宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (2)-法華経との出会いと感動した理由-

寂しかった賢治は,幼い頃に聞いた「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という母の言葉,すなわち母が望む「人の役に立つことをする」にはどうすればよいのかということを長い間模索していたと思われる。そして,賢治は仏教を勉強していく過程で,法華経に出会い,それを読んで身体が震えるほどに感動し,やがて法華経の世界にのめり込んでいくようになる。本稿は,なぜ賢治が法華経を読んで感動したのかを母の言葉をヒントにして明らかにしていきたい。

 

法華教は自分が救われるというよりは,悩み多い衆生を救うために修行を重ねている者たち,すなわち菩薩のための経典とされる。自分よりも人の幸せを願う,あるいは別の言葉で言えば菩薩になりたかった賢治にとっては運命的出会いと言える。賢治の弟の清六は,賢治が盛岡高等農林学校へ進学するための受験勉強をしていた頃(大正3(1914)年秋,賢治18歳)の兄について,「賢治は,赤い経巻である島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』に出会い,その中の特に「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえて止まらず,この感激を後年ノートに「太陽昇る」と記していた。そして,以後賢治はこの経典を常に座右に置いて大切にし,生涯この経典から離れることはなかった」と回想している(宮沢,1991)。

 

法華経は28品(ほん)あるが,これら教えの中でも「方便品(ほうべんぼん)第二」と「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六」の2品は特に重要なものであると言われている。賢治もこの2品の重要性を理解している。大正7年6月27日の母を失った親友・保阪嘉内あての手紙(封書)では,冒頭に「この手紙はおっかさんに別れたあなたを慰めようとして書くのではありません・・・」と断りを入れ,最後に「保阪さん。諸共に深心に至心に立ち上り,敬心を以て歓喜を以てかの赤い経巻を手にとり静かに方便品,寿量品を読み奉らうではありませんか 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」(宮沢,1985)(下線は引用者,以下同じ)と書き留めている。賢治は,この手紙から「如来寿量品第十六」だけでなく「方便品第二」にも感動していたことが伺われる。

 

感動とは,「深く物に感じて心を動かすこと」である。また,感情心理学を専門にしている戸梶亜紀彦は感動するのに必要な条件として,①「感情移入・共感できること」,②「期待・希望が実現すること」,③「興味・関心のあること」,④「人情に関すること」,⑤「努力・苦労の成就」などを挙げている(戸梶,2001)。賢治は「法華経」にある2品の何に感じて心を動かされたのだろうか。

 

「方便品第二」には「如来がこの世に登場したのは苦悩の多い衆生を救うためである」とか「法華経は如来を目指す菩薩などの修行者だけを教化する経典である」ということが説かれている。賢治が「方便品第二」を読んで心を動かされた要因は,仏教に素人な私でもなんとなくだが理解できる。「方便品第二」の教えが,賢治の母の言葉「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」に重なるからである。すなわち,賢治は「方便品第二」の教えを「如来がこの世に生まれたのはひとのために何かしてあげるため」と読み取ったからと思える。感動させる要因を分類した戸梶に従えば,賢治は②「期待・希望が実現すること」すなわち「母の期待に応えられる」と感じたからであろう。

 

一方,震えるほど感動したとされる「如来寿量品第十六」はどうであろうか。岩波文庫の『法華経』によれば,この十六章にある有名な「自我偈」(じがげ;寿量品にある5文字で1句となる詩の形で書かれた部分)の冒頭には,「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫(我仏を得てよりこのかた 経たる所の諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ)」(坂本・岩本,1994)と記載されている。手短に言えば,「如来の寿命は永遠」ということである。しかし,これだけでは賢治の身体が震えてしまうという感動を理解することはできない。 

 

「自我偈」の中頃に,「我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅」(われは時に衆生に語る 常にここにありて滅せざるも 方便力をもっての故に 滅・不滅ありと現すなり)(坂本・岩本,1994)という語句がある。どうも,この語句の中に賢治を感動させたものがあるように思える。 

 

岩波文庫の漢訳では分かりにくいので,私なりにこの引用箇所を解釈してみる。「常在此不滅」の「常在此」(常にここにありて)は,「如来の寿命が永遠」だから「常にここにありて滅せざる」なのだと思われるが,この「常在此」を「いつでもあなたの近くにいて」と解釈してみる。すると,この引用文は「あなた(衆生)には如来が見えたり見えなかったりしているが,それは方便であり,本当のことを言うと如来はいつでもあなたの近くで見守っていた」となる。このように解釈すれば賢治の感動もある程度理解できそうな気がする。

 

すなわち,賢治が感動したのは「如来寿量品第十六」の教えにも母・イチの寝かしつけるときに語った子守歌を重ねることができるからである。引用文にある衆生を賢治に,如来を母に置き換えれば,引用文は「あなた(賢治)には母が見えたり見えなかったりしているが,それは方便であり,本当のことを言うと母はいつでもあなたの近くで見守っていた」となる。 

 

さらに「如来寿量品第十六」には衆生に「如来が常に見える」と思わせたらどうなるかについても答えている。「自我偈」の最後は「以常見我故 而生憍恣心 放逸著五欲 堕於悪道中」(常にわれを見るをもっての故に,すなわち奢恣(おごり)の心を生じ,放逸(ほういつ)にしてし五欲に著(なず)み,悪道の中に墜ちなん)(坂本・岩本,2994)となっている。すなわち,如来(母)はいつでも衆生(賢治)の近くで見守っているが,常にいると衆生に思わせてしまうと衆生は目先の欲望にとらわれて悪道に落ちてしまうとなっている。

 

賢治にとって,母は自分を寝かしつけてくれるときは近くにいてくれたが,賢治が母を欲する昼間に,母は近くにいてくれなかった。賢治は,母の寝かしつけるときに自分に見せた愛情が本物であるかどうか疑うこともあったかもしれない。しかし,近くにいるときでもいないときでも,いつも自分のことを気に掛けていたと思わせてしまう「法華経」の言葉は賢治の疑いを払拭するに十分であったのかもしれない。すなわち,戸梶の分類の①「感情移入・共感できること」に相当する。

 

「法華経」の教えが説かれていると思われる童話に『若い木霊』という作品がある。この作品にも如来が「見えたり見えなかったり」することの重要性が擬人化された植物の「さくらそう(桜草)」の独り言として語られている。

 

童話『若い木霊』では,主人公の若い木霊に菩薩に成りたかった賢治が投影されている。若い木霊は,春の丘や谷を散策しているとき,桜草の「お日さんは丘の髪毛(かみけ)の向ふの方へ沈んで行ってまたのぼる。そして沈んでまたのぼる。空はもうすっかり鴾の火になった」という独り言を聞いて「胸がまるで裂けるばかりに高く鳴り出し・・・その息は鍛冶場のふいごのやう,そしてあんまり熱くて吐いても吐いても吐き切れなく」なってしまうほどに感動する。この物語で「鴾の火」とは「法華経」のことであり,桜草の独り言は「如来寿量品第十六」の教えである(石井,2021c)。「お日さん(太陽)」の寿命が永遠かどうかは分からないが,地球上に植物が誕生する以前から輝いていたし,今後も長きにわたって輝き続けるであろう。ちなみに,陸上植物が誕生するのは約4億5000万年前のオルドビス紀である。寿命が永遠といってもいいような太陽ではあるが,地球は自転しているので,動くことができない植物には太陽の寿命は永遠には見えない。地上に芽生えた植物にとって太陽は見えたり見えなかったりする(日内周期)。すなわち桜草の言うように「沈んで行ってまたのぼるの」である。

 

興味あることに,24時間の明暗の周期変動が植物の生育をもっとも促進するとされている。また,植物は24時間連続に光を浴びると成長が抑制されてしまうか,病気にかかってしまうということも科学的な実験でも明らかにされている(大橋,2008;戸井田ら,2003)。すなわち,桜草の独り言にあるように太陽が「沈んで行ってまたのぼる」ということは植物が生長していくことにおいて重要なのである。「若い木霊」が桜草の独り言に感動したのは,その言葉には「ほんとうのことが書かれてある」と信じたからと思われる。賢治は,仏教徒であるとともに科学者でもある。賢治が植物を使って日内周期の実験をしたかどうかは分からない。しかし,賢治も「自我偈」にも「ほんとうのことが書かれている」と感じたのかもしれない。あるいは,それを信じようとしたと思われる。「ほんとうのこと」を知るという事は,賢治にとっての最大の関心事でもあった(戸梶の分類では③「興味・関心のあること」に相当)。 

 

賢治の母は,「法華経」の中の如来のように「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と幼かった賢治を毎晩寝かしつけるときに話しかけていた。賢治は眠りに就くときだけしか母に甘えられなかったが「如来寿量品第十六」を読んで母がいつでも近くにいて見守っていてくれていたのだと感じることができたとき,さらに「如来寿量品第十六」に本当のことが書かれてあると確信したとき,賢治の身体は感動で震えたのだと思われる。そして,法華経に帰依したのだと思われる。

