を見学し,5月23日に花巻に戻りその日のうちに東和町北成島にある成島毘沙門堂を訪れて詩「一三九 夏」を創作したということになる。かなりのハードスケジュールなので,成島毘沙門堂には行かずに過去の記憶に基づいて創作したとしても,賢治の頭の中では〈土神〉とアイヌ(蝦夷)塚の「鬼神(薬叉)」と「毘沙門堂」は密接に繋がっていると思われる。「一三九 夏」を先行作品とする「祭日〔二〕」の詩は以下の通り。

 

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて

峡に瘧(おこり)のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて

草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり

毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼

四方につゝどり鳴きどよむなり

           (宮沢,1986)

  注:賢治は「幡」を「のぼり」ではなく「はた」とルビをつけている

 

「祭日〔二〕」には「毘沙門像」に踏まれる「天邪鬼」が登場するが,この「昆沙門像」は成島毘沙門堂に祀られている「兜跋(とばつ)毘沙門天」(高さ359cm)と言われていた(原,1999)。像造は10世紀前半ごろまで(西川,1999),あるいは10世紀後半以降(米地ら,2013)とされる。樺材の一本造りである。しかし,成島の「昆沙門天」は「天邪鬼」ではなく「地天女」に逆に両手で支えられているので,「祭日〔二〕」に登場する昆沙門像を成島のものであるとすることはできないようにも思える(第1図A)。確かに,現在はコンクリート造りの収納庫に安置されているが,古い堂に窮屈そうに収められていた当時,この地天女の像はわずかに顔を覗かせるだけでほとんど床板の下に隠れていて全部を伺うことができなかった(永井,1980)。賢治も見間違えた可能性はある。一方,新しい説もある。「祭日〔二〕」にある「昆沙門天」は北上川南部地域に点在する複数の堂宇の昆沙門天像から合成したものではないかとするものである(米地ら,2013)。

 

実際に北上の立花毘沙門堂の昆沙門天像(像高102cm,第1図B)や江刺の岩谷堂近くの小名丸毘沙門堂の毘沙門天は邪鬼を踏んでいる。多分,賢治がイメージしている「毘沙門天」は,米地らが推論するように複数の堂宇の昆沙門天像を合成したもので,立花毘沙門堂のように「天邪鬼」を踏んでいるのである。〈土神〉は高さ1間(182cm)の「祠」の中に祀られているので,その「祠」の中には北上の「天邪鬼」を踏む昆沙門天像も入ることができる。

第1図.Aは成島の兜跋昆沙門天像と地天女像,Bは立花の昆沙門天像と天邪鬼像.

(中尊寺とみちのくの古寺.集英社.1980)

 

「天邪鬼」は,仏教では人間の煩悩を表す象徴として,四天王や執金剛神に踏まれている悪鬼である。高橋(2005)によれば悪鬼・邪鬼を踏む毘沙門天像には,これら悪鬼になぞえられる「外敵」や「病気」を退散せしめる意味がこめられているのだという。

 

高橋の言う「外敵」とは,北上においては律令国家にまつろわぬ「蝦夷」であろう。なぜなら,「天邪鬼」は日本神話に登場する「天探女(あまのさぐめ」をルーツにしているからである。「天探女」は「天」と付くので「天津神」のようだが,「神」とか「命(みこと)」の名も付かず,『日本書紀』には「時に国神有り。天探女と号(なづ)く」とあり「国神」とも記述されている。国神とは「国津神」のことで「蝦夷」や「隼人」といった「先住民」が信仰している神のことである。もしかしたら,〈土神〉は「蝦夷」の「鬼神」であり,「祭日〔二〕」に登場する「天邪鬼」の姿として祀られているのかもしれない。

 

「病気」とは,この詩では冒頭にある「瘧(おこり)」のことである。この病気は間欠的に発熱し,悪寒 (おかん) や震えを発する病で,主にマラリアの一種,三日熱をさしたと言われている。特に幼児が罹りやすく「わらわやみ」とも呼ぶ。

 

口語詩「夏」と同じ番号と日付の「一三九 峡流の夏」(1924.5.23)には「この峡流の母たちは/めいめい赤い幡をたづさへ/きみかげさうの空谷や/だゞれたやうに鳥のなく/いくつものゆるい峠を越え/お堂にやってまゐります/毘沙門像のおすねには/だいじな味噌をなんども塗り/黄金の眼だまをきょとんとして/ふみつけられた天の邪鬼は/頭をいくどか叩きつけて(ここまでで中断)」とある。この詩では,「だゞれたやうに鳥のなく」とあるように子供が皮膚病にでも罹っているのだろう。また,踏みつけられた「天邪鬼」が激しく抵抗している様子も描かれている。詩「祭日〔二〕」で,昆沙門像に味噌たてまつるのは「瘧」という病を退散させるためだが,詩「夏」でも北上山地の先住民と思われる「渓流の母たち」が昆沙門像の脛に味噌を塗って,子供の皮膚病退散を願っているようである。昆沙門天像の脛に味噌を塗る風習は,「毘沙門天」が三十八年戦争で征夷大将軍であった坂上田村麻呂の危機に泥の中から現れて足下の泥土に塗れさせながら窮地を救ったという伝説に基づくとされている(西川,1999)。多分,「渓流の母たち」は朝廷に激しく抵抗した「蝦夷」を鎮めた坂上田村麻呂の絶大な力にあやかったのかもしれない。

 

「天邪鬼」は,仏教や民話での「悪鬼」以外に,わざと人に逆らう言動をする者や,「天探女」のように人の心を「探る」のに長じるひねくれ者のことを言う場合がある。〈土神〉もかなりひねくれている。〈土神〉がひねくれていることは第2稿でも述べた。

 

「わしはね,どうも考へて見るとわからんことが沢山ある,なかなかわからんことが多いもんだね。」

「まあ,どんなことでございますの。」

「たとへばだね,草といふものは黒い土から出るのだがなぜかう青いもんだらう。黄や白の花さへ咲くんだ。どうもわからんねえ。」

「それは草の種子が青や白をもってゐるためではないでございませうか。」

「さうだ。まあさう云へばさうだがそれでもやっぱりわからんな。たとへば秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ,それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある,わからんねえ。」

  (中略)

「ずゐぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない,どうもさうらしい

                            (宮沢賢治,1986)

 

〈土神〉は〈樺の木〉に「草が黒い土から出てくるのに青や黄や白の花が咲くのは理解できない」と尋ねると,〈樺の木〉は「それは種がそのような色を持っているから」と答える。〈樺の木〉の答えは,「種がそのような色になる遺伝子を持っているから」という現代人の多くが答えそうな内容であり,現在でも通用する回答である。しかし,〈土神〉は納得しないで「秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ,それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある,わからんねえ。」と質問してしまう。〈土神〉の2回目の質問は,草の種子をキノコの胞子に変えただけで同じである。すなわち,あまのじゃくであり,ひねくれ者である。

 

このように,〈土神〉は反抗的でひねくれ者である「天邪鬼」の可能性が高い。〈土神〉の「祠」の近くの「楊」も第2稿で述べたようにねじれていた(石井,2022)。そして,北上山地の先住民たちが「昆沙門まつり」の日に,この反抗的でひねくれた「天邪鬼」を踏む昆沙門天像に病気退散を願っていたように思える。しかし,まだすっきりしないところがある。毘沙門堂の昆沙門天像の主役は「昆沙門天」であって「天邪鬼」ではない。また,〈土神〉の祭は5月9日なのに成島の昆沙門まつりは5月上旬で必ずしも9日ではない。そこでもう1つの祭である「谷権現のまつり」について考えたい。

 

2)谷権現まつり

文語詩の「祭日〔一〕」は昭和7年(1932)に「女性岩手」という雑誌に掲載されたものである。内容は以下の通り。

 

谷権現の祭りとて,麓に白き幟たち

むらがり続く丘丘に,鼓の音(ね)の数のしどろなる,

頴花(はな)青じろき稲むしろ,水路のへりにたゞずみて,

朝の曇りのこんにやくを,さくさくさくと切りにけり。

                (宮沢賢治,1986)

 

「祭日〔一〕」に登場する谷権現は花巻市東和町谷内の丹内山神社の谷内権現のことで(原,1999),この神社に祀られている多邇知比古神(たにちひこのかみ)を仮(権)の姿(垂迹神)とした本地仏・不動明王のことである。社伝によれば,多邇知比古神は地元住民が祀っていた土着の神で,谷内地方を開拓した祖神である。平安時代に神仏習合思想(本地垂迹説)と共に仏教が入ると土着の神は権現として祀られるようになった。ちなみに,多邇知比古神の「多邇知(たにち)」が「谷地」で「比古神(ひこのかみ)」が「彦神」なら,多邇知比古神という名の神は「谷地(やち)の神」ということになる。また,丹内山神社の現在の例大祭は9月第1土曜日と日曜日である。賢治が詩の中で記した丹内山神社の「権現まつり」が9月に行われていたものかどうかは定かではない。しかし,賢治がメモをした文語詩篇ノートの「1910」の頁に「九月 祭 first em.」と記載されていて,これが1910年に開催された丹内山神社の谷権現の祭りだとする研究者もいる。ちなみに.1910年の谷権現の祭りは9月4日と5日とある(時信,2022)

 

この土着の神でもある権現は,大正13年(1924)の8月に農学校で上演された賢治の劇『種山ヶ原の夜』にも登場する。この劇には,楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申などたくさんの神々が登場してくる。このうちで楢樹霊と樺樹霊が権現(権現さん)について語る場面がある。楢樹霊が「だあれあ,誰(だ)っても折角きてで,勝手次第なごとばかり祈ってぐんだもな。権現さんも踊るどこだないがべじゃ。」と言うと,樺樹霊が「権現さん悦(よろこ)ぶづどほんとに面白いな。口あんぎあんぎど開いて,風だの木っ葉だのぐるぐるど廻してはね歩ぐもな。」と答える。

 

樺樹霊が語る権現が喜んで,風だの木の葉だのをぐるぐる廻す様子は,〈土神〉が喜んで木樵をぐるぐる廻す様子と似ている。寓話『土神ときつね』では「土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱(ほて)らせ・・・木樵は・・・谷地の中に踏み込んで来るやう・・・顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまはしました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまはって歩いてゐましたがいよいよひどく周章(あわ)てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまはり出しました」とある。

 

劇の「権現さん」は丹内山神社などに伝わる神楽(かぐら)の権現舞で使われる獅子頭のことだと思われる。有名な権現舞は早池峰神社のもので,獅子は早池峰神社に祀られている神の化身とされる。早池峰神社の神は,記紀神話には登場しない「瀬織津姫(せおりつひめ)」で〈土神〉と同じ土着の神と思われる。賢治も丹内山神社か早池峰神社などの祭で権現舞を見た可能性はある。すなわち,〈土神〉は丹内山神社の谷権現とも関係がある。

 

また,谷内権現は丹内山神社では不動明王として祀られている。不動明王は大日如来の化身とされるので,〈土神〉は大日如来とも関係する。大日如来は太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏とされる。ちなみに,〈土神〉は「朝日をいっぱいに浴びて」登場し,〈樺の木〉と話をするとき「天道というふものはありがたいもんだ」と太陽を話題にする。

 

このように,〈土神〉は「蝦夷」に関係する昆沙門天像に踏まれる「天邪鬼」と「谷権現」の2つの神を合体させたものと考えられる。

 

これは余談だが,詩「祭日〔二〕」にある詩句「ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて」の「赤き幡」と詩「祭日〔一〕にある詩句「谷権現の祭りとて,麓に白き幟たち」の「白い幡」についても考察してみる。ちなみに,詩句にある「ナビクナビアリナリ」は法華経・陀羅尼品第二十六にある「毘沙門天」の呪文をもじったものである。「赤旗」と「白旗」は,平安時代後期に台頭してきた源氏と平氏という2つの武士集団が戦った源平合戦(治承・寿永の乱)と関係があると思われる。「赤旗」は西を支配する平家の旗印で「白旗」は東を支配する源氏の旗印であった。この戦いで平家は滅びる(1185年)。南部北上山地西縁の「毘沙門像」の多くは,源氏と平氏が戦っていた平安時代後期のものでもある。「東北」では,平氏討伐後に源頼朝は「東北」の奥州藤原氏と戦い,1989年に滅ぼす。1192年に頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられている。

 

多くの毘沙門堂と谷内権現(あるいは丹内神社)は北上山地西縁に東と西に対峙するように並んでいる。北上山地西縁は北上山地と北上平野の境でもある。三十八年戦争が終息したのは弘仁2年(811)であるが,この年陸奥出羽按察使文室綿麻呂らの軍隊が爾薩体(にさつたい)村と閉伊村を討伐している。この討伐の目的は北上平野の安定化のためである(鈴木,2016)。爾薩体村は岩手県北上山地北端の二戸あたりの「蝦夷」の村で,閉伊村は岩手県東部の北上山地から三陸海岸にかけての上閉伊や下閉伊あたりの「蝦夷」の村である。すなわち,この地の蝦夷たちは朝廷に最後まで抵抗した。米地ら(2013)も,花巻,北上,江刺など南部北上山地西縁にある毘沙門堂は北方ではなく東方の閉伊(へい)地方のまだまつろわぬ「蝦夷」に対峙するもので,一種の結界であったと考えられている。延久2年(1070)にも,陸奥守源頼俊が出羽の清原氏(朝廷に服属した蝦夷の長)と共に兵を率い,いまだ朝廷に従わない閉伊七村山徒の「蝦夷」と戦っている(合戦の詳細は不明)。

 

第2図に示すように,北上山地西縁の西側には北から,昆沙門天像を安置するお堂が西方寺毘沙門堂(1),正音寺(3),成島毘沙門堂(4),立花毘沙門堂(5),小名丸毘沙門堂(6),藤里毘沙門堂(7),正法寺(8),最明寺(9)と並んでいる。また,北上山地西縁の東側には丹内を冠する神社として花巻の谷内権現と,そこから東に遠野の丹内神社,釜石の丹内神社とが毘沙門堂列と垂直になるように並んでいる。ただし,遠野と釜石の丹内神社が花巻の丹内山神社のように地祇を祀っていたかどうかは定かではない。

第2図.南部北上山地西縁の毘沙門堂列に対峙する谷内権現

 

