宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(41)」は童話『やまなし』に関して41つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

敗れし少年の歌へる(3)

芥川龍之介(13)

業の花びら(21)

蠕虫舞手(5)

二十六夜(3)

サガレンと八月(2)

四又の百合(4)

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (41)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (8)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

賢治と化学(1)

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

賢治の詩「敗れし少年の歌へる」の原稿に書き込まれた落書き絵-翼を広げた鳥と魚-(試論 2)

 

思想家で賢治研究家の吉本隆明(2012)が,1996年6月28日に『賢治の世界』というタイトルで講演したとき,賢治の詩集『春と修羅』第一集は,難解であり「自分と自然とが一体になっちゃって溶け合っている状態を根本に置かないと」理解しがたく,それは「北方的なんですよね。要するに東北的であったり,蝦夷的であったり,もっと言えばアイヌ的であったりというように,いずれもアジア的な社会になる前の日本列島に存在した人たちの感覚というのに大変よく似ている」とし,さらに詩集『春と修羅』第一集が「蝦夷的」であったり,「アイヌ的」であったりするのは「北方」への関心が強かったからと述べていた。

 

賢治研究家の秋枝美保(2017)も,賢治の寓話『土神ときつね』と詩集『春と修羅』の「いかりのにがさまた青さ」という詩句がある詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922.4.8)の内容が知里幸恵(1978)の訳した『アイヌ神謡集』の神謡「谷地の魔神が自ら歌った謡“ハリツ クンナ”」と似ているところがあるということを報告している。共通点は「怒り」あるいは「焦燥」だという。『土神ときつね』は,大正11年(1922)年後半から12年(1923)中に書かれたとされている。詩「春と修羅」は1922年4月8日の日付がついているが,秋枝は詩集『春と修羅』が1924年4月出版であり,樺太旅行の体験なども踏まえて,それまでの心象スケッチを描き直したり,新たに書き込みを加えたりしたと推測している。つまり,賢治は『アイヌ神謡集』を読んだ可能性が高い。

 

私は童話『銀河鉄道の夜』(第一次稿;1923)もこの『アイヌ神謡集』の出版直後なので,この神謡集を参考にした可能性も高いと思っている(石井,2021a)。 

 

神謡「谷地の魔神が自ら歌った謡“ハリツ クンナ”」は5番目に記載されているが,1番目に記載されている神謡「梟の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」を読むと,『銀河鉄道の夜』(第一次稿)の「高原のインディアン」と「バルドラの野原の一匹の蠍」の逸話と類似していることがわかる。「梟(ふくろう)」は,『銀河鉄道の夜』の第四次稿の「四,ケンタウル祭の夜」で時計屋の「赤い眼」の置物としても登場する。また,“銀の滴降る降るまわりに”という歌は,「ケンタウル露を降らせ」にも通じる。

 

『銀河鉄道の夜』の第三次稿では,ジョバンニの父は密漁船に乗っていて「アザラシ」や「ラッコ」を獲っていて,「サケ」の皮で作った「靴」をお土産に持ってくる。これらは北海道や樺太の「アイヌ」と呼ばれた人達が13世紀(アイヌ文化期あるいはニブタニ文化期)以降に実際に狩りの対象にしていた動物であり,また生活用具である。多分,賢治は北海道の先住民族である「アイヌ」をイメージしてジョバンニの家族を描いている(石井,2021d)。

 

多分,「滅びる鳥の種族」とは滅び行く民族が残した『アイヌ神謡集』の「梟の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」に出てくる「梟」と関係すると思われる。この「梟」は「シマフクロウ」である。

 

「シマフクロウ」(Bubo blakistoni)はフクロウ科ワシミミズク属で,日本では北海道のみに生息し,全長66~69cm,翼開長180cmに達する,日本最大のフクロウである(Wikipedia)。ワシミミズクに属するので「ミミズク」の仲間である。「ミミズク」はフクロウ科のうち「羽角」(うかく,いわゆる「耳」)がある種の総称である。羽角」は頭部の両橋に耳のように見える飾り羽のこと。機能は不明である。第3図はシマフクロウの剥製写真である。

 

第3図.シマフクロウ(苫小牧市美術博物館内で撮影).

 

1900年頃,「シマフクロウ」は北海道全域に生息していた。その数は1000羽以上とも言われている。やがて天然林伐採と人工林化,農地開発などによって生息適地は減少し,1970年代には約70羽まで減少し,絶滅が危惧されることになった。(Wikipedia)。ただ,東北に「シマフクロウ」が過去に棲息していたかどうかは解らない。

 

賢治は,理由はよく解らないが,「シマフクロウ」のように頭に耳のような突起を持つものに強い関心を寄せている。詩集『春と修羅』の「蠕虫舞手」(1922.5.20)の「蠕虫」にも耳が付いている。この詩には「赤い蠕虫(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は/とがつた二つの耳をもち/燐光珊瑚の環節に/正しく飾る真珠のぼたん/くるりくるりと廻つてゐます」とある。生物界に耳の付いた蠕虫(アンネリダ)など存在しない。架空の生きものである。私はこの「とがつた二つの耳をもち/燐光珊瑚の環節に/正しく飾る真珠のぼたん」を付けているのは婚約指輪を付けた恋人の左薬指をイメージしたものと思っている。二つの耳は恋人の指先の「ささくれ」であろう。恋人は家業の蕎麦屋を手伝っていて手が荒れていた。

 

北方民族と関係するものとして「手宮文字」がある。賢治の詩集『春と修羅』の詩「雲とはんのき」(1923.8.31)に出てくる。この詩には「(ひのきのひらめく六月に/おまへが刻んだその線は/やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)/ 手宮文字です 手宮文字です」とあるある。

 

「手宮文字」は,小樽市近郊の凝灰岩が露出している「崖の下」の「洞窟」の壁に刻まれた線刻画のことで,北海道の「先住民」が残したものとされている。この壁画のようなものは,沢山の「頭に角(つの)を持つ人物」あるいは秋田の男鹿半島の「なまはげ」のような「角のある面を付けた人物」に見える(第4図A)。この手宮文字の線刻も恋人と関係する(石井,2021c)。賢治は「手宮文字」と似たようなものを水彩画で描いている(第4図B)。

 

第4図.A:手宮文字(「おたるぽーたる」より),B:賢治の水彩画(佐藤,2000).

 

「アイヌ」は「蝦夷(エミシ)」と同様に文字を持たない無文字社会に生きていたため,「シマフクロウ」をどのように呼んでいたのか,詳しいことは解っていない。 江戸時代に著された禽類図譜や物産志,蝦夷地の探検録や紀行文などから「シマフクロウ」を意味するアイヌ語を拾い出すと,「メナシチカフ(東の鳥)」や「カムイチカフ(神鳥)」と,またアイヌ民族の出身であり,言語学者であった知里真志保(1909~1961)によれば,カムイチカプ kamuychikap(神である鳥),カムイエカシ kamuy-ekasi(神・翁),コタンコルカムイ kotan-kor-kamuy(村を守護する神)などと呼ばれていた(長谷川,2024)。つまり,「シマフクロウ」は「アイヌ」にとって「神の鳥」,あるいは「村を守る神」と呼ばれていた。

 

また,知里真志保とも交流があり,アイヌ文化研究家であった更科源蔵(1904~1985)も,「神様のなかでシマフクロウが一番偉い神様である。」と言っている。飼育中のシマフクロウフに間違いがあると悪い災いが起こる(コタン生物記)。フクロウ送りに婦女子は参加しない・フクロウ送りをした後,1 年間はクマ狩りをしない。「シマフクロウ」に不敬な振る舞いをすると罰がくだると言われている(コタン生物記Ⅲ)。賢治も恋人に不敬な振る舞いをしたと思われる(石井,2024ab)。前稿の第2図は「シマフクロウ」と思われる鳥が人間に危害を加えられている。

 

第1図をよく見ると,前述したが「翼を広げた鳥」は尾羽を上げているように見える。求愛行動の一つであろうか。また,嘴辺りからから舌のようなものが長く伸びている。これもよく解らない。恋人に不敬な振る舞いをしたことで「あっかんべー」でもされたのかと思ったりもする。「あっかんべー」は相手に向かって下まぶたを引き下げ,赤い部分を出して侮蔑の意をあらわす身体表現。現在では多くの場合,舌を出すことを伴い,時として舌を出すことそのものを指すと受け取られることもある。「赤い目」の転訛としている(Wikipedia)。

 

つまり,文語詩「敗れし少年の歌へる」の原稿の余白に書き込まれた「翼を広げた鳥」は「アイヌ」の神である「シマフクロウ」で,賢治の恋人を象徴している可能性が高いと思われる。この鳥が角のような耳を持ち,舌を出しているのなら,その鳥が投影されている恋人は破局でかなり怒っていたと思われる(石井,2024b)。

 

賢治はこれらの絵以外にも耳のようなものを付けた鳥を原稿用紙に描いている。第5図に示すものは「月を背にしたミミズク」と呼ばれているものである。これも「シマフクロウ」の可能性が高い。なぜなら,「月」も恋人を象徴するものとして使われるからである(石井,2022a)。

 

第5図.月を背にしたミミズクの戯画.校本宮沢賢治全集14巻から引用.

