宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

春の妖精たち

「春の妖精」とは,雪解けとともに春一番で地上に姿を現し,初夏の樹上の若葉が出揃う前に姿を消してしまうはかなくも愛らしい植物たちのことをいう。「スプリング・エフェメラル(春の短い命)」とも呼ぶこともある。カタクリ,サクラソウ,フクジュソウ,ニリンソウ,ヒトリシズカ,ミヤマネコノメソウなどがある。

 

多くは多年草で,姿を消すといっても地上部の花と葉の部分だけで,地下の部分は地下茎などの形で翌春まで休眠する(カタクリは種子で増える)。

 

「春の妖精」が見られる地域は,主として真冬に葉を落とす落葉樹の林あるいは森林地帯である。時期は地域にもよるが2月下旬から4月中旬の落葉樹に葉がない林の中が明るい40日~70日の短い期間だけである。

 

この春一番で咲く花を,詩的な言葉で表現した童話を紹介する。宮沢賢治の『若い木霊』(1922年以前の作と言われている)という作品である。木霊と書いて「こだま」と読む。森の霊みたいなものだろうか。ここで登場する「妖精」はカタクリとサクラソウである。「こだまが落葉樹の柏や栗の木の幹にすきとおる大きな耳を当て,水を吸い上げている音を聞こうとするが聞こえない。まるで眠っているようだ。しかし,地表ではカタクリやサクラソウの花がもうすでに咲いている」という内容である。

 それから若い木霊(こだま)は,明るい枯草の丘の間を歩いて行きました。

丘の窪(くぼ)みや皺(しわ)に,一きれ二きれの消え残りの雪が,まっしろにかゞやいて居(お)ります。

      (中略)

「おいおい,栗の木,まだ眠(ね)ってるのか。もう春だぞ。おい,起きないか。」

 栗の木は黙ってつめたく立ってゐました。若い木霊はその幹にすきとほる大きな耳をあててみましたが中はしんと何の音も聞こえませんでした。

 若い木霊はそこで一寸(ちょつと)意地悪く笑って青空の下の栗の木の梢(こずえ)を仰いで黄金(きん)色のやどり木に云ひました。

「おい。この栗の木は貴様らのおかげでもう死んでしまったやうだよ。」

 やどり木はきれいにかゞやいて笑って云ひました。

「そんなこと云っておどさうたって駄目(だめ)ですよ。眠ってるんですよ。僕下りて行ってあなたと一緒に歩きませうか。」

       (中略)

 そしてふらふら次の窪地(くぼち)にやって参りました。

 その窪地はふくふくした苔(こけ)に覆はれ,所々やさしいかたくりの花が咲いてゐました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却(かへ)ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せはしくあらはれては又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。

「はるだ,はるだ,はるの日がきた,」字は一つずつ生きて息をついて,消えてはあらはれ,あらはれては又消えました。

               (『若い木霊』 宮沢,1986)

 

落葉樹がまだ活動を始めていない,早春の明るい林のなかでカタクリの可憐な花が咲いている情景が見事に描き出されている。カタクリの葉の表面にある紫色の模様が「はるだ,はるだ」と春を告げる文字に見えてくるというのも賢治らしい表現だ。「ポラーノの広場」でも白ツメクサの花に算用数字が書かれてあった。

 

自生のカタクリは,残念ながら大磯では見ることはできない。大磯で見られる「春の妖精」は高麗山のニリンソウ(第1図),ヒトリシズカ(第2図),ミヤマネコノメソウなどである。県立大磯城山公園でも植栽だが栗の木の下でフクジュソウ(第3図)を見ることができる。2月中旬ごろにまず花が咲き始め,花が終わりかけたころに葉が繁りはじめる。葉を含め地上部が姿を消すのは4月~5月にかけてであろうか。

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第1図.ニリンソウ.

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第2図.ヒトリシズカ.

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第3図.フクジュソウ.

 

フクジュソウに限らず「春の妖精」たちは,なぜ初夏までに葉まで枯らす必要があるのであろうか。植物研究家の多田多恵子が面白い説を出している。

 初夏を迎えると,木々は一斉に緑葉を広げ,林は急速に暗く閉ざされる。林床にはわずかな透過光と木漏れ日しか届かなくなり,その状態が秋まで続く。林床の植物はこうなると光を満足に受けられず,葉の光合成量も減ってしまう。もし葉がつくり出すエネルギーよりも,葉が維持費として消費するエネルギーの方が多くなれば,植物は葉を枯らした方が得になるはずだ。

          (『したたかな植物たち』 多田,2019)

 

賢治は,1922年に相思相愛の恋をしたとされる。この恋愛は1年ほどでしか続かず,周囲の反対もあって破局している。恋人は破局後に渡米し,3年後に異国の地で亡くなった。賢治は,この短命だった恋人を「妖精」に喩えることがある。童話『やまなし』(1923.4.8)では,恋人を渓流の石の下にいる「カゲロウ」の幼虫(英語で妖精を意味するnymphy)に喩えた(shimafukurou,2021)。また,恋人が亡くなって1か月後に書かれた詩〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕(1927.5.14)では,「枯れた巨きな一本杉が /もう専門の避雷針とも見られるかたち/・・・けふもまだ熱はさがらず/Nymph,Nymbus,Nymphaea ・・・ 」(宮沢,1986)(NymbusはNimbusの誤記?)とあるように,枯れた巨きな一本杉を亡くなった恋人に喩えて「Nymph,Nymbus, Nymphaea ・・・」と呟く。 

 

「春の妖精」に出会ったら,ただ見惚れているだけでも良いし,賢治のように詩などの創作に興じたり,多田みたいに経済論的に植物を論じたりするのもよいと思う。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

Shimafukurou.2021.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

多田多恵子.2019.したたかな植物たち.筑摩書房.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「春の妖精たち」を加筆・修正にしたものです。

復活と再生のシンボルとしてのヤドリギ

冬に樹木の高い枝を見ていくと,こんもりと小さな枝と葉のかたまりが毬(まり)状になっているのを見ることができる。これがヤドリギ(宿り木;Viscum album L. subsp. coloratum Kom )である(第1図)。冬でなくても注意深く観察すれば見つけることは難しくない。県立大磯城山公園でもごく普通に見られる。名前が示すように寄生植物で,主にケヤキ,エノキ,サクラなどの落葉樹に寄生し,鳥を媒介にして木から木へと移り地面に下りることはない。ただし,葉緑素を持ち光合成もするので半寄生植物である。

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第1図.ヤドリギ

 

ヤドリギは,草にも見えるが,これでもれっきとした木の常緑樹で,2~3月に花が咲き,晩秋に黄色い実が熟す。果実は多量の粘液質を含んでいるので粘りがあり甘いらしい。ヒレンジャクやヒヨドリがこの実を好んで食べる。鳥が食べた後に堅い種子と一緒に消化しきれなかった粘液質を糞として排泄するので,この鳥の糞が金魚の糞のように糸を引いたようになり,糞は種子と一緒に鳥の行く先々で新たな枝にへばりつき,そこに新しい命を誕生させる。

 

欧州ではヤドリギは古くから神聖な植物とされ,ケルト人などが宗教的な行事に使用してきた。ヤドリギを夏至や冬至の夜に黄金の鎌(かま)で切り取り祭壇に供えたという。理由は,前述したように宿り主である落葉樹が葉を落とした後でも,青々とした葉を持ち続けるので,一旦は枯れたように見えた木が,あたかも再生したかのように見えるからである。北欧の神話の中にも登場してくる。オーディン(知恵・詩・戦い・農業の神)の息子バルドルが一旦は悪神ロキによってヤドリギの矢で殺されるが,その後復活する。ちなみに花言葉も「困難に打ち勝つ」とある。我が国でも賢治がこれらのことを知っていたとみえ,『水仙月の四日』(1922.1.19)という童話の中でヤドリギを不死あるいは復活と再生のシンボルとして使っている。

 

童話『水仙月の四日』の内容は,山村で生活している少年がカリメラ(砂糖菓子)を作るために砂糖を買いにいった帰りに猛吹雪に出くわして遭難してしまうというものである。東北地方の猛吹雪は,「八甲田死の彷徨」という新田次郎のドキュメントタッチの小説でも紹介されているように頑強な軍人でも死へ至らしめるほど迫力のあるものだが,本作品はその迫力に加えて全編,美しい詩的な言葉も加えて展開していく。

 

少年は赤い毛布(けっと)に包まっているが,寒さと疲れで猛吹雪の中で倒れてしまう。読者は少年が倒れた段階で死を予感すると思われるが,作者は,吹雪になる前に雪童子(ゆきわらし)という雪の妖精を出現させ従者の雪狼(ゆきおいの)に大きな栗の木から黄金色のヤドリギの毬を取らせ少年に投げつけ,死という結果にはならないことを暗示させる。その後,妖魔である雪婆んご(ゆきばんご)が現れ猛吹雪となる。ヤドリギを少年に拾わせた雪童子は雪婆んごから守るため,必死になって少年に倒れたまま動かないように叫ぶ。

 雪婆んごがやってきました。その裂けたやうに紫な口も尖(とが)った歯もぼんやり見えました。

「おや,をかしな子がゐるね,さうさう,こっちへとっておしまひ。水仙月の四日だもの,一人や二人とったっていゝんだよ。」

「えゝ,さうです。さあ,死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつかりながらまたそっと伝ひました。