北上山地には「蝦夷」と呼ばれ最後まで大和朝廷とそれに続く中央政権に抵抗し続けた先住民の末裔が多く,また北上平野には律令国家と勇猛に戦ったが服属した「蝦夷(俘囚)」や南からの開拓民(移住者)の末裔が多く住んでいたと思われる。そこで,賢治は北上山地西縁の西側に位置する毘沙門堂の祭りに訪れる参拝者には「赤旗」を持たせ,東に位置する谷内権現には「白旗」を立てたと思われる。南部北上山地西縁(結界)の西と東は朝廷側の支配領域と蝦夷側の支配領域を意味していると思われる。谷内権現は「蝦夷」の血をひくとされる奥州藤原氏に篤く庇護されていた。奥州藤原氏の初代当主清衡は平泉に移る前には江刺の「岩谷堂」あたりに拠点を持っていた。多分,谷内権現のある丹内山神社あるいはその東にある丹内神社は早池峰山南の東和,遠野から江刺あたりの住民たちの信仰の対象になっていたのかもしれない(第2図)。岩手県出身の高橋克彦の時代小説『火怨』では阿弖流為と母禮が坂上田村麻呂と戦う前に「巨石」のある谷内権現(丹内山神社)を訪れている。 

 

文語詩の「祭日〔一〕」で「朝の曇りのこんにやくを,さくさくさくと切りにけり」とある。この詩句に出てくる「こんにゃく」は,サトイモ科の多年草植物である「コンニャク」(Amorphophallus konjac K.Koch)の地下茎であるコンニャクイモ(蒟蒻芋)から作られた加工食品のことと思われる。植物の「コンニャク」は,諸説はあるが,我が国に固有のものではなく,例えば飛鳥時代に仏教と共に朝鮮半島を経由して伝来してきたものであるという。元々は薬として伝来され平安時代には貴族などの高級な食べ物とされていたものが,江戸時代に簡便な加工法が確立し,庶民でも食べられるようになったものである(Wikipediaなど)。

 

賢治の文語詩未定稿にも「こんにやくの/す枯れの茎をとらんとて/水こぼこぼと鳴る/ひぐれまぢかの笹はらを/兄弟二人わけ行きにけり」とあるので,当時岩手でも食用として栽培していた可能性がある。ただ,栽培は北上山地側である。コンニャクイモは山地斜面の林内の光環境を好むので山間で栽培されてきた。「コンニャク」の栽培の北限は岩手県下閉伊郡新里村付近(早池峰山東の閉伊街道沿い)と言われている(山崎,2022)。このコンニャク栽培が行われている場所は,賢治が農学校の教師時代に「小鬼」に崖から落とされそうになった場所でもある。 

 

「こんにゃく」(蒟蒻あるいは蒻頭)が我が国の文献に登場するのは10世紀ごろからである。『本草和名』(918年頃成),『和名抄』(922~931年頃成),『医心方』(986年成),『本朝食鑑』(17世紀末刊),『大和本草』(1709年刊)などである(小松,2022)。薬あるいは食品として紹介されている。10世紀は東北に「昆沙門天」が作られていった時代でもある。

 

詩句にある食品としての「こんにやく」は,丹内山神社近隣の農婦が出店で売るために準備しているものとされている(時信,2022)。しかし,9月上旬なのに「頴花青じろき稲むしろ」とか「朝の曇り」とかは不作を予兆しているみたいで不気味である。貧しい農民が祭りとはいえわざわざ買って食べる余裕などあるのだろうか。この詩には何か別の意味が隠されているようにも思える。例えば,「さくさくさくと切りにけり」には征夷大将軍の坂上田村麻呂や源頼朝の軍勢を「東北」の先住民たちが小気味よく「さくさく切り倒す」という意味が含まれているのかもしれない。丹内山神社の谷内権現は元々地元の土地の守護神を祀っていたものである。ちなみに,坂上田村麻呂は「コンニャク」と同様に,大陸から渡来してきたもので,渡来人である阿知使主(あちのおみ)の子孫である。「先住民」が「こんにゃく」に侵略者の田室麻呂を重ねても不思議ではない。東北の「先住民」の中には律令国家との戦いで北上山地の奥へ追いやられた者も少なくないと思われる。

 

また,文語詩「祭日〔一〕」の下書稿(一)の初期形態には「谷権現の祭り日を/そら青々と晴れたれば/煮物をなして販りなんと/青き稲田をせなに負ひ/水路のへりにかゞまりて/ひとひら鈍き灰いろの/こんにやくをさくと切りにけり  モッペをうがち児を負ひて/青きパラソルかざしつゝ/祭りに急ぐ農婦あり/はじめに店をうちのぞき/歪める梨と菓子とを見/次に切らるゝこんにやくを/やゝながしめにうちまもり/その故なにかわからねども/うらむがごときまなこして去る」とある。

 

この詩は,前半が「こんにやく」を売る側で,後半が買う側の内容になっている。買う側は「青きパラソルをかざしつゝ」とあるので北上山地というよりは北上平野側のある程度裕福な農婦と思われる。この農婦は「切らるゝこんにやくを・・・その故なにかわからねども/うらむがごときまなこして去る」とある。売り手側は気持ちよく切っているのに,買い手側は「うらむがごときまなこして」その場を去ってしまう。研究者によっては,「うらむ」を「羨ましい」と解釈しているが,私は「うらむ」は「恨む」と思っている。なぜ「うらむ(恨む)」かの理由は賢治にもわからないとしているが,この農婦は「こんにやく」が切られることで「恨む」までに不快になっている。この場合,買い手が朝廷側に関係する開拓民の末裔で,売り手が朝廷との戦いで敗れ北上山地に追いやられた先住民の末裔とすれば納得できるものがある。後半部分は定稿である「祭日〔一〕」ではカットされている。 

 

〈土神〉は南部北上山地西縁にある祖神を祀る「丹内権現」と毘沙門天に踏まれる「天邪鬼」を合体したものであろう。また,5月9日に行われる〈土神〉の祭は,賢治が5月の「昆沙門まつり」と9月の「谷権現まつり」を合成して創作したものと思われる。

 

参考文献

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小松哲也.2022(調べた日付).中国食文化の研究-コンニャクの歴史-.https://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/01/01komatsu.html

信時哲郎.2022(調べた日付).宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」 評釈 二.https://www.konan-wu.ac.jp/~nichibun/kokubun/60/nobutoki.pdf

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永井信一.1980.16巻中尊寺とみちのくの古寺.集英社.

鈴木拓也(編).2016.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

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高橋直美.2011.宮沢賢治論-「土神ときつね」異読-.ライフデザイン研究.7:223-236.

米地文夫・一ノ倉俊一・神田雅章.2013.南部北上山地における毘沙門堂と谷権現の時空間的位置-宮沢賢治のまなざしが捉えたもの-総合政策 15(1):49-63.

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寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか(第4稿)-蝦夷との関係-

本稿では「アイヌ」と「東北」の「先住民」である「蝦夷」の関係について述べる。

 

6.東北の「アイヌ」は「蝦夷」のこと

木村東吉(1994)によれば,詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の舞台は第3稿で述べたように花巻の西の郊外,山の神・熊堂付近にあるアイヌ塚が想定されていると言っている(石井,2022b)。木村は「アイヌ塚」と言っているが,花巻に「アイヌ」が住んでいたのであろうか。確かに,「東北」の古代の「先住民」はアイヌ語あるいはそれに近い言語を話していたという。「東北」の地名にアイヌ語と思われるものがたくさんある。しかし,「東北」の「先住民」は北海道のアイヌ民族と必ずしも同一とは言えない。多分,木村が「アイヌ塚」と言っているのは「蝦夷塚」のことと思われる。賢治が生きていた時代は,「東北」の「蝦夷(エミシ)」(以下蝦夷とする)が「アイヌ」と同一かどうか論争されていたこともあって,「先住民」の名称が曖昧にされたままだった。

 

山の神・熊堂付近(豊沢川の北)には,賢治が「わたくしは花巻一方里のあひだに/その七箇所を数へ得る」と述べているように8世紀頃の熊堂古墳群というたくさんの古代の墳墓が発見されている。明治時代から発掘が行われていて,現在熊野神社境内を中心に10数箇所確認されている。また熊堂古墳群の周辺には法領,古舘Ⅱ,下坂井Ⅰ,大谷地Ⅲといった遺跡もある。これら遺跡は8世紀後半~9世紀前半(奈良時代,平安時代初期)の集落跡と見られる。この頃に花巻に住んでいたのは日本の歴史書物(『古事記』,『日本書紀』)によれば「蝦夷」である。

 

また,8世紀後半~9世紀前半というのは,東北では北上川を中心に律令国家と「蝦夷」の間で三十八年戦争(774年~811年)が起こった時期でもある。この時,北上川西岸には胆沢城(802年),志波城(803年),徳丹城(812年)が造営された。徳丹城は律令国家が造営した最後の城柵である。

 

三十八年戦争で最も大規模な戦闘が行われたのは延暦(えんりゃく)13年(794)の戦いである。三十八年戦争の第二次征討にあたる年で,桓武天皇から征夷大将軍として節刀を受けた大伴弟麻呂が,10万の大軍(国軍)を引き連れて阿弖流為(アテルイ)や母禮(モレ)の居る「蝦夷」の本拠地・胆沢の地(現在の水沢区・前沢区・胆沢区・衣川区・江刺区)に侵攻した。胆沢の地(多くは扇状地)は,「水陸万頃」と言われ水と土地(陸)が豊かな所である。

 

延暦13年の戦いで,現場での実質の指導者は天皇の信任が特に厚かった坂上田村麻呂であった。この戦いで,朝廷側は勝利した。歴史書では逃亡者があったものの朝廷側の被害は報告されていない。しかし,「蝦夷」側は457人が殺害され,150人が捕虜になり,馬85疋が奪われている。そして点在する村の多く(75村)が焼かれた。指導者のアテルイとモレは逃れたと思われるが,この戦いの7年後に坂上田村麻呂に降伏し処刑されている。 

 

後の研究者達によって延暦13年の戦いで消失した家屋数の記録や発掘された竪穴式住居数等から胆沢地方の人口が推測されている。それによれば,焦土と化した胆沢の地には,7000~8000人の「蝦夷」が住んでいたという。戦士を戦える全ての男子(1500~2000人)とすれば,「蝦夷」側の戦士がすべて胆沢出身の者とすれば,その戦士の1/3を失ったことになる。

 

すなわち,国家を作らず軍隊を持たない「蝦夷(エミシ)」の2000人弱程度の武装勢力とその家族に対して朝廷すなわち「国」は10万人の正規軍を送ったということになる。天下分け目の関ヶ原の戦いでも敗れた西軍の戦士は8万人で東軍は7~10万人と言われている。征討軍10万人という数字は食料・武器などの軍事物質を輸送する兵士は含まれていないとされているので,実際の兵力はこれをさらに上回るものと思われる。

 

この空前絶後の大軍を送った理由として,1つには,『日本書紀』の神武天皇紀に「愛瀰詩烏 毘ダ利 毛々那比苔」(エミシは1人で百人くらいに匹敵する強い兵)という歌が紹介されているように,「蝦夷」は強いと思われていたからである。また,現に「巣伏の戦い(789)」でも明らかなように強かったからである。「蝦夷」は,良馬と「騎馬戦」に有利な刃や柄に反りがある「蕨手刀(わらびてとう)」を持っていた(朝廷軍は直刀)。

 

また,農耕に加え狩猟採取の生活をしていて日々の戦闘能力が磨かれていたからだとも言われている。2つには,桓武天皇にとってこの戦いは勝たなければならなかったからである。794年は都が京都の長岡京から平安京に移された年である。天皇が遷都と同時に戦勝報告がなされるという奇跡を自ら起こし遷都を劇的に演出したのだという。  

 

このように,三十八年戦争で「蝦夷」の住む大地は,ただ征服のみを意図した前代未聞の征討軍の侵略で焦土と化し,蝦夷側の多くの戦士や住民が死んでいる。三十八年戦争で生き残った胆沢の「蝦夷」は胆沢の北の地域に移転した者もあったという(溝口,2020)。

 

すなわち,賢治が豊沢川近くの沼でみた「鬼神」は「アイヌ」ではなく三十八年戦争で敗れた「蝦夷」の怨霊か,あるいはその「蝦夷」が信仰する神だったと思われる。なお,賢治の作品にはこの三十八年戦争を題材にしたものとして童話『烏の北斗七星』がある(石井,2021)。

 

7.「蝦夷」と赤い鉄の渋との関係

〈土神〉は,「水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがる」ような所に住んでいるので鉄との関係が疑われる。高橋(2011)も,〈土神〉を鉄と関係が深いため鉱山系かあるいは鉄と「蝦夷」とが結びついた神であると考えている。しかし,私は〈土神〉が「蝦夷」と関係するということは支持するが鉄との関係はあまり考えていない。「蝦夷」は確かに鉄の手蕨刀をもっていたが,製鉄の技術は持っていない。北上川沿いの盛岡,紫波,稗貫地区では9世紀初頭まで鉄を加工した明らかな痕跡は見つかっていない。ちなみに「東北」の蝦夷社会の成立期は弥生時代の末から古墳時代前期頃であるが,北上川沿いのまつろわぬ民としての「蝦夷」は平安時代には朝廷軍に敗れて山間部へと点在し姿を消していったとされる。

 

「沼地」における「赤い鉄の渋」は沼鉄鉱(褐鉄鉱ともいう)のことである。童話『イギリス海岸』では「誰かが,岩の中に埋もれた小さな植物の根のまはりに,水酸化鉄の茶いろな環わが,何重もめぐってゐるのを見附けました。それははじめからあちこち沢山あったのです」とある。これが,地中で形成されると筒状の水酸化鉄である「渇鉄鉱(FeO(OH)」の塊になる。高温で焼くと赤色になる。「高師小僧」と呼ばれたりする(褐鉄鉱の一種)。沼鉄鉱を製鉄の原料としてはあまり使わない。沼鉄鉱は縄文時代から赤色顔料として使われたようだ。赤く焼成された土器が遺跡などから出土することがあるが,ほとんどの土器は焼成する以前に生乾きの段階で,粉末にした褐鉄鉱を表面に塗り,その後に焼成することで赤色に発色させたものと考えられている(上条,2004)。

 

花巻の豊沢川周辺にある熊堂古墳群やその周辺の法領,古舘Ⅱ,下坂井Ⅰ,大谷地Ⅲといった三十八年戦争が起こった頃の遺跡からは沢山の土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器が出土している。ただ,その中で「東北」にしか出土しない土器がある(一部東京でも出土することもある)。「赤彩球胴甕(せきさいきゅうどうがめ)」という赤い土師器である。その特徴は,「大きく外反する口縁部と円く張った胴部の形態を呈する。胴部はヘラミガキを丁寧に施し,口縁端部も面取りをして仕上げるものが多い。赤彩は,基本的に焼成により赤く発色させている。鉱物系統(酸化鉄)の顔料と考えられる」というものである。赤く塗ることに実用的な効用はないので,何かの祭祀に用いられた土器と考えられている(杉本 ,2021)。

 