 

「如来寿量品第十六」にある「いつでもあなたの近くで見守っている」と同様の言葉は,浄土真宗の祖である親鸞の話したとされる言葉にもある。親鸞の遺言の書と伝わる『御臨末御書』には「一人居て喜ばは二人と思うべし,二人居て喜ばは三人と思うべし,その一人は親鸞なり。」という言葉がある。また,キリスト教の聖書の中でも見つけることができる。「創世記」28章15節の「ヤコブのはしご」と呼ばれている有名な一節の中にある。迫害されたヤコブ(ユダヤ民族の祖)が夢の中で神から「見よ。わたしはあなたとともにあり,あなたがどこに行っても,あなたを守り,あなたをこの地に連れ戻そう。・・・・決してあなたを捨てない。」という啓示を受ける。また,「マタイによる福音書」18章20節には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには,わたしもその中にいる」とある。

 

「いつでもあなたの近くで見守っている」という言葉は,いかなる教派に係わらず宗教にとって本質的なものなのかもしれない。しかし,だれもが「如来寿量品第十六」を読めば賢治のように感動するのであろうか。そんなことはないように思える。少なくとも私には震えるほどの感動はなかったし,納得あるいは理解もできていそうにない。賢治もそれは承知していた。それが,童話『マリヴロンと少女』に記載されている。

 

『マリヴロンと少女』(大正10年頃?)は,「如来寿量品第十六」を童話化した作品と思われる。歌手であるマリヴロン女史を尊敬し,憧れているギルダという少女がコンサート会場を訪れる。少女はマリヴロン女史に「私の尊敬をお受けください。あすアフリカへいく牧師の娘です」と話すと,マリヴロン女史は「あなたこそ立派なお仕事をあちらにいってなさるのでしょう。わたくしはほんの十分か十五分か声のひびきのあるうちのいのちです」と答えて相手にしない。こんな会話が繰り返されたあとに,少女は「ずっとあなたのそばにいたいから,一緒に連れて行ってください」と懇願するが,マリヴロン女史はそれに応じず去っていってしまう。ただ,マリヴロン女史は去り際に「私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。」と答える。このマリヴロン女史の「いつでもあなたが考へるそこに居ります」という言葉が,「自我偈」にある「常在此不滅」に対応していると思われる。しかし,ギルダという少女は,この言葉を聞いたあとでも「連れて行ってください」と懇願する。少女はマリヴロン女史の最後の言葉にも納得しない。すなわち,少女を衆生としマリヴロン女史を如来とすれば,衆生の少女には如来であるマリヴロン女史の言葉が理解できていそうにない。

 

「いつでもあなたの近くで見守っている」という言葉は,宗教において重要な言葉なのかもしれないが,存在と非存在が同じといっているようなものなので,「科学的思考」に慣れてしまった我々(衆生)がその言葉を理解するのは難しいと思われる。また,この言葉を信じることもできそうにない。

 

理解するためにはまず考える必要がある。考える方法として,前述した観察や実験などを重視する「科学的思考」があるが,これ以外に「野生の思考」というのも知られている。「野生の思考(La pensée sauvage)」はフランスの文化人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースが先住民族の部族観察から見出した思考形態である。我々も遠い昔はこの「野生の思考」を用いて生活していたのかもしれない。賢治は『農民芸術概論綱要』の序論で「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれわれの直観の一致に於て論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない ・・・われらは世界のまことの幸福を索(もと)めよう 求道すでに道である」と記載していた。私にはできないが,賢治は「いつでもあなたの近くで見守っている」という言葉を「野生の思考」のような「直観」で理解あるいは納得していたのかもしれない。そして,幼い頃に寝かしつけられるときに聞いた母の「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉を思い出して感動したのであろう。(続く)

 

参考にしたブログと引用文献など

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『若い木霊』(4)-鴾の火と法華経・如来寿量品の関係について-   https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/16/061200

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.

森 荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

大橋(兼子)敬子.2008(更新年).植物の環境調節(日本植物生理学会みんなのひろば).2021.2.24(調べた日付).https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=1845

坂本幸男・岩本 裕(訳注).1994.法華経下.岩波書店.

戸梶亜紀彦.2001.『感動』喚起のメカニズムについて.Cognitive Studies 8(4),360-368.

戸井田宏美・大村好孝・古在豊樹.2003.明暗の非周期変動下におけるトマト実生の生育.生物環境調節 41(2):141-147.

自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉- 

賢治は,自分よりも他人の幸せを優先するという性格を有している。この性格は幼い頃から持っていたようで,18歳で島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』を読んで感動し,やがて法華経の世界にのめり込んでいく。賢治は,法華経の教えを童話の形にした作品を数多く残した。例えば,『銀河鉄道の夜』(石井,2021a,b),『若い木霊』(石井,2021c),『よく利く薬とえらい薬』(石井,2021d),『マリヴロンと少女』などがある。また,『農民芸術概論綱要』の序論でも「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない・・・われらは世界のまことの幸福を索(もと)めよう 求道すでに道である」と記載している。また,東北の農民を救済するための菩薩行も実践した。

 

では,賢治の作品や菩薩行に影響を及ぼした他者を優先する性格はどのようにして形成されたのであろうか。性格形成において一番重要なのは産みの親である母(あるいは母の代理)との関係であり,大部分は幼少期に形成されるということが知られている。本稿(1)では,賢治が幼少期に母から聞いたとされる言葉,母を回想した賢治自身の手紙,そして残された多くの童話をもとに,賢治の自分よりも他人の幸せを優先する性格に導いた母の影響について考察する。次稿(2)では法華経との運命的な出会いとそれを読んで感動した理由を賢治の性格と結びつけて考察する。また,次次稿(3)では他者優先によって築いたものが賢治の言う蜃気楼にすぎなかったのかどうかについて考察する。

 

1.乳幼児期に母が語ったとされる言葉

幼かった頃の賢治と母・イチの関係を記載している資料はわずかしか残されていないが,賢治と母との関係は希薄なものであったように思える。賢治研究家の堀尾青史の作成した年譜(堀尾,1991;宮沢,2001)や賢治の親友である森 荘已池の賢治の家族からの聞き取り(森,1974)によれば,賢治の母・イチは慈母と伝えられていて,愛憐の情に充ち,自分の子だけでなく人々の幸せを祈り,変わらぬ明るさで人に接したという。しかし,病弱でもあり,次々に生まれる妹弟の世話,舅と姑の看病あるいは家業の手伝いに忙殺されていたともある。

 

例えば,イチが質・古着商の政次郎と結婚したころの話しだが,イチは口うるさい魚好きの舅の料理で,三枚におろして刺身と煮物にしてくれといわれても方法がわからず,実家に帰って母や魚屋に教わったりもしていた。親戚の者が,いつ来ても嫁の姿が見えないと笑っていたという。また舅は料理の皿数が少ないと小言も言っていたらしい。姑も体が弱く床についていて,店に良く買ってくれる上客がくると,座敷にあげてもてなす習わしなので,イチは台所仕事にも追われていた。

 

実際に幼い頃の賢治は,忙しい農家の乳幼児のようにオシメの交換が少なくて済む「嬰児籠(えじこ)」の中で育てられている。また,この時期に忙しい母親に代わって子守したのは,事情があってか婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた父の姉・ヤギであり,賢治をひどく可愛がった。6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは父や祖母・キンの妹・ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという。

 

また,イチは夫・政次郎にも従順な姿勢はみせていた。イチが子供,特に娘達に着物を作ってやりたいと訴えたが,政次郎は身を飾るより心を磨けと答えたという。多分,イチは政次郎に反論できなかったのであろう。忙しい体にむち打って養蚕に励み,繭を売り,あるいはつむぎ,その金で娘達に着物をととのえた。店で売る古着は農民たちのもので,町娘の着られるものではなかったのだという。結局,この労働と気苦労で,心臓病や神経痛に苦しむことになる。

 

母・イチが子供たちだけでなく,それ以外の人たちの世話も積極的に行うのは,イチの母・サメの影響だと言われている。サメもまた「姑に仕え,夫の弟妹の世話をし,七人の子を生み,まめまめしく働いた」という。性格は「生まれたままのようにうぶな,純な心をもち,仏心篤(あつ)く多くの人を助けた」という。

 

このように,賢治が幼かった頃の母・イチは家業の手伝いが忙しいとはいっても祖父,祖母あるいは妹や弟の世話を焼いていた。賢治は,寂しかったにちがいない。弟の清六がこの頃からの賢治について「表面陽気に見えながらも,実は何とも言えないほどの哀(かな)しいものを内に持っていたと思うのである。・・・兄は家族たちと一緒に食事をするときでさえ,何となく恥ずかしそうに,また恐縮したような格好で,物を噛むにもなるべく音をたてないようにした。また,前屈みにうつむいて歩く格好や,人より派手な服装をしようとしなかった」と語っている(宮沢,1991)。清六が使っている「哀しい」は「寂しい」「かわいそう」といったニュアンスが含まれていると思われる。