 

YAHOO JAPAN知恵袋(2014.4.6)に賢治の文語詩「敗れし少年の歌へる」に描かれている鳥のような落書きはどんなものかという質問があったとき,ベストアンサーになったのが第5図の「月を背にしたミミズク」であった。答えた人もそれを選んだ人にも誤解があったような気がする。正解は校本宮沢賢治全集の編集者が「敗れし少年の歌へる」の落書きは魚3つと鳥と言っているので前稿の第1図Aの鳥である。

 

ただ,研究者によっては第5図の木の枝に止まっている鳥を「フクロウ」と見做さない者がいる。両方の「趾」(あしゆび)が6つ見えるからである。鳥の趾は第1趾(後趾),第2趾(内趾),第3趾(中趾),第4趾(外趾)の4つある(両趾で8つ)。鳥は種類により,趾の形が異なる。「フクロウ」は可変対趾足(かへんたいしそく)の形になる。可変対趾足は,平らなところでは「三前趾足」の形であるが,木などを掴むときは第4趾が後方を向き「対趾足」の形となる。つまり,趾のうち第2趾・第3趾の2本が前方を向き,第1趾・第4趾の2本が後方を向く。つまり,「趾」は前から見れば4つ見えるはずである。第1趾と第4趾は人の親指と薬指に相当する。賢治の書いた鳥は「三前趾足」の形で枝を掴んでいるので「フクロウ」とすれば矛盾する。しかし,耳のようなもの(羽角)に注目すれば「ミミズク」あるいは「シマフクロウ」のような「フクロウ」と思われる。「フクロウ」は死ぬと「趾」は「三前趾足」の形になると言われている。賢治は北海道旅行したときに白老や博物館を訪れているので「シマフクロウ」などの「フクロウ」の木に止まる剥製を見たのかも知れない。第4図は北海道の博物館で撮影した剥製の「シマフクロウ」である。黒いパイプに止まらせているが片方の「趾」を前から見ると第2趾,第3趾とともに第4趾も見える。 

 

文語詩「敗れし少年の歌へる」の原稿の余白には「魚」も描かれていた(第1図B)。賢治は自分たち一族を魚と考えていたように思える。恋人が先住民の末裔あるいは滅びる鳥の種族に類似しているなら,賢治は移住者の末裔あるいは渓流魚の種族と類似している。「アイヌ」を象徴する「シマフクロウ」は絶滅危惧種であり,渓流魚には移植・放流により外部から移入されたものが少なくないからである。童話『やまなし』に登場する「魚」は移住者の末裔である賢治が投影されている(石井,2021b)。

 

賢治は,昭和5年(1930)頃に文語詩を作るにあたって自身の年譜(「文語詩篇ノート」)を作成している(宮沢,1985)。1922〜1924年までの恋人との恋と破局が記されるはずのページに本編では「この群の何ぞ醜き(26頁)」や「<石投げられし家の息子>(27頁)」という文字が書き込まれていた。また,ダイジェスト版では1921年以降は空白(49頁)になっていた(1922〜1924年の間の書簡類もほとんど残されていない)。さらにその次の頁(50頁)では,同じような文字が繰り返し書きなぐられ一面まっ黒になるほど字で埋め尽くされていた。繰り返されている言葉は,第1に「人にしられず来る」,第2に「岩のべに小猿米焚く米だにもたげてとふらせ」,第3に「これやこの行くもかへるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」の3つである。落書きのように書きなぐられた文字を解析すると,これらの文字が恋人と賢治の出自を意味していることが明らかになる(石井,2022b)。つまり,文語詩「敗れし少年の歌へる」の原稿余白に書き込まれた「鳥」や「魚」も破局の原因の一つともなった恋人と賢治の出自を意味していると思われる。

 

賢治は破局して去って行った恋人が脳裏に浮かぶと恋人を象徴するものを書かずにはいられなくなるのかもしれない。

 

参考・引用文献

秋枝美保.2017. 宮沢賢治を読む-童話と詩と書簡とメモと-.朝文社.東京.

長谷川 充.2024(調べた年).シマフクロウとアイヌ民族 ~アイヌの人びとはシマフクロウとどのように関わってきたか~.https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1813.pdf

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-カムパネルラの恋(2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/173753

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-カムパネルラの恋(3).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/185556

石井竹夫.2021d.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-アワとジョバンニの故郷(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/14/150002

石井竹夫.2022a.童話『氷河鼠の毛皮』考 (1) -青年はなぜ月に話かけているのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/15/094823

石井竹夫.2022b.童話『ガドルフの百合』考(第5稿)-朝廷と東北先住民の歴史的対立.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/07/075640

石井竹夫.2023.詩「蠕虫舞手」考-燐光珊瑚の環節に正しく飾る真珠のぼたんとは何か-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/05/06/065544

石井竹夫.2024a.賢治が幻視した「業の花びら」の正体は慢心の罰で失ってしまった一番大事なもの (9).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/25/103603

石井竹夫.2024b.賢治の詩「業の花びら」に登場する赤い眼をした鷺は怒っているのか (12).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/29/085518

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.東京.

賢治の詩「敗れし少年の歌へる」の原稿に書き込まれた落書き絵-翼を広げた鳥と魚-(試論 1)

 

本稿は未定稿文語詩「敗れし少年の歌へる」の原稿の余白に書き込まれた「翼を広げた鳥」と「魚」の線画が何であるのかと何のために書いたのかについて考察する。

 

第1図に「翼を広げた鳥」(A)と「魚」(B)を示す。「翼を広げた鳥」は「さながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを」の詩句の左側余白に,「魚」は原稿上部の余白に書き込まれている。この鳥の特徴としては頭に耳のようなものが1対付いていることと,足と尾羽のようなものを広げていることである。尾羽は立てているようにも見える。尾羽を立てているのは繁殖期のディスプレイ行動を意味しているのかもしれない。「ミミズク」の様な鳥と思われる。ただ,一つ不可解なものが書かれてある。鳥の嘴部分から舌のようなものが長く伸びている。ちなみに,校本宮沢賢治全集7巻には「余白にはブルーブラックインクによる魚(三つ)や鳥の線画が書かれている」とだけあり落書き絵の写真は掲載されていない。第1図は平澤(2017)の文献にある「敗れし少年の歌へる」の下書原稿写真を使わさせてもらった。

 

第1図.文語詩「敗れし少年の歌へる」の原稿の余白に書き込まれた翼を広げた鳥(A)と魚(B).平澤(2017)の文献から引用. 

 

この絵はいつ頃描かれたものであろうか。第2図に示すように同様の「鳥」(A)と「魚」(B)が昭和8年(1933)8月4日の鈴木東蔵あて葉書の下書きと共通の用箋にブルーブラックインクで書かれてあるので晩年のものと思われる。賢治研究家の平澤信一(2017)は,根拠を示していないが,この落書きが賢治の東京で遺書(1931.9,21)を書いた頃と推定している。もしそうなら,この落書きも賢治にとっては重要なものなのかも知れない。

 

第2図.2羽の鳥(A)と魚(B).校本宮沢賢治全集第15巻から引用.

 

この「ミミズク」のような「翼と足を広げた鳥」は文語詩「敗れし少年の歌へる」の基になった詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)に出てくる「滅びる鳥の種族」と関係があるように思える。詩「暁穹への嫉妬」の中頃に「ぼくがあいつを恋するために/このうつくしいあけぞらを/変な顔して 見てゐることは変らない」とあり,最後に「滅びる鳥の種族のやうに/星はもいちどひるがへる」(宮沢,1985)とある。失恋の歌である。  

 

では,失恋を詠った詩「暁穹への嫉妬」に出てくる「滅びる鳥の種族」は何を意味しているのであろうか。

 

「滅びる鳥」と同様の表現は9ヶ月前に書いたと思われる詩「有明」(1924.4.20)にも登場する。この詩の中頃に「そこにゆふべの盛岡が/アークライトの点綴や/また町なみの氷燈の列/ふく郁としてねむってゐる/滅びる最後の極楽鳥が/尾羽をひろげて息づくやうに/かうかうとしてねむってゐる」(宮沢,1985,下線は引用者 以下同じ)とある。注目すべきは,この詩の日付が詩集『春と修羅』の出版日(奥付)であることである。多分,「滅びる鳥」は詩集『春と修羅』に登場する賢治の恋人・大畠ヤスとも関係していると思われる。エッセイストの澤口たまみ(2018)は,この詩は渡米する前の恋人と賢治の最後の逢瀬を詠っていると推測している。恋人は叶わぬ恋に終止符を討って大正13年(1924)6月14日に渡米した。

 

賢治は詩「有明」の1ヶ月後に花巻のアイヌ塚(現在は蝦夷塚)を訪れ詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」(1924.5.18)を書いている。

 

「雲は酸敗してつめたくこごえ/ひばりの群はそらいちめんに浮沈する/(おまへはなぜ立ってゐるか/立ってゐてはいけない/沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)/一本の緑天蚕絨の杉の古木が/南の風にこごった枝をゆすぶれば/ほのかに白い昼の蛾は/そのたよリない気岸の線を/さびしくぐらぐら漂流する・・・・/アイヌはいつか向ふへうつり/蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる」(宮沢,1985)とある。

 

この詩には「アイヌ」という言葉が繰り返し出てくる。重要な言葉のように思える。「一本の緑天蚕絨の杉の古木」は「アイヌ」と関係する背の高い恋人のことを言っていると思える。恋人は「スギ」が在来種であるように生粋の東北人(土着の人)だと思われる。賢治は東北の先住民を「アイヌ」と認識している。つまり,「杉の古木」と「アイヌはいつか向ふへうつり」は破局とそれによる恋人の渡米を指しているのだと思われる。

 

東北は古代大和朝廷の支配が及ばなかった頃には言葉の通じない別の国として扱われていた。東北は当時アイヌ語あるいはそれに近い言葉を使っていた(高橋,2012)。国家側の正史(『日本書紀』など)には東北は「蝦夷(エミシ)」が住んでいたとなっている。「蝦夷(エミシ)」は文字を持っていなかったので,蝦夷自身の「自分史」あるいは断片的な記録さえ残っていない。なお,賢治が生きていた時代では「蝦夷(エミシ)」と「アイヌ」は同一視されることがあった。