この「赤彩球胴甕」の最も出土頻度の高い地域は北上川の支流である和賀川流域北側の遺跡からで,その次に多いのが同じく北上川の支流である豊沢川流域南側や雫石川流域である。ただ,延暦13年の戦いで戦場になった胆沢の地からの出土は少ないという。北上市立博物館の館長である杉本(2021)は,これら「赤彩球胴甕」が三十八年戦争の起こった頃の遺跡から出土することに注目し,三十八年戦争で主体的に戦った「蝦夷」は和賀川とそれをバックアップしていた豊沢川流域,そして雫石川流域の一部勢力であったと推測している。杉本(2021)は「赤彩球胴甕」を「蝦夷の赤彩土器」と呼んでいる。熊堂古墳群からもこの「赤彩球胴甕」が出土している(高橋,2021)。熊堂古墳群(熊堂付近のアイヌ塚)は江戸時代から存在は知られていて,地元の住民からは「アイヌ塚」と呼ばれていた。出土品の一部は近くにある熊野神社・社務所の展示室に飾られている。賢治もこの社務所を訪れて赤い土器を見たかもしれない。

 

NHKの『おばんです いわて』の「鬼伝説を巡るたび」(2022.2.16)という番組で杉本館長は,

「蝦夷というのは,ひとつの統一された国を作っていなかったんですよ。川ごとにそれぞれ部族がいたみたいですね。大きな中央政府が攻めてくるという段階になってきましたら,ある程度まとまって一緒に戦おうという意識がどうもできたみたいなんですよ。そのときに,ひとつのお祭りの道具をひとつのまとまりの象徴として,この赤い土器をどうも作ったみたいなんですね。」と語っている。

 

〈土神〉は,「水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがる」ような所に住んでいて鉄との関連を伺わせているが,「赤い鉄の渋」は沼鉄鉱のことで「土器」を彩色するための赤い顔料であり,むしろ「土器」と関係している。

 

このように,〈土神〉は「アイヌ」ではなく「蝦夷」が信仰していた「地主神」(あるいは産土の神)と思われる。ただ,〈土神〉は単に土地やそこに棲む生き物を守っているだけではない。物語では語られないが,〈土神〉は「一本木の野原」の伝統文化や祭礼などの慣習も守っている。〈土神〉は南から来た〈狐〉が持ってきた西洋文化に対して激しく憎悪する神でもある。(続く)

 

参考文献

藤田富雄.2022.日本大百科全書(ニッポニカ)「神」の解説.https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E-46603

石井竹夫.2021.植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(1)-物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/03/151203

石井竹夫.2022b.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第3稿)-鬼神との関係-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/18/140600

上條朝宏.2004.縄文時代から古墳時代の赤色顔料について.色材 77(2)7:86-90.

木村東吉.1994.魂の修学旅行-『春と修羅 第二集』修学旅行詩群考-.近代文学試論.32:31-42.

溝口太郎.2020.蝦夷集団結束の象徴? 赤い甕に迫る特別展 北上博物館.朝日新聞デジタル.https://www.asahi.com/articles/ASNCL6RL2NCBULUC023.html

杉本 良.2021.『蝦夷の赤い甕-最強の蝦夷は和賀川にいた-』誌上フォーラムについて.北上市立博物館研究報告 22:53-58.

高橋直美.2011.宮沢賢治論-「土神ときつね」異読-.ライフデザイン研究.7:223-236.

高橋静歩.2021.古代花巻地域の集落遺跡と赤彩土師器.北上市立博物館研究報告 22:77-84.

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第3稿)-鬼神との関係-

第1稿と第2稿で,〈土神〉は神道で言われている土地を守護する「地主神」(あるいは「産土の神」)であり,また人間のような姿・形を有しているので「アイヌ」の神や祟り神や天邪鬼の要素を併せ持つ「鬼神」である可能性について述べた。本稿では引き続き〈土神〉の正体を明らかにするため賢治が実際に見たという「アイヌ」の「鬼神」について考察する。

 

3.〈土神〉はタチの悪い神で,北上平野の沼や北上山地の森に出没する「鬼神」である

賢治作品で〈土神〉は,寓話『土神ときつね』以外には登場しない。しかし,賢治は〈土神〉や「鬼神」について,実際に見たということを親友である森莊己一や佐藤隆房に話している。

 

森莊己一(1983)は,賢治が農学校の教師をしていた大正14(1925)年の秋頃,宿直していた賢治から校長室の窓越しに見える森を指さして「あの森にいる神様なんか,あまりよい神様ではなく,相当下等なんですよ」とか,「鬼神(きじん)の中にも,非常にたちのよくない土神がありましてねえ。よく村人の人などに(悪戯とか復讐とかひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね」と言ったのを聞いている(下線は引用者,以下同じ)。

 

「鬼神」とは,『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「変幻自在な力を有する神,または神々のこと。善神と悪神とがあるが,特に害を与える神々を言う。天,龍,夜叉,羅刹,修羅など」と説明されている。

 

賢治は,また詩集『春と修羅』刊行の頃(1924)に,〈土神〉かどうかは分からないが,タチの悪い神を幻視したという話もしている。森(1983)の証言によれば,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。また,「何回自動車事故が起き,何人犠牲になったか知れなかった」ともある。賢治が「子鬼」の幻影を見た場所は閉伊(へい)街道沿いにある川井か門馬という部落と言っているので早池峰山北側か東側の山道と思われる。

 

また,賢治は,早池峰山の南方にある登山口(河原坊)にある転石の上で眠ってしまったとき,南無阿弥陀仏という念仏を唱える幻聴とともに,若い坊さんの姿をした幻影(鬼神)も見ている(森,1983)。『春と修羅 第二集』の詩「河原坊(山脚の黎明)(1925.8.11」にその時に様子が「・・・あゝ見える/二人のはだしの逞ましい若い坊さんだ/黒の衣の袖を扛(あ)げ/黄金で唐草模様をつけた/神輿(みこし)を一本の棒にぶらさげて/川下の方へかるがるかついで行く/誰かを送った帰りだな・・・曾ってはこゝに棲んでゐた坊さんは/真言か天台かわからない・・・」と記載されている。この地は山岳宗教が盛んだった昔,宿坊があったところという(伊藤,1998)。早池峰山は花巻から北東の北上山地内に位置している。

 

この逸話と似たものをやはり賢治の親友である医師の佐藤隆房(2000)が聞いている。賢治は,「もう何べんか早池峰山に登りました。・・・言い伝えでは何でも何百年か以前に天台宗の大きな寺のあった跡で,修行僧も大勢集まっていて,随分盛んなものだったということです。・・・先年登山の折でした。僕はそこの大きな石に腰をかけて休んでいたのですが,ふと山の方から手に錫杖(しゃくじょう)を突き鳴らし,眉毛の長く白い見るからにすがすがしい高僧が下りて来ました。その早池峯に登ったのは確か三年ばかり前なのですが,そのお坊さんに会ったのは,何でも七百年ばかり前のようでしたよ。」と言っていたという。

 

なぜ700年前なのかは分からないが,700年前は西暦1200年頃で,かつては「蝦夷(エミシ)」の血をひくとされていた奥州藤原氏が西暦1189年に滅亡したころである。奥州藤原氏は「東北」に平泉文化を開花させた豪族であるが,中尊寺(天台宗東北大本山)を造営した初代当主藤原清衡は,花巻市東方にある丹内山神社も篤く信仰をよせたという。社伝によると,耕地24町歩と108カ所の社堂と108本の本地仏を寄進している(現在は一堂,一仏とも残っていない)。佐藤の賢治から聞いた話の中の「天台宗の大きな寺のあった跡」は,天台系の寺を庇護した奥州藤原氏の滅亡と関係があるのかもしれない。

 

賢治は北上平野内でも「鬼神」を見ている。前述した閉伊街道でみた「小鬼」と似たものが,詩集『春と修羅 第二集』の「鉄道線路と国道が」(1924.5.16)という詩に登場する。この詩には「赭髪の小さなgoblinが/そこに座ってやすんでゐます」とある。ゴブリン( goblin)は,ヨーロッパの民間伝承に登場する醜い姿をして悪戯好きの妖精である。賢治研究家の杉浦(2003)は,この場所を花巻近くの二枚橋から石鳥谷のあたりと推定している。また詩集『春と修羅』の「原体剣舞連」では「・・・むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)/まつくらくらの二里の洞(ほら)/わたるは夢と黒夜神(こくやじん)/首は刻まれ漬けられ・・・さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ/四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき」とあるように,賢治が実際に見たかどうかは定かではないが,原体村(奥州市江刺)の踊り子たちが剣舞を演じると「鬼神」が現れてくるのを感じ取っている。後述するが北上川の支流である豊沢川沿いの沼では「アイヌ」の「鬼神」を幻影として見ている。

 

このように賢治は,様々な「鬼神」の幻影を見ているが「タチの悪い鬼神すなわち土神」がいるのは豊沢川沿いの沼を除けば北上山地内だったように思える。

 

4.「鬼神」はアイヌの神と関係する。                                             

前述した北上平野内の沼に現れる「アイヌ」の「鬼神」が,寓話『土神ときつね』と同時期に書かれたと思われる詩集『春と修羅 第二集』の〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕(1924.5.18)に登場する。

 

日はトパーズのかけらをそゝぎ

雲は酸敗してつめたくこごえ

ひばりの群はそらいちめんに浮沈する

  (おまへはなぜ立ってゐるか

   立ってゐてはいけない

   沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる

一本の緑天蚕絨の杉の古木が

南の風にこごった枝をゆすぶれば

ほのかに白い昼の蛾は

そのたよリない気岸の線を

さびしくぐらぐら漂流する

  (水は水銀で

   風はかんばしいかほりを持ってくると

   さういふ型の考へ方も

   やっぱり鬼神の範疇である

アイヌはいつか向ふへうつり

蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる

          (宮沢,1986)下線は引用者(以下同じ)

 

この詩では,「鬼神」が,鏡の面を持つ沼に現れる先住民「アイヌ」の幻影と一緒に登場する。ちなみに,この沼は花巻の熊堂古墳群(アイヌ塚)近くにある沼とされている。「沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる」の「アイヌ」を下書稿(一)では,「鬼神」,下書稿(二)では「薬叉(やくしゃ)」にしている。すなわち,沼の面から覗いているのは「アイヌ」の幻影であるが,賢治にとっては「鬼神」あるいは「薬叉」でもある。賢治は沼から覗いている幻影を「アイヌ」にするか「鬼神」にするか「薬叉」にするか悩んでいる様子が伺われる。また,下書稿(一)には「そんな樹神の集まりを考えるなら」,「わたくしは花巻一方里のあひだに/その七箇所を数へ得る」という言葉もある。また,一旦書かれて削除された詩句には「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鍬や石斧もとれる」ともある。詩に登場する「鬼神」は遠い昔に花巻に住んでいた「アイヌ」と関係すると思われる。それも沼から杉の古木の隣に並んで立ってはいけないと威嚇しているので,閉伊街道に現れた小鬼ほどではないがタチの悪い神でもある。

 

この詩に登場する「アイヌ(鬼神,薬叉)」が〈土神〉のモデルであろうか。この詩には「杉」やこの「杉」に並んで立つ作者としての「賢治」がいる。すなわち, 「アイヌ(鬼神,薬叉)」と「杉」と「賢治」が登場する。「アイヌ(鬼神,薬叉)」を〈土神〉,「杉」を〈樺の木〉,「賢治」を〈狐〉とすれば,沼から覗いている「アイヌ(鬼神,薬叉)」が「杉」に並んで立つ「賢治」を「おまへはなぜ立ってゐるか /立ってゐてはいけない」と威嚇する構図は,寓話『土神ときつね』における〈土神〉が〈樺の木〉と〈狐〉の仲を嫉妬する構図と類似している。すなわち,賢治が実際に花巻の熊堂古墳群(アイヌ塚)近くの沼で見た「アイヌ(鬼神,薬叉)」の幻影が〈土神〉である可能性が高い。

 

「アイヌ」と〈土神〉を結びつける別の解釈もある。秋枝(2017)によれば,寓話『土神ときつね』は「アイヌ民族」の「神謡(カムイユカラ)」を纏めた(『アイヌ神謡集』1923.8)の神謡「谷地の魔神が自ら歌った謡“ハリツ クンナ”」(Nitatorunpe yaieyukar, “ Harit kunna)をヒントに作られたという。そして,「土神」はこの神謡集に出てくる「谷地の魔神」だという。「nitatorunpe」は「nitat(谷地)」と「or(中)」と「un(在る)」と「pe(者)」に分解できる。この神謡は「ハリツ クンナ/ある日に好いお天気なので/私は谷地に眼と口とだけ/出して見ていたところが/ずっと浜の方から人の話し声がきこえて来た」で始まる。この「谷地の魔神」は「谷地に眼と口とだけ」出していて,谷地の悪口をいう村人がくると泥の中から飛び出して村人を飲み込んでしまう。「谷地に眼と口とだけ」出している魔神という表現は,確かに詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕に登場する沼の面から覗いている「アイヌ(鬼神,薬叉)」とも類似している。

 

更科(1967)によれば「アイヌ」の神にも「魔神」と「善神」がいるという。「アイヌ」の神を示す「カムイ」は元々魔性のある存在であったという。「カムイコタン」という地名は各地にあるが,そこは天候が急変したり,川の中に岩が多く航行の難所であったり,また「カムイミサキ」の「カムイイワ」は海の守護神ではなく,急に風向きを変えて船人を困らせる場所であった。また,同じ神でも「魔神」と呼んだり,「善神」と呼んだりすることもあるという。知床半島の硫黄岳から落下する流れを「カムイワッカ(神の飲み水)」と呼ぶ。この水は硫黄が含まれているため毒であり,「カムイワッカ」は魔神であった。しかし,同じ「カムイワッカ」でも非常に綺麗に澄んだ水のところもある。すなわち,『アイヌ神謡集』の「谷地の魔神」もタチの悪い神の1つと思われる。

 

しかし,賢治の見た〈土神〉はこの「谷地の魔神」を参考にしたとは思うが「谷地の魔神」そのものではないような気がする。神謡の中で題名にある「nitatorunpe」は「nitatorun nitne kamui」だと説明している。「nitatorun」は「nitat(谷地)」と「or(中)」と「un(在る)」に分解できるので「谷地の中にある」という意味で,「nitne kamui」は「魔神」である。すなわち,「nitatorunpe」は「谷地」そのものが「魔神」というよりは,「谷地の中にいる魔神」なのだと思われる。谷地にある「沼」,「岩」,「土」あるいは「木」の「魔神」なのかもしれない。ちなみに「nitatorunpe」の末尾の「pe」は「者」である。「谷地の魔神」だけでは〈土神〉の正体を明かしたことにはならない。

 