「倒れてゐるんだよ。動いちゃいけない。動いちゃいけないつたら。」

 狼(おいの)どもが気ちがひのやうにかけめぐり,黒い足は雪雲の間からちらちらしました。

「さうさう,それでいゝよ。さあ,降らしておくれ。なまけちゃ承知しないよ。ひゅうひゅうひゅう,ひゅひゅう。」雪婆んごは,また向ふへ飛んで行きました。

 子供はまた起きあがらうとしました。雪童子は笑ひながら,もう一度ひどくつきあたりました。もうそのころは,ぼんやり暗くなって,まだ三時にもならないに,日が暮れるやうに思はれたのです。こどもは力もつきて,もう起きあがらうとしませんでした。雪童子は笑ひながら,手をのばして,その赤い毛布(けっと)を上からすっかりかけてやりました。

「そうして睡(ねむ)っておいで。布団をたくさんかけてあげるから。そうすれば凍えないんだよ。あしたの朝までカリメラの夢を見ておいで。」

 雪わらすは同じとこを何べんもかけて,雪をたくさんこどもの上にかぶせました。まもなく赤い毛布も見えなくなり,あたりとの高さも同じになってしまひました。

あのこどもは,ぼくのやったやどりぎをもってゐた。」雪童子はつぶやいて,ちょっと泣くやうにしました。

                                  (『水仙月の四日』 宮沢,1986)下線は引用者

 

あくる朝,吹雪も止み,村の方からお父さんらしき人が駆けつけてくるが,雪童子は少年の上に積もった雪を取り払い,語りに「子どもはちらっとうごいたやうでした」と言わせて物語が終わる。引用文にもあるように,雪童子が「あのこどもは,ぼくのやったやどりぎをもってゐた。」と泣くようしながら呟くのが印象的である。100%生きているという保障はないのだが,子供がヤドリギを持っていたということで,死ななかった,あるいは死んだとしても生き返ったということが読者に伝わるようにしてあると思われる。

 

「水仙月の四日」という日にちに関しては,諸説がある。私は,その中でもキリスト教における「復活祭」の当日のことを指しているという谷川雁の説を支持したい(伊藤,2001)。「復活祭」とは,十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に復活したことを記念する祭である。春分以後の満月直後の日曜日に行われる。童話『水仙月の四日』にも「しずかな奇麗な日曜日を,一そう美しくしたのです」という一文がある。賢治が生きた時代では1920年の復活祭は4月4日(日)であった。2021年も4月4日(日)である。

 

ヤドリギは宗教的な復活と再生のシンボルとしてだけでなく,実際の生活にも役立っていた。賢治が生活していた東北地方では,冷害などで不作のときヤドリギから餅を作って食べたという記録が残っている。また,薬草としても,利尿,降圧作用を目的とした漢方療法以外に民間療法的に強壮や産後の回復に使われた。多分,果実などには粘液質以外に多量のデンプンが含まれていて栄養価が高いからと思われる。このように,食料や医薬品が不足していたときには,体力や健康を復活させるためにも利用された。

 

参考・引用文献

伊藤光弥.2001.イーハトーヴの植物学 花壇に秘められた宮沢賢治の生涯.洋々社.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「復活と再生のシンボルとしてのヤドリギ」を加筆・修正にしたものです。

 

ドングリ問答-いちばんえらいのは-

ドングリって何ですか

イメージ的には小さくて,丸っこくて,しかも先が尖っていて,堅い殻をもつ木の実です。生物学の本でも諸説があって混乱しています。環境省自然保護局生物多様センターの定義では,ブナ科のコナラ属,シイ属,マテバシイ属の果実を総称してドングリと呼んでいます。

 

ドングリの木というのはあるのですか

柿の木,桃の木はあっても,ドングリの木というものはないと思います。

 

なぜ,ドングリだけが果実と木の呼び名が一致していないのですか

よくわかっていないようです。日本は南北に細長い。そのため,その地方によって生えるブナ科の木も様々です。そのブナ科の実に対する呼び名も様々で,「ドングリ」もその呼び名の一つ(方言)であったのが,次第に共通語になっていったと言われています。

 

具体的にはどんな木の果実がありますか

コナラ属にはコナラ,ミズナラ,クヌギ,アベマキ,カシワ,アラカシ,シラカシ,ウラジロガシ,ウバメガシなどが,シイノキ属にはスダジイ,ツブラシイが,またマテバシイ属にはマテバシイ,シリブカガシなどがあります。このうち,県立大磯城山公園にはコナラ,クヌギ,アラカシ,シラカシ,スダジイ,ツブラシイ,ウバメガシが植栽されています(注:単にシイと呼ぶときはスダジイとツブラシイの両方を指します)。

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第1図.スダジイの実

 

え! 「カシワモチ」のカシワにもドングリの実がつくのですか

カシワは,ブナ科でコナラ属に分類され,クヌギの実と似たドングリをつけます。

 

ドングリを「団栗」と書いたりするのはなぜですか

団という字から連想するのは丸っこい形で,クヌギのドングリに由来するという説と,「どん」という音(おん)は,「だめな」という意味もあることから,渋くてそのままでは食べられないということから付けられたという説があるそうです。諸説があって定かでないようです。

 

ドングリは種子に見えますが,本当に果実なのですか

ドングリは果肉のない果実です。ドングリを割ってみると,一番外側に堅い殻状のものがあり,その下の渋皮があり,そして渋皮の中に水気のある身が入っています。果実部分は,このうち一番外側の堅い殻一枚を言います。すなわち,果肉(果物の食用部分)が発達しませんでした。ちなみに,渋皮と中の身が種子ということになります。果実は植物学上,子房の成長したものとあるので,殻一枚といっても,この殻は子房が変化してできたものなのでれっきとした果実です。乾燥して堅くなった果実を堅果(けんか)と呼びます。種子は堅く,果実は柔らかいとは限りません。

 

ドングリは「はかま」あるいは「帽子」のようなものを付けているがあれは何ですか

くりの「いが」と同じで,専門用語で殻斗(かくと)と呼びます。この殻斗が何なのかはまだよくわかっていないようです。最近の研究では枝が変化したものと言われています。普通,ドングリの仲間は1つの殻斗に1つの果実がつきます。クリは1つの殻斗に3つの果実がつきます。殻斗は徳利(とっくり)のような面白い形をしていますが,沖縄の西表島に自生するオキナワウラジロガシという日本最大のドングリの殻斗は直径2.5センチ,高さ1.3センチもあります。また,殻斗の模様でドングリを分類できます。横縞ならアラカシ,シラカシ(シラカシは横縞にさらに台形や三角の模様がはいる),ウロコ状ならコナラ,細長い鱗片に囲まれるのがクヌギ,すっかり包み込まれ熟すと3片,4片に裂けるのがスダジイとツブラシイ(ツブラシイの方が果実がやや丸い)という具合です。これで大方,城山公園のドングリは分類できます。

 

ドングリをよく観察すると小さな穴があいている。この穴は何ですか

穴をあけた犯人は,コナラシキゾウムシやハイイロチョッキリという虫によるものです。ハイイロチョッキリは体長18mmほどの虫で,口が長く体の3分の2ほどを占めています。ハイイロチョッキリの雌は,このドリルのような長い口を使ってドングリの実に穴をあけて産卵します。産みこまれた卵はやがて孵化し,幼虫がドングリの中身を食べて成長します。なお虫食いのドングリは水にいれると浮くので容易に判別できます。

 

ドングリを食べるものとして虫以外にどんなものがいますか

クマ,イノシシ,ネズミ,リス,カケスなどが食べます。

 

食べられるだけではブナ科の木は子孫を増やせないではないでしょうか

シキゾウムシ,クマ,イノシシは食べるだけですが,ネズミ,リス,カケスは貯食行動を取るため,ドングリを食べはしますがドングリを遠くへ分散させるのに貢献しています。

 

貯食行動とは何ですか

ネズミ,リス,カケスには,すぐに食べないドングリを冬に備えて地面に埋めるという習性があります。掘り出されて食べられなかったドングリは,結局,親木の元を離れて発芽に成功します。このように,動物とうまく共生することでブナの森は繁栄しています。

 

我々でも食べることができるのでしょうか

スダジイやマテバシイは食べられます。スダジイは生でも食べられますが,一般的には炒るかクッキーにして食べます。人間がドングリを食べた歴史は古く,実際,クッキー状の炭化物が縄文時代の遺跡からいくつか見つかっています。例えば,1999年8月10日付けの朝日新聞に,約6000年前と思われる大崎遺跡(長野県)の住居跡から,直径3センチのクッキー状炭化物が見つかっています(日本最古)。

 

実際にどのように調理するのですか

クッキーの作り方はこうです。拾ってきたドングリをまずは茹でます。その後,殻と渋皮を取り除き,すり鉢などで粉にします。粉につなぎとしてマーガリンや卵を混ぜ,砂糖を加えてこねたあと,適当な形に整えオーブントースターで焼きます。縄文風にしたければ,つなぎにヤマイモを,甘味に蜂蜜を加えればよいと思います。

 