 

賢治はこの詩を書いた日の晩(午後10時)に生徒を引率して北海道へ旅立っている(1924.5.18~23)。旅行先で賢治は「北海道アイヌ」の白老集落や「アイヌ」に関する標本が展示されている博物館を見学している。前年の大正12年(1923)7月31日~8月12日には生徒の就職依頼のため靑森・北海道経由樺太旅行をしている。賢治は北方あるいは「アイヌ」に対して高い関心を寄せている。

 

多分,詩「暁穹への嫉妬」に出てくる「滅びる鳥の種族」とは「アイヌ民族」あるいは先住民の末裔である恋人と関係していると思われる。アイヌである知里幸恵(1978)の訳した『アイヌ神謡集』(1923年8月)に,知里は自ら神謡集に「アイヌの自由な天地,楽しく天真爛漫に野山を駆け巡った北海道の大地が,近年急速に開発され,今やアイヌも滅びゆく民となった」という大正11年3月1日(1922)の日付のある序文を書いている。知里の言う「滅び行く民」とは先住民である「アイヌ」が日本人(大和民族?)に同化していくという意味である。つまり,アイヌ語を用い狩猟生活を続ける純粋な「アイヌ」は少なくなっていくという意味と思われる。

 

当時,「蝦夷(エミシ)」の末裔が多く住んでいたと思われる北上山系も開発が進んでいた。詩集『春と修羅 第二集』補遺にある「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」というのがある。この詩は,詩「種山ヶ原」(1925.7.19)の下書稿の一部を独立・発展させたものである。耕地課とは,昔の稗貫郡か江刺郡の役所の1つの部門と思われ,その若き技手とは耕地課の職員の助手ということで賢治のことだと言われている(宮城・高村,1992)。賢治が農学校の教員だったころ,耕地課の職員と一緒に「種山ヶ原」の土地開発のための測量を手伝ったときの様子を詠んだ詩のようである。この詩の先駆形に開発の様子と賢治の恋人が出てくる。

 

測量班の人たちから/ふたゝびひとりわたくしははなれて/このうつくしい山上の平を帰りながら/いちめん濃艶な紫いろに/日に匂ふかきつばたの花を/何十となく訪ねて来た/尖ったトランシットだの/だんだらのポールなどもって/白堊紀からの日がかゞよひ/古代のまゝのなだらをたもつ/この高原にやってきて/路線や圃地を截りとったり/あちこち古びて苔むした/岩を析いたりしたあげく/二枚の地図をこしらえあげる/これはきらゝかな青ぞらの下で/一つの巨きな原罪とこそ云ふべきである/あしたはふるふモートルと/にぶくかゞやく開墾の犁が/このふくよかな原生の壌土を/無数の条に反転すれば/これらのまこと丈高く/靱ふ花軸の幾百や/青い蠟とも絹とも見える/この一一の花蓋の変異/さては寂しい黄の蕋は/みなその中にうづもれて/まもなく黒い腐植に変る/じつにわたくしはこの冽らかな南の風や/あらゆるやるせない撫や触や/はてない愛惜を花群に投げ/二列の低い硅板岩に囲まれて/たゞ恍として青ぞらにのぞむ/このうつくしい草はらは/高く粗剛なもろこしや/水いろをしたオートを載せ/向ふのはんの林のかげや/くちなしいろの羊歯の氈には/粗く質素な移住の小屋が建つだらう/とは云へそのときこれらの花は/無心にうたふ唇や/円かに赤い頬ともなれば/頭を明るい巾につゝみ/黒いすもゝの実をちぎる/やさしい腕にもかはるであらう/むしろわたくしはそのまだ来ぬ人の名を/このきらゝかな南の風に/いくたびイリスと呼びながら/むらがる青い花紅のなかに/ふたゝび地図を調へて/測量班の赤い旗が/原の向ふにあらはれるのを/ひとりたのしく待ってゐやう(宮沢,1985)

 

詩の最初は,賢治とは別行動している測量班の人々が「種山ヶ原」を測量して地図を仕上げていく様子が描かれているが,中頃は測量後に予想される「種山ヶ原」の様子が,後半は昔の恋人を回想する場面が登場する。

 

「種山ヶ原」の土地開発のために,明日は,この一帯に電動機(moter)の音が鳴り響き,巨大な犂(すき)によって土壌が掘り起こされ,「種山ヶ原」の無数の在来種の「アイリス」(カキツバタやシャガ)の花軸,花蓋(萼と花弁),蕊(雌しべと雄しべ)が土の中に埋められる様子がイメージされている。ここで注目しなければいけないのは,このような開発行為を「原罪」としていることである。

 

 賢治は北海道アイヌと同様に「先住民」が多く住んでいる北上山地に開発の手が入ること,および自分がそれに加担していることに憂慮している。さらに,先駆形の最後に「むしろわたくしはそのまだ来ぬ人の名を/このきらゝかな南の風に/いくたびイリスと呼びながら/むらがる青い花紅のなかに/ふたゝび地図を調へて/測量班の赤い旗が/原の向ふにあらはれるのを/ひとりたのしく待ってゐやう」と,去って行った恋人を日本在来種の「アイリス」と重ねて,その名前を繰り返し呼んでいるのである。「レシタティヴ」(recitative)とはクラシック音楽の歌唱様式の一種で,話すような独唱をいう。この「むしろわたくしはそのまだ来ぬ人の名を」から続く最後の詩句は定稿には記載されていない。

 

詩「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」の定稿に記載せずに先駆形(あるいは下書稿)に残した詩句に賢治の本心があるとすれば,破局がなければやがて訪れるであろう「種山ヶ原」に「ドリームランド」を夢みて集まる開拓民の家族の中に恋人との生活もあったのだと想像しているのだと思う(石井,2021c)。(続く)

 

参考・引用文献

平澤信一.2017.賢治原稿の秘密-《落書き/花壇設計/肖像画》.言語文化 34 :36-41.

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-カンパネルラの恋(1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/162705

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知里幸恵(編訳).1978.アイヌ神謡集.岩波書店.

『歯車』の「銀色の翼」が幻視された時代的背景を同世代の賢治の手紙と作品から読み取る (2)

 

賢治は,「業の花びら」の出てくる詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)を書いた翌年に「生徒諸君に寄せる」という詩を書いている。未完成の詩である。その詩の〔断章五〕には「 サキノハカ・・・・・来る/それは一つの送られた光線であり/決せられた南の風である」とあり,〔断章六〕には「新らしい時代のダーウヰンよ/更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って/銀河系空間の外にも至って/更にも透明に深く正しい地史と/増訂された生物学をわれらに示せ」とあり,〔断章七〕には「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴しく美しい構成に変へよ」とある(宮沢,1985)。

 

「サキノハカ」は以前に述べたこともあるように,「赤旗(せっき)のハンマーとカマ」つまり「共産主義」あるいは「科学的社会主義」のことである(石井,2023)。すなわち,〔断章五〕の詩句には「科学的社会主義が・・・・来る」,つまり「新しい時代が来る」と記載されている。賢治は堕落していく宗教をマルクスの科学的社会主義思想で救ってくれと言っているようにも思える。ちなみに,マルクスの唯物史観は自然科学者であるダーウインの進化論の影響を受けている。

 

また,賢治は「〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕」という詩も書いている。この詩には「サキノハカといふ黒い花といっしょに/革命がやがてやってくる/ブルジョアジーでもプロレタリアートでも/おほよそ卑怯な下等なやつらは/みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに/潰れて流れるその日が来る」とある。この詩の「サキノハカといふ黒い花」は以前にも述べたが「科学的社会主義の幽霊」という意味である(石井,2023)。これは,マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848)冒頭の有名な1文「Ein Gespenst geht um in Europa - das Gespenst des Kommunismus.」(幽霊がヨーロッパを徘徊している-共産主義という幽霊が)を捩ったものである。芥川の『或阿呆の一生』に出てくる「シルクハットをかぶった天使」(天使の姿をしたマルクスの亡霊)あるいは「世紀末の悪鬼」はこの共産主義の生みの親の幽霊である。

 

1920年代は,浜垣の言説以外に,労働運動,社会運動の発生,マルクス主義の輸入などの潮流があった。つまり,賢治が言うように,科学的社会主義思想がやってきた時代ということである。科学的社会主義という幽霊が,シルクハットをかぶった天使が,あるいは世紀末の悪鬼が日本を徘徊していたのである。そして,当時の知識人たちもそうであったように,賢治や芥川に取り憑いてしまった。

 

マルクス(1818~1883)はプロイセン王国時代の宗教を否定するドイツの哲学者・経済学者・革命家である。マルクスはキリスト教信仰の在り方を徹底的に批判している『キリスト教の本質』(1841年)を著したドイツの哲学者フォイエルバッハ(1804~1872)の影響を受けた人でもある。フォイエルバッハは「人間は個人としては有限で無力だが,類としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」(Wikipedia)と言った。

 

マルクスは「宗教は民衆の阿片である」というあの有名な言葉のある『ヘーゲル法哲学批判序説』にも「反宗教批判の根本は,人間が宗教をつくるのであって,宗教が人間をつくるのではない」と記している。「人間が宗教をつくる」は「人間が神をつくる」と同義である。フォイエルバッハの宗教に対する考え方が芥川に影響を及ぼしていた可能性もある。芥川の親友である恒藤恭は1923年から1927年の間にフォイエルバッハの著書3冊の翻訳をしている(松田,2023)。芥川は恒藤からこの論文を見せて貰っている可能性もあるからだ。実際,芥川もキリスト教を軽んじ,『西方の人』では「クルスト」は「神の子」ではなく「人の子」であると語っている。

 