賢治は〈土神〉を「森」(北上山地)の中にいる「鬼神」と言っている。しかし『アイヌ神謡集』の神謡「谷地の魔神が自ら歌った謡“ハリツ クンナ”」に植物はまったく登場しない。一方,寓話『土神ときつね』の舞台である谷地には〈樺の木〉は生えているし,その北東の〈土神〉の住まいには背は低いが「ねじれた楊」が所々にある。前述したように,寓話『土神ときつね』の舞台が「一本木野」だとすれば,この地はかつて松の木の多い原野だった(原,1999)。それゆえ,〈土神〉が祀られている所も元々「森」であったのが木樵によって多くの木が伐採されてしまったのかもしれない。そして,〈土神〉が怒り,そこに生えてくる木もねじれてしまったのかもしれない。「ねじれる」とは本ブログの第2稿でも論じたが「ひねくれる」という意味でもある(石井,2022)。

 

賢治が名付けた〈土神〉は,「アイヌ」と関係するタチの悪い神のようにも思えるが,その本当の正体を知るには詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の下書稿(一)と(二)にあるように「鬼神」や「薬叉」,そして「樹神」について知る必要がある。

 

5.〈土神〉は「薬叉」や「樹神」とも関係がある

「夜叉」は,古代インド神話に登場する「鬼神」で,「大地の力強さ」と「生産力」を具現化しているものとされている(高橋,1989)。「夜叉」には男性と女性があり,男性は「ヤクシャ(男性夜叉)」,女性は「ヤクシー(夜叉女)」と呼ばれる。それゆえ,「薬叉」は男性の「夜叉」である。財宝の神クベーラの眷属と言われ,仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)の1つに位置づけられた。実際に釈迦の遺骨とされるものが奉納されている仏塔を守護している。「大地の力強さ」と「生産力」を示すため人間の姿では,胸や腰部をことさらに「みにくく」強調されている。性格的には人に恩恵を与える寛大さと殺害する凶暴さとをあわせもつ。例えば,粘毛夜叉は人間を見つけると粘毛で捕まえて殺し喰うし,森の湖に棲む「夜叉」の仲間の羅刹は〈土神〉のように水中に引きずり込む(山崎,2022)。「夜叉」は,また「森」に棲む「霊(神)」であり,「樹神」と同一視されることもあるので,聖樹と共に絵図化されることも多い。 

 

仏教研究科の高橋(1996)の論文にそのいくつかが紹介されている。有名なのは,インドのサンチー仏塔のトラーナの彫刻である。トラーナとは我が国では鳥居にあたる。その鳥居に彫られた像は,両側の巨大な醜い姿をした「夜叉」の口から蔓が伸び,その蔓から花が咲き,たわわな実がなっているものである。また,インドの各地の博物館には,いかつい男性像の夜叉像があるが,これらの像の両足の間には木の芽が萌え出ている。「ヤクシー」の女性像としては,樹を抱くヤクシー像とか口から蓮の蔓が伸びていたりする彫刻である。共に,大地の生命力の表現であることが分かる。

 

この「夜叉」に対するインドの人々の思いは,大地からそそり立つ「樹木」の中に,大地や「樹木」の生命力を感じ,それにあやかろうとする信仰心を目覚めさせたと言われている。すなわち,聖樹信仰あるいは樹神信仰である。アイヌ民族のシランパカムイに似ている。インドにおける人々の生活は,勢いのある樹の陰,特に大樹の下が人々の生活の場となっている。大樹の根元には小さな「祠」が作られ,ヒンズー教特有の赤い粉が吹き付けられている(多分ベンガラ)。この赤い色に変わった所は,たとえ「祠」があろうとなかろうと,神が祀られている所であるという。お供えものがしてある場所もあるという。

 

このように,〈土神〉は「アイヌ」の「鬼神」だけでなく,インドの「鬼神」である「薬叉」(森に棲む霊)の性格をも備えている。次稿では「東北」の「先住民」と「アイヌ」の関係について述べる。

 

参考文献

石井竹夫.2022.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第2稿)-土神の棲む祠近くの植物-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/17/092543

秋枝美保.2017. 宮沢賢治を読む-童話と詩と書簡とメモと-.朝文社.

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

伊藤光弥.1998.宮沢賢治と植物-植物学で読む賢治の詩と童話.砂書房.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集.筑摩書房.

森 莊己一.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

更科源蔵.1967.アイヌの神話.淡文社.

杉浦 静.2003.宮沢賢治 心象スケッチ「九九〔鉄道線路と国道が〕」考.大妻国文 34:123-142.

高橋堯昭.1989.夜叉信仰の背景.印度学仏教学研究 37(2):585-591.

高橋堯昭.1996.樹神信仰の系譜-釈迦の風土・精神的基盤-.身延論叢 1:17-39.

山崎元一.2022(調べた日付).古代インドの森林と林住族.file:///C:/Users/TISHII/Downloads/gakuho01_64-3,4-05%20(7).pdf

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第2稿)-土神の棲む祠の近くにある植物との関係-

賢治作品で難解な用語あるいは正体が不明なものが在る場合,近くに配置されている植物がなぜ登場してくるのか調べることによって明らかになる場合が少なくない(石井,2020)。〈土神〉の棲む「祠」近くには沢山の植物がある。苔,からくさ,短い蘆,あざみ,背の低いねぢれた楊である。本稿はこれら植物から〈土神〉がどんな神であるのかを探る。〈土神〉の棲む「祠」は以下のような場所にある。

 

土神の棲(す)んでゐる所は小さな競馬場ぐらゐある,冷たい湿地で苔(こけ)やからくさやみじかい蘆(あし)などが生えてゐましたが又所々にはあざみやせいの低いひどくねぢれた楊(やなぎ)などもありました

 水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧(わ)きあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした。

 そのまん中の小さな島のやうになった所に丸太で拵(こしら)へた高さ一間ばかりの土神の祠(ほこら)があったのです。

                   (宮沢,1986)下線は引用者 以下同じ

 

1)苔

「苔」は植物学的に蘚苔類と地衣類の総称である。スギゴケやゼニゴケなどがある。賢治は寓話『土神ときつね』を執筆していた頃,この「苔」をどのようにイメージしていたのであろうか。詩「一本木野」と同じ日付の詩「鎔岩流」(1923.10.28)に,それをイメージしたと思えものがある。この詩には「喪神のしろいかがみが/薬師火口のいただきにかかり・・・けれどもここは空気も深い淵になつてゐて/ごく強力な鬼神たちの棲みかだ/一ぴきの鳥さへも見えない・・・どれくらゐの風化(ふうくわ)が行はれ/どんな植物が生えたかを/見やうとして私(わたし)の来たのに対し/それは恐ろしい二種の苔で答へた/その白つぽい厚いすぎごけの/表面がかさかさに乾いてゐるので/わたくしはまた麺麭(めんぽう)ともかんがへ/ちやうどひるの食事をもたないとこから/ひじやうな饗応(きやうおう)ともかんずるのだが・・・とにかくわたくしは荷物をおろし/灰いろの苔に靴やからだを埋め/ 一つの赤い苹果(りんご)をたべる」(宮沢,1986)とある。この詩は岩手山の最高峰の山(薬師外輪山)の溶岩流を題材にしている。賢治は,岩手山火口は鬼神たちの棲みかであり,「苔」は麺麭すなわちパンなどの食べものや靴で「踏まれる」ものというイメージで書いていると思われる。

 

岩手山には坂上田村麻呂に討伐された「蝦夷(エミシ)」の大武丸(大猛丸)に関する伝説が残されている。大武丸は「姥屋敷南方の「長者館」を根拠として,紫波・稗貫・下閉伊地方に十一人の親分を配置し,その親分にそれぞれ子分を付属させ,付近の良民から略奪をこととしていた。身長は大きく,顔は醜く,機敏で七,八人力を持ち,山木(削らぬ木)の強い弓を引き,戦術頗る巧みで,大酒を好み,常に婦女子を側に侍らせていた」と『滝沢村誌』の「第二編・第二章 滝沢村と田村麻呂」(福田,2011)に記載されている。詩「鎔岩流」の「鬼神たち」とは坂上田村麻呂に討伐された「蝦夷」のことを指しているのであろう。「蝦夷」の族長である大武丸の容貌と性格は〈土神〉に似ているところがある。

 

寓話『土神ときつね』でも〈土神〉が,素足だと思うが「踏む」という表現が何カ所かで出てくる。例えば,〈土神〉が「草をどしどし踏み」とか,「いきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました」とかである。特に,後者では「狐の赤革の靴のキラッと草に光る」のも見たあとに〈狐〉を殺めて踏みつけている。〈土神〉は「靴(あるいは沓)」で踏むかと踏まれるとかということに拘りを持っているように思える。行間からしか読み取れないが〈土神〉には過去に「一本木の野原」(イーハトヴ)の台地を「沓」(革製)を履いた土足で踏まれた苦い経験があったのかもしれない。例えば,岩手県南部の胆沢地区の田畑が三十八年戦争(774年~811年)で律令国家の「沓」を履いた軍隊に侵略され踏みつけられている。延暦8年(789)に朝廷軍は巣伏村の戦いで蝦夷の武装勢力に大敗するが,征討将軍紀古佐美は軍を引き上げるにあたって「蝦夷は水田・陸田を耕作できなかったので,放置しても滅びるであろうことから軍を解散する」という申し出を天皇に送っている(鈴木,2016)。これは,農地が戦場になったことを意味する。賢治の三十八年戦争を題材にした童話『烏の北斗七星』でも朝廷軍を譬喩した烏の義勇艦隊は田圃に陣を置いている(石井,2021)。

 

神が靴で踏まれるというのは考えにくいことかもしれないが,東北の北上山地西縁の毘沙門堂に安置されている昆沙門天像にも当てはめられる。この昆沙門天像は坂上田室麻呂の化身である「毘沙門天」が「蝦夷」の鬼神である「天邪鬼」を踏みつけている。軍神でもある毘沙門天像は鎧と兜に「沓」を履いている。〈土神〉と「毘沙門天」に踏まれる「天邪鬼」との関係に関しては第5稿の「東北の祭りとの関係」で詳細に述べる。

 

2)からくさ

「からくさ」は『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「ウマゴヤシ(馬肥)」あるいは「シロツメクサ(白詰草)」のことだという。「シロツメクサ」(Trifolium repens L.)はマメ科の越年草で,茎は地をはい,30cmくらいの高さまでなる。牧草や肥料にする。ただ,湿地ではあまり見かけない。「からくさ」は,この物語以外では歌稿「四四」に「靴にふまれひらたくなりしからくさの/茎のしろきに 落つる夕(せき)陽」として登場する。この歌稿は物語にある「狐の赤革の靴のキラッと草に光る」という文言に似ている。この「からくさ」も賢治にとっては靴に踏まれるイメージである。湿地に生えるか生えないかは考慮していない。

 

3)みじかい蘆

「蘆」はイネ科ヨシ属の多年草の「アシ」(Phragmites australis (Cav.) Trin. ex Steud.)である。河川及び湖沼の水際に背が1.5~3mくらいの高い群落を形成する。「アシ」は「悪し」に通じるので「ヨシ」と呼ぶこともあるが,『古事記』では葦原中国(あしはらのなかつくに)というように,もともとは「アシ」と呼ばれていた。また,「葦原」は我が国の古称でもある。〈土神〉は,律令国家の皇族や有力な氏族が信仰していた天津神(あまつかみ)ではなく,先住民が信仰していた国津神(くにつかみ)すなわち土着の神であることを示唆している。また,〈土神〉は土着の神であっても,「悪しき神」なのかもしれない。

 

しかし,「蘆」になぜ「みじかい」と形容したのだろうか。茎の高さが低いなら「背が低い」と記載するはずである。「みじかい」としたには何か理由がある。百人一首の19番に「みじかい蘆」で出てくる。平安時代の女流歌人である伊勢の歌である

 

難波潟 短き蘆の ふしの間も 

逢はでこの世を過ぐしてよとや

 

現代語に訳せば,ほんの短い時間さえも,逢ってくれないあなた。このまま逢えずに過ごせと言うのでしょうか。という意味だと思われる。逢いに来てくれず結ばれない男への思慕を,「蘆」の茎の節と節の間の短さに譬えたものと思われる。この歌と〈土神〉は関係があるのだろうか。男と女の違いはあるが,物語では男である〈土神〉は神であるにも関わらず「一本木の野原」にある女の〈樺の木〉に思いを寄せているように描かれている。 

 

土神はたまらなさうに両手で髪を掻(かき)むしりながらひとりで考へました。おれのこんなに面白くないといふのは第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒ってはゐないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さへどうでもよければ狐などはなほさらどうでもいゝのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないといふのは情ない。それでも気にかゝるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまへ。ところがどうしても忘れられない。今朝は青ざめて顫(ふる)へたぞ。あの立派だったこと,どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあはれな人間などをいぢめたのだ。けれども仕方ない。誰(たれ)だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。

                            (宮沢,1986)

 

しかし,〈土神〉が〈樺の木〉に思いを寄せているように見えるのは「第一は狐のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。」とあるように〈狐〉の存在があるからである。〈土神〉は〈狐〉と〈樺の木〉の関係が気になって仕方がないのである。だから〈樺の木〉に逢いにも出かけるのだ。それから,もう1つ〈土神〉が〈樺の木〉に逢いに行く理由がある。〈土神〉は人間から祭られなくなってきたが,〈樺の木〉にはまだ崇敬されていると思っている。だから,それを確認するために逢いに行くのである。

 

土神は何とも云へずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠(ほこら)を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向ってゐたのです。本当に土神は樺の木のことを考へるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなってゐたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考へたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもへて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神ぢゃないか,一本の樺の木がおれに何のあたひがあると毎日毎日土神は繰り返して自分で自分に教へました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊にちょっとでもあの狐のことを思ひ出したらまるでからだが灼やけるくらゐ辛つらかったのです。

 

 土神はいろいろ深く考へ込みながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちたうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行かうとしてゐるのだといふことに気が付きました。すると俄かに心持がをどるやうになりました。ずゐぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない,どうもさうらしい,さうだとすれば大へんに気の毒だといふやうな考が強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊らせながら大股にあるいて行きました。

                             (宮沢,1986)

 

この〈土神〉の〈樺の木〉を思う気持ちや逢いたいという気持ちは,百人一首の19番・伊勢の歌に通じるものがある。しかし,〈土神〉の愛情は伊勢の歌のように1人だけに注がれているというものではない。特定の1人に対してであるなら,暫く逢わない恋人に対して「大へんに気の毒だ」などとは言わない。また,〈樺の木〉を訪れるのは〈狐〉や〈土神〉以外に〈若い鷹〉もいる。〈土神〉は〈狐〉に敵意を持ち排除しようとするが〈若い鷹〉には全く興味を示さない。さらに,土の中のミミズにも愛情をそそぐ。

 

「わしはな,今日は大へんに気ぶんがいゝんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝からにはかに心持ちが軽くなった。」

 樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのやうに思はれて返事しかねました。

「わしはいまなら誰(たれ)のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかはってやっていゝのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云ひました。その眼も黒く立派でした。

 樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわづか吐息をつくばかりでした。

                           (宮沢,1986)

 

〈土神〉が「一本木の野原」の〈樺の木〉や「ミミズ」に愛情を注ぐのはその土地の守護神であり,その土地に生まれたもの全てを守る神だからである。〈狐〉が南から〈樺の木〉の所に来なければ,「一本木の野原」に生まれた誰に対しても等しく愛情を注ぐと思われる。〈土神〉は,「誰のためにでも命をやる」神であるが,「一本木の野原」の多くの生き物たちから崇敬されているということに関しては自信が持てなくなった神でもある。だから,話を聞いてくれる〈樺の木〉に毎日のように逢いに行くのである。〈土神〉は崇敬されなければ神である資格はないと思っている。また,〈土神〉は「一本木の野原」に生まれたものを「大切」にし,別の言葉で言い換えればその土地に「拘束」し,よそ者を排除する振る舞いが,〈樺の木〉から「大へん重苦しく」も感じられていることに気づいていない神でもある。

 

〈土神〉は太陽が昇ると「一本木の野原」の〈樺の木〉に逢いに行くが,〈土神〉と太陽との関係は第5稿で述べる。

 

4)「あざみ」と「かもがや」

「あざみ」はキク科の「アザミ(薊)」のことで「東北」では「ナンブアザミ」(Cirsium tonense Nakai var. tonense)が一般的である「ナンブアザミ」は茎の高さが1~2mにもなる。劇「種山ヶ原の夜」では「種山ヶ原 せ髙の芒あざみ」や童話『風の又三郎』では「すてきに背の高い薊の中で,二つにも三つにも分かれてしまって」とある。ただ,「ナンブアザミ」は山地の林縁や草原に分布するので湿地では見られないと思われるし,背が高いので他の背の低い「苔」,「蘆」,「楊」,「からくさ」と釣り合わない。賢治は「アザミ」を単に景観として登場させてはいない。だから,「アザミ」の種を特定する必要はないのかもしれない。「アザミ」の名前は,古語の「あざむ」に由来するとされている。すなわち,「アザミ」は「欺(あざむ)く」や「興醒めする」などの意味がある言葉で,美しい花だと思って手を出したら棘に刺され,「欺かれた」のが語源だという。多分,「欺く」や「欺かれる」の関係は〈狐〉と〈土神〉あるいは〈樺の木〉の間にあると思われる。

 

〈土神〉と〈樺の木〉は,〈狐〉から家(巣穴)に顕微鏡やロンドンタイムスや大理石のシイザアが転がっていて,日本語,英語,独乙語の美学の本が沢山あるという話を聞いている。そして,西洋文化に憧れている〈樺の木〉は〈狐〉に心酔してしまう。〈狐〉の話は〈樺の木〉に好かれようとして吐いた嘘なのだが,結果的には〈狐〉が〈土神〉と〈樺の木〉を欺いたことになる。そして,〈土神〉は〈狐〉が西洋を取り入れた文化的生活をしていて,その文化を携えて〈樺の木〉のいる「一本木の野原」に移り住んでくるのではないかと考えるようになったようである。これが,〈土神〉の勘違いであったということは後に明らかにされる。〈土神〉は〈狐〉を殺めたのち〈狐〉の巣穴に入ってみると,「中はがらんとして暗くたゞ赤土が奇麗に堅められて」いただけで,〈狐〉が文化的生活を送っていたことが嘘だったことと,〈狐〉の家(巣)が移住する前の仮の宿ではなく定住用のしっかりとした家であったことに気づく。

 

〈土神〉が勘違いしたことは〈狐〉の「かくし」(ポケット)の中にあった「二本のかもがやの穂」から裏付けられる。「かもがや」はイネ科の多年草である「カモガヤ」(Dactylis glomerata L.;第1図)のことである。和名のカモガヤは英名の cock's-foot grass を訳すときに cock(ニワトリ)を duck(カモ)と誤解したと言われている。多分,物語で「ポケット」の中に「かもがやの穂が二本」入っていたということは,「二羽の鳥(ニワトリ)」を「カモ」と勘違いしたということであり,この物語には〈土神〉の2つの勘違いが「かくし」してあるということであろう。

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第1図.カモガヤ

 

〈土神〉の〈狐〉に対する+勘違いは〈土神〉の過去の暗い歴史に隠されている。それは物語では明かされていないが,〈土神〉は〈狐〉が革製の「赤靴」を履いているので,〈狐〉に昔「一本木の野原」(イーハトヴ)に稲作文化と鉄文化を携え「沓」を履いて侵略してきた律令国家軍の坂上田村麻呂を重ねたのかもしれない。〈狐〉は稲荷神の眷属でもある。そして,〈狐〉に異文化に心酔してしまう〈樺の木〉が奪われてしまうことを心配して〈狐〉を殺めてしまうのである。

 

5)せいの低いねじれた楊

「楊」はドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の樹木を指している。「ドロノキ(白楊)」(Populus suaveolens Fisch. ex Poit. et A.Vilm.)は,寒冷地の川岸など,日当たりの良いやや湿ったところに生育する。当時マッチ産業が好調であったこともあり,「楊」は次々と伐採されていった。特に「ドロノキ」は,3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという。すなわち,「楊」は,自ら(あるいは種として)の命を絶ちその体をマッチの軸木に変え「炎」となって人々の生活向上に貢献している。特に,賢治は「ウラジロハコヤナギ(ギンドロ)」(Populus alba L.)が好きだった。

 

『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」の,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,そのお礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やし仏を供養したという逸話が説かれている(坂本・岩本 1976)。 賢治は,「楊」を『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身である「聖樹」と見なしている。

 

しかし,「ドロノキ」にとっては,十分育っていない「背の低い」稚木のうちに伐採されてしまうので迷惑な話である。土地の守護神である地主神も怒り心頭であろう。物語でも,〈土神〉は

木樵が「祠」に近づくと,木樵をぐるぐる回して放り投げてしまう。

 

では,ねじれた楊とは何であろうか。多分,祠近くの楊は人間に貢献しているが,成長半ばで伐採されてしまうのでひねくれてしまったのであろう。「ねじれる」には「ひねくれる」とか「あまのじゃく」という意味もある。すなわち,〈土神〉もかなりひねくれている可能性がある。

 

〈土神〉の「祠」近くには苔,からくさ,短い蘆,あざみ,背の低いねぢれた楊がある。これらの植物から〈土神〉を推測すると,〈土神〉は「踏まれる神」,「守護する神」,「欺かれる神」,「ひねくれた神」がイメージされているように思える。特に〈土神〉は「踏まれる」ことに拘りを持っている。次稿では〈土神〉の正体を明らかにするために,賢治が実際に見たという「アイヌ」の「鬼神」について考察してみる。(続く)

 

参考文献

福田武雄編.2011.農民生活変遷中心の滝沢村誌 第二編・第二章 滝沢村と田村麻呂.https://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page02_chapter2.html#a2_2

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-人間植物関係学会誌 19(2):19-28.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

石井竹夫.2021.植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/03/165148

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.

坂本幸男・岩本 裕(翻訳).1976. 文庫版法華経(全3冊).岩波書店. 

鈴木拓也(編).2016.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第1稿)-記紀神話,神道,アイヌ神との関係-

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか 目次

第1稿-記紀神話,神道,アイヌの神との関係-

 はじめに

 1.物語の舞台と時代および〈土神〉の性格

 2.〈土神〉は土地を守護する地主神である

  1)記紀神話や神道に登場する土の神 2)アイヌの土の神

  3)東北の先住民にとっての土の神

第2稿-〈土神〉の棲む祠近くの植物-

  1)苔 2)からくさ 3)短い蘆 4)あざみとかもがや 5)背の低いねぢれた楊

第3稿-鬼神との関係-                                         

 3.〈土神〉はタチの悪い神で,北上平野の沼や北上山地の森に出没する「鬼神」で ある

 4.「鬼神」はアイヌの神と関係する。

 5.〈土神〉は「薬叉」や「樹神」とも関係がある

第4稿-蝦夷との関係-

 6.東北の「アイヌ」は「蝦夷」のこと

 7.「蝦夷」と赤い鉄の渋との関係

第5稿-東北の祭りとの関係-

 8.〈土神〉は東北の祭りと関係する

  1)昆沙門まつり 2)谷権現まつり

第6稿-祭られなくなったが先住民の心の中には存在し続けている-

 9.成島毘沙門堂と谷内権現の創建目的と歴史

 10.〈土神〉が祭られなくなった理由

 11.〈土神〉は先住民の心の中には存在し続けている

 まとめ

 

はじめに

賢治が寓話『土神ときつね』の〈土神〉をどのように発音したのか分からないが,本ブログ記事では〈土神〉は「つちがみ」とする。用いられた原稿用紙などから大正12(1923)年~13(1924)年の作とされている。この寓話は,好きな女の〈樺(かば)の木〉のために嘘をついてしまう〈狐〉と〈狐〉への嫉妬に苦しむ〈土神〉とが悲しい結末を迎える物語である。しかし,この神は不思議な神でもある。神たるものが女性をイメージしている1本の〈樺の木〉を巡って思い悩むことなど考えにくく,ましてやその木を〈狐〉と競い合うというのも理解しにくい。さらに,この神は〈樺の木〉や土の中のミミズには優しいが,よそ者と思われる木樵や〈狐〉にはひどく乱暴に振る舞う。さらによそ者が持ち込んだ西洋の文化には激しく憎悪する。そのせいかどうかは分からないが,〈土神〉は賢治の生きた時代ではもう祭られなくなってしまった。

 

〈土神〉は,様々な神の中でも「土」と関係する神と思われるが,乱暴であることから,この神には祟(たた)り神のように何か得体の知れない物が取り憑いているように思われる。本ブログでは〈土神〉がどんな神なのかを明らかにし,そして取り憑いているものの正体も明らかにする。本ブログは記事のタイトルを「寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか」とし,これにサブタイトルを付けて6つの稿に分ける。第1稿は「記紀神話,神道,アイヌの神との関係」について,第2稿は「土神の棲む祠近くの植物」について,第3稿は「鬼神との関係」について,第4稿は「蝦夷との関係」について,第5稿は「東北の祭との関係」について,第6稿は「なぜ祭られなくなったか」(括弧内はそれぞれの稿におけるサブタイトル名)についてである。

 

1.物語の舞台と時代および〈土神〉の性格

物語の舞台である「一本木の野原」は「松がいきなり明るくなつて/のはらがぱつとひらければ・・・」で始まる『春と修羅』の「一本木野」(1923.10.28)という詩が創作された場所とされている(高橋,2011)。一本木野は『新宮澤賢治語彙辞典』によれば「岩手郡滝沢村の柳沢の北方,岩手山の東側の裾野で,かつては松の木が多い原野であった」という(原,1999)。ただ,賢治は物語を創作するとき,その舞台とするところを実在する土地にすることはない。童話『銀河鉄道の夜』でも夢の中の列車は「北十字」(白鳥座)から「南十字」へと進行するが,車窓から見える風景からは南欧からイギリス,北米大陸東方を通って西部コロラドへと地球を西進しているし,日本の東北本線を盛岡の小岩井農場からイギリス海岸をへて種山ヶ原へと走っているようでもある(石井,2020)。だから,物語を注意深く読んでいくと,〈樺の木〉は実在する「一本木野」あたりの野原であるようだが,〈土神〉が祀られている場所は「一本木野」の周辺ではなく別の場所がイメージされている。私は〈土神〉の祠は,第4稿で詳細に説明するが,「一本木野」の東南にあたる花巻市東和町あたりの2つの神社がモデルになっていると思っている。すなわち,「一本木の野原」は滝沢村(現在は滝沢市)の「一本木野」にイーハトヴの複数の場所が重ねられている。

 

時代は,物語にツアイスの望遠鏡,ハイネの詩集,ロンドンタイムス(1788年),遠くで騎兵の練習などの言葉が出てくるので大正時代であろう。詩「風林」(1923.6.3)に「沼のむかふには/騎兵聯隊の灯も澱んでゐる」とある。盛岡市厨川(滝沢村一本木野の南)に明治42年(1909)に騎兵第三旅団が創設されている。

 

登場する主要なキャラクターは〈土神〉,〈狐〉,〈樺の木〉である。このうち,〈土神〉は寓話『土神ときつね』では以下のように紹介されている。

 

〈土神〉の坐(いま)す場所は谷地(やち)にある1間(182cm)の高さの丸太で拵えた小さな「祠」である。そこは,「水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからどろどろで気味も悪い」ところでもある。〈土神〉は,「乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸(もめんいと)の束のやう」で,「眼も赤く」,「きものだってまるでわかめに似て」いて,「いつもはだしで爪も黒く」長いという姿をしているが,〈樺の木〉や〈狐〉には見えて,木樵などの人間には見えない存在として描かれている。また,鳥には〈土神〉の声が聞こえるらしい。〈土神〉は,よく〈樺の木〉のところへ出かけて話をするが,その内容は挨拶言葉を除けば太陽と「土」に関することだけである。〈狐〉が〈樺の木〉と星や恒星や惑星の話をするのとは異なる。〈土神〉は人間が5月9日の自分の祭りに供物を持ってこないと怒って「泥の底に引き擦り込んでやろう」とする残虐な気持ちが湧いてくる反面,「土」のなかのミミズが「死ななければならない状況になったら」自分が「かはってやってもいゝのだ」という優しい心も持ち合わせている。また,〈土神〉は,正直ではあるが素直ではない。猜疑心が強く,あまのじゃくである。

 

2.〈土神〉は土地を守護する地主神である

では〈土神〉とはどのような神なのであろうか。日本の記紀神話や神道に登場する神,北海道の「アイヌ」や東北の先住民の神などで「土」に関係する神を調べて見る。

 

1)記紀神話や神道に登場する土の神

記紀神話や神道に登場する「土」に関する神々は,姿・形を持たないもの,眼に見えないものとされていた。神々は人に姿を見せず,人は神の「坐す」場所や,神の「籠(こ)もる」岩などを礼拝対象としていた(山本,2016)。

 

「土」に関する信仰には「土を神格化した霊(神)に対する信仰」と「土地を守護する神への信仰」の2つが在るという(山根,2022)。「土を神格化した霊(神)に対する信仰」の対象になる神は記紀神話(『日本書紀』)に出てくる「埴安神(はにやすのかみ)」などがある。『古事記』では「波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)」と「波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)という男女二柱の神として登場する。「埴安神」はイザナギが火の神を生んだときに排泄された糞から化生した神とされている。「埴」は「粘土」のことで,糞から「赤土」を連想したものと言われている。

 

この神を祀っている神社として有名なのが奈良県にある畝尾坐健土安(うねおにますたけはにやす)神社である。 祭神は健土安比売神(たけはにやすひめのかみ)すなわち,「埴安神」である。この神社は記紀に出てくる建国神話と関係がある。