どんなドングリでも食べられるのですか

スダジイやマテバシイ以外は渋く(アクが強く)そのままでは食べられません。しかし,コナラなどの渋いドングリでも,飢饉に襲われたときには救荒植物として食べたようです。

 

渋の原因は何ですか

渋はタンニンによります。コナラに4.8%,シラカシに4.5%,アラカシに4.4%,クヌギに1.3%,マテバシイに0.5%,スダジイに0.1%含まれます。すなわち,人間が渋を抜かずに食べられるのは,タンニンの量が1%以下のシイの仲間ぐらいだと思います。

 

なぜ渋いのですか

植物にとっては,子孫を残すためと思われます。すなわち,食べられないようにしています。ネズミは,ほとんど全てのドングリを食べますが,さすがにタンニン含量の多いドングリの捕食は少ないようです。またタンニンが少なくても生き残るドングリはあります。動物は,タンニンの少ないドングリを食べ過ぎると,タンニンのせいで消化不良になり未消化のドングリを糞便として出してしまいます。このドングリの中には発芽できるものもあるからです。

 

渋(アク)はどうすれば抜くことができますか

灰汁と一緒に煮てアクを抜き,砕いてから2~3日水にさらすとよいようです。

 

未熟な青いドングリは食べられますか

普通は熟したドングリを食べると思います。ただ,鳥のカケスは青いドングリも好んで食べるようです。ある研究報告によれば,ルリカケスはスダジイとアラカシの樹上にある緑色果を利用する頻度が高かったそうです。両樹種の緑色果と褐色果の成分分析をしたところ,タンニン量の違いは見られなかったが,緑色果は褐色果に比べて栄養価としては同等,ないし,やや優れているとしていました。童話『よく利く薬とえらい薬』で,森の中のカケスが主人公の清夫に,「弁当おあがりなさい」と言って,青いドングリを一粒落とします。

 

ドングリは薬になりますか

コナラ,カシワなどの樹皮はタンニンを多く含むので収斂薬(下痢止め)や染色用の触媒とします。ドングリそのものが薬用にされたかどうか定かではありませんが,樹皮と同様にタンニンを含むということで民間療法的に下痢止めに使われた可能性はあります。

 

ドングリに,1年ものと2年ものがあると聞いていますが

1年ものは,受粉したその年の秋にドングリになるものでコナラやシラカシがあります。また,2年ものとして,受粉してから次の年の秋に成熟してドングリになるクヌギやマテバシイなどがあります。2年かかるドングリは,南方に多い原始的な種類とされています。

 

木の実には「なり年」があると聞きますが

ドングリは毎年たくさん実るわけではありません。年によってはほとんど実らないことがあります、なぜ,「なり年」があるのでしょうか。一つの説として,ドングリを食べる虫や動物への対策として,実る年と実らない年をわざと作っているというのがあります。毎年,同じように実を作ればそれを食べる動物によって食べ尽くされてしまいます。しかし,実がならない年があれば,それを食べる動物は減ってしまい,その後はたくさんの実が食べられることなく芽を出すことができます。

 

ドングリはだいたいが1~2センチくらいの大きさだが,どうしてですか

ドングリを捕食する動物によると考えられています。例えば,アカネズミの巣の近くに,ヒマワリの種,シイの実,クルミの実を置いておくと,アカネズミはヒマワリの種はその場で食べてしまうが,ドングリサイズになると,その場では食べず,巣穴や餌場近くの林床に埋めに行くようです。これは,殻をむく手間もかかり,1つ食べるのに時間がかかるので,安全な場所で食べるほうがよいということと思われます。このように,ネズミに貯食行動を取らせるには,種子の大きさがある程度のサイズ必要だということがわかります。

 

ドングリの果実はなぜ丸くて尖っているのですか

童謡にも歌われているように,丸いとドングリは落ちたときにコロコロと遠くまで転がっていくことができます。遠くに転がったドングリは,そこで芽を出し新しい木として成長します。つまり丸い形は子孫を増やすためと言われています。ドングリは丸いだけでなく,尖っている部分があります。尖っているのは,動物に食べられにくくするためと考えられています。尖っている部分がそれを摂取した動物の消化管を傷つけることがあるからです。この尖っている部分には植物にとって重要な「胚」が存在します。また,タンニンが多いという報告もあるようです。だから,ドングリを食べる動物は丸い部分だけ食べて,この尖った部分を避けるそうです。丸い部分を食べられても,その量にもよるとは思いますが,植物は芽生えできるようです。

 

同種の木から成るドングリでも大きさに違いはあるのですか

34本のコナラのドングリを調査した結果が報告されています。9378個のドングリの重さの平均は2.1gでしたが,最小は0.1gで最大は4.5gだったそうです。コナラ1つとってもドングリの大きさはまちまちです。動物が嫌うタンニンの量は大きいドングリでは少なく,小さいドングリでは多いそうです。野ネズミなどの動物は大きいドングリを選んで食べるようです。

 

ドングリにとって理想の形はあるのですか

前述したように丸いだけではだめです。尖っていることも必要と思われます。大きいドングリはタンニンの量が少ないため野ネズミによって食べられてしまいます。小さいドングリは食べられにくいけれども,芽生えも小さくなり,光を巡る植物同士の競争には不利です。植物にとって,具体的にはコナラにとっては多様なタイプのドングリを実らせた方が得策と言えそうです。

 

童話『どんぐりと山猫』では,榧(かや)の森でどんぐりたちが一番えらいのは誰かということを競っていました。どんぐりたちは,おのおの尖っているのが一番だとか,丸いのが一番だとか,大きいのが一番だとか言っていましたがが,一郎は「このなかでいちばんばかで,めちゃくちゃで,まるでなってゐないやうなのが,いちばんえらい」と言ってどんぐりたちをだまらせてしまいます。

 

童話『どんぐりと山猫』の舞台がどこかについては,本ブログでも考察していますので,そちらをご覧ください。

「『どんぐりと山猫』の舞台は碁盤の上」https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/14/100352

 

最後に,子供たちはなぜドングリを見ると拾おうとするのですか

子供たちは,ドングリなどの木の実を拾ったりする以外に,木登りしたり,虫を捕まえたり,雑草を引っこ抜いたり,パチンコで鳥を打ったり,土をこねくり回したりして遊びます。このような遊びに対して,奥野健男が一つの仮説を立てています。それは,日本人の深層意識の中に,約1万年前からはじまったという縄文文化の影響が現代にいたるまで色濃く残っているからだとしています。すなわち,これらの遊びすべてが採取,狩猟文化時代の真似事だと考えています。詳細は前のブログ記事をご覧ください。

「なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)」https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/20/074742

 

参考文献

中村友洋・江口和洋.2020.堅果成熟過程におけるルリカケスGarrulus Lidthiの堅果利用.日本鳥学会誌 69(2):197-207.

島田卓哉.2015.野ネズミに食べられやすいドングリ,食べられにくいドングリ.Forest Wind もりからのかぜ・東北 No61.

多田多恵子.2017.原寸で楽しむ身近な木の実・タネ図鑑&採集ガイド.実業の日本社.東京.

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ植物のこころ』(蒼天社 2004年)に収録されている報文「ドングリ問答」を加筆・修正にしたものです。

なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)

秋も深まったころ,県立大磯城山公園内の草地を散策していたら,多数の家族連れが2~3本のシラカシの木の下で一生けんめい地面に落ちた「ドングリ」を拾っているのを見かけた。中には,子供たちと一緒に大人も夢中になって拾っていた。城山公園にはコナラ,クヌギ,アラカシ,シラカシ,スダジイ,ツブラシイ,ウバメガシなどの「ドングリ」の成る木が多数植栽されているので,秋にもなると沢山の「ドングリ」が落ちる(第1図)。ちなみに,「ドングリ」はブナ科のコナラ属,シイ属,マテバシイ属の果実の総称である。

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第1図.ドングリ(シラカシ).

 

子供たちは,あっちこっち駆け回りながら1つずつ拾っては大きな袋に入れていた。どうするのだろうと思いながらその場を後にしたが,帰り際に,同じ場所に戻ってみると,家族連れの姿はなく,シラカシの木の下に「ドングリ」の山が築かれていた。あんなに夢中になって集めた「ドングリ」なのに置いていってしまった。確かに,シラカシの「ドングリ」は渋くてそのままでは食べられない。食べようとしたらあく抜きが必要である。しかし,食べもしない「ドングリ」をなぜあんなにも夢中になって拾ったのだろうか。

 

科学者で文芸評論家の奥野健男(1972)は,『文学における原風景』で,子供たちが「原っぱ」で「ドングリ」などの木の実を拾ったり,木登りしたり,虫を捕まえたり,雑草を引っこ抜いたり,パチンコで鳥を打ったり,土をこねくり回したりして遊ぶのは,日本人の深層意識の中に,約1万年前からはじまったという縄文文化の影響が現代にいたるまで色濃く残っているからだと述べていた。また,子供の遊びに農耕,農民を真似たものはなく,遊びすべてが採取,狩猟文化時代の真似事だともいう。ヨーロッパのような石造建築や石畳みの街路の中でも遊びには見られないものである。

 