日本のマルクス主義を研究あるいは信奉する知識人たち(以下便宜的にマルクス主義者)も,宗教が富を搾取する存在として,マルクス主義に依拠し実践的な宗教批判をする運動を展開した。ただ,日本のマルクス主義たちの批判はキリスト教ではなく,仏教とりわけ最大宗派の真宗(本願寺派)に向けられた。理由はマルクス主義者の反発を買うような真宗の独自の集金手段によるとされている(宮部,2018)。宮部によれば「土地領有が経済的基盤であった他の仏教諸派とは異なり,真宗寺院の経済的基盤は,信者の献金に依拠していた。また,真宗教団は,信者を直接,本山である東西両本願寺に結びつける組織ネットワーク,いわゆる「講」とよばれる全国ネットワークを手段として,直接献金を行なうことができた」という。また,真宗教団が歴史的に被差別部落に多くの門徒を含んでいたことも挙げられるとした。日蓮を信奉する賢治も,1920年代浄土真宗を信仰の対象にする父・政次郎と激しく対立した。

 

マルクス主義者による宗教批判は1920年代半ば頃から始まり1930年をピークとし1934年ごろまで続く(宮部,2018)。例えば,彼等は普通選挙における仏教教団の政界進出に対して,1926年2月19日宗教新聞である『中外日報』に「仏教は我国に於けるほとんど唯一の宗教であって,支配階級の手厚い庇護の下に被支配階級にその非人間的生存に対する「あきらめ」を説き,資本家地主に対する反抗心を麻痺させるだけでなく,更に資本家地主と労働者農民と階級調和,支配階級に対する忠誠を説教している・・・・寺院とはブルジョアを支持しプロレタリアを永久に奴隷化せんとする一定の政治的目的を持つブルジョア的教化の学校である。」と記している。

 

仏教教団の政界進出は当時盛んに行なわれていたようだ。明治23(1890)の第1回帝国議会衆議院選挙でも真宗本願寺派から還俗議員が5人誕生している。そのうちの1人は,以後8回当選を繰り返し,1914年の本願寺疑獄事件が表面化したときは,本山改革に関する請願書を衆議院議員有志38名と本願寺門徒の連印を得て法主・大谷光瑞に提出している(辻岡,2010)。

 

1926年の前記『中外日報』の記事では,仏教教団は「ブルジョア的」なもので,被支配階級に対して支配階級への忠誠を誓わせる「ブルジョア的教化の学校」として見做されている。つまり,教団は宗教という阿片を民衆に売って富を得ていると考えられている。賢治も『農民芸術の興隆』で「見えざる影に嚇(おど)された宗教家 真宗」,「偽の語をかぎつけよ 大谷光瑞云ふ 自ら称して思想家なりといふ 人たれか思想を有せざるものあらんや」(下線は引用者)と激しく宗教家や真宗を攻撃している。「見えざる影」とはマルクス主義者であろう。マルクス主義は「科学的社会主義」とも言う。つまり,科学が宗教を脅かしているのである。

 

例えば,賢治が名指しで批判した大谷光瑞(1876~1948)は明治36年(1903)に西本願寺派の22代法主になるが大谷家が抱えていた巨額の負債整理,および教団の疑獄事件のため1914年に辞任している。浄土真宗本願寺派は明治大正期には年間予算が六大都市の1つであった京都市のそれを超えるほどであったという。宗教家で賢治研究家でもある上田哲(1978)によれば「この教団は広く深く善良無学な一般庶民の中に根を張り下ろし,貧者の一灯を掻き集め膨大な財力を蓄積した。このような財産の使途,運用にもかなり問題があった。教団幹部らは必要以上の報酬を取り豪華な生活を送っていた。」とある。これはWikipediaにも記載れているが,光瑞は六甲山麓の総面積24万6000坪を数える広大な土地を階段状に削り,下段に私塾,中断にインドのタージマハルを模した本館・二楽荘,そして頂上に白亜殿,測候所,図書館を建築している。さらに,それぞれの館はケーブルカーで繋がれていた。

 

大谷光瑞は真宗でも西本願寺派であるが,東本願寺23代法主大谷光演(1875~1943)も宗教家らしくない行いをしている。1925年に光演は朝鮮半島の鉱山事業が失敗して法主の座を退いている。

 

1930年頃の段階で,仏教界とりわけ真宗にとってマルクス主義者らの反宗教運動は脅威であり,反宗教運動に対する調査機関が設置され,全国宗教擁護同盟を組織するなどの対抗する動きが出てきた。1930年には宗教学者とマルクス主義者たちが集まって1月に「マルキシズムと仏教」,3月に「仏教とマルクス主義」と題して論争が行なわれた。その様子は『中外日報』に掲載されている(林,2007,2008)。『中外日報』は父・政次郎が購読しているので賢治も読んだと思われる。 

 

マルクス主義者と宗教学者の論争で注目したいのは,1)宗教と科学は共存できるか,2)宗教は永遠か,それとも滅びるか,3)仏教の腐敗についてである。1)に関して,三木清のように共存できると考える学者もいたが,宗教学者とマルクス主義者の間の溝が埋まることはなかった。2)に関して,マルクス主義者は,いずれ革命は迫っており,宗教は消滅すると信じており,宗教学者は,たとえ現存する教団的な宗教が衰退しようが,宗教的なものは残るということを信じていた。賢治にとっても1)の「宗教と科学が共存できるか」は重要なテーマであった。大正15年(1926)までに執筆したとされる童話『銀河鉄道の夜』(第三次稿)でブルカニロ博士を介して「実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」と言っていた。3)に関して,マルクス主義者たちは仏教の腐敗を農民や労働者に論理だって説明できると主張していたが,宗教学者たちは,矢吹慶輝の「仏教が腐敗しているばかりでなく社会も腐敗している」と答えることしかできなかった。

 

1920年代から1930年代前半にかけて,仏教界に限らず文学の世界でもマルクス主義の波が押し寄せていた。プロレタリア文学運動が,古い既成文学の批判に向かった。当然,芥川自身もその批判を受けることになった。芥川は『プロレタリア文学論』(1924)で「私は一般にブルジョア作家と目されている」と記載している。ただ,プロレタリア文学運動は30年後半以降にはマルクス主義者らの大量検挙などもあって勢いが衰えてくる。賢治がブルジョア作家と目されていたかどうかは定かではない。むしろ,賢治は農学校を退職後の1926年に農業指導や文化活動を行なう羅須地人協会を設立し,1927年頃は労農党の熱心なシンパであり活動の支援もしていた。

 

つまり,賢治が「業の花びら」の出てくる詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)を,あるいは芥川が『歯車』(1927.3.23~1927.4.7)をそれぞれ執筆していた頃の日本は,宗教が軽んじられ科学が人々の信仰の対象に成りつつある時代,思想的には科学的社会主義(マルクス主義)が台頭してきた時代であった。別の言葉で言い換えれば科学があればなんでも可能になると信じられた時代ということである。

 

賢治はそういう時代を背景にして,『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば〈菩薩〉になれるという「慢心」を起し,恋人を軽んじ,法華経が否定する「先住民」の信仰する土着の神々を調子に乗って舞台に移したり,あるいは会合の農業講話で神の座す山地から科学技術を駆使して石灰岩を採掘したりする話をしてしまったのであろう。そして,神罰を受けるとともに暗い「業の花びら」を幻視した。

 

芥川もまたそのような時代を背景にして自分の卓越した速読力による知識に「慢心」を起し,神の存在よりも人間の「理性」や「知識」を信じ,キリスト教の神を冒涜してしまった。そして,神罰を受けるとともに『歯車』の主人公に「銀の翼」を幻視させた。あるいは自らも「銀の翼」を見たのかも知れない。

 

吉本隆明(1963)は芥川の死を純然たる文学的な死であると主張していたが,私は芥川の死にも賢治の言うところの「今日の時代一般の大きな病,「慢」といふもの」が少なからず関与していていたのだと思っている。また,芥川が死を急いだのは,このままだと母と同じように自分も発狂するのではないかと考えたからだと思われる。(了)

 

参考・引用文献

林 淳.2007.一九三○年,マルクス主義者と宗教学者の論争.愛知学院大学人間文化研究所紀要.21:1-14.

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石井竹夫.2023.賢治作品に登場する謎の植物-サキノハカとクラレの花-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/10/104952

松田義男.2023.恒藤恭著作目録.https://ymatsuda.kill.jp/Tsuneto-mokuroku.pdf

宮部 峻.2018.「宗教」と「反宗教」の近代- 1920-30年代におけるマルクス主義の宗教批判と真宗大谷派教団の応答-.ソシオロゴス.42:1-16.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

辻岡健志.2010.僧侶から政治家へ-金尾稜厳の洋行・政界進出・議会活動-.本願寺資料研究所報.39号.

上田 哲.1978.宮沢賢治 その理想世界への道程.明治書院.

吉本隆明.1963.芸術的抵抗と挫折.未来社.