 

記紀(日本書紀)の神武紀に,天皇が天の香具山の「土」(赤土)で土器を作って「天神地祇(てんじんちぎ)」を祭り,やがて天下を安定させることができたので,その土を取った処を「埴安」と云う,とある(國學院大學古事記学センター,2022)。「天神地祇」の「天神」は渡来してきて大和朝廷を作った民族の神で,「地祇」は土着の「先住民」の神である。神武天皇は,筑紫の日向(現在の宮崎県)で誕生し,後の東征し奈良盆地一帯の豪族である長髄彦(ながすねひこ)らを滅ぼして一帯を征服し,畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)に遷都して日本国を建国したとされる伝承上の人物である。同じく『日本書紀』の崇神天皇10年9月条には,天の香具山の「土」を「倭国の物実(ものざね)としている。「物実」とは物事のもとになるものをいう(山根,2022)。すなわち,記紀では,天香具山の「土」が古くから倭国そのものとして「呪力」あるいは「霊力」のあるものとされてきた。余談であるが,神武天皇に滅ぼされた長髄彦の兄である安日彦(あびひこ)が「東北」に逃れて「蝦夷」の族長の始祖になったという伝承もある。

 

「土地を守護する神への信仰」における神は,日本の神道で扱われる「地主神(じしゆのかみ)」である。土地ごとにそこを守護する「地主神」がいるとされている。「地主神」への信仰の在り方は多様で,荒神,田の神,客人神,屋敷神の性質がある「地主神」もいる。一族の祖先が「地主神」として信仰の対象になることもある。 ご神体も多様で,自然石,石塔,祠などがあるという(Wikipedia)。現在では,建築物の工事着手の前に執り行われる地鎮祭で祀られる神でもある。土地に手を加えることを神に報告し工事の安全を祈願する。

 

2)アイヌの土の神

「アイヌ」には「埴安神」に相当する「土」の神はないように思える。これは私の単なる推測にすぎないが,北海道の「アイヌ」は国家も「土器」も作らなかった民族なので「土」そのものには興味がなかったのかもしれない。

 

しかし,「アイヌ」には大地の神というのがある。アイヌ文化研究家の更科源蔵(1967)は,山や大地を支配する「シリコムカムイ」(大地または山を所有する神)と,その首長である「シランパカムイ」(大地のすべてをもつ神)の2つの神も挙げている。しかし,神の依り代は,「シランパカムイ」では楢や樺などの堂々と枝を張った巨木であることが多いという。「アイヌ」にとって「大地の神」は「樹木」の神でもある。

 

「シランパカムイ」の「シランパ」はアイヌ研究家のバチュラーの『アイヌ英和辞典(第四版)』によれば,「地上の木(複数)」とある。つまり,「シランパ」とは「木のように地上に立っていること(物語や伝説にのみ発見される古い言葉)」で,shin(地)とan(在る)にpa(peの複数を示す接語パ)が加わった「地にあるものたち」という意味だという。「地にあるもの」は木だけでなく人間や動物もいるが,「アイヌ」は「地にあるもの」の代表を「木(複数)」にしている。同じ事典で「シランパカムイ」は「木の神」となっている(梅原,1996)。また,アイヌ研究家のネール・ゴルードン・マローによれば「シランパカムイ」は「人間の家や道具を提供する木の中,穀物や草の中にもいて,木を成長させ,穀物を実らせる力となる成長の神」でもあるという(梅原,1996)。

 

付け加えておくが,「アイヌ」にとって,個々の木も神である。例えば,イヌエンジュ神,ハルニレ神,ドロノキ神などがある。面白いことに,これら樹木神は記紀神話や神道に登場する神と違って姿や形がある。「アイヌ」の口承文芸の散文説話では人間や蛇の姿になったり,人間に話しかけたりする(安田,2022)。

 

また,梅原(1999)がアイヌ語の「shr(シリ)」と日本語の「しる」は類似しているという面白い仮説を出している。アイヌ語の「shr(シリ)」は「見渡す限りの大地」を意味するが,日本語の「しる(領る)」は「土地を隅々まで領有する」というように変わっている。と言っている。この仮説は,言語学者の大野晋の言説を引き合いに出して立てたらしい。大野は「知る」に関して,「シルとは占領すること,領有することを意味していた。だから天皇が万代に国をシラスと言えば,永久に国を領有してお治めになる。統治されるということだった。領有するとは,物を残るくまなく自分のものにすること。自分の物にするとは,単に所有,領有の意味を超えて,物の性質のすみずみまでも把握することを指していくようになっていく。そこから,シル(知る)が誕生した」と言っている。梅原によれば,アイヌ民族は土地を自分のものにして所有するという観念がなかったからだという。

 

ただ,「アイヌ」の口承文芸である『アイヌ神謡集』(1923.8)の神謡「谷地の魔神が自ら歌った謡“ハリツ クンナ”」(Nitatorunpe yaieyukar, “ Harit kunna)には大地の神に近いものが登場する(知里,1999)。谷地に住む人間のような姿をして,しゃべることもできる「魔神」である(詳細は第3稿で記述する)。

 

3)東北の先住民にとっての土の神

民俗学者の谷川健一(1999)によれば,「東北」にある神社には武甕槌神(タケミカヅチノカミ)など明らかに大和朝廷側と思われる武神や「移住者」が故郷から持ち込んだ神以外に,「蝦夷(エミシ)」などの「先住民」(蝦夷)が信奉していた神があったという。例えば,桃生郡の日高見神社(日高見水神社ともいう)は北上川の水霊を祀っているし,栗原郡の和我神社や胆沢郡の和我叡登拳神社の「和我」もアイヌ語で水をあらわす「ワッカ」を想起させる。玉造郡にある温泉(ゆの)神社や温泉石神社は,鳴子温泉にあり,地元の「先住民」が祀った「温泉」の神とされている。

 

また,朝廷側の蝦夷征討における最前線基地であった多賀城を囲む築地の外に阿良波ゝ岐明神(あらはばきみょうじん)がある。これは外的である「東北」の「先住民」である「蝦夷」に対するものである。「アラハバキ」は「蝦夷」の神であり,「蝦夷」の神をもって外敵である「蝦夷」を撃退するものだという。さらに,谷川(1999)は,「東北」には大和朝廷の進出以前にも神を祀ることが行われていたという。根拠は,斉明天皇5年(659年)に阿倍臣比羅夫が出羽の「蝦夷」を征討したとき,船1隻と五色の絹布をもって「彼(そ)の地(ところ)の神を祭る」と『日本書紀』に記載されていて,「彼の地の神」とは「先住民」が祀った「地主神」にほかならないからだという。これは,前述したように神武天皇が日向から東征し奈良盆地一帯の「先住民」の豪族である「長髄彦」らを滅ぼしたとき,事前に敵地である天香具山の土で土器を造り土着の神を祀ったという『日本書紀』の記述を彷彿させるものである。神武天皇が祀ったとされる土着の神も「地主神」だったのかもしれない。

 

花巻市東和町の丹内山神社にも「先住民」の神が祀られているという。「丹内」はアイヌ語で「tanne(長い),nai(川)」の意味とされてきたが,米地ら(2013)は「tan(こちら側の),Nai(川)」と考えている。丹内山神社の祭神は多邇知比古神(たにちひこのかみ)であるが,本殿裏に実質的な神体と思われる「巨石」(丹内石)が祀られている。丹内山神社の社伝によると,延暦20年(801)に坂上田村麻呂が東征祈願をしているともある。史実に基づくものかどうかは定かでない。事実なら,記紀にある神武天皇や阿倍臣比羅夫のように敵地である土地の神を祭ったのかもしれない。もしかしたら,丹内山神社に祀られている自然石と思われる「巨石」は,北上山地にある丹内山周辺の土地,別の言葉で言い換えれば北上川の東側(こちら側)の土地の「地主神」の神体だったのかもしれない。ちなみに,多邇知比古神はこの地を開拓した祖神とあるが,「丹内」を「タニチ」に読み替え,それにヒコ(彦神)を付加してつくられた地名に由来する神とも言われている(菊池,2022)。ちなみに,丹内山神社にある「巨石」は花崗岩から出来ているらしい。この場所の地質は,北上山地西部の白亜紀に貫入りした人首花崗岩体とのことである(滝おやじ,2013)。花崗岩は風化すると土に還るが,粘りの性質があるアルミナとガラスの素となるシリカを含有するので粘土になる。

 

〈土神〉は,物語の舞台が「東北」と思われるのでこの地に先住していた人たちの信仰する神がモデルになっていると思われる。〈土神〉は前述した性格や祀られている神体から判断すると,記紀神話に出てくる「埴安神」のような「土」を神格化した神というよりは,「一本木の野原」を守護する神,すなわち「地主神」(あるいは「産土の神」)である可能性が高い。なぜなら,よそ者である「木樵」や〈狐〉が「一本木の野原」に侵入してくると排除しようとするが,この野原で生まれた〈樺の木〉を大切にしたり,野原で生まれた「土」の中のミミズに何か命に関わるようなことが起これば自分が身代わりになろうとしたりするからである。

 

ただ,〈土神〉は姿・形があることや動物や人間に危害を加える「鬼神」でもあることから「地主神」そのものではない。「アイヌ」の神や祟り神の要素も併せ持っているように思える。次稿では〈土神〉の正体を神が座(いま)す「祠」近くの植物から明らかにしていく。(続く)

 

参考文献

石井竹夫.2020.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-人間植物関係学会誌 19(2):19-28.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

菊池展明.2022(調べた日付).風琳堂千時一夜 滝ノ沢神社.http://furindo.webcrow.jp/blog/blog_40.html

更科源蔵.1967.アイヌの神話.淡文社.

高橋直美.2011.宮沢賢治論-「土神ときつね」異読-.ライフデザイン研究.7:223-236.

谷川健一.1999.日本の神々.岩波書店.

滝おやじ.2013.岩手県花巻市東和町谷内 丹内(たにうち)山神社の胎内石(短報)http://chibataki.moo.jp/kyosekiiwate/hanamakitainaiisi/tainaiisi.html

知里幸恵(編訳).2009.アイヌ神謡集.岩波書店.

國學院大學古事記学センター.2022(調べた日付).神名データベース.http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/

山根琴代.2017.土の霊力と土地の神-土をめぐる信仰の民族史-.https://shimamukwansei.hatenablog.com/entry/20170129/1485708882

梅原 猛.1996.日本の深層-縄文・蝦夷文化を探る-.集英社.

山本陽子.2016.見てはならない神々の表現と受容-日本の神々はどのように表されてきたか-.WASEDA RILAS JOURNAL 4 :283-289.

安田千夏.2022(調べた日付).アイヌ口承文芸にみる神々の姿と北海道の樹木.http://kitamap.net/wp-content/uploads/library/nih50_10.pdf

米地文夫・一ノ倉俊一・神田雅章.2013.南部北上山地における毘沙門堂と谷権現の時空間的位置-宮沢賢治のまなざしが捉えたもの-総合政策 15(1):49-63.

童話『氷河鼠の毛皮』考 (4) -先住していた者たちの止むに止まれない反感-

物語の後半部で間諜(スパイ)の〈痩せた赤ひげ〉によって誘導された20人ほどの〈熊のやうな人たち〉が列車に乗り込んでくる。本稿では,この〈熊のやうな人たち〉が何の目的で〈タイチ〉を連れだそうとしたのかについて考察する。

 

〈熊のような人たち〉は〈タイチ〉を列車から連れだそうとする場面は以下の通り。

 

引用文F 

先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ睡(ねむ)つてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。

『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の内外套(うちぐわいたう)と海狸(びばあ)の中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠(ひようがねずみ)の頸(くび)のとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ,叩たたき起せ。』

                 (宮沢賢治,1986)下線は引用者 以下同じ

 

1.〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉に示した止むに止まれない反感とは

〈タイチ〉は前稿で質・古着商の父・政次郎が投影されているとしたが,物語では10連発の鉄砲を持って仮想空間のイーハトヴ発ベーリング行き急行に乗り込み北方で黒狐を900匹捕ることになっている。これは,童話『注文の多い料理店』の「二人の青年紳士が猟に出て路に迷い「注文の多い料理店」に入りその途方もない経営者から却って注文されていた」という話と類似している。

 

この童話の発表時における広告の説明文には,「糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣(ほうし)な階級とに対する止むに止まれない反感です」(宮沢,1986)とあった。「放恣」とは勝手気ままでしまりのないこと。あるいは,わがままで,だらしのないことである。

 

すなわち,〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉を連れ去ろうとしたのは,先住民たちの「都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感」が表現されたものかもしれない。

では,〈熊のやうな人たち〉の実力行使にいたった「止むに止まれない反感」を引き起こしたものとは何であろうか。

 

〈タイチ〉の持っている鉄砲は「ぴかぴかする」とあるのでほとんど使ったことのない新品である。また,〈タイチ〉は〈熊のやうな人たち〉に引つたてられると泣いてしまうので強靱なハンターとは思えない。〈タイチ〉は酒(ウイスキー)を所持していて,飲み始めると周囲の人たちが羨ましいそうに見ていた。多分,〈タイチ〉は〈熊のやうな人たち〉が「正直者」であることをいいことに彼等の好きな「酒」を飲ませ少しの金で「先住民」が「カムイ」と崇める貴重な「黒狐」の毛皮を安く買いたたく悪徳商人であろう。あるいは〈熊のやうな人たち〉から身ぐるみ剥がそうとしている。

 

2.宮沢家はイーハトヴで何をしていたのか

ここで,〈タイチ〉を父・政次郎に,〈熊のやうな人たち〉を「東北」の先住民に置き換えてみる。父・政次郎は「東北」の先住民たちから何か奪おうとしたのであろうか。そして,どのような仕打ちを受けたのであろうか。宮沢家が村の人たちから何を奪ったかはすでに前稿で述べた。質,古着商として儲けた金,地主として小作人から小作料として収穫の半分の米,小作人が必要とする肥料としての下肥を売ったときに入る米や金などである。古着をたくさん買ってくれる上客には「酒肴」を振る舞ったという。「酒肴」を振る舞えるということはそれだけ儲けも大きかったのであろう。

 

花巻農学校時代の同僚・白藤慈秀の話として,「宮沢さんの生涯の仕事は,大きい構想を立ててやられたのです。農村と農民に味方して,あらゆることの,それが土台になっています。「町のひとたちが,農村をバカにしているのは怪(け)しからない」と,言い言いしておりました。糞尿(こえ)をくまないで町の人たちをこまらしてやれ――といった事も口にしたりしておりました。化学肥料を使えば,いっこう町のコエを使わなくてもいいと言うのです。花巻,黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これをまた農村に返させるのが自分の仕事だといっていました。宮沢さんは,宮沢一族の財閥からは煙たがられていた」という逸話が残っている(森,1983)。