哲学者の梅原 猛も小説家の中上健次との対談で,奥野と同様に「日本という国は,縄文時代,狩猟採集時代の文化が,弥生時代以降も大変残ったところで,日本人の無意識の深層にも旧石器時代の人たちが共通に持っていたものを記憶として残している」と述べている(梅原・中上,1994)。

 

多分,子供たちが「ドングリ」を拾うのは,遊びの一環であり,奥野が言うように採取,狩猟文化時代の真似事なのかもしれない。

 

しかし不思議に思うのは,子供だけでなく大人も夢中になって拾っていることである。家族連れだからということではないと思う。私も1人で散策しているとき,2~3個くらいなら無意識的に拾ってしまう。理由はよく分からないのだが,とにかく血が騒ぐのだ。さらに,私の場合は,必ず家に持ち帰り机の上や本棚の中に飾っておく。そして,毎日,飽きもせずそれを眺めている。

 

だが最近,誰もが「ドングリ」を見たら拾うというものではないということも知った。知人にそのことを言ったら「ドングリを見ても気にもしない」と一笑されてしまったからである。これは単なる推測だが,縄文の血の濃い人にしか当てはまらないのかもしれない。一部の人かもしれないが,大人がドングリを拾う理由を考えてみたい。

 

そのヒントになるのが,宮沢賢治の詩集『春と修羅』の「原体剣舞連」(mental sketch modified)にある。この詩の中に「楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ」という意味ありげな詩の一節が出てくる。その言葉が出てくる前後の部分はこうだ。

菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ

気圏の戦士わが朋(とも)たちよ

青らみわたる顥気(かうき)をふかみ

楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ

蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かがり)をかかげ

ひのきの髪をうちゆすり  

まるめろの匂のそらに

あたらしい星雲を燃やせ

           dah-dah-sko-dah-dah

         (中略)

こんや銀河と森とのまつり

准(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)に

さらにも強く鼓を鳴らし

うす月の雲をどよませ

       Ho!  Ho!  Ho!

               むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)

    まつくらくらの二里の洞(ほら)

    わたるは夢と黒夜神(こくやじん)

    首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

    青い仮面(めん)このこけおどし

    太刀を浴びてはいつぷかぷ

    夜風の底の蜘蛛(くも)をどり

    胃袋はいてぎつたぎた

  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

           (「原体剣舞連」宮沢,1986)下線は引用者

 

詩「原体剣舞連」に登場してくる「達谷の悪路王」とは昔,平泉の達谷窟という洞窟に住んでいたと伝えられる採取・狩猟文化を有する先住民族「蝦夷(えみし)」のリーダー悪路王の伝説にもとづくものである。やがて,侵略してきた大和朝廷によって,はげしい激戦の末滅ぼされてしまった。賢治研究家の力丸光雄は,この詩の「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる顥気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という詩句には,「一万数千年のあいだ,サケ・マスとともにナラ林ないしブナ林に支えられてきた縄文の文化が,弥生の勢力に押され,いつしか山林の奥に消え去った先住の人たちの怨念が籠められていて,その怨念や地霊を鎮める祈りが,大地を踏みしめて踊る剣舞に表現されている」と述べている。多分,賢治は,「楢」や「椈」には,大和朝廷によって打ち負かされた縄文の末裔である「蝦夷」の「うれい」や「怨念」の記憶が宿っていて,その「うれい」や「怨念」が「大地を踏みしめて踊る剣舞」によって鎮められるものと考えたのだと思う。

 

第2図は,原体剣舞の様子を撮ったものである。ただ,踊っているのは大人ではなく子供たちである。また,詩にあるように踊り手が「菩提樹皮と縄とをまとふ」ということもない。きらびやかな衣裳をまとっている。観光化してしまったためだろうか。大人が踊るものとして「鬼剣舞(おにけんばい))というのがあるが,これも「蝦夷」への鎮魂の踊りとされる。この剣舞の踊り手は,昔は手に不動の荒縄を意味する縄を三巻巻いていたという。縄文の聖地としても知られる熊野の「お灯祭り」(火祭りの一種)に参加する者たちは,現在でも白装束に「荒縄」を締めている。

 

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第2図.原体剣舞(宮沢賢治生誕120年記念行事にて)

 

東北の平泉には黄金の文化を築いたが,中央政権によって滅ぼされてしまった藤原氏(清衡,基衡,秀衡)の遺体が金色堂に安置されている。藤原氏は,清衡の母が阿部氏の出であるように,「蝦夷」の流れをくむとされていて,その棺の中には狩猟・採集民族の象徴である「ドングリ」やクルミの類がいっぱい入れられていたという(梅原,1994)。

 

都会では,「原体剣舞連」や「鬼剣舞」のような先住の人たちの怨念を鎮める踊りや祭りは行われなくなってきた。我々が,都会の公園などで「ドングリ」を拾うとき,単に縄文時代の採取・狩猟文化の遊びとしての真似事だけでなく,また鎮魂とは言わないまでも,先住の人たちに共感して「うれい」も一緒に集めていたのではないだろうか。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

奥野健男.1972.文学における原風景.集英社.東京.

力丸光雄.2001.《賢治と植物》-心象の博物誌.宮沢賢治16:50-61.

梅原 猛.1994.日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る.集英社。東京.

梅原 猛・中上健次.1994.君は弥生人か縄文人か.集英社.東京,

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「なぜ人は食べもしないドングリを拾うのか(試論)」を加筆・修正にしたものです。

ガラスマントの宅急便-ヤシの謎-(試論)

賢治の童話『風野又三郎』(1924年2月12日以前の作)は,いきなり何の前触れもなく「九月一日 どっどどどどうど どどうど どどう」という風の音の擬音で始まる。この作品に登場する「又三郎」は,「ガラスのマント」と透きとおる「沓(くつ)」を履いて空を駆け巡る風を擬人化した「風の精」である。科学的な根拠に基づいて,風が我々人間や植物にどのような役割を果たしてきたか,あるいは気象現象である大気の「大循環」を使って旅したことついて,「風の精」の言葉を通して村の子どもたちに語る物語である。「大循環」とは,地球上では赤道付近と極地付近の気温差による大気の大循環をさす。植物は,ザクロ,マツ,イネ,ヤナギ,ガガイモ(草綿とも呼ぶ),リンゴ,ナシ,キュウリ,マルメロ,カラスウリ等たくさん登場し,風との関係が丁寧に説明される。

 

例えば,村の子どもの一人が「又三郎」に傘を壊されるなどの悪戯をされたことに腹を立て,「汝(うな)などぁ悪戯(いたづら)ばりさな。傘(かさ)ぶっ壊(か)したり」,「樹(き)折ったり」,「稲も倒さな」といって悪たれをつくと,風の精である「又三郎」は「いゝことはもっと沢山するんだよ」,「僕は松の花でも楊(やなぎ)の花でも草棉の毛でも運んで行くだらう。稲の花粉だってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ」と言って答えたりする。

 

さらに,海岸に吹く風にも言及していて,「海岸ではね,僕たちが波のしぶきを運んで行くとすぐ枯れるやつも枯れないやつもあるよ。苹果(りんご)や梨(なし)やまるめろや胡瓜(きうり)はだめだ,すぐ枯れる,稲や薄荷(はくか)やだいこんなどはなかなか強い,牧草なども強いねえ。」と,その博識ぶりを披露する。

 

確かに,多くの植物は海岸が苦手のようだ。真水が得られにくく,潮風や日差しが強いので乾燥しやすいからである。そこで海岸で生息することを選んだ植物は,葉を厚くし,風を避けるため茎を横に這わせるとか,果実や種子などの散布体では果皮や種皮が発達し海水に浮きしかも耐塩性を持たせるようにした。

 

しかし,この作品に登場してくる植物の中で,大気の「大循環」の説明に登場する「ヤシ」(ヤシ目ヤシ科に属する植物の総称)の木が不可解なのだ。これまでの賢治の作品には,マツ,クリ,ヤナギなど我々になじみのある木々が多数登場してくるので,「ヤシ」という見慣れない南国の木が突然出てくると違和感をもってしまう。赤道直下が重要なら「ヤシ」が生えていないところでも良いはずだ。なぜ,「ヤシ」の木を作品に組み込んだのだろうか。賢治のことだから,「ヤシ」が潮風に強いとか,熱帯地方の情景描写に相応しいという理由で取り上げたとは思えない。

 

「ヤシ」といえば,島崎藤村の有名な「椰子の実」という歌を思い出す。遠き島より椰子の実が流れ着いたという内容の歌である。島崎藤村は明治の詩人なので,「椰子の実」の歌は賢治も当然知っていたはずである。しかし,ここでは「ヤシ」の「木」は登場しても「ヤシ」の「実」は出てこない。大気の「大循環」と関係するかどうかは分からないが,黒潮に乗って南の島から「椰子の実」が日本に漂流してくるという話ではないのだ。

 

まず「大循環」の旅を作品にそって説明すると,始まりは赤道直下の中部太平洋に散在する「ギルバート群島」※辺りにあり,そこには「大循環志願出発線」という標識があって,上昇気流に乗って空高く上る。天空に上がった後,北極経路と南極経路の2つのコースに分かれるが,作品では北極経路のみが紹介されている。すなわち,赤道上空から,ハワイ,グリーンランドを通過して北極に至る。帰路は一端下降して海の上を通って,ベーリング海峡,太平洋を渡って北海道へ向かうというものだ。北極から1ヶ月で津軽海峡へ到達できると言っている。