『歯車』の「銀色の翼」が幻視された時代的背景を同世代の賢治の手紙と作品から読み取る (1)

 

前稿で私は『歯車』の主人公の瞼の裏に幻視した「銀色の翼」つまり「イカロスの翼」のようなものが,賢治の幻視した「業の花びら」と同種のものであり,またこれら幻覚が宗教を軽んじたことによる「慢心の罰」によって現れるものであると推論した(石井,2024)。直接的な交流のない2人の作家が作品の中で「慢心」が原因の似たような幻覚を表現するのは不思議でもある。しかし,この類似性の謎を解き明かすヒントが賢治の花巻農学校時代の2人の教え子に出した手紙にある。本稿ではこの手紙を基に芥川と賢治がそれぞれの作品の中で同時期に同種の幻影を見た時代的背景を考えてみたい。

 

芥川は明治25年(1892)生まれで,「銀色の翼」が主人公の瞼の裏に出現する『歯車』の執筆時期は昭和2年(1927)4月7日である。同じ年の7月24日に自死している。一方,賢治は明治29年(1896)生まれで詩の中で「業の花びら」を幻視したと記したのは大正13年(1924)10月5日である。そして,9年後の昭和8(1933)9月21日に病死している。

 

賢治は,死の直前に教え子である柳原昌悦へ手紙(1933.9.11)で,「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。」, また,沢里武治への手紙(1930.4.4)で,「私も農学校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終わりのころわずかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨慢(きょまん)な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。」と記している(宮沢,1985;下線は引用者 以下同じ)。

 

柳原の手紙に「今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふもの」つまり賢治に「慢心」が生じていたとあるが,この時期は,同じ教え子である沢里武治への手紙から推測すると農学校に勤務していた4年間(1921.12~1926.3)の後半である。賢治の詩で「業の花びら」の幻影が出てくる時期と一致する。

 

芥川も,1920年代に,この「今日の時代一般の巨きな病,「慢」」という時代病におかされていたのであろうか。

 

思想家で詩人の吉本隆明(1963)は芥川の死に関して以下のような見解を示している。芥川は『歯車』」や『或阿呆の一生』のあと,どのような作品も想像することができないように,純然たる文学的な,また文学作品的な死であって,人間的,現実的な死ではなかった。したがって,時代思想的な死ではなかった。としている。

 

だが,私には後述するように,芥川の死と,芥川の作品に「銀色の翼」が出現することにはその時代の思想が関与していると思っている。

 

賢治の言うところの「今日の時代一般の巨きな病」の「今日の時代」とはどんな時代であったのであろうか。

 

賢治研究家の浜垣誠司(2009)は,

「第一次世界大戦後の好景気で「成金」が登場して,金に任せて傲慢な振る舞いをしたり,一方で「大正ロマン」と呼ばれる自由主義的な文化・思潮が流行した時代につづき,1929年(昭和4年)に始まる世界恐慌が,日本においても昭和恐慌となって経済・産業に深刻な打撃を与え,好況時代の慢心を反省し戒める風潮が強まったというような情勢変化と,これは関連しているのだろうと思います。」という見解を示している。

 

「成金」とは元々は日露戦争後の株取引でもうけた大金持を指す言葉である。

 

私は,「今日の時代」とは日露戦争(1904~1905)や第一次世界大戦(1914~1918)の後の好景気で「慢心」が生じ,宗教が堕落し,科学がそれに変ろうしていた時代と考えている。時期的には,20世紀初頭の20~30年間である。『農民芸術概論綱要』(1926年6月頃)に記載されてある「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い/宗教中の天地創造説 須弥山説 ○道は拝天の余俗である歴史的誤謬/縫えざる影に嚇された宗教家 真宗」と関係する。

 

下線部分「○道は拝天の余俗」は上田(1978)によれば「祭天の古俗事件」をひきおこした「神道ハ祭天ノ古俗」という久米邦武の明治25年に発表した論文によったものであるという。つまり,「○」は「神」で「拝」は「祭」で「余」は「古」であるとした。論文の内容は「神道は豊作を祈り天を祭る古来の習俗で,三種の神器は祭天に用いられたもので神道の神を神聖視するのは誤りと論じた」(Wikipedia)ものであった

 

つまり,賢治は20世紀初頭の宗教が慢心で堕落し近代科学に置換されようとしていると考えている。キリスト教の天地創造や仏教の須弥山を信じたり,神道の神を神聖化したりするのは間違っていると考えるようにもなっている。

 

『農民芸術概論綱要』にある記述は,ドイツの哲学者シュペングラー( Oswald Arnold Gottfried Spengler;1880~1936)が第1次大戦中に書いた『西洋の没落』(第1巻,1918)や室伏高信の『文明の没落』(1923)の影響を受けている。

 

室伏の『文明の没落』には,「現代は科学の時代である。科学は天にまで高まることを求められている。・・・神の代わりに試験管が,教会の代わりに工場が置き換えられてきた(p13)」,「宗教が科学によって,信仰が智によって代へられただけではない。教育も芸術も,あらゆる文明の形態は一様に巨大なメキャニズムの一作用にまで堕ちてしまってゐるのである。(p39)」「近代科学は,一歩々々宗教的表現を征服し,近代的精神の機制をもって,中世紀的霊性の王国を,この地上から駆逐したのである。(p176)」「科学は心をもたない。冷たい知識の網である。(p177)」(括弧内はページ)などの記載がある(室伏,1023)。

 

また,その続編である『文明の没落・第2(土に還る)』(1924)には,「パウロとヨハネを見るように,人々は大学教授を見る。懐疑(かいぎ)は今日では神への懐疑である。科学は新しき神である。そして信仰となったのである。(p53)」(室伏,1924)(括弧内はページ)とある。(続く)

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2009.「慢」の時代.宮澤賢治と詩の世界.https://ihatov.cc/blog/archives/2009/02/post_603.htm

石井竹夫.2024.『歯車』の主人公と賢治が慢心の罰で幻視したものをまとめてみる (14).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/03/02/121347

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

室伏高信.1923. 文明の没落.批評社.

室伏高信.1924. 文明の没落・第2(土に還る).批評社.

上田 哲.1978.宮沢賢治 その理想世界への道程.明治書院.

吉本隆明.1963.芸術的抵抗と挫折.未来社.

『歯車』の主人公と賢治が慢心の罰で幻視したものをまとめてみる (14)

 

これまで13回に渡って,『歯車』の主人公が暗い瞼の裏に幻視した「銀色の翼」が賢治の夜空に幻視した「暗い業の花びら」と同種のものかどうか比較検討してきた。比較項目は1)幻視したものとその正体,2)罪とその理由,3)罰と罰したもの,4)罰したものの正体,5)敗北の文学についてである。結果をまとめたものを表とともに以下に示す。

 

1.幻視したものとその正体

『歯車』(1927)の主人公〈僕〉は「歯車」を暗い瞼の裏に幻視したあと,頭痛と一緒に「1つ」の「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」(銀色の翼)を幻視し,「僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった」と語る。多分,〈僕〉はこの「銀色の翼」の「銀」は「銀貨」のことで,「翼」は自分が飛翔するために必要な「知識」のことであったと思っている。つまり,「銀色の翼」の正体は生活の糧となる「銀貨」と交換できる「知識」である。「銀色の翼」が「1つ」幻視されたということはその「翼」がもぎ取られた,つまり失ったということを意味している。つまり,『歯車』の主人公は「銀色の翼」を幻視したとき,一番大切なものを失ったことを悟り将来の生活的困窮を予想して恐怖を感じている。

 

賢治は詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)で空にたくさんの「暗い業の花びら」を幻視し,激しく寒く震えていた。「花びら」は日本固有種の「樺の木」から散ったものであると思われる。賢治は「樺の木」を相思相愛の恋人として譬喩することがある。つまり,「暗い業の花びら」は失恋した先住民の末裔である女性(生粋の東北人)を象徴するものであり,賢治がこの「暗い業の花びら」を幻視したということは,賢治にとって一番大切なものを失ったということを意味する。1924年6月14日に恋人は賢治のもとから去っていった。

 

『歯車』の主人公と賢治が幻視したものは自分が犯した「罪」によって罰せられ,自分が卑小な者と認識されたときに出現するものと思われる。

 

 

2.その罪とその理由について

『歯車』の主人公は第二章(復讐)であらゆる罪悪を犯していることを信じていると言っている。しかし,主人公の主な「罪」はキリスト教を軽んじたことと,妻以外のある女性との不義である。「罪」としては前者の方が後者よりも大きいと思われる。主人公が「罪」を犯した理由は「銀色の翼」を得たことによる「慢心」と思われる。芥川は速読の才能がありやすやすと知識を得ることができた。芥川は自死する2か月前に書いた『或旧友へ送る手記』(1927.7)で,エンペドクレスの伝記に言及し過去に「みずからを神としたい欲望」のあったことについても記している。つまり,「慢心」である。

 

『歯車』の主人公〈僕〉の「慢心」はボードレールの詩集『悪の華』の「傲慢の罰」の神学博士のものと同じような気がする。詩「傲慢の罰」には,芥川に似た「みずからを神としたい欲望」をもつ神学博士の「罪」と「罰」が描かれている。「罪」とは「天の栄光へむかい/自分でもしらない不思議な道を越えていった,/そんな道は,けがれない〈聖霊〉しか来たことはなかったろう/高いところに登りすぎパニックになった男のように,/悪魔めいた驕(おごり)りの気持ちに我を忘れ,純粋な天使しか訪れたことがないような高みにまで登りすぎてしまい,/悪魔に等しい傲慢さに突き動かされ(岩切正一郎訳)」て,イエス・キリストを冒涜してしまうというものである。芥川は『西方の人』で〈聖霊〉を「永遠に超えんとするもの」とした。速読の能力で沢山の知識を得た芥川もまた「永遠に超えんとするもの」であった。

 

賢治が犯した主な「罪」は土着の「神」を軽んじたことと,先住民の末裔である女性を苦しめたことである。後者の方が大きいと思われる。「罪」を犯した理由は賢治の作品からは解らない。しかし,賢治の教え子である沢里武治への手紙(1930.4.4)によれば「慢心」である。この手紙には,4年間すごした農学校時代の終わり頃「わずかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨慢(きょまん)な態度になってしまった」とある(宮沢,1985)。農学校時代とは1922年~1925までである。すなわち,賢治が「慢心」であたった時期と「花びら」を幻視した時期(1924.10.5)は一致する。賢治は自らを菩薩としたい欲望があったように思える。この頃,賢治と恋人との恋は破局へ向かっていた。