 

「花巻の財閥」とは花巻在住の賢治の家を含む宮沢一族などを指していると思われるが,「黒沢尻あたりの財閥」とはどのような人たちであったのか。多分,黒沢尻(現北上市)在住の「不在地主」たちを指していると思われる。例えば,花巻の隣に岩崎村藤根(現和賀郡和賀町)があるが,この土地のほとんどは黒沢尻在住の地主たちのものだった(岩崎村藤根に土地を所有する上位50人のうち60%)。彼等は,その土地に住んでいる者たちにとってはよそ者であり,また農業に従事せず,すべて貸金業者(金融業)か宮沢家と同じ商人であった。すなわち,町(=都市)による農村の支配である。賢治の「花巻,黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ」と言っているのはこれにあたる。

 

賢治にとって宮沢家を含む花巻,黒沢尻あたりの財閥は農業に従事することはなく,貧しい農民(小作人)から搾り取れるだけ搾りとっていた「放恣」な者たちに見えていたようである。物語で,〈熊のやうな人たち〉が「これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ」と言ったときの「黒狐」は農民が質草として宮沢家に渡そうとした古着のことをいっているようにも思える。前述したように,〈熊のやうな人たち〉は語り手によって「人といふよりは白熊といつた方がいゝやうな,いや,白熊といふよりは雪狐と云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た」とある。〈熊のやうな人たち〉が最初に着ていたのは「雪狐」のような毛皮である。「雪狐」は白の毛皮である。使いこなせば黒い毛皮になる。すなわち,農民の着古した質草としての古着である。

 

しかし,実際にイーハトヴでこの様な武力を使った誘拐未遂事件が起こったとは思えない。前稿で述べたが,昭和2(1927)年頃,賢治は家に出入りする小作人の一人から「小作料が1段歩(約1千平方メートル)で一石(2俵分)もとられるのはゆるくながんス」という不満を聞いているので,身近に小作人との何らかの小さなトラブルがあって,それを物語の題材にしたのかもしれない。

 

賢治は1931年頃に文語詩を作るにあたって,自身の年譜を本編(1〜42頁)とダイジェスト版(43〜50頁)があるノート(「文語詩篇ノート」)に作成している。年譜の内容は,「1909年盛岡中学二入ル」に始まって,1915〜1917年の盛岡高等農林時代とその後の研究生時代を経て1921年の出京,国柱会,花巻農学校に就職と続くが,1921年11月の妹の死と1921〜1924年までの恋人との恋が記されるはずのページがダイジェスト版(49頁)では空白になっていた。この童話が発表されたのも1923年である。不思議なことに1922〜1924年の3年間の書簡類は年賀状1通以外まったく残されていない(1921年と1925年はそれぞれ20通ほど残されているのに)。また,年譜の本編の破局した頃の頁(1923年)には「石投ゲラレシ家ノ息子」の記載がある。 

 

では,賢治は何をしていたのであろうか。前稿で述べたが,賢治は花巻農学校教諭時代には貰った給料の多くを結核で入院中の同寮,貧しそうな身の上話をするウエイトレス,修学旅行や岩手山登山のときなどに経済的に参加できない生徒らに無償で与えていたということになる。すなわち,父親が農村を搾取して稼いだ金を賢治は自ら稼いだ金で農村に返していたのだ。

 

3.酒とものいわぬ農民

農民(小作人)は宮沢家を含む地主たちに対して,石を投げる以外に「止むに止まれない反感」をどのように処理していたのであろうか。

 

多分,小作人たちは酒をのむことでこの鬱憤を晴らそうとしたと思われる。しかし,「酒」を飲めばさらに借金が増えたということが詩ノート「藤根禁酒会へ贈る」(1927.9.16)に記載されている。

 

この詩には,「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが・・・・諸君は東の軽便鉄道沿線や/西の電車の通った地方では/これらの運輸の便宜によって/殆んど無価値の林や森が/俄かに多くの収入を挙げたので/そこには南からまで多くの酒がはいっていまでは却(かへ)って前より乏しく多くの借金ができてることを知るだらう/しかも諸君よもう新らしい時代は/酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな/そんな卑怯な人間などは/もう一ぴきも用はない/酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな/そんな愚劣な相談ならば/もうはじめからしないがいゝ」と記載されている。

 

吉見(1983)によれば,「酒」は「農村支配構造の中で,小作農民たちがたえず村の支配階級から「懐柔」され,騙(だま)されてきたときの麻薬のようなものだった」と言っている。「懐柔」とはうまく手なずけ従わせることである。また,吉見はイーハトヴの農民を酒に力借りてしか「もの云えぬ農民」とも言っている。

 

「酒」で村人を「懐柔」する様子は童話『なめとこ山の熊』でも描かれている。主人公の淵沢小十郎は山で栗を採取したり稗(ひえ)を作ったりして生活している貧しい農民である。必需品の味噌を造るために米が必要だが山では作れない。そこで,米を購入するため,小十郎は山で熊を捕ってその毛皮を町で売っていた。しかし,気の弱い小十郎は町の荒物屋のダンナに酒1本と塩引の鮭の刺身といかの切り込みを差し出されると上機嫌になり毛皮2枚を2円の安さで売ってしまう。この物語の荒物屋は賢治の家がモデルともされている(天沢,1985)

 

この「ものいわぬ農民」の姿は昭和の時代に入っても変わることはなかった。岩手県の山村に生まれた大牟羅良は,昭和20~24年頃に古着の行商人として農家を回り農民の嘆きの声を直に聞いている。

 

引用文F

農民たちは,しがない行商人には嘆きを語っても,よそ者には口を閉じてしまう。なぜ,黙っているのか。大声でみんなにものをいわないのか。いえば,かえって悪い結果になる,と思っているのだ。たしかに,そんな場合はたくさんある。県北の山村,平船地区の青年,鳥居繁治朗君の場合もそうだった。

二十戸ばかりのこの地区には「ダンナ」が君臨していた。ダンナは山の地主で,町議会の議員さんでもある。ほかの十九戸はみなナゴ(小作人)だ。ナゴたちはダンナからマキをもらうかわりに,毎年一戸のべ五十人の労役をやらされる。一日一人二百円の労賃として一年で一万円 冬に使うマキを町で買えばそのくらいするから同じだ,ということだが,こっちが忙しいとき,きまってダンナから召集令がかかる。・・・・・

思い余った鳥居青年は「山林の解放はできないのでしょうか。できなければ,せめてマキ代を現金で払うわけにはいかないでしょうか」と県の広報に投書した。県の回答は,山林の解放は法律が改正にならなければ不可能,労役はダンナとナゴの取り決めだから調べてみなければ分からない――ということだった。ところがこの投書が名前入り,地名入りで日本農業新聞の岩手版に転載された。ダンナは腹を立て,ナゴたちは仰天した。「そんたなことスンブンさ出してふでえ(ひどい)ごとするもんだ。あんなにえぐ(よく)してけるダンナに,もうすわけながんべえ・・・・」とナゴのカシラがどなりこんだ。

以来,青年の一家は山に一歩も足をふみ入れることができなくなった。青年はその土地を出て・・・・。

「新聞を読むとセッゴケ(怠け者)だといい,意見をはくとセッゴケという。ものいえば,ふでえ(ひどい)しわざといわれるから,みんな黙ってる。ひとにしゃべることは反対のことばかり。金持ってる人にきくと,生活は楽でねえどいい,金ない家では,困んねえという。ヨメとシュウトメはうまくいがねえ。だども,ひとにきがれると,ヨメッコは“アッパ(母さん)はよぐしてくれる”といい,シュウトメは“オラのヨメッコはえぐ(よく)かせぐ”という。おれにはわがらねえス・・・」と鳥居青年はいうのだ。

                          (大牟羅,2013)

 

東北の農民(小作人)は「反感」を素面で地主に言葉で言ったり,文字の形にして出したりすることはない。賢治が農民の代弁をして『注文の多い料理店』や『氷河鼠の毛皮』などの童話を書いたのだと思われる。

 

4.〈船乗りの青年(=賢治)〉の願い

この〈タイチ〉誘拐未遂事件と〈船乗りの青年〉あるいは賢治の恋がどのように関係しているのかは分からない。ただ,賢治の〈恋人〉が〈熊のやうな人たち〉の側の人だったのはたしかのようだ。

 

〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉を誘拐しようとしたとき,〈船乗りの青年〉が『まるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがり』,〈痩せた赤ひげ〉のピストルを奪い〈タイチ〉を助けようとする。このとき,〈痩せた赤ひげ〉の撃った弾が〈船乗りの青年〉に当たってしまうが,〈船乗りの青年〉は着ている帆布が床に落ちただけで怪我はなかった。そして,〈熊のやうな人たち〉に『おい,熊ども。きさまらのしたことは尤(もつと)もだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉(く)れ。ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』と言う。 

 

〈船乗りの青年〉が〈熊のやうな人たち〉に「あんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから」と言っていたとき,〈熊のやうな人たち〉は『わかったよ。すぐ動かすよ』 と返答する。なぜ,〈熊のやうな人たち〉は即答で〈船乗りの青年〉の言うことを信じたのであろうか。多分,信じた理由は2つ考えられる。1つは,〈船乗りの青年〉が撃たれ黄色の帆布の上着が床に落ちたとき,〈熊のやうな人たち〉は青年が帆布の上着の下に何も身につけていなかったのを知ったからであろう。いわば捨て身の覚悟を示している。この場面は父・政次郎の言葉「お前は,いましている農村相手のことなどは,裸のままで,がつがつした岩へ,われとわが身を,ぶっつけていることと,少しもちがわないことだ。自分がひどく傷ついて死ぬだけだ」を彷彿させる。〈熊のやうな人たち〉は〈船乗りの青年〉の命がけの覚悟を知ったとき,この青年が自分達の味方になってくれるかもしれないと思ったのかもしれない。

 

もう1つは,「黄色の帆布の上着」が銃弾をはじいたということで,この上着に何か特別の意味を持たせているということである。例えば前稿(1)(石井,2022a)で,「黄色の帆布の上着」は釈迦あるいは日蓮の袈裟あるいは「法華経」の譬喩であるかもしれないと述べた。また前稿(2)(石井,2022b)では,賢治が昭和2年頃に「おれの代になったら土地は全部ただでけるから,無理に借金などして買う気をおこすな」と「しばしば」言っていたという小作人の証言を紹介した。この小作人は賢治から「土地解放」の話だけでなく,「法華経」の話も聞いていて感銘していたという(吉見,1982)。賢治は物語執筆の頃に同様の話を他の小作人に話していた可能性もある。

 

もしも,賢治がそのような小作人を物語の〈赤ひげの男〉のモデルにしていたなら,〈赤ひげの男〉は銃弾をはじいた「黄色の帆布の上着」に「法華経」の力を感じ取って〈船乗りの青年〉の言葉を信じたのかも知れない。賢治自身も父と対立していた大正10(1921)年に同様の経験をしている。1月23日に店の火鉢でいつ家を出るか思い悩んでいたとき,日蓮の御書が頭の上の棚から落ちてきたことを適期に『まるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがり』出郷している。

 

〈船乗りの青年〉を賢治とすれば,〈タイチ〉が投影されている父・政次郎は〈船乗りの青年(=賢治)〉の願いにどのように応えたのであろうか。賢治が農村相手にしていることは死を覚悟してのことだと認識している父としても,最後は賢治に従わざるを得なかったのではないだろうか。

 

童話『氷河鼠の毛皮』を新聞発表して3年後の大正15(1926)年4月,宮沢家はこれまでの質,古着商をやめ,建築材料の卸し小売り,またモートル・ラジオを扱う宮沢商店を開業することになった(原,1999)。また,吉見(1982)によれば,賢治の父は戦後の農地改革で自分の小作地を手放したとき,旧小作農民たちの永年の労苦に謝し,菓子折を携えて挨拶をして廻ったのだという。旧地主として全く異例なことだったので,挨拶に来られた方も驚いたとのことだった。吉見は賢治の遺志を代行する行為だったのかもしれないと述べている。

 

さらに,昭和26(1951)年に宮沢家は浄土真宗から日蓮宗に改宗した。父・政次郎は,賢治が童話『氷河鼠の毛皮』を執筆していた頃,賢治と家業と宗教に関して激しく対立していたが,最後は賢治の願いを全て聞き入れたように思える。

 

まとめ

1)童話『氷河鼠の毛皮』には種々の動物の毛皮が登場する。タイトルにある「氷河鼠」は氷河時代の遺存種である「銀鼠(オコジョ)」のことであろう。西洋文明に価値を置く者にファッションに使う「毛皮」として乱獲され絶滅に瀕している(絶滅危惧種)。「ラッコ」も「毛皮」として乱獲され絶滅危惧種になっている。また,「ラッコ」に関しては大正元(1912)年に臘虎膃肭獣猟獲取締法が交付されている。日本国内における「ラッコ(臘虎)・オットセイ(膃肭獣)の捕獲及び毛皮製品の製造・販売について,農林水産大臣が制限できること,違反した場合の罰則などを定めている。

 

2)〈船乗りに青年〉は列車から「月」に話しかけているかのようにして外を見ていた。若者は笑っているようでもあり,また泣いているようでもあった。〈船乗りの青年〉には賢治が,「月」には賢治と破局に終わったが相思相愛だった恋人が投影されていると思われる。この物語は賢治の悲恋物語が隠されている。

 

3)〈熊のやうな人たち〉は,「雪狐」といった方がいいような毛皮を着ていて,北方の「アイヌ」がイメージされているが,賢治の恋人の近親者を含む「東北」に先住していた人たちのことであろう。「アイヌ」は明治期の同化政策の強化によって滅び行く民と呼ばれていた。「東北」の「先住民」も長い間,大和朝廷およびそれを引き継ぐ中央政権に「まつらわぬ民」として虐げられてきた。

 

4)〈タイチ〉には質・古着商を営む父・政次郎が投影されている。この物語は父・政次郎などの町に住む財閥の商人が「東北」に先住する農民らを搾取する物語である。〈タイチ〉が搾取するのは「雪狐」のような毛皮が使い古され黒くなった「古着」の毛皮,すなわち「黒狐」の毛皮900枚であり,さらに「氷河鼠」の首のところだけの毛皮である。「氷河鼠」も「東北」に先住していた農民の譬喩である。貧しい農民らは首のところに巻く古着(襟巻きなど)さえも奪われてしまったので首が回らなくなった。すなわち,借金などでやりくりがつかなくなっているのである。実際に〈熊のやうな人たち〉が列車に乗り込んでくるとき「黒と白の斑(ぶち)の仮面」をかぶったり,「襟巻きを眼のところまで上げ」ていたりしているが,これは彼等の首(頸)の皮が取られているか,あるいは牛のように家畜化されているからある。「東北」に先住している人たちは,町の人たちから身ぐるみ剥がされていたのである。

 

5)〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉を列車から連れ出そうとしたのは,放恣で横暴な〈タイチ〉に対する止むに止まれない反感の表現である。

 

6)〈熊のやうな人たち〉が打った弾丸は〈船乗りの青年〉の「黄色い帆布」を打ち落としただけで〈船乗りの青年〉自身には危害を与えなかった。弾丸が植物繊維の布を貫通しないわけはない。「黄色い帆布」の「黄色」には特別な意味が隠されている。釈迦や日蓮が着ていたかもしれない「黄色」の「袈裟(糞掃衣)」あるいは日蓮の御書がイメージされていると思われる。

 

7)賢治と恋人の結婚はささいなことがきっかけで近親者から反対されたが,破局に向かっているのは両家の出自に関するのっぴきならない事情による対立である。賢治は都会文明に価値を置く賢治側の横暴さを先住民側に侘びて「あんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから」と新聞発表して両者の対立を鎮めようとしたのだと思う。

 

参考文献

石井竹夫. 2022a.童話『氷河鼠の毛皮』考 (2)-タイチは誰がモデルになっているのか-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/16/082759

石井竹夫.2022b.童話『氷河鼠の毛皮』考(3)-熊のやうな人たちとは何者か-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/17/164324

天沢退二郎.1985.解説.(宮沢賢治全集7).筑摩書房.