 

幼い頃の賢治は,慈母とされる母が厳格で気難しい父,祖父,祖母を押しのけてまでも常にそばにいて自分を守ってくれる存在とは感じていなかったように思われる。賢治は寂しかっただけでなく,「いじけ」や「ひがみ」の感情を持つようになっていたことは容易に想像がつく。

 

それでも,忙しかった母・イチは幼い頃の賢治を寝かしつけながら「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と毎晩のように語り聞かせたという。また,後年イチが,「どうして賢さんは,あんなに,ひとのことばかりして,自分のことはさっぱりしないひとになったベス」と深いなげきをこめて言ったときに,賢治の弟の清六が「なにして,そんなになったって言ったってお母さん,そう言って育てたのを忘れたのスか」と母の言葉に答え,二人で笑ってしまうのであった,というエピソードも残されている。

 

母の言葉とこれまでの述べた,賢治と母・イチの関係が事実あるいはそれに近いものだとすれば,母の「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉は賢治に多大な影響を及ぼしたと思われる。母の言葉を実践しなければ母から愛されないばかりか母から見捨てられるという不安も感じたかもしれない。もし不安に感じていたなら,その不安が自分よりも他者を優先するという性格形成に影響を及ぼした可能性は大きい。

 

2.手紙に書かれてある賢治の母への思い

幼い頃の母の言葉が賢治に大きな影響を及ぼしたかもしれないということを裏付けるものが賢治の手紙の中にも記載されている(宮沢,1985)。

 

賢治は,大正7(1918)年1~2月頃に,盛岡高等農林学校を出てから自分の今後の生活,特に信仰生活についてどうするのか決めなければならなくなっていた。2月2日に父・政次郎あての手紙(封書)に母のことが記載されている。この手紙は厳格な父にあてたということもあり「候」を使う丁寧な文章になっている。

 

引用文A

・・・・・さて母上とては尚祖父様祖母様の御看病を始め随分と御苦労され,如何にもしても少し明るくゆっくりしたる暇をも作り上げ申さんと,中学一年の時より之を忘れたる事は御座なく候へども,何か言へばみな母上を困らすような事のみにて何とも何とも自分の癖の悪くひがみ勝ちになるには呆れ奉(たつまつ)り候

・・・・願はくば誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先ずは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をも得られるようにし,進みては人々にも教え又ほどこし若し財を得て志那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様,皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償(つぐない)をも致すことと存じ候

 

引用文Aで,賢治は母が祖父や祖母の世話で大変だった幼い頃のことを述懐している。中学生になった頃から母に楽をしてもらうことを心がけていたが,「ひがみがち」にもなり,逆に母を困らせるようなこともしてしまったということが記載されている。また,自ら勉強して法華経の心を悟り働いて自活できるようになったら,蓄財して,母への償いのために法華経の教えを中国や印度に広めたいとも言っている。

 

引用文Aには,母を困らせたとあるがどのように困らせたかについて記載はない。「ひがみがち」とあるから,自分はあまり構ってもらえなかったという思いによるのかもしれない。時期が異なるが,賢治が農学校を退職したあと実家を離れて「桜」で暮らすようになったときのエピソードとして次のようなものがある。賢治が「桜」で暮らすようになってから,食べるものも食べないで畑仕事に精を出しているのを心配して,母が娘のクニ(賢治の妹)に「ひっつみ」(スイトンのようなもの)をもたせてやったが,賢治は「置いていっても食わねえんがな」と言ったという。泣きながら持ち帰ったクニを見かねて,母は「桜」を訪れ「せっかく食べさせたいと思ってこさえたもンだから,よこしたら,だまって食べてござい」と言ったという。すると,賢治は「ひっつみかえしてから,俺もないたンすじゃ。かえされたひっつみを見て,お母さんは,きっと泣くだろうと思って,クニ子をかえしてから,お母さんよりも,オレの方がもっとうんと泣いたンすじゃ」と答えたという(宮沢,1991)。賢治の母への屈折した愛情表現を伺わせるエピソードである。多分,賢治は母に対して素直になれず母を困らせることを繰り返したのだと思う。

 

大正7(1918)年6月20日前後の親友である保阪嘉内あての手紙(封書)にも母のことが記載されている。これは,保阪の母が亡くなったという知らせを受けての手紙である。(引用文BとC)

 

引用文B

私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりも私を育ててくれました。私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく中風の祖母を三年も世話して呉れ又仝(とう)じ病気の祖父をも面倒して呉れました。そして居(い)て自分は肺を痛めて居るのです。私は自分で稼いだ御金でこの母親に伊勢詣がさせたいと永い間思ってゐました。けれども又私はかた意地な子供ですから何にでも逆らってばかり居ます。この母に私は何を酬いたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。(下線は引用者,以下同じ)

 

引用文C

私の家には一つの信仰が満ちてゐます。私はけれどもその信仰をあきたらず思ひます。勿体のない申し分ながらこの様な信仰はみんなの中に居る間だけです。早く自らの出離の道を明らめ,人をも導き自ら神力をも具(そな)へ人を法楽に入らしめる。それより外に私には私の母に対する道がありません。それですから不孝の事ですが私は妻を貰って母を安心させ又母の劬労(くろう)を軽くすると云ふ事を致しません。

 

引用文Bは,引用文Aの手紙内容とほぼ同じで,母がとても苦労をしていたということが記載されている。また,引用文Aで「ひがみがち」で「困らせる」と表現しているところとを,引用文Bでは「かた意地」なので「逆らう」と表現している。同じ意味だと思われる。引用文Cでは,母の苦労に酬いるために自分がなすべきことが明確に記載されている。それは,母と伊勢詣に行くことでも,妻も娶って母の苦労を軽減させることでもない。「ひとのために何かしてあげる」ことである。具体的には,手紙に「出離の道」とあるように仏門に入ることである。しかし,仏門に入るといっても,宮沢家が信仰する浄土真宗ではなく引用文Aにあるように法華経に帰依することである。

 

父・政次郎は浄土真宗の熱心な信徒で,花巻仏教会などを組織して講習会や勉強会などを開催していた。賢治も家に居るときは浄土真宗の信徒であることを装っていた。しかし,この手紙では,これからは父の意に反して法華経教徒として生きていくと強く主張している。

 

3.童話の中の母と子の物語

賢治が書いた童話の中にもイチと賢治が投影された母と子が登場する。『よく利く薬とえらい薬』は大正10(1921)年から11年頃に書かれたとされる短編童話である。

 

この童話は,賢治が投影されている主人公の清夫が「森」の中で不思議な「透き通ったばらの実」を探す物語であるが,読み手にそれが何を意味しているのか読み解かせる物語でもある。清夫は「森」の中で「透き通ったばらの実」を見つけて口にすると体がブルブルッと震えてすがすがしい気分になる。また,それを持ち帰って病気の母に食べさせると母の病気が回復してしまう。

 

バラの実がノイバラの実あるいはキイチゴとしても,これらバラの実を食べたからと言って病気の母が回復するとは思えない。清夫がこの「透き通ったばらの実」に触れると「ブルブルッと震えてすがすがしい気分になる」が,この記載は賢治が3~4年前に「法華経」の「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえてしまったという実体験に基づいているように思える。すなわち,このバラの実の正体は,食用にするキイチゴなどのバラの実ではなく「みんなの幸い」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことであろう。

 

賢治の母との関係は童話『銀河鉄道の夜』(大正から昭和にかけての作品)でも取り上げられているように思える。この童話には主人公であるジョバンニの親友であり,賢治自身が投影されているカムパネルラという少年が登場する。銀河の祭の日に,カムパネルラは級友たちと一緒に「烏瓜の明かり」(流し燈籠のようなもの)を川に流しに行くが,誤って川に落ちた級友を助けようとして溺れてしまう。川に溺れ瀕死の状態でいるカムパネルラは,このとき走馬灯とも言われる溺死した者や交通事故死した者が体験するような夢をみる。この夢にはジョバンニも登場してくる。夢の中で二人は銀河鉄道の列車に乗って北十字(白鳥座)から南十字に向かって旅をする。旅が始まろうとした頃,カムパネルラは親孝行も満足に出来ずに母よりも先に死んでしまうことの自責の念ともとれる悲しい思いをジョバンニに表白する。

 

引用文D 

「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふやうに,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

ジョバンニは,(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。

「きみのおっかさんは,なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども,誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは,なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿)宮沢,1985

 

引用文Dの下線部分の語句は引用文Bの手紙に記載された下線部分の「この母に私は何を酬いたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。」に対応していると思われる。引用文Dから読み取れる母の求めたものは,母が「ほんたうに幸(さいはひ)になる」ものであり,それは「ほんたうにいいことを」することである。カムパネルラにとって,そのためなら「どんなことでもする」という最上の「ほんたうにいいこと」とは何であろうか。多分,それは自分を犠牲にしてでも他者を救うということであろう。これは,賢治の母の言葉「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」に通じるものがある。

 

カムパネルラは,級友のザネリが烏瓜の明かりを川に流そうとして川に落ちた時に,すばやく川に飛び込んで助けた。自分よりも「他人の幸せを優先」したことで自らは川の底に沈んだ。カムパネルラのとった自己犠牲の行動は,彼にとって「ほんたうにいいこと」なのだと信じられている。また,カムパネルラは,自分が早く死んでしまって母を悲しませるようなことをしたが,「他人の幸せ」のためにやった行為ということで母から許されると信じた。賢治もまた,カムパネルラが実行した行動を母・イチが自分に望んでいたものであると信じている。

 

このように,賢治が幼い頃に聞いた母の「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉は賢治の性格形成と深く関わっていると思われる。(続く)

 

参考にしたブログと引用文献など

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-仏教と異界の入口の植物-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/103821

石井竹夫。2021b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/13/085221

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『若い木霊』(4)-鴾の火と法華経・如来寿量品の関係について- https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/16/061200

石井竹夫.2021d.植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(1) https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/05/182423

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢賢治.2001.新校本宮澤賢治全集第十六(下)補遺・資料 年譜篇.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.