 

評論家で詩人の吉本隆明(1924~2012)は賢治について,「あの人は超人,菩薩になりたかった。そのために,盛んに精進に精進を重ね,無理に無理を重ねていく。菩薩というのは向こうの世界から来た人だというのが,大乗仏教の考え方です。つまり,この人は頭がいいのだけれども,本当は宇宙人と同じで向こうの世界から来た人で,そういう人に学ばなければいけないというのが仏教の考え方です。そういうところに宮沢賢治は行きたかった。そして,生涯それに費やした。行ったかどうかはそれぞれでしょうけれども,とにかくやめなかった人だと思います。」と話している(吉本,2012)。しかし,賢治は宇宙人ではなかった。生身の人間であり,南の京都からの移住者の末裔であった。そして,このことが悲劇(悲恋)に繋がったと思われる。

 

つまり,賢治もまた芥川と同じで,「法華経」に帰依し純粋な〈菩薩〉しか訪れたことがないような高みにまで登りすぎてしまい,悪魔に等しい傲慢さに突き動かされ土着の「神」を軽んじ,また恋人をも軽んじてしまったと思われる。『法華経』の「安楽行品第十四」は女性に近づくなと教えている。

 

3.罰と罰したもの

『歯車』の主人公の「罰」は「銀色の翼」を取られ,作品が描けなくなることである。主人公を罰したものは主人公に常に付きまとってくる「シルクハットをかぶった天使」と「ある女性」と思われる。「シルクハットをかぶった天使」はキリストと関係のある〈堕天使〉あるいは〈悪魔〉であろう。

 

賢治にとっての「罰」は,1つは雷神を演じた自分の生徒が負傷したことと,自分が乗ったトラックがたくさんの「子鬼」によって崖から谷底に落とされたことで,もう1つは沼で「アイヌ」の鬼神に威嚇されたことである。生徒の負傷以外は,「子鬼」も「鬼神」も賢治が幻視したものである。いずれも土着の神である〈土神〉と思われる。また,賢治は大正13年(1924)から3年以上続いた旱魃も自分の犯した「罪」が関与していると思っているふしがある。

 

4.罰したものの正体

「シルクハットをかぶった天使」の正体は〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊である。別名は「世紀末の悪鬼」である。芥川は科学的社会主義(マルクス主義)思想を自分の作家生命を脅かすものとして恐れた。「ある女性」には希臘神話に登場する「復讐の女神」が取り憑いている。芥川はこれらの亡霊を幻視,幻聴など五感以外のもので感じ取っていたと思われる。賢治を襲った「土神」(子鬼)や「アイヌ」の鬼神の正体は東北に侵略した古代大和朝廷の軍勢と戦った〈アテルイ〉の亡霊であろう。賢治はまた特殊感覚の持ち主なので先住民の末裔である農民たちの中に〈アテルイ〉の亡霊を感じ取ることもあった。

 

5.生涯の総括 

芥川は「銀の翼」を登場させた『歯車』と同じ年に書いた『或阿呆の一生』(1927)の最終章51で自分の生涯を「敗北」とした。また,宮本顕治は芥川の文学を「敗北の文学」とした。賢治の文学も敗北したのであろうか。賢治は「業の花びら」の登場する詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の3ヶ月後に恋歌である詩「暁穹への嫉妬」を書いているが,これを後に文語詩にしたとき題名を「敗れし少年の歌へる」としている。賢治は敗北とは言わず失敗といっているように思える。賢治は,死の直前に教え子である柳原昌悦へ手紙(1933.9.11)で,「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。・・・空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・」と書いている。賢治の一番大きな失敗は恋人を米国へ行かせたことであろう。

 

以上の結果は『歯車』の主人公や賢治の幻視した一番大切なものが,形は異なるものの「慢心」が原因で「神」や女性を軽視し,「神罰」が下されたときに現れるものであることでは一致している。

 

つまり,『歯車』の主人公〈僕〉が瞼の裏に幻視した一番大切なものを象徴する「銀色の翼」は,賢治の幻視した「業の花びら」と同じで「神罰」が下されたときに現れた幻覚と思われる。なぜ同じように現れたのであろうか。芥川は賢治の未発表詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」を読むことは不可能である。芥川と賢治がそれぞれの作品の中で幻視したものが単なる創作ではなく事実に基づくものなら,臨死体験や死の間際に見るとされる走馬灯のようなものと思われる。これらの幻覚が単なる偶然の一致の産物なのか,あるいは科学的に証明できるものなのかは解らない。ただ,経験はしていないけれど,死の間際に一番大切なものが脳裏に浮かぶのはほんとうのように思える。(了)

 

参考・引用文献

石井竹夫.2024.

(1)芥川龍之介の『歯車』の主人公が幻視したもの-「歯車」と「銀色の翼」- .https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/10/135748

(2)『歯車』の主人公が幻視した「銀色の翼」はイカロスの翼か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/11/094944

(3)『歯車』の主人公はイカロスのように慢心の罪を犯し飛翔しようとしたのか,人工の翼とは知識のことか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/12/101248

(4)『歯車』の主人公は慢心を罪として自覚したか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/13/080840

(5)『歯車』の主人公が受けた罰は神によるものか .https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/15/072218

(6)人工の翼を付けた『歯車』の主人公を落下させたのは誰か,シルクハットを被った天使か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/16/082433

(7)晩年の芥川のぼんやりとした不安-敗北の文学-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/18/080345

(8)賢治が「業の花びら」を幻視したときの罪と罰.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/24/092428

(9)賢治が幻視した「業の花びら」の正体は慢心の罰で失ってしまった一番大事なもの.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/25/103603

(10)賢治の「業の花びら」が出てくる詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕の題名の意味.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/27/064329

(11)賢治が「業の花びら」を幻視した時期に生じていた慢心について.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/28/061433

(12)賢治の詩「業の花びら」に登場する赤い眼をした鷺は怒っているのか .https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/29/085518

(13)宮沢賢治の文学は芥川と同じように敗北したか -「敗れし少年の歌へる」から-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/03/01/070152

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.

宮沢賢治の文学は芥川と同じように敗北したか -「敗れし少年の歌へる」から-(13)

 

芥川龍之介は「銀の翼」を登場させた『歯車』と同じ年に書いた『或阿呆の一生』(1927)の最終章51で自分の生涯を「敗北」とみなした。また,共産党の指導者にもなった宮本顕治は芥川の文学を「敗北の文学」とした(石井,2024a)。一方,賢治は「業の花びら」の登場する詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)の3ヶ月後に恋歌である詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)を書いているが,これを基にしてのちに文語詩「敗れし少年の歌へる」という題の詩を書いた。賢治は,死の直前に教え子である柳原昌悦へ手紙(1933.9.11)で,「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。・・・空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・」とも書いている。では,賢治の文学は芥川と同じように敗北したのであろうか。本稿では賢治の「敗北」あるいは「失敗」について考察したい。

 

賢治は,確かに文語詩「敗れし少年の歌へる」や柳原昌悦へ手紙を見る限り自分の生涯を総括して「失敗」したと見做しているように思える。「敗北」は負けることで,「失敗」は何かやろうとして,うまくいかないことである。では賢治は何をしようとして「失敗」したのであろうか。

 

恋歌である文語詩「敗れし少年の歌へる」(制作日は不明だが晩年)は以下のような詩である。

   

「ひかりわななくあけぞらに/清麗サフィアのさまなして/きみにたぐへるかの惑星(ほし)の/いま融け行くぞかなしけれ/雪をかぶれるびゃくしんや/百の海岬(かいこう)いま明けて/あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを/夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞさながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを/よきロダイトのさまなして/ひかりわなゝくかのそらに/溶け行くとしてひるがへる/きみが星こそかなしけれ」とある。(宮沢,1985)下線は引用者,以下同じ

 

この詩は賢治の愛する恋人が米国へ去って行った悲しみが詠われている。だから,失敗とは失恋を意味しているのかと思ったりもする。

 

ある賢治研究家がこの詩の「きみ」を賢治の恋人であった大畠ヤスのこととし,「さながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを」に注目して「賢治の心に,遠くにいるはずのヤス子が常に何かを問いかけていたのではないか。」(Signaless,2012)と推測していた。

 

文語詩「敗れし少年の歌へる」は難解だがネットではいくつかの現代語訳が紹介されている。参考にさせてもらっている。題名の「敗れし少年」の意味を明らかにするため,上記引用詩の下線部分を少し掘り下げたい。

 

「あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを」は,直訳すれば「三陸沖の青い海は万葉の頃から昔の音楽に光っているよ」というような意味と思われる。ところで,「万葉」とは何か。「万葉集」は奈良時代末期に編集された歌集である。東北で奈良時代の末期頃に「万葉集の古き詩歌」のように何か「光る」ものはあったのであろうか。この詩句と似たものとして未定稿の文語詩「〔うからもて台地の雪に〕」がある。

 

「うからもて台地の雪に,部落(シュク)なせるその杜黝(あおぐろ)し。/曙人(とほつおや),馮(の)りくる児らを,穹窿ぞ光りて覆ふ。」とある。(宮沢,1985)

 

「うから」は部族で,「曙人」はルビにあるように「先祖」で,穹窿は天空のことである。賢治の文語詩を研究している信時(2007)によれば,この詩の意味は「雪の積もった台地に一族が集まり,その集落の森が青黒く見える。先祖の血をひき,魂までも乗り移った子供らを,天空から降り注ぐ光が覆っているように見える」としている。この詩に登場する「台地」は準平原の北上山系であり,「曙人」はその台地にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた人たちである。賢治は,大正・昭和の時代に至っても古代蝦夷(エミシ)の魂が東北の「先住民」に乗り移つることがあると感じている。東北で奈良時代末期頃の「光る」ものといったら胆沢や江刺の蝦夷の部族長であった〈アテルイ〉の活躍であろう。延暦7年(789)に巣伏村で〈アテルイ〉の武装勢力は大軍を引き連れてきた朝廷軍に打ち勝っている(鈴木,2016)。奈良時代において「蝦夷(エミシ)」の住む東北は,大和朝廷にとって支配の及ばない異界の地であった。当時,東北はアイヌ語あるいはそれに近い言語が使われていた(高橋,2012)。