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書店.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集8.筑摩書房.

大牟羅 良.2013.ものいわぬ農民.岩波書店.

森 莊己一.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.

童話『氷河鼠の毛皮』考 (3) -熊のやうな人たちとは何者か-

物語の後半部で間諜(スパイ)の〈痩せた赤ひげ〉によって誘導された20人ほどの〈熊のやうな人たち〉が列車に乗り込んでくる。本稿では,この〈熊のやうな人たち〉が誰かについて考察する。

 

〈熊のような人たち〉が列車に乗り込んでくる場面は以下の通り。

 

引用文E 

夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。

『どうしたんだらう。まだベーリングに着く筈(はず)がないし故障ができたんだらうか。』

 そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなり扉(とびら)ががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。赤ひげがまるで違つた物凄(ものすご)い顔をしてピカ/\するピストルをつきつけてはひつて来ました。

 そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊(しろくま)といつた方がいゝやうな,いや,白熊といふよりは雪狐(ゆきぎつね)と云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た,いや,着たといふよりは毛皮で皮ができてるというた方がいゝやうな,ものが変な仮面をかぶつたりえり巻を眼まで上げたりしてまつ白ないきをふう/\吐きながら大きなピストルをみんな握つて車室の中にはひつて来ました。

                (宮沢賢治,1986)下線は引用者,以下同じ

 

1.〈熊のやうな人たち〉は北方系の人たちがイメージされている

ベーリング行き急行を止めて乗り込んでくる〈熊のやうな人たち〉は,語り手によって「人といふよりは白熊(しろくま)といつた方がいゝやうな,いや,白熊といふよりは雪狐(ゆきぎつね)と云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た,いや,着たといふよりは毛皮で皮ができているという方がいゝやうなもの」あるいは「へんな仮面」をかぶったり,「襟巻きを眼のところまで上げ」ていたり,と紹介されている。分かりにくい表現だが,多分,〈熊のやうな人たち〉は北方領域(北海道,樺太,千島)の「アイヌ」などの先住民の末裔を想定していたのかもしれない。

 

賢治がこの物語を執筆していた頃(大正時代あるいは昭和初期)は日本人の起原が盛んに議論されていた。例えば,解剖学者で人類学者の小金井良精の縄文時代人=アイヌ説や人類学者の清野謙次の混血説などである。混血説とは,縄文時代人が元々日本列島に住んでいて,北の方では北方人種との混血によって「アイヌ」が生じ,南の方では朝鮮から来た新しい渡来者との混血によって和人が生じたとされるものである(梅原・埴原,1993)。

 

また,古代から本州の「東北」(イーハトヴ)には和人以外に「エミシ」と呼ばれ狩猟を本業とする人たちが先住していた。「エミシ」は現在では漢字で「蝦夷」と書くが,7世紀以前の古書では「毛人」と記載されていた。「アイヌ」や古代蝦夷の人たちは白人のように毛が濃かったらしい(梅原・埴原,1993;金田一,2004)。また,古代蝦夷たちはアイヌ語を話していたとされる(高橋,2012)。賢治が生きていた時代は,「アイヌ」と「エミシ」は同一と考えられていた(金田一,2004)。もしかしたら,賢治は「東北」に先住していた人たちも北方の「アイヌ」と何らかの関係があると思っていたのかもしれない。

 

2.氷河鼠とはオコジョのことか

樺太や千島列島の北方にはカムチャッカ半島やチュコトカ半島があり,その先にベーリング海峡がある。北海道以北のこれら北方領域には当時「アイヌ」などの先住民族が住んでいたが,彼等は明治維新までラツコ(ラッコ),海狸(ビーバー),狐などの毛皮を日本(本州)および周辺国との交易品に使っていた。「ラッコ」はアイヌ語で「ラッコ」を意味する「rakko」に由来する。

 

題名にもなっている「氷河鼠の毛皮」は賢治の造語と思われる。「氷河鼠」とはなんであろうか。現在,毛皮のコートはミンクで70~80匹分.ウサギで30~40匹分,チンチラで150匹分だそうだ。童話『氷河鼠の毛皮』で〈タイチ〉は「氷河鼠」の毛皮の上着を「頸のところ」だけを450匹分使ったといっている。酒が入ると116匹に変更されるが,素面でいった450匹が正しいのであろう。〈タイチ〉の「上着」を「コート(外套)」のことだとし,「頸のところ」を毛皮全体の1/3とすれば,〈タイチ〉が持っている「氷河鼠」450匹分の頸だけの毛皮は「チンチラ」(尾を除く体長25~26cm,体重420~600g)相当の動物450匹分の毛皮ということになる。

 

童話『猫の事務所』では「氷河鼠」の産地は「ベーリング地方」となっている。多分,「氷河鼠の毛皮」は北方領域で「アイヌ」が交易に使っていた「銀鼠」の毛皮のことを指しているのかもしれない。「銀鼠」はイタチ科の毛皮獣である「オコジョ」(別名はエゾイタチ)のことである。「オコジョ」は体長16~33cmで体重は150~320gで,世界最小の狩人(肉食獣)である。我が国には「エゾオコジョ」と「ホンドオコジョ」がいる。「エゾオコジョ」はベーリング海峡以南,サハリン(樺太),千鳥,北海道に分布する。氷河時代の生き残りとも言われている(中村,2022)。異説もある。澤口たまみ(2021)によると「氷河鼠」はキヌゲネズミ科のクビワレミングの可能性があるという。しかし,レミングは体長7~15cm,体重30~112gで小さく,毛皮としては利用されていなかったと思われる。

 

「オコジョ」の冬毛は白色だが尾の一部は黒い。その美しい姿から「山の妖精」あるいは「森の妖精」と呼ばれている。欧州で「銀鼠」の毛皮はアーミンと呼ばれ珍重された。ダヴィッドが描いた「ナポレオンの戴冠式」では,ナポレオンがアーミン「縁取り」したマントを身につけている(中村,2022)。ヨーロッパでは中世より,王侯貴族や高位聖職者,裁判官などが公式の場面で身に着ける伝統 があり,アーミンは権威,とりわけ王権の象徴として知られている(三友,2005)。賢治もこのような服を見て,権威の象徴として物語で「氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさへた上着」と記載したのかもしれない。

 

また,「黒狐」は『続日本紀』和銅5年(712年)に記載が見られるし,まれに北海道でも見ることができるという。「アイヌ」は「狐」も「カムイ(神)」として崇め,「黒狐」はその中でも最も尊いものとしている(知里,2009)。ただ,次稿で考察するが,物語で「氷河鼠」や「黒狐」は,北方の「先住民」の譬喩として使われているような気がする。例えば,〈熊のやうな人たち〉の着ている服,あるいは彼等の体毛のことである。

 

3.「アイヌ」あるいは「東北の先住民」とはどのような人たちであったのか

〈熊のやうな人たち〉が北方の「アイヌ」あるいは「東北」の「先住民」をイメージしているとすれば,どのような性格の人たちであろうか。

 

金田一(1993)が樺太アイヌや北海道アイヌの「ユーカラ」などの伝記を基に「アイヌ」の「種族性」(和人との違い)について調べていたものがあるので,それを参考にしたい。

 

金田一(1993)は,「アイヌ」(多分「エミシ」も)には以下の5つの特徴があるということを報告している。第1に,名誉や名声を大切にする。第2に,情に篤く,愛情に富み,涙脆い。いわば「頑強な体に弱い心の所有者」である。第3に,「事大主義」であり,自分の信念を持たずに支配的な勢力や風潮に迎合する。第4に,利欲に蛋白で,貧困に陥っても無理に富を求めずに貧しい生活に甘んじてしまう。また,「アイヌ」の社会は四民平等の社会なので立身の出世という野心も起こり得なかったのである。第5に,これが一番の欠点であるが,気が弱く,気兼ねし,気を廻し過ぎるので猜疑心が生じ,「外」に対しては「疑い深い」とともに「内」には「反目嫉視(しっし)」をする。(嫉視とは妬みのことである)

 

従って大同団結することはなく国家生活を知らなかった。その結果あるいは原因かもしれないが家族的な愛の濃やかさには似ずに「公衆の愛」というような現れは認めがたく,慈母孝子の感情があっても公正の感情,公明な感情というものは遅れていたようである。また,祖先崇拝の一面が党同伐異の風を醸成し,祖先を異にする部落の間に絶え間ない争いを引き起こすことにもなったのである。これらが今日主義の低い生活程度に止まり,専業ということなしに,誰もが同じ生活を繰り返すから文化の進歩が遅かったのである。

 

英国女性で旅行家のバード(Isabella L. Bird)の『日本奥地紀行』(初版は1880年)には,1878年6月に北海道の幌別,白老,湧別,平取等のアイヌ集落を訪れた様子が記載されている(バード,2000)。彼女は紀行文の中で「アイヌ」の性格について次のように語っている。

 

第1に,アイヌ人は誠実であるという点を考えるならば,わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる。彼らはキリスト教徒として生まれて,洗礼を受け,クリスチャン・ネームをもらい,最後には聖なる墓地に葬られるが,「アイヌ」の人の方がずっと高度で,ずっと立派な生活を送っている。全体的に見るならば,アイヌ人は純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対しては思いやりがある。 

 

第2に,彼らの宗教的儀式は,大昔から伝統的な最も素朴で最も原始的な形態の自然崇拝である。漠然と樹木や川や岩や山を神聖なものと考え,海や森や火や日月に対して,漠然と善や悪をもたらす力であると考えてきている。彼らは太陽や月を崇拝し,しかし星は崇拝しない,森や海を崇拝する。狼,黒い蛇,梟,その他いくつかの獣や鳥には,その名にカムイ(神)という語がつく。例えば,狼は「吠える神」であり,梟は「神々の鳥」,黒い蛇は「太陽神」である。雷(神鳴り)は「神々」の声であり,恐怖心を呼び起こす。太陽は彼らの最善の神であり,火はその次に善い神である,と彼らはいう。

 

第3に,彼らの生活は臆病で単調で,善の観念をもたぬ生活である。彼らの生活は暗く単調で,この世に希望もなければ,父なる神も知らぬ生活である。また,何事も知らず,何事も望まず,わずかに恐れるだけである。着ることと食べることの必要が生活の原動力となる唯一の原理であり,酒が豊富にあることが唯一の善である。彼らは儲けを全部はたいて日本酒を買い,それをものすごく多量に飲む。泥酔こそは,これら哀れなる未開人の望む最高の幸福であり,「神々のために飲む」と信じ込んでいるために,泥酔状態は彼らにとって神聖なものとなる。

 

第4に,「外」に対して疑い深いことである。彼らは,私が一人で食事をしたり休息するように,と言って退ったが,酋長の母だけは残った。その皺だらけの顔には人を酷(きび)しく疑う目つきがあった。私は,彼女がもしかしたら悪魔の眼をしているのではないかとさえ思った。いつもそこに座ってじっと見つめ,そして運命の三女神(人間の生命に糸を紡ぐという)の一人のように,樹皮の糸を絶えず結んで,彼女の息子の二人の妻や,織りに来た別の若い女たちを油断なく見守っている。彼女には老人ののんびりした休息はない。彼女だけが外来者を疑っている。私の訪問は彼女の種族にとって縁起が悪いと考えているのだ。

 

金田一やバードが記録した言葉から北方の「先住民」を一般化できるかどうか分からないが,両者の言っていることには類似点が多い(石井,2021)。すなわち,北方の「先住民」は自然を神聖なものとして崇拝し,誠実で正直者であるが,何事も知らず,何事も望まないという無気力な性格も有しているとしている。別の言葉で言えば,騙されやすい人たちということである。この騙されやすい性格は,逆に「よそ者」に対して「酷しく疑う目つき」にしているのだと思う。そして,同族に対しては妬みが強い。また,何よりも酒好きでもある。当時の金田一ら学者たちは「アイヌ」と東北の先住民である「蝦夷(エミシ)」を同一と見做していた。バードや金田一がみたアイヌ人の性格は「東北」の先住民にも当てはまるかも知れない。

 

「東北」の「先住民」にとって「町の人たち」は同じイーハトヴの住民であるが「よそ者」でもある。実際に宮沢家は京都からの移民の末裔である。すなわち,土着の民ではない。よって,〈熊のやうな人たち(=東北の先住民)〉は,〈タイチ〉などの商人たちに「疑い」や「反感」だけでなく「妬み」も持っている。賢治が書簡で「質草」を「青いねたみ」と言っていた。

 

参考文献

バード・イサベラ(高梨健吉訳).2000.日本奥地紀行.平凡社.

石井竹夫.2021.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-アワとジョバンニの故郷(2)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/14/152434

金田一京助.1993.金田一京助全集(第12巻)アイヌの文化・民俗学.三省堂.東京.

金田一京助.2004.古代蝦夷(えみし)とアイヌ.平凡社.

三友晶子.2005.フェルメールの斑点入り毛皮をめぐる「アーミン」言説の 再考 - 絵画における服飾表現の現実性-.日本家政学会誌 56(9): 617-626.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集8.筑摩書房.

中村和之.2022(調べた年).アイヌ民族と北方の交易.https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1714.pdf

澤口たまみ.2021.クラムボンはかぷかぷわらったよ 宮澤賢治おはなし30選.岩手日報社.

高橋 崇.2012.蝦夷(えみし).中央公論新社.

知里幸恵(編訳).2009.アイヌ神謡集.岩波書店.

梅原 猛・埴原和郎.1993.アイヌは原日本人か.小学館.