森 荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

 

自分よりも他人の幸せを優先するカムパネルラ-性格形成に影響を与えた母の言葉- 

前ブログで,『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に登場する鬼殺隊の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)が自分を犠牲にしてまでも他者(弱き人)を優先する特異な性格を持っていること,およびその性格形成に導いた理由の1つに幼い頃に母から聞いた「弱き人を助ける」という言葉があったことを紹介した。

 

文学作品の中で,煉獄と同様の性格を持つ者を1人挙げよと言われれば,私なら童話『銀河鉄道の夜』に登場するカムパネルラという名の少年を挙げる。カムパネルラにとって,最も大切なものは「みんなの本当の幸せ」である。すなわち,カムパネルラにも自分よりも他人の幸せを第一にしてしまうという性格がある。本稿ではカムパネルラの行った「他者優先」の具体的な事例を紹介し,なぜカムパネルラが自分よりも他人の幸せを優先してしまうのかについて,煉獄の事例と比較しながら考察する。

 

1.童話『銀河鉄道の夜』においてカムパネルラが他者を優先する具体的な事例

カムパネルラは,宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』(大正から昭和にかけての作品)に登場する主人公ジョバンニの親友である。銀河の祭の日に,カムパネルラは,級友たちと一緒に「烏瓜の明かり」(流し燈籠のようなもの)を川に流しに行く。しかし,カムパネルラたちが乗った船が揺れて級友のザネリが川に落ちてしまう。誰も助けようとしないが,カムパネルラだけがすばやく川に飛び込む。その様子は以下のように詳細に記載されている。

 

引用文A

「ジョバンニ,カムパネルラが川へはひったよ。」

「どうして,いつ。」

「ザネリがね,舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやらうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったらう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

「みんな探してるんだろう。」

「あゝすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附からないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」

                     (『銀河鉄道の夜』四次稿)

 

多分,川に飛び込んだカムパネルラはザネリを助けているとき,自分が咄嗟に出せる力のほとんどを使い切ってしまったと思われる。それゆえ,船に戻るために必要な力もなく溺れてしまう。カムパネルラが実際に死んでしまったかどうかは記載されていない。しかし,カムパネルラは溺れてから45分たっても見つからないので死が暗示されている。

 

親が溺れた子供を捨て身で助けることはあり得る話と思っている。しかし,カムパネルラとザネリは同級生であるにすぎない。さらに,ザネリは親友のジョバンニを常日頃から「いじめ」の対象にしていた。カムパネルラは,ザネリに対して憎しみの感情を持っていてもおかしくない。しかし,カムパネルラは躊躇することなく,あるいは自分の命を犠牲にしてまでもザネリを助けようとした。

 

また,カムパネルラはジョバンニと一緒に「みんなの幸せ」を求めていくことを誓っていた。童話『銀河鉄道の夜』の最終章でカムパネルラはジョバンニと以下のような会話をする。

 

引用文B

ジョバンニはあゝと深く息しました。

「カムパネルラ,また僕たち二人きりになったねえ,どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸(さいはひ)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまはない。

「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

           (『銀河鉄道の夜』第四次稿)下線は引用者 以下同様

 

このように,カムパネルラは煉獄杏寿郎と同様に自分の命あるいは自分の幸せよりも他人の幸せを優先している。

 

2.なぜカムパネルラは自分よりも他人の幸せを優先してしまうのか

その答えになるヒントは,カムパネルラが川で溺れて,瀕死の状態で見た夢に現れる母を回想するシーンの中に隠されている。人は死の間際に,特に溺死(できし)や自動車事故などの死の危機に瀕するときなどに,限られた人だけと思われるがこれまでの人生を一瞬で追体験する「走馬灯」がよぎるとされる。パノラマ体験とも呼ばれるものである。また,カムパネルラが見た夢は,同時刻にジョバンニが黒い丘で眠ってしまったときに見た夢と共有している。これは,「臨死共有体験;shared death experiences」と呼ばれている。

 

二人が同時に見た天上世界すなわち夢の中で,カムパネルラは親孝行も満足に出来ずに母よりも先に死んでしまうことの自責の念ともとれる悲しい思いをジョバンニに表白している。

 

引用文C

「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふやうに,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

ジョバンニは,(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。

「きみのおっかさんは,なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども,誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは,なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

                     (『銀河鉄道の夜』第四次稿)

 

カムパネルラが他者を優先するのは母が自分に求めていることと関係する。物語のこの場面から読み取れる母の求めたものは,母が「ほんたうに幸(さいはひ)になる」ものであり,それは「ほんたうにいいことを」することである。カムパネルラにとって,そのためなら「どんなことでもする」という最上の「ほんたうにいいこと」とは何であろうか。多分,それは『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎が鬼である猗窩座(あかざ)との死闘で実践したように自分を犠牲にしてでも「他者を助ける」,あるいは「人の役に立つ」ということであろう。

 

カムパネルラは,級友のザネリが烏瓜の明かりを川に流そうとして川に落ちた時に,すばやく川に飛び込んで助けた。自分よりも「他者を優先」したことで自らは川の底に沈んだ。カムパネルラのとった自己犠牲の行動は,彼にとって「ほんたうにいいこと」なのだと信じられている。また,「カムパネルラ」は,自分が早く死んでしまって母を悲しませるようなことをしたが,「他人の幸せ」のためにやった行為ということで母から許されると信じた。

 

この信念は作者の宮沢賢治にもある。賢治もまた,カムパネルラが実行した行動を母・イチが自分に望んでいたものであると信じている。これまで,カムパネルラには賢治の親友であった保阪嘉内や妹・トシが投影されているとされていたが,私はカムパネルラには賢治自身が,またカムパネルラの母には賢治の母・イチが投影されていると思っている。

 

賢治の親友である森荘己池によれば,賢治の母・イチは,乳幼児だった賢治を寝かしつけながら「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と毎晩のように語り聞かせたという。この母・イチの言葉は,『鬼滅の刃』に登場する杏寿郎の母・瑠火(るか)が幼い息子に諭した「弱き人を助けよ」や「強く生まれた者はその力を世のため人のために使わねばなりません」という言葉と類似している。

 

ただ森の話には後日談がある。後年イチが,「どうして賢さんは,あんなに,ひとのことばかりして,自分のことはさっぱりしないひとになったベス」と深いなげきをこめて言ったときに,賢治の弟の清六が「なにして,そんなになったって言ったってお母さん,そう言って育てたのを忘れたのスか」と母の言葉に答え,二人で笑ってしまうのであった,というエピソードも残されている。

 

幼かった頃の賢治と母の関係を記載している資料はわずかしか残されていない。賢治研究家の堀尾青史の作成した年譜によれば,賢治の母・イチは「慈母」と伝えられていて,愛憐の情に充ち,自分の子だけでなく人々の幸せを祈り,変わらぬ明るさで人に接したという。しかし,病弱でもあり,次々に生まれる妹弟の世話,舅と姑の看病あるいは家業の手伝いに忙殺されていたともある。

 

実際に幼い頃の賢治は,忙しい農家の乳幼児のようにオシメの交換が少なくて済む「嬰児籠(えじこ)」の中で育てられている。また,この時期に忙しい母親に代わって子守したのは,事情があってか婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた父の姉・ヤギであり,賢治をひどく可愛がった。

 

6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは父や祖母・キンの妹・ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという。このように,少ない記録ながら,幼い頃の賢治は「慈母」とされる母に甘えられなかったようである。

 