 

「夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞ」は「夜にはなにか怪しげな積雲の,その中から生まれてきたようなあの星よ」という意味である。ではこの「あやしき積雲」は何か。賢治は雨雲である乱層雲(nimbus)を恋人に喩えることがある。積雲(Cumulus)も発達すると積乱雲となり雨雲になる。多分,この積雲も恋人のことであろう。恋人の出自が「東」の北上山系と思われるからである。東よりの湿った風が北上山系の山々とぶつかって雲になったものと思われる。黒く膨れあがった雨雲(nimbus;ニムブス)には妊婦も連想され「邪淫」あるいは「誘惑者」のイメージが重なる(原,1999)。詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)には「星はあやしく澄みわたり/過冷な天の水そこで/青い合図(wink)をいくたびいくつも投げてゐた」とあり,下書稿には「いったいさっきみちが渚を来たときに/あんまり青くあやしく澄んで/ぼくを誘惑しないといゝんだ(下線は引用者)」とある。

 

つまり,「あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを/夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞ/さながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを」を私なりに解釈すると,「三陸の青い海は〈アテルイ〉の時代から栄光に輝いていたが,夜になるとその輝いていた海の湿気から雲ができ,その中から私の愛する恋人が星となって生まれてきた,例えばその星がウインクするように,あたかも情熱的な君の言葉のように,私に語りかけて誘惑してくる」である。つまり,恋人は東北の大地に先住していた〈アテルイ〉やその仲間である「蝦夷(エミシ)」の末裔である。賢治は,大和朝廷やその後の中央政権と勇敢に戦った先住民の末裔と恋をしたということである。そして,その恋人を失って悲しいというのが「敗れし少年の歌へる」という歌の意味である。

 

ただ,文語詩「敗れし少年の歌へる」は単に先住民の末裔の女性との悲恋を詠ったものとも思えない。

 

わたしはこの詩を詠んだとき,シンガー・ソングライターの森田童子(1952~2018)が作詞・作曲した「僕たちの失敗」(1976)を思い出した。野島伸司が脚本を手がけたドラマ『高校教師』の主題歌になってブレイクした歌である。この歌の後半のフレーズは「ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな/チャーリー・パーカー見つけたヨ ぼくを忘れたカナ/だめになったぼくを見て 君もびっくりしだろう/あの子はまだ元気かい 昔の話だネ/春のこもれ陽の中で 君のやさしさに/うもれてしまったぼくは 弱虫だったんだヨネ」である。ちなみに森田童子は女性である。詩の中の〈僕〉は必ずしも森田自身ではないが,この詩は聞けば分るように「友を失った」あるいは「失恋した」という歌である。だが,タイトルにある「僕たちの失敗」は「友を失った」という「失敗」ではない。つまり,「だめになった僕」は「友を失った」からでも「失恋した」からでもない。

 

森田童子は全共闘世代よりは少し若いが,青春時代を「学園闘争」の中で過ごしている。昭和43年(1968)から昭和45年(1970)にかけての闘争で友人が逮捕されるという体験をしていて,森田自身も高校を中退している。また,1972年の夏,ひとりの友人の死をきっかけに歌いはじめたとされる(Wikipedia)。

 

「学園闘争」が最初に起きたのは,慶應義塾大学であり,昭和40年(1965)1月に大学側が学費値上げを発表したことに学生側が抗議し撤回を求めた「学費値上げ反対闘争」として始まった。昭和45(1970)年には日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員,労働者や学生,市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府,反米運動とそれに伴う大規模デモ運動が起った時代でもあった。しかし,「学園闘争」は1970年中盤から急速に衰退していった(西本,2010)。多分,多くの学生は管理された社会に息苦しさを感じ,学園闘争を敵機に社会を変えようとして立ち上がったが,どうにもならずに挫折し敗北感あるいは喪失感みたいなものを否応なく感じることになったのであろう。

 

森田童子の歌「僕たちの失敗」の「失敗」は全国的に盛り上がっていた学園闘争の中で学生が味わった「敗北感」あるいは「喪失感」のことである。恋人との別れもそういう時代を背景にしている。森田童子の歌「みんな夢でした」を聞けば明らかである。「あの時代は何だったんですか/あのときめきは何だったんですか/みんな夢でありました/みんな夢でありました・・・キャンパス通りが炎に燃えた/あれは雨の金曜日/みんな夢でありました/みんな夢でありました・・・」である。「キャンパス通りが炎に燃えた」は「火炎瓶」が若者の思いとともに炸裂したことによるものである。

 

南こうせつとかぐや姫の歌に「マキシーのために」というのがある。喜多條忠がかぐや姫のために作詞したものである。マキシーはあだ名で喜多條の知人で自殺した女性の学生活動家のことである。南こうせつは,「どうして自殺なんかしたのか/マキシー/睡眠薬を百錠ものんでさ/・・・/馬鹿な奴だったよ/お前は最後まで/マキシー俺は明日旅に出るぜ/マキシー/お前のせいじゃないぜ/マキシー/お前程遠くには行けないが/マキシー一人旅には変わらないさ/悲しみを抱えたままで/夜空に光るお前の星を探すまで/さよならマキシー」と歌う。喜多條のこの詩は賢治の詩「敗れし少年の歌へる」と似ている。賢治の詩も米国へ去っていった恋人を求めて花巻から太平洋が見える三陸海岸まで一人旅をして作ったものである。両方とも相手が1人で旅だったように自分も1人で「悲しみを抱えたまま/夜空に光るお前の星」を探しに行っている。

 

ならば,賢治の文語詩「敗れし少年の歌へる」も時代背景を考慮しなければならないように思える。そこに「敗れし」の意味が隠されている。「敗れし少年の歌へる」は詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)を基にして文語詩化されたものである。1925年は賢治の農学校時代の後半である。賢治が「慢心」だった頃である。賢治は教え子の手紙で「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」と言っていた。

 

多分,文語詩「敗れし少年の歌へる」の「敗れし」は「慢心」の「罪」によって罰せられたことと関係がある。賢治は農学校時代の後半頃に『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば〈菩薩〉になれると信じていたように思える(石井,2024b)。しかし,農民に対して行なった菩薩行は,羅須地人協会の活動も含めて思い通りにはいかなった。農民は賢治に反感さえ示した。また,恋人の願いも退けてしまった。賢治の恋人への「罪」は「病」に変わり,1928年8月には発熱して40日間床に臥せっている。そして,花巻病院で両側肺浸潤と診断されてしまった。1928年以降,賢治の作品数は大幅に減少している。多分,体調不良が主な原因と思われるが。

 

詩人の中村稔が若い頃詩「雨ニモマケズ」に対して「宮沢賢治のあらゆる著作の中でもっとも,とるにたらぬ作品のひとつ」と書き,この詩は「羅須地人協会からの全面的退去であり,『農民芸術概論』の理想主義の完全な敗北である」と断じたことがあった(並松,2019)。その後,詩「雨ニモマケズ」を賞賛する谷川徹三と「雨ニモマケズ」論争が始まる。しかし,私は詩「雨ニモマケズ」がとるにたらぬ作品などとは一度も思ったことはないし,賢治の創作した他の作品も敗れてはいないと思っている。1928年以降も書き続けた童話『銀河鉄道の夜』は今でも高い評価を受けている。思想家で文芸評論家の吉本(2012)によれば,賢治は,宗教と科学,文学,芸術を一致させようとして,生涯あるいは生涯の作品を費やして追い詰めた人であるという。また,宗教と科学の一致に関しては,その追い詰めた思想の最後のところが童話『銀河鉄道の夜』の中で表現されているとし,ここまで追い詰めた人はいないということから,この物語は難解であるが20世紀に世界中で書かれた文学作品中でも指折りの1つに入る傑作であると述べている。私もそう信じている(石井,2021)。

 

また,賢治は死の前日に弟の清六に,残された原稿について「もし,出したいという本屋があったら,出してもいいが,むりして本にすることはないから,そのままにしておいてもよい」と言ったという(森,1983)。もしも,賢治が自分の作品を失敗作と思っていたら,弟に出版するようにとは言わなかったと思われる。

 

賢治の失敗は,「慢心」になったことである。そして,賢治は恋人に「みんなの幸い」か「恋人との幸い」かの選択を迫られたとき「恋人の願い」を退けてしまったことである。と私は思っている。つまり,文学の敗北ではない。

 

普通,人は恋をすると盲目になり他が見えなくなるものだ。だが,賢治は違った。賢治は「恋人」が一番大切なものであることを失って気づいたみたいである。賢治と恋人が相思相愛であった1年間は,賢治にとって「みんなの幸い」と「恋人との幸い」は微妙なバランスの上にあった。詩「春光呪詛」(1922.4.10)に「いつたいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかつてゐるか/髪がくろくながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ」とあるように自らの恋を戒(いまし)めてもいる。

 

シンガー・ソングライターである河島英五(1952~2001)の作詞・作曲したものに「てんびんばかり」(1975)という歌がある。「真実は一つなのか/何処にでも転がっているのかい」で始まり,「家を出て行く息子がいる 引き止めようとする母親がいる/どちらも愛してる どちらも恨(うら)んでる どちらも泣いている」という対話調の詩句が並び,最後は「誤魔化さないで そんな言葉では/僕は満足出来ないのです/てんびんばかりは重たい方に傾くに決まっているじゃないか/どちらももう一方よりも重たいくせに/どちらへも傾かないなんておかしいよ」である。