 

「ヤシ」の木が登場する「大循環」の説明では,次のように記載されている。

 赤道には僕たちが見るとちゃんと白い指導標が立ってゐるよ。お前たちが見たんぢゃわかりゃしない。大循環志願者出発線,これより北極に至る八千九百ベヱスター南極に至る八千七百ベヱスターと書いてあるんだ。そのスタートに立って僕は待ってゐたねえ,向ふの島の椰子(やし)の木は黒いくらゐ青く,教会の白壁は眼へしみる位白く光ってゐるだらう。だんだんひるになって暑くなる,海は油のやうにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振ってゐる。

 ひるすぎの二時頃になったらう。島で銅鑼(どら)がだるさうにぼんぼんと鳴り椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむってゐるやう,赤い魚も水の中でもうふらふら泳いだりじっととまったりして夢を見てゐるんだ。その夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでゐるんだ。青ぞらをぷかぷか泳いでゐると思ってゐるんだ。魚といふものは生意気なもんだねえ,ところがほんたうは,その時,空を騰(のぼ)って行くのは僕たちなんだ,魚ぢゃないんだ。もうきっとその辺にさへ居れや,空へ騰って行かなくちゃいけないやうな気がするんだ。けれどものぼって行くたってそれはそれはそおっとのぼって行くんだよ。椰子の樹(き)の葉にもさはらず魚の夢もさまさないやうにまるでまるでそおっとのぼって行くんだ。・・・・僕たちはもう上の方のずうっと冷たい所に居てふうと大きく息をつく,ガラスのマントがぱっと曇ったり又さっと消えたり何べんも何べんもするんだよ。                       

                     (『風野又三郎』宮沢,1986)                 注:ベヱスターとは長さの単位で1.067 km

 

ここで,「ヤシ」の木を取り巻く環境は,「だんだんひるになって暑くなる,海は油のやうにとろっとなってそれでもほんの申しわけに白い波がしらを振って」とか,「銅鑼(どら)がだるさうにぼんぼんと鳴り」とか,「椰子の木もパンの木も一ぱいにからだをひろげてだらしなくねむってゐるやう」とか,「夢の中で魚どもはみんな青ぞらを泳いでゐるんだ」というように,波の音を聞きながら,いまにも眠ってしまいそうなけだるいものがある。まるで,母親の子宮にある羊水の中でまどろんでいる胎児をイメージさせる。

 

個人的な話だが,動悸と息切れがひどくなり入院したことがある。心室性頻拍と胸水貯留を伴った原因不明の胸膜炎という診断をうけ安静を命じられた。胸に心電図を測定するための電極と看護ステーションのモニターに電波を飛ばす発信装置を持たされ,四六時中監視を受けることになった。普通,心臓は1分間に60~80回くらい拍動し,その拍動毎に心電図上にそれぞれ3つの高さの異なるピークをもつ波形を刻むのだが,心室性頻拍が発生すると通常の2倍以上の拍動となり,心電図上にはこれらピークが失われた異常波が出現する。

 

拍動が早くなれば血液の循環が良くなると思われがちだが,2倍以上にもなると逆に危険なのだ。心臓がただ振るえているだけで血液を送り出さなくなる。意識を失ってしまう。さらに長時間持続すれば命も落としてしまう。だから,この異常波がある一定時間以上持続すると看護ステーションに待機している看護師が様子を伺いに病室に駆けつけてきた。

 

最初は,この異常波が出現しても持続時間が短かったせいかほとんど気がつかなかった。だから,看護師が駆けつけてきても,何の用事できたのか分からないことが多かった。ときたま,頻拍が少しばかり続くと,意識がぼおっとなって初めて頻拍が出ていたのかなという感じであった。しかし,これが繰り返され,さらに持続時間が長くなり始めると不安になった。退院しても,初期段階でこの異常波を自分でキャッチできなければ通勤中,あるいは仕事中突然倒れてしまうかもしれないと思ったからである。そこで,医師にこの心電図上の異常波が発生しているとき,自分の身体ではどのように感じるのか知りたいから心電計を貸してくれるようにお願いした。しかし,この願いは受け入れてもらえなかった。

 

そこで,それから毎日毎日,腕の脈を取ったり,枕に耳をあてたりして心臓から伝わってくる鼓動の響きを聞き入った。1週間くらいして,通常は「どっどっどっどっど」であるが,たまに脈が飛んで「どっどっどっ どど」といった響きを感じるとることが出来るまでになった。しかし,まだ,響きをまったく感じない時間帯の方が多かった。ある晩,病院内が静まり返っているとき,とても小さな響きだったが「どどどどどどどどど」と数えるのが困難なほどの早いテンポの音を聞いた。なにか,地響きが体の中に伝わってくるような感触だった。その後しばらくして,頭が熱っぽくぼおっとなった。これが,心室性頻拍の発生だったことはすぐに理解できた。夜中にも係わらず,看護師が病室に駆けつけてきたからだ。看護ステーションのモニター上に異常波が出現した時間と私が異常感覚を認めた時間が一致した。

 

我々は,これまで心臓の鼓動は「ドキドキ」とか「ドキンドキン」というふうに何気なく学んできたような気がする。しかし,私の場合は,心臓の鼓動を胸腔に貯まった水を介して聞いていたのであろうか「どっどっどっどっ」や「どどどどどどどどど」といった柔らかな響きであった。小さな弱々しい音ではあったが「どどどどどどどどど」という音を聞くと,脳に血液へ行かなくなり命までもが吹っ飛んでしまいそうで恐ろしかった。

 

このとき,この心臓の音あるいは響きが,どこかで聞き覚えのある音であることに気がついた。賢治の童話『風野又三郎』に出てくる風の音である。一郎という少年が夢の中で以下のような風の歌をきく。

九月十日

「ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ,

ああまいざくろも吹きとばせ,

すっぱいざくろもふきとばせ,

ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ

ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ。」

             (『風野又三郎』宮沢,1986)

 

風の音は普通「ひゅうひゅう」と表現する。風の名作『水仙月(すゐせんづき)の四日』でも,賢治は風の音を「ひゆう,ひゆう,ひゆう,ひゆうひゆう」と表現している。なぜ『風野又三郎』では風の音が「ドッドドドドウド,ドドウド,ドドウ」なのだろうか。また,一郎が夢の中で聞いた歌に,なぜ「ザクロ」(Punica granatum L.)が登場するのだろうか。

 

ダイバーたちが海に潜って波の打つ音を聞くと心臓の鼓動のように聞こえるという。解剖学者の三木成夫は,胎児が母親の子宮内で聞く血流音もこの音だと推測している。心臓の拍動と呼吸の周期は密接な関係がある。心臓が鼓動を4つ打つ間に1つ呼吸する。また,呼吸のリズムは大海原の波打ちのリズムすなわち宇宙リズムと関係がある。無論,波は風によって引き起こされる。

 

「ヤシ」の実は見ようによっては心臓の形に似ている。また,果実の大きさは植物の中では最大級のものであり,心臓の形をしている「ヤシ」は「大循環」を回すポンプのシンボルとしてはうってつけの植物であったと思われる。すなわち,賢治は「ヤシ」の実という言葉こそ使っていないが,「ヤシ」を大気いやもっと壮大な宇宙「大循環」の中心すなわち心臓と位置づけたのではないのだろうか。

 

また,「ザクロ」の赤い果実と多数の種子は豊穣(ほうじょう)な子宮を表すとされている。賢治は無意識に風と対峙したとき宇宙羊水に連絡できる子宮に戻りそこから〈母〉の心臓の鼓動を聞きながら宇宙リズムと交感するのだ。

 

賢治の「こころ」は,宇宙羊水から解き放たれ「ガラスのマント」となって「大循環」に乗って宇宙全体へと拡散する。

 

引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

※:ギルバート諸島は,太平洋中西部にあり,赤道をはさんで南北に分布する16の環礁からなる島群である。ココヤシの実から作るコプラの生産地でもある。

 

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「ガラスマントの宅急便-ヤシの謎-(試論)」を加筆・修正にしたものです。

 

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〔談話室〕

-遠い島からやってきたのは椰子の実だけではない

 

植物は遠くまで種子を運ぶ方法をいろいろと考えてきた。その一つに果実を海に落として,遠い地の浜辺まで運んでもらうというものがある。ハマユウ,グンバイヒルガオ,ハマナタマメ,ゴバンノアシが一般的には知られているが,有名なものとしては郷土の詩人である島崎藤村の「椰子の実」に出てくるヤシあるいはその仲間(ココヤシ,ニッパヤシ)である。黒潮が流れ込む相模湾に面した三浦半島にもそのいくつかの種が漂着し,ハマユウ,ハマナタマメなどは実際に定着しているという。大磯の海岸でもハマユウ(ヒガンバナ科;第1図)を見かけるが漂着した種子から生育したものかどうかの確証はない。島崎藤村が晩年に住んだ家の近くにある学校の正門にも何本かのヤシがあるが植栽であろう。

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第1図.ハマユウ.