賢治自身も,幼い頃の自分と母・イチとの関係は希薄であったと感じている。多分,賢治は,自分の見る夢を精神分析学の知識を基に解析してそのように感じたように思える。そして,母から十分愛されているという確信が得られなかったという寂しさを童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)に登場する少年のカムパネルラやキリスト教徒の姉弟の男の子(タダシ6歳)に投影させた。男の子がジョバンニとカムパネルラの夢の中を走る銀河鉄道の列車の中で母の夢を見るが,母に抱きしめられることなくリンゴの匂いで目が覚める。

 

引用文D

にはかに男の子がぱっちり眼をあいて云ひました。

「あゝぼくいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚(とだな)や本のあるとこに居てね,ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝここさっきの汽車のなかだねえ。」 

「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云ひました。

「ありがとうおじさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん,りんごをもらったよ。おきてごらん。」

姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰(た)べるやうにもうそれを喰べてゐました。

                                               (『銀河鉄道の夜』第四次稿)

 

男の子が夢の中で見た母は,「立派な戸棚や本」のある所にいる。「立派な戸棚や本」が父を象徴するなら,母はいつも父の傍にいることになる。男の子の見た夢は,アップルパイでも作ってもらいたいのか,庭に落ちている「りんごをひろってきてあげませうか」と言って母の関心を引こうとしているものである。このとき,母が「ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ」とある。この男の子の母は,『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で煉獄杏寿郎が見た走馬灯のような回想シーンに現れた母のように,手を広げて胸に飛び込んでくるようにと誘っていたのかも知れない。煉獄は母に抱きしめられるが,男の子は抱きしめられる前に,あるいは求めに応えてくれる前に目が覚めてしまう。母と子の関係が希薄ということを象徴する夢のようである。多分,賢治も,これと類似した「求めるが応えてくれない」というパターンの夢(無意識の中に封じ込めた幼い頃のの記憶)を繰り返し見ていたと思える。

 

賢治が投影されているカムパネルラが自分よりも他人の幸せを優先してしまうのは,寂しく母の愛情を強く欲する賢治が幼少のころに母から子守歌として聞いた「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉が関係しているのかもしれない。この言葉は,『銀河鉄道の夜』には記載されていないが,賢治は幼少期のカムパネルラにも母から聞いていたというふうに設定しておいたのかもしれない。そして,賢治も感じていたかも知れないが,カムパネルラは母の願いに応えなければ見捨てられてしまうのではないかと不安を掻き立てられていた。

 

そうならば,「ひとというものは,ひとのために何かしてあげる」という母の願いはカムパネルラの深層意の中にもすり込まれ,成長過程でカムパネルラの決して変わることのない「他者優先」という性格を形成したと考えてもよさそうだ。これが,カムパネルラが自分を犠牲にしてでも川に溺れたザネリを助けようとした主な理由と思える。賢治自身も病弱にもかかわらず,人(農民)のために無償で肥料設計の相談にのったり,東北砕石工場の嘱託技師になり東北の酸性土壌を改良するため炭酸石灰の普及に奔走したりした。体を酷使し続けた賢治は37歳の若さでこの世を去った。

 

川に溺れ瀕死の状態になったカムパネルラが母を回想するシーン(「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」で始まる引用文C)で,カムパネルラはザネリを助けたが自分は死んでしまうということに対して,「誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」と言っていた。果たして,この場面で実際に母が幻覚として現れたら,母は息子のカムパネルラにどのような言葉を投げかけたであろうか。

 

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で煉獄は猗窩座との死闘ののちに猗窩座に逃げられ,自らは猗窩座から受けた致命傷により瀕死の状態になる。このとき,母・瑠火(るか)が再度幻覚として現れる。煉獄が母に「俺はちゃんとやれただろうか やるべきこと 果たすべきことを全うできましたか」と問いかけると,母は「立派にできましたよ」と答えた。ならば,童話『銀河鉄道の夜』において,溺れて瀕死の状態になったカムパネルラが幻覚として現れた母に「おっかさん,ぼくはちゃんとやれただろうか やるべきこと 果たすべきことを全うできましたか おっかさんよりも長生きできませんでしたが,ぼくをゆるして下さいますか」と尋ねたとき,カムパネルラが推測していたように,母は本当に「許します。立派にできましたよ」と答えてくれたのだろうか。

 

これは,私の推測に過ぎないが,カムパネルラの母の望んだものが何をさておいても「ひとというものは,ひとのために何かしてあげる」すなわち「人に役に立つ」ことであったなら,涙を流しながらでも許してくれたかもしれない。しかし,母がカムパネルラに「人に役に立つ」ということを本当に強く望んでいたかについては疑問が残る。カムパネルラは,自分では「誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだ」と思っているが,自分のこの思いが母の思いでもあると信じていたのなら,それはカムパネルラの単なる思い過ごしだったように思えてならない。それは,前述した森荘己池の話の後日談にある「どうして賢さんは,あんなに,ひとのことばかりして,自分のことはさっぱりしないひとになったベス」という母・イチの嘆きの言葉があるからである。

 

賢治は昭和元年に農学校を退職し,その後病床に臥せってしまう。その頃,賢治の父・政次郎は,賢治に「お前の生活はただ理想をいっているばかりのものだ。宙に浮かんで足が地についておらないではないか。ここは娑婆(しゃば)だから,お前のようなそんなきれい事ばかりで済むものではない。それ相応に汚い浮世と妥協して,足を地に着けてすすめなくてはならないのではないだろうか」「お前の病気は悪用不足から来ているということだぞ。つまりきれいなことばかりやろうとしたために起こった病気なんだ」と諭したという。父・政次郎は賢治の生き方に対して褒めたことがなかったとされている。しかし,昭和8年9月21日に,息子の臨終の際に枕元で初めて「おまえもなかなか偉い」と褒めたという。褒められたのは,父が残された原稿の使い道を賢治に尋ねたとき,賢治が「それらは,みんな私の迷いの跡だんすじゃ。どうなったって,かまわないんすじゃ」と答えたことによる。しかし,昭和6年に東北砕石工場の嘱託技師兼サラリーマンになり地に着いた仕事に従事したことも関係していたのかもしれない。賢治は弟・清六にも「清六。・・・おれもな,とうとうお父さんに賞(ほ)められたもんな」と静かに微笑みを浮かべたという。

 

参考資料と引用文献

植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅱ)-リンゴの中を走る汽車-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/05/092120

植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅴ)-なぜカムパネルラは自分を犠牲にしてザネリを救ったのか-         https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/08/125658

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-列車の中のリンゴと乳幼児期の記億-     https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/18/090817

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-  https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/13/085221

自分よりも他者を優先する煉獄杏寿郎,母と父の言葉 https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/12/14/140122

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

佐藤隆房.1994.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

佐藤竜一.2008.宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死.集英社.

 

自分よりも他者を優先する煉獄杏寿郎-性格形成に影響を与えた母の言葉- 

2020年に吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)の漫画『鬼滅の刃』を原作としてufotableが制作した長編アニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が公開された。220日間の我が国での観客動員数は2896万人である。2021年にはテレビ(7回シリーズ)でも放映された。この長編アニメ映画は無限列車の乗客を鬼の攻撃から守る鬼殺隊の物語である。この物語には鬼殺隊員で主人公の竈門炭治朗(かまどたんじろう),炭治朗の妹・禰豆子(ねずこ),その妹に思いを寄せる我妻善逸(あがつま ぜんいつ)などのユニークな名前や性格の人物たちが登場する。その中でとても興味深い性格を有するのが鬼殺隊の1人である20歳の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)である。

 

鬼殺隊の竈門炭治朗や胡蝶三姉妹(カナエ,しのぶ,カナヲ)は家族が殺されたことによる怨(うら)みあるいは憎しみで鬼と戦う。炭治朗には鬼にされた妹を人間に戻すためというのもある。しかし,煉獄は,他の多くの鬼殺隊員にある鬼に対する怨みや憎しみを決して見せない。煉獄の鬼と戦う理由は,「世のため人のため」であり,「弱き人を助けるため」である。しかも,自分を犠牲にしてまでも「弱き人たち」を守ろうとする。煉獄の行動はとても崇高であるが理解しがたいものもある。

 

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は多くの日本人に感動を与えた名作であるが,感動を与えた理由の1つとして煉獄杏寿郎の「弱き人を助ける」という性格があると思われる。本ブログでは煉獄杏寿郎の「弱き人たち」を守った具体的な事例を紹介し,なぜ煉獄が自分よりも他者(弱き人たち)を優先してしまうのかについて考えてみたい。

 