 

賢治の恋がうまくいっていたときは,賢治の天秤ばかりは「みんなの幸い」と「恋人との幸い」のどちらも大切であり,小さな揺れはあってもどちらか一方に大きく傾くことはなかった。しかし,農学校時代の後半(1924~1926.3),つまり「慢心」になっていた頃は「みんなの幸い」の方へ大きく傾いてしまった。1926年頃の作と言われる『農民芸術概論綱要』にある「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の主張はまさしく「慢心」の現れであろう。

 

賢治の思いが「みんなの幸い」の方に大きく振れたのは,賢治も気づいていなかったかもしれないが,母イチの「子守歌」も関係している。母は,「法華経」の中の如来のように「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と幼かった賢治を毎晩寝かしつけるときに話しかけていたという。普通の青年はそのような母の子守歌を聞いて育っていないし「みんなの幸い」についても深く考えもしないと思う。しかし賢治は違うのだ。賢治の「みんなの幸い」を望む思いは母の願いでもあり,とても強く重いものなのである。賢治の性格形成にさえ影響を及ぼしている(石井,2022)。賢治の天秤ばかりに「母の願い」と「恋人の願い」を乗せても,どちらももう一方より大切と思っているからどちらへも傾かなかったが,「慢心」で〈菩薩〉になれると信じた賢治の天秤ばかりは「みんなの幸い」に傾くしかないのだ。

 

森田童子は「僕たちの失敗」で「君のやさしさに/うもれてしまったぼくは 弱虫だったんだヨネ」と歌った。賢治は幼少期の頃に母親から愛されなかったと自覚している。寂しい思いをしていたようだ。母親に愛されたくて,つまり母の「子守歌」を受け入れて大人になれなかった賢治は,いつまでも「少年」のままであり,弱虫だったんだと思う。賢治は「慢心」に気づいて初めて母の「子守歌」の呪縛から逃れることができたのかもしれない。そして,文語詩「敗れし少年の歌へる」が生まれたように思える。(続く) 

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

石井竹夫.2021.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅴ)-なぜカムパネルラは自分を犠牲にしてザネリを救ったのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/08/125658

石井竹夫.2022.自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/01/125039

石井竹夫.2024a.晩年の芥川のぼんやりとした不安-敗北の文学-(7).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/18/080345

石井竹夫.2024b.賢治が「業の花びら」を幻視した時期に生じていた慢心について(11).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/28/061433

西本康宏.2010.学生運動後の時代における自我同一性について —作家大崎善生を巡る考察—.心理相談センター年報.6;23-31.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

並松信久.2019.宮沢賢治の科学と農村活動―農業をめぐる知識人の葛藤―.京都産業大学論集.人文科学系列.52 :69-101.

Signaless,2012.『敗れし少年の歌へる』 [妄想].りんご通信.https://ringotu-shin.blog.ss-blog.jp/2012-09-16

鈴木拓也.2016.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

高橋 崇.2012.蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史.中央公論新社.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.

賢治の詩「業の花びら」に登場する赤い眼をした鷺は怒っているのか (12)

 

賢治の詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)の下書稿に「業の花びら」という詩がある。その中に赤い眼をした「鷺」(さぎ)が登場する。本稿ではこの「鷺」の赤い眼が何を意味しているのか考察する。

 

「夜の湿気が風とさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない明るい世界はかならず来ると/……遠くでさぎがないてゐる/夜どほし赤い眼を燃して/つめたい沼に立ち通すのか……」(宮沢,1985)とある。

 

「……」と「……」の間の言葉は内語と言われている。言葉にはならないけれど,心の中でそう思った言葉が入るのだと言われている(吉本,2012)。だから,実際には見ていないのだと思われる。ただ,賢治は赤い眼をした誰かに見つめられている。と思っている。「沼」から見つめられているということを詠った詩が5ヶ月前に書かれてある。詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」(1924.5.18)である。この詩には「雲は酸敗してつめたくこごえ/ひばりの群はそらいちめんに浮沈する/(おまへはなぜ立ってゐるか/立ってゐてはいけない/「沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる・・・」(下線は引用者 以下同じ)とある。

 

詩「業の花びら」の「つめたい沼に立ち通すのか」にある「沼」は 詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に登場する「沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる」の「沼」と関係しているように思える。詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」は推敲が重ねられ,一旦書かれて削除された詩句に「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鍬や石斧もとれる」というのもある。つまり,「沼」は東北の先住民である「アイヌ」と関係する。賢治は東北の先住民である「蝦夷(エミシ)」をアイヌと考えていた。また,賢治は先住民を意味する「蝦夷」という言葉を作品の中では決して使わない。「蝦夷(エミシ)」という言葉は朝廷側の人間が東北の先住民に使う侮蔑用語だからと思われる。

 

「鷺」は「シラサギ」と思われる。「シラサギ」と呼ばれるものはダイサギ,コサギ,チョウサギ,アマサギで白い体と長い首や足を持つ鳥である(国松・藪内,1996)。この詩の「鷺」は渡り鳥がイメージされていると思う。

 

詩「業の花びら」に登場する「鷺」に対して賢治研究家の見田宗介(2012)は「詩人を遠方からおびやかす〈他者〉であると同時に,まさしくこのような他者として,深くこの詩人自身でもあった。それは詩人が,〈自己自身よりもいっそう本質的な自己として感受せざるを得ない他者〉として,外にありまた内にある声であった。」という見解を示している。賢治は乖離性障害の気質があることが知られているので(芝山,2007),賢治がもう1人の自分と批判し合う会話しても不思議ではないが,私は別の解釈をしてみたい。

 

私は,「夜どほし赤い眼を燃して」鳴いている「鷺」,つまり遠方から賢治を脅かす「鷺」は賢治から去っていった先住民の末裔である恋人がイメージされているものと思っている。恋人は破局後の大正13年(1924)6月14日に別の家庭を営むため,渡り鳥の「サギ」のようにアメリカに渡っている。渡米の日は詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」の日付と詩「業の花びら」の日付の中間である。恋人は「赤い眼」をして鳴いていることから激しく怒っており,そして悲しんでいたと思う。あるいは賢治がそう思っていた。賢治作品で「赤い眼」は「怒り」を意味していることが多い(石井,2022)。ちなみに,ネットでシラサギの眼を見たが赤くはない。「怒り」を強調しているのであろう。

 

怒り悲しんでいる原因が詩「業の花びら」の5ヶ月後に書かれた詩「〔はつれて軋る手袋と〕」(1925.4.2)に記載されているように思える。この詩には「空気の沼」が登場する。「空気」は空想ということだろうか。

 

「丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる/ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて/笹がすこうしさやぐきりたとへばねむたい空気の沼だ/かういふひそかな空気の沼を/板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて/ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする/どうしてさういふやさしいことを卑しむこともなかったのだ/……眼に象って/かなしいあの眼に象って……/あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりにことさら嘲けり払ったあと/ここには乱れる憤りと/病に移化する困憊ばかり」とある。(宮沢,1985)

 

この詩では,恋人が小さな家で2人黙ってお茶を飲んだりするという些細な生活を望んでいた,つまり空想していたことが書かれている。2人の結婚は家族や親戚から反対されていたらしく,2人には当時の家制度や恋人の願いから推測するに駆け落ちするぐらいしか残されていなかったと思える。これは私の単なる憶測だが,恋人は駆け落ちを望んでいたように思える。なぜなら,恋人の親友が結婚を反対されていたのに勇敢にも函館へ駆け落ちしているからである(佐藤,1984)。恋人の親友も賢治の主宰した音楽鑑賞会に参加していて,そこで同じ教員である青年と恋をしたが反対されていた。しかし,賢治は恋人の願う生活を「安易であるばかり」にと嘲り払ってしまった。賢治には恋人の言うことが理解できなかったように思える。詩「〔わたくしどもは〕(1927.6.1)〕には「その女はやさしく蒼白く/その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした」とある。賢治は当時「慢心」があり,「みんなの幸い」を実現する理想に燃えていたように思える。文語詩「〔きみにならびて野にたてば〕」の下書稿に恋人の言葉と思われるものが残されている。「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」である。「山」は賢治の理想を言っている。賢治は詩「業の花びら」で「夜どほし赤い眼を燃して」鳴いている「鷺」を描いていた。恋人の肉体は米国へ飛び去ったが「こころ」は「生き霊」となって日本に残り「鷺」に取り憑いていたのかもしれない。

 

ちなみに詩「〔はつれて軋る手袋と〕」の「眼に象って」は花壇設計図にあるtearful eye につながる。賢治にとって詩「〔はつれて軋る手袋と〕」は思い入れがあったようである。賢治の亡くなる5ヶ月前に改稿篇「移化する雲」として「日本詩壇」創刊号に投稿している。変更した主な箇所は「ここには乱れる憤りと」を「ここに蒼々うまれるものは/不信な群への憤(いきどお)りと」にしたことである。賢治を「病に移化する困憊ばかり」にしたものが「不信な群」だと言っている。「不信」とは「うそ」ばっかり言っている人たちと思われる。賢治が恐怖と感じている「まっくらな巨きなもの」なのであろうか。(続く)

 

参考・引用文献

石井竹夫.2022.童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/24/083020

国松俊英・藪内正幸.1996.宮沢賢治 鳥の世界.小学館.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

見田宗介.2012.宮沢賢治 存在の祭りの中へ.岩波書店.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

芝山雅俊.2007.解離性障害-「うしろに誰かいる」の精神病理.筑摩書房.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.