 

ところで,遠い南の島からやってきたのはヤシなどの植物だけではない。日本人の祖先もまた南の島からやってきた。解剖学者の三木成夫が面白い体験談を残している。

 私は何かに操られるようにその椰子の実を一個買い求めました。

  (中略)

 翌朝,当然のように早く目が覚め,さっそく表面のシュロ状のものをむしり取ろうとしましたが,そう簡単に片づくしろものではない。とうとう鋸を持ち出し,あっちこっちをガリガリ傷つけながら,悪戦苦闘の末,やっとの思いで,中の黒檀のような殻のところにまで到達したのです。横にじっとしゃがみ込んで見ている小さなすがたには,ほとんど構うことなく,おそるおそる錐で二ヶ所を開け,台所へとんでいってストローをとってきて一方の穴に突っ込み,何か夢遊病者のように吸ってみたのです。その瞬間 ―――――これは他人の味ではない,いったいおれの祖先はポリネシアではないか!と。それはほとんど確信に近い生命的な叫びでした。

                 (『海・呼吸・古代形象』 三木,1992)

 

どんな味がしたのだろう。私も一度は味わってみたいものだ。

なぜ,三木は自分の祖先がポリネシアだと推測できたのであろうか。彼の直観かもしれないが,当時,人類学の分野でポリネシア人と日本列島の縄文人との類縁関係を示唆する研究(片山,1996)がなされていたことも影響したのかもしれない。なお,賢治の童話『風野又三郎』に出てくるギルバート群島(諸島)には,現在ミクロネシア系の人々が主に居住しているが,ポリネシア系住民も住んでいるとのことである。

 

参考・引用文献

片山一通.1996.海のモンゴロイドの起原:東シナ海周辺にさぐる.地学雑誌 105(3):384-397.

三木成夫.1992.海・呼吸・古代形象 生命記憶の回想.うぶすな書院.東京.

 

リンドウの花は「サァン,ツァン,サァン,ツァン」と踊りだす

賢治は,作品にたくさんの擬音(オノマトペの一種)を入れることで知られている。童話『十力の金剛石』でも,天然物,動物,植物とさまざまな物に擬音が使われている。普通,物が動くとき音を発する。時計が時を刻むとき,実際そのように聞こえるかどうかは別として,リズムカルな機械音として「チクタクチクタク」とか「カチカチ」といった風に表現する。

 

しかし,賢治が用いる擬音は必ずしも音として聞き取れるものだけではない。例えば霧の降る音というのがある。

 大臣の子もしきりにあたりを見ましたが,霧がそこら一杯に流れ,すぐ眼の前の木だけがぼんやりかすんで見える丈です。二人は困ってしまって腕を組んでたちました。

 すると小さな声で,誰か歌ひ出したものがあります。

 「ポッシャリ,ポッシャリ,ツイツイ,トン。

  はやしのなかにふる霧は,

  蟻(あり)のお手玉,三角帽子の,一寸法師の

               ちひさなけまり。」

 霧がトントンはね踊りました。

 「ポッシャリポッシャリ,ツイツイトン。

  はやしのなかにふる霧は,

  くぬぎのくろい実,柏(かしは)の,かたい実の

               つめたいおちゝ。」

 霧がポシャポシャ降って来ました。そしてしばらくしんとしました。

        (『十力の金剛石』宮沢,1986)

 

「ポッシャリ,ポッシャリ,ツイツイ,トン」とは,霧がふる音を表している。霧の小さな水粒が動く(ふる)とき,本当にそんな音がするのだろうかと考えてしまうが,違和感が生じないから不思議だ。むしろ物のイメージが強調されていて「ぴったりでうまい表現だ」と言いたいくらいだ。ひょっとしたら,超高感度マイクロフォンを用いて聞いたら,本当にそう聞こえるかもしれないという錯覚に陥ってしまうほどである。

 

しかし,これが植物の動きを表した擬音になると,そう簡単には納得できないものがある。同じく『十力の金剛石』の中に,「リンドウ」(第1図)の花が出てくる。作品では「リンドウ」は「りんだう」と表記されている。例えば,「りんだうの花はそれからギギンと鳴って起きあがり」とか,「りんだうの花はツァリンと体を曲げて」とか,「ひかりしづかな天河石(アマゾンストン)のりんだうも,もうとても踊り出さずに居られないといふやうにサァン,ツァン,サァン,ツァン,からだをうごかして調子をとりながら云ひました」とある。また,「ウメバチソウ」(第2図)の震えのさまは「ぷりりぷりり」,起きあがるさまは「ブリリン」である。植物の動く様子が「ギギン」,「ツァリン」,「サァン,ツァン,サァン,ツァン」,「ぷりりぷりり」,「ブリリン」と言われても,霧の擬音と同じように素直に「ぴったりでうまい表現」だとは言えないところがある。

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第1図.リンドウ.

 

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第2図.ウメバチソウ.

 

賢治は,なぜ植物の動きにまで,意味が理解しにくい擬音を使おうとするのだろうか。

特に,花が咲いている植物に顕著であるように思える。評論家で思想家の吉本隆明(1996)は,「擬音の世界は,分節化できて意味になった言葉を,まだ完全にはしゃべれない乳児期の世界になぞらえられる。・・・また幼い子どもの音声でつづられた世界に似ている」と述べている。また,「もしエロスの情感が性ときりはなされて普遍化でき,その普遍化が幼童化を意味するとすれば,まずいちばんに擬音の世界にあらわれるとはいえそうな気がする」とも言っている。さらに,幼い子が,「あわわ」言葉を発するとき,その意味を理解できるのは母と幼子だけであり,「未分節の音声を母とかわす体験をなまなましく記憶している幼童性は,エロスの原型をなしている。宮沢賢治の資質は擬音をつくりだすことで,そこにかぎりなくちかづこうとした」ともいう。

 

賢治は,相思相愛の恋をしたが破局したという苦い経験をもっている。そして,賢治の性の意識(エロスの情感)は法華経への帰依という宗教的な志に昇華していった。破局の原因についてはよく分かっていないが,私は賢治の母への強い執着,別の言葉で言い換えれば母との関係の希薄さが原因の一つと推測している(Shimafukurou,2021a,b)。この母との関係の希薄さは,賢治にとっては寂しさを生んだと思われる。そして,賢治のエロスの情感は幼童化とともに擬音を作り出したと思われる。

 

植物は,太陽の周期と歩調を合わせて「性の相」と「食の相」を「宇宙リズム」で交代させている。花が咲くとき,植物はちょうど「性の相」にあたる。賢治は,植物の花に擬音でもって自らの昇華した性の「こころ」を通わしていたのかもしれない。しかし,その内容は吉本が言うように,賢治と母イチにしかわからないように思える。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

Shimafukurou.2021a.宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』-「リンドウの花」と悲しい思い-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/03/184442

Shimafukurou.2021b.宮沢賢治と『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/13/085221

吉本隆明.1996.宮沢賢治(第Ⅵ章 擬音論・造語論).筑摩書房.東京.

 

本稿は,『植物と宮沢賢治のこころ』(蒼天社 2005年)に収録されている報文「リンドウの花は「サァン,ツァン,サァン,ツァン」と踊りだす」を加筆・修正にしたものです。

宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-

Keywords: アイヌ語,イサド,イワテヤマナシ,カスミザクラ,カリンパ,クラムボン,オオウラジロノキ

 

前稿(Shimafukurou,2021b)では『やまなし』発表前後の作品に登場する植物に着目する方法で新説を裏付けることができた。後編では『やまなし』に登場する植物を読み解くことによって新説がさらに裏付けられるかどうか検討する。

 

1.白い樺の花びら

「五月」の章の最後で〈魚〉が〈カワセミ〉に捕食された後に,「白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました」とある。この「樺(かば)」とはどんな植物なのか。通常「樺」というと,シラカバなどのカバノキ科カバノキ属の植物あるいはバラ科サクラ属の植物を指す。しかし,この物語では「樺」の花には白い花びらがあるので後者のバラ科の植物が想定される。日本在来種で「樺」と呼ぶバラ科サクラ属の植物は,山の桜を総称する「山桜」である。

 

「東北」にとって「山桜」は観賞というよりは実用性あるいは商品価値の高いものとして重宝がられていた。「東北」の「先住民」は「山桜」の「樹皮」を「フジ(藤)」の蔓と同じように物を巻いて強くするために使用していたという。また,現在は赤みを帯びた美しい縞模様のある樹皮を使って茶筒などの工芸品(樺細工)が作られている。

 

「山桜」の「樹皮」はアイヌ語(あるいは「奥州エゾ語」)で「karimpa・カリンパ」と呼ぶ(金田一,2004)。江戸時代に「東北」の津軽藩と盛岡藩の境に「狩場沢」があったが,金田一はこの地名が古くは「karimpa nai」(naiは沢の意味)という名であったと推測している。なぜなら,北海道の胆振山越郡に「カリンパカルシ(karimpakar ushi)」(山桜の皮を採る場所),同千歳郡に「カリンパウシ(karimpa ushi)」(山桜のある場所)があるからだという。「カリンパ」はアイヌ語で「纒く(枕にする)」という意味がある。また,「カリンパ」が「樺(かば)」に転訛したという説もある。「カリンパ」→「かにわ(かには)」→「かば」と変化したという(嶋田,2018)。

 

「山桜」に含まれる種としては「ヤマザクラ」(Cerasus jamasakura (Siebold ex Koidz.) H.Ohba ;第1図),「オオヤマザクラ」(Cerasus sargentii (Rehder) H.Ohba)あるいは「カスミザクラ」(Cerasus leveilleana ( Koehne ) H.Ohba,2001)がある。物語の舞台が「東北」あるいは岩手県ということであれば後者の2つであろう。「樺」を「ヤマザクラ」とする研究者もいるが,「ヤマザクラ」は宮城が北限という。さらに,花の色が白ということであれば「カスミザクラ」が有力候補になる。「山桜」の花は淡紅色だが「カスミザクラ」は白に近い。

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第1図.ヤマザクラ.