1.『鬼滅の刃』において煉獄が他者を優先する具体的な事例

『鬼滅の刃』の舞台は大正時代である。煉獄は,40人以上の行方不明者を出している「無限列車」に鬼の討伐を目的として送り込まれる。列車には200人ほどの乗客がいる。物語の後半で,煉獄は鬼である猗窩座(あかざ)と1対1で戦うことになる。猗窩座は鬼の精鋭集団・十二鬼月(じゅうにきづき)内ではトップ3の実力者である。煉獄と猗窩座は最初互角の戦いを繰り広げる。しかし,猗窩座は日輪刀で首を落とされない限り,また太陽の光を浴びない限り致命的な傷を受けることはない。猗窩座は煉獄の日輪刀による攻撃を受け腕あるいは体部に深傷(ふかで)を負ってもすぐに回復してしまう。それゆえ,煉獄は技術的には五角でも生身の人間であるので持続する戦いのなかで確実に傷つき,そして体力も消耗していってしまう。強い者に共感する猗窩座は,「鬼になれ」「お前は選ばれし強き者なのだ」と煉獄を鬼に誘う。しかし,煉獄はこれを拒否して,「俺は俺の責務を全うする ここにいる者は誰も死なせない」(下線は引用者,以下同じ)と答え戦いを続ける。

 

最後の戦いで猗窩座の右手が煉獄の急所を貫通する。煉獄は致命傷を負い不利な形勢になったが「弱き人を助ける」と約束した母・瑠火(るか)の言葉を思い出し,傷ついた体を奮い立たせ,また最後の力を振り絞って猗窩座の首を切り落としにかかる。再度五角の戦いになるが,猗窩座は,夜明け近くになり太陽の光を避けるため卑怯にも戦いを止めて逃げてしまう。煉獄は,戦いが終わったあと,猗窩座から致命的な傷を受けたために死んでしまう。

 

煉獄は,自分を犠牲にして鬼の攻撃から無限列車の乗客の全てを守り切った。これは,他者を優先するという行為のなかでも畏怖の念を起こさせるほどの崇高なものと思われる。

 

2.なぜ煉獄は自分よりも他者(弱き人たち)を優先してしまうのか

煉獄の自分よりも他者を優先する行動に対して感動をする人も少なくないと思われる。だが,ただ1つ気になることがある。母の「弱き人を助けなさい」という教えがあったにせよ,怨みや憎しみを感じない鬼から,自分の命を捨ててまで列車の乗客(弱き人たち)を守る必要は,はたして本当にあったのだろうかということである。乗客に犠牲がでる可能性はあるが,猗窩座のように戦いの途中で退くという選択肢もあったはずである。

 

煉獄は,猗窩座との戦闘で,このままでは負けると気づいたはずだ。技術的な戦闘能力は猗窩座と同等だったが,ダメージを受けてからの身体回復能力ははるかに劣っていた。持久戦になれば勝ち目はない。煉獄は,勝つためには技術的な戦闘能力で猗窩座をはるかに凌駕していなければならなかった。実際に,煉獄の父・槇寿郎(しんじゅろう)は息子の死を聞いたとき「たいした才能も無いのに剣士などなるからだ」「だから死ぬんだ」「くだらない・・・愚かな息子だ 杏寿郎は」と息子を批判した。

 

なぜ,負けるかもしれないという状況の中で,最後まで列車の乗客(弱き人たち)を守ろうとしたのであろうか。多分,煉獄には「弱き人を助ける」という強い意志があったからか,あるいは「弱き人」を見ると無条件(無意識的)に助けてしまうという性格を有しているからだと思われる。それでは,この強い意志あるいは性格はどのように生まれたのであろうか。これは,幼い頃の母との関係が関与している。 

 

母との関係については,映画では回想シーンの中で明らかにされる。杏寿郎がまだ幼い頃,病床にいた母・瑠火に呼ばれる。母は,切れ長の目をしていて凜々しく知的な印象を与える女性である。母のそばには杏寿郎の弟・千寿朗がリラックスした姿勢ですやすやと眠っている。母は,正座している杏寿郎に「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか わかりますか」と問う。幼い杏寿郎は「わかりません」としか答えられなかったが,母は「弱き人を助けるためです 生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は その力を世のため人のために使わねばなりません」「天から賜(たまわ)りし力で人を傷つけること,私腹を肥やすことは許されません」「弱き人を助けることは 強く生まれた者の責務です 責任を持って果たさなければならない使命なのです 決して忘れることなきように」と杏寿郎に諭す。杏寿郎は大きな声ではっきりと「はい」と答える。そして最後に,「母はもう長く生きられません」「強く優しい子の母になれて幸せでした あとは頼みます」と手を広げて杏寿郎を招き寄せる。そして杏寿郎を強く抱きしめながら涙する。これが死期を悟った母の杏寿郎に託された最後の言葉だった。

 

母が幼い杏寿郎に,「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか」について尋ね,それは「弱き人を助けるため」と諭したとき,杏寿郎は「いやです」とは答えなかった。あるいは「いやです」と答えさせなかったのかもしれない。「いやです」と答えたらどうなっていたのだろうか。

 

「いやです」と答えても母/瑠火は杏寿郎を抱きしめたのであろうか。これは重要な問いかけでもある。私は抱きしめたと思いたいが,杏寿郎はそうは思わなかったように思える。なぜなら杏寿郎は,「はい」と答えたあと母に抱きしめられるが怪訝な顔をしていたからである。普通は顔をほころばせて喜ぶであろう。しかし,喜んでいる様子はないのだ。むしろ疑っているように見える。なぜ,「はい」と答えたら抱きしめてくれたのだろうか,「いやです」と答えても抱きしめてくれたのだろうかと。杏寿郎は幼い頃に母に甘えられず,母から抱きしめられたという記憶がなかったように思える。だから,母に抱きしめられたとき,本来はうれしいはずなのに,なぜ抱きしめてくれたのか考えを巡らしたように思える。

 

母は病弱であり,杏寿郎にとって年の離れた弟の千寿朗もいた。また,煉獄家は代々鬼殺隊を輩出している名門であるが,鬼殺隊の一員でもあった父・槇寿朗が,自らの才能の無さを自覚し,剣士として戦う意義を見失っていた頃でもあった。槇寿朗は,瑠火が死んだあとは堕落し,酒に溺れ鬼殺隊も脱退する。病弱の母・瑠火は,夫や弟の世話で精一杯で杏寿郎に係わっている暇などなかったのかもしれない。すなわり,杏寿郎が母を疑うのは,母・瑠火が常日頃から杏寿郎に係わっていないからである。係わったとしても,戦意の消失している夫を見て,家を守るため杏寿郎には厳しく接したと思われる。

 

物語の前半で,猗窩座よりは格下であるが十二鬼月の一人でもある魘夢(えんむ)が登場する。彼の得意技は対戦相手の望む偽りの「楽しい夢」を見せたあと,悪夢を見せて殺すというもの。魘夢は竈門炭治朗には「母と弟妹が生きているころの楽しい夢」を見せ,善逸には炭治朗の妹・禰豆子とふたりきりで出かける夢を見せた。杏寿郎も彼の技を受けてしまうが他の鬼殺隊員のような「楽しい夢」にはならない。父に罵倒される過去の寂しい現実の世界が展開される夢であった。剣士の家に生まれ厳しく躾けられた杏寿郎には母との楽しい語らいの夢さえ許されていなかった。それゆえ,杏寿郎は母の問いかけに「いやです」と答えていたら,嫌われてしまうか見捨てられてしまうと感じたのかも知れない。

 

杏寿郎の幼少期は寂しかった。杏寿郎は母の愛情を強く求めていたが,母はそれに答えてくれていなかったと思われる。杏寿郎は,母から抱きしめられたとき,父と同じように剣士としての技術を磨き,母の望む「強く優しい子」になり,「弱き人を助ける」ことを実行すれば,また母に褒めてもらえるか,あるいは抱きしめてもらえると思ったのかもしれない。杏寿郎のこの強い「思い」あるいは「決意」は,「他者を優先」するという生涯変わることのない性格に導いたと思われる。だから,煉獄は大人になっても乗客(弱き人たち)を守るためには猗窩座との死闘から逃げることはできなかったのだ。

 

死を悟った瑠火の杏寿郎に最後に見せた抱擁と涙が,無条件の愛だったのか,あるいは自分の最後の希望を受け入れてくれたからという条件付きの愛だったのかは分からない。単なる憶測に過ぎないが,杏寿郎に対する本当の愛情は母よりむしろ父・槇寿郎にあったとも考えられる。杏寿郎は父から罵倒されることもあったが,父の助言を受け入れていれば少なくとも死ぬことはなかった。

 

杏寿郎という名前の中にある「杏(きょう)」は植物ではバラ科の「アンズ」(Prunus armeniaca L.)であろう。「アンズ」の花言葉は「臆病な愛」や「疑い」である。また父・槇寿郎の「槇(しん)」は「きへん」に真実を意味する「真(まこと)」から成る。「まき」とも読む。植物ではマキ科の「イヌマキ」(Podocarpus macrophyllus (Thunb.) Sweet f. angustifolius (Blume) Pilg.)のことと思われる。生垣や防風木として植えられることが多く,家を守るように生長する姿から,「イヌマキ」の花言葉は「慈愛」である。もしかしたら,『鬼滅の刃』の作者がこれらのことを意識して名付けたのかもしれない。

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アンズ

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イヌマキ

 