 

しかし,『やまなし』に登場する「樺」を「カスミザクラ」と特定することに戸惑いも感じる。なぜ疑問に思うかというと,「五月」に白っぽい「カスミザクラ」の花が咲いて,「十二月」に別の木の「やまなし」の実が落ちてくるというのも不自然だからである。「カスミザクラ」も夏には8~10mm程の実がなる。なぜ「十二月」の章で「樺の実が落ちた」としないのか。研究者の多くは『やまなし』の「樺」を不問にしているが,岩手生まれの澤口(2018)は,この「白い樺の花」を同じバラ科サクラ亜科ナシ属の「やまなし」の花だと推定している。賢治と同じ風土で生まれ育った者の直感かもしれないが,検討してみる価値はある。

 

日置(2015)も「五月」の「樺」と「十二月」の「やまなし」を同一の植物と見なしているが,彼の言う「やまなし」は「ヤマナシ」とも呼ばれることがあるバラ科リンゴ属の「オオウラジロノキ」(Malus tschonoskii (Maxim.)C.K.Schneid.)のことである。

 

多分,「白い樺の花」の「花」を女性の喩えとすれば,「樺」は賢治の色白だった恋人のことをいっているのかもしれない。もしそうなら,植物名を特定することの意味は少ない。「やまなし」の花が「樺の花」であっても良いのかもしれない。だから,「白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました」は,〈魚(賢治)が〈カワセミ(土着の神である鬼神)〉から手荒い仕打ちを受けたとき,〈白い樺の花(恋人)〉も打ちのめされて散ってしまった。ということを言いたかったのかもしれない。

 

2.「イサド」とは何か

「十二月」の章で〈蟹〉の父親が兄弟喧嘩を止める手段として「あしたイサドへ連れて行かんぞ」と威圧するが,この「イサド」とはどんな所であろうか。〈クラムボン〉が「先住民」の言語であるなら「イサド」も同じ可能性がある。前稿で述べたが,「イサド」もアイヌ語で「i・そこの,sat・乾いた,to・沼」に分解できる。

 

兄弟が喧嘩を止めてまで行きたい所は「母」のいる場所であろう。「サワガニ」は12月~翌年の3月に冬眠に入るという(荒木・松浦,1995)。賢治は,物語に登場する〈蟹〉の兄弟の「母」を「乾いた沼地」(陸地)で冬眠のための巣作りをしているかのように設定したのかもしれない。あるいはその巣で兄弟も生まれたのかもしれない。

 

〈蟹〉を「東北」の「先住民」の比喩と考えれば,「イサド」は「先住民」の母なる大地(故郷)である樺太や千島列島のある「北方」であるかもしれない。賢治も「北方」には関心が高く,『やまなし』を発表して4か月後に「樺太」(7月31日から8月12日まで)に旅立つ。8月3日の午前に教え子の就職依頼のため「大泊」(樺太南端の町で本土と行き来する交通の要所)から樺太鉄道で1時間ほど北に位置する豊原の王子製紙会社を訪れているが,それ以外の旅の詳細な行程は分かっていない。

 

当時「大泊」の東に後に大泊郡に組み込まれる知床村がある。この村出身の樺太アイヌ・山辺安之助(背は6尺:約180cm)は広瀬隊長率いる南極探検隊の犬ぞり担当を務めたことで有名である。この村に札塔(Satuto)という名の土地がある。アイヌ語で「乾いた沼」という意味である。

 

岩手県には「長内(おさない)」(雫石町など)という地名がたくさんある。この「長内」は,アイヌ語(奥州エゾ語)の「オ・o,サッ・sat,ナイ:nay」に由来していて,「オ・川尻」,「サッ・乾いた(水が砂に吸い込まれて川尻に水がない状態)」,「ナイ・沢」という意味を含むと言われる(工藤,2013)。

 

兄弟喧嘩は,泡の大きさを競ってのものだが,そもそも水中にいる〈蟹〉は泡をださない。生じるはずのないも泡の大きさを競うとはどういうことか。多分,この喧嘩は「コロボックル」の身長が低いかどうかを争った当時の学者間の論争を皮肉ったものかもしれない。

 

前稿で,賢治が生きていた頃は「蝦夷(エミシ)」=アイヌ説が優勢であったことを述べたが,「蝦夷(エミシ)」=非アイヌ説をとる学者もいた。金田一(2004)によれば,人類学者の松村瞭は,徴兵検査で測定された岩手県人の成人男性の身長が他県と比較して一番高いことに注目して,「岩手県はエミシの巣窟である。アイヌは日本人よりも背が低いはずだからエミシはアイヌではない」と主張していたという。金田一は,「アイヌ」の背が低いという明瞭な根拠はないとして,松村の主張を退けた。伝説の小人「コロボックル」の背が低いというのと同じで,実態の不明確なものに当時の学者達が大真面目で論争していたのである。

 

3.「やまなし」には恋人の名前が隠されている

「十二月」の章の最後のところで黄金(きん)のぶちが光って熟した「やまなし」の実が〈カワセミ〉のように「ドブン」と落ちてくる。この実を父蟹は「いゝ匂ひ」がすると言う。この「やまなし」とは何か。『新宮澤賢治語彙辞典』によれば日置と同じでバラ科リンゴ属の「オオウラジロノキ(オオズミ)」としている(原,1999)。「オオウラジロノキ」の熟した実(2~3cm)は褐色または紅色である。童話『山男と四月』(1922.4.7)でも「お日さまは赤と黄金でぶちぶちのやまなしのやう」,また童話『タネリはたしかにいちにち噛んでゐたようだった』(1924年春頃)には「山梨のやうな赤い眼」と記載されている。ただ,匂いについては分からない。爪で引っ掻くとリンゴのような匂いがするらしい。

 

一方,「やまなし」をバラ科(サクラ亜科)ナシ属の果実とする研究者もいる。「やまなし」は日本列島で自生する「イワテヤマナシ」,「アオナシ」,「マメナシ」,「ヤマナシ」という3種2変種の「ナシ」の1つであるとするものである。特に,物語に登場する「やまなし」は芳香を強く放っているので,片山(2019)は岩手県を中心に「東北」に自生する「イワテヤマナシ」(Pyrus ussuriensis Maxim.var.aromatica (Nakai et Kikuchi))Rehd.)を有力候補に挙げている。

 

ただ,果実の大きさは2~3.2cmほどだが赤くはない。「イワテヤマナシ」は樹高が10~12mくらいで春に白い花を咲かせる。岩手県を含む東北3県では1500個体以上の自生と思われるナシ属植物が発見されているが,その約8割が岩手県を南北に縦断する「北上山系」に集中して見つかるという。また,その多くは山間部の牧草地や童話『やまなし』の舞台でもある渓流沿いに分布しているという。ただ,かなりの数で雑種化が進んでいる(7割程度)。

 

「やまなし」は,実の色から推測すれば「オオウラジロノキ」と思われる。〈蟹〉の父親が言う「赤い眼」の〈カワセミ〉とイメージが重なる。しかし,匂いから推測すれば「イワテヤマナシ」あるいはその雑種の可能性もある。

 

「ナシ」は北海道には自生していないのでアイヌ語としての名は残されていない。「イワテヤマナシ」の果実を「東北」の「先住民」がどのように呼んでいたのであろうか。片山・植松(2004)の聞き取り調査では,「東北」のナシ属植物の地方名は「ジナシ」(花巻市),「ヤマナシ」(東和町など),「フクベナシ」(遠野町),「ケカズナシ」(沢内村)などとほとんどが「○○ナシ」であったという。片山らは,これらの「呼び名」と同一の名が,江戸時代以前からの文献や書物に記録されている「ナシ」の在来品種名の中にあることから,かつての在来系統の「ナシ」が同じ「呼び名」とともに現在まで維持されてきたと推測している。『南部領産物誌』(1735)には「山なし」の記載もある。すなわち,「イワテヤマナシ」あるいは「オオウラジロノキ」の果実は遠い昔(少なくとも江戸時代ごろ)から「東北」では「やまなし」と呼ばれていた可能性がある。

 

童話『やまなし』の題名には恋人の名前が隠されていると指摘する研究者がいる。「やまなし」は岩手では「やまなす」と発音する。岩手の方言では「し」と「す」の区別がないので「やまなし」は「やまなす」と聞こえる。そこで澤口(2018)は,題名の岩手方言である「やまなす」には恋人の名前(4文字の最初と最後の1字を合わせた2字)が隠されているとした。筆者はこれを支持したい。この童話には「二枚の幻燈」,「二疋の蟹」,「四本の脚の中の二本」,「二日ばかり待つ」など「二(2)」という数字が意味ありげに繰り返される。