物語のラスト,煉獄の死が近づいたとき,母が幻覚として現れる。煉獄が,「俺はちゃんとやれただろうか やるべきこと 果たすべきことを全うできましたか」と問いかけると,母は「立派にできましたよ」と答える。このあと,煉獄は微笑むようにして死んでいく。この微笑みは煉獄が「弱き人を助ける」という母との約束を守ったことで母から褒められたからということは容易に想像される。しかし,私は,杏寿郎には「弱き人を助ける」や「強く生まれた者の責務」という母・瑠火の言葉の呪縛から解放されたことによる安堵もあったのだと思っている。

 

まとめ

煉獄が他人の幸せを優先してしまうのは,幼少の頃の母と交わした「弱き人を助ける」という約束によると思われる。性格形成において一番重要なのは産みの親である母(あるいは母の代理)との関係であり,大部分は幼少期に形成されるということが知られている。多分,この幼い頃の約束の言葉は母に愛されたいと願う杏寿郎にとって深層意識に封じ込まれ,彼の生涯変わることのない性格にまで影響を及ぼしたと思われる。この「他者優先」の性格が自分を犠牲にしてまでも乗客を守ろうとした煉獄の行動に導いたと思われる。

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(41)」は童話『やまなし』に関して41つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

敗れし少年の歌へる(3)

芥川龍之介(13)

業の花びら(21)

蠕虫舞手(5)

二十六夜(3)

サガレンと八月(2)

四又の百合(4)

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (41)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (8)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

賢治と化学(1)

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

童話『ビヂテリアン大祭』-植物を食べることの意味-

多くの菜食主義者(ベジタリアン)たちは,植物は食べるが動物は食べない。動物を食べない理由には2つあり,それぞれ2つのタイプのベジタリアンンが存在する。1つは動物に対して同情するから食べないというもので(同情派)で,もう1つは体に良くないから食べないというもの(予防派)である。一般的に同情派に属する人たちは仏教を信じる者が少なくなく,仏教の教えにある輪廻転生説の影響を強く受けている。すなわち,来世は豚や牛になるかもしれないということは計りがたいことだとすると,たとえ自ら殺した豚や牛でなくても食べることができないというものである。しかし,生命に対する「憐れみ」とか「平等感」ということを根底に置くなら,それは矛盾であり,動物も植物も同じであると思われる。なぜ,植物は食べてよくて動物はいけないのか。

 

菜食主義者でもある宮沢賢治に『ビヂテリアン大祭』という作品がある。賢治が亡くなった翌年(1933年)に発表された童話である。この童話の中でビヂテリアン派と反ビヂテリアン派が植物を食べることの是非について論争している。反ビヂテリアン派の1人が生物分類学的見地から次のように主張する。

ビヂテリアンたちは,動物は可哀さうだといふ,一体どこ迄(まで)が動物でどこからが植物であるか,牛やアミーバーは動物だからかあいさう,バクテリヤは植物だから大丈夫といふのであるか。バクテリヤを植物だ,アミーバーを動物だとするのは,だゞ研究の便宜上,勝手に名をつけたものである。動物には意識があって食ふのは気の毒だが,植物にはないから差し支(つか)へないといふのか。なるほど植物には意識がないやうにも見える。けれどもないかどうかわからない,あるやうだと思って見ると又また実にあるやうである。元来生物界は,一つの連続である,動物に考があれば,植物にもきっとそれがある。ビヂテリアン諸君,植物をたべることもやめ給(たま)え。

             (『ビヂテリアン大祭』 宮沢,1986)下線は筆者

 

これに対してビヂテリアン派も反論する。

いくら連続していてもその両端(りょうたん)では大分ちがってゐます。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは両端に赤と菫(すみれ)とがありまん中に黄があります。ちがってゐますからどうも仕方ないのです。植物に対してだってそれをあわれみいたましく思ふことは勿論(もちろん)です。印度(インド)の聖者たちは実際故なく草を伐(き)り花をふむことも戒(いまし)めました。然(しか)しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶(はんもん)しません。そこはそれ相応にうまくできてゐるのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺すといふやうなことは馬を殺すといふやうなのと非常なちがひです。バクテリヤは次から次と分裂し死滅しまるで速かに速かに変化してるのです。それを殺すと云った処で馬を殺すといふやうのとは大分ちがひます。またバクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく私共が生まれつきバクテリヤについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。また仕方ないのです。

             (『ビヂテリアン大祭』 宮沢,1986)下線は筆者

 

『ビジテリアン大祭』の中では,植物性と動物性食品の栄養価や味覚の比較から始まって食料の経済学的見地,生物分類学的見地,解剖学的見地,宗教学的見地など様々な切り口から論争が展開されているが,この生物分類学的見地からの論争ではビジテリアン派の反論は的を射てないと思われる。ビジテリアン派の言い分では,俗に言う「意識」(あるいは精神)のある高等生物を殺すのは可哀そうだが,「意識」のない下等生物は殺して食べても仕方がないのだといっているだけで,動物と植物の違いからは答えてはいない。

 

私は,植物に「意識」や「心(こころ)」があるのかどうか検討したことがある(石井,2021)。植物には,脳や感覚神経などの組織がないので人間の「意識」(あるいは精神)に相当するものはないと言い切れるかも知れないが,人間の心情でもある「心」がないとは言い切れないところがある。

 

解剖学者で発生学者の三木成夫(1995)によれば,「心」とは物事に感じて起こる情であり,感応とか共鳴といった心情の世界を形成するものだという。そして,「心」のある場所は,頭(脳)というよりは,心臓,胃,子宮などの「内臓器官」であると言っている。「血がのぼる」,「胸がおどる」,「心がときめく」などは,人間の心情を心臓の興奮で表現したものであるといっている。また,お腹が空いたり,子宮が28日毎に精子を待ち続け,そして「待ちぼうけ」を食らったりしたときの「いらいら」感も同様に「胃」とか「子宮」の切迫した状況での内臓表現であると言っている。無論,考えたり,知覚したりする高度な感覚は,精神あるいは意識の座である頭(脳)が司っている事は言うまでもない。

 

三木は,さらに植物にも人間や動物の内臓感覚に相当する「心」はあると信じている。例えば,動物の体内にある心臓は,植物にとっては光合成のもとである「太陽」であると言っている。植物は,豊かな大地に根をおろし,天空に向かって茎や葉という触手をのばし,太陽を中心とした循環回路のなかで光合成すなわち生の営みを行う。また,動物と同様に,「食」の相である茎・葉の生い茂る季節と,「性」の相である花が咲き実のなる季節があり,種によって時期は異なるものの「太陽系の周期」と歩調を合わせている。

 

植物は,動物を特徴づける「感覚・運動」の神経組織も筋肉組織もないので,「食」と「性」の相を行き来することはできない。それゆえ,植物は,動物のように動けなくても自分自身が,太陽を廻りながら,「食」と「性」を交代させる一個の惑星,いわば地球の「生きた衛星」となり,「太陽系の周期」との調和に,まさに全身全霊を捧げつくすのである。そして,三木はこの「太陽系の周期(宇宙リズム)」との調和が植物の純粋な「心」であると言っている。

 

上記引用文(下線部分)で反ビヂテリアン派は「元来生物界は,一つの連続である,動物に考があれば,植物にもきっとそれがある」と言っていた。この「考」は「意識」あるいは「精神」のことを指していると思われるが,ここでは「考」を「心」と置き換えてみたい。すると,植物にも動物の「心」と類似したものがあるとするなら,その「心」を持つ植物を食べても良いのだろうかという疑問が生じてくる。

 

菜食文化研究家の鶴田 静が著書の中でビヂテリアン派を擁護しているので,彼の言説をもとに「心」を有する植物を食べることの意味について検討していきたい。

動物を食べるのが罪悪なら,植物を食べるのも罪悪であるのは道理だろう。だが,その存在の意味が違うのではないだろうか。動物は,食べられるために存在しているのではない。だがある種の植物は,食べられるために存在する。ことに果樹は,人間に食べられることによって,種の存続のためにその種子を広い範囲にまくことができる。だから,「食べられる」ことは必要なのだ。

                 (『ベジタリアン宮沢賢治』 鶴田,1999)

 

果樹になる果物を考えれば,確かに「植物は食べられるために存在する」というのは説得力があるが,果樹本体および果物をつけない一般的な植物にも普遍化できるだろうか。

 

近年,植物学は著しい進歩をとげ,植物の生き残るための巧みな戦略を次々と明らかにしてきた。すなわち,植物は,動物に食べられることを前提として,いかに上手に生き残れるかを模索していったように思われる。無論,体の全部根こそぎ食べさせても良いという植物はいない。

 

菜食主義者に同情派と予防派の2つのタイプがあるように,食べられる側の植物にもいくつかのタイプが知られるようになった。1つは,体の一部を積極的に動物(人間を含む)に食べてもらうタイプ(共存派),2つ目は,体の一部を食べられても直ぐに再生できるタイプ(再生派),3つ目に,体の一部でも絶対に食べさせないタイプ(敵対派)である。これらタイプは,はっきりと区別できるものではなく重複もする。