 

詩集『春と修羅』の「第四梯形」(1923.9.30)という詩には「青い抱擁衝動や/明るい雨の中のみたされない唇が/きれいにそらに溶けてゆく/日本の九月の気圏です/・・・・/あやしいそらのバリカンは/白い雲からおりて来て/・・・/七つ森の第四伯林青(べるりんせい)スロープは/やまなしの匂の雲に起伏し/すこし日射しのくらむひまに/そらのバリカンがそれを刈る」(宮沢,1986;下線は引用者)という詩句がある。

 

下線部の「くらむ」は「目が眩む」と「暗む」の2つの意味がある。日置(2015)はこの詩に登場する「やまなし」と「くらむ」という語句をヒントに,〈クラムボン〉を雲の流れで光ったり暗くなったりする「太陽」としたが,筆者はこの詩の創作時期が賢治と恋人の恋の破局の時期と重なることから,「やまなし」を恋人,「くらむ」を「暗む」と解釈して,この詩句あるいは童話『やまなし』には失意の底にある恋人が表現されていると考える。なぜなら,この詩の冒頭にあるように,賢治は近親者たちの反対に遭ったとき,「個人」の幸せ(青い抱擁衝動)を「みんな」の幸せ(きれいなそら)の中に溶かし込んでしまったからである(性衝動の昇華)。あやしい空のバリカンは「やまなし」(恋人)までも刈ってしまったのである。

 

「カゲロウ」という昆虫の名は,飛ぶ様が「楊炎(かげろう)」のようにはかなく,ひらめくところから来ている。「かげろう」には,動詞「かげる」に由来して光が隠れて影になる,すなわち,「暗む(くらむ)」という意味もある。賢治は,失意の底にある恋人を「カゲロウ(クラムボン)」として谷川の岩の下に配置したのかもしれない。

 

詩「第四梯形」の2週間後にも「ナシ」が登場してくる詩を創作している。詩「過去情炎」(1923.10.15)には,「あたらしい腐植のにほひを嚊ぎながら/きらびやかな雨あがりの中にはたらけば/わたくしは移住の清教徒(ピユリタン)です/雲はぐらぐらゆれて馳けるし/梨の葉にはいちいち精巧な葉脈があつて/短果枝には雫がレンズになり/そらや木やすべての景象ををさめてゐる/わたくしがここを環に掘ってしまふあひだ/その雫が落ちないことをねがふ/なぜならいまこのちひさなアカシヤをとつたあとで/わたくしは鄭重(ていちよう)にかがんでそれに唇をあてる/・・・/わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに/応揚(おうやう)にわらつてその木のしたへゆくのだけれども/それはひとつの情炎(じやうえん)だ/もう水いろの過去になつてゐる」(宮沢,1986;下線は引用者)とある。

 

この詩では,自分を「移住の清教徒」と呼び,開墾の妨げになるアカシヤ(ニセアカシヤのこと)を掘り起こした後に,恋人に会うように「ナシ」の木に口づけをすると歌っている。この「ナシ」も種は明らかではないが『やまなし』と同じで恋人の面影を重ねていると思われる。しかし,すでに過去の出来事だとしている。

 

さらに2年後の詩「岩手軽便鉄道七月(ジャズ)」(1925.7.15)の先駆形には,「梨をたべてもすこしもうまくない/何せ匂いがみんなうしろに残るのだ」の記載がある。賢治にとって過去の出来事であっても,恋人への思いは強く残っているようだ。童話『やまなし』の恋人を比喩する「樺」と「やまなし」については第1表にまとめた。

 

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童話『やまなし』の終末部で「やまなし」の果実は,「ドブン」と川に落ちて沈むが,「再び上がる」→「流れる」→「木の枝に止まる」→「再び沈む(と予言)」という動きを示す。

 

単なる推測にすぎないが,この「やまなし」の果実の複雑な動きは破局後の恋人の心の動きともとれる。「やまなし」は流された後に木の枝にしがみつく。しかし,木にしがみついた「やまなし」の果実は,〈蟹〉の父親からは「二日ばかり待つとね,こいつは下に沈んで来る」と予言されてしまう。この「木の枝」とは賢治自身であろうか。そして最後に「私の幻燈(恋物語)はこれでおしまひであります」(括弧内は筆者)と結ばれる。

 

以上のように,童話『やまなし』は賢治の実体験をもとに擬人化された〈魚〉と谷川の石の下に棲む妖精〈クラムボン=カゲロウ〉の悲恋物語であると考える。この『やまなし』に対する新しい解釈(説)は,この童話に登場する植物や『やまなし』発表前後の作品に登場する植物を丁寧に読み解くことによって裏付けられた。

 

まとめ

(1)童話『やまなし』は,谷川に棲む生き物(蟹,魚,クラムボン,カワセミ)の弱肉強食の生存競争や食物連鎖がメインテーマとして描かれているのではない。むしろ,よそ者と先住土着の民との争いが描かれているように思える。よそ者(移入種としてのヤマメ)が先住土着の家の娘(クランムボン)に恋をして求婚しようとするが土着の神(鬼神としてのカワセミ)から手荒い仕打ちを受けたという悲恋物語であろう。

(2)物語に登場する植物である「樺」と「やまなし」にも,〈クラムボン〉と同様に先住民の女性がイメージされているように思える。5月の章で「樺の花」が散り,12月の章で「やまなしの実」が谷川に落ちてくることが,これを裏付けているように思える。多分,童話『やまなし』は賢治が物語を執筆している直前に経験した恋とその破局を題材にしている。  

(3)「やまなしの実」は,「ドブン」と川に落ちて沈むが,「再び上がる」→「流れる」→「木の枝に止まる」→「再び沈む」という動きを示す。あたかも恋に破局した女性の心理描写ともとれる。また,『やまなし』の発表時期の別の作品に登場する植物(やまなし,樺,杉,アイリス)にも恋人をイメージできるものが多い。

(4)〈クラムボン〉は川底にある「石の下」にいる「ニンフ(妖精)」と呼ばれる「カゲロウ」の幼虫のことであろう。「カゲロウ」は谷川に遠い昔から棲んでいた。〈クラムボン〉と同じ先住土着の女性を比喩する「樺」は,アイヌ語の「カリンパ」に由来すると言われている。それゆえ,〈クラムボン〉という名称も,アイヌ語の可能性があり,「アイヌ」の伝説に登場する〈先住民〉の「コロボックル」と関係があると思われる。

(5)「コロボックル」は和人によって「フキの下の小人」と翻訳されたりもしているが,「アイヌ」の間では「kurupun unkur」(石の下の人)として伝承されている地域もある。〈クラムボン〉(発音はkut ran bon)は,賢治の造語と思われるが,アイヌ語で「kut・岩崖, ra・下方,un・にいる, bon・小さい」に分解できる。すなわち,〈クラムボン〉は「カゲロウ」の幼虫の姿をしているが,「岩崖の下」にいる「小人(妖精)」のことである。移入種の〈魚〉が岩の下に居る水の妖精に恋をした。 

(6)〈魚〉と〈クラムボン〉には賢治と恋人の「出自」(移住者と先住者)が,「白い樺の花」には肌が白い相思相愛だった恋人のことが,そして題名の「やまなし」には恋人の「名前」がそれぞれ隠されているように思える。〈蟹〉の親子の口から出る〈クラムボン〉,「樺(カリンパ)」,「イサド」そして「やまなし」は,よそ者の言葉(侵入者の言語)ではなく谷川(イーハトーブ)に住む「先住民」が遠い昔から使っていた言葉,あるいはそれと関係する言葉であろう。

 

参考・引用文献

荒木 昌・松浦修平.1995.サワガニの成長.九大農学芸誌.49(3/4):125-132.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

日置俊次.2015.宮澤賢治が求めた光-法華文学としての「やまなし」-.青山学院大学文学部紀要 57:53-75.

金田一京助.2004.古代蝦夷(えみし)とアイヌ.平凡社.東京.

片山寛則・植松千代美.2004.東北地方に自生するナシの遺伝資源.遺伝 58(5):55-62.

片山寛則.2019.新規ナシ遺伝資源としてのイワテヤマナシ~保全と利用の両立を目指して~.作物研究 64:1-9.

工藤雅樹.2013(更新日)公益財団法人 アイヌ民族文化財団普及啓発セミナー報告「エミシ,エゾ,アイヌ」.2018.11.28(調べた日付).https://www.frpac.or.jp/about/files/sem1212.pdf

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.茨城.

嶋田英誠.2018(更新年).跡見群芳譜 かにわ(かには).2020.10.1.(調べた日付).http://www.atomigunpofu.jp/ch2-trees/kaniwa.htm

Shimafukurou.2021b.宮澤賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(2)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/09/101746

 

本稿は,人間・植物関係学会雑誌20巻第2号75-78頁2021年(3月31日発行)に掲載された自著報文「宮沢賢治の『やまなし』の謎を植物から読み解く-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語 後編-」(種別は資料・報告)に加筆・修正したものである。題名が長いので,本ブログでは短くしている。原文あるいはその他の掲載された自著報文は,人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。ただし,学会誌アーカイブスでの報文公表は,雑誌発行日から1~2年後になる予定。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.htm