 

県立大磯城山公園で共存派は,カキ,ザクロ,ウメモドキ,クロガネモチ,スダジイ,ツブラシイなどのように木の実あるいは果実をつけるものである。鳥と共存を選んだものは,鳥に上手く見つけてもらうために実の色を赤くしたものが多い(赤は葉の緑とのコントラストが強烈で鳥にも目立つ)。種子は赤い実の中にあり,消化されずに糞として排泄され,遠隔地に別の新しい命を誕生させる。スダジイ,ツブラシイなどのドングリはたぶんネズミが運ぶが,ネズミは冬に備えて地面に埋める習性がある。再び掘り出されて食べることなく忘れ去られたドングリは親木から離れた場所で新しい命を誕生させることになる。

 

再生派は木の実をつける木本から草本にいたるまでほとんど全ての植物を代表としている。背丈がある程度あり,発芽して成長を続ける植物の茎の先端には頂芽(ちょうが)と呼ばれる芽がついていて,次々と葉を出してくる。仮に茎の先端が葉と一緒に食べられ,この頂芽がなくなっても,残った葉の付け根にある芽(側芽)が伸び成長を続ける。また,オオバコやタンポポのように背丈が低い植物では,葉を作り出す芽は地表面すれすれのところにある。動物などにごそっと葉を食べられても,芽は食べさせないので再び葉を出すことができる。

 

さて,ここで重要なのは,再生できるから植物は食べていいのかという問題である。別の言葉で言うなら,再生派の植物にとって,一時でも,体の一部(果実以外の茎,枝,葉)を動物に食べさせることは利益になるのであろうかということである。答えは否であると思われる。植物は熟した果実以外は動物に食べられることを「良い」とはしていない。例えば,葉が昆虫などに食べられ障害を受けると,食べられている葉からある種の物質(ジャスモン酸など)が作られ,周囲の木や葉に警告を発したり,昆虫の消化酵素を阻害するプロテアーゼインヒビターなどの防御物質の生産を誘導したりすることが明らかになってきた。警告を受けた木や葉は,昆虫が嫌う化学物質の濃度を高くすることも分かってきた(高野,2000;秋田県立大学生物活性物質研究室,2021)。さらに,ヌルデの葉にヌルデノミミフシアブラムシが寄生すると,葉はタンニンという昆虫の大嫌いな化学物質を大量に作って虫こぶの中に封じ込める。また,タラノキの芽を取ると棘が大きく成長してくる。

 

すなわち,適切な言葉が浮かばないが,植物は食べられたくはないのだ。植物は葉が食べられれば「食」の相が障害され,「太陽系の周期」とうまく歩調を合わせることができなくなる。もしも,植物に「心」があるとすれば,食われるということは「太陽系の周期」と歩調を合わせることに失敗するということなので,植物の「心」は変調をきたすことになる。別の言葉で言えば,植物は自分の体を食べられれば不快を感じるのだと思われる。果実にしても,まだ熟していない青い果実は種子が完全には出来上がっていないので,果実の中に青酸などの有害物質を含有させ動物に食べさせない。

 

敵対派の数は少ないが,城山公園にもアセビ,ヒガンバナ,フクジュソウ,ツツジ,シャクナゲなどがある。猛毒のアルカロイドを自ら産生し葉,茎,花に貯蔵している。食べれば命を落とす場合もある。

 

このように,植物は必ずしも「食べられる存在」というものではないと思われる。実際は,植物だって食べられたくはないのだ。食べられて良い存在は植物体の一部である熟した甘い果実(種子を除く)くらいである。「憐れみ」とは相手の気持ちや身の上を察して気の毒に思い,行動に移すことである。植物が食べられることで不快という気持ちになるなら,それを察するということも必要であろう。すなわち,生命に対する「憐れみ」とか「平等感」ということを根底に置くなら植物も動物も同じである。反ビヂテリアン派の「動物が可哀そうだから食べないというなら(動物のように心のある)植物も食べてはいけない」(括弧内は筆者)という主張は正当といわざるを得ない。

 

賢治はベジタリアンを自称していたが,完璧なベジタリアンではない。大乗仏教を志し,「もしたくさんの命の為(ため)に,どうしても一つの命が入用なときは,仕方ないから泣きながらでも食べていゝ,そのかはりもしその一人が自分になった場合でも敢(あへ)て避けない(『ビヂテリアン大祭』宮沢,1986)」という考えを持ちつづけていた。だから,賢治は主に植物を食べたが,ときに動物の肉も食べることがあった。菜食主義者であろうがなかろうが,賢治のように泣きながらでなくても良いが,食事のときぐらい食べられるものたちに感謝の気持ちをもつことは必要かもしれない。

 

食事前の「いただきます」とは,仏教的には「わたしの命のために,あなたの命をいただきます」という意味であることを我々は忘れている。

 

参考・引用文献

秋田県立大学生物活性物質研究室.2021.9.30(調べた日).研究内容.https://www.dbp.akita-pu.ac.jp/~grc/lab_research.html

石井竹夫.2021.宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』―植物や動物と「こころ」が通う-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/01/101145

三木成夫.1992.海・呼吸・古代形象 生命記憶の回想.うぶすな書院.東京.

三木成夫.1995.内蔵のはたらきと子どものこころ.築地書館.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

鶴田 静.1999.ベジタリアン宮沢賢治.晶文社.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「植物を食べることの意味(試論)」を加筆・修正にしたものです。

                           2021.10.2(投稿日)

お礼

hirosawa_s さん.本稿を読んでいただきありがとうございます。2023.9.1

 

「カラスウリ」は童話『銀河鉄道の夜』を象徴する植物である

童話『銀河鉄道の夜』には「烏瓜のあかり」が繰り返し登場してくる。この「烏瓜のあかり」に使われる「カラスウリ」(ウリ科;Trichosanthes cucumeroides Maxim.)は,第1図に示すように花が日没後に開花することや,蔓が上方に伸びることで地上と天上を結ぶものとして物語に象徴的に登場してくる(石井,2021)。「カラスウリ」は,どのくらい高く伸びるのだろうか。ネットで調べたら3mを超えるものもあるという。

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第1図.カラスウリの花

 

「カラスウリ」には,さらにこの物語に相応しい特徴をもつ。それは,繁殖方法である。「カラスウリ」は雌雄異株の多年草で普通種子や塊根(芋)によって増えるが,もう1つユニークな増え方をする。科学教育学者・真船和夫さん(1997)によると,「カラスウリ」は夏の間に地上から巻きひげで他の樹木などに絡みつき上方に伸びていくが,秋になると蔓が方向を変えて地面に向かって伸び,地表に触れるとそこから発根し,新しい塊根(栄養繁殖)を作ることができるとある。

 

すなわち,「カラスウリ」は,地上から芽を出して上方に向かって伸びて行き花を咲かせ,果実を実らせるのと同時に,絡みつくものがなくなると逆に地面に戻ってきて地中に次の命へとつなぐ栄養豊かな芋を作っている。不思議な植物であるが,このような増え方をするのは「カラスウリ」だけなのだろうか。

 

花を咲かせたあと,地上に戻ってきて地中に次の命をつなぐものがカラスウリ以外にもある。我々がよく食にするラッカセイ(落花生)である。ラッカセイは初夏に黄色の花を咲かせるが,実は地上部にはできない。花が終わったあと,子房(果実になる部分)の付け根の子房柄(しぼうへい)といわれる部分が地面に向かって伸び,地中に潜り込んでそこで結実する。地中結実性は,ヤブマメやスミレの仲間などにも見られるという(丸尾,2021)。ただし,ラッカセイは子房柄が地面に向かって伸びることはあっても,蔓性植物である「カラスウリ」のように「地」から「天」へ向かって高く伸びていくことはない。ヤブマメも2mほどだという。

 

「地」から「天」に向かって高く上り夜に花を咲かせ,また「地」へ戻るサイクルを繰り返す「カラスウリ」は,「地」を「この世」,「天」を「あの世」あるいは「虚空」とすれば仏教思想の「輪廻転生」や「二処三会(にしょさんえ)」を彷彿させるものであり,「二処三会」の構成からなる「法華経」の影響を色濃く反映させた童話『銀河鉄道の夜』に相応しい植物と言えそうである。

 

参考文献

石井竹夫.2021.「烏瓜のあかり」とは何か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/13/085125

真船和夫(著)・下田智美(イラスト).1997.カラスウリのひみつ.偕成社.東京.

丸尾 達.2021(調べた日付).ラッカセイはどうして土に潜るの?https://www.kodomonokagaku.com/read/hatena/5192/

 

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「カラスウリ」と「法華経」の「二処三会」の関係については以下のブログ記事に詳細に説明している。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-仏教と異界への入り口に登場する植物-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/103821

2021.10.1(投稿日)